現代社会学理論研究
Online ISSN : 2434-9097
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3 巻
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  • 浅野 智彦
    2009 年 3 巻 p. 1-2
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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  • 国際社会学から社会学一般へ
    樽本 英樹
    2009 年 3 巻 p. 3-15
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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    どのような社会学理論がアクチュアリティを持つのであろうか。このシンプルな間いに答えることは、かなり難しい。現代の急速な社会変動について意義あることを語れるのであれば、理論はアクチュアリティを持つと言えるであろう。国際社会学を例にとると、近年ますます加速し複雑化している国境を越える人の移動とその影響を射程に収めた理論はアクチュアリティを持つと言える。特に、「新しい市民権」の登場といった市民権制度の変動を「記述」し「説明」できることは、国際社会学における理論のアクチュアリティのひとつの条件となる。この立場は、様々に類型化される社会学理論一般に主に次のような合意を与える。第1に、経験的レファレントを持つことがアクチュアルな理論の主な条件のひとつである。第2に、グローパル時代になってナショナルな枠を超えた理論が必要だとよく言われるけれども、ナショナルな枠を超えること自体はアクチュアリティ産出の必要条件ではない。第3に、アクチュアルな理論は必ずしも「社会学理論」とは限らない。社会現象を「記述」し「説明」できさえすれば、「政治学理論」でも「経済学理論」でもその他の理論でもアクチュアルである。理論社会学者のアイデンテイティ探しに陥らないよう、アクチュアリテイのある理論構築を目指すことが望まれる。
  • 社会理論から公共性論へ
    藤田 弘夫
    2009 年 3 巻 p. 16-27
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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    最近の社会学理論は徐々に構造やシステムといった法則に関係するものより、主体や行為など主観性に重点を置いたものに変化してきている。20世紀末の社会主義国の相次ぐ崩壊はマルクス主義の社会理論への関心を失わせた。こうしたなかで、研究者は社会の客観的形態よりも、人びとの内面の社会に焦点を当てるようになっている。20世紀の末にはマクロな社会学の理論は不人気となっていった。社会学は抽象的な理論から、具体的な問題の分析へと変化している。こうしたなかで、公共性論が社会研究に新たな視点を提供するようになる。
    近年、東アジアは急激なグローバリゼーションの中で、西洋のパブリックープライベイト概念の影響を強く受けるようになっている。しかしパブリックープライベイトの聞には東アジアの公一私関係とは異なって、道徳的価値の上下関係がない。ところが、東アジアにおいては、私(ワタクシ)が私利私欲、私曲、私生児などに象徴しているように否定的な意味をもっている。この点が、西洋と東アジアの社会の根本的な相違を生み出している点でもある。この意味で、新しい社会の研究にとって、従来の公私(オオヤケーワタクシ)関係の変化をもたらしている。こうしたなかで、日本の公共性の概念は「存在」概念としてよりも、「機能」概念としての性格を強めている。本論文は、それを何よりも空間表象を通じて明らかにしようとするものなのである。
  • 「持続可能な社会」論との関係を中心に
    荒川 康
    2009 年 3 巻 p. 28-37
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿では国連などの国際機関を中心に広まった「持続可能な開発」あるいは「持続可能な社会」という考え方と、日本の環境社会学のなかで提唱された「生活環境主義」とを、方法論レベルにおいて比較することを通じて、現在の環境をめぐる考え方の整理をおこなった。その結果、当該地域の生活保全が環境を保護するうえでもっとも大切であると判断する生活環境主義の立場に立つと、「持続可能な開発」という考え方は、「自然環境主義」や「近代技術主義」と同様に、方法論の水準において批判の対象となることが示された。しかし一方で、地域社会に暮らす人びとの環境に向けられた行為が「持続可能な開発」という考え方に適合的な場合がしばしば観察され、生活環境主義の生活把握によってもそのことが確認されることがある。こうしたことが起こるのは、両論の方法論レベルを超えて、「環境と自分の暮らしとは究極のところでつながっており、暮らしを維持・発展させていくためには環境もまた守らなくてはならない」という思い(あるいは希い)を、地域の人々が実際に持っていることが多いためであると考えられる。
  • Heung Wah WONG
    2009 年 3 巻 p. 38-58
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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  • シュッツ音楽論およびフッサール現象学からのアプローチ
    寺前 典子
    2009 年 3 巻 p. 59-71
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿のねらいは、音楽のコミュニケーションの可能性を解明することにある。そして、その手段として、シュッツの音楽論で語られる「内的時間」および「リズム」を考察する。シュッツは「音楽の共同創造過程一ー社会関係の一研究一一」において、共同演奏がどのように可能になっているのかを論じた。そこでシュッツは、コミュニケーションには「われわれ」経験が欠かせず、この経験の基盤となっているのは「内的時間のうちで他者の諸経験の流れ」を共有することであると述べる。シュッツは、このように人間活動の深奥の層をとらえる現象学的探求に取り組んだが、「内的時間」については詳述しなかった。そこで本稿は、まずシュッツの議論をフッサールの知見で補強することにより「内的時間」の内実を論究する。また、諸個人の「内的時間」がどのように他者のそれと結びつくのか、シュッツは、その鍵となるのは「リズム」であることを他の論考で示唆した(Schutz 1996: 275)。本稿はその問いを引き継ぎ、楽曲の「リズム」を介した身体の同調関係の現象学的構造を明断化した。それは〈楽曲のリズム〉と〈生命現象のリズム〉との協働によって生じているのである。音楽のコミュニケーションは、「リズム」の協働そして「内的時間」に拡がる〈把持的意識の織物〉を他者と共有すること、これらを基に成立するのである。
  • 「調査者一被調査者論争」が提起したもの
    山本 崇記
    2009 年 3 巻 p. 72-85
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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    近年の社会運動とその研究の(再)活性化に比して、社会運動研究においてこそ問われるべき課題が十分に深められていない状況がある。その課題とは第一に、実践的問題意識を持ちながらも社会運動との緊張関係を通じて研究を練成する方法論とはどのようなものかという点である(課題①)。第二に、現実に生じている社会運動の背景にある具体的な歴史的文脈をどのように対象化するのかという点である(課題②)。これらの課題は、かつて日高六郎が社会運動研究の社会学的課題として指摘した点と重なっており、社会運動とその研究が活性化していた1970年代にこれらの課題に否応なく取り組まざるを得なかった研究史に遡及する必要性をも示している。本稿では、似田貝香門と中野卓による「調査者一被調査者論争」をその参照点として位置付ける。「論争」の過程で、似田貝が活動者の「総括」という行為に「調査モノグラフ」を通じて参与する「共同行為」を研究者の主体性確立の条件としたことを、課題①を深めた議論と評価する。また、中野のライフヒストリー研究を、集団ではなく個人生活史を通じて社会を捉え返すことで課題②に応じつつその先に進んだものと評価する。それ故に逆説的にも研究と運動の担い手が固定化し、理論(研究者)/実践(活動者)及び活動者(中心)/生活者(周縁)という認識枠組が再生産され、社会運動の実態から研究が議離する危険性を抱えていったのだと論じる(課題③)。
  • 山本 圭
    2009 年 3 巻 p. 86-98
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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    ラディカル・デモクラシーという現代民主主義理論のー潮流には、それ自体の内部においても多様なパースペクティブが存在しており、そのなかでも本稿が焦点を当てるのは、エルネスト・ラクラウの政治理論である。ラクラウの政治理論はこれまで、今日のアカデミズムへの甚大な影響にも関わらず、主題的に論じられることはあまりなかった。したがって本稿の目的は、ラクラウの提示した民主主義理論の可能性を検証するためにも、彼がどのように自身の政治理論を醸成させていったかを明らかにすることである。そこで手掛かりとなるのが「主体」の概念である。つまり『ヘゲモニーと社会主義戦略』において主体は、構造内部の「主体位置」と考えられていたが、後に精神分析理論からの批判を取り入れることにより、それを「欠如の主体」と捉えるようになったのである。そしてこの主体概念をめぐる転回が、ラクラウ政治理論を脱構築との接合や普遍/個別概念の再考などの新しい展開へと促したことを示すことにしたい。最後にこの「欠如の主体」の導入が、ラクラウの民主主義理論をどのように深化させたのかを議論し、ラクラウが提唱するラディカル・デモクラシーが何たるかを明らかにする。
  • R・ローティの共通悪アプローチをめぐって
    安部 彰
    2009 年 3 巻 p. 99-110
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
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    社会学は、社会のありよう/なりたちを「認識」する学でもあるが、社会を「構想」する学でもある。現代のような多元化した社会においてかかる構想は、その身体や価値・信念においてそれぞれに異なる人々が、にもかかわらず共に生き、在るために要請される。だとすれば規範的社会理論の課題は、いかなる価値がまさにかかる要請に応えるものであるか、その社会の実現可能性も含め考究することにほかならない。
    ところで、そうした「多元性の事実」を認めつつも、ある通約的な価値を措定する立場がある。我々は「互いに回避したい価値(共通悪)」のもとであれば連帯できるはずだというのである。その認識/方向性は基本的に正しいが、「共通悪とは何か(何であるべきか)」という重要な問題は残されたままである。たとえば絶対的な真理・価値なるものを想定することなしに一一「多元性の事実」を起点としつつ一一人々がいかに連帯しうるかを考究したR・ローティはそれを「残酷さ」一一身体的苦痛と精神的苦痛一ーであるとする。
    本稿では、ローティの理説とそれへの批判を検討しつつ「残酷さ」一一精神的苦痛ーーの回避にまつわる重層的な困難について指摘する。そのうえでしかし不要な苦痛は減らされるべきだし、また減らすことができるとして、その道筋の提起を試みる。
  • スピヴァクのフーコー批判再考
    喜多 加実代
    2009 年 3 巻 p. 111-123
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿は、スピヴァクのフーコーに対する批判を検討するものである。スピヴァクは、フーコーが『知の考古学』で否定した主権的主体を再導入しているとして批判した。その批判の主眼は、抵抗する主体や語る主体になりえない者についてフーコーが十分に考察していないということにある。スビヴァクの議論は、人々の沈黙や発言を、特に被抑圧者とされる人々のそれをどのように考えるべきかについて重要な問題を提起している。本稿は、批判の趣旨は評価しつつ、しかしこうしたスピヴァクの解釈とは逆に、フーコーが被抑圧者の発言を無媒介に入手可能でその意図に近づけるものとして扱ったわけではなく、スピヴァクの提案をむしろ先取りする形でその分析方法を提示していた可能性を示す。
  • 「監視の両義性」テーゼの成立過程とその方法的背景
    野尻 洋平
    2009 年 3 巻 p. 124-136
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    本論の目的は、D. ライアンの監視社会論の方法的背景を探ることである。その方法として、ライアンの「監視の両義性」テーゼに着目し、その成立過程と方法的背景を検討していく。本論であきらかとなったのは、ライアンの「監視」概念および、監視の両義性を主軸とする監視社会論が、キリスト教的な社会倫理に基づいた方法および視座から導出されているということである。以下の論述は、監視の両義性テーゼが析出される場面を見届けたうえで(2章)、そのテーゼが導出されるような方法および視座が、1980年代後半におけるかれの情報社会論においてすでに現れていたことを検証し(3章)、さらに70年代半ばから80年代前半までのライアンの初期の仕事を跡付けることによって、ライアンの倫理的・思想的背景がキリスト教的社会倫理に基づくことを確認する(4章)。最後に、そのような方法的・思想的背景を携えたライアンが、現代における社会の監視化にいかなる「解決」を与えているのか、さらにはライアンの問いをいかなるかたちで定式化することができるのかについて考察し、結論を述べる(5章)。ライアンは、これまで監視を論じるうえでさまざまな論者によって引用・言及されてきた。しかしながらかれの議論の方法的背景まで検討をくわえたものは存在しないため、上述のような観点からその思考を跡付けし、理論内在的な検討をおこなう必要があるだろう。
  • 隠され、維持されるもの
    能勢 桂介
    2009 年 3 巻 p. 137-149
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    日本の多文化主義は、政治的な力関係を無視し、変革を目指さないといわれてきた。外国人を対象とした日本語教室は、外国人と日本人が非対称な関係で出会う「コンタクト・ゾーン」だが、他の支援組織より信頼関係を築きやすい。日本語教室に非対称な関係を乗り越える可能性があるだろうか。
    そこで実際、その可能性があるのかどうかを探るために長野県Z市Z日本語教室による多文化フェスティバルを参与観察、インタビューの手法をもちいて調査した。このイベントは外国人が、ブースでポスター、オブジェなどを展示、料理を提供し、ステージではダンスや音楽を披露し、自国を紹介するというものである。
    調査においては、日本人主催者の意図・運営、日本人観客の反応、外国人参加者の反応に焦点をおき、多角的にこの多文化フェスティバルを検証していく。このフェスティバルは「同じ目線の交流」が目指されている。しかし、日本人主催者が在住外国人の現実の姿を消し、それぞれの国を観光的に表象することによって、観客はそれに呼応した「まなざし」になっていた。その結果、外国人の違和感や問題が隠され、日本人と「まなざし」のズレが生じていた。
    なぜ多文化フェスティバルは観光のまなざしに収斂し、外国人の違和感や問題に目を閉ざしてしまうのか。ボランティア・市民による多文化主義の現在を考察する。
  • N.クロスリーの身体論の検討
    森山 達矢
    2009 年 3 巻 p. 150-162
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    身体化された実践をいかにとらえるのか。本稿はこの間いをめぐるものである。ピエール・ブルデューの研究が明らかにしたように、再生産においては日常の前反省的な実践が重要な役割を果たしている。しかし、そうした実践は意識しておこなわれない行為であるがゆえに、その行為主体ですら言語的な説明が困難なものとなっている。本稿では、そのような実践をいかにとらえるのかという視点から、ニック・クロスリーの身体論を検討する。ブルデューが実践やハビトゥスの前反省性を強調するのに対し、クロスリーは実践の反省性や再帰性を強調する。クロスリーは、モーリス・メルロ=ポンティ、マルセル・モース、G.H.ミードらの議論を摂取しながら、実践や身体技法における精神的側面と社会的側面の両方をとらえる「再帰的身体技法(reflexive body techniques) 」概念を提出している。クロスリーはこの概念によって、行為主体の精神的側面を強調すると同時に、ハビトゥスや実践が機械的なものではないということを主張し、そして日常的な実践や身体技法を、言説と行動のどちらにも還元しない研究のあり方を指し示そうとしている。クロスリーのこうした議論は、主観性にも客観性にも還元できない身体的生をとらえようとするものであり、身体論に関して新たな視点を提示している。
  • 「強い」社会運動論の可能性、脱フランス化と日本
    濱西 栄司
    2009 年 3 巻 p. 163-174
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    アラン・トゥレーヌが主導する理論・方法論(トゥレーヌ社会学)とCADISに代表される彼の知的ネットワークは、欧州、東欧、ラテンアメリカなどを中心に影響力をもち、また国際社会学会などでも重要な位置を占めている。トゥレーヌ社会学の特徴は、<各社会には核となる一つの文化的モデルと一つの社会関係がある>という中心的テーゼにあるが、本稿では、そのテーゼの確立・展開過程を正確に辿り、トゥレーヌ社会学の意義を明らかにし、またその内在的批判を試みる。トゥレーヌ社会学の原点は、初期トゥレーヌが「行為」とその「場」を区別したことに始まり、前期の終わりには、<生産・進歩という文化的モデルをめぐって管理的労働組合と産業主義者が相補的紛争関係を形成する>という産業社会のありようがテーゼとしてほぼ確立されることになる。中期には、脱産業社会の文化的モデルとして情報・知識の管理が想定され、テクノクラートと反テクノクラシー運動が紛争関係に入るという仮説の検証が行われた。大規模な社会運動調査を経て、後期には脱産業社会の聞い直しとともに、文化運動論が展開される一方で、いまやテーゼ自体は自明のもとのなっている。トゥレーヌ社会学は、テーゼの下で、一社会の同時期の紛争状況、社会問題状況、制度状況などに含まれる「行為」を総合的に捉えようとするものであり、それは、専門分化された運動論に対して、現代社会全体を扱える「強い」社会運動論としての現代的意義を有する。ただし、文化的モデルと社会関係の具体的内容はいずれもフランス社会の経験にかなり依拠しており、その限界を乗り越えるためには福祉レジーム論などを媒介にして、トゥレーヌ社会学の脱フランス化を図る必要がある。例えば、日本の福祉国家状況を踏まえれば、反テクノクラシー運動とは異なる日本的な「新しい社会運動」というものも考えうる。
  • モダンのコミュニティ論とポストモダンのコミュニティ論
    権 安理
    2009 年 3 巻 p. 175-187
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    ネット空間に代表される、メディアを介したヴァーチャルな関係が進展するなかで、あるいは本質主義を批判するポストモダン思想の影響で、コミュニティは、直接的な対人関係や相互作用、もしくは共通の本質といったものに、必ずしも依拠しないと考えられるようになってきている。なかでも、個々人の「想像」にコミュニテイの成立契機を見るB・アンダーソン議論と、コミュニティのシンボリックな次元を強調するA・P・コーエンの議論は、コミュニティへの文化的アプローチとして、そのポストモダン性が強調されて受容されていると言える。だが彼らの議論は、そのような非直接性や非現前性のみを強調して解釈すべきものだろうか。あるいは、彼らの議論は双方とも、ポストモダン的なのだろうか。このような疑問をもちつつ、本論は、両者の差異を検討している。具体的な構成としては、まずデランティの考察によりつつ、アンダーソンのコミュニティ論が、「視覚メタファー」というモダンの背景知や思考枠組みを前提とすることで成立していることを明らかにしている。ついで本論は、コーエンのコミュニティ論が、「視覚メタファー」とは位相の異なる解釈学に依拠することで、ポストモダン思想を反映したコミュニティ論の可能性を示している点を明らかにしている。以上を通じて、「直接性/非直接性」、もしくは「現前(対面)/非現前(非対面)」という枠組みとは別個の形式で、今日のコミュニティを考える枠組みを提出する。
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