映像学
Online ISSN : 2189-6542
Print ISSN : 0286-0279
ISSN-L : 0286-0279
105 巻
選択された号の論文の11件中1~11を表示しています
論文
  • 小倉 健太郎
    2021 年 105 巻 p. 5-26
    発行日: 2021/01/25
    公開日: 2021/02/25
    ジャーナル フリー

    日本のアニメを論じる際に、しばしば強調されてきたのが平面性だ。アニメの平面性を強調する議論は枚挙にいとまがない。こうした議論では、アニメの平面性はときに日本の伝統美術と結び付けられ、日本固有の性質とされる。日本文化研究者のトーマス・ラマールはこうした議論と距離を置きながらも、やはりアニメの平面性に着目している。彼はセル・アニメーション制作に用いられる撮影台に特有の多平面を層状に合成する構造を「アニメ・マシーン」とし、アニメ・マシーンによって生み出される運動を「アニメティズム」としている。アニメティズムという概念は、とりわけ美学的にアニメを分析する際にはしばしば言及される概念となっている。

    しかし、彼がアニメティズムの例として挙げる大友克洋監督の『スチームボーイ』(2004)は、じつのところアニメ・マシーンとは異なる構造によって生み出されている。こうした構造の先行例としてはフライシャー・スタジオが用いた回転式撮影台を挙げることができる。本論は、回転式撮影台の構造が作り出す独自の映像をフライシャー的空間と定義し、それが日本のアニメにも現れていると主張する。フライシャー的空間は、アニメ・マシーンという議論に欠けているものを浮き彫りにする。平面性に囚われないアニメの可能性がそこには表れているのだ。

  • 中村 紀彦
    2021 年 105 巻 p. 27-45
    発行日: 2021/01/25
    公開日: 2021/02/25
    ジャーナル フリー

    タイの映画館では、作品上映前にタイ国王のプロパガンダ映像が上映される。それは国王がイメージの投影を通じて、国民国家を統御する構図に他ならない。映像作家アピチャッポン・ウィーラセタクンの長編映画作品『光りの墓』(Cemetery of Splendor, 2015)は、こうしたイメージの投影と国王および国家との親密な関係を暴露し、タイ映画史とそれを取り巻く政治を再構築するよう要請する。本論文の目的は、アピチャッポンの投影像を用いた実践やタイにおけるイメージの投影史を通じて、タイ映画と国王および国家の関係性を浮かび上がらせることにある。第一節では、タイ映画史におけるイメージの投影が「国家」や「国王」と緊密に結びつくことを確認する。この節の意義は、従来のタイ映画史を国王と映画の関係性から再構築する試みにある。第二節では、タイの地域学者トンチャイ・ウィニッチャクンの先行研究を参照しながら、タイ国家と国王による投影の統御をさらに歴史化する。地図とは国王のスクリーンである。国王はこのスクリーン上に実体のない仮想的な国土を投影するのである。第三節では、仮想的な王国を地図に描き出す国家統治の方策と、映画の投影が政治的に用いられた実例とを『光りの墓』に重ね合わせて分析する。最終的に、アピチャッポンがタイ映画史および投影の政治的関係性に批判的眼差しを投げかけていること、自らの投影像による諸実践を更新する過程が明らかとなる。

  • 藤田 奈比古
    2021 年 105 巻 p. 46-66
    発行日: 2021/01/25
    公開日: 2021/02/25
    ジャーナル フリー

    映画監督内田吐夢(1898-1970)は歌舞伎および浄瑠璃を原作とした時代劇映画を4本手がけ、それらは「古典芸能四部作」として知られている。本論文は、その一作目であり近松門左衛門の浄瑠璃を原作とする『暴れん坊街道』(1957年)を取り上げ、企画の成立過程と作品分析を行う。

    第1節では、まず敗戦後、民族主義的な言説を背景に左派的な近松の読み直しと、近松作品の映画化が進んだことについて概観する。そして内田吐夢が敗戦後満州(中国東北部)滞在において伝統芸能への郷愁を核に民族意識を変化させたことを明らかにし、左派映画人を交えて『暴れん坊街道』の企画が練られた過程を複数の台本の検討を通して論じる。

    第2節では、当時国文学および歴史学の分野で盛んになった封建制批判の観点からの近松解釈に沿うようにして、本作における登場人物の身分の剥奪が、自己同一性と深く関わる「名前」の与奪によって描かれ、身分の異なる者たちが街道という空間で出会い、関係しあうことを論じる。

    第3節では、原作の見せ場である「重の井子別れ」を含む二つの愁嘆場が、メロドラマ的な要素に満たされ、感情の抑圧と情動の爆発を伴いながら、感情的な同一化よりもむしろ人物たちの置かれた状況への知覚に観客を向けるものとして演出されていることを明らかにする。

  • 雑賀 広海
    2021 年 105 巻 p. 67-87
    発行日: 2021/01/25
    公開日: 2021/02/25
    ジャーナル フリー

    新藝城は1980年に設立されると、またたく間に香港の映画市場を席捲した。新藝城の作品が劇場を支配し、新人監督がデビューする場であった独立プロダクションの作品を公開する機会はきわめて限定されてしまう。したがって、新藝城は1970年代末に期待された多様な映画製作の種を摘み取った会社として、否定的な評価を与えられることがしばしばある。また、作品の内容についても、物語やギャグが形式的で画一的であると批判される。その一方で、それまでの興行収入の記録を大幅に更新し、1980年代の香港映画産業を牽引した存在であることは確かである。本論文は、新藝城の功罪について、新浪潮を代表する監督の一人であり、新藝城の中心メンバーでもあった徐克を中心に再考する。とくに注目するのが、集団創作という新藝城の製作体制であり、この体制においては監督個人の判断で撮影することは厳しく禁じられていた。そのために、徐克は数年で脱退することになるものの、集団創作の経験は有益だったとも述べている。本論文が注目するのは、新藝城の集団創作が香港映画産業を席捲することで、俳優や監督など、映画製作におけるそれぞれの専業が入り乱れ、無制度的状態と化したことである。そして、作家主義とは相反するような新藝城の集団創作が、徐克や1980年代の香港映画産業に与えた影響を明らかにする。

研究報告
レヴュー
feedback
Top