稲畑勝太郎輸入のシネマトグラフ、そして荒木和一輸入のヴァイタスコープが大阪で初公開されたのは1897年2月のことであった。翌3月には東京でも新居商会がヴァイタスコープを、また横浜では吉澤商店がシネマトグラフを公開し、我が国に映像の時代を切り開くこととなった。しかし、これらの中でしばしば議論を呼んできたのが、横浜に現れた吉澤商店のシネマトグラフである。
これは機械の出処が不明瞭であることに端を発しており、そのため吉澤商店が稲畑の機械を借用した可能性や、反対に、商店が入手したのがシネマトグラフではなかった可能性も論じられてきた。
ところが近年、稲畑がリュミエールに宛てた書簡の写しが発見されたことから、横浜のシネマトグラフが稲畑とは無関係であったことが明らかになり、それとともに吉澤商店の機械がリュミエールのものではなかった可能性も現実味を増してきた。
本稿では、筆者が専門とする吉澤商店の研究で明らかになった事実をここに照合しながら、吉澤系シネマトグラフの正体について新たな仮説を提示し、その可能性を検証したい。
特に注目するのは、1900年に吉澤商店から刊行された定価表である。吉澤商店製の国産映写機を紹介したものとしては、筆者が現物を確認し得た最古の版であるが、ここに掲載された映写機が同店の最初の製品であった可能性もある。もう一つは、映写機の製造にあたり「モデルは、ルミエルとエヂソンの映写機を参考とした」という吉澤商店主・河浦謙一の証言が残されていることである。これらをもとに本稿では、定価表の映写機が舶来品を模造したものであり、それこそが吉澤商店にもたらされた最初の活動写真機械であった可能性を論じる。
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