唐の芙蓉園と曲江池における従来の先行研究では、芙蓉園の芙蓉池と曲江池を同一と見なし、曲江池が芙蓉園の園内に位置していたという理解が主流になっている。だが、唐の当時の史料を中心とした一部の先行研究では、芙蓉池と曲江池は別物であり、芙蓉池は芙蓉園の園内、曲江池は園外にあったことを明らかにしている。本稿は唐・長安城の芙蓉園と曲江池の全盛期であった8世紀前半に焦点を当て、先行研究を踏まえた上で、唐代に著された関連の詩賦と書籍を中心とし、信憑性の高い後世の関連記録と詳細に対照して史資料批判を行い、唐・長安城の芙蓉園と曲江池における具体的な形状と造園手法が窺える記述を引き出して整理した。更に、それらの記述を関連の考古調査成果および現地の地形と統合し、造園学の視点から唐・長安城の芙蓉園と曲江池の実像に迫ることを試みた。その結果、1)芙蓉池は南北長が1700mあまり、東西の最大幅が600mの南北に長い不整形の園池で、芙蓉園内の西部に位置していたこと、2)曲江池は芙蓉園の北西にあり、東西長が2773m、南北長が556.5mを超えない東西に長く曲折した護岸を持つ不整形な形状で、その水域は標高の異なる数段になっており、通善坊・修政坊・敦化坊の北土塀、修政坊・通善坊・曲池坊の西土塀、通善坊・曲池坊・無名の坊の南土塀、敦化坊・無名の坊の東土塀に囲まれた区域内に収まっていたことが明らかになった。
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