看護師は多くの場合、倫理は日常業務に直接活用できないと考えており、抽象的・学問的なものと捉えている。また、倫理の言葉や専門用語は、自分たちからは遠いものと認識し、実践で体験するごく普通の問題や、自分たちの判断や行いが正しいだろうかという悩みを言い表す言葉ではないと思っていることも多い。さらに、たとえ倫理について考える場合でも、看護における倫理的な問題や倫理的責任はわれわれの文化に特有なものであり、他国の看護師が抱えるものとは別の類のものであると考えている。本講演では、看護実践の倫理に関わるこれらの問題をまず取り上げる。すなわち、倫理は、(1)実用的ではなく抽象的なものと捉えられている、(2)現実の事柄を言い表す言葉ではなく遠くにあるものと捉えられている、および、(3)普遍的ではなく文化固有のものであると認識されている、の三つである。しかし、これらの三つは、次の四つ目の問題の単なる背景であるとも考えられる。その四つ目の問題とは、「生命倫理」全般、および特に「看護倫理」において、概してドラマチックで大きな倫理的ジレンマが取り上げられ、そのせいで、「倫理には正しい答えは存在しない」という考え方がささやかれている、ということである。本講演で私が便宜上「ネオン倫理」と名付けているこうした倫理が示唆する内容のせいで、解決が極めて困難で、分別ある人にとんでもないと思わせるような、話題性に富む倫理問題に関心が向けられている。このような派手な倫理に代わり、私は、まじめな看護師がいつも直面する「日々の倫理」に目を向ける。日々の倫理が扱うのは、障害をもつ患者の自己概念の再構築をどう手助けすればよいか、患者とその家族との間の緊張状態にどう関わることができるのか、あるいは、医師の指示が患者によくないと思われるとき、看護師はどう対処したらよいか、などである。最後に、倫理的な看護実践が試される世界共通の問題として、いわゆる看護師の「板ばさみ状態」を、問題の五つ目として取り上げる。これは、患者が求めること、患者の家族が望むこと、師長や同僚が考える「看護師としてなすべきこと」、また患者を診る医師が指示し期待することが相対立し、看護師はそれらの板ばさみになる、という問題である。そのような状態にある看護師は悲惨な立場に置かれていると思われがちだ。しかし実際には、こういった対立による板ばさみから絶対に逃れられないのは患者である。患者に今後どのようなことが起こるかを決める人々の間で意見が対立するという状態は、患者にとっては本当に恐ろしいことである。しかし幸いにも、患者には自分とともに板ばさみになってくれる看護師がいる。患者にとって、看護師はいつもそばにいて、擁護し、安楽を気遣い、ケアしてくれる人である。患者の病状の判断をし、処置をし、環境を整える、そういう日々の世話をしてくれる存在である。おそらく、患者を真にケアしようとするならば、「板ばさみ状態にある看護師」こそが最善の(またある意味では最も強力な)立ち位置にあるのである。
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