本論文は、フェミニズム思想およびフェミニスト神学と対話しつつ、特にジェンダーの視点から伝統的な神理解の再解釈を試みる考察である。第1章では、最近の英訳聖書において、父なる神という伝統的理解が見直されつつある状況を考慮しながら、聖書が男性中心的であるという批判を解釈学的にどのように受けとめることができるかを論じる。第2章では、フェミニスト神学によって批判されている男性中心的神理解が、「神の像」という概念を媒介にして人間論にまで拡張されていることを考察する。第3章では、聖書的伝統の中には、父なる神、唯一神論という定型的理解に収まらない多様な神理解があることを論述する。第4章では、家父長制的拘束からの解放を模索するフェミニスト神学の試みを類型的および解釈学的に検討する。第5章では、フェミニスト神学の成果が日本の文化の中で、どのように受容されるべきかを示唆する。
本稿は、1899年(明治32年)宗教法案の評価を再検討するものである。先行研究における法案の評価は二つに分かれている。すなわち、宗教団体の自治権に変わって政府の直接把握をも射程に入れた宗教統制法だとする立場と、一定の範囲で教派宗派の自治を認め原則として政教分離の主義に立つ法律とする立場の二つである。この評価の違いは、法案の「教会」「寺」「教派」「宗派」規定の理解が鍵になっている。そこで、本稿は「教会」「寺」「教派」「宗派」規定を、条文と議会の議事録の分析によって実証的に検討した。その結果、法案は法人格取得のための許可ないし自治団体としての認可を求めているにすぎず、宗教上の結社一般については許認可を求めていないこと、教派宗派による自治を前提として、「教派」「宗派」と「宗教委員会」規定を置いていることなどを論証した。その結果、前者の立場は取り難いことが明らかになった。
本稿は、ネットワーク・ダイレクトセリングと自己啓発セミナーを題材に、現代社会において宗教的/霊的/心理学的アイディアが消費され功利的に活用されていく構造を考察するものである。両者は、対人関係を実利的にとらえ、こころをコントロールすることによって現世で成功しようというアメリカにある古くからの流れに密接に関わっている。両者は、セールスマン養成のトレーニングに理念的/歴史的基盤があり、顧客と良好な関係を取り結ぶ技術が、他者と調和的な関係を築こうとする態度へと変容している。競争的な現代社会においては、商業的だがゆるやかに組織された様々なネットワークが、世俗化や個人主義に矛盾しないかたちで、新しい生き方や自己の探求の場を提供している。
本稿は、現代日本で「精神世界」や「ニューエイジ」と呼ばれているような宗教現象の思想的系譜を探る試みの一環として、1960年代末からの青年達の異議申し立て運動との連続性をうかがわせる「ニューエイジ」類似運動を対象とした一事例研究である。本稿の主題は、国内外の社会運動研究者らが70年代にたびたび指摘してきた「新左翼から新宗教へ」と呼ばれる現象に関わるが、日本の宗教学が「ニューエイジ」研究のなかで彼らの指摘を取り上げることはこれまでほとんどなかった。本稿では具体事例として、青年期に学生運動にコミットした経験をもち、現在、気功普及運動を推進しているある人物を取り上げ、その運動の軌跡を、とくにその思想内容に注目しながら明らかにし、彼の中で両運動がどのように連続し展開していったのかを論じる。また、60年代以降の社会運動史の全体的動向の中にこの運動を位置づけ、運動がたどった連続と変容の軌跡に対する理解を深めてみたい。
新宗教教団の一つである真如苑では、毎年「青年部弁論大会」が開催されている。われわれはこの行事から、「弁士」の語る「弁論」が数ヵ月間に渡る他者との相互行為の中で作り上げられていく、という過程を観察することができる。それは、本来ならば語り手のみが語りうるはずの弁論が、他者の解釈を大幅に受入れることにより構成されていくにもかかわらず、弁士にとって真正で絶対的な自己として最終的に語られるようになっていく、という一見パラドキシカルな過程である。確かにこうした過程は、一見奇妙に思えるのだが、むしろそうした他者との相互行為があるからこそ自己は構成/維持されるのだ、というのが本論の出発点となる。それを踏まえた上で、日常的に営まれている信者間の相互行為が、自己の構成をめぐってどういったダイナミズムを示すのかを、この事例を通し具体的に記述し考察していく。
これまでの宗教集団が、創唱者や教義や制度によって存立したように、ばらばらな人間の流動的な集まりとされていた「精神世界」にも、それを存立させる<ゆるやかな共同性>がある。<ゆるやかな共同性>とは各種のメディアによって媒介された小集団あるいはそのような小集団どうしのつながりをつくりだす力である。そのような集団においては徹底した制度化がなされることは少ないし、全国的な組織とならずに、地域的な小集団にとどまることで、強い絆を持ち続けることも多い。「精神世界」が相互に連絡を欠いたばらばらな個人や小集団の寄せ集めであるという通念に併せ、当事者の多くに抱かれているのは外部とのゆるやかな関わりあいのイメージでもある。無数の小集団が「同時多発」し、相互に「照応」しあうという関わりあいのイメージは、当事者の意識のあり方とも対応し、「精神世界」が運動としてのまとまり(<ゆるやかな共同性>)をもつ上において、重要な役割を果たしている。
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