「そこにも人は住まねばならない」というテーゼは,琵琶湖―淀川水系という「特殊」な時・空間からうまれた「生活環境主義」というイデオロギーの所産である.もし,「条件不利地域」として日本の山村が見捨てられたならば,人々が棲む空間はこの日本のどこにも存在しないだろう.
大都市圏に棲む人々が山村に関心を持つか否かを問う以前に,森林―山村空間は環境保全をめざすべくしてそこにある.崩壊すべきものとしてのムラ,崩壊したはずのムラ,環境保全主体としてのムラ,時代の変容と共に形容される様は変化したが依然として村落社会研究の中心テーマとしてムラ論もまたあった.
環境保全という課題の前で,山村(ムラ)の主体性論は,新たな課題を背負って登場した.このテーマは,環境社会学研究において所有論,コモンズ論として深まりを見せたが,ムラ人の主体性を創り上げていく「はっきりとした意図を持たない首尾一貫性」(P・ブルデュー)を捉える「手口」が明示されずに来た.鳥越皓之の用語になぞらえれば,「言い分」論を経験論へ再度引き戻してモノグラフィックに記述することになるだろう.
本稿は,以上のような問題意識の元に,環境保全主体としてのムラのリーダーを羅生門的手法で描き,書く主体をもその文脈に埋め込みつつ「動かないムラ」を記述する.
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