本稿では,現代社会における「公正さ」について,単に近代国家の法律制度の枠組みへの位置付けだけでは公正性を保証できていないことを指摘したい.そのうえで,周りから不公平ともいえるものが実は逆に現代社会の公正性を担保することにつながっているという社会的事実を提示する.
拙著『生きられた法の社会学』において大阪国際空港(伊丹空港)の一角に形成された「不法占拠」地域について,その歴史的な形成プロセスと人々の生活の内実,そして,住民と伊丹市と国との交渉をとおして「不法占拠」が解消されていく経過を描き出した.そこで見出したものは,「剥き出しの生」を背負わされた人々の実践が実定法に包摂されない「生きられた法」を生成するとする「法外生成論」だった.法外におかれた人々の「エゴイズム」を排除するのではなく,人々の生活実践にこそ法の正統性の源泉があるとする主張は,グローバル化のもと,国家や市場から排除された人々が数多く生み出されている現在示唆的であると考えた.
ただし,当初地震などの震災は,「生きられた法」からは除外していた.おもに阪神・淡路大震災を引き合いに出しながら,絶望的な極限状態の際に生じた公共性は,時間をおかず解消され,いずれ元の日常生活に戻っていく定点をもつという判断からであった.ところが3.11大震災において,「修正」を迫られる事態が発生した.むしろ「生きられた法」のなかに今回の大震災を含む方がしっくりくる.
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