[研究目的と方法]
1947年4月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)の指導と示唆を得ながら、文部省は新しい教科である家庭科を高等学校に設置することとした。それから50余年、その歩みを辿ると、基本的には女子用教科として設けられた教科の男子への解禁の歴史であり、また、7単位もしくは14単位を履修させるものとして「一般家庭」を最大として、次第に単位が縮小する歴史であった。
今日の高等学校家庭科教育は、生活をよりよきものに改善する意欲と実践的な態度の育成を目指すという教科理念とホームプロジェクトに代表される課題解決を中心とする指導方法を継承している。このことから、占領期における家庭科の成立過程や教育政策の実際と評価について実証的に明らかにすることは、現在及び将来のあり方を考える上で欠かせない課題となる。
高等学校家庭科の成立過程については、筆者が長年手がけてきたことであり、細部がかなり明らかになったが、教育政策の評価については、「産業教育の現状と課題」(文部省初等中等教育局職業教育課)やGHQ文書中の日本教育改革の進展に関する各種報告書などに頼らざるを得なかった。高導学校家庭科の成立過程については,筆者が長年手掛けてきたことであり,細部がかなり明らかになったが,政策の評価に関しては,次のような不十分な資料に頼らざるを得なかった。
?「産業教育の現状と課題」(文部省初等中等教育局職業教育課:1952)
?CIEの家政教育官ウィリアムソンによる家庭科教育進展の報告書
?CIEが発行した米国側報告書に記された家庭科教育の進展状況
?中等教育研究集会の報告書に見られる評価(1949-1953)
?「高等学校家庭科の問題点とその対策」(北海遺立教育研究所:1955)
不十分ながらこれら各種の評価を重ねて見ると,CIEと文部省による当初の家庭科教育振興政策は,生徒の個人的な発達を促すことのみならず,日本の生活改善を家庭科を通して実行するという大きな祉会的使命を併せもつものであり,その方面の貢献は大きいものてあったこと,だが,占領解除前後に,家庭科は女子全員が学ぶべき教科であるとの固定観念に基づく女子必修化論が台頭してくるなと,占領教育政策に対する批判が生じてきたことが明らかになった。
本研究は、占領期の高等学校家庭科教育政策がどのような意義をもち、いかなる役割を果たしたのかという点について、地方に現存する「産業教育総合計画」などを新資料として加えながら、実証的に考察することを目的としたものである。
結果
(1)1951年6月11日に制定公布されたY業教育振興法」を受けて都道府県はY業教育総合計画・B計画の策定に当たっては,産業や教育の現況を適確に把握し,諸問題についての対策を具体化することに重点を置いた。それゆえ占領期の家庭科教育政策の地方における成否を窺うことのできる史料である。
(2)「福岡県産業教育総合計画」(1955)には,普通課程をもつ高等学校(全日制)74校中60校に家庭科を設置しているが,扱いに苦心しているのが「一般家庭」であり,内容が広いこと,僅か7単位で家庭生活全般の基礎となるべきものを学習させ,その上生活から遊離しないように実験実習を通して具体的に学習をさせなければならないことが問題点として指摘されている。更には家庭科を全然履修しない女子が27%いることも問題とされている。
(3)「香川県産業教育総合計画」(1953)には,生活改善の先頭に立つ家庭科教員に対して現職教育が必要であることが謳われ,ワークショップ,専門教科講習,内地留学,各種機関への個人的参加の実数が記されて,これらの効果を認めている。
以上のように「産業教育総合計画」から,CIEと文部省が策定した家庭科教育政策が地方でどのように展開し,また問題を生み出すことになったのかを窺うことができ,占領期を評価する手がかりとなる。
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