社会情報学
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5 巻 , 2 号
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原著論文
  • 藤原 整
    2016 年 5 巻 2 号 p. 1-17
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/02/03
    ジャーナル フリー

    ヒマラヤ山麓の小王国ブータンは, 長く鎖国状態に置かれていたが, 1960年代に開国すると, 以後半世紀に渡り, 近代化を推し進めてきた。2008年, 世界でも例を見ない, 主権者である国王自らの手による民主化を果たし, 議会制民主主義国家として歩みはじめたばかりである。

    一方, 情報通信分野についても, 長い間, マスに満たない伝播型のメディアのみが存在しており, 情報化が加速したのは1990年代に入ってからであった。1999年, 時の第4代国王が情報の解禁を宣言し, テレビとインターネットが同時に流入するという, 前代未聞の情報化が進められてきた。

    本論では, 並行して進められてきたブータンの民主化と情報化の歩みを丁寧に辿り, 両者がどのような関係を結びながら今日まで進められてきたか, その実像を探っていく。それに先立ち, まず, 近代から現代に至る民主主義とメディアをめぐる潮流について整理し, ブータンの事例を考察する足掛かりとする。

    本論の核となるのは, 2013年ブータン国民議会選挙を事例としたフィールド調査とその結果の考察である。選挙という民主主義の実践の場面で, ブータンのメディアがどのような役割を担っていたか, そして, 有権者はどのような情報に接触し選択へ至ったのか, それらを, 実際の報道内容とインタビュー調査を元に紐解いていく。最後に, 政府・メディア・市民の三者の関係性について, 理論モデルとブータンモデルを比較検討し, ブータンにおける民主化とその中でのメディアの役割を浮き彫りにする。

  • 志柿 浩一郎
    2016 年 5 巻 2 号 p. 19-36
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/02/03
    ジャーナル フリー

    アメリカ公共放送の起源は, 1910年代に開始された大学のラジオ通信施設に遡る。この施設は, やがて教育放送局と呼ばれるようになる。1930年代, 教育放送局は, 1920年代以降に台頭した商業放送の影に隠れてしまうが, 第二次世界大戦後, 再び注目され, この教育放送局を基盤とした公共放送設立に向けた動きが高まった。その過程で要としての役割を果たしたのがFrieda Hennockである。

    彼女は1948年に女性として初めてアメリカ放送通信事業の規制監督独立政府機関, FCCの委員に任命された。FCC委員在任中, 彼女は男性中心だったアメリカの放送の状況を変えようとしたことで知られている。Hennockの業績はそれだけにはとどまらない。彼女は, アメリカ社会の発展のためには, 異質なものに寛容な新しいメディアを創出する必要があると考えた。しかし, その実現には当時の商業放送では限界があり, 異質なものを受容する立場からの放送は, 大学放送局や非営利教育放送局にしかできないと考え, その開設を強く推進していった。その後のアメリカの公共放送は, 彼女が力説した教育放送の重要性を確認する方向で展開した。

    このようにアメリカ放送史上Hennockの果たした役割は大きい。しかし, アメリカにおける研究史においてその評価は十分とは言えず, また日本の研究史では言及されることさえも少ない。本稿では, HennockがFCC委員として果たした役割と彼女の思想を, FCC在任中に作成された一次資料などを参照しつつ明らかにする。

  • 岡野 一郎
    2016 年 5 巻 2 号 p. 37-51
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/02/03
    ジャーナル フリー

    本稿の目的は, 情報化と呼ばれる現象を, 「情報の消費化」及び「情報の個人化」という観点から捉え直すことである。Websterが批判しているように, 情報化という要因によって社会に何か質的な変化が生じたことを示すのは困難であるし, そもそもBellらの言う物質中心の社会から情報中心の社会へという変化自体が疑わしい。むしろ検討するべきなのは, 情報に関して何が変化したのかである。本稿ではそのような変化として, 「情報の消費化」及び「情報の個人化」を検討する。

    まず, 情報の消費化とは, 資本主義市場がますます情報関連に広がっていくことを指す。製造業中心からサービス産業中心の社会への移行は, 市場が覆う生活の範囲の拡大として理解できる。

    しかし, 情報化と見える現象のすべてが「情報の消費化」で説明できるわけではない。Castellsらの言う「ネットワークされた個人主義」は, 「ネットワークの個人化」ないし「情報の個人化」として捉えることができる。Beckらは個人化を, リスク管理の責任がますます個人に課せられるようになる現象として描き出している。情報という観点からは, これは期待効用の最大化を目指すゲーム理論的人間観となる。これは「情報の消費化」と「情報の個人化」が重なることで生じたと言えるが, 進化ゲームの知見は, 私たちがゲーム理論的人間観になじまないことを示している。Beckらの示唆するシステム理論的観点からすれば, 私たちは市場のみに巻き込まれるのではなく, 多元的自己を持った存在として, 個人化の時代を生きていく必要がある。

研究
  • 河島 茂生
    2016 年 5 巻 2 号 p. 53-69
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/02/03
    ジャーナル フリー

    本論文では, ネオ・サイバネティクスの理論のなかでも特にオートポイエーシス論に依拠しながら, 第3次ブームの人工知能を定位し倫理的問題の基礎づけを目指した。オートポイエティック・システムは自分で自分を作るシステムであり, 生物の十分かつ必要な条件を満たす。一方, アロポイエティック・マシンは, 外部によって作られるシステムであり, 外部からの指示通りに動くように調整されている。この区分に照らせば, 第3次ブームの人工知能は, 人間が設定した目的に応じたアウトプットが求められるアロポイエティック・マシンであり, 自己制作する生物ではない。それゆえ, 責任を帰属する必要条件を満たさず, それ自体に責任を課すことは難しい。人工知能に関する倫理は, あくまでも人間側の倫理に帰着する。とはいえ人間は, しばしば生物ではない事物を擬人化する。特に生物を模した事物に対しては愛情を感じる。少なからぬ人々が人工知能に度を越した愛情を注ぐようになると社会制度上の対応が要される。そうした場合であっても, 自然人や法人とは違い, 人工知能はあくまでもアロポイエティック・マシンであることには留意しなければならない。

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