バイオフィリア リハビリテーション学会は、表題を掲げ、初めての国際大会を北マリアナ連邦(CNMI)サイパン島で、私を大会長として、CNMI政府障害自立局と共同開催しました。本学会には全米とパラオなど近隣諸国から約150名の参加者がありました。
この研究のきっかけは1987年です。厚生省は、1975年の人口予測で2025年の65歳以上高齢者の人口比率は1対5とし、シルバーシティプラン等を導入しました。1979年に藤沢市会議員になり、団塊世代の高齢化による高齢社会の到来を予期していた私は、人口動態をコンピュータで、補正推定した2025年の藤沢市における高齢者人口比率を1対4以上と市議会で発表し、それに対応する政策の実施を提言しました。
1987年、老人保健法の導入がありました。同年隣接の茅ヶ崎市で、市機能訓練会が在宅の障害を持つ高齢者の為に4月から開設されました。藤沢市機能訓練会は医師会との調整があり、10月から廃用性維持期の高齢障害者のみを受け入れることで開設されました。私は、この間の経緯から議員として、藤沢市の会を、「回復しない(インペアメントレベルの)者だけが参加する機能訓練会」と理解しました。
滝沢恭子理学療法士(母)は、藤沢市機能訓練会で勤務を始めました。会に参加した廃用性維持期で治療効果が無いとされた高齢障害者にリハビリテーション(以後リハ)を行い、「症状の改善をみた者、社会(職場)復帰した者、障害から自殺をほのめかす者が希望を語るようになった」など著しい成果を挙げていました。また同時に勤務を始めた寝たきり病院の長岡病院でも寝たきりから歩行を獲得する多くの事例を見ました。なお前職は藤沢市民病院勤務であり、同様の手法のリハを行い、同病院の業務報告によれば2名のリハ・エイドの協力を得て、1名の理学療法士の実施数としては非常に多い年間1万5千名のリハを実施していました。
こうした事実から、私は母のリハがシステムであることを認めるよう、説得しました。母は、長い間「私の手は魔法の手だ、私がするから皆歩けるようになる。」と取り合いませんでした。年月が経るうち、私はリハシステムの社会的認知が必要と確信し、政治家としての未来よりも、このシステムを確立し、社会に提供する研究を選択しました。
基調講演では、これまでの研究の実際と、文明論について述べました。学術論文の発表は5編で科学技術振興事業団の電子ジャーナルで2003年1月31日より公開されています。
私はこの基調講演で、「私達団塊世代が高齢者になったとき、日本をさらには世界を、障害を持つ高齢者の増加による負担の増加で疲弊させないために、母の魔法の手ではなく、このリハシステムを誰でも使えるシステムとして確立するための研究が進んできたこと、そして国際学会共同開催により世界にシステムの確立を宣言したこと」と、「日本における日本医科大木村哲彦客員教授を会長としたNPO学会の設立と本日のCNMIとの共同開催の国際大会の開催が、人々が高齢になって障害を得ても自立可能であることを明確にし、高齢障害者が介護・依存から自立を果たすことにより、世界に新たな文明、高齢者の増加を負の要因としない文明をもたらす事」を述べました。この基調講演で、私はこれまでの研究を述べるにあたり、私が医師でも理学療法士でもなく技師でもない、一人の団塊世代人である事、そしてそれでもなお、この国際大会を始めとして、我々の研究が、新たな文明の確立の一歩になる事を述べました。
それぞれの講演論文は世界に向けた英語論文であり、ソリ付き歩行器利用評価、タキザワ式リハによる虚弱高齢者の変化、同プログラムによる追試、開発中の立位歩行解析の実際と体育による気分の変化についての考察が発表されました。続いて、シンポジュームを開催し、地域におけるリハビリテーションの重要性を基軸に、そこで利用される技術・器具の報告があり、全体の質疑が行われました。
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