学習する者は, いろいろな文化を獲得し, 人間的高まりを得ることを教育の目的としており, 指導者はまた各教科において, 全面発達の一分野として, その文化の獲得, 追求をねらいとしている。このことは, 体育においても当然のことであり, 教科体育のねらいは, 人間の生物的・社会的欲求から生まれ, 創造された文化, つまり運動文化の獲得, 追求することになければならない。
運動文化の重要な題材として受けつがれてきた陸上競技は, 最も早くから人間生社会に生まれてきた運動であり, 自然的・原始的な自然発生的運動であるとみてよい。その上に, “走る”“跳ぶ”“投げる”といったきわめて単純な運動であるかのようにみえるが, 決してそうではなく, その単純な動きのなかに含まれる技術の深さは限りがないものがある。
教材としての陸上競技の学習は, 入り易いが反面すすみにくい点で, おもしろい味の少ないものであるといわれている。たしかに, 球技教材などのように, 偶然性や, スリル, ドラマチックな場面も少なく, 射倖的な要素もない。走・跳・投の種目はそのまま自己の能力として測られ, 相手との勝敗も明らかで, 明瞭に能力の順位がつけられる。このような特性は, 強い体力をもったものには興味があるが, 弱いものには甚だおもしろ味のない運動になっていることは事実のようである。現代的な気質として, 運動量の多い, しかも一時的に過重な疲労を起こす運動よりも, 疲れが少なく, 運動の興味が直接的なものを好む傾向であることは止むを得ないかもしれない。
陸上競技は
“教材として扱いにくい”
“指導の効果がなかなかあがらない”
“よろこんで学習してくれない”
などの多くの悩みをかかえながらも, 現場の指導者はいろいろ改良と工夫を今日まで進めてきた。それにもかかわらず, 一部の指導者は, 漠然とした過去の経験や, 科学性のない「各種のスポーツの基礎種目」ときめかかったり, あいまいさを確かめようともせずに, その必要性を説き, 強制したりして, むしろ善行をほどこしているような錯覚に捕われていたところに大きな問題があったように思える。
さらに, 指導者自身が, とかくその教材に専門化され, あまりにも独占的に陥っている点も見逃してはならない。バレーボールの先生, 柔道の先生, ダンスの先生というように極端に種目に偏し, 体育全般を見失うような傾向である。陸上競技は陸上の先生に任せるという行き方で, 他の種目担当者は関知せずという扱い方であるが, それでは基本的な陸上競技が伸展しないだけではなく, あらゆるスポーツが弱体化させる結果になることは当然であろう。とくに上級学校ではこの傾向が著しいようである。総ての指導者はすくなくとも陸上競技に関心と興味をもち, ある程度の指導力を備えて, ときには共に走り, とび, 投げることのできるということが, 指導者にとっての必要条件でなければならない。ひとつに深くつきすすんだ研究や指導のできることも必要ではあるが, 総てのスポーツ共通した, 基礎教材である陸上競技を指導できない, 指導しない, とあっては, その資格に疑義をもたれてもやむを得ない。
次にまた, 競技としての陸上競技を, 体育教材として借用してきた歴史的背景から, 実際の指導で両者 (学習としての陸上競技) の立場が混同され殆んど区別がない取り扱いがなされていることも見逃してはならない。学習教材としての陸上競技も, スポーツとしての本質を否定するものではないが, 目標はおのずから異なった立場にあることを理解されなければならない。競技としての立場は直接的にねらいとするところは, 勝敗であり, 記録であり, 技術である。学習としての立場は, 走・跳・投の基礎的能力の増強と, 運動機能の開発, 社会的態度の育成にある。このわかりきったことが, 実際の指導では混同されていることである。再度, 指導の観念についてみる必要があろう。指導者によってはいろいろな考え方もあるが, 学習するものが事実陸上競技を嫌っている現況をみる場合, 指導において, 学習者の感情を無視するならば, 陸上競技のねらいとする目標はとうてい達成できるものではない。現時点で考えるとき, 感情を無視した指導は考えられないし, そうかといって学習する者自身にまかせられる状態でもないようである。
陸上競技の指導にあたり, 学習がいま何を必要としているのか, 何をもたせなければならないかということを十分に考えて, まつ, 陸上競技を嫌う理由をとり除いて, 興味と意欲をもたせる指導を工夫していかなければならない。
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