私がここで夢をとりあつかうのは、意識に関する一連の問題のうちの一環としてである。それも、たとえばフロイドの理論におけるように、内容的な側面からする夢の成立機構や意味についての問題ではなくて、夢における意識のあり方一般についての問題、もつと限定していえば、夢と知覚との区別の問題である。直接の機縁となつたのは、いわゆるデカルトの方法的懐疑であつて、それが成りたたないということを、私としては示したいのである。
これは一つの小さな特殊問題にすぎない。しかし夢そのものに私の哲学的興味が向けられているわけではなく、目差すところはやはり正常な意識にある。その「正常さ」ということの意味や、意識存在の特性といつたことを考えるにあたつて、夢体験をどう性格づけるかが、少くとも一つの論点になると思われる。従つてこの考察は、知覚や想像や普遍概念などに関する認識論的な諸問題にも、また世界と人間とのかかわり方に関する存在論的な問題にも、直接間接に結びついてくるであろう、多少なりともそのことを示すため、最初に一節をついやし、哲学史を借りてこの問題の由来をのべ、また最後に、ここでえられた結論と関連のある幾つかの私見を附記しておく。
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