湖北省宜昌から上流の重慶市までの長江沿いは三峡地区と呼ばれ、狭い川幅の両側に切り立った崖がそびえる特異な風景が見られる。19世紀中頃までは小回りが利き急流に対応しやすい中国式帆船による交易が行われた。19世紀後半の清国末期に中国海関(旧海関)が成立して、約1世紀に渡って中国全土の貿易の徴税と円滑な貿易のための環境整備を担った。旧海関が携わったインフラ整備に関する研究は少ない。本研究の目的として、三峡地区における水運インフラ発展のうち重要な出来事である蒸気船の導入に着目して、1)中国側と外国側はどのように導入に関わったのか、2)旧海関が導入にどのような役割を果たしたのか、税務司による体系的な定期報告書である海関資料に基づいて実証的に解き明かす。
本研究は宜昌港が年次統計に登場する1878年~1919年を対象とした。手法として、年次統計については、水運量に関する記録のデジタル化を行った。年次報告については、水運に関連する項目をテキスト化して短い文章に区切り、筆者が作成した分類表に沿ってラベルを付けたデータベースを作成した。
結果として、年次統計から帆船と蒸気船のトン数の各国合計の推移を抽出すると、宜昌では蒸気船と帆船の両方が、重慶では帆船を中心に利用されていた。年次報告から、宜昌は蒸気船と帆船の間の積み替え港であり、重慶は開港以前より中国西部・四川省の貿易の中心だったと見られる。蒸気船の輸送力があれば重慶において外国商人が勢力を拡大できると考えられており、中国商人も大容量で素早く輸送できる蒸気船に期待していた。1909年に輪船招商局の蒸気船Shutungが無事故かつ利益を出して宜昌-重慶間を航行して、その後に重慶での蒸気船による輸送量が増加したことは年次統計・年次報告から読み取れる。
目的1)に対応して、重慶の開港と蒸気船の導入に伴って、旧海関と外国商人が三峡地区の地域経済に加わり、また中国商人が輪船招商局と個人商人に分かれたことが分かった。多数の主体に分散して運用されていたことが水運インフラの強みとなっていた。目的2)に対応して、旧海関が蒸気船の導入に際して果たした役割とは、難所の特定・河川整備の実施・蒸気船の航行に必要な知識の体系化と頒布の3点が挙げられる。特に3点目については、旧海関とも連携した河川監理史S. C. Plantの貢献が大きかったと言える。
抄録全体を表示