公共図書館は,必ずしも透明で中立的な機能のみを果たしているわけではない。すなわち,そこには,固有の<厚み>が存在する。この厚みは,図書館による知識や情報の制御であるともいえる。一方,それと同時に,公共図書館に関わる諸個人は,主体的な営みの担い手として意味づけられているのである。本論は,アメリカ公共図書館における目的観を題材に,公共図書館が主体形成の機序に関わる機関であることを示唆する試みである。また,本論を通じ,図書館現象が,純粋な基礎理論研究の対象となり得ることを提言しようと思う。
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