哲学
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1999 巻, 50 号
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  • 森岡 正博
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 1-12
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    Academic studies on philosophy in modern Japan have been mainly institutionalized as those of interpretation of European philosophers. I believe, however, contemporary philosophers have to put an great importance on actual actions of themselves in this society, instead of mere interpretations, in order to face seriously today's philosophical issues on the global scale.
  • 桑子 敏雄
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 13-25
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    In this paper I try to clarify why Masao Maruyama failed to appreciate the importance of the thoughts of Jien and Kumazawa Banzan. Jien wrote a masterpiece of philosophy of history, Gukansyo, and Banzan's works contain a unique theory of environmental civil engineering. While Maruyama takes a kind of universal stance that has lost sight of contemporary environmental landscapes, Jien and Banzan constructed their theories from their consciousness of their locality and their own language. I call this consciousness the attitude of domestication. I propose a thesis that in the time of environmental crisis we must construct theories of values by criticizing the contemporary situations from the stance of domestication suggested by Jien and Banzan.
  • 種村 完司
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 26-41
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/01/20
    ジャーナル フリー
    Drei Elemente (Subjekt, anderes Subjekt, Vermittlung), die menschliche Kommunikation konstruieren, befinden sich gegenwärtig in einer tiefen Krise. Man kann dafür folgende Gründe nennen. Erstens, das autoritäre Verhalten in der menschlichen Beziehung, zweitens, die Degeneration der kommunikativen Fähigkeit des Subjekts (besonders die Unreif von Seele und Körper), drittens, die rasche Entwicklung der Computer-Kommunikation und die Schwächung konkreter persönlicher Verhältnisse u. s. f., erzeugen verschiedene Schwierigkeiten im Kommunikationsvorgang (oft eine Diskommunikation).
    Damit müssen wir die gegenwärtige Kommunikationskrise auch als die Krise der existentiellen Erfahrung und die Krise des schopferischen Dialogs auffassen.
    Um den Rückgang und die Zerstorung der Kommunikation zu überwinden, ist nicht nur die Auflosung der sozialen kulturellen Hindernisse, sondern auch die Ausbildung des autonomen Subjekts notwendig, das die höhere Gemeinschaftlichkeit sucht.
  • 概念的思考と命題的思考
    神崎 繁
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 42-60
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    人が学ぶのは技巧ではなく、正しい判断を学ぶのである。もちろん規則はあるが、それは如何なる体系もなしておらず、ただ経験を積んだ者のみがそれを正しく適用することができる。それは計算の規則とは異なっている。ここで、最も困難なのは、この不定な規則を正しく、しかも改変を加えることなく、表現へともたらすことである。[ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』第二部.xi]
  • J. McDoWell的「道徳的実在論」の批判的検討
    安彦 一恵
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 61-73
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    或る〈状況〉にあるとき人は何をなすべきか。この問いに答えて行為するのが「道徳」であるとして、それは、その〈状況〉の《価値》的様相に応じて行為するという現象であるとも、あるいは、その〈状況〉に関する《規範》に従って行為するという現象であるとも敷衍できる。しかし、そこでさらに、「道徳」の現象に反省的に、そうした行為はそのまま妥当なものかと問うなら、一つの方向として、そこに《合理性》があるなら妥当であると次には言うことができる。「道徳哲学」-ないしは「倫理学」-とは、一つの、しかし最も基本的なかたちとして、「道徳」の合理性を問うものであるとも言える。そこには、「道徳」の正当化として、自ら合理性の証示を行なうものに加えて、そうした合理性の証示は不可能だと論証するものも含まれる。こうした作業は、それとして重要だと考えるが、しかしながら我々はここでは、言われるところの「合理性」が果たして一義的な概念であるのかとの疑問のもとで、基本的に異なる二つの「合理性」観念が「道徳哲学」において支配しているということを、その背景をなすものから明らかにしたい。そしてそれは、実はこの〈合理性〉観念の相違こそが、相互対立を含んで様々な「道徳哲学」を展開させているのだと我々はみているからである。
  • ラテン・アヴェロエス主義瞥見
    川添 信介
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 74-85
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    与えられている課題は「哲学史の時代区分再考」であるが、そもそも再考されるべき既存の時代区分とは何なのか。西洋に限るならば、古代・中世・ルネサンス・近代・現代といった区分がそれに当たるのであろう。しかし、どんな時代区分も何らかの意味で「便宜的」であることはほとんど自明である。私もここで、この便宜的区分そのものを拒否して別の区分を提示するつもりはない。というよりも、そんな大それたことをやるだけの力は私にはない。以下で私が試みるのはもっと慎ましいことである。つまり、中世と呼ばれている時代の〈哲学〉の在りようの一端に再考を加えることで、中世哲学に何がしかの位置づけを考えることである。そのことによって既存の時代区分がそのまま温存されることになるとしても、時代区分の持つ意味に再検討がなされたことにはなるであろう。
  • 柴田 隆行
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 86-98
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    Man soll die Geschichte der Philosophie von den alten Philosophien überhaupt unterscheiden, weil jene dieselbe ist, die verschiedenen alten Philosophien unter einem bestimmten Kriterium nacheinander ordnet. Und sogar die Geschichte der Philosophie ist von der Historiographie der philosophischen Lehren und von der Biographie der sogenannten Philosophen dadurch unterschied, daß sie das Logische als das Kriterium hat. Aber heutigentags ist das Logische in der Geschichte der Philosophie oft ableugnet. Was würde denn die Geschichte der Philosophie ohne das Logische sein?
    Ich untersuche hier erstens die Geschichte der Philosophiegeschichte, und zweitens analyse zwei Versuche der Einteilung der Philosophiegeschichte, und drittens schlage ich eine Einteilung derselben vor.
  • 浅野 幸治, 市川 哲也, 河谷 淳, 村上 友一, 有安 和人, 城戸 淳, 永嶋 哲也, 松王 政浩, 佐久間 崇, 岩田 圭一, 茶谷 ...
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 99-174
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
  • 村上 学
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 175-184
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    本論文は、プラトン『ゴルギアス』篇におけるカリクレス論駁の場面を「思慮・知」という点から考察する。ただし、その考察では、これまで対立という面からのみ捉えられていたカリクレスとソクラテスの対話が、実は相手の (倫理的・道徳的) 信念の吟味という、「エレンコス」の中にあること。それゆえまた、ソクラテスが求めるべきだと勧告する「知」の概念を明らかにすると同時に、それが何よりもまずカリクレスのものであることを証すことを目指す。
  • 松浦 明宏
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 185-194
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    Plato distinguishes two uses of “is” in the Sophist 255c-d (kath' hauto, pros allo). This distinction is closely related to the “is” used in the two methods of Dialectic, i. e., the Collection and the Division. As for the Collection, “einai mian en hapasi” is used kath' hauto, and as for the Division, “einai syngenes” is used pros allo. For, the latter is used in the scene of relation of one thing to another, but the former is not used in such a context. Besides, it is important for us to pay attention to the fact that these two methods are the two aspects of the same method, i. e., Dialectic. So, we can conclude that the distinction is the distinction between the two modes of understanding (relation and non-relation) about the same “is” in the scene of the use of ordinary language.
  • 上田 慎一
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 195-203
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/01/20
    ジャーナル フリー
    ストア派にほぼ固有の概念である「正当行為(katorthoma;recta facta etc.)」はその名の通り「正しい(orthos)行為」ということであるが、差し当たり正しいだけの「適宜行為(kathekon;officium)」とは異なる「完全に正しい行為(kathekon teleiothen;perfectum officium Stob., Ecl. 2. 86. 10=SVF.3. 499; Cicero, Fin. 3. 17. 59 etc.)」である。両者の「差異」はしばしば論じられてきたが、正当行為そのものの実態は実はそれほど明白にされたとは言い難い。その原因は、一つには、正当行為は無論理想的な行為であり、当然それをなせるのも賢者(sophos;sapiens)という非常に稀で謎めいた理想的人物だけとされることにもよる。しかし、問題を賢者に押し込んで済ますことは避けたい。ストア派の理論を不明瞭なまま放置し、「結局賢者論に終始する空しい理想論」といった批判に屈することにもなるからである。当論は理想の行為としての正当行為の実態を解明することでストア派の理論をより明確にし、さらにその際に賢者を無為な者や必要以上に超然とした者にしないことを目的としている。
    また、差し当たりここでは正当行為の「道徳的に正しい理由、動機からなされた」という側面は積極的な追求を意図的に避けられる。この側面の意義を全く否定したり、全く考慮しなくてもよいとするものではないが、それだけに集中することは正当行為の理解をむしろ妨げることになり、実際そうであったと思われるからである。ここでは、むしろ正当行為のいわば論理的な側面を追求する。手順としてはまず、適法行為として正当行為を理解する方向付けをし、その適法ということの構造のある側面に焦点を当て、さらにそれを二つの問題に即して解きほぐしていく。
  • 山根 雄一郎
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 204-214
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    本稿は、カントの論文『純粋理性の一切の新批判は旧批判によって無用とされる筈だ、との発見に関して』 (一七九〇年。以下『駁論』) に現れる「根源的獲得ursprüngliche Erwerbung」なる概念に着目すること (II) を触媒として「生得的angeboren」の概念のカント哲学内部での変容の実態を剔抉し (III) 、そこに浮き彫りにされる同哲学の特質の一端を開示しようとする (IV) ものである。まず、こうした問題設定のそもそもの意義を証すべく、近年のカント研究では注視されることが決して多くはなかったと思われる「生得的」の概念が、過去の研究史においては実は少なからず問題含みなものとして受け止められてきたこと-それも批判哲学の全体系を牽引する根本概念のひとつである「ア・プリオリ」の概念との関わりで-をやや立ち入って指摘し、併せて研究史上における本稿の位置付けを試みること (I) から考察を開始する。
  • J・H・ニューマンにおける確実性の探求
    徳永 有美
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 215-224
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    In his Grammar of Assent, John Henry Newman makes a new philosophical approach to the problem of the rationality of faith. Against the traditional empiricist epistemology, he introduces a brand-new concept of the certainty or knowledge which constitutes the basis of our belief system. Those basic beliefs which Newman calls “certitudes” are converging results from a cumulation of probabilities. They are personal as well as practical, but never arbitrary. He lays the foundation for his concept of personal certainty on his “illative sense”, which he has learned from Aristotle's practical knowledge, phronesis. Newman points out that there is no code or science in concrete matters of our life.
  • 三平 正明
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 225-233
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    数学は通常の生活の場面でも、また他の科学に対しても様々な仕方で応用される。この事実を謎としてしまうような数学の哲学が、哲学的な考察として不十分であるのは、明らかである。だが、この事実の説明がどれほど困難な問題であるにしても、そうした説明の点で最も見込みがないと自然に感じられるような一つの哲学的な立場が存在する。それは「プラトニズム」と呼ばれる立場である。この立場によれば、数学は、時空上に位置せず、また因果的な関係に立たないある種の抽象的対象を扱い、それらの性質や関係を記述するとされる。あからさまに言えば、数学的対象からなる一つの領域が存在して、その領域は、我々の経験する世界からは隔絶した一つの世界を構成することになる。しかし、もし数学が経験的な世界に属さない領域を記述するものならば、そのような記述がどうして経験的世界について適用できるのだろうか。超経験的世界でどんな事柄が成り立つとされるにせよ、それは経験的世界とは全く無関係だろう。
    『算術の基本法則』で、フレーゲは、基数の理論 (自然数および最初の超限基数Endlosを含む) と、実数の理論 (パラドックスの出現のために未完) -もしかするとさらに複素数の理論-を、概念記法を用いて構成しようと試みた。このような数についてのフレーゲの哲学的な立場は、典型的なプラトニズムと考えられている。フレーゲによれば、たしかに、算術が扱うとされるものは、知覚によっては与えられず、また、そもそも時空上に位置づけることができない。しかし、これが意味するのは、数は存在しないということではなく、それが時空的な対象ではないということにすぎない。算術が扱う対象は、「客観的であって、現実的ならざるものの領域」 (GGA I xviii) に属しているのである。
    だが、フレーゲのこのようなプラトニズムは、やはり、数学の応用を全くの謎としてしまうのではないだろうか。フレーゲは、「我々が数についてのいかなる直観もしくは表象も持つことができないとすれば、数はいったいどのようにして我々に与えられるのか」 (GL§62) という問題に取り組んでいる。フレーゲの意図は、この問題を解決することによって、直観や表象を持ちえない数のような対象-抽象的対象の存在を擁護することにあったと考えられる。しかし、もし擁護が目指される見方が算術の応用可能性を謎にしてしまうとすれば、こうした見方は、結局は適当なものではないということになるだろう。本論文の目標は、数論の形式的な構成に先立ってフレーゲが与えた哲学的な議論を取り上げて、こうした疑念がフレーゲのプラトニズムにとって本当に成り立つのかどうかを考察することにある。
  • 永野 拓也
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 234-243
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    ベルクソン哲学において、人間の労働 (travail) とは、道具を作ること、すなわち、知性 (intelligence) と不可分な製作行為 (fabrication) であり、人間の労働の価値についての探求は、この製作行為をめぐってなされる。とはいえベルクソンは、最初から製作行為の価値を考察するのでなく、存在論的な観点に立ち、経験に基づいて、製作行為の存在理由を探るところから始める (『創造的進化』) 。こうした存在論的探求を踏まえて、『道徳と宗教の二源泉』 (以下『二源泉』) は、製作行為を、その極限的な形態である機械産業 (machinisme) として捉え、製作行為の存在理由そのもののうちに、今度は価値と呼べるものを求めるのである。ここに見られるような探求の性格、すなわち、知性的な思索においてでなく、経験に基づく存在論を足掛かりとして、価値論的問題を探るという仕方は、ベルクソン哲学の本質的な一側面である。こうした本質的な側面は、知性と不可分であると理解される製作行為が主題であるからこそ、特に明確に現われると思われる。知性と制作行為の関係を確認した上で、ベルクソン哲学における制作行為の価値づけを、さらに子細に検討することが重要であろう。以下の二つの観点を中心に、この問題の検討を行いたい。
    一、ベルクソンの哲学において、知性はいかに純粋な認識能力としての地位を失い、労働との関わりの中で新たな地位を得るか。
    二、『創造的進化』、および『二源泉』における、人間の労働の存在理由とはいかなるものか
  • 現象学的方法との関連性
    堀 栄造
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 244-252
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    本稿は、一九〇六年のフッサールの未公開の遺稿AVIlと一九〇七年のフッサールのホフマンスタール宛ての書簡に基づいて、一九〇六年頃のフッサールの美学がどのようなものであったのかを、そして、その美学がフッサールの現象学的方法とどのように密接に関連していたのかを、解明しようとするものである。
    一九〇六年から一九〇七年にかけてのフッサールは、信奉者たちやホフマンスタールとの交流を通じて、美学的問題に大きな関心を寄せている。例えば、一九〇六年四月一七日には、ダウベルトとフィッシャー博士がゲッチンゲンのフッサールを訪問し、「美的客観性」をめぐって会談しているが、その会談は、取るに足りないとは言えぬ深化と先鋭化を生み出したのだった。また、一九〇六年一二月六日には、ホフマンスタールがゲッチンゲンのフッサールを訪問し、一九〇七年一月一二日には、フッサールは、「現象学的観取と美学的観取」に関するホフマンスタール宛ての書簡を書いている。
    それでは、その当時のフッサールにとって、何が問題だったのか。それは、「主観的体験の中でのみ遂行されるにもかかわらず、即自的に存在する客観性を把握する認識、の可能性という、底知れぬ問題」だったのである。われわれの認識は、主観的体験の中で遂行されるにもかかわらず、認識対象は、主観的体験の外にある「即自的に存在する客観性」であり、それは、主観的体験には到達しえない「超越的な現存[transzendenteExistenzen]」である。それは、通常われわれが認識していると素朴に思い込んでいる「現実」であるが、フッサールが前掲の「底知れぬ問題」に気づくやいなや、それは、「僣称された現実[prätendierte Wirklichkeit]」へ一変する。われわれが素朴に信じている「現実」は、フッサールにとって、もはや「真の現実」ではなくなるのである。
    「底知れぬ問題」と苦闘していたフッサールは、一九〇七年一月一二日付けのホフマンスタール宛ての書簡の中で、次のように述べている。すなわち、長い間求められていた諸々の思想的総合が、天から降って来たように、突然、私に与えられた。私は、それらを、即座に、書き留めなければならなかった、と。ここで言われている「諸々の思想的総合」とは、「現象学的方法」のことに違いない。そして、「現象学的方法」つまり「現象学的還元」は、「僣称された現実」に代わる「真の現実」を、「即自的に存在する客観性」に代わる「現象学的な本質的客観性」を、捉えるのである。
    「現象学的還元」という「現象学的方法」を着想するこの頃のフッサールが、美学的問題に大きな関心を寄せたのも、実は、「即自的に存在する客観性」としての「実在的客観性」と、「本質的客観性」としての「美的客観性」との問題を、めぐってのことである。そこで、さっそく、次の第一節において、「像芸術」と「純粋空想芸術」とのフッサールによる対比を通して、この問題を究明しなければならない。
  • フッサールにおける身体構成
    北野 孝志
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 253-262
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/01/20
    ジャーナル フリー
    本論の目的は、他者理解のあり方を理論的に考える際に我々が陥る困難の根拠となるものをフッサールの議論を手がかりに提示するとともに、それが何を示しているのかを明らかにすることである。そのことはまた、自己理解の在り方に関しても新たな捉え直しを迫るものとなるであろう。
    さて、我々は、「あの人の気持ちがよく分かる」とか「他人の気持ちなんて分からない」とかいう表現を日常的に使う。しかし、このような他者理解の問題を理論的に考えようとすると、ある種の困難に陥る。というのは、どのような事態に達した時にその他者を理解したことになるのか、さらにはそれを確かめる方法はどこにあるのかを考えることは容易ではないからである。例えば、類推や感情移入といったものを介して他者理解をしようとしても、その理解の正しさを保証するに十分なものはなく、かと言って他者理解はそもそも不可能であると言ってみても、その他者理解を保証できるものがないから不可能であると言っているに過ぎず、何の解決にもならない。このように、他者理解の問題を理論的に考えようとすれば、その可能性について何ら確実なことが言えないままに、相反する見解へと分かれざるをえないのである。
    しかし、この他者理解の問題に対する一見対立するようにみえる二つの立場が、一方は肯定的、他方は否定的な立場であるが、それにも関わらずある前提を共有しているように思われるのである。それは、私は自分の心については確実に知っており、今ここにある身体に属している私が、この身体の外に位置している別の身体に属している他者の心を理解する可能性を問うという問いの立て方である。
    私 (の意識、心) が今ここにあるこの身体に属していることは疑いようのない事実のように思われる。しかし、一見自明に見えるこの事態を無条件に前提することが、この困難を招来しているように思われるのである。
    そして、この問題に対して考える手がかりを、それを意図していたかはともかくとして、フッサールが与えてくれているように思われる。では、実際にフッサールの議論をみていくことにしよう。
  • ベンヤミンとハイデガーの歴史についての思考
    柿木 伸之
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 263-273
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/01/20
    ジャーナル フリー
    二つの世界大戦の狭間で、歴史に関する二つの哲学的な理論がほぼ踵を接して構想されていた。人間存在の歴史性を論じたハイデガーの『存在と時間』 (一九二七年) が公刊されたのと同じ頃、ベンヤミンは、未完に終わった『パサージュ論』のための最初の草稿 (一九二七-二九年) を書き始めているのである。この草稿のなかには、歴史哲学についてのいくつかの覚え書きが含まれている。この歴史哲学が後に、彼の絶筆となった『歴史の概念について』に結晶することになるのである。
    ベンヤミンは、自らの歴史哲学に関する理論的考察を、パリのパサージュから「十九世紀の根源史」 (Urgeschichte) を引き出すべき著作の序論をなすものと考えていたようである。ゲルショム・ショーレムに宛てた書簡 (一九三〇年一月二〇日) において、彼は構想中の『パサージュ論』について、「認識論に関する序論なしですませることはできないだろう」と述べている。「今回それはとくに歴史の認識論に関するものでなくてはなるまい。」『パサージュ論』は、この「歴史の認識論」を提示する序論をもたなければならないというのである。ベンヤミンはさらに同じ書簡で、「歴史の認識論」の形成にあたって、ハイデガーとの対決が不可避であることを示唆している。「そこで私は途上にハイデガーを見いだすことだろう。そして私は、私たち二人のきわめて異なった歴史の見方の衝突から、何か火花が飛び散るのを期待している。」 -(V 1094) 二人の対決-このテクストという舞台の上で繰り広げられることのなかった対決が火花を散らすものであるのは、二人が対立しあう思考を同じ焦点に集中させているときであろう。ここで私は、まず彼らの思考が集中する一点を探り当て、そしてそこでせめぎあうベンヤミンとハイデガーの歴史についての思考のコントラストを描き出してみたい。それを通じて、ハイデガーが『存在と時間』の時期に語る歴史理解の構造としての「歴史性」とともに、ベンヤミンの歴史哲学の一端を浮き彫りにすることができればと思う。
  • 武内 大
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 274-283
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    フッサール、ハイデガーという現象学運動の二大巨匠の狭間にあって、オイゲン・フィンクが独自の立場として標榜するに至った、いわゆる「コスモロギー」の構想は、「世界論」、「遊戯論」という二つの柱によって支えられている。これら二つの問題群を、とりわけフィンクが博士論文執筆以来温存し続けてきたモチーフでもある「像論」という問題射程から照らし出すこと、これが本論文の課題である。
  • ドウルーズにおける一義性の哲学の問題構制について
    江川 隆男
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 284-293
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2010/05/07
    ジャーナル フリー
    Il y a, d'après Deleuze, trois moments principaux de l'univocité de l'être dans l'histoire de la philosophie : l'être univoque comme être neutre chez Duns Scot, celui comme substance infinie chez Spinoza, et celui comme éternel retour chez Nietzsche. Or, si nous présupposons la philosophie transcendantale singulière de Deleuze, il serait permis de considérer ces moments comme passage des définitions nominales de l'univocité de l'être à ses définitions réelles. Les définitions réelles sont génétiques : elles doivent énoncer la cause de l'objet tel qu'il est défini, c'est-á-dire ses élé ments géniques. Dans lunivocité de l'être sur laquelle Deleuze insiste en évoquant léternel retour, si <<l'Être se dit en un seul et même sens de tout ce dont il se dit>>, c'est que cet l'étre univoque consiste à l'origine en tout ce dont l'étre se dit. Donc l'Étre est défini génétiquement par tout ce dont il se dit, à condition que il se dit en un seul et même sens seulement de la différence, ou surtout du devenir.
  • ファン・フラーセンに対する反論の試み
    鈴木 聡
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 294-304
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
    Among methods for representing our belief states and belief changes, Bayesianism is one of the most popular methods. Bayesianism has two features :
    1. Our rational belief states can be represented by probability functions.
    2. Our rational belief changes can be represented by the conditionalization of probability functions.
    We can derive conditionalization from the more general principle. It is the Principle of Minimum Relative Information (PMRI). Van Fraassen shows that PMRI is inadequate as a method of rational belief changes because it doesn't give a rational solution to JB problem. On the contrary to his argument, I will prove that PMRI can give a rational solution to JB problem.
  • 渡邊 二郎
    1999 年 1999 巻 50 号 p. 305-310
    発行日: 1999/05/01
    公開日: 2009/07/23
    ジャーナル フリー
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