地域の計画にあたっては, それは何よりも, そこに住む人びとのための計画でなければならない, ということは自明の理である。しかし, 実際にはそれ程すんなりと, そのようにいくとは限っていないのではないだろうか。それはこの計画が, 自然発生的なものではないということにある。それは多かれ少かれ人為的なものであり, 技術をともなうものである。更には, これが科学的でなければならないとさえいわれているからでもある。なお, この科学が近代科学によってすすめられるときにおいてである。そして, その対象としてのここに住む人びとは, 人それぞれの生きざまにおいて, 生活しているということからである。
そこで大事なことは, やはりここに住む人びとが, その日その日に生きているという現実に直面して, その要望のよりどころをにない, よりよい生活がもたらされ, 自我の形成が満たされるように, 配慮されなければならないということである。このようにしてはじめて, 地域計画というものの理念の所在が見出せるということを, 明らかにしておく必要があろう。
地域計画とは, という科学的な定義づけをする前に, それぞれの地域に, 人びとが住んでいるという現象認識から発足すべきである。それは為政の事情がどうであろうとも, 国家的おもわくがあろうとも, 地域居住の実態を直視して把握されなければならない。ひとときも静止できないのが人間の生命そのものであり, 日常性というのは日々のこの営みのいいである。だから, この営みを重じていくという視点をみつめることなしには, 生活をよりよくしていく術はないのであろう。
それは恐らくは, 一人ひとりにとっての創造性を志向するということであり, 或は人間形成という言葉におきかえてもよいであろうか, なぜならその人にとって, その瞬時, 瞬時がその所における, かけがえのない生存を意味するからである。それぞれが, 自分としての所在をこの世に問うことによって, ここに生きているとの自覚が得られるからである。これを死と直面しての生としてみるときは, 近年問題にされてきた生命論の課題にも通じ, 人間の価値観にもかかわる命題をもっているともみられよう。生き甲斐とは, ここに得られるのではないだろうか。
ここではまた, 自分だけの生活というものではなく, 地縁的な人びととのかかわりによってはじめて, 自分のものとしての自己認知が出来るという境地を生み出すものである。そして, それが人びととの間柄とともに, 自然現象とのかかわりにおいてもみなければならないものとなる。人の生活とこれを支える物との間に生じる, 環境としての生態系が問題となるところである。
このような人間性を内在する生活にとりくむことなしの計画や, ここに理念の基盤をおくことなしのどんなすぐれた思考も, どんな精致をきわめる解析も, とかくその時代の権力や, 風潮等による理由づけによって, 歪をもたらされる恐れなしとしないのである。それほどまでに現実は, 人間を疎外する要因や仕組等に満ちている。また, これを是正すべき学問的把握においてさえも, 近代科学は細分化され, ひたすら専問化の一途を進み, 科学の為の科学としての権威のじよう成を期している。この為に, 人びとに生き方を教えてくれるものとは次第に遠ざかり, 知的な為の知的なものとして, ひとり歩きを可能にするに至っている。ここに計画という行動態においては, 理念の如何が問題となるゆえんである。
ただ, ここに理念というも, それは観念的にその絶対性をみるのではなく, 具体的な生活実態においての相対的ともみられるものである。そして, つねに変容を内包しているものである。地域計画における理念とは, 正にこのようなもので, 人間の形成過程として, 変容において展開するものとして把握されなければならないであろう。このことは地域計画そのものが, その地域としての実在を環境として, ここに住む人びとの生活に対しての“くわだて”として, 行為的なものであることを示している。これより理念そのものも, 創造性をもつ質的な素因をもつものとみることが出来る。
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