スポーツ社会学研究
Online ISSN : 2185-8691
Print ISSN : 0919-2751
ISSN-L : 0919-2751
26 巻 , 1 号
サッカーワールドカップをめぐって
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
特集のねらい
  • 有元 健
    2018 年 26 巻 1 号 p. 3-4
    発行日: 2018/03/30
    公開日: 2019/03/30
    ジャーナル フリー
  • ―フランス代表を通して考える二十年―
    陣野 俊史
    2018 年 26 巻 1 号 p. 15-28
    発行日: 2018/03/30
    公開日: 2019/03/30
    ジャーナル フリー
     現代のフットボールは、試合スケジュールや選手の活動のあらゆる領域にまでスポンサーの統治の力が浸透している文化現象である。しかし他方でそれは、その時代の社会的諸問題を浮き彫りにするものでもある。本論は過去二十年のフランス代表チームを跡付けながらその社会的・歴史的背景を考察するとともにワールドカップというイヴェントがいかに解釈できるのかを論じる。1998年大会、社会的に移民規制が高まる中でのフランスの優勝は「統合」の機運を生み出した。様々なキャリアと人種の選手の集合体こそがフランス代表だった。そこではワールドカップは刹那的ではあるが統合の夢を生み出しうるものだった。だが2000 年代以降のフランス代表が露呈したのは分断の線であった。適度に貧しいという均質化した環境から代表選手を目指すプロセスの共通性は、ジダンの時代にはあったが、ドラソーの頃には消え失せていた。郊外の中でもとりわけ治安に問題のある地域「シテ」に出自を持つ選手たちと社会的エリート階層出身の選手たちとの間にある亀裂は、社会的分裂の象徴だった。その問題が大きく顕在化したのが、2010 年南アフリカ大会である。そのときワールドカップは、そうした問題を世界に向けてあからさまな形で発信するイヴェントとなった。人種的統合/排除、階層的分断といった問題だけでなく、フランスにとってワールドカップは過去の植民地問題があらためて交渉される場としての可能性を持つものでもある。2014 年大会では旧宗主国フランスと旧植民地アルジェリアの試合が実現する可能性があった。二つの国の人種・政治・差別の問題が複雑に絡まり合い「親善試合」が期待できない状況で、2014 年のアルジェリアの健闘は貴重な機会だった。旧宗主国と旧植民地の間の複雑な歴史を露呈させ、そのうえでそうしたいっさいを配慮せずに試合を実現できるのも、ワールドカップのもつ可能性である。
  • ―W杯・代表・セレブリティ―
    吳 炫錫
    2018 年 26 巻 1 号 p. 29-41
    発行日: 2018/03/30
    公開日: 2019/03/30
    ジャーナル フリー
     本稿は、戦後韓国の社会でサッカーを通じ、どのようなナショナルな言説が構築してきたのかを検討したものである。戦後、韓国の社会でのナショナルな言説の特徴は、北朝鮮に対する敵対感の表出である「反共ナショナリズム」、植民地経験による日本に対する敵対感から構築された「反日ナショナリズム」と言える。このようなナショナリズムは、サッカーにもそのまま反映されており、サッカー中継の視聴を通じてナショナリズムの構築がなされてきた。しかし、2002 年W 杯以後にはサッカーを通じるナショナルな言説が大きく変化してきた。これは、既存のサッカーを通じて構築されるという単純なイデオロギー的機能ではなく、消費社会の到来と多様性に基づき、新な形態のナショナルが言説が構築されたのである。このような時代的な変化とともに、サッカーを通じた新な形態のナショナルな言説が構築された。それは、グローバリゼーションという時代的な流れとともに、サッカー選手個人がセレブリティ化されていくことである。すなわち、セレブリティに関する言説がナショナリズムの構築につながっている。本稿ではパク・チソンとソン・フンミンを中心にサッカー選手のセレブリティとナショナリズムとの関係について考察した。サッカー選手のセレブリティとナショナリズムとの関係において、新たな形態のナショナルな言説の生産、サッカーファンダム文化との節合、資本主義との交錯などが発生する。すなわち、サッカー選手のセレブリティ化は、より多様で、複雑な言説を生み出しており、そこではナショナリズムの変容が生じているのである。
原著論文
  • ―行為者の主体性との関連から―
    笠野 英弘
    2018 年 26 巻 1 号 p. 43-58
    発行日: 2018/03/30
    公開日: 2018/04/06
    [早期公開] 公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、制度論の限界を克服する主体的なスポーツ組織論の理論構成を提示し、その意義を論じることである。
     制度論では、スポーツ制度によって行為者の社会的性格が形成される論理が示されているが、そのスポーツ制度を形成・変革する主体がみえ難い。また、社会的性格形成過程における行為者の主体性の発揮を把握する枠組みも不足している。すなわち、スポーツ制度を形成・変革する主体と行為者の主体性を把捉する理論的枠組みの欠如が制度論における限界として捉えられる。
     そこで、制度論と主体的社会化論を援用しながら、スポーツ組織をスポーツ制度や行為者の社会的性格を形成・変革する積極的な主体として位置づけるとともに、行為者の主体性を把捉することが可能な主体的なスポーツ組織論の可能性を提示した。
     この主体的なスポーツ組織論においては、スポーツ組織と行為者の両者の主体性を把捉することが可能であり、また、マクロな視点とミクロな視点を包摂するメゾ的視点を提供する意義がある。
     主体的なスポーツ組織論では、愛好者の組織化が求められるこれからのスポーツ組織において、特に愛好者が主体性を発揮して積極的にスポーツ組織に働きかけると同時に、スポーツ組織も、登録者に限らず未登録者の要求を積極的に制度形成・改革に反映していく姿勢が求められる。
  • ―読売新聞を事例とした新聞メディアによる「日本人」らしさの再生産―
    宮澤 武
    2018 年 26 巻 1 号 p. 59-74
    発行日: 2018/03/30
    公開日: 2018/04/06
    [早期公開] 公開日: 2018/01/30
    ジャーナル フリー

     競争を基本原理とするスポーツにおいて、勝利することに多様な価値が付随し、「負け」はマイナスの側面しか持ち合わせないようにみえる。しかしながら、新聞等のメディアによって「負け」はプラスの価値を付与され取り上げられる。こうした矛盾ともいえる事態を解明するため、新聞記事が「負け」をどのように取り上げているかを分析し、なぜ「負け」にプラスの価値が付与されるのかを明らかにすることが本稿の目的である。

     本稿において分析対象とした記事は、戦後から現在(1946~2016年)までの読売新聞東京朝刊から、スポーツにおける「負け」を取り上げたものとした。国立国会図書館の新聞記事索引データベース「ヨミダス歴史館」と「日経テレコン21」を利用し、「負け」を見出し語に検索し、4,407件の記事を得た。スポーツにおける「負け」は批判すべきものか、もしくは称賛すべきものか、そして新聞記事において「負け」が批判および称賛される際、どのような側面に価値が見出され、語られているかに注目し、ドキュメント分析を用いて分析を進めた。

     分析の結果、闘志や根性などの“精神論”を「負け」と結びつける状況が読み取れた。こうした状況は、「負け」を捉える記事と「負け」を称賛する記事の両方にみられた。また、努力や鍛錬などの用語に象徴される「厳しい練習」を称えることで、「負け」をポジティブに語る状況が浮き彫りになった。こうした価値観の背景には何があるのかを、日本人のスポーツ観の特徴と関連づけて考察した。新聞記事においてそうした価値観を継続的に語ることには(a)日本人の伝統的アイデンティティを再生産する機能と、(b)競争社会において生産された敗者を救済する機能の2つがあるのではないかと考えられる。

feedback
Top