本稿の目的は、1933年から1937年までの日本におけるアメリカンフットボール(以下「フットボール」)を事例に、その中心的な活動主体だったアメリカからの日系二世留学生に焦点を当て、日本スポーツ外交史の一端を読み解くことである。
日本においてフットボールは1902年に初めて行われたが、競技の危険性などから、その後30年間は定着することがなかった。しかし、1933年に日系二世留学生によって始められた活動は、1934年の統括団体の結成と公式戦の開催、1935年の全米学生選抜の来日、1936年から1937年にかけての全日本選抜のアメリカ遠征など、数年の内に急速に展開し、現在の日本フットボール界の起源となった。
この背景には、1931年の満洲事変、1932年の上海事変と満洲国の建国、1933年の国際連盟脱退通告などを背景に、国際社会の中で進む日本の孤立化という時代状況があった。当時、日本の政府関係者や指導者層は、日本の正当性を国際社会に向けて喧伝する目的で、2つの手段に着目した。 第1は国際交流やスポーツ外交であり、第2は日系二世留学生である。スポーツに関しては1932年のロサンゼルスオリンピックの成功を受け、その外交的有用性が認知されていた。また、1931年の満洲事変を機に急増した日系二世留学生に対しては、日米の懸け橋というまなざしが向けられていた。これは、留学生が本国に帰った後、日本の立場を擁護する代弁者としての役割を果たすよう期待する考えである。
以上より、1933年から1937年までの日本において、フットボールの活動が急速に展開した要因は次の2点が考えられる。第1は、日米の懸け橋というまなざしを向けられていた日系二世留学生が中心的な活動主体であったこと、第2は日米親善を目的としたスポーツ外交が求められていたことである。このことは、1937年の日中戦争勃発を機に、日系二世留学生の数が減り始め、国際交流やスポーツ外交が沈静化すると同時に、フットボールの活動も停滞し始めることと無関係ではないだろう。
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