スポーツ社会学研究
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10 巻
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  • 日本スポーツ社会学会十周年記念座談会
    伊藤 公雄, 菊 幸一, 井上 俊, 池井 望, 佐伯年 詩雄, 森川 貞夫
    2002 年 10 巻 p. 1-15
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
  • 「調査する身体」を反芻する手がかりとして
    好井 裕明
    2002 年 10 巻 p. 16-25,132
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    フィールドワークなど, 実際に対象となる現実に研究者が出かけ調査する場合, 研究者がそこで他者と出会い, さまざまな反応をすることになる。そして研究者は, 当該の現実と出会い, 現実に影響を与えることなく, 現実から影響をうけることなく, いわば客観的にデータを収集し得る装置ではない。常に, 当該の現実, そこで出会う人々との相互行為が構築されるなかで調査という営みが創造されていく。こうした見方をとるとき, 研究者が呈示する「調査する身体」はそれ自体, 貴重な考察の対象となる。
    本稿では,「調査する身体」を反芻する手がかりとして,「こわばる」ということの意味を考えてみたい。わたし自身の差別問題をめぐる調査体験をふりかえることから, 場面状況に積極的に関与しようとすることから生じる。「こわばり」と場面状況から“適切な”距離を置いたり“適切な”役割を演じようとし, 結果的にはそこから撤退することになる「こわばり」という二つを例証する。いずれの場合にも, エスノメソドロジーが重要な社会学のトピックとして呈示してきた「カテゴリー化」という問題が密接に関連していることがわかる。
    調査場面で他者とであうとき, 研究者の意識や身体が緊張することは, きわめて自然なことである。ただ, 研究者が対面する現実や他者との出会いに向き合うことがなく, 事前に想定した他者理解, 現実理解の「カテゴリー化」に囚われるとき, その調査実践自体は「こわばって」いく。
    「調査する身体」を反芻し解読する営みは, 単に調査方法論的な次元にとどまるものではなく, 個別テーマにも関連するし, 社会学的な実践それ自体を反省的に考察しうる重要な社会学的テーマなのである。
  • 野崎 武司
    2002 年 10 巻 p. 26-35,133
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本研究の目的は, 祝祭としての現代スポーツにおけるスポーツ観戦者たちの〈反-近代〉の局面の効果を明らかにすることである。〈反-近代〉とは, 間身体のパフォーマンスを通じて, 新たなる眼差しが産出される機制として定義された。現代における祝祭としてのスポーツは, 大きなサイズの諸身体を熱狂へ動員する装置として機能している。スポーツ観戦者たちの身体体験は, それ固有の政治性と関連しているに違いない。
    国民国家で構成されている現在の社会は, グロバリゼーションの潮流に逆らいつつ, 想像の政治的共同体であり続けている。その産出を続けているのは, 祝祭における半ば呪術的な〈反-近代〉の体験である。いかなるアイデンティティ (例えば, 国民性) も, 彼にとっては先験的選択として与えられる。自らの主観性=主体性と世界地平を選び取ることのできるものはいない。主な結果は以下の通りである。
    1) 祝祭における熱狂は, 間身体のパフォーマンスを通じて, 観戦者たちの身体に, 国民性にまつわる規範を配備する。その規範は, 時に, 異邦人に関する発話をその内奥から断ち切ってしまう。
    2) '98年 W-cup サッカーフランス大会は, 移民選手の大活躍でフランス国民の国民性を再編成したように考えられる。ゲームでの熱狂は, 彼らの身体の国民性に関する規範を書き換えるのである。
    3) われわれは,「私達」と「彼ら」を明確に区分する規範を, 深い身体的実感とともに, 身に宿している。そうした規範に編成された時空のなかに生きているのである。祝祭での熱狂は, 新たな世界地平を産出する反面, 別な形の差別を構成してしまう。
  • 特に芸道に注目して
    迫 俊道
    2002 年 10 巻 p. 36-48,134
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    チクセントミハイは, 日本の伝統的な文化活動においてフロー状態が生まれる例として, 茶道や弓道などの芸道をあげている。しかし, 日本の伝統的身体技法におけるフロー体験に関する研究は, これまでほとんど行われてきていない。
    本稿の目的は, スポーツにおけるフロー状態の特質と比較考察することにより, 日本の伝統的身体技法におけるフロー体験の特質を明らかにすることにある。その際, アフォーダンス理論やボルグマンの「命じてくる実在」対「思いどおりになる実在」といった観点を援用する。
    チクセントミハイが考案したフローモデルによると, 行為者の能力が行為の機会とバランスがよく取れている時, フロー状態が生じる。しかし, チクセントミハイ自身が気づいているように, こうしたフロー体験には,「環境を支配する能力」と「支配感などどうでもよくなる感じ」が知覚されるというパラドクスが認められる。一方, 日本の芸道においては,「環境に対する支配」ではなく,「支配が消失する状態」の生成こそが初めから目指されていると言えよう。こうした芸道の特徴は, 知覚と行為の協応関係を主題化した「アフォーダンス」理論や, 活動的な関わりを人に課してくる実在の非妥協的な側面に光を当てたボルグマンの「命じてくる実在」概念により, その意義がより明確に把握されうるだろう。
    いわゆる「無心」,「無我」の境を目指す日本の芸道の特質は, 実在の命じるところに細心の注意を向けつつ, 環境との一体化 (フロー), つまり, 行為的身体と環境との間の理想的な協応関係の到来をひたすら「待つ」修練の過程にあると言えよう。
  • 身体の社会性の実相について
    瀬尾 恭子
    2002 年 10 巻 p. 49-59,135
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は, 人間の身体の社会性を生きられる経験からとらえつつ, それと他者 (外部) との相互作用の様態を明らかにしていこうとするものであり, それらをコンテンポラリー・ダンス「作品」の「作品以前」のプロセス, つまり「作品」の制作過程におけるコリオグラファーとダンサーの相互作用のなかに見出そうとするものである。対象は1999年6月から2000年10月の期間に筆者が実際にコリオグラファーとして制作した二作品の制作過程であり, その直接的な経験の具体的な記述を試みている。
    (1) 作品の構想を共有し, コリオグラファーの提示する動きやたとえとして発することばを頼りにしながらダンサーが動きを創出していくこと
    (2) 創出された動きは, ダンサーがそれを自動化していくプロセスにおいて意味を剥奪され, 純粋な動きになることで多様な表現の可能性に開かれていくことを分析した。
    以上のことから, ダンサーの動きのなかに, コリオグラファーが抱く作品の構想, 動きのモチーフと, コリオグラファーのことばから想起されるダンサー自身の経験に根ざしたイメージの絡まり合いのなかに, 両者の相互作用がみてとれる。また, そのとき身体はコリオグラファーとダンサーとの生きられる関係のなかにあることで, あるひとつの固定的な意味のなかにとどまることを拒否し, 生成の過程であり続ける。このような生成の過程は, 身体がもつ社会性の一つの実相として捉えることができる。
  • 帝国大学ボート部の歴史社会学的研究から
    石坂 友司
    2002 年 10 巻 p. 60-71,136
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は,「学歴社会」における運動部の社会的意味を描くことである。明治時代中期に, スポーツはもっぱら将来のエリートたる高等教育機関の学生達によって行われていた。特に, ボート競技は当時最も人気を博したスポーツであった。戦前, 我が国の教育システムの中で最高権威を誇った帝国大学は, そのような活動の中心的存在であった。従って, 我が国のスポーツ文化の総体を理解するために, そこで行われたボート競技がどのような意味をもっていたのかについて考える必要があるだろう。
    本稿は, 帝国大学生がボートを漕ぐ実践を把握するために, 文化的再生産論の視角から以下のような考察を試みた。
    第一に, 帝国大学でボートを漕ぐことは, 他者とは異なる卓越した文化資本, 身体資本を獲得する「文化の正統性」をめぐる闘争としてとらえなおすことができる。結果として, それが階級の再生産につながっていくことを論じた。
    第二に, 帝国大学や一高における運動部, 特にボート部の学校内での覇権が応援の加熱やバーバリズムの結果として失われていく過程を示唆した。
    以上のように, 本稿はこれまであまり注目されてこなかったボート部に焦点を当て,「スポーツの文化性」をめぐる議論を, スポーツ社会学のみならず, 社会学や歴史学との接合から問いなおす試みである。
  • 中山 健, 川西 正志, 守能 信次
    2002 年 10 巻 p. 72-85,137
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    身体活動への参加が高齢者に身体的、社会的、心理的な利益をもたらすことが先行研究において報告されてきた。しかし、高齢者の多くが身体的に不活発である。近年、身体活動実施者を増加するために、身体活動実施に対する社会的支援と社会的ネットワークが注目を集めている。そこで本研究では社会的支援と社会的ネットワークとが高齢者の身体活動へ与える影響を明らかにすることを目的とした。
    本研究のデータは神奈川県藤沢市の3施設に通う60歳以上の来館者304名から得た。検証的因子分析とパス解析の結果、以下のことが明らかとなった。
    1) 高齢者の身体活動実施に対する社会的支援は、従来の社会的支援に関する研究で扱われてきた人的支援のみではなく、情報支援、施設・プログラム支援、アクセス支援の4因子で構成された。
    2) 社会的ネットワークの規模および社会的ネットワーク内での接触頻度は男性に比べ女性の方が大きく活発であった。
    3) 身体活動において活発な女性高齢者の身体活動実施に有意な影響を与えた社会的支援は情報に関する支援であった。
    4) 男女ともに社会的ネットワーク内での接触頻度が身体活動実施に影響を与えていた。
    5) 男性では健康意識が、また女性では年齢、健康意識そして情報支援が社会的ネットワーク内での接触頻度に有意な影響を与え、性差がみられた。
    今後の研究において、高齢者の身体活動実施レベルに応じた効果的な介入を行なうために社会的支援や社会的ネットワーク機能を測定する尺度開発の必要性が示唆された。
  • 韓国・済州島のゴルフ場開発の事例から
    鄭 守皓
    2002 年 10 巻 p. 86-100,138
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は, 韓国・済州島におけるスポーツ開発の事例を通して, 地域の内発性 (=伝統の再創造) を居住する生活者間の相互・緊張関係に基づく日常生活から探り出す。それを通じてスポーツ開発と地域の内発性とのかかわりに関する論理展開を深化する手掛かりとしたい。
    1960年以降, 現在に至るまで約35年間, レジャー・観光開発を軸にした「本土化」政策によって済州島の景観は一変した。地域に居住する生活者の意思が及ばない構造的要因によって済州島人は急変な地域変動を経験することとなった。近年, 中央主導の「本土化」政策への見直し気運がおこり, 済州島の地域振興策として登場したのがゴルフ場開発である。中央政府によって一旦決定した事業は覆ることなく地域に具体化されるという韓国の政策決定過程に対して, 地域の内発性は国家プロジックトとしてのゴルフ場開発へ異議を申し立て, その開発を阻止しようとした。
    本稿では, 国家の政策的意図に基づくゴルフ場開発と地域に居住する生活者の暮らしとの隔りを明らかにする。そして, その開発に対立する地域の内発性への理解を深めるため, 国家権力に時に敢然と立ち向かい, 時に変容しつつ彼らの「生活の論理」の中に埋め込まれている生活者の内発性のありようを示す。地域の内発性を生活者の日常生活から探る作業は,「内発的発展論」に基づく事例研究の貧困という課題に対する問題解明とともに, 一つの実践例を提示することである。
  • 「学歴社会」と「戦略」の間
    金 大勲
    2002 年 10 巻 p. 101-114,139
    発行日: 2002/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本研究は, 韓国の元トップ・アスリートにインタビュー調査を行い,「競技キャリア」や体育特待生制度によって獲得した「学歴」が競技引退後に韓国の社会でどのような受け入れられていくのかを調査した研究である。
    その結果によると,
    (1) 韓国の競技スポーツが世界でスポーツ強国といえるまでに著しい成果を上げた一番の要因が体育特待生制度であり, その制度は学歴志向の韓国社会の大きな動きと連動したものであった。
    (2) 体育特待生制度を利用して大学まで進学し, かつ競技でよい成績をおさめた人でも, その「競技キャリア」およびそれに随伴する「学歴」がそのまま引退後の生活にうまく生かされることは少なく, 自身の「戦略」的な選択が必要とされる。また, 競技キャリアが引退後の社会活動に役立つのは, オリンピック入賞レベルの競技者が有利な状況であった。
    国家やスポーツ関係者は, 個人の競技者がスポーツを通じて蓄積したキャリアをどの社会分野に活用できるかについて検討すべきであり, そういったことを可能にさせる制度的な支援対策を講じるべきである。
  • 2002 年 10 巻 p. 147
    発行日: 2002年
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
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