スポーツ社会学研究
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26 巻, 2 号
選択された号の論文の5件中1~5を表示しています
特集のねらい
原著論文
  • 柏原 全孝
    原稿種別: 研究論文
    2018 年 26 巻 2 号 p. 9-23
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2019/09/30
    ジャーナル フリー
     本稿は、2006 年にプロテニスのツアーに登場した判定テクノロジー、ホークアイの社会学的含意を考察するものである。ホークアイは、それ自身が審判に代わって判定を下す点、および判定根拠となる映像を自ら作成して示す点で画期的なテクノロジーである。しかし、それは一種のフェティシズムを引き起こす。ホークアイには不可避の誤差があることが知られているが、にもかかわらず、あたかも無謬であるかのように取り違えられ、その無謬性によって礼賛される。誤差をもっともよく認識している開発元でさえ、このフェティシズムに取り込まれてしまう。この事態が引き起こされるのは、ホークアイが動画であることが大きい。本来、判定のためにはボール落下痕とラインの関係が明示された2Dの静止画で十分なはずだが、ホークアイは3D動画に編集された映像を見せることによって、自らの圧倒的な力、すなわち、すべてを見る力を誇示する。そして、われわれはその動画を見ることを通じて、正しい判定への期待を満たしつつ、ホークアイの判定を進んで受け入れていく。こうしてフェティシズムに囚われたわれわれはホークアイがあれば誤審が起きないと信じるわけだが、ここには明らかな欺瞞がある。なぜなら、ホークアイは誤審を不可視化しただけだからだ。
     なぜ、ホークアイやそれに類する判定テクノロジーが広がっていくのか。それは、勝負として決着を目指す有限のゲームとしてのスポーツが、テレビとの出会いによって、その有限のゲーム性を強化されたからである。その出会いは、放映権を生み出し、広告費を集め、スポーツを巨大ビジネスに仕立て上げた。その関係を支え、加速させるのがホークアイやその他の視覚的な判定テクノロジーである。スポーツのもう一つの側面、決着を先送りし続ける無限のゲームとしての側面は、こうした趨勢の前に後景へと退却している。
  • ―サーカス・パフォーマーの生ける身体のエメルジオンを捉える―
    アンドリュー・ ベルナール, 倉島 哲
    原稿種別: 研究論文
    2018 年 26 巻 2 号 p. 25-53
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2019/09/30
    ジャーナル フリー
     サーカス・パフォーマーの運動をコントロールするのは誰なのだろうか。空中のアクロバットは、無意識のうちに全身を協調させることで、パートナーに掴んでもらうべく正確に手を伸ばすことができるが、これは周辺視野にかすかに捉えた情報だけを頼りに行われている。そのうえ、視覚それ自体も、意識的にコントロールされるのではない。アクロバットは、意思によらずに視線を導き、パートナーとの視線の相互的なコンタクトを運動中も維持しつづけることができるからである。
     両眼をも含めた全身の高度な協調が意識なしに可能なのは、生ける身体(living body, corps vivant)のおかげである。前意識的かつ前運動的な生ける身体は、刻々と変化する状況にエコロジカルに適応するために必要な判断を瞬間的に下してくれる。だが、こうした判断は、脳の活性化(activation)と意識によるその知覚を隔てる450ミリ秒の遅延のために、つねに事後的にしか意識に上らない。それに加えて、主観的な身体イメージや、日常的な意識のフレームなどの要因も、生ける身体を見えにくくしている。
     われわれが2013年に開始したフランス国立サーカス芸術センター(CNAC)研究プログラムは、こうした困難を乗り越えるために、身体に取り付けたGoPro カメラ・GoPro 録画を用いた自己分析(self-confrontation)インタビュー・パフォーマーを巻き込んだ哲学ワークショップの開催などを含む様々な方法を用いた。そうすることで、パフォーマーたちの生ける身体が運動のさなかに無意識のうちに生成したものの意識への浮上、つまりエメルジオン(emersion, émersion)を捉えることができた。これを踏まえ、最後にエメルジオンの学としてのエメルシオロジー(emersiology)の可能性とその社会的含意を考察したい。
  • 大沼 義彦
    原稿種別: 研究論文
    2018 年 26 巻 2 号 p. 55-65
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2019/09/30
    ジャーナル フリー
     本稿は、自らが参加したマラソン大会の事例に基づき、ランナーが利用する自己モニタリング装置とそれがもたらす自己の変化、及び現代マラソン大会が提供する情報サービスから、スポーツにおけるモニタリングの意義と限界について考察するものである。
     まず、初心者ランナーのトレーニング期におけるモニタリング装置の利用を分析する。初心者ランナーがフルマラソン完走を果たす上で重要な役割を果たしたものにGPS付きランニングウォッチがある。これにより、走行ペース、運動負荷を内観できるようになり、フルマラソンは「配分のゲーム」と認識され、ゴール時刻の計算可能性が高まった。同時に疲労回復という観点から、サプリメントの摂取、トレーニング時刻の設定等、自身の生活全般を反省的にモニタリングし再編していくことになった。
     第二に、現代のマラソン大会そのものが巨大なモニタリング装置であることを分析する。ランナーは大会においてICチップを装着する。このICチップによる記録測定システムは、大会の規模拡大を可能にし、さらにはランナーだけでなく観客といった他者に対しても情報を提供するようになった。このことは、ランナーの大会記録とその共有など、新たな二次利用の可能性を開いている。
     最後に、こうしたランナーと大会そのもののモニタリングとの関係について検討する。ランナーは、ランニングウォッチが提供する情報をリアルタイムで活用するが、大会というモニタリング装置からの情報は受け取ることがない。ランナーにとってこれらは、全て事後的である。大会の間、鳥瞰図的にランナーたちをモニタリングできるのは応援者や運営者といった外部の誰かである。経過時刻により再構成されたランナーをモニタリングする他者と実際のランナーとの間にはタイムラグと意味内容のズレを生じさせる。ここにスポーツにおけるモニタリングの限界がある。
  • 連帯責任を伴う処分が維持される背景
    竹村 直樹
    2018 年 26 巻 2 号 p. 67-81
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/10/15
    ジャーナル フリー
     高校野球の世界では、不祥事が発生した場合、当該の高校ではなく競技団体自らが処分を決定している。本稿では、その処分の中でも、他競技が加盟している競技団体には見られない「連帯責任」を伴う処分規約に注目をし、競技団体の権限によるこうした処分が、なぜ存在しているのかについて、その歴史的経過や社会的構造との関わりを通して明らかにする。
     戦前、現在の高校野球の前身である中等野球には、それを統括する全国的な組織はなく、民間のメディアが中心となり大会を催していた。しかし、文部省(当時)は、メディアイベントに対する商業主義への懸念や、生徒の競技への偏重に対して、1932 年に「野球統制令」を施行した。以後、中等野球は大学野球とともに国家による統制の中で行われていた。しかし、この統制は、野球を興行的に利用する部分への歯止めが主な役割であり、部員の不祥事に対して「連帯責任」を伴う処分は規約の中に制定されていない。
     「連帯責任」を伴う処分は、戦後、国家と個人を媒介する中間集団として民主的に設立された競技団体によって、集団内の基本要綱として制定された学生野球憲章の中で初めて成立したものである。不祥事を起こした当該者だけではなく、野球部を一つの単位として下されるこの処分は、現代社会において、たいへん理不尽で封建的な印象が強い。しかし、その始まりは高校野球が再び国家統制へと導かれないために設けられたもので、行政機関へ対抗した自主規制であるということがいえる。
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