スポーツ社会学研究
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24 巻, 1 号
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特集のねらい
インタビュー
原著論文
  • ―C.L.R.ジェームズとカルチュラル・スタディーズの抵抗理論―
    山本 敦久
    2016 年 24 巻 1 号 p. 19-34
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2017/03/24
    ジャーナル フリー

     本論は、支配の完全な外部を想定できない諸条件のなかで、「スポーツを通じた抵抗」を見いだすための視座について論じている。そのために、まず英国の産物であるクリケットが反植民地闘争の現場になっていく過程を描いたC.L.R.ジェームズの『境界を越えて』を読み解きながら、そこで提示されたスポーツの抵抗理論を概観する。ジェームズにとってスポーツは、国境や文化ジャンルを越えて別の歴史や場所、別の文脈や記憶と繋がりなおすことによって新しい集合性が想起される契機を含むものであった。次に本論はジェームズのこうしたスポーツ論が後のバーミンガム学派に受け継がれていく回路を再発見していく。スチュアート・ホールのポピュラー文化へのまなざし、ポール・ギルロイの「黒い大西洋」、ポール・ウィリスの「象徴的創造性」といった議論を踏まえながら、現代のカルチュラル・スタディーズのスポーツ研究における抵抗理論を検証していく。そうした思考は黒人アスリートの活躍が形成したアウターナショナルな黒人ディアスポラの連帯を論じたベン・カリントンの「スポーツの黒い大西洋」として結実するが、それはスポーツを通じた国民国家の境界線を越えていく複雑な文化的・政治的空間の形成であった。だがそうした対抗的公共圏は、近代資本主義のなかにその一部として生み出されたものでもある。これらの議論をふまえ、本論は最後に、スポーツ文化が資本主義や近代社会、帝国主義といった支配の内部で、その支配的な力や回路を通じて、別の公共圏や別の集合性へと節合される契機を掴まえるための視座を提起する。

  • 小笠原 博毅
    2016 年 24 巻 1 号 p. 35-50
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2017/03/24
    ジャーナル フリー

     イギリスのカルチュラル・スタディーズはどのようにサッカーというポピュラー文化に着目し、それを真剣に研究の対象やテーマにしていったのか。サッカーのカルチュラル・スタディーズがイギリスで出現してくる背景や文脈はどのようなものだったか。そして、現在のカルチュラル・スタディーズはどのようなモードでサッカーを批判的に理解しようとしているのか。本論はこのような問いに答えていきながら、過去50年に近いサッカーの現代史とカルチュラル・スタディーズの関係を系譜的に振り返り、その概観を示すことで、これからサッカーのカルチュラル・スタディーズに取り組もうとする人たちにとって、サッカーとカルチュラル・スタディーズとの基礎的な相関図を提供する。
     その余暇としての歴史はさておき、現代サッカーの社会学的研究は、サッカーのプレーそのものではなくサッカーに関わる群衆の社会学として、「逸脱」と「モラル・パニック」をテーマに始まった。 地域に密着した男性労働者階級の文化として再発見されたサッカーは、同時に「フーリガン」言説に顕著なように犯罪学的な視座にさらされてもいた。しかし80年代に入ると、ファンダムへの着目とともにサッカーを表現文化として捉える若い研究者が目立ち始める。それはサッカーが現代的な意味でグローバル化していく過程と同時進行であり、日本のサッカーやJ リーグの創設もその文脈の内部で捉えられなければならない。
     それは世界のサッカーの負の「常識」であり、カルチュラル・スタディーズの大きなテーマの一つでもある人種差別とも無縁ではないということである。サッカーという、するものも見るものも魅了し、ポピュラー文化的快楽の豊富な源泉であるこのジャンルは、同時に不愉快で不都合な出来事で満ちている。常に変容過程にあるサッカーを、その都度新たな語彙を紡ぎながら語るチャンネルを模索し続けることが、サッカーのカルチュラル・スタディーズに求められている。

  • 田中 東子
    2016 年 24 巻 1 号 p. 51-61
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2017/03/24
    ジャーナル フリー

     本論では、フェミニズムの理論とスポーツ文化はどのように関わり合っているのか、今日の女性アスリートの表象はどのような意味を示しているのか、1990年代に登場した第三波フェミニズムの諸理論を参照しながら考察している。まず、アメリカにおける女性スポーツ環境の変化に注目し、そのような変化を導いたのがフェミニズム運動の成果であったことを説明する。ところが、スポーツ文化への女性の参画が進むにつれて、徐々に女性アスリートやスポーツをする若い女性のイメージは、商品の購買を促すコマーシャルの「優れた」アイコンに成り下がってしまった。そこで、女性アスリートやスポーツをする若い女性が登場する広告を事例に、女性たちが現在ではコマーシャリズムと商品化の餌食となり、美と健康と消費への欲望を喚起させられていること、そして、今日の女性とスポーツ文化との関係が複雑なものになったことを示す。最後に、複雑な関係になったとはいえ、スポーツ文化は今日においても「密やかなフェミニズム(Stealth feminism)」の現れる重要な現場であるということを、ストリート・スポーツの例を紹介しながら説明する。

  • ―縮小社会化する企業城下町・日立の事例―
    嘉門 良亮
    原稿種別: 原著論文
    2016 年 24 巻 1 号 p. 63-78
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2016/04/25
    ジャーナル フリー
     今日、総合型地域スポーツクラブ関連のものを筆頭にスポーツ振興政策は地域で支えるものという位置づけがなされ、地域での量的拡大を既に終えた。総合型クラブがスポーツを通じて「新しい公共」を担い、コミュニティの核となるということが標榜され、推奨されてきた。しかし、スポーツ振興政策はスポーツ組織と地域の生活課題、社会構造・生活構造の関係を考察してこなかった。なぜならスポーツの「界」は地域の生活課題の解決をあくまでスポーツ振興の手段や必要条件としかみなして来なかったからである。
     こうした問題意識を基に本稿は、少子高齢化と人口減少による縮小化に対応を迫られる企業城下町である茨城県日立市の滑川地区を事例に、総合型地域スポーツクラブと地域コミュニティ組織の関係から地域における生活課題とその対応を明らかにした。その上で、地域の実情に合わせて総合型クラブを改変することの意味を論じた。
     本稿の事例から明らかになったのは、上からのスポーツ振興政策に対し、地域住民が戦略的に読み替えを行い、総合型クラブを自らの生活課題に対応するための実務的な組織として運営していく取り組みであった。すなわち、既存の小学校区での地域コミュニティ活動の流れを汲みつつ、高齢者の生活問題などの課題に対応していく総合型クラブの姿であった。総合型クラブと住民組織の間には大きな性質の差異が認められつつも、その協力関係は、スポーツ振興と地域自治を繋ぐ一つの方策として機能していた。
     また、スポーツ振興を前提として地域に押し付けるのではなく、地域社会の文脈を継続的に読み取る必要性が明らかになった。
  • ―テレビ報道を事例に―
    水出 幸輝
    2016 年 24 巻 1 号 p. 79-92
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2016/04/25
    ジャーナル フリー
     本稿では、2020 年オリンピック・パラリンピックの東京開催決定を伝えたテレビ報道の検討を試みる。第一に、東京開催決定報道においてテレビが描いた社会的現実の偏りを同時期の世論調査と比較することで明らかにし、第二に、その偏りをE. Said の「オリエンタリズム」以来議論されるようになった「他者化」の概念を用いて考察した。
     招致委員会による「被災地・福島」の他者化を指摘し、他者化ではなく、包摂の必要性を指摘するメディア関係者も存在していた。しかし、本稿ではテレビ報道において他者化された存在として、日本国外は中国・韓国を、日本国内は「被災地・福島」を挙げる。両者は東京開催決定に否定的な態度を示すことで他者化されていた。他者である「かれら」に対置される存在の「われわれ」は、送り手が設定した「われわれ」日本人であるが、「われわれ」には東京開催決定を喜ぶ者として、日本にとっての外国が含まれる場合もあった。
     招致成功の喜びを表現する「われわれ」と、それに対置する存在で否定的な見解を示す「かれら」(「被災地・福島」)という構図によって、「かれら」は“当然東京開催決定に否定的である”というステレオタイプが醸成される可能性がある。それは、一方で、「われわれ」に位置づけられた東京の人々の中に存在していた否定的な見解を、“当然東京招致成功に肯定的である”というステレオタイプによって覆い隠してしまってもいる。東京開催決定報道で採用された、喜びを表現する「われわれ」―喜びを表現できない「かれら」という構図は、東京の人々の中に存在する否定的な意見、すなわち、東京開催の当事者である人々が抱える問題を不可視化してしまうものであった。
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