東洋音楽研究
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2007 巻, 72 号
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  • ギラン マット
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 1-22
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
    琉球列島の音楽には、同じ旋律が地域や流派ごとにヴァリアンテとして存在する。また、地域や流派によるヴァリアンテとともに、広く伝承されている演奏の中には、一つの地域、または流派の演奏において、ある一つの旋律に様々なヴァリエーションを付け加える技法も見受けられる。この地域の様々な音楽における演唱法や用語法の共通点の一つは、同じ節名で呼ばれる旋律において、「アゲ」や「サゲ」という用語で区別されるヴァリアンテが多数存在する事である。この演唱法は、無伴奏の仕事歌や儀礼の歌から、三線を伴奏楽器とする民謡や古典音楽に至るまで、様々なジャンルに見られ、また地元の演奏者や学者はこの演奏法に名称をつけ、意識的に区別している。
    本稿では、琉球列島に伝承される幾つかの音楽ジャンルにおいて、音楽そのものや、音楽世界に使用される用語のありさまの二面から「アゲ・サゲ」の概念を考察する。琉球列島の音楽における「アゲ・サゲ」は、三線の調弦、旋律の出だし、旋律全体の高さ、声質、曲想、の五つの意味を持つが、最も多く見られる例は、「揚出し・下出し」という、旋律の出だしを「高音」から始めるバージョンと「低音」から始めるバージョンの対立である。この歌い方を通して、琉球音楽の楽曲が形成されるレベルを幾つか検討する。まず、個人レベルで歌い手が「自由に」出だしを変えることができ、この「自由」な歌い方は、幾つかの影響で様式化される。集団で歌う場合は、各グループが「アゲ」と「サゲ」を歌い、また地域で見ると地域毎に「アゲ」と「サゲ」によるヴァリアンテが見られる。最後は、固定化プロセスで、「アゲ」と「サゲ」のヴァリアンテが譜面上に個別に記譜されるプロセスがある。また、それらのヴァリアンテが独立した歌として認識されるプロセスが見られる。
  • 田鍬 智志
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 25-46
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
    今日伝承されている舞楽には、大別して、旧三方楽所の系統を直接汲む「中央の舞楽」と、それらとは全く異質の舞踊音楽様式をもつ「地方の舞楽」とがある。これまで、地方の舞楽にみる動作に対しては、「中央より受容後、郷土的変化をとげたもの」とする見方と、「中央舞楽が洗練化する以前の古い形態をのこしている」との見方が二律背反してきた。たしかに、上体を前方に倒し力強く足を踏んで舞う姿に農功的イメージが重なるのも理解できることである。しかし抑も地方における舞楽の招来および伝承が、「都文化に対する憧憬」を大きな原動力としていたことは疑いの余地がない。仮に時代が下るとともにそういった意義は薄れていくとしても、「郷土的変化」の一言に帰着させてしまうことには少々無理があるのではなかろうか。後者は、そういった矛盾を解消する説といえるが、未だその具体的検証がなされぬままである。
    筆者は、これまでの研究において、中世における中央の舞楽が「足踏」「前傾姿勢」を主たる要素とする舞であったとの見解を提示したが、本稿では、一方の地方舞楽のなかに、それらの動作要素がいかに多く見いだすことができるか検証する。同様に、こんにちの中央舞楽ではほぼ完全に消滅した動作「延立」が、地方舞楽の中に今なお息づいている例をあげる。一方で、こんにちの中央の舞楽では、「禹歩」的足捌きの法則性 (片足を―摺りながら―披くと、もう一方の足を引き寄せ、次にはその左右逆を繰返す) が基本的要素となっているが、これは中世以来のものではなく、江戸中期以降の伝承のなかで発展した可能性を、地方舞楽との聯関により明らかにした。
    こんにちの地方舞楽に多くみられる「足踏」「前傾姿勢」「延立」「一寸とす」「摺足」「禹歩的足捌き」といった動作要素は、或る時代の中央舞楽の様式を反映したものである可能性が高いといえる。地方舞楽の個々の事例において、これら動作要素の有無をみることにより、いつの時代において中央様式の影響が濃厚か、一往の判断指標になりうるのではないだろうか。
  • 上野 曉子
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 47-65
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
    当道座とは近世以前における盲人集団の社会的な相互扶助団体である。中世期には「平家」を語ることを、その主要な職能としていた。近年、兵藤裕己氏により中世期の「平家」には源氏政権を寿ぐ側面のあったこと、室町幕府の方針として「平家」が幕府の式楽に位置づけられていたことが指摘されるなど、中世期における「平家」および当道座の実態については優れた研究が出ている。一方、近世期における当道座の実態や当道座が担った「平家」やその他の音曲芸能に関しては研究が進んでいない。そこで本稿では、近世初期の当道座の実態について解明を試みたい。
    近世初期における当道座の主要な職能は、なによりも中世期の「平家」を継承することであり、当道座による「平家」は、公家や武家のみならず、町人など貴賎を問わず聴聞され続けているものであった。また、『徳川実紀』の記述から「平家」は中世期と同じく、当道座の検校により御前演奏が数多く行われ、徳川幕府の式楽と位置づけられている、と考えられる。
    『古式目』や『当道要集 (要抄)』には「二季の塔」が当道座の最重要な行事に位置づけられ、その「二季の塔」において検校が「平家」を語ることは、「勅定」とされていた。その際、「平家」を語る当道座の最高位である検校には、社会的な権威づけがなされている。「二季の塔」は当道座の座衆としてのアイデンティティを強化し、当道座の結束を固める側面がある最重要な年中行事だと考えられる。また、「二季の塔」は当道座の最重要な年中行事であるばかりでなく、京都における年中行事として定着するほど、社会的にもよく知られた行事であった。
    近世初期、当道座と九州地方の盲僧との争諍が激化する。当道座の究極の狙いは盲僧を当道座内へ取り込み、盲僧組織を潰すことであったと考えられる。争諍の結果、幕府から下された「御裁許」は当道座と盲僧を峻別する厳しい内容のもので、当道座は「平家」を語る系譜的な正統性を保持し続け、新たな音曲芸能である箏や三味線、浄瑠璃、胡弓などをも独占的に獲得するに至る。
  • 一二〇〇年前後の東大寺供養会と華厳会の比較による
    鳥谷部 輝彦
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 67-82
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
    日本には古来、音楽を奏でる場が種々ある中で、法会は一つの大きな比重を占める。今日舞楽法会と呼んでいる種類の法会の一般的な歴史像は、外来音楽が九世紀前半の「楽制改革」により諸楽が唐楽・高麗楽へと整理統合され、そのために舞楽法会での奏舞奏楽の形も諸楽から四部楽へ移行し、最終的に左方と右方による二部楽へと整理され、その形が平安時代後期から今日に到るまで保ち続けているとされる。しかし中世の舞楽法会の事例を調べると、このように単系発展した歴史像は成り立たず、各法会が個性的で多様な姿をしていた。そのことを示すため、実例として東大寺における鎌倉時代復興期の東大寺供養会と華厳会を検討した。
    分析の着目点は二つある。第一は会場での諸々の配置と左右の関係である。東大寺では他寺の法会と異なり。左方=本尊の右側、右方=左側とするため、これに基づいた会場配置を考察した。第二は部と左右の関係である。東大寺供養会では新楽、高麗、胡楽・古楽、林邑の四部、華厳会では左勅楽、右勅楽、中楽の三部が各々の属する左右に従って動くため、その動きを考察した。この分析を踏まえると、中世の法会の場合には必ずしも「左右両部制」は成り立たないことが確かめられた。
    寺院は法会の執行に際し、自らの先例を踏襲してきたため、当初はあらゆる法会に共通する規格はなかった。長い歴史の中で諸寺が衰退と復興を繰り返すうちに、各法会の故実が失われていき、最終的に今日のような舞楽法会の形に一本化したのだろう。
  • 劉 富琳
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 83-95
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
    琉球は、一三七二年に中国と冊封朝貢関係を打ち立て、一六三四年に江戸上りが始まり、中国や日本からの文化を受けながら、さまざまな芸能を育んできた。
    琉球組踊は、科白や音楽や舞踊などからなる琉球の伝統的歌舞劇である。組踊と日本芸能との比較についてはこれまで日本側の多くの研究者が言及し、組踊が能をはじめ日本芸能からの影響を受けたとみているが、これらの研究は中国戯曲との関連に触れていない。組踊と中国戯曲との繋がりは少数の研究者が言及しているが、琉球において中国戯曲はどのような状況にあったかについては、まだ研究が進んでいない。
    本研究は、琉球に伝わった中国戯曲について記述した史料をめぐって、史料の面から琉球における中国戯曲の様相を明らかにしたいと思う。
    本研究で使用する史料は主に使琉球録や江戸上り史料である。使琉球録は中国の冊封使が冊封活動の経過を書いた文書である。江戸上り史料は琉球江戸上りの経過を書いた記録である。
    使琉球録については郭汝霖『使琉球録』(一五六一)、謝傑『琉球録撮要補遺』(一五七九)、夏子陽『使琉球録』(一六〇六)、胡靖『杜天策冊封琉球真記奇観』(一六三三) 及び袋中上人『琉球往来』(一六〇五) などの史料を調べ、一六世紀後半~一七世紀初頭、中国戯曲は琉球に伝わってきて上演されたことが分かった。
    江戸上り史料について調べた結果、琉球の江戸上りの際に、琉球人が中国音楽 (戯曲) を演じたことが分かった。
    以上の史料から見て、琉球における中国戯曲の受容は組踊に影響を与えただろうと考えている。
  • 声からはじめる日本音楽の指導
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 97-133
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
  • 徳丸 吉彦
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 137-140
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
  • 福田 千絵
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 141-144
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
  • 竹内 有一
    2007 年 2007 巻 72 号 p. 145-148
    発行日: 2007/08/31
    公開日: 2011/09/20
    ジャーナル フリー
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