今日の社会は、人々をいつも比較し、絶えず評価することによって成り立っている面があります。私は、そのことに関する忘れられない一つの出会いを経験しました。
1.A君母子との出会い
ずいぶん前のことですが、小頭症で生まれた男の赤ちゃんの担当医になったことがあったのです。その子、A君は、懸念されたようにやがて知恵が遅れ、下肢にマヒが出現し、言葉の発達が遅く、また聞き取りにくいことが次第に明らかになっていきました。けれども、自分で食べ、自力で歩き、呼吸機能もよかったので、家庭で育てられ、家庭から養護学校の小学部、中等部と進み、月に一度私の外来に通ってくれました。
母親は外来に来るたびに、A君がこの1か月にどんな経験をして、どれほど成長したかを嬉しそうに語ってくれました。外来における母と子には、いつも、平和な喜びがあふれているように見えました。母親はA君を誇りとしているようでした。
2.比較しなかったA君の母親
私は、外来のたびに、背負っているはずの重荷の中で輝くように生きているA君とその母親に出会って、不思議な驚きと感動を覚えました。そして、この母と子の平和の源のひとつは「比べない」ということにあるのではないか、と次第に思うようになりました。
母親は、わが子を同年代の他のお子さんと比べることをしなかったようなのです。母親がA君と比べたのは、他のお子さんとではなく昨日のA君とでした。今日のA君は昨日に比べるといつも新しく、いつも進歩し続けていました。
比較され、評価されることなしに今日の社会を生きることは不可能かもしれません。乳児検診から幼稚園への入園、小学校、中学校の入学、高校受験、大学入学のための共通テストなど、私たちはいつも比較され、評価されて生きてきました。
3.比較社会に生きる痛み
比較することなしには現代社会が成り立たないことは一つの現実でありましょう。けれども比較することは、同時に、計り知れないマイナスを社会と個人に与えます。
比較をルールとする社会は、少数のより高く評価される人とそうではない大部分の人々を生み出すのが常です。けれども、いかに優れた人でも、より優れた人と比較されればたちまち敗者となります。誰も生涯を通して勝者であり続けるのは不可能なのです。
多くの人々が本当に願うことは、勝つことではなく、負けることでもなく、心に平和があること。競うこと、争うことなしに互いに助け合って生きる社会です。私たちは現実にすでに比較社会に生きていますが、多くの人々の心からの願いを実現してくれる、別の原理によってこの社会を生きることが必要であると考えます。
4.比較社会に生きるもうひとつの原理
金子みすゞはかって「みんなちがって みんないい」と歌いましたが、この詩は、比較されるものの痛みを知ったみすゞの悲しみの声であり、その現実から抜け出ることを願ったみすゞが見た一筋の光であったと思われます。
最も小さな者、最も弱い者に価値があると二千年前に語った人がいました。ある時、自分のそばに一人の子どもを立たせて、「あなたがたの中で最も小さな者こそ最も偉い者である」とイエスが語ったと聖書は伝えます。
最も弱い者が最も尊ばれる社会こそ、そこでだれもが平和に生きることのできる社会であると思われます。なぜならば、だれもが、現に、あるいは、やがて、最も弱い者として生きねばならない時が来るからです。
予防接種の副作用で重症心身障害児となったご次男を38年間自宅でお世話した、私の尊敬する友人は、お子さんが召された時、「この生命は人の光」という書を書かれました。歌人であったお子さんの母親は、お子さんの死を悲しんで「青き蝶 この母を置き 旅立つか」と歌われました。
最も弱い者を一人残らず大切にするという重症心身障害児の医療と療育を導く精神は、比較社会に生きる人々の痛みを和らげる光であり、この社会を根底から支える力であると思われます。
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