スポーツから暴力を根絶することは喫緊の課題であるが、根本的な解決の見通しは立っていない。その主要な原因は、スポーツと暴力をめぐる思考が、両者を相互に排他的なカテゴリーと見なし、ルールの遵守によるスポーツの「純粋化」が、必然的にスポーツから暴力性を一掃するはずだという前提に立ってしまっているためであるように思われる。
たしかに、ノルベルト・エリアスの指摘するように、スポーツのルールは攻撃欲の直接的な発露を抑制するものである。しかし、スポーツをめぐる暴力にはこうした衝動的な暴力のみならず、ルールの定める目的に対して合理的な手段としての暴力も存在する。体罰がなくならない理由のひとつは、ルールの求める競技力を向上させるための手段として有効であるためにほかならない。暴力が手段にすぎないならば、その目的を設定するルールにこそ暴力の根源を求めるほかないだろう。
本稿では、スポーツのルールが生み出す暴力を捉えるために、まず、ルールのもとでの試合が、敗者の産出という暴力を不可避的に行使するという川谷茂樹の指摘を踏まえ、この暴力を構成する二つの要素として、身体の時空間的な限定と、身体に対する視覚の支配を特定する。次に、スポーツの歴史的発生においてこれらの要素が決定的だったことを、ノルベルト・エリアスとエリック・ダニングに依拠して論ずる。さらに、スポーツの遊戯性とゲーム性をこれらの要素が支えていることを、アレン・グットマンとバーナード・スーツに依拠して論ずる。続いて、ルールの生み出す暴力がいかにして身体的暴力に転化するかを、運動部活動における体罰を事例に考察する。
身体の時空間的な閉じ込めと視覚の支配を、二つながら克服する身体活動の可能性を探るために、太極拳の対人練習方法のひとつである推手(すいしゅ)の交流会を検討したい。この交流会は、京都・大阪・神戸の三都市で定期的に開催されており、筆者は1997 年より2024 年現在に至るまで参加している。そこでは、太極拳のみならず多様な武術流派および格闘スポーツの修行者が集まり手合わせをするのであるが、スポーツのように固定されたルールを持たない点と、視覚ではなく触覚を重視する点に特徴がある。これらの特徴が、いかにして暴力を遠ざけ、いかなるゲームを可能にしているのかを考察したい。
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