スポーツ社会学研究
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32 巻, 1 号
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特集
  • 西山 哲郎, 倉島 哲
    2024 年 32 巻 1 号 p. 3-4
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/12/28
    ジャーナル フリー
  • 中嶋 哲也
    2024 年 32 巻 1 号 p. 5-23
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/12/28
    ジャーナル フリー
     筆者に与えられた課題はスポーツと暴力をめぐる問題を武道に照準を合わせて論じることである。そこで本稿はノルベルト・エリアスの社会理論、特に文明化、自己抑制、そしてスポーツ化の議論にこの課題を位置づける。
     日本を事例に文明化を検討する時、注目されるのは近世初頭、明治維新、そしてGHQ の占領期の3 期であろう。近世初頭は豊臣秀吉の刀狩りから1680 年に将軍に就任する徳川綱吉の生類憐み政策の時代までである。この時期、幕府による暴力独占には様々な政策が関与するわけだが、暴力独占の主体である武士の横暴をどう抑制するのかは焦眉の課題であった。そうしたなか、武士を自己抑制へと向かわせたのが新陰流だった。人を斬らず、斬られないことを旨とする新陰流の無刀の教えにはそれを実現するために感情の起伏を自己抑制することが要請されたのである。稽古という限定的な空間ではあるが暴力の一時的な解消が成される時に、彼らは自己抑制の端緒を手にしたのである。
     明治維新期には士族の義勇兵が政府の徴兵制軍隊に対立する。しかし日清戦争で義勇兵が禁じられ徴兵軍が勝利をおさめることで、士族のアイデンティティが揺らぐことになる。そこで士族の名誉を回復しつつ、武道を天皇制国家に統合するため大日本武徳会が成立する。また同時期には教育界において嘉納治五郎が柔道の講道館を設立する。武徳会も講道館も実戦性を手放していなかったが、大正期以降、学生武道を中心にエリアス的な意味でのスポーツ化が起きる。さらに、GHQ の占領期以降、武道はスポーツとしての復活を余儀なくされるが、こうしたなか武道の実戦性は後退し、エリアス的な意味でのスポーツ化が進展した。
  • フランスのナイトクラブにおける身体的衝突の象徴的分析
    ブレッソン ヨナタン, 倉島 哲
    2024 年 32 巻 1 号 p. 25-61
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/12/28
    ジャーナル フリー
     ある種の公的な相互行為儀礼は社会秩序の周縁を構成しているが、そこには暴力的とされる行為も含まれている。フランス語には、bagarre(中程度の衝突、闘争)、rixe(激しい衝突、乱闘)など、対面状況での衝突の激しさを区別するさまざまな概念がある。これらの儀礼的な段階の先にあるのは、相手を完全に肉体的に破壊することだけを目的とする段階である。こうした枠組みのもとで、パンチ・平手打ち・頭突きはそれぞれ鮮烈なイメージを喚起する。これらは西洋の暴力の文化の本質的な側面である。フランス西部の街における用心棒としてのエスノグラフィーによって、衝突の実態にアプローチすることができた。打撃を伴う78の事例を観察することで、これらの攻撃の象徴的な意味が明らかになった。武術的な有効性を追求する攻撃が存在する一方で、社会的な勝利を追求する攻撃も存在し、後者は勇気と献身を身体で示すことで達成されるため、しばしば武術的な有効性から遠ざかるのである。後者の攻撃を分析することで、その社会的側面が明らかになる。これらの攻撃が本質的に儀礼的であり、身体的損傷のリスクを制限する機能を持つ構造化された相互行為であり、しかも、勝敗を決定する社会的裁定を反映した行動規範を示しているならば、そこにはスポーツに近い儀礼的な構造を認めることができるのではないだろうか。
  • 太極拳推手交流会を事例に
    倉島 哲
    2024 年 32 巻 1 号 p. 63-85
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/12/28
    ジャーナル フリー
     スポーツから暴力を根絶することは喫緊の課題であるが、根本的な解決の見通しは立っていない。その主要な原因は、スポーツと暴力をめぐる思考が、両者を相互に排他的なカテゴリーと見なし、ルールの遵守によるスポーツの「純粋化」が、必然的にスポーツから暴力性を一掃するはずだという前提に立ってしまっているためであるように思われる。
     たしかに、ノルベルト・エリアスの指摘するように、スポーツのルールは攻撃欲の直接的な発露を抑制するものである。しかし、スポーツをめぐる暴力にはこうした衝動的な暴力のみならず、ルールの定める目的に対して合理的な手段としての暴力も存在する。体罰がなくならない理由のひとつは、ルールの求める競技力を向上させるための手段として有効であるためにほかならない。暴力が手段にすぎないならば、その目的を設定するルールにこそ暴力の根源を求めるほかないだろう。
     本稿では、スポーツのルールが生み出す暴力を捉えるために、まず、ルールのもとでの試合が、敗者の産出という暴力を不可避的に行使するという川谷茂樹の指摘を踏まえ、この暴力を構成する二つの要素として、身体の時空間的な限定と、身体に対する視覚の支配を特定する。次に、スポーツの歴史的発生においてこれらの要素が決定的だったことを、ノルベルト・エリアスとエリック・ダニングに依拠して論ずる。さらに、スポーツの遊戯性とゲーム性をこれらの要素が支えていることを、アレン・グットマンとバーナード・スーツに依拠して論ずる。続いて、ルールの生み出す暴力がいかにして身体的暴力に転化するかを、運動部活動における体罰を事例に考察する。
     身体の時空間的な閉じ込めと視覚の支配を、二つながら克服する身体活動の可能性を探るために、太極拳の対人練習方法のひとつである推手(すいしゅ)の交流会を検討したい。この交流会は、京都・大阪・神戸の三都市で定期的に開催されており、筆者は1997 年より2024 年現在に至るまで参加している。そこでは、太極拳のみならず多様な武術流派および格闘スポーツの修行者が集まり手合わせをするのであるが、スポーツのように固定されたルールを持たない点と、視覚ではなく触覚を重視する点に特徴がある。これらの特徴が、いかにして暴力を遠ざけ、いかなるゲームを可能にしているのかを考察したい。
原著論文
  • —努力主義の持続と変容—
    福島 智子
    2024 年 32 巻 1 号 p. 87-101
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/04/30
    [早期公開] 公開日: 2023/12/20
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、現代の若者が地位上昇を見込めないという閉塞感を抱えるなかで、学業以外の分野での努力や成功を描いた学習マンガにおいて、個人の出自と努力の影響がどのように描かれているかを明らかにすることである。
     1960年代には、スポ根マンガが全盛期を迎え、愚直な努力が重要視されたが、80年代になるとそのような努力は嘲笑の対象となり衰退した。2000年代以降のマンガでは、現代の若者が抱える閉塞感を背景に、主人公の才能や機転に価値が置かれる傾向がみられるとされる。
     現在連載中のスポーツや芸術をテーマとした学習マンガ『ダンス・ダンス・ダンスール』と『ブルーピリオド』を選定して、分析した。主人公は高いコミュニケーション能力を持ち、自らの意志で努力を選択する姿勢が描かれている。
     21世紀の学習マンガにおいても、衰退したといわれる努力主義が継続している一方で、努力の仕方や評価される努力については変化がみられた。他者から強制された努力は否定され、自ら主体的に(可能なら楽しい)努力を選択することが肯定されている。さらに主人公は、コミュニケーション能力を重視する学校の評価文化(ハイパー・メリトクラシー)で上位に位置づけられると同時に、努力の対象を自ら選択するにあたり、同調圧力を否定することも求められている。
     本人の主体的な選択が強調されることで、そもそも選択肢がなかった閉塞的な状況は不可視化される結果となる。勝ち組より負け組の方が努力主義を内面化しやすいとされることを考慮すると、これらの学習マンガは現状が自分の努力の結果だと肯定する自己責任論にいきつくのは容易だろう。
  • 大相撲における公的言説と力士の実践に着目して
    松山 啓
    原稿種別: 研究論文
    2024 年 32 巻 1 号 p. 103-116
    発行日: 2024/03/31
    公開日: 2024/04/30
    ジャーナル フリー

    本稿は、大相撲の世界における八百長をモラルの視点から読み解く試みである。八百長とは力士が相撲の勝負にわざと負ける行為を指す用語である。八百長は、江戸時代以来とされる長い歴史のなかで、様々な出来事を通じて行為のモラルが問われてきたといえる。本稿では、そうした八百長にまつわる公的な言説としての道徳的価値観の形成過程や、力士たちによる八百長の現実的な動機に着目し、道徳に関わる人類学的研究を参照しながら、八百長のモラルの多元性や複数性を考察した。これらの視点は、①大相撲の制度と実践の相互変化に関わる動態としてのモラリティ、②力士間の人間関係の基盤となっている道徳的論理、に注目することを意味している。前者については、明治時代における近代化とナショナリズムの潮流に伴い創造された「武士道論/相撲道」というモラルの影響と、興行相撲に関わる一連の制度改革によって、八百長が否定され、排除された過程を概観した。後者では、八百長に関する先行研究においてたびたび指摘されてきた、力士の「互助関係」を再検討し、交換と互酬性の論理に還元されない異なるモラルに基づく八百長の多義性を提示した。

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