環境社会学研究
Online ISSN : 2434-0618
21 巻
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巻頭エッセイ
特集 環境社会学のスコープ――環境の時間/社会の時間
  • 土屋 雄一郎
    2015 年 21 巻 p. 4
    発行日: 2015/12/25
    公開日: 2018/10/26
    ジャーナル フリー
  • 浜本 篤史
    2015 年 21 巻 p. 5-21
    発行日: 2015/12/25
    公開日: 2018/10/26
    ジャーナル フリー

    本稿では,戦後日本のダム事業にともなう予定地住民および地域社会への負の影響について,経験的事実に基づくモデル化の試みをおこなった。その際,飯島伸子による被害構造論をベースに,局面区分を取り入れて整理した。それらはすなわち,①予定地の局面,②生活再建の局面,③水源地域活性化の局面,④事業見直しの局面,⑤事業中止の局面,という5局面である。これに3つの時代区分を重ねあわせ,ダム事業の社会的影響モデルとして提示した。

    これを通じて,被影響住民に振りかかる問題は,水没補償や生活再建だけに終始するわけではないことを把握できる。予定地となった地域社会では人間関係の亀裂・行政不信,生活設計の問題などが生じるのみならず,1970年代半ば以降は補償交渉が長期化する傾向がある。移転後は地域レベルでの水源地域活性化がしばしば宿命づけられており,さらに事業見直しや中止に至った場合には,混迷化する状況に巻き込まれ,地域再生をめぐる課題とも向きあわなければならない。

    このような長期間にわたる多面的かつ重層的な影響は,ひとたび地域社会が事業予定地として設定されることによってはじまる。そして,これを起点として被影響住民はしばしば数十年間にわたって翻弄され,人生時間の収奪という犠牲を払うのである。

  • 熊本 博之
    2015 年 21 巻 p. 22-40
    発行日: 2015/12/25
    公開日: 2018/10/26
    ジャーナル フリー

    普天間基地の移設予定地である辺野古には,「政治の時間」「運動の時間」「生活の時間」という3つの時間が流れており,辺野古が「政治の場」となったことで前2者が支配的になり,「生活の時間」が不可視化されている。本稿の目的は,軍事施設としての普天間代替施設に着目しながら,不可視化をもたらす構造を明らかにしたうえで,「生活の時間」を可視化することの必要性とそこから拓かれる地平を提示することにある。辺野古住民の「生活の時間」は,米海兵隊基地キャンプ・シュワブとの歴史を通して形成されたものであり,それゆえに辺野古は米軍基地の全面撤去を主張できない。普天間代替施設については「来ないに越したことはない」と考えているが,「生活の時間」に基づいた未来のことを考えると条件つきでの受け入れ容認の立場をとらざるを得ない。しかしこの複雑な態度は,「生活の時間」を共有しようとしない反対運動参加者からは理解され得ず,対立にまで発展し,ついに辺野古は反対運動の撤退を要請するに至った。だがその行為は結果的に辺野古から反対の選択肢を奪ってしまうことになる。そのような「統治への荷担」へと帰結しないためには,「生活の時間」を可視化し,共有することで,「政治の時間」への抗いを「統治への抗い」にしなければならない。

  • 宮本 結佳
    2015 年 21 巻 p. 41-55
    発行日: 2015/12/25
    公開日: 2018/10/26
    ジャーナル フリー

    近年,多様な建造物群や自然景観,歴史的景観を保存し,広く公開しようとする動きが活発化しており,その中でもとくに戦争,災害,公害,差別といった否定的記憶を伝承する負の歴史的遺産への関心が高まっている。歴史的遺産の中には多様な要素が含みこまれており,その中のどこに光をあてるのかを争点とする議論が活発化している。本稿では,差別をめぐる負の歴史的遺産であるハンセン病療養所を事例として取り上げ,この点について検討を行う。

    ハンセン病療養所をめぐる先行研究においてはこれまで「被害の語りが圧倒的に優位な立場を確立することで,そこに回収しきれない多様な語りが捨象されてしまう」点が問題として指摘されてきた。ハンセン病療養所の保存・公開においては「被害の語りが優位になる陰で捨象されがちな主体的営為をいかに伝えていくのか」が問われているのである。本稿では香川県高松市大島のハンセン病療養所における食をテーマとするアートプロジェクトを媒介とした保存・公開活動を事例として,この問いを検討した。活動の軸の1つである,大島を味わうことをテーマとしたカフェシヨルにおける取り組みの分析を通じ,そこでは楽しみを伴う主体的営為としての食をめぐる複数の生活実践が巧みに表象されており,従来捨象されがちであった入所者の多様な経験が継承されていることが明らかになった。人々によって紡ぎだされる物語が多様であることを鑑みれば,アートプロジェクトを含めたさまざまな手段を媒介として主体的営為を表出する取り組みを活発化させることが可能であると考えられる。

  • 藤村 美穂
    2015 年 21 巻 p. 56-73
    発行日: 2015/12/25
    公開日: 2018/10/26
    ジャーナル フリー

    本稿では,人間の働きかけによってかたちづくられてきた二次的自然のことを,積極的な意味をこめて“農的自然”と呼んでいる。農的自然は,農業,林業,漁業など専門化・制度化された産業の対象であるだけにとどまらず,生活,生業の場として接してきた自然であり,食料,肥料,燃料など,人間が生活に必要なものを引き出してきた自然でもある。

    あらゆる国のあらゆる事象が環境や持続可能性という視点から評価されはじめた現在,原生自然だけではなく,この農的自然にも大きな社会的関心が集まるようになっている。そして,農的自然と密接なかかわりをもってきた農山村もまた,生態系や景観の保全,資源の持続的な利用管理,あるいは国土保全などの担い手やそのモデルであることを期待されるようになってきた。

    その一方で,日本の農山村,とくに過疎高齢化のすすんだ山間部の農村は,すでに期待されたような意味での「担い手」能力を失いつつあることが懸念されている。このようななかで,我々は,これからどのように山や自然とかかわっていけばよいのだろうか。

    本稿ではこの問題について「自然と向き合う姿勢」という点から考察している。そして,目的や機能をもたない自然と対峙するには,土地に蓄積された時間,そして予測したり理解したりできない“自然”を受容するしくみを考えることの重要性を示した。

論文
  • 小野 奈々
    2015 年 21 巻 p. 74-89
    発行日: 2015/12/25
    公開日: 2018/10/26
    ジャーナル フリー

    ブラジルでは,植民地時代からの人種差別が,自然資源の再分配や都市計画などの開発パターンに強く影響を与えている。その結果,環境制度と開発制度のすき間に陥り,開発による利益を十分に享受することができない人々が存在している。これを支援しようとするのが,不平等な環境ガバナンスからの脱却を試みるNGOや政府関係者である。だが,本稿が取り上げるアフリカ系ブラジル人コミュニティ(キロンボ)は,NGOや政府関係者による支援の働きかけを退け,環境制度と開発制度のすき間にあえてとどまり続けようとした。本稿では,この理由を,コミュニティの相続地の利用ルールに着目する分析から内在的に明らかにすることを目的とした。

    分析の結果,事例地のコミュニティには,私的所有制度とは異なる土地利用の内部ルールや営みが存在していることが明らかになった。また,そのような内部ルールや営みが,コミュニティの住民のアイデンティティや幸福追求面で重要な機能を果たしており,その結果,コミュニティの外部から環境NGOや行政機関が,私的所有を前提とする環境正義にもとづいた支援策を考案して働きかけをしても,コミュニティがこれに応じようとしなかったことが明らかになった。

  • 金城 達也
    2015 年 21 巻 p. 90-105
    発行日: 2015/12/25
    公開日: 2018/10/26
    ジャーナル フリー

    本稿は,沖縄県国頭村宜名真集落の漁民の生活戦略の分析を通して,彼らが複合的な実践を行うことによって自然資源利用を継続させていることを明らかにするものである。

    宜名真集落では古くから浮魚礁漁が行われてきた。それは今日,外部社会との相互作用によって文化資源として価値づけられ,集落を象徴する資源となっている。そしてたんに象徴的な資源というだけでなく,漁民の生活を支える資源としても機能している。浮魚礁漁がこのような機能をもつようになった背景には,自然資源利用における宜名真漁師の複合的な実践の存在がある。

    そこで本稿では,こうした漁民の生活戦略を分析する中で,たとえば,隣接地域の漁師との関係性の構築,販路拡大のための取り組み,主要な漁業種を補完する漁業種の創出,といった生業活動におけるさまざまな実践の様態を明らかにし,そこから複合的な実践が生み出す資源保全の可能性を検討した。

  • 金子 祥之
    2015 年 21 巻 p. 106-121
    発行日: 2015/12/25
    公開日: 2018/10/26
    ジャーナル フリー

    東日本大震災からの復興過程においては,「被災者の声」が重視されている。しかしながら,積極的に被害を訴えていない事柄がたしかに存在する。本稿が対象とするマイナー・サブシステンスはその典型例である。そこで本稿では,放射能汚染下で帰村に取り組む地域社会を対象とし,ヤマの汚染が生活に支障をもたらしているにもかかわらず,何ゆえに人びとは被害として積極的に提起しないのかを明らかにする。

    震災後のマイナー・サブシステンスをめぐっては,三重苦というべき困難な状況にある。第1に,生活上必要な資源にもかかわらず,高濃度の放射能汚染が見られる。第2に,放射能汚染をめぐる政策的支援の対象から漏れ落ちていること。そして第3に,日常的な食を介して人間関係に亀裂が生じていることである。このように明らかな被害が生じている。

    けれどもその被害は,積極的に語られ訴えられてはいない。なぜなら,これまでの自然利用のローカル・ルールが,被害の「意図的潜在化」を招いている。さらに,汚染された食への対応は,家族ごとの判断にゆだねられ「問題の個別化」が生じ,共通課題とすることが困難になっていることが明らかとなった。すなわち,災害からの復興を考えるにあたって,被害者が積極的に訴える被害だけでなく,人びとの生活経験をふまえてはじめて理解できる被害を提起していく必要があろう。

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