環境社会学研究
Online ISSN : 2434-0618
5 巻
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巻頭エッセイ
特集 地域環境再生の社会学
  • 永井 進
    1999 年 5 巻 p. 5-20
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    川崎市の南部地域では、戦前より海浜部の埋め立てによって重化学工業を中心とする工業地帯が形成されてきた。また、同地域は大都市東京と横浜を結ぶ交通の要衝地で、幹線道路網が早くから整備されてきた。自然海浜を破壊し、住宅地と工業地帯を分離するという慎重な都市計画を欠いたコンビナートの造成と、産業を優先し沿道住民の健康を無視して進められた道路網の整備は、工業の過密と交通渋滞を引き起こし、大気汚染、騒音、産業廃棄物等による深刻な公害を地域住民にもたらした。

    しかし、近年、川崎公害訴訟において、コンビナート企業や道路管理者の公害責任を問い、勝訴・和解した公害被害者を中心に、まちづくりの動きがでてきた。これは、大阪西淀川区の「あおぞら財団」の動きと連動するもので、公害で疲弊したまちを再生する試みである。一方、川崎では重化学工業が衰退し、コンビナートの再編が余儀なくされている。この二つの動きは、一つの潮流、つまり環境再生によって、地域の経済、社会に活力を呼び戻すことを求めている。

    新しいまちづくりは、産業の発展を「本」にして、「末として」の工業用地や道路網などのインフラ整備を図るというものから、環境保全に合致するインフラ整備やインフラ利用を「本」にして、都市のあり方や産業の発展を規制・計画するという、いわゆる「維持可能なまちづくり」に変えていかなくてはならない。21世紀に向けて、環境再生は地域社会の大きな課題になっており、川崎市等で始まった動きは注目に値する。

  • 松村 和則
    1999 年 5 巻 p. 21-37
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    環境社会学の研究は、近年、生活破壊・環境問題の研究から「生活」の保全へと深化しつつある。「民衆の生活実践と日常の価値観と知識に視点を置く」立場を一歩進めて、人々の「生活の場」へ自らの身体を投入し、実践を志向した「よそ者」として自らを客観化する視座が求められている。

    鬼頭の「よそ者」論は、方法論的客観主義に固執するがゆえに「生活」の論理に迫るという現代的課題を捉えきれないと考える。本稿の「身体に備わった自明性をあてにし」つつ調査主体を客観化する視角は、新たな「よそ者」論を提出する。すなわち、民衆(村入りした「よそ者」を含む)、定住する「よそ者」と定住しない「よそ者」の三者が「文化空間」の中でダイナミックに交錯する姿が浮き彫りになる。

    いうなれば、「生活」の論理へ肉薄するには、調査主体に実践性・当事者性を加味した視座が要請される。その視角から見ると、環境保全をめざす「運動」には、遊びという要素が不可欠であることも明らかになった。

  • 小山 善彦
    1999 年 5 巻 p. 38-50
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    英国で1980年代の初めに誕生したグラウンドワークは、現在では全国各地43ヵ所に活動拠点を広げ、約750人の有給スタッフを雇用し、年間約3000プロジェクトを手掛けるまでに成長している。

    グラウンドワークは行政や市民団体とは違ったアプローチで環境問題に対応する。行政のようにトップダウン型の画一的成果を求めず、しかも多くの市民団体が目ざす反対運動や自己完結型の成果も追求しない。NPOとして市民よりの中立的な立場をとりながら、国や自治体、企業などと戦略的連携をとり、コミュニティの主体性を引き出しながら、地域の再生を多面的な角度から追求する。地域代表による意思決定のメカニズム、行政、企業、市民のパートナーシップ、環境にコミットした専門家チーム、国や企業などからの資金を現場で生かすシステムの確立、といった特色をもち、英国での環境再生および持続型発展についての考え方や方法論の進化に大きな影響を及ぼしている。

    本稿ではこのグラウンドワーク運動に焦点を当て、導入の経緯や仕組みの特色、社会的貢献の中身などについて検討する。また、日本にこのグラウンドワーク方式を導入させる試みも始まっており、これまでの経緯と日本でグラウンドワークを実験することの意味と可能性についても考えてみたい。

  • 多辺田 政弘
    1999 年 5 巻 p. 51-70
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    ボーダレスな経済の拡大が、地域の経済と物質の循環を破壊し、文化と環境の世代間の継承を困難にしている。しかし、ボーダレスな資本と市場は、自己増殖の永久運動を続けることはできない。それがエントロピー論の結論であり出発点でもある。自然は無限ではなく、エントロピーを捨てる能力に限界があるからだ。問題解決の道筋は、地域経済の自立化に向かって「物質循環の作動力」の一つである経済の流れを、地域の物質循環を回復する方向へ戻していくことにある。

    そのような視点から、エントロピー論の議論のなかでは、通貨と物質の循環に着目して提起されてきた「地域通貨」論の流れが生まれている。すなわち、信用(通貨循環)をいかに地域に埋め込むかという議論である。この議論の流れは、玉野井芳郎によるK.ポランニー研究に始まり沖縄経験のなかでの「琉球エンポリアム仮説」「B円通貨論」の考察を経て、中村尚司の「信用の地域化」論へ発展し、その後の地域通貨論(丸山真人、室田武ら)へと展開されてきている。

    ここでは、エントロピー論における地域通貨論の原点とでも言うべき玉野井の沖縄の地域通貨論の視角から、戦後の沖縄経済の流れを整理し、ポランニーの言う「地域社会への経済の埋め戻し」の具体化の方法を模索した。すなわち、「信用」を地域通貨循環と非市場部門(コモンズの経済)へ埋め戻すことによって、地域経済循環を再構築しようという試論である。

小特集 地域から環境再生をめざ して
論文
  • 原口 弥生
    1999 年 5 巻 p. 91-103
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    米国において社会問題化している、ブルーカラー層やマイノリティ地域における環境負荷の不平等な蓄積、いわゆる環境的不公正の告発は、1980年代に端を発する。多くの統計的調査や事例において、ブルー・カラー層や人種的マイノリティ地域の環境保護が、白人地域に比べ大きく後退していることが報告されてきた。しかしながら、米国ではより開かれた意思決定過程を実現するために、1960年代から住民参加政策が取られてきている。環境の分野においても、1969年に制定された「国家環境政策法(NEPA)」において、住民参加が環境行政の一環として位置づけられたのである。

    開かれた意思決定が可能である社会において、どのようにして環境的不公平という問題が生まれ、さらに環境正義運動という対抗的な社会運動が発生するのだろうか。本稿では、化学工場の建設をめぐり米国南部で発生した反公害運動を事例として取り上げ、米国の環境保護政策における住民参加政策の意義と課題について論じた。

  • 近藤 隆二郎
    1999 年 5 巻 p. 104-120
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    本論文は、コモンズの視角から見た写し巡礼地の地域社会における再定置とともに、コモンズ論における事例提起を目的とする。調査対象には、境争論/山論の舞台であり、現在でも地元が熱心に維持管理している和歌山県那賀郡打田町竹房の「百合山新四国八十八ヵ所」を選択した。史料分析およびヒアリング等に基づき、経年的に百合山と地域社会との関係/変遷を考察した。

    燃料革命および地域共同体の崩壊等に伴い、里山としての百合山は、永小作者による耕作利用か、放置か、財産区変換後に払い下げされるかの運命だった。この地に写し巡礼地が設置されたことの里山保全に果たした意味を、(i)共有地境界の明示…開墾の制限、(ii)集落域外へのシナリオ的開放…オープン・アクセスへ、(iii)共有地への新たな愛着関係の構築、(iv)(各札所を軸とした)維持管理システム構築、にまとめた。資源利用の変遷からは、写し巡礼地設置による外部への開放が、逆に内部にコミューナルな維持管理システムを確立し、節度ある利用によって内的結合力を高めていることがうかがえる。

    百合山における資源利用システムは、(1)共有…入会地的共有利用、(2)共演…巡礼接待維持管理における利用、(3)共用…永小作権による賃貸契約利用、に分節化できる。写し巡礼地の存在による多彩な利用形態が、多彩な主体との関係性を引導し、コモンズの資源的ヴァライエティを保全し、里山保全の可能性を高めたものと考えることもできよう。

  • 根本 昌彦
    1999 年 5 巻 p. 121-135
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州の先住民族リルワットネーションの居留地を対象として財産権(土地権)の形成と変動の過程を記述した。先住民社会の共同体的側面と西洋近代的なカナダ社会とを対抗軸としながらコモンズの成立条件の一端を明らかにすることが目的である。

    リルワット先住民はカナダ法制度下の居留地において「法律上」の規定とは別に慣習的な財産権を「事実上」形成した。そこでは先住民の「伝統」を基礎にした総有的、内発的な制度の発展がみられた。しかし、1960年代以降の急激な商品経済の展開やカナダ社会の福祉型国家への移行という情勢変化の中で、自律的な土地利用の展開が閉塞状況に陥っている現実が明らかとなった。特に、カナダ政府が居留地に適用した疑似的な私的土地所有制度や居留地内外で進展した商業的森林伐採が先住民社会に大きな混乱をもたらした。また、財産権(土地権)を支持する権威機構はカナダ法制度と先住民の慣習や世界観との相克によって二重構造化し、その力関係が時々の歴史環境の中で変転してきた。

    今日では、政府資金の分配を基軸としてリルワットとカナダとの関係が規定され、それが依存体質を先住民社会の中に固定化させると同時に、「カナダ派」「伝統派」といった内部対立の要因となって自律的発展を阻害している。

  • 菊地 直樹
    1999 年 5 巻 p. 136-151
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    「エコ・ツーリズム(Eco-tourism)」と地域住民の生活や文化との間には、その概念の生成過程から考えても密接に関係がある。実際、エコ・ツーリズムは「地域主体の観光」や「地域づくりにも結びつく」と評されてきたが、これまでの研究では、地域住民は「取り入れる」対象、「啓蒙」する対象とされ、地域社会の問題は「環境教育」や「住民参加」の問題とされている。そこでは、エコ・ツーリズムが導入される当該地域の生活の論理や文化、地域住民の主体性への視点に欠けている。それに対し本稿では、当該地域住民がエコ・ツーリズムという外部の枠組みを受けとめて自らの拠点から生活を組み立て、地域を再構築していく問題としてエコ・ツーリズムをとらえることを試みた。

    地域住民の生活という観点からエコ・ツーリズムの可能性を模索するには、エコ・ツーリズム研究における「自然」が問い直されねばならないだろう。エコ・ツーリズムの対象となる自然は、「保護地域」といった学術的に序列づけられた自然が中心であったが、自然は地域社会の社会的・歴史的構成物であり、人間と自然とのかかわりの歴史、人間と人間の関係の歴史が内包されている。「内包された自然」が研究者等によって「無垢な自然」や「消費する自然」とされるのがエコ・ツーリズムであるし、逆にその過程で地域住民が自然を対象化し、地域を再評価するともいえる。

    重要なのは、エコ・ツーリズムという社会関係のなかで、地域住民が、文化としての自然を「操作できる対象として新たに作り上げる」主体でありえるかどうかである。本稿では、高知県大方町の砂浜美術館の考え方と活動を事例として、この問題を考察した。

  • 足立 重和
    1999 年 5 巻 p. 152-165
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    本稿は、岐阜県X町の長良川河口堰建設反対運動を担う地域住民の意志決定システムがどのようなものであるのかを、明らかにするものである。

    近年、自然環境保護への関心の高まりから、環境問題が噴出する地域に様々な人々がともに協調して環境運動を担っている。その際に、当該地域に住む住民は、そこに住まない人々とともに意志決定しながら運動を展開していく。しかし、このような場合、地域住民固有の意志決定は、絶えずゆらいでくる。そこで本稿では、X町の河口堰建設反対派を対象にしたフィールドワークから、そこに住む住民が意志決定のゆらぎを修復し、より明確な意志決定を可能にした事例を考察する。

    その意志決定システムは、町のなかで「町衆」と呼ばれる人物たちと、若手の実行委員たちとのやりとりによって恒常的に意志決定を可能にする。その際、両者は地元住民との「近接」によって知り得た「住民の総意」に基づいて提案・再提案を繰り返す。そして、両者のやりとりの密度は、意志決定以後の運動成員にふりかかる生活へのインパクトの度合いによって決まる。このような意志決定システムを、本稿では「町衆システム」と呼ぶ。

    「町衆システム」は、一見すると一般に「根回し」的な意志決定だと受け取られやすいが、実はそうではない。なぜなら、このシステムは、若手と「町衆」だけで閉鎖されたものではなく、地元住民との「近接」を通じて地域社会に開かれているからである。そこには、直接民主制を反映した意志決定とは異なった、地域社会に固有の合理性がある。

  • 淺野 敏久
    1999 年 5 巻 p. 166-182
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    地域環境問題において「地元」や「よそ者」という言葉を耳にする。どちらが正しいと単純に判断すべきものでなく、分けることで問題を解決できるものでもない。それにもかかわらず、関係者が自らの当事者としての正当性を高め、対立者のそれを低める方便として用いられている。本稿では中海干拓問題を通じ、「地元」が空間的な意味でどう使われているのか、事業推進派と反対派の立場から捉えた。

    行政は、当事者地域を、県や市町村を単位として、事業の影響を受けるかどうかでなく、事業の対象地があるかどうかで定める。一方、反対運動にも当事者としての「地元」意識がある。ただし、その範囲を設定せず、曖昧な「地元」概念を臨機応変に使い分ける。県や流域を代表する運動であると主張する一方で、問題を追求する際には湖と関わる生活圏を想定する。「地元」概念は、開発がらみの環境問題において事業推進派・反対派の双方にとって戦略的な資源のひとつである。想定する当事者範囲の違いが環境問題についての相互理解や合意形成を妨げるとも考えられる。計画論としての当事者の空間的線引きについて、その是非を問うことはもちろん、それを用いるのであればその方法やあり方について議論することが必要である。

  • 石垣 尚志
    1999 年 5 巻 p. 183-195
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    ごみの分別収集政策において、排出者である住民は分別排出という役割を担っている。そして、住民が分別排出を行わないかぎり政策が効果的に機能することは難しく、そのため自治体は様々な手法を用いて住民の協力行動を確保しようと試みる。多くの場合、政策を導入した時点で住民の協力が得られることは少なく、政策を実施する過程において住民への働きかけが必要となっている。

    そこで本稿は、この分別収集政策の実施過程を分析の対象とし、自治体がいかにして政策を効果的に機能させてきたのか、またいかにして排出者である住民の協力行動を確保してきたのかを明らかにする。その際、排出者である住民は行政客体と見なされるのではなく、実施過程に関わる行為主体として分析の単位に含まれる。

  • 土屋 雄一郎
    1999 年 5 巻 p. 196-209
    発行日: 1999/11/20
    公開日: 2019/03/14
    ジャーナル フリー

    産業廃棄物処分場の建設は、地元土地関係者と事業主体との交渉によって決められてしまう。意思決定過程において地域住民はこの問題から排除されており、自らの意向を反映させるための制度的な回路を持ちあわせていない。産業廃棄物処分場建設をめぐる紛争において問われていることは、地域住民の代表性の問題であるといえる。

    社会環境アセスメントは、意思決定において疎外された地域住民の意向を反映するために実施され、処分場計画をめぐる従来の合意形成のあり方に変更を迫った。それは、住民の生活について検討する視点を採り入れることで、利害関係の枠組みを地元と県事業団との関係から、村政と県政との関係へと転換することであった。一方、住民は紛争に巻き込まれた地域社会のなかで、自らの立場を安定した状態に保つため、積極的な態度の表明を一時的に預ける社会的単位として社会環境アセスを受け入れていく。

    村は交渉における主導権をある一面において握り、村政にとっての必要性をみたす政策的配慮を獲得する。しかしそれは、社会環境アセスに預けられた住民の主体性が、次第に追い込まれていく変容過程であった。住民の主体性は失われ、「意思表示の空白」が発生することになる。このことは、地域住民のみならず村にとっても意図せざる結果であった。

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