環境社会学研究
Online ISSN : 2434-0618
4 巻
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巻頭エッセイ
特集 環境運動とNPO(民間非営利組織)
  • 寺田 良一
    1998 年 4 巻 p. 4
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー
  • 寺田 良一
    1998 年 4 巻 p. 7-23
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    環境運動は、NPOや慈善組織など非営利法人制度を持つアメリカやイギリスで、穏健な中流の自然保護運動として早くから制度化され、組織基盤の確立や環境政策決定への影響力増大に寄与した。1970年前後に登場した「新しい社会運動」的性格を持つ環境運動も、アメリカを中心に「アドボカシー型NPO」として制度化が進み、圧力集団として影響力行使のチャネルを確立したが、同時に制度化により「体制編入」や運動の保守化が進んだと、草の根環境運動等から批判を受けることとなった。一方、アメリカで1980年以降台頭した産業公害、廃棄物問題等の社会的格差や不平等を問題にする草の根環境運動は、地域レベルの運動の支援強化、「エンパワーメント」を志向した制度化をめざす。

    本稿は、環境運動の制度化がもたらす「体制編入」と「エンパワーメント」という2つの効果を、政治的リベラリズムから新保守主義への転換という1970年代以降の公共政策をめぐる政治状況の変容から分析する。

  • 萩原 なつ子
    1998 年 4 巻 p. 24-43
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    1997年10月をもって、財団法人トヨタ財団が行ってきた市民活動関連プログラムのひとつ「市民研究コンクール“身近な環境をみつめよう”」がひとまず休止した(以下、市民研究コンクールとする)。これは財団設立5周年を記念して1979年10月に始まり、以来「身近な環境」をテーマに、生活の場にある人々の研究活動を応援することを目的に隔年で公募され、1979年10月の第1回公募から1997年10月の第7回最優秀賞授賞式まで18年間続いたブログラムである。第1回からの応募案件総数は718件。このうち「予備研究」助成対象となったものは125件、その中から「本研究」助成対象となったものは63件であった(表1)。

    「本プログラムの当初の目標の達成度」と日本社会の「時代状況の変化」の観点から「一定の社会的役割を果たしたのではないか」という財団側の判断により休止した、本「市民研究コンクール」の総括研究を行うために、現在筆者は選考委員経験者および「本研究」助成チーム参加者を対象にインタビュー調査を進めているところである。したがって本稿はその中間報告である。

    本稿では、「市民研究コンクール」の誕生の背景から終了までの概略について述べ、環境に関わる研究活動への市民の参加とそのエンパワーメント(Empowerment:力をつける)について考える糸口を探ってみたい。また本号の特集であるNGO、NPOに関連する視点として、「市民研究コンクール」の助成対象チームの中で、全国で初めての市民主導によるまちづくり公益信託を設立し、活動を継続している事例をとりあげ、市民による「環境研究」が具体的にどのような環境課題をめぐる行動につながり、NPOとしての組織化に結びついたのかを紹介する。

  • 鬼頭 秀一
    1998 年 4 巻 p. 44-59
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    環境運動には往々にして、当該地域の住民だけでなく、特に都会などの地域外の「よそ者」がかかわっている。環境運動の担い手たちが、当事者の利害を越えた普遍的な環境運動の理念を掲げる一方で、「地元」の開発賛成派の人たちが、外から来た環境運動の担い手に対して「よそ者」というスティグマを投げつける事例は枚挙に暇がない。この「よそ者」が環境運動の中でどのような役割をしているのか、そして、「よそ者」と「地元」はその運動の中でどのように変容していくのかを、諫早湾と奄美大島の「自然の権利」訴訟の事例を引きながら、理論的な探究を行なった。

    しかし、「よそ者」論は、環境運動の分析を、固定された「よそ者/地元」の図式で行なうことではない。そもそも「よそ者」は地域に埋没した生活では得られにくいより広い普遍的な視野を環境運動に提供し、ごく当たり前だから気づかされない自分たちの自然とのかかわりを再認識するなどの新たな視点を外から導入する役割がある。さらに、その「よそ者」はその当該の地域の人たちの生活や文化との関係の中で、その文化に同化するなど、変容を遂げていくことは多く見られる。「よそ者」も「地元」も運動の進展の中で相互作用しながら変容していくものとして捉え、環境運動の構成員のダイナミックな動きを、あるがままに捉えるための分析ツールとして考えることが必要である。

    この「よそ者」論は、環境社会学の方法論的な問題をも提起する。環境運動を分析する研究者は「よそ者」であり、環境運動をより普遍的な枠組みで分析し、意味づけをする役割を果たすと同時に、運動の当事者の思いや地域の生活や文化に共感と理解をもって迫ることになる。その作業は、被害者や生活者に視点を定めた研究であることを越えて、環境運動に対して普遍的観点からの何らかの評価―直接的な評価ではなく、メタレベルでの普遍性を含んだ評価―を与えることが必要になってくる。

  • 成 元哲
    1998 年 4 巻 p. 60-75
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    今日原発や廃棄物問題など特定の争点をめぐって、住民投票運動が盛り上がりを見せている。その背景には、これらの争点をめぐって立地点と全体社会の双方におけるリスク認識の高まりがあることが考えられる。それが立地点の地域社会に新たな亀裂や紛争軸を登場させ、地域住民が警鐘を鳴らすことによって、さらに全体社会にリスク認識が拡がっていく。しかし、ここで注意しなければならないのは、リスクの顕在化が階級や政治的イデオロギーによる従来の地域社会の亀裂構造を根本的に変化させたわけではなく、特定の争点をめぐって従来の亀裂を覆い隠すような、新たな「価値亀裂」を登場させている、という点である。それによって原発や廃棄物などの環境リスクをめぐる問題は、旧来の保守対革新の構図にとらわれず、住民投票などを通じて地域住民一人一人に自己決定を迫る問題として現れる。またこうしたリスクをめぐる運動においては、その担い手としてしばしば新中間層や女性が注目されるが、高い動員力をもたらすためにより重要なのは、「旧中間層を含む地元の保守層」なのである。

小特集 環境NGOと温暖化防止京都会議
論文
  • 大塚 善樹
    1998 年 4 巻 p. 93-106
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    環境問題の構築を「非専門家」による科学技術批判という概念で捉え、「専門家」による科学技術の構築との相互作用を、農薬から遺伝子組み替え作物へ至る科学技術とそれに対して提起される環境問題を事例に検討した。分析方法としては、構築過程を複数の「アクター」の関係に分解して記述する、科学技術社会学の「アクター・ネットワーク」を採用した。遺伝子組み替え作物の科学技術は、農薬の科学技術ネットワークが、それに対抗する環境問題ネットワークと相互作用する過程で構築されてきたことが確認された。また、この相互作用の過程では、都市の消費者と特許制度が、双方のネットワークを共存させる上で重要な「アクター」として機能していることが示唆された。

  • 嘉田 由紀子
    1998 年 4 巻 p. 107-124
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    本論は、環境保全、特に資源の利用と管理、保全を考える上で所有関係がどのようなかかわりをもっているのか、精神文化、社会制度、生態システムというプロセスを考える生活環境主義の立場から理念型モデルを提示し、日本やアフリカの環境問題への応用例をしめす。

    最初に、所有論と環境保全のかかわりに関して本誌上での「池田・井上」論争を、「物認識」「人間社会認識」「歴史認識」という切り口から検討し、このような認識過程を問題にする意味を、「自然のとらえ方」をめぐる3つの立場、「管理主義」「保護主義」「共同体主義」の違いのなかから浮かび上がらせる。その上で、これまで「公私」二元論、あるいは「公共私」三元論でとらえられていた所有体制問題を、4種の理念型として提起する。既存の「公私」区分の軸に、主体区分としての「法人体」と「生活体」とを弁別し、「生活体私有」「法人体私有」「生活体公有」=「共有」、「法人体公有」=「公有」の4種とし、それぞれに精神文化、社会制度、生態システムの特色を提示する。

    このような理念的検討の上に、所有論からみた開発問題を日本国内の事例によって提示し、所有関係だけをとりだし、環境保全に順機能するか、逆機能するか、という見方を排除し、いかに地域社会独自の環境認識、社会的意思決定、地域経営の主体性の確立プロセス、生態系保全のかかわりを視野にいれた総合的な研究と政策提言が重要であるかを提起する。

    最後に、開発途上国での所有論の現れ方の事例として、アフリカ・マラウィ湖での漁業資源をめぐる生物多様性保全と住民の生活保全の葛藤という問題をとりあげ、自然の認識や資源利用規制、体制的権力などの研究の重要性を問題提起する。

    そして、全体として、ともすれば別個のレベルの問題と考えられがちな地球環境問題と地域環境問題を相互補完的に理解するための枠組みを提示する。

  • 宮内 泰介
    1998 年 4 巻 p. 125-141
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    本稿は、ソロモン諸島マライタ島を事例として、住民と環境とのかかわりを所有権と利用権の文脈から考察したものである。

    調査地のマライタ島アノケロ村住民が焼畑や野生植物採取などに利用している集落周辺の土地は、他の村の住民が法的に所有している。この土地はもともと複数のクランが所有権を主張していたが、ある個人が裁判によってこれを所有することになった。これには、プランテーションや商業伐採といった、土地を舞台にした経済活動が活発になったことなどが背景にある。

    アノケロ村住民は、この土地を、焼畑、焼畑以外の栽培植物、野生動物・野生植物の捕獲・採取、商品作物栽培など、重層的に利用している。そこでは、完全な栽培でも完全な野生でもない、セミ・ドメスティケイション(半栽培)が重要な位置を占めている。彼らは土地所有権はもっていないのだが、もともとマライタ島における土地所有が近代的な所有権と大きく異なっていることもあり、所有権と別個に共同利用権とでもいうべきものを有していると考えることができる。それは、環境利用が重層的であることともかかわっている。

    しかしそうした共同利用権はもともと弱い権利であり、今日、人口集中や商品作物栽培の広がり、それにともなう土地私有化の流れの中で、ますます不安定になってきている。共同利用権を保障することが、住民の生活の安定、住民と環境との重層的な関係の安定のために、重要な意味をもっている。

  • 中澤 秀雄, 成 元哲, 樋口 直人, 角 一典, 水澤 弘光
    1998 年 4 巻 p. 142-157
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    1990年代における環境運動の「再生」を理解するためには、1960〜70年代以降の住民運動の軌跡を振り返り、マクロな社会的諸条件との関連で運動の盛衰を把握する視点が必要不可欠である。戦後日本の住民運動を対象にした事例研究の蓄積はかなりの量に達しているが、データソース確保の困難や方法論的不備などにより、個別の運動を越えた、運動インダストリーの盛衰を取り扱った研究は十分に行われてこなかった。また、これまで住民運動の盛衰は主に高度経済成長による「構造的ストレーン」によって説明されてきたが、それだけでは低成長期以降の運動発生や盛衰の地域的多様性を説明することができない。

    我々はこうした研究上の空白を埋めるべく、1968-82年における地域開発や環境関連の抗議イベントをコード化しデータベースを整備した。このデータベースを利用し、全国レベルにおける抗議サイクル形成の論理と、抗議水準の地域的・時期的な変動を、「構造的ストレーン」変数と「政治的機会構造」変数との比較により検討した。その結果、次の2点が明らかになった。

    (1)住民運動の抗議サイクル形成にあたっては、構造的ストレーンより政治的機会構造の影響の方が強い。(2)地域ごとの相違をみると、政治的基盤が安定していない保守地域で抗議水準が最も高くなる。これらの知見は90年代の運動の「再生」を理解するうえで、重要な手がかりを提供する。

  • 橋本 文華
    1998 年 4 巻 p. 158-173
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    共同体による環境管理については、おもに「生産」と「所有」について議論が行われてきた。しかし、生産ばかりでなく生活すべての舞台となるムラにおいて、人間と環境との関わりは、客観的対象としての土地を所有し、また利用するという一元的な関係にとどまるものではなく、むしろそこに生きる人間の存在の問題にまで関わるものとして捉えられるべきである。和辻哲郎が「風土」という概念によって分析したように、現実の世界では、客観的にそれ自体で存在する「環境」も「主体」もあり得ない。「風土」における環境と人間の関わり、それは自然環境と人間・文化、またそれをめぐる人間同士の関わりあいという複合的な現象である。

    村落共同体もまたこのような「風土」のひとつであるが、人々はそこでどのように環境と関わってきたのであろうか。水田耕作を営む集落では、農業活動の性格上、環境への働きかけは特に積極的であり、また計画的でもある。いわゆる「伝統的」な慣行として村落共同体において行われてきた山林および水利という環境への働きかけを通して、共同体の人々がどのように環境と関わってきたかを見ることによって、環境との関わりにおける人間の主体のありかたについて考えてみることにしたい。

  • 谷口 吉光
    1998 年 4 巻 p. 174-187
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    「環境社会学は社会学のパラダイム転換である」というパラダイム転換論の主張はアメリカ環境社会学の中心的な理論であると受けとめられてきた。しかし、アメリカ環境社会学者がすべてパラダイム転換論を支持しているわけではない。特に、パラダイム転換論が実証研究と乖離しているという批判はアメリカにおいて根強くあった。

    本稿は、次の5つの命題を検討しながら、アメリカ環境社会学におけるパラダイム転換論の意義と限界を明らかにしたい。(1)パラダイム転換論は70年代のアメリカ社会学の状況に大きく制約されている、(2)パラダイム転換論は「世界観」と「理論的・実証的研究」という2つのレベルから構成されている、(3)パラダイム転換論は必ずしも実証研究を導く理論的方向性を与えるものではない、(4)アメリカ環境社会学は非常に多様化しており、パラダイム転換論がカバーできない多くの研究領域がある、(5)社会と環境に関する最近の理論的研究の進展によって、パラダイム転換論の提起した問題が新たに展開する可能性が出てきた。

    結論として、パラダイム転換論は環境に関する社会学的研究を促進し、アメリカ環境社会学を社会学の専門分野として樹立することに多大な貢献があった。パラダイム転換論は歴史的使命を終え、それが提起した諸課題は新たな方向で展開しつつあるように見える。

  • 山室 敦嗣
    1998 年 4 巻 p. 188-203
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    原発建設計画がもちあがった地域社会において住民の意思表示は重要であるが、自らの立場をあからさまに表明しないという選択をする人々も存在する。しかし新潟県巻町では、「巻原発・住民投票を実行する会」の結成、自主管理の住民投票という一連の過程において、そのような人たちまでも意思表示をすることが可能となった。そこで、地域社会における住民の意思表示を条件づけている地域生活規範に注目しながら、日常生活レベルにおける住民の意思表示の技法と、地域社会レベルで住民の意思が発現する仕組みについて考察する。その結果、意思表示に関する地域生活規範の変化のパターンが明らかになった。

  • 渡辺 伸一
    1998 年 4 巻 p. 204-218
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    本稿の課題は、新潟水俣病を中心事例として、当該地域社会における被害者への差別と抑圧の論理を解明することである。水俣病患者に対する差別には異なった2つの種類がある。ひとつは、「水俣病である」と周囲から認知されることによって引き起こされるいわば「水俣病差別」とでも呼ぶべきものであり、もうひとつは、その反対に「水俣病ではない」と認知される、つまり「ニセ患者」だとラベリングされることによって生じる差別である。新潟水俣病の第一次訴訟判決(1971年9月)および加害企業との補償協定締結の時期(1973年6月)の以前においては、地域の社会構造や生活様式、社会規範に密接に関わる形で生み出されてきた「水俣病差別」の方だけが問題化していた。しかし、その後、水俣病認定基準の厳格化によって大量の未認定患者が発生する頃から、別の否定的反応が加わるようになった。これが、「ニセ患者」差別という問題である。これは、地域社会における「水俣病差別」と「過度に厳格な認定制度(基準)」が、相互に深く絡み合う中で生み出されてきた新たなる差別と抑圧の形態であった。

    本稿ではさらに、差別と抑圧の全体像を把握すべく、新潟水俣病における差別と抑圧の問題は、以下の7つの要因が関与して生み出された複合的なものであること、しかし、その複合化、重層化の度合いは、阿賀野川の流域区分毎に異なっていることを明らかにした。

    1.加害企業による地域支配、2.革新系の組織・運動に対する反発、3.漁村ぐるみの水俣病かくし、4.伝統的な階層差別意識の活性化、5.水俣病という病に対する社会的排斥、6.認定制度による認定棄却者の大量発生、7.“水俣病患者らしさ”の欠如への反発。

  • 渡邊 洋之
    1998 年 4 巻 p. 219-234
    発行日: 1998/10/05
    公開日: 2019/03/22
    ジャーナル フリー

    本稿では捕鯨問題について、歴史‐社会学的視点より考察を加えた。多様なクジラと「日本人」とのかかわりは、近代以降、拡張主義的方向性を背景とし、捕鯨業が一つの大きな産業として成立したことで、捕鯨というかかわりに単一化されていった。しかし、「捕鯨文化」を主張する人類学的研究は、日本の捕鯨擁護という政治的目的によりなされたため、上記の過程を無視または的確にとらえずに、捕鯨を実体化した「日本人」の「文化」であるとして正当化するという誤りを犯した。

    今後のクジラとのかかわりは、野生生物を守ることを基本姿勢とし、その上でかかわりの多様性を維持するという方向で検討されねばならない。その際には、国家・民族・地域を実体化しその「文化」であると表象して正当化すること、また逆に、「文化」と表象することである国家・民族・地域を実体化することは、慎重かつ批判的に考察されるべきである。

研究ノート
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