人文地理学会大会 研究発表要旨
2011年 人文地理学会大会
選択された号の論文の58件中1~50を表示しています
2011年 人文地理学会大会
特別研究発表
第1会場
第2会場
  • 生田 真人
    セッションID: 21
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
      1980年代の中期以降、多くの日系企業が東南アジアへの進出と撤退とを繰り返してきた。企業の多くは、東京や大阪などの大都市圏に本社もしくは本部を置いている。日本と東南アジア諸国との経済統合は、徐々に進展している。国家間の経済統合は、実態としては各国の首都圏を含む大都市圏の間の結合を強化する方向で、展開している。
    他方で東南アジア諸国は、中国とインドの経済成長に対抗するために経済統合を一層進め、2015年に経済共同体を構築しようとしている。この時、各国の首都圏は経済成長を実現する拠点である。本発表では、経済面のみならず政治的にも変貌を遂げつつある東南アジア諸国の6つの大都市圏と、日本の東京圏・大阪圏に注目した。そして、8つの大都市圏の現状と今後の役割について、各国の成長戦略と地域政策の2点に関連させながら検討した。
     東南アジアの大都市については、1)ジャカルタとマニラ、2)シンガポールとクアラルンプル、3)バンコクとホーチミンについて、市街地形成の特徴などの観点から検討した。また、東京圏については、首都改造計画の特徴と国土政策における首都圏の評価、大阪圏についはベイエリアの変化と多数に上る学研都市開発の失敗などを指摘した。
     アジアで将来、仮に東アジア共同体のような機構ができるとしても、各国の中央政府の役割が低下することはない。今後の東アジアで仮に、どのような地域統合が実現するにしても、国家の成長拠点は大都市圏であり続けると思う。そして、中央政府による国土管理の権力が強ければ強いほど必然的に、国内の大都市圏と地方圏の地域格差が問題となる。このため、中央政府の地域政策が政策課題となるだろう。その典型例が、今日のタイである。
     国家や国家を超える地域レベルで、様々な政策や構想が推進されている。こうした中で、日本の大都市圏は、アジアの大都市圏の安定的な成長に貢献するような長期的展望を持つ必要がある。
  • 白坂 蕃
    セッションID: 22
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
一般研究発表
第1会場
  • 福本 拓, 藤本 久司, 江成 幸, 長尾 直洋
    セッションID: 101
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    日本において,日本人と外国人移民との社会統合を目指した「多文化共生」政策が推進されてきたものの,日本人住民の意識に対する関心は薄かった。本研究の目的は,「多文化共生」に対する日本人住民の意識のちがいについて,特に地域の歴史に由来する要因にも焦点を当てて分析することにある。四日市市の日系ブラジル人集住地区において実施したアンケートから,外国人住民の受け容れに寛容な姿勢は住民による社会関係形成の度合(日本人とも,ブラジル人とも)と結びついていることが明らかになった。それに対し,年齢や学歴による受け容れ姿勢への影響は有意ではなかった。これらの意識の違いは,地域の歴史,とりわけ一戸建て(持ち家)・県営住宅・UR住宅という住宅の種別に由来している部分がある。すなわち,一戸建ての住民は,居住期間が長期にわたり社会関係は濃密であるものの,日系ブラジル人の支援については相対的に積極的でない。これは,ほとんどが賃貸住宅に居住しているブラジル人との接触の機会が少ないためと考えられる。UR住宅の人々も同様に消極的だが,これは,外国人との接触はある反面,居住期間が短いため地域での社会関係が進んでいないことに由来する。これらの2種別に対し,県営住宅ではブラジル人とのネットワーク形成があり,受け容れにも積極的な意見が多い。県営住宅では外国人世帯も含め全ての住民が自治会への入会を義務づけられていることが影響していると考えられる。
  • 藤塚 吉浩
    セッションID: 102
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     ジェントリフィケーションは、1980年代に比べると現象が大きく変質してきた。ジェントリフィケーションは、もはや住宅市場の狭い非現実的な特異さに関するものではなく、よりもっと大きなものを得ようとする居住の最先端、すなわち、中心部の都市景観に関する階級の再建となっている。
     現象の変化として近年注目されている研究テーマは、新築のジェントリフィケーション(new-build gentrification)である。新築のジェントリフィケーションは、工場跡地や放棄された土地、建物が取り壊されたところに新たに建設されたものである。新築のジェントリフィケーションとは、再投資と高所得者による地域の社会的上向化、景観の変化、低所得の周辺住民の直接的・間接的な立ち退きを伴うものである。本報告では、このような現象が東京特別区部において発現しているのか考察する。
     21世紀に入りジェントリフィケーションの多発する要因のひとつに、政府の積極的な支援がある。ニューヨーク市の事例では、工業地域から住宅建設を可能にする用途地域への変更により、大規模なコンドミニアムの建設が可能となった。本報告ではまた、住宅に関する施策の変化が、ジェントリフィケーションの発現に影響するのか検討する。
     1990年代のジェントリフィケーションの発現は、京都市の事例では都心周辺地区にみられた。ニューヨーク市の事例では、イーストリバーを挟んだ都心の対岸地区でジェントリフィケーションがみられた。本報告では、2000年代の発現地区と都心との位置関係について検討する。
     ジェントリフィケーションの発現を示す指標として、2000年代前半の専門的技術的・管理的職業従事者の動向について検討した。中央区の増加率は30%を超えて最も高く、江東区と千代田区の増加率は10%を超えた。地区で起こるジェントリフィケーションの特性を考えると、区の範囲でジェントリフィケーションが起こっているか判断することは困難なので、本報告では専門的技術的・管理的職業従事者が最も増加した中央区を事例として詳細に検討する。
     中央区の住宅関連施策の実施に関しては、1980年代の投機的土地売買による居住人口の減少が背景にある。中央区は居住人口を確保するために、1985年に中央区市街地開発指導要綱を制定し、大規模な開発には住宅附置を義務づけた。住宅の確保に効果はあったが、新築された共同住宅の家賃が高く、従前の借家人は入居できず立ち退きとなる問題があった。住宅附置義務により増加した共同住宅の多くは、単身者用であった。住宅附置義務制度は、規制緩和された建物の高さに関する建築紛争の多発により2003年に廃止されたが、ジェントリフィケーションの発現に影響を及ぼしたのである。
     ジェントリフィケーションの発現地区については、町丁別に専門的技術的・管理的職業従事者の変化を検討する。首都高速道路の都心環状線と上野線の西側が都心の業務地区であるが、専門的技術的・管理的職業従事者は、都心周辺地区で増加するとともに、隅田川の東岸の地区においても増加した。日本橋の問屋街や築地市場では卸売業が集積し、入船から湊にかけての地区では印刷工場や倉庫などがみられる。都心の業務機能はこれらの地域には拡大せず、再投資による共同住宅の建設があり、社会的上向化が起こった。新築のジェントリフィケーションに関連する景観の変化と立ち退きについては、地区ごとに詳しく検討する。
     東日本橋から人形町にかけての地区では、繊維・衣服等卸売業が集積しており、近年ではそれらの店舗の跡地に共同住宅が多数建設されている。1階に店舗を設置しない共同住宅の建設計画には、問屋街の連続性が失われるとした建築紛争があった。
     入船から湊にかけての地区では、1980年代の地価高騰期の投機的土地売買のために、住民は立ち退きとなり、住宅や工場、倉庫の建物は取り壊された。1990年代には、景気後退の影響からそれらの跡地は利用されず放置された。2002年には都市再生特別措置法が施行され、都市再生特別地区として超高層共同住宅の建設計画がある。
     隅田川より東の佃や月島、勝どきでは、大規模な高層共同住宅開発が進められた。佃では、造船所と倉庫などの跡地に、1980年代半ばより超高層共同住宅が建設され、景観は大きく変化した。佃や月島は、路地空間に特徴のある下町である。近隣への中高層共同住宅の建設に際しては、既存の高層住宅の住民から反対されるなど、新たな建築紛争が起こっている。
  • 豊田 哲也
    セッションID: 103
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1993~2008年の住宅・土地統計調査の個票データを用いて都道府県別・年齢階級別に世帯所得の推計をおこなう
  • 波江 彰彦
    セッションID: 104
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    日本のいくつかの大都市における、1990年代以降のごみリサイクルの推移について整理し、その特徴について分析する。
  • 水内 俊雄, 平川 隆啓, 冨永 哲雄
    セッションID: 105
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    都市社会地理学 政策の地理学 大阪市西成区あいりん地域の現状と今後のあり方の検討を行って、地理学的成果の貢献について検証する。
  • 齊藤 知範, 根岸 千悠
    セッションID: 106
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに

     本報告では、若年女性の犯罪不安について、質的アプローチを導入することによる新たな枠組みを提示した上で、犯罪不安と都市空間における行動制約や防犯対策との関係について、試論的に考察を加えるものである。
     犯罪不安がどのような社会的属性の人々に集中しやすいかは社会によって異なりうるが、重要な特徴のひとつとして、男女差の存在を挙げることができる。すなわち、他の諸要因を統計的にコントロールした上でも、女性のほうが男性よりも犯罪不安が高い傾向にあることが知られている(Ferraro 1995)。こうした男女差は、先進諸国において、比較的共通して観察されるパターンである。
     一方で、犯罪不安は、主観的で多面的なものであり、生活世界を含めてその内実を深く知ろうとするほど、計量的手法だけでは、構造を解明する上で一定の限界があると考えられる。このため、質的手法が適する場合があり、諸外国においても、質的アプローチによる研究が行われてきた(若林 2009)。他方、吉田(2006)は、地理学におけるジェンダー研究を包括的に検討しつつ、育児等の再生産の舞台である郊外の住宅地における防犯のための監視性の高まりについて、ジェンダーの観点から考察を加えている。

    2.先行研究

     犯罪学においては、犯罪や非行を犯す人間の心理や社会的環境要因に着目する犯罪原因論と、犯罪が起きやすい状況(場所、時間帯など)を生む条件や環境に着目する環境犯罪学の2つが、主要な説明理論として挙げられる。犯罪原因論はもとより、環境犯罪学においても、犯罪の被害に遭いうるターゲットが抱える犯罪不安や選択する防犯対策については、それほど考察がなされているとはいえない。
     他方、小学生の防犯教育に関する実践的研究は比較的多くなされており、大西(2007)のレビューに詳しい。また、根岸(2011)は、公立高校の3年生(21名)を対象とする防犯の実験授業を実施しており、犯罪に関するリスクの情報を生徒に対して適切に伝達したり犯罪統計に関するリテラシーを身につけさせたりすることや犯罪不安の緩和などを目的とした、高校生の防犯に関するカリキュラム開発を行い、授業実践上の課題について明らかにしている。一方で、成人の犯罪不安や被害防止のためになされる防犯行動を空間との関わりにおいて検討した研究は、比較的少ないのが実状である。

    3.研究の方法

     以上のような問題関心にもとづき、報告者は、大都市および郊外地域に居住する若年女性を対象として、質的調査を実施した。具体的な内容としては、つきまといや声かけなどのヒヤリハット事案への遭遇経験、犯罪不安の状況や背景、防犯情報への接触、防犯のために講じている対策や行動などについて尋ねるものであり、これを半構造化面接によって実施した。この安全・安心に関する質的調査は、犯罪不安と若年女性の社会生活との関係などについても、把握しようとする内容であった。
     本報告では、この調査について予備的な分析を行い、第1節で提示した問いに関して若干の考察を加えることとしたい。

    参考文献

    Ferraro, Kenneth F., 1995. Fear of Crime: Interpreting Victimization Risk, State Univ of New York Press.
    根岸千悠, 2011, 「「犯罪について考える」授業の開発 ―犯罪の実態と認識の乖離および環境犯罪学に着目して―」『授業実践開発研究』4, 37-43.
    大西宏治, 2007, 「子どものための地域安全マップへの地理学からの貢献の可能性」『E-Journal GEO』2, 1, 25-33.
    齊藤知範, 2011, 「犯罪学にもとづく子どもの被害防止」『ヒューマンインタフェース学会誌』13, 2, 123-126.
    若林芳樹, 2009, 「犯罪の地理学-研究の系譜と課題-」金沢大学文学部地理学教室編『自然・社会・ひと-地理学を学ぶ』古今書院, 281-298.
    吉田容子, 2006, 「地理学におけるジェンダー研究-空間に潜むジェンダー関係への着目-」『E-Journal GEO』1, 22-29.
  • コルナトウスキ ヒェラルド
    セッションID: 107
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    都市社会地理学 近年の香港では、いわゆる社会的分極化が大きな課題になっている。本稿は下層階級に焦点を置き、低家賃住宅の役割を検証する。
  • 本岡 拓哉
    セッションID: 108
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    本報告では、戦後日本都市における河川整備事業と河川敷周辺に暮らしていた人々の居住問題との関係性、経緯について「空間の政治」の観点から明らかにしていく。
  • 長尾 隼
    セッションID: 109
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     戦前期日本における国立公園は,1934(昭和9)年および36(昭和11)年に,阿寒,大雪山,十和田,日光,富士箱根,中部山岳,吉野熊野,瀬戸内海,大山,雲仙,阿蘇,霧島の12ヶ所が指定された(1937(昭和12)年には台湾に3ヶ所が指定される)。候補地の決定は,林学・植物学・造園学・地学など様々な分野の専門家を中心に,政治家や実業家らを加えて行われた。彼らの集合的な学知,それに基づく(と想定される)議論によって,国土空間内から「我が国を代表するに足る自然の風景地」が見いだされ,選別され,決定されていったのである。国立公園の成立に関してはこれまでに研究蓄積があるものの,候補地の選定という出来事それ自体は特に問題として扱われておらず,その議論が存在したことが指摘されるにとどまっている。本発表では,風景地の取捨選択に関する議論をあとづけてゆくことで,各々の候補地について展開されたさまざまな論理,あるいはその選定に際して重視された諸要素の相互関係について考察し,戦前期日本の国立公園選定をめぐる様々なポリティクスを明らかにしてゆきたい。  1931に決定された「国立公園ノ選定ニ関スル方針」によれば,その選定にとって最も重視されたのが自然景観の傑出性であった。副次条件としては,土地所有の関係,利用性,配置などの問題をクリアしていることも求められた。この選定方針の作成にあたっては,内務省衛生局嘱託として調査を行っていた田村剛が大きく関わっていた。  国立公園の指定に至るまでに,候補地の選定に関する契機は2度あったと考える。1度目の契機は国立公園の創設に向け具体的な調査が開始された1920年代初頭であり,このとき田村らによって調査が行われた16ヶ所が1923(大正12)年に公表されている。2度目の契機は1932年10月の国立公園候補地決定に際し行われた議論である。この議論は,1923年に公表された16ヶ所をもとに候補地を絞り込んでゆくものであった。本発表では後者の議論を取り扱う。  国立公園候補地の決定に関する議論が行われた「特別委員会」「懇談会」の議事録等を確認したところ,すべての候補地が選定理由通りの解釈によって決定されたわけでないことが明らかになった。吉野熊野に関しては,建国の歴史を示すナショナリスティックな風景であること,あるいは熊野海岸の海の風景こそが「日本」の風景であることが強調された。一方で国際的な観光地としての場所の系譜を有し,すでに施設も完備されている雲仙については,風景地の「利用」の側面が強調されたのであった。大山に至っては,議論の場においては注目されるどころか反対意見が中心であったが,吉野熊野・雲仙の追加という出来事に対応し,「地理的分布」という側面から候補地として決定されるに至ったのである。しかし,正式に公表された選定理由においては,いずれの候補地も自然性によって意味づけられ,価値付けが行われた。様々な議論を経て候補地に決定された風景地には,あまねく「我が国を代表するに足る自然の風景地」という表象が節合されたのである。  また,田村剛自筆原稿「国立公園選定ニ関スル資料」からは,田村らが選定方針に基づいて候補地の順位付けを行っていたこと,しかし議論の場においてはそれも絶対的な権限を維持することができなかった様子を伺うことができる。戦前期日本の国立公園選定は,各々の候補地について異なるポジショナリティから複数の論理が錯綜し,その諸関係はきわめて重層的なものであったことが確認されるのである。
  • 高崎 章裕
    セッションID: 110
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
     本研究では、沖縄県北部の名護市辺野古区への移設が計画されている普天間飛行場代替施設の建設問題と沖縄県国頭郡東村高江のヘリパッド移設問題をめぐる環境運動を取り上げる。これまでの沖縄における基地移設問題は、日本とアメリカが形成する安保体制に基づく、そして時には安保を越えた米国主導の世界国際システムを維持するための要としての米軍基地の存続が、沖縄に厳しくのしかかってきた。そのため、政治学や国際関係論の議論が必要不可欠であった。他方で、基地収入などによる外部依存経済体制の沖縄の地域構造を、沖縄の自治や内発的な発展の模索を目指した研究がおこなわれてきた。
     しかしながら、基地問題を含めた沖縄の環境問題研究については、多くの場合、保護・保全という側面ばかりが強調されてきた。それは、沖縄の豊かな環境や生物多様性が乱開発や基地建設に脅かされることで、「現場」における緊急な保護・保全の対応が求められたからである。言い換えれば、市民が「現場」での対応に追われたことで、環境と地域住民のローカルな関係性が評価されることは少なく、グローバルで普遍的な価値を見出す視点が重要視されてきた。
     そこで、本研究では、辺野古と高江の座り込み運動を事例とし、空間スケールの視点から分析を行うことで、運動の展開過程とそれらの環境運動がそれぞれの地域とどのような関係性を持っているかを明らかにすることを目的とする。

    II 辺野古をめぐる反対運動の展開
     1996年の「沖縄に関する特別行動委員会」の最終報告で宜野湾市の普天間飛行場の全面返還が発表されたことで、辺野古沖への移設問題に対する反対運動が展開されることとなる。翌97年1月には、辺野古区民を中心に27名が参加して、「ヘリポート建設阻止協議会」が結成され、この協議会は後に、通称「命を守る会」としての役割を担うこととなる。それ以降、地元集落だけではなく、名護市民の動きが急速に活発化し、4月には「ヘリポート基地を許さないみんなの会」、5月には「ヘリポートはいらない名護市民の会」が結成され、市民投票推進協議会結成への足がかりとなる。
     1997年12月21日の市民投票結果は、条件付き反対を含めて過半数が反対、無条件反対のみで過半数を占めた。反対派の市民グループとしては、「命を守る会」の他に、旧久志村北部の「二見以北十区の会」、名護市西部とくに市街地女性を中心とした「ヤルキーズ」(命どう宝ウーマンパワーズ)、名護市東部を中心に活動した「ジャンヌの会」などが中心となって活動を行った。中でも「ジャンヌの会」の呼びかけで沖縄をつなぐ全国的なネットワークが形成され、5月8日から10日に、東京大行動を行った。県内20団体、124人の沖縄女性が参加した。市民投票の1年後には、「新たな基地はいらないやんばる女性ネット」が形成された。
     2000年以降になると、ジュゴン保護関係団体や世界自然保護基金日本委員会(WWFジャパン)などによる自然保護運動が沖縄の反基地運動・平和運動において無視できない大きなうねりを生み出した。

    III 高江をめぐる反対運動の展開
     沖縄本島北部の山や森林など自然が多く残っている地域は、やんばると呼ばれ、東村高江はそのやんばるの中に存在する。人口は150名、そのうち中学生以下が約2割を占めている。先述の1997年のSACO合意により、北部訓練場の約半分を返還する条件として、返還される国頭村に存在するヘリパッドを、東村高江へ移設することが計画されている。現在でも東村には15か所のヘリパッドが存在しており、そこへ新たに6か所のヘリパッドの建設が予定されている。
     高江の住民は2006年にヘリパッド反対の決議を行い、計画の見直しを要請してきた。2007年7月2日、防衛局は工事を着工したことで、その日から高江住民は座り込みによる工事阻止行動を続けている。
    2007年8月24日に、「ヘリパッドはいらない住民の会」が設立されているが、高江集落の規模から考えてみても、その中心となっている住民はわずか数世帯である。しかも、2008年11月、国は座り込みが工事の妨げになっているとして、住民ら15名に対し、通行妨害禁止の仮処分を那覇地裁に申し立てるなど、座り込みを維持するためには、支援団体によるサポートが不可欠である。その中心を担っているのは、奥間川流域保護基金のメンバーを中心とした沖縄・生物多様性市民ネットワーク、沖縄平和運動センターなどが、現地での座り込みのサポートを行ったり、防衛局への異議申し立てなどを行っている。

     報告では、辺野古・高江をめぐる座り込み運動の空間スケールおよび、運動主体の関係性について比較をおこなうことで、現在運動の置かれている状況の分析をおこない、運動が抱えている課題について検討していく。
  • 山崎 孝史
    セッションID: 111
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    橋下徹大阪都知事が代表となる「大阪維新の会」が提唱する「大阪都構想」について、橋下知事と平松邦夫大阪市長との意見交換会の討議内容をコーディング分析し、関西における大都市圏ガバナンスのゆくえについて、リスケーリングの政治という概念から考察する。
第2会場
  • 横地 留奈子
    セッションID: 201
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    関東地方南部、利根川下流域である東京都、埼玉県、茨城県、千葉県をまたぐ範囲には、特異な形の盆の風習がある。 一般に、盆は、祖霊祭であるとされている。 かつては旧暦の7月中旬に行われることが多かった。新暦が導入された明治6(1873)年以後の日程は、さらに多様化している。7月や月遅れである8月の13日から15日、または13日から14日、そして8月の初旬に行われている地域もある。祖霊を家に迎えることが主と捉えられているが、同時に無縁仏が家にやってくるともいわれる。祖霊とは、イエの先祖の霊である。一方の無縁仏には二種類あり、一つはかつてイエの構成員だったが先祖とならなかった霊、もう一つはイエとは無関係と考えられる霊(行き倒れなど)である。 盆の期間には迎えと送りが行われる。迎えとはイエの墓地や辻、川や海などからイエまで祖霊を迎えることである。祖霊に対しては一定期間イエで供物を捧げ、その後再び祖霊を送る。 その祀り方も、地方毎の特色がある。盆棚と呼ばれる祖霊を迎える台を庭や屋内に設けたり、祖霊と共に家に来た無縁仏に対して屋内や屋外で供物を出したりする。 関東地方南部の利根川下流域では、8月、もしくは7月の13日から15日に行われる。都市部では7月、農村部では8月に行われるとされる。盆は、おおよそ以下のように営まれる。 13日の夕暮れに「お迎え」を行う。集落の墓地に、灯りのない提灯を持って住民が訪れてくる。家の墓へと向かい、水をかけ、線香を手向け、お供えの食物を供える。墓石の前で提灯に火を灯すもすと、また家へと帰って行く。東京都北西部では、墓地が遠い場合は家の前の道路で祖霊を迎えることもあるという。素焼きの皿の中でオガラを焚いて音を鳴らせる地域もある。 家ではあらかじめ仏壇の前に盆棚を用意し、位牌を並べて置く。墓地からイエに着いた祖霊は、本の機関にそこに留まるという。盆棚には朝昼晩と3度の食事を出す。そうして祖霊が留まる中、千葉県北西部や茨城県南東部では、14日の昼には祖霊が「タカノノセガキ」へ出かけると説明する地域もあった。 15日は「送り」である。送る祖霊にお弁当を持たせたる地域もある。祖霊の乗り物としてナスの牛やキュウリの馬を作ったりする。そうして夕方、盆棚から提灯を灯して祖霊を迎えた場所まで行き、提灯の火を消すと完了である。 以上のように、祖霊を墓などから迎え、送る一連の動きが、墓とイエとで行われている。 ところが、祖霊をイエに迎え、誰もいないはずの墓地へ、14日早朝に行く地域もある。千葉県北西部と茨城県南東部である。民俗学でも「十四日の墓参」と呼ばれ、全国に分布してよく知られた風習である。が、その時に使用する台が、今回のテーマである。 材料は、30cm長の竹棒2本と一晩干したマコモである。竹棒2本を十文字にし、マコモで四角く編んでいく。15_cm_四方まで編むと、残った15cmほどの竹棒を折り、脚がわりとして地面に立てる。14日の墓参の際には、マコモで編んだ屋根上の部分に「アラヨネ」「ミズノコ」と呼ばれる、イモの茎やキュウリ、ナスなどを刻み生米を混ぜたものを乗せる。墓参の対象は、行為者に聞いても不明であった。 一方、全く同じ台を使いながら、その対象を祖霊とし、13日の迎えで使用する地域もある。 作成に手間のかかる同一の台を広い地域で行われているにもかかわらず、その使用方法や意味付けが異なるのはなぜか。分布の広がりから考察することが本研究の目的である。
  • 川西 孝男
    セッションID: 202
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    ドイツの劇作家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-83)は晩年,バイロイトに終の棲家を得て,ここに自らのオペラ専用たるバイロイト祝祭劇場を建造し,舞台神聖祝祭劇「パルジファルParsifal」(1882)を完成させた。本論は,この「パルジファル」の主題となったヨーロッパの聖杯騎士伝説とバイロイトとの関わりについて歴史地理学的視点から論じたものである。
  • 北川 眞也
    セッションID: 203
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    地中海最南端に浮かぶイタリアのランペドゥーザ島には、ここ15年ほどのあいだ、地中海を縦断するボートピープルがやってきている。ヨーロッパ/イタリアのスケールではその対応のために様々な試みがなされてきたが、その試みはいずれもこのランペドゥーザの地理へとローカル化、物質化されなければ効果を発揮しない。しかし、このローカル化の過程で、ランペドゥーザの島民から、彼らの日々の生活との関係で、様々な異議申し立てが行われてきた。発表では、島の収容施設に収容された移民の存在をも視野に入れた上で、こうしたスケール間の関係性を、ランペドゥーザにおける場所の政治として分析する。
  • 成瀬 厚
    セッションID: 204
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1970年代の人文主義地理学によってキーワードとされた「場所place」は概念そのものの検討も含んでいたが,その没歴史的で,本質主義的な立場などが1980年代に各方面から批判された。1990年代にはplaceを書名に冠した著書や論文集が多数出版されたが,そこでは場所概念そのものの検討はさほどなされなかったといえる。 本報告では議論を拡散させないためにも,検討するテクストをプラトンの『ティマイオス』および,そのなかのコーラ=場概念を検討したデリダの『コーラ』を,そしてアリストテレスの『自然学』および,そのなかのトポス=場所概念を検討したイリガライの「場,間隔」に限定する。 プラトン『ティマイオス』におけるコーラとは,基本的な二元論に対するオルタナティヴな第三項だといえる。コーラは岩波書店全集では「場」と翻訳されるものの,地理的なものとして登場するわけではない。『ティマイオス』は対話篇であり,「ティマイオス」とは宇宙論を展開する登場人物の名前である。ティマイオスの話は宇宙創世から始まるが,基本的な種別として「存在」と「生成」とを挙げる。「存在」とは常に同一であるもので,理性(知性)や言論によって把握される。これは後に「形相」とも呼び変えられる。「生成」とは常に変化し,あるという状態のないものであり,思わくや感覚によって捉えられる。創世によって生成した万物は物体性を具えたもので,後者に属する。そのどちらでもない「第三の種族」として登場するのが「場=コーラ」である。コーラとは「およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し,しかし自分自身は,一種のまがいの推理とでもいうようなものによって,感覚には頼らずに捉えられるもの」とされる。その後の真実の把握を巡る議論は難解だが,ここにコーラ概念の含意が隠れているのかもしれない。いや,そう考えてしまう私たちの真理感覚を問い直してくれるのかもしれない。 デリダはコーラ概念を,その捉えがたさが故に検討するのだ。「解釈学的諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは,つまり,形を与えることができるのは,ただ,接近不可能で,平然としており,「不定形」で,つねに手つかず=処女的,それも擬人論的に根源的に反抗するような諸女性をそなえているそれ[彼女=コーラ]が,それらの類型を受け取り,それらに場を与えるようにみえるかぎりにおいてのみである」。 『ティマイオス』では,51項にも3つの種族に関する記述があり,それらは母と父と子になぞらえられる。そして,コーラにあたるものが母であり,受容者であり,それは次のイリガライのアリストテレス解釈にもつながる論点である。このコーラの女性的存在はデリダの論点でもあり,またこの捉えがたきものを「コーラ」と名付けたこの語自体の固有名詞性を論じていくことになる。 アリストテレスのトポス概念は,『自然学』の第四巻の冒頭〔三 場所について〕で5章にわたって論じられる。トポスは,物体の運動についての重要概念として比較的理解しやすいものとして,岩波書店全集では「場所」と翻訳されて登場する。アリストテレスにおける運動とは物質の性質の変化も含むため,運動の一種としての移動は場所の変化ということになる。 ティマイオスはコーラ概念を宙づりにしたまま,宇宙論をその後も続けたが,アリストテレスは「トポス=場所」を物体の主要な性質である形相でも質料でもないものとして,その捉えがたさを認めながらも論理的に確定しようとする。トポスには多くの場合「容器」という代替語で説明されるが,そこに包含される事物と不可分でありながらその事物の一部でも性質でもない。 イリガライはこの容器としてのトポスの性質を,プラトンとも関連付けながら,女性としての容器,女性器と子宮になぞらえる。内に含まれる事物の伸縮に従って拡張する容器として,男性器の伸縮と往復運動,そして胎児の成長に伴う子宮の拡張,出産に伴う収縮。まさに,男性と女性の性関係と母と子の関係を論じる。 この要旨では,デリダとイリガライの議論のさわりしか説明できていないし,これらの議論をいかに地理学的場所概念へと展開していくかについては,当日報告することとしたい。
  • 大平 晃久
    セッションID: 205
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    文化地理  岐阜県内の文学碑の事例を中心に、記念碑と場所の関係を比喩として読み解き、記憶-場所論に新たな視点を提示する。
  • 全 ウンフィ
    セッションID: 206
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    在日コリアン地区に関する場所の記憶の形成と変遷を、新聞記事などを通して考察する。
  • 太田 孝
    セッションID: 207
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     (はじめに) 「修学旅行」という言葉は,ほとんどの日本人の心に思い出として残っている言葉であり,長年にわたって学校教育の中で大きな役割をになってきた。白幡1)は,昭和の日本人の「旅行」を「昭和が生んだ庶民の新文化」とする。この「庶民の新文化」がどのように形成され,日本人の特徴としての「団体型周遊旅行」という旅行行動が生まれてきたのかを明らかにすることが本稿の目的である。その際,特に着目したのが修学旅行である。  修学旅行は,日本の特徴的な文化の一つとして定着しており,日本人の旅行を考える上で,決して欠かすことのできないテーマである。昭和時代には国家体制と社会環境の影響を受けながらも,太平洋戦時下を除き息長く継続されてきている。「なんとか子どもたちを修学旅行にいかせたい」。それは父兄のそしてムラ・マチの大人たちの,戦前・戦後を通じての熱い思いであった。昭和戦前期また戦後の荒廃下でも,わが国の地域社会において,都市と農村や生活の格差を越えて幅広い層にわたって組織的に「旅行」を経験し,「外の世界」に触れたのは子どもたちであり,修学旅行にはひとりでも多くの生徒の参加がめざされていた。自分たちが「日頃行動できる範囲=日常生活圏」から離れ,見聞きしたことを家族やムラ・マチの人々に話す。この子どもたちの体験と情報は地域社会に大きな影響を及ぼしたと考えられる。このような問題意識を持ったとき,戦後における日本のツーリズムの画期性を考察するには,その土壌が出来上がる前段の,戦前における人々の「旅行行動の意識形成」の過程をとらえて論じる必要があることに気がつく。本稿のめざすところは,日本人の旅行行動の意識形成を明らかにすることであるが,それに影響を与える大きな役割をになった一つが,幅広い層にわたって誰もが経験した修学旅行であったと考えられる。日本人の旅のスタイルの特徴を形づくってきた淵源のひとつは修学旅行にあるのではないか。 このような仮説と問題意識のもとに,戦前において「参宮旅行」と称して全国から修学旅行が訪れた「伊勢」をフィールドとして,筆者が発見した資料(1929~1940年の間に全国から伊勢神宮を修学旅行で訪れた学校の顧客カード3,379校分・予約カード657校分ほかが内宮前の土産物店に存在した)をもとに考察した。 (得られた知見) まず第1に,「伊勢修学旅行の栞」による旅行目的と行程の詳細分析から,目的である皇国史観・天皇制教化としての「参宮」を建前としながらも,子どもたちにたくさんのものを見せ,体験させたいという「送り出し側(学校・父兄・地域)」の思いが修学旅行に色濃く反映していることが実証された。その結果としての,短時間での盛りだくさんな見学箇所と時間の取り方や駆け足旅行という特徴は,子どもたちに,『旅行とはこういうものだ』という観念を植えつけ,団体型周遊旅行の基礎を作り上げるとともに,『見るということに対するどん欲さ』を身につけさせた。 第2に,夜行も厭わない長時間の移動と,食事・宿泊も一緒という実施形態により,団体型の行動や旅行に慣れていった。この形態が戦後の団体臨時列車,引き回し臨時列車,修学旅行専用列車,バスによる団体旅行等の旅行形態と,それを歓迎する(好む)旅行行動の意識形成につながった。 第3に,現代の日本の団体旅行の誘致手法は,江戸時代の伊勢御師の檀家管理手法や講による団体組成方式にルーツがあり,その思想を受け継いだ伊勢の旅館や土産物店の修学旅行誘致・獲得策が,戦後の旅行業の団体営業型のモデルになった。ツーリズムは需要側と供給側の相互作用によって醸成されていくものである。この供給側の需要側に対する活動が日本人の団体型旅行行動意識形成の重要な部分を担ってきたことが検証された。 第4に,旅行における『本音と建て前』の旅行行動の意識を明らかにした。すでに江戸時代から存在したものであるが,特に満州事変以降の戦時体制下において,子どもたちの修学旅行を実現するためにその考え方が強く現れている点を指摘した。この『本音と建て前の旅行文化』は,戦時体制下という事情とともに,日本人の余暇観・労働観が旅行行動の意識の根底にあるものである。 このように,従来の研究ではとらえられていなかった,戦前の修学旅行が旅行の形態と旅行行動に関する意識形成に与えた影響を明らかにした。そして第5に,この影響は,「都市と農村」や「生活面での格差の階層」を越えた幅広い層の子どもたち本人と,その日常生活圏の人びとに対するものであったことも,戦後の日本のツーリズム形成の要因として見逃すことはできない。 1)白幡洋三郎『旅行のススメ 昭和が生んだ庶民の「新文化」』1996.中公新書
  • チャン ティ マイ ホア, 野間 晴雄
    セッションID: 208
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    長野県飯田市は修学旅行をはじめとして,多くの都市部からの生徒・学生を農村に分宿させ,体験プログラムを行う先駆的な「飯田型エコツーズム」を推進してきた。その成立経緯と今後の課題について,実態調査をもとに分析して,市場規模が小さいエコツーリズムを経済効率の高いものにする工夫をそこにみたい。
  • 神田 孝治
    セッションID: 209
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    I.はじめに
     1970年代に観光ブームを迎えた与論島は、観光客と地域社会の間でコンフリクトが見られた典型的な事例であった。こうしたコンフリクトは、特に外部から付与された与論島のイメージと、そこから生じた観光客の諸実践をめぐって生じていた。この与論島は近年、映画『めがね』の舞台として注目を集めているが、そこで喚起される与論島のイメージも現地の対応も1970年代のそれとは大きく異なっている。本発表では、これらの比較を通じて、観光地のイメージとそれへの現地の対応について考察を行う。
    II. 与論島の観光地としての系譜
     与論島は、沖縄本島の北方約23kmの距離にある、周囲約21.9kmの小さな島である。この地は1945年の終戦によりアメリカ合衆国軍政統治下におかれたが、1953年に沖縄に先駆け日本に復帰した。そのため、1972年に沖縄が日本に復帰するまで、与論島は南の最果ての地となっていた 。
     この与論島に行くのは簡単なことではなく、例えば1968年段階で、鹿児島から最速船で約23時間を要し、船は1日1便であった。しかしながら、1967年に財団法人日本海中公園センターの田村剛が「東洋の海に浮かぶ輝く一個の真珠」として与論島を賞讃し、翌年にNHKの「新日本紀行」で与論島が放映されると、旅行業者の活動も盛んになるなかで観光客は増加していき、1979年には150,387人の入込客数を記録した。けれどもその後、石垣島への航空機の就航、沖縄の観光開発の本格化などの影響を受け、1980年以降は観光客が漸次減少し、2009年には58,048人となっている。
    III. 観光最盛期における与論島のイメージとコンフリクト
     1970年代の与論島の魅力について、当時の新聞記事では、日常生活を営む都市との対比によってもたらされた「自由」を若者が感じていると指摘していた。さらに当時のマスメディアはさらなる幻想を与論島に付与しており、例えば1971年の週刊誌の記事では、「ブームの与論島の聞きしにまさる性解放」と題してそこを性の楽園として描き出していた。
     このように外部から来る観光客の欲望の対象とされた与論島では、地元住民による反発も生じていた。なかでも先の週刊誌の記事は地元住民の大きな怒りを買い、「夜ばいだの、フリーセックスだの、週刊誌の記事はまるで“南洋の土人”扱いではないか。未開の土地を探険する文明人の発想ではないか。」(『南海日日新聞』1971.7.2)と、本土側からのまなざしが批判の対象となっていた。
    IV. 映画『めがね』による与論島観光と現地の対応
     2007年9月に公開された映画『めがね』は、「何が自由か、知っている」をキャッチコピーとし、都会から南の島にやって来た女性が、観光をするのではなく、何もせず「たそがれる」という内容になっている。
     この映画は、与論島に自由を見出しており、それは1970年代の観光ブーム時と同じである。しかしながら、そのイメージは、性的な部分が強調される楽園ではなく、ゆったりとした気持ちで「たそがれる」島というものである。そして、この映画の影響を受けた主に若い女性が、与論島を訪れるようになっている。
     映画『めがね』の提起する与論島のイメージや、それに憧れてやってくる観光客に対して、現地における聞き取り調査では地元住民の反発の声を聞くことはなかった。しかしながら、与論島観光協会への聞き取りでは、制作会社の意向により、そこが与論島であると積極的に宣伝することができないとのことであった。また、そうした宣伝を行うことは、インターネット等を利用して自分で情報収集してやって来る観光客に対しては逆効果であるとも考えており、いくつかの情報提供を行い、またそれによる観光振興への期待は高いものの、映画で与論島をアピールすることはするつもりがないとのことであった。
     地元住民への聞き取り調査では、与論島ブーム時のような観光地化に対する反発は今でも根強い。そうしたなかで、映画『めがね』の喚起する与論島イメージやそれにともなう静かなブームは、地元住民にとっては受け入れやすいものだといえるだろう。しかしながら、それが産み出す与論島のイメージとその魅力は、観光への否定に基づいており、そのなかで映画の舞台であることを積極的に発信できないというジレンマも産み出している。与論島では、観光と地域がどのように関わるかという課題が、イメージの問題を中心に、形を変えながら現在でも続いているといえる。
  • 蘇 紋槿
    セッションID: 210
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    本発表は台湾の高雄にある内門紫竹寺と南海紫竹寺を研究対象とし、廟の祭祀範囲を指す祭祀圏という空間をめぐる組織の運営ならびにこの組織が担う祭祀活動を取り上げて観光の介入による観光空間の生産について、祭祀活動が持つ非日常性や民俗文化の観光資源化という観点から考察していく。
  • 山口 太郎
    セッションID: 211
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では,富山県高岡市山町筋地区における重伝建地区選定後の歴史的町並みの空間変容について,とくに伝建地区制度の修理・修景事業の運用による効果を中心に報告する.
    具体的には,重伝建地区選定時の2000年以降における建造物の修理・修景について,高岡市教育委員会が発行している『高岡市山町筋重要伝統的建造物群保存地区 町並み保存の記録』第1巻(2002年発行)から第8巻(2009年発行)を用いて確認し,現地調査の結果を加えて分析を行う.
    現地調査では,山町筋における建造物の伝統的な特徴(構成要素)として,1間ほどの下屋,防火壁,鋳物支柱,1階格子戸・窓,漆喰(白・黒),2階観音開き戸,箱棟を抽出し,分析を行った.
    なお,調査対象とした建造物は,山町筋伝建地区のなかでもメインストリートといえる旧北陸道沿いを中心とした107軒である.
    2011年8月に行った現地調査において,調査対象建造物のうち,伝統的建造物は48軒(44.9%)である.1間ほどの下屋をもつ建造物は28軒,以下,防火壁は32軒,鋳物支柱は29軒,1階格子戸・窓は27軒,白漆喰は22軒,黒漆喰は16軒,2階観音開き戸は6軒,箱棟は18軒である.
    修理は28軒であり,伝統的建造物全体の58.3%を占める.修景は3軒であった.修理対象となった28軒は,いずれも明治の大火後の明治33年から45年にかけて建築されている.ところで,市の『保存活用計画』における修理基準は,「原則として現状維持または復原修理とする」となっている.後者の復原修理を行うということは,建造物の当初の外観が変更されていることを意味している.
    山町筋伝建地区は,明治の大火から間もない頃の町並みを1つのメルクマールとして修理・修景事業が進行しているが,町家以外の伝統的建造物や伝建地区周辺部との調和も図っていく必要があろう.
第3会場
  • 山口 覚
    セッションID: 301
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     本発表では,主に1984年制定の尼崎市都市美形成条例を対象として,その運用例や,市の財政難などにともなう運用上の変化を確認する。同条例は「狭義」の景観行政に関わるものであり,今回の発表ではその部分に焦点を当てる。ただし「まちづくり」全般と関わる「広義」の景観行政にも必要に応じて言及する。  その際には,行政(や研究者)による「都市」表象との関係にも留意する。自市をいかなる「都市」と見なすかによって,その時々の行政の在り方は変容する。都市景観行政は「都市」それ自体が置かれた複雑な流動的状況や,その時々のトレンドにに左右される「都市」表象を色濃く反映するのである。  より具体的な事例の内容としては,1980年代以降における尼崎市の狭義の景観行政の整理,旧尼崎城下町の一角を占める「寺町」を中心とした景観行政の注力とその変化,それを裏付ける市財政における景観行政の位置づけの変化などを取り上げる。脱工業化,バブル崩壊,阪神大震災の影響といった広範なコンテクストの変化の中で様々に変化してきた景観行政は,「市民派」市長のもとで決定的に弱体化されていき,自他ともに「市民」と認めるであろう寺町住民と行政との間で「寺町マンション建設問題」という形でのコンフリクトを生じせしめるに至る。この間に尼崎市は,「独自の歴史を有する個性ある都市」との表象から,「大阪大都市圏における住宅都市」というようにその表象を大きく変容させている。  都市景観行政論を幅広い都市論の中に置き直して再考することが最終的な目標となるが,この発表それ自体では,尼崎市都市美形成条例に関する詳細な事例の紹介を中心におこないたい。
  • 安江 枝里子, 森田 匡俊, 桐村 喬
    セッションID: 302
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに
     東山三山の自然的景観を背景とした眺望的景観は「京都らしい景観」として広く認識されており,京都市の景観施策においても初期の1930年代から景観整備の対象となっている。一方で,既成市街地に多く残存していた京町家は近年大きく減少しており,京都市の景観施策においては京町家の保全が大きな課題となってきた。現在,京町家は「京都らしさ」を表す町並み景観の重要な構成要素のひとつであると考えられており,京町家の保全・活用は,京都の景観整備を議論する上で不可欠なテーマとなってきている。このように,近年の京都市の景観施策においては京町家の保全が重要な位置づけを有するようになっており,景観行政における京町家の価値が大きく変化してきたと考えられる。そこで本発表では,戦後の京都市における景観への取り組みを辿ることによって,景観行政における京町家の価値や意味がどのように変容してきたのかを探る。
    2. 研究の方法
     まず,戦後の京都市の景観に関連する取り組みの流れを既往研究や京都市の総合計画等の資料から整理し,土地利用や建物の高さ,外観などの規制対象に焦点をあてつつ,景観施策の特徴を把握する。次に,特に近年の京都の景観行政における市街地景観や歴史的町並み景観に関する規制内容に注目しながら,景観施策における京町家の位置づけの変化を把握し,京町家の価値や意味付けの変化の過程を明らかにする。
    3. 戦後の京都の景観に関する取り組み
     京都市の景観に対する取り組みは,1930年の旧都市計画法による風致地区の指定にさかのぼる。風致地区には自然景勝地,田園集落地,文化財とその周辺地などを含み,自然的要素を含む都市の整備を対象としている。昭和30年代は京都市の景観施策の歴史において転換期となり,1963年には京都駅前の京都タワー建設計画と双ヶ丘開発計画が浮上し,都市景観に関する議論が市民を巻き込んで展開された。高度経済成長期における都市の近代化の波は,住環境の整備,市街地景観の整備の必要性を高めた。京都市は1972年に,既成市街地への景観施策として「京都市市街地景観条例」(以下,旧景観条例とする)を制定した。旧景観条例では,「市街地の美観を維持するため」の美観地区制度を取り入れ,既成市街地に存在する京都の歴史的町並み景観の保全と再生を狙いとしたものであった。また,工作物規制区域ならびに巨大工作物規制区域を設定し,高度規制を設けることによって京都タワーのような巨大な工作物を規制することも狙いのひとつであった。バブル経済期を迎えるころには,旧景観条例の改正の必要性が認識されるようになった。なかでも平安遷都1200年を記念した京都駅の改築計画は,高さ60mの建築計画であり京都の景観問題として全国的な注目を集めた。1995年には「京都市市街地景観整備条例」(以下,新景観条例とする)が制定され,市街地景観の規制が強化されるとともに,京町家を含む歴史的な町並み景観の保全・修景をさらに推進する制度となっている。2007年にはこれまでの景観施策の抜本的な見直しとなった「新景観政策」が施行された。これまでの景観施策を引き継ぐ内容であるが,よりきめ細やかな規制が制定されており,規制強化の方向に向かったものとなっている。
     以上のように,京都市の景観に関する取り組みを概観すると,戦後の京都市の景観施策は,高度経済成長期とバブル経済期に代表されるような高層建築の出現といった都市の近代化の波にあらがう形で修正・変更が行われている。旧景観条例での工作物への高度規制や新景観条例での高度規制の引き下げは典型的な例としてあげることができるだろう。一方で,もうひとつの景観施策に底流することとして,歴史的な町並み景観の保全・修景に関する規制の強化・拡大があげられる。
    4. 考察
     新景観政策では,京町家は,単なる「伝統的な建築様式」を表現する媒体だけでなく,「生活文化」を具現しうる媒体としても明記されている。
     これらのことから言えるのは,京町家は目に見える京都の「伝統的」な都市景観を構成する要素の一つとして見なされているだけではなく,「生活文化」「伝統的な暮らしや生業」といった,目に見えない文化的側面を含む媒体になってきていることである。すなわち京町家の文化的価値は,京都市の景観施策において,拡大されていることが指摘できる。
     今後は,京都市における景観施策の変遷と,京町家の保存を目的としたグループの活動や住民の生活との関わりについて,加えて,京町家の減少と景観施策の変遷がどのような関わりを持っているのかについて,にそれぞれ焦点を当てて調査を進める。
  • 竹中 克行
    セッションID: 303
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     伝統的建造物が建ち並ぶ街並み,遊休化した近代の港湾地区,街頭で繰り広げられる地域の踊りなど,歴史的環境にはさまざまなタイプのものがある.それらは,たんに古くから存在する,そうみなされているだけでなく,長期にわたって蓄積されることで,何らかの公共的な価値を獲得するという共通点をもつ.
     本報告では,歴史的環境のなかで,とくに都市の考古遺跡に着目する.考古遺跡の大部分は,建築行為の影響を受けにくい地下に横たわっているため,古代都市の跡地では,条件が揃えば,市街地の広い範囲に遺跡が残されている。また,土地そのものは権利者のいる不動産であるが,遺跡が不動産価値の一部をなすとは一般に考えられていない.ゆえに,考古遺跡の実効的な保存・活用のためには,都市全体を視野に入れた一体的な取組みがとりわけ大きな意味をもつ.遺産政策が対象としうる多様な事物のなかでも,都市空間の基層をなす考古遺跡に,とりわけコモンズとしての価値が措定される所以である.
     しかしながら,考古遺跡が,さまざまな競争関係に晒されながら,かろうじて社会的承認を獲得してきたことも,また事実である.この意味で,都市を舞台とする歴史的環境の公共性が構築される過程を考察するうえで,考古遺跡は興味深い材料を提供してくれる.
     上記の問題意識から本報告が取り上げるのは,古代ローマの属州都があったタラゴナである.スペイン北東部カタルーニャ自治州の中核都市のひとつ,タラゴナ県の県都タラゴナでは,古代タラコの遺跡の真上に中世に起源をもつ現代の市街地が位置する.
     属州の都タラコの中枢部をなした神殿,属州フォールム,競技場は,「上手地区」とよばれる高台の歴史地区に集中分布している.しかし,考古遺跡の相当部分は,訪問者向けに整備・公開されている一部エリアを除いて,市民生活で通常使用されている建物の地下にある.また,上手地区の外側にも,ローマ時代の劇場,都市フォルム,一般住宅などの遺構が,市街地に埋もれた状態で広範に分布している.
     タラゴナの考古遺跡は,どのような競争関係をくぐり抜けることで,公共的な価値を認められてきたのだろうか.この問題をめぐっては,まず,考古遺産そのものが遺産として意味づけされる過程が検討されねばならない.タラゴナは,1966年以来,全市域にわたって国指定文化財の考古学ゾーンに指定されている.しかし,自治州文化省による用心深い保護政策がとられている現在の状況とは対照的に,フランコ体制期(1939~1975年)には,乱開発によって考古遺跡が次々と失われた.
     他方,考古遺跡を遺産とみなす視線が成立したからといって,その公共的な価値が広く尊重されるとは限らない.市街地の考古遺跡の大部分は,民間不動産としての個別的な権利関係のもとにおかれているからである.不動産権利者たる個人・事業者は,考古遺跡の上に造られた建造物を日常的な経済活動の場として利用している.このため,考古遺跡を歴史的環境の重要な構成要素として保護・活用しようとする遺産政策と,個々の事業体としての利益や居住の権利を主張する不動産権利者は,同じ都市空間をめぐってしばしば対立的な関係に陥る.タラゴナでは,市が中心を担う都市計画や施設の許認可を通じて,両者の調整がしばしば行われている.
     さらに,競争関係は,遺産政策それ自体のなかにも存在する.考古学ゾーンにすっぽりと取り込まれたタラゴナの市街地には,文化財に指定された数多くの建築遺産が存在する.しかも,上手地区のように,歴史的建造物群として一体的に文化財指定されているエリアもある.現在の市街地とは異なる空間構成原理をもつ地下の考古遺跡と,市街地の上物をなす建築遺産や地区の建造環境は,ともに歴史的環境の不可欠な構成要素である.しかし,遺産政策のなかで双方の保存・活用に折合いをつけることは,必ずしも容易でない.
     歴史的環境とのかかわり方をめぐる対立と遺産政策の内側で発生する矛盾,という2つの競争関係について分析・考察するための有力な材料に,個人・事業者の建築許可申請を受けて,自治州文化省が行う審査の記録がある.審査記録からは,考古遺跡や文化財建造物を有する権利者による建築行為の申立て,遺産保護の観点から事業の修正を求める自治州の裁定,都市計画の中心主体として遺産保護と日常的な空間利用の両立方法を模索する市など,多様なステークホルダーの立場と相互の関係がみえてくる.報告では,いくつかの具体的な事例を取り上げて考察する予定である.
  • 西原 純
    セッションID: 304
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    平成の市町村合併で誕生した合併自治体557(1999年4月~2006年3月)について、合併直後と2009年度末の2時点における行政組織の空間的配置(庁舎の方式)を、各自治体の行政組織図、インタビュー調査、アンケート調査、電話調査などによって特定し、組織の再編成を把握した。 本庁舎をどこに置くか、いずれの庁舎の方式を採用するかは、合併協議の最重要課題であった。 分析の結果、当初は約40_%_を占めた総合支所方式は大幅に減少し、本庁方式へ移行した自治体が多かった。また、減少が予測された分庁方式はほとんど減少していなかった。庁舎の方式について、行政の効率化が進められた一方で、合併後の行政運営の困難さを示している。
  • 山田 浩久
    セッションID: 305
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     東日本大震災では,地震とはまったく関係ない交流事業で関係を深めていた自治体同士が連携しあい,非被災自治体からの救援隊が被災自治体に派遣された。各自治体のこのような自発的行為は,被災地に対する迅速な支援に結びついたことは明らかであり,今後の防災計画にも大きな影響を及ぼすと考えられる。本研究では,より効果的で即時性の高い救援活動を行うための指針を提案することを目的とし,仙山交流圏を構成する山形県側自治体がその交流事業を基礎に行った救援活動の経緯を整理することによって,平常時の交流事業が緊急時の救援活動に果たした役割を具体的に明らかにした。分析の結果は以下のように要約される。
     仙台市を中核とする仙台地域の人口はおよそ149万人であるのに対し,山形市を中核とする村山地域の人口は56万人にすぎない。仙台市の卓越は絶対的であり,山形市はそれに対抗できるほどの中心地性を有していないと言える。仙台地域と村山地域の交流は,都市的活動の相互交流というよりは,仙台市の都市的魅力と村山地域の農村的魅力を互いに享受し合うような余暇活動の提案か,若しくは,臨海部の環境と林間部の環境がそれぞれに生み出す物産の交換や文化の紹介によって成立すると考えられる。
     東日本大震災後,仙山交流圏で交流事業を展開していた山形県側の8市町は,いずれも交流事業の相手先市町村に救援隊を派遣した。一方,従前に交流関係を確立していなかった自治体は,山形市をはじめとして複数の自治体に救援隊を派遣した。これは均質的な支援を目指したものと思われるが,情報が錯綜する現地では救援活動の配分が難しく,総体的なルールの欠如が問題になった。しかし,山形市のように影響力が広域にわたる中規模以上の都市においては,広域的な救援活動が期待されており,限定的な救援活動はできなかったと考えられる。このような都市では,地区内コミュニティ規模で人的ネットワークが形成される親密な交流事業を市全体で進めることは逆に難しい。換言すれば,人口10万人未満の小規模都市であるからこそ,平常時の交流活動を活かした集中型の即時的救援活動が可能であると言うことができる。
     村山地域の自治体の中で最も積極的に救援活動を行なった上山市は,1981年に宮城県名取市と姉妹都市協定を締結し交流深めていたが,2011年3月の時点では災害時の相互支援協定は締結されていなかった。しかし,自市内の被害が比較的軽微だったこともあり,震災翌日の3月12日には救援活動を名取市に集中させることを決定し,13日には職員2名と共に給水車を派遣した。市内の被災状況が掌握され市民の安全確保が確認された14日には上山市名取市救援対策本部が設置され,本格的な救援活動が開始された。名取市に対する集中的な救援活動の決定には,交流事業の一つとして進められた議員交流において議員出身同士の両市市長が顔馴染みになっていたことや,事業を通じて個人的な親交を深めていた職員が多く存在していたことが大きく影響した。
     交流事業に基づく自治体の自発的な救援活動が被災者の救援に効果的に作用することは明らかであるが,同時に,今後に向けた課題も指摘できる。交流事業の本来の目的は互いの地域に対する理解を深めることであり,今回の震災では,それが救援先の早期決定や派遣職員の熱意に反映された。しかし,交流人口の増加が,常住人口減少による地域内経済の低迷を補うといった観点から進められる交流事業では,効率性や収益性が重視され,地域理解や人的ネットワークの形成を目的とするイベントが縮小される傾向にある。災害救援のための交流事業となってしまっては本末転倒であるが,短期的な経済収益を優先するイベントが林立する交流事業の中で,地域の相互理解を目的とする地道な活動をいかに継続させていくかといった課題への対応が求められる。
     また,自治体が行う救援活動は即時的で統制がとれているが,長期にわたる活動は期待できない。そのため,長期間の支援活動は専門のボランティア団体や個人の活動に任される。災害直後の救援活動を民間の支援活動に結びつけるのは,最初から現地に入っている自治体の役割であるが,今回の震災において,そのパイプ役を上手く果たした自治体は少ない。これは,直接的な救援活動に関しては用意していたものの,それを民間の支援活動にシフトしていく方策が確立していなかったことに原因があると思われる。今後は,公的支援から民間支援への段階的な移行方法を民間団体との連携によって考案していかなければならない。
  • 菅野 拓, 四井 恵介
    セッションID: 306
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    東日本大震災発生直後におけて、現地での物資支援を行う中でのGISの活用および、行政による情報提供形態が実際の支援で役に立たないなかで、暫定的なGISデータを作成し活用した事例を紹介する。
  • 青木 和人
    セッションID: 307
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    市町村では事業の対象となる乳幼児期の0~5歳児が,どの地域に多いのかという地域的特性を踏まえた上で,施設立地を検討することが喫緊の行政課題となっている。しかし,このような公共施設配置に立地‐配分モデルを適用する際,需要地点や距離の定義に利用できるデータは,市町村によって様々である。このため,非集計の需要地点や道路ネットワークデータが使用できない場合の適用誤差を知った上で,立地‐配分モデルを適用する必要があるが,そのような事例は未だない。そこで本研究では,日本の市町村が直面している課題である中学区への子育て支援拠点施設配置を対象として,需要地点と距離の定義に関して,様々な条件のデータを利用した場合の立地‐配分モデルの目的関数ごとの適用誤差を明らかにした。 本研究の対象地域は,非集計の需要地点データを使用することができる京都府宇治市の広野中学校区域である。宇治市は京都府南東部に位置し,宇治川を挟んだ東西に市域面積67.55k_m2_を有している。距離の定義を,(a) 道路ネットワーク距離と(b) 直線距離の2つの条件とし、目的関数を,(1)施設を利用する住民の総移動距離を最小化するp-メディアン問題,(2) 施設まで最も遠く離れた住民の移動距離を最小化するp-センター問題,(3) 施設から一定の距離圏に含まれる住民を多く被覆する最大カバー問題 の3つの指標とし,適用誤差を比較した。 p-メディアン問題での比較:p-メディアン距離が最も小さくなる最適立地点は,最適条件(a-1)では候補地2である。他の条件でも,(a-3)以外,候補地2が最適立地点となっており,最適立地点の選定に大きな差は生じていない。(a-2)ネットワーク距離定義,町丁・字等単位の集計データによる適用結果は,最適条件(a-1)とほとんど変わらない評価結果を示しており,その使用は十分可能である。一方,(a-3)ネットワーク距離,500mメッシュ単位の集計データは,適用誤差が大きくなりすぎるため,その使用は適当ではない。さらに直線距離定義である(b-1),(b-2),(b-3)を使用すると,25%程度評価値が過大評価されるため,望ましくない。このように立地‐配分モデルを適用する際に,集計単位と距離をどう定義するのかは不可分の関係にあるといえる。特に,距離の適切な定義のために,市町村は国道,県道以外に市町村道を網羅した詳細な道路ネットワークデータを作成しておくことが有効である。 p-センター問題での比較:公平性を重視した施設配置を実現するp-センター問題では,最適立地点の選定に,ばらつきが生じている。p-センター問題では,精度の高いデータを使用することによって,初めて適切な結果が得られるといえる。このため,行政の施設配置において効率性でなく,公平さを目的とするp-センター問題を適用する際には,精度の高い最適条件(a-1)が求められる。しかし,すべての条件において,最適立地点の評価値は,歩行限界距離である1,000mを大きく上回っている。このため,中学校区を単位とした子育て支援拠点施設配置問題への歩行限界距離1,000mを想定したp-センター問題の適用は,現実には難しいであろう。 最大カバー問題での比較:最大カバー問題における各条件での最大誤差は,404~730人あり,中学校区への最大カバー問題による立地‐配分モデル適用により,カバー人口を400~700人,30~50%程度改善できることがわかる。最大カバー問題では,すべての条件で最適立地点は,候補地2となり,差は生じなかった。最大カバー問題は条件の違いによる最適立地点の選定誤差が出にくいといえる。最大カバー問題でも,評価値の誤差から,(a-2)ネットワーク距離定義,町丁・字等単位の集計データの利用が最も望ましい。しかし,詳細な道路ネットワークデータを用意できない市町村も多い。そのため,すべての条件で同じ最適立地点を算出することのできた最大カバー問題は,日本の市町村が中学校区単位で様々な条件のデータで立地‐配分モデルを適用する際に,最も利用しやすいモデルであるといえる。 市町村において効率的な施設配置計画を立地‐配分モデルで策定していくためには,以上のような適用誤差を把握することが重要である。その結果,立地‐配分モデルによるロジックの透明性は,意思決定過程の明確な説明を促し,住民への説明責任を果たすことに寄与するであろう。
  • 福田 綾, 大石 貴之, 磯野 巧, 財津 寛裕, 樋上 龍矢, 蘇 磊, 松井 圭介
    セッションID: 308
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
     日本における港湾は海上交通と陸上交通の結節点として重要な役割を果たしている。港湾の背後には後背圏が形成され,港湾を通過する貨物を生産あるいは消費する場として機能している(野澤 1978)。港湾に関する研究において,遠藤(1981)は清水港を例に,企業が港湾までの陸上輸送費などを考慮して利用する港湾を選択していることが,港湾の階層性を生み出し,清水港の後背地が横浜港や東京港の強い影響を受けていることを指摘した。
    本発表では茨城港を事例に,東京湾に立地する諸港と比較していかなる優位性が存在するのか,各港区の取扱貨物の特徴や,茨城港を利用する企業の戦略に焦点を当て,北関東の物流における茨城港の港湾機能がいかに展開されているのかを明らかにする。

    II 関東地方における海上物流の展開と茨城港の位置づけ
     関東地方には,茨城,鹿島,木更津,千葉,東京,川崎,横浜,横須賀と8つの港湾がある。2009年における8港の貨物取扱量は輸出6,905万トン,輸入26,274万トン,移出11,672万トン,移入11,014万トンである。そのうち,貨物取扱量が最も多いのが千葉港で,輸出入,移出入を含めた総取扱量は14,490万トンに及び,全国的にみても大きな港湾のひとつである。関東地方の海上物流は,千葉港,東京港,川崎港,横浜港の東京湾岸に立地する港湾を中心に展開されており,コンテナ取扱い施設の規模が大きいこと,後背地への交通アクセスがよいことなどがその要因として指摘されている(峯 1996)。
     茨城県は,2008年にそれまで重要港湾であった日立港,常陸那珂港,大洗港の3港を合併して茨城港を設置した。茨城県は,3港合併による茨城港のブランド力の向上を意図しており,また2011年に北関東自動車道が全線開通したことによって,栃木県,群馬県の内陸各県と茨城県を結んだ内陸交通と海上交通との利便性を強調している。しかし,茨城港ではコンテナ船による取扱貨物量が少ないのが特徴であり,スケールメリットを生かした海上輸送が困難である。その一方で,大型トラックを自走のまま積み込むことで,コンテナ貨物における荷降ろしの時間を短縮した,RO-RO船と呼ばれる形態の貨物取扱量は,関東の重要港湾の中で最も取扱量が多くその量は293万トンである。

    III 茨城港における物流の動向
    1.日立港区
     日立港区は1957年に開港した茨城港で最も古く,かつ最も北側に位置する港で,4つの埠頭と17の公共岸壁を有している。そのうち,第1,2埠頭では石油製品や鉱産品などのいわゆるバラ貨物が扱われており,第4埠頭では倉庫機能を持つ物流センターが1990年に整備され,釧路港とのRO-RO船が運航されている。また第5埠頭では日立港開港以来,木材の移入港として機能してきたが,1990年代からその需要は少なくなり,現在では自動車の輸出入が行われている。
    2.常陸那珂港区
     常陸那珂港区は1998年に共用が開始された茨城港の中で最も新しい港で,2011年現在3つの埠頭と9つの岸壁が設けられている。茨城県は,常陸那珂港区を北関東における国際海上コンテナターミナルとして計画し,常陸那珂港区には大型コンテナ船が入港可能な岸壁や,コンテナの積み込みや荷降ろしに利用される大型のガントリークレーンなどが整備されている。しかし,コンテナ貨物による取扱量は茨城県の当初計画していた取扱量よりも少なく,2011年現在,北米向けの定期航路が月2便,韓国・中国との定期航路が週1便,国内では松山港と週1便の定期航路が開設されているのみである。
    3.大洗港区
     大洗港区は1985年に開港され,北海道とのカーフェリーが運行されており,2011年現在は苫小牧港との航路が週12便で運行している。大洗港区では2009年における船舶乗降人員数は2000年における乗降人員数と比較すると約半数にまで減少した。そのため,地元自治体は2006年に「日光・大洗クルーズ船誘致協議会」を設立し,内陸の観光地である日光との提携を進め,大洗港区周辺の振興を図っている。

    IV 北関東の物流における茨城港の役割
     茨城港が北関東の物流に果たす役割として,以下の2点が挙げられる。1点目は,北関東に立地する企業の港湾利用で,栃木県に立地する自動車企業や茨城県に立地する建設機械企業が輸出の拠点として茨城港を利用している。これらの企業による港湾利用は,茨城県や港湾の周辺自治体による企業誘致の成果でもあるが,北関東自動車道を利用することによって,東京湾に立地する港へ貨物を輸送するよりも低コストであると判断したことが大きい。2点目は,北海道との航路確立によるRO-RO船による貨物の流通である。特に釧路港と茨城港との航行時間は荷役作業も含めると24時間であることから,2隻で毎日運行することができるという利点がある。
  • 鎌倉 夏来
    セッションID: 309
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    _I_〈SUP〉はじめに〈BR〉 〈SUP〉グローバル化や知識経済化の中で,首都圏近郊に古くから立地していた工場は,研究開発機能の高度化・集約化を図るなど,新たな変化を見せている。本報告では,首都圏工業地域の中でも神奈川県内の東海道線沿線地域を取り上げ,その地域的特徴を確認するとともに,企業の立地調整過程に着目しながら,沿線の主要大規模工場の機能変化が意味するところを明らかにする。また,新たな機能変化をふまえた地域産業政策の課題を検討することにしたい。〈BR〉 _II_〈SUP〉対象地域と分析方法〈BR〉 今回分析の対象とした地域は,神奈川県川崎市から平塚市までの東海道線沿線地域で,軌道の両側各1km以内を範囲とした。 〈SUP〉まず,1974年時点の従業員数100人以上の工場を抽出し,2010年時点の土地利用と比較して,変化の有無・内容を調べた。続いて従業員1,000人以上の大規模工場26工場を対象に,「社史」,「有価証券報告書」,「日経全文記事データベース」をもとに,立地経緯,製品内容や従業員数の変化,他の事業所との関係など,工場履歴を明らかにした。そのうちの主要な事業所については,研究開発機能を中心に,変化の要因や立地戦略上の位置づけなどに関する聞き取り調査を2010年9月~11月に行った。〈BR〉 _IV_〈SUP〉東海道線沿線工場の機能変化〈BR〉 〈SUP〉東海道線沿線の大規模工場は,都市化の進展による立地環境の変化によって,オフィスやマンション,商業施設に用途を転換させる工場が多い。しかしながら,横浜市戸塚区以西を中心に,存続している大規模工場も少なくない。〈BR〉   〈SUP〉存続している工場の特徴として,第1に官公庁・事業所向けの製造業が多いことがあげられる(住友電工,山武など)。中央省庁や企業の本社は都心に集中しており,本社の営業スタッフが顧客と話し合う際,技術者の同席が容易であるといった利点がある。第2に,食料品や化粧品など消費者向け製品をあげることができる(森永製菓,資生堂など)。首都圏市場への近接性を重視するとともに,工場見学などを通じた宣伝効果を強化してきている。〈BR〉 〈SUP〉ところで,大規模工場の中で製造機能のみで存続しているものは少なく,多くの工場が研究開発機能などを備え,それらを強化してきている。沿線主要工場の機能変化の過程を整理すると,次のような3つのタイプ, 1)製造機能と研究開発機能との近接性を重視しながら研究開発機能を強化したもの,2)異なる分野の研究開発者を1拠点に集め,シナジー効果を狙ったもの,3)顧客志向の研究開発拠点を新たに設けたもの,に分けることができる。〈BR〉 _V_〈SUP〉地域産業政策の課題〈BR〉 〈SUP〉神奈川県は,バブル経済崩壊後空洞化の進んだ同県の製造業の再生を図ることを目的として,2004年に「神奈川県産業集積促進方策(インベスト神奈川)」を策定した。図2はインベスト神奈川の実施状況を示している。この施設整備等助成制度は,特に大企業の本社や研究所の立地に対しての助成額の上限を高くしたことに特徴がある。その結果として,大企業20社22件からの申請があり,本研究で取り上げた日産自動車,武田薬品工業,山武,日本精工などはこの政策を利用して,県内での再投資を行っている。藤沢市などの基礎自治体においても,固定資産税や法人市民税といった税収確保を背景に,研究開発施設の新設を重視する傾向にある。このように,従来の誘致政策から,工場機能の高度化を支援する政策に重点を置き始めていることが指摘できる。〈BR〉 〈SUP〉しかしながらこれまでの政策では,個々の事業所の再投資の面ではある程度の成果があるものの,地域的な波及には多くの課題が残されている。中小企業への技術波及を進め,地域での雇用創出をどう図っていくか,研究開発拠点の強化に対応した都市環境整備をどのように進めていくかが,問題になっているのである。
  • 岡部 遊志
    セッションID: 310
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1,はじめに
     フランス政府はフランスの国際競争力の低下を懸念し,2005年に「競争力の極」政策を開始した.本政策は,フランス中央政府と地域圏が共同で遂行するクラスター政策である.本政策では,官民が共同でプロジェクトを実行するプラットフォームを構築し,研究開発の強化・発展をはかっている.現在71を数える「競争力の極」は通常,地域圏ごとに設定されるが,複数の地域圏にまたがるものもある.
     本報告では,こうした複数の地域圏によって運営される「競争力の極」を,地域政策の広域連携として捉えたい.本報告では,フランスにおける「競争力の極」の広域連携が,地域の競争力の強化にどのように関わっているのか,フランス政府が広域連携をなぜ推奨するのか,これらの点を検討することにしたい.
     本報告で事例としてあげるのが,フランス南西部に位置するアキテーヌ地域圏とミディ・ピレネー地域圏の両地域圏により運営される航空宇宙産業クラスター「アエロスパース・ヴァレー」である.
     本報告では,まず両地域圏における航空宇宙産業の歴史を概観し,地域特性を明らかにしたうえで,アエロスパース・ヴァレーにおける広域連携の実態を,「ビジネス戦略分野」の参加企業のデータベースの分析とヒアリングを通じて明らかにする.

    2,両地域圏における航空宇宙産業の発展過程
     アキテーヌ,ミディ・ピレネーの両地域圏の集積の形成過程は両地域圏ともほぼ同じである.この地域の航空宇宙産業の集積は,第2次世界大戦前に軍需産業が疎開してきたことからはじまる.その後1960年代の産業の地方分散政策の対象地域となり,両地域圏,特に両地域圏都であるボルドーとトゥールーズにはハイテク産業や航空宇宙産業関連の教育・研究機関がパリから移転した.特にトゥールーズは1970年代にエアバスの本社がパリより移転するなどフランスの航空宇宙産業の中心地となった.
     このように発展過程は共通しているが,両地域圏の産業の地域分布は異なる様相を見せる.アキテーヌ地域圏の航空宇宙産業はダッソーが中心となる.ダッソーの製造拠点はボルドーやビアリッツに所在し,比較的,地域圏全体に分散している傾向にある.
     これに対し,ミディ・ピレネー地域圏にはエアバスの生産拠点やそのサプライヤーが集積しているほか,航空機などの搭載システム分野が著名である.なおこれらの産業はトゥールーズとその周辺の自治体に一極集中している.

    3,アエロスペース・ヴァレーにおける広域連携
     アエロスパース・ヴァレーはトゥールーズを中心とし,ミディ・ピレネー,アキテーヌ両地域圏にまたがる航空宇宙産業に関するクラスターであり(図2),300社以上の企業,約65,000人の雇用者を有する.
     アエロスパース・ヴァレーでは,表に示したように,9のビジネス戦略分野が設定されている.ここでは,各ビジネス戦略分野への参加企業の地域分布を分析し,広域連携の実態を分析したい.
     ビジネス戦略分野は参加企業の地域分布によって3つの分類に分けられる.分類Aはトゥールーズへの集中が顕著な分野であり,ビジネス戦略分野の4,5,6,7が含まれる.この分野は航空機や衛星などの搭載システムといったシステム開発や,それに関連したサービスが中心である.これらの分野はトゥールーズにおいて最もポテンシャルを有する分野であるとされている.
     分類Bは両地域圏都へ集中している分野であり,ビジネス戦略分野の3と9がこれに該当する.新しい技術の開発がこの2分野では重視されており,研究機関などの参加が多くなっている.
     分類Cにおいては参加企業が両地域圏全体に分布する傾向にある.この分野はサプライヤーやメンテナンスといった分野を重視しており,中小企業の参加も多くなっている.
     これらから,アエロスパース・ヴァレーのビジネス戦略分野の特徴として,1)航空宇宙産業の中心地であるトゥールーズの支援,2)研究・開発における両地域圏都の重視,3)中小企業などの援助を通じた両地域圏全体への配慮,が挙げられる. 2)と3)は両地域圏に関わるものであり,中小企業支援と新技術開発の分野で広域連携を推進しているといえよう.

    4,おわりに
     アエロスパース・ヴァレーは両地域圏を,広域連携を行うことによって結び付け,より高い競争力を発揮できる基礎を構築しようとしている.しかし,依然としてトゥールーズのみを支援するビジネス戦略分野が多く,トゥールーズとその他の地域との間の格差を招きかねないという課題が残っている.
  • 山本 健兒
    セッションID: 311
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     本報告の目的は,日本における経済的周辺の一つである九州において、そのなかでの衰退的産業集積地域に立地し、かつイノベーティヴな活動をしている製造業中小企業に焦点を当てて、そうした地理的位置にもかかわらず何故イノベーティヴたりえているのかを解明することにある。<BR)  イノベーティヴな中小企業を同定するために、経済産業省中小企業庁(編)『明日の日本を支える元気なモノづくり中小企業300社』2006~2009年版を利用した。これに掲載された九州に立地する中小企業の中から福岡県以外に立地する企業を選び、約2時間のインタビュー依頼を受諾した企業を訪問して、各企業のイノベーション形成に至る詳細に関する聞き取りを代表取締役ないしこれに準ずる職位にある人に対して2006年および2009年から2011年にかけて行った。
     本報告では、その中から佐賀県有田町に立地する機械メーカーとセラミックス電子部品メーカーの事例を紹介し、冒頭に提示した問題を考察する。有田町は、陶磁器の窯元、流通業者、支援機関が集中立地する産業集積地域であるが、九州の中では経済的周辺の地位にある。
     本報告で紹介する2社のうち1社の起源はその産業集積と深く関係しているが、現在の地位はこれに見切りをつけた時点からの再スタートに由来する。もう1社も有田の窯元が用いる原料と同じ産地の原料を用いていたという点でこの産業集積地域と関連してはいた。しかし、電子部品企業としての歩みにおいて、地元の他企業との関係はほとんどない。 いずれも、独自開発のための知識創造の源泉は顧客のニーズに応えることにあった。1社の顧客は、近隣地域から次第に日本全国へと広がった。もう1社の場合、最初から600_km_以上離れた位置にある顧客企業からのニーズに応えることが重要だった。両社とも、独自開発した製品の市場が拡大するにあたって、遠隔地の企業による評価が重要な役割を果たした。いずれの会社にあっても、開発で重要な役割を果たした人物は、有田町で開発のための基礎的能力を獲得したというわけではない。
     産業集積地域の中にあっても、これと無関係に中小企業が知識を創造し、イノベーションを実現することは可能である。その際の鍵は、地理的遠近に関係なく、顧客企業のニーズに応えることにある。各社の製品は次第に変化するが、経路依存性が認められる。
第4会場
  • 雨森 直也
    セッションID: 401
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    _I_ はじめに (1)問題の所在 中国では農産物の価格は安いため、農民が農業以外の就業機会を求めることは珍しくない。この農業以外の就業を農外就業(出稼ぎを含む)と定義する。 これまで、中国を事例とした農外就業に関する研究では、出稼ぎ、特に農民の沿海部への出稼ぎを中心とした研究がなされてきた。そうした農民が内陸部出身であることが多いことは、これまでにも指摘されてきたが、内陸部で展開される農外就業は、あまり明らかにされてこなかった。特に内陸部には多くの少数民族が居住しており、彼らの農外就業がどのように展開されているかについては、ほとんど考察されてこなかった。 少数民族の農外就業の分野としては、近代的な工場労働者も少なくないが、多くは伝統的な農外就業の影響を残したものであろう。なぜなら、少数民族は内陸部を中心に居住しており、そこでは社会主義改造が徹底されず、加えて、社会・政治の安定を求めた政権下で、漢族に比べて注意深く社会主義改造が行われてきたからである。よって、現在の少数民族による農外就業は、伝統的なるものを踏襲しつつ、改革開放政策の中で、それを展開していることは想像に難くない。 そこで本研究では、雲南省のペー族の農外就業に注目し、改革開放以降における就業地や就業構造の形成過程を明らかにする。 _II_ 農外就業の歴史的変遷 (1)X村の例 X村における伝統的な農外就業はおもに大工であった。文化大革命期でも、大工は都市建設や家屋の建設で鶴慶県政府所在地の街や周辺の村落だけではなく、ナシ族が多い麗江やチベット族が多い中甸(現在の香格里拉)を就業領域としてきた。村には大工の棟梁や近年では建設業の社長もいる。 改革開放政策が始まり、各家庭に農地が分配されると、多くの家庭では農業で最低限自給できるレベルであった。農外就業についてみた場合、大工やそれから発展した建設業も需要があり、1980年代初頭では、当時の周辺村落と比較すると少し裕福な方であった。 1990年代になると、建設需要は順調であったが、機械化の進行によって人材が余剰傾向となり、賃金はあまり上がらず、農産物価格もあまり上昇せず、村民の所得状況は低迷をきたすようになっていった。そうした状況の中でX村では次第に、多くの労働力を必要とする養蚕にかかわる世帯が増えたため、遠距離の出稼ぎ先は選好されなくなった。2005年ごろから、政府の地域格差の是正をめざす各種政策により、建設工事などの公共事業では、賃金が上がり始め、次第に民間部門の賃金も上昇し、近距離の農外就業を促進するようになった。 (2)N村の例 N村における伝統的な農外就業は、主に小炉匠と呼ばれる鍋や釜の製造や修理を手掛けるものであった。彼らの行動範囲は広く、他省に行くことも多かった。文化大革命期はX村よりも生活が困難であったため、一部の人は、小炉匠の金属加工の技術を応用し、金や銀のアクセサリーを作る銀匠になっていった。当時、彼らが目指した就業地は、主に西双版納などの国境地帯の少数民族地区であった。 改革開放後、N村では銀匠が増加し、1980年代には次第にチベット族地区の治安が回復し、そちらに出かける者が増えていった。その後、彼らの中には村内にとどまり、工房を設立し、そこでもっぱら製造する者が現れた。規模の比較的大きい工房では、周辺の村々から多くの弟子(労働者)を雇用した。 1990年代末になるとN村は観光化され、多くのガイドブックで取り上げられるようになった。彼らが作るものは、既存の少数民族を対象とした既存のものから、漢族向けのアクセサリーの割合が増加している。 _III_ おわりに 上記の農外就業の歴史的変遷がもたらした現在の農外就業状況は、図1のような構造をとなっている。X村では大工や建設業が主流であり、その棟梁や社長と、工事の依頼主との信頼関係は重要である。また、労働者となる村人の多くは、養蚕のために頻繁に村に帰郷するため、遠方での仕事を好まない。他方、N村の銀製品の商品単価があまり高額ではなく、出稼ぎ先では消費者に小売りをしているため、信頼関係は大工の棟梁などに比べれば、それほど必要ではない。また、農業も衰退しているため、多くの村人は遠方に行くことも問題ではない。 以上のように、両村にみる近年の農外就業の歴史は、1980年代初頭におかれた経済的状況と既存の伝統的技術がその後の農外就業に大きく影響を及ぼすことになった。
  • 河島 一仁
    セッションID: 402
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    18世紀後半以降に発展した越後三条、播州三木、越前武生などの金物産地が、城下町の鍛冶ならびに農村地域の野鍛冶とどのような競合関係のもとで発展してきたかに関してこれまで論じられていない。本報告では第一に、越前鎌商い(行商人)が北設楽郡においてどのような行商活動をおこなったかを、宿帳をもとに分析する。その過程で、同郡で営業活動を行なった諸種の行商人のなかで彼らを位置づける。第二に、今立郡に残されていた昭和10年代の資料をもとに、豊橋(吉田)周辺が越前鎌商いの活動範囲に含まれていたことを指摘し、『百姓伝記』で高評価された吉田鎌の衰退に関して検討を加える。
  • 竹谷 勝也
    セッションID: 403
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の目的
     美濃国北西部には、不破・多芸・安八・池田・大野・本巣・席田・方県・厚見・山県の10郡1)に渡って条里地割が分布し、本巣郡の十四条~十九条、大野郡の五之里・六里などの条里地名が残存する。
     阿部栄之助2)は、里界が郡域を超えて同一畦畔上に設定されていること、旧村界と里界が高い割合で一致することを紹介した。これを端緒に、『岐阜県史3)』と水野時二4)の大著の刊行によって正方位大規模条里の典型として知られるようになったが、いずれも小縮尺地図上での研究であり、成果として示された地図も正確とは言い難いものであった。
     1987年に池田郡5)、続く1990年代には大垣市域6)において足利健亮らによって大縮尺地図を用いた復原研究が行われ、東大寺領大井荘の領域が明らかになるなど、大きな成果があった。しかし、どちらも1郡程度の小地域にかかる成果であって、一円に広がる正方位大規模条里についてはほとんど言及していない。当然ながら他郡の成果が不可欠なのである。
     本研究は、不破-席田の7郡について大縮尺地図上で地割の分布状況を確認し、先行の復原の可否を検討した上で、改めて正方位大規模条里の姿にせまることを目的とするものである。

    2.大野郡の条里プランと河埼庄の復原
    『県史』、水野ともに、それぞれ当地域の正方位大規模条里のグループ分けを試みているが、双方の見解が異なるのは大野郡である。大野郡は対象地域の中心を占め、残存状態も良いにもかかわらず、これまでに納得できる復原案が示されていなかった。
    大野郡の条里呼称は水野説が定説であった。水野によると、牛洞が南北朝期に「八条郷」と呼ばれたことからここを8条として北から南へ数え、五之里・六里の地名から里は西から東へ数えたとする。また、坪地名から坪並は北西隅から東へ数え南に進む平行式に復原している。
     大野郡の坪付史料は、大永5年(1525)の勧修寺文書「鷲尾家領美濃国三ヶ所注文」のみである。当時大野郡は東西に分かれていて、ここにみえる上秋庄・河埼庄は大野東郡に属していた。水野は上秋庄の西限「大野西郡東堺鴈俣尾」が6里東縄に相当するとし、7里を東郡1里として東に数えるとした。
     水野案の問題は、総計473 町を数える河埼庄の領域に到底足りないことと、宝永年中以前、大野郡本庄村・加納村が安八郡に属していた事実を見落としていたことである。そのため、15条以南について、里の起点を加納・本庄両村東堺(=旧安八郡界)の畦畔と仮定し、里界を14条以北と同一の畦畔に設定してみたところ、条件を満たす河埼庄の領域が現れ、条里プランの復原も可能となった。

    3.大規模条里中の安八郡条里プランと課題  各郡の条里プランを再度検討した結果、池田・席田2郡以外は修正案を示すことが出来たがここでは割愛する。全ての郡の条里分布図を地形図上に配置したところ、基本的に条界は同じ東西畦畔上に乗ることを確認した。また、大野・本巣両郡の北部では、畦畔が最大1町ずれることが判明し、水野のグループ分けが正しかったことも判明した。
     唯一、(足利説)安八郡のみ条界が他郡より1町南になることがわかった。郡南部の大井荘付近の坪地名に基づく足利の考察に誤りは認められない。
     しかし北部では、八条村(現神戸町)北の村境が足利案の条界より1町北であることなど、従来の『新修大垣市史』の復原案の方が適当とみえる。『新修市史』の復原案であれば、他郡とのずれも生じない。 現在のところ、これを解決できる材料がみあたらないため、今後の課題としておきたい。

    <註>
    1) 明治30年以前の郡名。
    2) 阿部栄之助『濃飛両国通史 上』岐阜県教育会,1923。
    3) 水野時二『条里制の歴史地理学的研究』大明堂,1971。
    4) 『岐阜県史 通史編古代』,1971。
    5) 足利健亮・金田章裕・田島公「美濃国池田郡の条里-「池田郡司五百木部惟茂解」の紹介と検討を中心に-」史林70-3,1987。
    6) 大垣市教育委員会編『新版大垣市遺跡地図』,1994。
       同 『大垣市遺跡詳細分布調査報告書解説編』,1997。
  • 上島 智史
    セッションID: 404
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    朝鮮王朝時代、日本に派遣された通信使には、帰国後に見聞した事実を記録することが義務づけられていた。その使行記録は、朝鮮王朝時代後期では約40本現存しており、日朝交流史研究の重要な史料となっている。本発表は、この「使行録」に対馬がどのように記述されてきたのかを検討した。
  • 長谷川 奨悟
    セッションID: 405
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    明治期の京都において刊行された名所案内記の動向とその特徴を整理し、近代化における京名所に対する眼差しや、その表象の変化について言及したい。
  • 赤石 直美, 瀬戸 寿一, 矢野 桂司, 福島 幸宏
    セッションID: 406
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    本発表の目的は,『京都市明細図』をはじめとした,京都の近代資料のGISデータベースの構築と,その活用について検討することである。
    立命館大学では,アート・リサーチセンターが中心となり,文部科学省21世紀COEプログラム(2002~2006)とグローバルCOE プログラム(2007~2011)の2つのCOEプログラムを展開してきた。そのなかの一である「バーチャル京都」プロジェクトは,特に歴史都市京都を対象とする歴史GISを実践するものである(矢野ほか,2007;矢野ほか,2011)。本プロジェクトは,京都に関するあらゆる地理空間情報を収集し,GIS化することを基本理念としている。今後はそれぞれの資料批判を展開しつつも,いくつかのデータを比較し,近代京都の都市構造やその歴史的特徴についても踏み込んでいく必要がある。本発表では現在構築中の『京都市明細図』のGISデータベースについて紹介するとともに,これまで本プロジェクトにおいて構築されてきた近代京都のGISデータベースを利用して,近代京都の土地利用と土地所有の関係性について言及する。

    2.『京都市明細図』のGISデータベース構築
    『京都市明細図』は京都府立総合資料館が所蔵する地図資料であり,2010年12月から公開されている。当地図は,1927(昭和2)年に刊行され、後の1951(昭和26)年頃まで加筆・訂正されている。また,製作は大日本聯合火災協会であることから,いわゆる火災保険図としての利用を目的として作製されたようであり,個々の建物の形状や階数,その用途,詳細な業種まで記されている。よって、明細図に記された詳細な情報を分析すれば,近代末期から第2次世界大戦後の京都の景観的特徴が示されると考えられる。立命大学アート・リサーチセンターでは京都府立総合資料館と連携し,『京都市明細図』のGIS化に取り組んだ。

    3.『京都市明細図』にみられる土地利用の特徴
    データベースの構築を進めるなかで、『京都市明細図』における様々な記載内容が明らかになってきた。建物の形状や住宅や工場といった区別のほか,特徴的なのが京都の伝統産業に関る記載である。ここでは,友禅染や西陣織といった染織関係の建物の分布について取り上げたい。『京都市明細図』における染織に関わる記述としては,「織」や「織物工場」,「織問」,「友禅染」,「友仙工場」などが例として挙げられる。そこで,それらのポイントデータを作成し,その分布特性を検討した。その結果,既存の成果でいわれてきたように,戦後直後頃の京都では,染関係は堀川五条周辺に広く分布していることがわかる。また,一乗寺の辺りにも染工場とサラシ工場が分布している。一方,織物関係は,問屋街は室町三条周辺であるが,職人の住まいや工場はいわゆる西陣周辺であり,北は北大路を越え,大徳寺や北山通周辺まで広がっていた。

    4.『京都地籍図』との比較
    上記のような染織関係業者の分布の特徴について,土地所有との関係を考察してみたい。「バーチャル京都」プロジェクトにおいてGISデータベース化されている『京都地籍図』を活用することとした。大正元年に刊行された『京都地籍図』と昭和2年から戦後にかけて作成された『京都市明細図』とでは作成時期にかなりの年差がある。それでも,個別の地籍図が接合された『京都地籍図』を利用すれば,近代京都の一時期における土地割の特徴について概観することができる。両図を重ね合わせた結果,京都市の中心部では土地割と建物とがほぼ重なる場合が多かった。一方,周辺部では,一つの土地割の中に多数の建物が記載されており,周辺部における借家の分布が推測された。その点に関する詳細な分析が今後は必要であろう。

    5.おわりに
    本研究では,『バーチャル京都』プロジェクトの一部として作成されつつある『京都市明細図』のGISデータベース構築について述べるとともに,それら近代京都のGISデータベースを活用した分析について検討した。これまで近代京都については,主に都市史の分野で多くの研究蓄積がみられるが,それらは町毎,あるいは通り毎といった非常にミクロなレベルでの分析が多かった。それに対し,資料のデータベースを構築し,それを用いた比較分析を行うことで,全体像を踏まえつつ,都市の部分的な検討も可能となってくるであろう。全体と個別といった対象範囲を自在に変える手法は,地理学の得意とするところである。GISデータベースの構築はその基盤となるものであり,今後はそれを活かした歴史研究の展開が期待される。
  • 山口 晋, 山本 哲史
    セッションID: 407
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     主として,若年者の転出者の社会的属性や居住行動から,首都圏近郊にある埼玉県戸田市の特徴について提示する。
  • 貴志 匡博
    セッションID: 408
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    本研究は,近年の都市に近い農村における若年既婚者のUターンに注目し,その属性と傾向を明らかにするものである。これまでのUターンに関する研究は,農村地域を対象としたものがほとんどなく,対象地域の人口が数十万人規模の研究が多い。  これまでのUターン研究では,20歳代でのUターンが多いとされ,就職と学歴に注目した研究が展開されてきた。例えば,山口ほか(2010)などの研究がある。しかしながら,30歳代といった若年のUターンは結婚後に家族を伴ってなされること事が多く,子どもの存在が集落に活気をもたらすなど,無視できない点も多い。

    2.対象地域と調査手法
    県庁所在都市より高速道路を経由して2時間の地にある農村地域として,兵庫県多可町加美区を対象とした。多可町は,2005年に加美町,中町,八千代町の3町が合併した。町役場を中町におき,旧町はそれぞれ地域自治区となった。そのうちの加美区の人口は,7204人(国勢調査2005年)である。 本研究はこれまでの研究のように高校同窓会名簿によるアンケートではなく,加美区に居住する全世帯に対するアンケート調査に基づいている。この調査は神戸大学経済学研究科と多可町とのまちづくりむらづくり協定,加美区各集落の役員方の協力によってなされた。配布と回収は2009年8月のお盆休みに集落の区長を通じて配布し,町役場へ郵送回収する方法をとった。世帯主から世帯主本人と配偶者,その子に関する移動歴を尋ねる形の調査票を用いた。これにより,農村地域を対象とした全世代的な調査を行った。なお,本研究においてUターンの定義を,加美区出身者が加美区外に転出し再び加美区に戻ることと定義する。調査票は1912票を配布し,うち510票(回収率26.7%)を回収した。うち世帯主で加美区出身者は424人である。

    3.結婚後Uターンの特徴と実像
    紙幅の関係上ここでは世帯主だけの分析結果をしめす。加美区出身で在住の世帯主419人のうちUターン者数は179人であった。加美区出身者の約4割は他出経験があり,6割近くは他出経験が無いことになる。そのうち移動経歴が正確に把握できた149人において,結婚後のUターン者が67人で半数近くを占めている。未婚者のUターン(以下,未婚Uターン)と既婚者のUターン(以下,結婚後Uターン)では,Uターンのなされるピークが異なっていることがわかる。未婚Uターンのピークは20歳代前半で,結婚後Uターンのピークは30歳代前半である。本研究では以上の点を踏まえ,20・30歳代の結婚後Uターンに注目する。 20・30歳代結婚後Uターンを高校と大学の学歴別にみると,学歴によってUターンのなされる時期が異なっていることがわかる。20歳代前半のUターンでは大学卒業者の未婚Uターンが4割を占める。これに対し,30歳代前半では,高校卒業者の結婚後Uターンが約5割,大学卒業者の結婚後Uターンが約3割を占めている。Uターンを誘発させるには,年齢以外にも学歴などの属性に注意を払う必要があると思われる。
    次に,就業についてみる。20・30歳代の結婚後Uターン者の4分の1は,教員,公的企業職員を含む公務員系であった。Uターン前後での職業の変化をみると,家業継承とみられる変化が目立つ。正規会社員から家業継承とみられる自営業や会社役員へ約2割が変化している。そのため,Uターンに際し転職を経験している人が多くなっている。本調査を分析した山岡ほか(2011)でもUターンの理由として,イエの継承に関する回答が多かったことがわかっており,職業の変化にも家業継承を確認できる。また,少数ながら20歳代後半と30歳代後半のUターン者で教員,医療,美容師といった専門職もみられ,専門的な技能を身に付け出身地にUターンした事例も見られる。 Uターン前の居住地も就業地に対応して兵庫県や大阪府に集中している。兵庫県内居住者を詳細にみると,約3割が多可町周辺市町であった。結婚直後は周辺市町に居住し,その後加美区へ戻るケースと考えられる。これは一般的なUターンのイメージとかけ離れるが,実際のUターンにはこのような移動パターンが存在する。
    加美区内において,30歳代結婚後Uターン者の地理的分布を見る。加美区北部の旧杉原谷村で,30歳代結婚後Uターン者が高い割合の集落が集中している。加美区北部の旧杉原谷村は,同じ加美区でも交通アクセスの不便な地域として住民から認知されている。このような地域では本来Uターン者の割合が低くなることが予想される(貴志;2009)。このような結果の背景として,既に行った加美区内の全集落調査から,集落内での行事との関係が考えられる。世代を超えた交流をもたらす祭りなどの行事は集落への愛着を高め,将来のUターンを盛んにしている可能性が高い。
  • 石野 聖
    セッションID: 409
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 発表者が勤務していた中学校の1年生全員を対象に、3学期の学年行事である『実力テスト』において日本の白地図に都道府県の正確な位置と名称を答えさせる問いを出題した。47すべての都道府県についての問題である。 その結果を元に、次の2点に注目してみた。 (1)都道府県ごとの正答率の対比―解答については、正確な漢字で書いているか平仮名か。誤答については、他県名を書いているか誤字か空白か。 (2)今回の正答率と定期テストの得点率との対比―「この分野は得意」という生徒が散見されたため、小学校6年時の担任が社会科専攻かどうかを調べた。 以上から、地理的分野の学習(県名認知を例に)において、現在の教育現場では具体的にどのような指導が必要なのかを考察する。 2.白地図テスト実施までの流れ 発表者が勤務していた中学校は、大阪府門真市にあるE中学校(公立)である。この中学校では、S小学校、K小学校、H小学校(いずれも公立)の3小学校の卒業生を受け入れている。 毎年1月に、中学1・2年生の学年行事として、『実力テスト』を国語・社会・数学・理科・英語の5教科において実施している。それぞれ既習の範囲内で各教科50分出題される。中学1年生の社会科では、主に世界地理と日本地理(地形図)の出題が中心である。  試験対策については、基本的には『実力テスト』と銘打っているので、通常の定期テストのように事前に範囲を指定し、課題等を渡しておいて受験させるという流れではない。しかしながら、白地図問題が含まれるため、冬休み用課題として47都道府県をすべて記入するプリントを配布しておいた。  3学期開始後、課題の自己採点を行うための解答を生徒へ配布した。その際、「次の実力テストに、都道府県名を答える問題を出題する。」ということを明言しておいた。 3.テスト結果について テストは大問6問で、世界地理(全地域)、日本地理(地形名)、都道府県の白地図で構成される。白地図問題の解答条件では、○(=正解)とするには、一定の基準を設けている。まず、**府、**県など漢字できちんと答えること、平仮名は一部でも△(=減点)、誤字は×(=誤答)として扱った。府・県などが抜けた場合は、漢字が正確でも×とする。このような条件で、47都道府県すべてを出題した。  受験者は、1学年6クラス204名であった。平均正答数は47問中、23.2問(49.4%)であった。  県別正答率でみると、北海道、青森、大阪、沖縄、岩手の順で高く、地方別では北海道を除くと、近畿地方、東北地方、中国地方の順に高い。逆に県別誤答(不正解)率でみると、茨城、栃木、福岡、神奈川、新潟の順で高く、地方別では、関東地方、四国地方、中部地方の順に高い。  誤答率の高い県の記述例をみると、茨城では「茨木」「?(誤字)城」、栃木では「群馬」「?(誤字)木」、福岡では「大分」や他県名の記述が多かった。また、平仮名での解答が多かった県は、岐阜、新潟、鹿児島、栃木、埼玉である。これらは、小学校の国語科で習得しない漢字を含んでいる県名である。  今回の「都道府県名を答える問題」が社会科の他分野に比して得意かどうか、正答率対比の値を算出して調べてみた。もとより社会科の得意な生徒もいるので単なる正答率で比較するのではなく、47問の大問正答率を年間5回の定期テスト得点率(平均)で割ることによって値を求めた。その結果、学年平均の値は0.92であったが、それを上回る生徒数は102名であった。  引き続きこれらの値を利用し、出身小学校と旧担任(6年時)との関係を調べると、旧担任ごとの正答率対比の値にばらつきがみられる。これは、社会科を専門とする担任の指導による影響も考えられる。 4.考察 白地図問題を実施し、全都道府県を答えさせることによって、各県の正確な場所、名称の記憶について各生徒の県名認知の現状が把握できた。誤答の主な原因としては、正しい漢字が書けないことと、他県との誤認である。それぞれ、特定の県に集中している。 普段の学習には消極的だが、県名を答えるなら得意という生徒が少なからずいることがわかった。小学校時に受けた指導が影響しているかどうかは、具体的な聞き取りなどで調査しており、発表時に報告したい。
  • 末永 雅洋
    セッションID: 410
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     イナゴ採集・調理・食の文化は東北・関東地方等で今も残っているが、2011年3月11日に起こった東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故によって近隣地域のイナゴの食文化に影響が出てきている。福島県の須賀川市立白江小学校やいわき市立夏井小学校では児童の放射線に対する影響を懸念して従来から行われていたイナゴ採集行事が中止された。長年イナゴ採集を行っていた郡山市在住の男性も、今年度は福島県中通り地方では採集活動を行えないため、さらに西の会津地方でイナゴ採集を行うことを決心している。福島第一原子力発電所事故は、福島県内のイナゴ採集従事者に大きな影響を与えた。戦後の食生活の変化によってイナゴ食慣行は衰退していったが、福島第一原子力発電所の事故はその流れをより一層加速させるものだと予想される。群馬県吾妻郡中之条町では昨年と同様、地域振興の一環としてイナゴの採集イベントを予定しているが、こうした取り組みはこれからのイナゴ文化にどのような機能を果たしていくのかが注目される。本発表では、イナゴの食慣行があり、かつ学校教育や地域振興の一環として取り入れている地域の取り組みを紹介し、現代的課題と今後の展望を考察する。
  • 野間 晴雄, 香川 貴志, 土平 博, 河角 龍典, 小原 丈明
    セッションID: 411
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    1.目的・視角と本発表の経緯
     大学学部専門レベルの地理学研究の知識と技術を網羅した教科書・副読本として1993年刊行の『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖』(海青社)1)は,情報アップデート化2)を除いて,2001年に『ジオ・パル21 地理学便利帖』3)以降,大きな改訂をしてこなかった。この間,日本の大学地理学教育をめぐる環境変化,IT技術の急速な変化,高等学校での「地理」の未履修者の増加とその対応,隣接分野への地理学的アプローチの拡がりと地域学・観光などのコース・学科や学部の新設などにより,提供すべき知識・内容を抜本的に改訂・一新する必要が生じてきてきた。
     本発表の目的は,2012年春の刊行をめざした全面改訂版である『ジオ・パルNeo 地理学・地域調査便利帖』(仮題)の要諦を,旧版と比較して解説し,現代の大学生が身につけるべき地理学の基礎知識や技術や情報について考察することである。副次的な意図としては,改訂内容への忌憚のない意見・情報を学会参加者から求め,最終稿へ導くことである。

    2.大学の地理学教育をめぐる環境変化
     この約20年間,アカデミック地理学の動きとしては、環境論が装いを新たにして再浮上してきたこと,計量・モデル志向の方法論の相対的後退,自然地理学の細分化,新しい文化社会地理学・政治地理学の隆盛,場所・地域論の見直し,地理思想の拡がりなどである。技術論としては,GIS,ITの目覚ましい発達,とりわけインターネットを通じた大量かつ広範囲の情報の入手,加工が容易になったことがあげられる。
     日本の大学における地理学の立場も大きく変わった。大学「大綱化」による教養課程の廃止と専門科目の低学年次への繰り下げ,大学における組織改組,多様な(一部には意味不明な)専攻・専修・コースの設立や改称,地理学やその隣接分野を学べる専攻の多様化・分散化などがあげられる。高等学校「地理」が必修科目からはずれたことによる学生の基礎知識の低下と格差拡大,ゆとり教育の推進による常識・学力の低下,学生の内向化,フィールドワークや基礎的技術を疎んじるインターネット過信などの状況がある。

    3.全面改訂作業の内容 ―旧版との比較を通じて―
     旧版『ジオ・パル』の趣旨には,故・浮田典良氏の地理教育・地理学への高い志が凝縮されている。詭弁を排し,徹底して大学生が学ぶべき内容をコンパクトに盛り込む便覧を意図し,2~4年ごとの改訂によって最新情報の提供をめざした。その構成は,地理学史などの本質論から,地理学の諸分野,研究ツール,文献,分析手法,キーワードに及んだ。今回の全面改訂は,旧執筆者の意見を汲み込みながら,現役で学部の実習や演習を担当している若手・中堅4名の十数回にわたる討議・共同作業により,3部構成(イントロ,スタディ,アドバンス)に全体を組み替えた。
     「イントロ」は,高校「地理」を履修せずに入学する多様な学生の注意をひき,現在の学生の最大の関心である就職や資格にも配慮した入口~出口解説である。本論が「スタディ」で,さまざまな授業で随時参照でき,かつ4年間あるいは卒業後も使える有用性をめざした。地図の利用と自ら主題図を作成する技術,地域データの入手法,地域調査事例,GISの入門などを充実させるとともに,学生がプレゼンテーションや卒業論文を書く際の注意事項などを追加した。その一方で,地理学史や著名学者,学会など,大学院をめざす人,より高い専門性を追求する学生向きの事項は「アドバンス」にまわした(図1)。

    4.今後のよりよき改良と修正に向けて
     研究発表時には野間が全体の概要とねらいを,香川が具体的な改訂版の新機軸や内容の一端を紹介する。まだ,全体に盛り込むべき内容が完全には確定していない。情報として盛り込むべき事項(専攻名称や地方学会の雑誌情報)も変化が激しい。会場入口に置いた追加資料に挟み込まれたアンケート(無記名)と情報提供について,ご協力を賜れば幸いである。

    注・文献
    1)浮田典良編『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖』海青社,1993年[白表紙]。2)浮田典良編『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖1998-1999年版』海青社,1998年[紫表紙]。3)浮田典良・池田碩・戸所隆・野間晴雄・藤井正『ジオ・パル21 地理学便利帖』海青社,2001年[赤表紙]。
第5会場
  • 伊藤 貴啓
    セッションID: 501
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
     本発表は東海地方(愛知・三重・岐阜の3県)における農産物直売所の地域的特色をその設立と立地,開設効果,消費者ニーズとその対応などに関するアンケート調査1)を基に考察するものである。
     直売所の設立と立地 東海地方において,直売所は1990年代以降,とりわけ90年代後半から2000年代前半にかけて設立されたものが多い(図1)。その立地は愛知県を除いて山間部が過半数を占め,残りを主に平地農村部と都市部で分け合う形となっている。これに対して,愛知県では平地農村部が最も高く,都市部と山間部がともに4分の1ずつを占める。それらの立地理由として,各県直売所ともに主要道路沿線,生産者近接,既施設併設をあげる割合が高かった。また,設立・運営の主体は生産者または生産者グループが中心であるものの,愛知県において農協が設立・運営の主体になる割合が高い(図2)。これは農協施設に併設して直売所を設けるタイプが多いためである。
     設立目的と開設効果 直売所の設立目的として,直売所の6割強が「地元農業の振興」「地域の活性化」を,3割強が「地元農産物への消費者ニーズを満たす」「女性・高齢者の活躍の場を作る」を挙げる。具体的な利用者状況をみると,愛知・岐阜両県では年間利用者数1万人未満と10万人以上という直売所が多く,三重県では10万人以上が半数を占めた。年間売上高では愛知・岐阜両県の場合,年間売上高5千万円未満が半数以上を占め,他方で岐阜県の直売所の4分の1が年間1億~5億円の売上高を誇り,愛知県ではさらに年商5億円以上の直売所が12施設(11.7%)みられた。これらから規模からみた直売所の両極性を指摘できよう。全体としてみれば,直売所の開設効果は「地域農産物の有効利用」「消費者とのコミュニケーションの活発化」「地域の活性化」「生産者の所得向上」「女性・高齢者の活動が盛んに」という点にある(図5)。
     出荷者と価格決定 直売所へ出荷する生産者を規模別にみると,全体として50人未満の直売所が4割強を占め,なかでも愛知県の場合,半数以上を占めたのに対して,出荷者数300人以上の大規模な直売所も愛知県で12施設みられ,先述のような規模の両極性がみられた。出荷者は直売所と同一市町村内の農家がほとんど(86.9%~90.1%)であり,これに隣接市町村の農家が加わる形となる。従来,出荷者は専業農家が少なく,女性・高齢者を担い手とするとされたが,愛知県では4分の1弱の直売所で専業農家が過半数以上を占めることが注目される。各直売所の価格決定権はほぼ生産者個人または生産者集団に委ねられている。生産者は周辺スーパーの価格を参考とし,さらに愛知・岐阜両県では周辺直売所の価格を,三重県では津の卸売市場の建値を参考としていた。
     消費者ニーズとその対応 消費者は同一市町村または隣接市町村に居住する者が多いため,リーピーターの割合が高い(図4)。ただ,一部の大規模直売所は県内他市町村からの集客を可能にしている。直売所は消費者ニーズを鮮度(5段階評価で4.3,以下同),安心・安全(4.1),品質(3.8),価格(3.8)の順で捉えている(図6)。これを具現化するため,直売所の過半数弱が朝採り販売を行い,3分の2が生産者氏名を明記し,3分の1強が地場農産物の安定販売や地場農産物の販売のみを行う。また,トレーサビリティに対応し,残留農薬の検査を行う直売所も3分の1弱ある。
     直売所のこのような取り組みは消費者からみた「鮮度」「安心・安全」「品質」を真に具現化し,ローカルフードシステムの構築の地域的条件となり得ているのであろうか。この点について,今後,消費者側からの調査も含めて考察を深めていきたい。なお,発表では紙幅の関係で提示できなかった分布図も交えながら上記の諸点(直売所の設立と立地,開設効果,消費者ニーズとその対応など)について考察する。

    1)アンケートは2011年3月に東海農政局及び各県ホームページ掲載の直売所(愛知県267か所,岐阜県123か所,三重県47か所)に対して行った。回答率は全体で37.1%(愛知県38.6%,岐阜県33.3%,三重県43.9%)であった。
  • 荒木 一視
    セッションID: 502
    発行日: 2011年
    公開日: 2012/03/23
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに 近年,食の質に対する関心が高まっている。地産地消やスローフード運動などもその一環である。それらの動きの中では,ローカルな食材を使うことでの安全性の主張や地域振興の取り組みなど,また,画一的な食に対して,地域の伝統的な食品,食文化を守ろうという試みが展開されている。そうした中で比較的伝統的な食品のスタイルを保っているものとして和菓子を取り上げた。和菓子とは洋菓子に対する言葉で,わが国の伝統的な製法によって作られた菓子ということができる。また,和菓子店は広域的なチェーン展開ではなく,個店で地場の市場を中心とした営業をおこなっている店舗,その土地土地の銘菓として昔ながらの製法の和菓子を作り続けている店舗も少なくない。このような特徴を持つ和菓子店を対象として,その原材料の産地,納入業者,および販売先との地理的関係を明らかにすることを通じ,今日の食料供給の一断面に光を当ててみたい。 調査対象 調査対象として,山口市,岡山市,宮崎市の和菓子店を取り上げ,当該地域の電話帳を元に,対象とする店舗をリストアップした。次にこのリストに基づいて調査員が実際に店舗を訪れ,あらかじめ用意した調査票にのっとって聞き取り調査をおこなった。山口市の調査は2009年12月,岡山市の調査は2010年1月,宮崎市の調査は2010年1月~2月にかけておこなった。 このうち山口市の調査はパイロット的な調査であり,旧市内を中心に17店舗での聞き取りをおこなった。岡山市の調査では電話帳から140店舗をリストアップし,その中から重複や確認できない店舗を除いた86店舗に調査員が赴いた。86店舗のうち,調査拒否など回答を得られなかったものが35店舗あり,都合51店舗から有効な回答を得ることができた。同様に,宮崎市では電話帳から54店舗をリストアップし,その中から重複や確認できない店舗を除いた49店舗に調査員が赴いた。49店舗のうち,調査拒否など回答を得られなかったものが17店舗あり,都合32店舗から有効な回答を得ることができた。  調査内容は当該店舗での主力商品を3件まで挙げてもらい,それぞれの商品の原材料の調達先と原産地を問うた。これによって,和菓子店を中心とする食材・食品流通を描き出した。 結果・考察 伝統食品の代表格ともいえる和菓子であるが,多くが域外からの原材料調達によっている。そのこと自体はもはや驚くべき状況ではないが,ここでいくつかの論点を指摘したい。第1は供給体系の全体像で,ローカルに閉じた体系か,広域に開いた体系かという点。第2はこれにかかわって,地元の業者の食材調達能力,および和菓子販売店の出荷能力である。これには山口市,宮崎市,岡山市による違いが認められた。第3は調達先による品目の差異。例えば,海外からは小麦や砂糖などを調達するケースが多く,地元からは卵や果実を調達するといった食材による特徴である。第4は商品による調達体系の違いを指摘したい。廉価な商品と高価な商品における原料調達体系の違いである。決して,地元産にこだわった原材料,あるいは地元で手間暇かけた原材料が高級品に使用されるというわけではない。一定の品質を保つためには有力な原材料産地から調達することが必要なのである。以上を踏まえて,最後に伝統食品の意味について検討を加えたい。
feedback
Top