スポーツ社会学研究
Online ISSN : 2185-8691
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25 巻 , 1 号
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特集のねらい
原著論文
  • リー トンプソン
    原稿種別: 原著論文
    25 巻 (2017) 1 号 p. 21-33
    公開日: 2018/04/06
    ジャーナル フリー

     アメリカにおける放映権を保持するNBC ユニバーサルが支払う放映権料はIOC の全収入の1/4 を構成する。五輪大会を放送したアメリカの放送事業者の中でNBC の15 回はもっとも多い回数である。NBC は従来の放送形式(リニアTV)の11 局のテレビ・チャンネルで2,084 時間の番組を放送した。その他、NBCOlympics.com とNBC Sports のアプリで全ての競技を含む4,500 時間をライブのストリーミング配信した。
     オリンピックのメディア報道に関する研究は多数あるが、本稿では先行研究からNBC の報道がどのように分析されてきたかを確認する。そしてリオ大会期間中NBC 以外のアメリカのメディアが大会報道をどのように評価したかをみる。リオとアメリカ本土との時差が小さいのに、生の放送が少なく、競技は過度に編集された形で放送されたことに対する不満や、報道はアメリカの選手に偏っていたということなどは指摘された。
     そしてオリンピック放送の制作に関する先行研究を紹介する。とりわけスポーツ愛好者ではない大半の視聴者がパッケージされた番組を好むと、制作に関わってきたプロデューサーやスポーツキャスターなどは考えており、その考えは大会報道の制作に反映されているといえよう。NBC の報道方針は、無料放送に多くの視聴者を集めることによって広告料で稼ぎ、スポーツ愛好者を有料放送と有料サイトに集め収益を最大化することである、と推測できる。
     最後に、インターネットとソーシャルメディアの役割に触れる。オリンピック大会をめぐる「言説の入り口」が増えたことによって、NBC など主流のメディアはオリンピック物語を管理することが難しくなったことを指摘する。

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  • 杉本 厚夫
    原稿種別: 原著論文
    25 巻 (2017) 1 号 p. 35-47
    公開日: 2018/04/06
    ジャーナル フリー
     本論の目的は、スポーツを見る行為の意味を解読したうえで、実際に競技場で観る場合とメディアを通して視る場合を比較し、さらに、スポーツを見ることに伴った応援という行為に注目し、主に駅伝・マラソンを分析対象として、スポーツを見るという社会的行為における相克を明らかにすることである。
     スポーツを見るという行為は、「興奮」を求める社会的行為であり、それは、パフォーマンスとゲーム展開という競技性における挑戦と、ゲーム展開にみる物語性にあるといえる。
     また、スポーツのリアリティはテレビというフレームによって転形され、メディア・リアリティをつくりだす。そして「臨場感」のあるものにするために、元のスポーツ・リアリティに回帰される。さらに、スポーツ・リアリティと差異化するために、テレビの技術を使って競技場では見られないような視線を提供する。しかし、それらはあくまでテレビがつくりだした視線であり、見る者が主体的に選択した視線ではない。また、競技場で身体が感じる雰囲気や、プレイヤーからみられているという身体感覚は、テレビでは味わうことはできない。そこには「みる」ことは同時に「みられている」という間身体性は存在しない。
     さらに、スポーツを見ることによって発生する応援は、興奮を呼び覚ませる。とりわけ、応援のための集合的なパフォーマンスが人々の身体に共振し、一体感によって興奮は高まる。しかし、その興奮が暴走しないように、日本の場合は応援団が鎮める役割を果たしている。また、応援による興奮が許されるのは非日常の世界であり、いったんそこに日常性を見出すと興奮は鎮まる。駅伝や・マラソンの場合は、もともと日常の道路を非日常に変えてレースをするわけであるから、ランナーが通りすぎてしまえば、その興奮は日常世界の中で鎮められるのである。
     結局、スポーツを「観る」ことと「視る」ことの相克は終わらない。
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  • 堀 響一郎
    25 巻 (2017) 1 号 p. 49-64
    公開日: 2017/03/24
    [早期公開] 公開日: 2016/11/30
    ジャーナル フリー

     本稿は、これまでスポーツ空間で「健常者」とされてきた人々の中にも障害を有している人々が存在していることを議論の俎上に上げ、彼らにとってスポーツ実践はどのような役割を果たしているのかを問うことが目的である。障害者スポーツは障害の程度に応じてクラス分けがなされ、かつ多くの他者の援助によって実現してきた。だが近年、障害学の分野において注目されている軽度障害という概念をスポーツ領域に用いてみると、彼らは障害者スポーツの範疇からこぼれ落ちるためにクラス分けには含まれず、かつ存在が不可視であるために周囲の人々からの援助を受けられないという問題がある。そこで、吃音症当事者のスポーツ選手2名に対してインタビュー調査を行なった。

    <br> 調査では、第一に、健常者スポーツの中にも運動機能そのものに影響をおよぼさない軽度障害者が存在し、こうした障害/ 非障害の線引きの恣意性によりスポーツ空間で困難や不利益を被っているということがわかった。例えば、吃音症ゆえに、体育会系特有の嘲笑や揶揄の対象となったり、選手間でのミーティングの際にうまく話すことができなかったこと、また時として指導者に質問することができずに、結果として上達の機会が奪われたりことなどが挙げられた。

    <br> 第二に、軽度障害者にとって健常者スポーツは、承認を受ける可能性があるということが示唆された。彼らによると、学校では満足な居場所を獲得することができなかった学生時代にも野球や体操競技でよい成績を残せば周囲の人々から認められるという経験をすることがあったと語られた。

    <br> 以上のように、軽度障害者たちは、健常者によるスポーツ空間に参加せざるを得ないため、様々な困難を抱えることとなるが、その一方で、スポーツは彼らが承認を受けるための契機としても機能しているということが明らかになった。

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  • 栗山 靖弘
    25 巻 (2017) 1 号 p. 65-80
    公開日: 2017/03/24
    [早期公開] 公開日: 2017/01/31
    ジャーナル フリー

     高校時代の運動部活動の実績が評価されて大学に進学する人びとがいることを、我々は経験的にも認知しており、スポーツ推薦によって大学に進学するという現象は、特に珍しいものではない。しかし、スポーツ推薦による進学先がどのように決定されるのかというメカニズムに関しては、実証的に明らかにされていない部分が多い。  そこで本稿では、大学入試におけるスポーツ推薦を進路決定の仕組みのひとつと捉え、当該試験を利用した進路形成の特徴を明らかにした。具体的には、ある私立の強豪校野球部を事例とした、スポーツ推薦を利用した進学先決定のメカニズムの解明である。強豪校運動部のスポーツ推薦による大学進学は、高校と大学の指導者間の関係によって規定されており、いわば、指導者の人脈を経由した進学先の決定が行われている。このことを、野球部員と指導者へのインタビュー調査と、部員の進路先が把握可能な個票という、経験的なデータを用いて示した。  はじめに、全国の私立大学におけるスポーツ推薦入試の実施状況を、マクロ・データによって概観し、続いて事例研究から、進学先決定のメカニズムを描き出すという順序をとった。  これらの作業を通じて、強豪校運動部員の進路形成が、部活を通じて行われていることを明らかにした。そして、最後に、部活を通じた進路形成が重視される理由として、その進路形成機能自体が強豪校の存立基盤であることを示した。先行研究では、一般的な学校の運動部活動を成り立たせるのは「子どもの自主性」であるとされてきたが、強豪校を成立させる基盤については明らかにされていなかった。本稿の知見により、強豪校を成り立たせているのは、部活を通じた進路形成機能であることを主張した。

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