スポーツ社会学研究
検索
OR
閲覧
検索
9 巻
選択された号の論文の11件中1~11を表示しています
    • |<
    • <
    • 1
    • >
    • >|
  • ムーアハウス H.F., 岡田 桂
    9 巻 (2001) p. 1-12,129
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、過去30年にわたるヨーロッパのサッカー社会学の発展に関しての批判的な検討である。具体的には、サッカー社会学が「フーリガニズム」と暴力というテーマに支配され、その双方に関する研究が不完全、あるいは過剰であるということを問題にする。また、主として暴力に関する議論の焼き直しである「アイデンティティ」や「ファン性」といったものに対する最近の新たな強調と、「ファン」を若い男性サポーターと同義と見なすような誤りや多くの分析上の欠陥についても指摘する。これらの一般的な誤りを実証する上で、多様な文献を用いた考察を行う。本論文ではまた、イングランドの研究者が「フーリガニズム」と「アイデンティティ」に対する過度な強調姿勢をヨーロッパに広めたため、ヨーロッパのサッカー社会学がサッカーに関する他の多くの重要な問題点を見落とすことになった事実についても議論する。不適切な問題設定とお粗末な方法論によるビジネスとしてのサッカー論に関する新たな出版ラッシュとは裏腹に、サッカーにおける財政的な取り決め、ユース世代のトレーニングや育成、購買者によるサッカー関連商品の実際的な消費のされ方、女性とサッカーなどの問題は、重要でありながら関心が払われてこなかった。この論文は、サッカー社会学が社会分析の一分野としての重要性を増すためにも、これまでの伝統的なテーマから脱却すべきであることを示唆するものである。
    抄録全体を表示
  • 安 敏錫, 金 恵子
    9 巻 (2001) p. 13-23,130
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本論文の目的は、2002年に韓国で開催されるワールドカップの政治経済学と社会文化的な意義を考察しようとするものである。本稿では、ワールドカップによる、政治的、経済的、そして社会文化的な影響や効果があると仮定した。その上で、
    (a) ワールドカップを通して国家の関心や価値が全体に浸透するかどうかを調査、記述し、解釈した。
    (b) 市民社会との密接な関係を確認、評価し、解釈した。
    その結果、スポーツと権力との連関と、そのような関係についての矛盾した特性がワールドカップを通して明らかになった。ワールドカップの政治経済学は、資本主義社会における他の局面の政治経済学と同様、市民社会のニーズや関心とは必ずしも合っていないにもかかわらず、国家のある部分における権力、利益、そして顕示的消費によって示された社会関係を形成している。以上のことから、本論文では、市民社会が市民の側にあるワールドカップの効果を広げるために、「スポーツ・フォー・オール」の振興を世論化しなければならないと示唆している。
    抄録全体を表示
  • 清水 諭
    9 巻 (2001) p. 24-35,131
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本論文の目的は、この国のサポーターカルチャーズ研究に向けてのパースペクティヴを導き出すことである。まず、英国で行われてきたフーリガニズム研究について、レスター学派、テイラーの研究を批判的にレヴユーしている。そして、1990年代におけるフーリガンの変容をふまえたポピュラーカルチャーズ研究として、ジュリアノッティとレッドヘッドの研究を検討している。本論文では、これらの研究を基盤にしながらも、この国におけるサポーターの現実との往復運動によって研究を進めていくことが重要だと考える。
    浦和レッズサポーターへのフィールドワークによれば、表象とその記憶に加えて、「男らしさ」、「浦和の場所性」、そして「抵抗の契機」といった要素がそれぞれの歴史的堆積をふまえながら複雑に絡み合って、重層決定されていることがわかる。サポーターのさまざまなポピュラーカルチャーズの要素をふまえながら、その日常で瞬間瞬間にさまざまな要素が紡ぎ合わさって構成される現実を読み解くことが必要である。
    抄録全体を表示
  • 西村 秀樹
    9 巻 (2001) p. 37-49,132
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    大相撲における立ち合いは、勧進相撲としてプロ相撲興行が成立した江戸時代初期には、行司という第三者によって客観的にその立つタイミングが提示されるというものであった。しかし、大相撲が多彩な「わざ」が展開されるスポーツへ発展していくにつれ、それは、両力士同士の相互主観的な「意」の一致、つまり「阿吽」の呼吸で立つ方法へ変化していった。これは、近代スポーツにおける判定の客観的合理化の流れとは逆行している。ここに、大相撲が純粋なスポーツに徹しきれない性格、すなわち大相撲の芸能性がある。
    この「阿吽」の呼吸で立つということは、互いの「合意」で立つということにほかならないが、それは、互いに呼吸を「合わせ」ながらも、なおかつ互いが自分の呼吸をぶつけあっていくことによってもたらされるものなのである。阿吽の呼吸とは、相手の呼吸であるとともに、自分の呼吸でもあるということだ。それゆえ、この立ち合いには、「同調」と「競争」という二律背反なるものが統合されている。両力士が「合わそう」とするだけの「調和」は深さをもたない。両力士が互いの呼吸のリズムをぶつけ合っていくことによって、互いの個性が出しきられたところで真の「合意」が成立する。それが究極の深さをもった「調和」である。大相撲における立ち合いは、この「同調」と「競争」という相反する二つの関係形式を一つの行動様式へと統合している文化としてとらえられるのである。
    抄録全体を表示
  • 麻生 征宏
    9 巻 (2001) p. 50-59,133
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    スポーツと賭けの関係は密接であるにもかかわらず、これまで賭けの研究はあまりなされてこなかった。遊びを出発点とする社会学の中で賭けは論じられてきたが、遊びの中から生まれてくる勝ち負けや誇示が、どのように社会に拡大するのかについては検討されてこなかった。この点については差異や顕示的消費を主題とする消費社会論が、研究の糸口を提示するのではないかと考えられた。
    そこで本研究では、現代社会を消費社会ととらえ、まさにその消費社会的な発展を遂げた競馬を事例として、そこにかかわる《賭けのマイクロシステム》としてのファンを通して現代社会における賭けについて検討した。
    予想という独特の行為を通して紡がれていったファンの語りは、競馬メディアによって、中身のない「語り」にされてきたことが明らかになった。しかし、最近になって、この「語り」を「語り」と承知の上で競馬を楽しもうとする新たなファンが登場してきた。そして、同時進行的に変化を遂げていく競馬メディアがさらに絡み合うことによって、ファンはスクリーンを通して提供される情報を、自分なりに解釈して編成しなおすという段階に来ていることが新たなファンの検討から推察された。予想とは、または競馬を見るとは、各々が「ターミナル (情報端末)」となって、情報を受信し、情報を解読し自分なりの映像を作り上げているということである。言い換えると、予想という行為において「わたしの場合」ということを常に考えながら、自分とは何かという問いかけを繰り返していくということである。それによって主体としての認識と客体の具体化を同時に行い、消費社会で展開される差異の獲得をよりはっきりとしたかたちで目指していっていることが推察された。
    抄録全体を表示
  • 小野瀬 剛志
    9 巻 (2001) p. 60-70,134
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、昭和初期におけるスポーツの本質について争われた論争 (スポーツ論争) に焦点を当てている。この考察の目的は、いわゆる「日本的スポーツ観」という通説の問題点を明確にすること、その通説を日本におけるスポーツに対する知識の歴史的形成過程から把握することである。特に、後者の視点は、われわれの無意識的研究「枠組み」を理解するの役立つだろう。以上の点から、日本において「スポーツ」という言葉が普及し始めた昭和初期の言説に着目した。
    スポーツ論争は、教育主義と娯楽主義との間で行われたスポーツの本質をめぐる論争である。教育主義は、スポーツにおいて教育的価値が娯楽的価値より優先的であることを主張した。その論理の中で、「武士道精神」は使用されたのである。一方、娯楽主義は、娯楽的価値が教育的価値より優先的であると主張した。彼らは、スポーツは必ずしも教育的なものとしてのみ価値があるのではなく、スポーツにはスポーツ独自の価値があること、それこそスポーツの最も重要な価値であることを主張した (スポーツ・イットセルフ)。
    この研究の結果、通説の三つの問題点が指摘できる。一つ目は、「勝利 (至上) 主義」、「修養主義」などの「日本的」と言われる等質的要素は、スポーツ論争においては争点であったことである。二つ目は、日本人がスポーツを娯楽として捉えなかったという結論が曖昧であること。三つ目は、「日本的」という概念が研究者の価値観の反映である可能性があることである。
    抄録全体を表示
  • 倉島 哲
    9 巻 (2001) p. 71-82,135
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、筆者が1999年5月から2000年8月現在 (続行中) にいたるまで、週二回の練習に参加して行った武術研究会S流のフィールドワークをもとに、その型稽古を内在的に記述することによって、身体技法のあらたな理論的可能性を示すこころみである。
    S流の型稽古の特徴は、次の三点である。(1) 型は抽象的な規範として示されることはなく、それぞれの相手の体格や動きかたに応じた動作としてのみ示され、またそのような動作としてのみ練習されること。(2) 相手に応じた動作とは、その相手に「効く」動作でなければならないとされているため、型稽古が試行錯誤的な競技の性格を帯びていること。(3)「効く」動作の習得が、「身体の線」をはじめとした独特の言語によって媒介されており、それらが「示し」のネットワークをかたちづくること。
    これらの特徴を総合したなら、S流の型稽古は、反省された身体的な感覚と「示し」のネットワークのあいだの往復運動として描き出されることになる。この往復運動は、言語的であると同時に身体的であるため、〈精神-無意識の身体技法〉という二元的図式にのっとったマルセル・モースの身体技法概念やピエール・ブルデューのハビトゥス概念ではとらえきれない。また、「示し」のネットワークは当事者が複数のアドバイスに主体的に関与することによってのみ構成されるため、つねに反省や再構成に開かれたものである。そのため、これは〈主体-無意識の構造〉という二元的図式にもあてはまらない。S流の型稽古を考察することで、従来の身体技法をめぐる社会学的認識論の限界をのりこえるようなフィールド記述の可能性をさぐることができるだろう。
    抄録全体を表示
  • 小林 勉
    9 巻 (2001) p. 83-93,136
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    ここでは、グローバル化するスポーツが途上国の人々に与える影響について、メラネシア地域を事例に検討した。スポーツ社会学において近年、スポーツのグローバリゼーションに対する関心が高まっているが、そうした研究の多くは途上国の存在を見過ごしてきた。スポーツ社会学者が、多様化へ向かう現在のスポーツの姿情を強調していくなかで、いったん途上国に目を向けてみると、そこでは異なったグローバリゼーションの実相が展開されていることがわかる。
    先進諸国を中心に「楽しさ」を主眼においたニュー・スポーツや市場経済を基盤としたレジャー活動が台頭しているのに対し、ヴァヌアツ共和国のような小さな島嶼国では、IOCやIFを中核とした組織化へ向かう動きが、いまだ活発に展開されている。
    このように、グローバル化するスポーツといえども様々な位相があり、そこには一義的には語ってならない異質な層が重なり合っている。本稿においては、スポーツにおけるグローバリゼーションを包括的な言説で一括りにしてしまうのではなく、様々な論理が絡み合う空間に身を置きながら、その交錯関係から出発して考えていくことの重要性を指摘し、そうしたエスノグラフィックな調査の積み重ねが、今後スポーツのグローバリゼーションについて考えていく際に重要であることを示唆した。
    抄録全体を表示
  • 高井 昌史
    9 巻 (2001) p. 94-105,137
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    高校野球中継の視聴者が実際に行う主体的な意味付与や、そのゆらぎを分析する際、「本当らしさ」(Verisimilitude) という概念が極めて有効である。「本当らしさ」とは、実際になにが真実なのかということではなく、支配的文化が真実であるとしている何か、あるいは一般的に信頼できるものとして受け入れられている何かを意味している。さらに「本当らしさ」は「文化的本当らしさ」(Cultural Verisimilitude) と「ジャンル的本当らしさ」(Generic Verisimilitude) に分類される。前者は、テレビドラマのようなフィクションの外にあり、我々の社会生活における常識、基準に照らした本当らしさである。それに対して後者は、フィクションの中での本当らしさである。
    高校野球中継を視聴するとき、世代あるいは性によって「本当らしさ」の揺れ動く方向性に特徴がある。保護者の世代、および女子高校生は高校野球を「ジャンル的本当らしさ」に近いと認識しながらも「文化的本当らしさ」として見ようとする。そこには、努力をおしまず礼儀正しい、しかも男らしい若者像、あるいは男性像を求める大衆心理が働いている。それに対して、男子高校生の中の一部は、自分自身が高校球児との比較対照とされることを怖れ、高校野球をあくまでも「ジャンル的本当らしさ」として見ようとする。さらに彼らの中には「本当らしさ」に真っ向から対立し、それを否定しようとする「反-本当らしさ」(Anti-Verisimilitude) も見られるのである。
    このように、「本当らしさ」とは固定化された「静的」なものではなく、常に揺れ動く可能性を秘めた「動的」なものなのである。そしてその揺れ動きは個人の主観的な意味付与だけではなく、世代、性といった要因にも大きく規定されるのである。
    抄録全体を表示
  • 西山 哲郎
    9 巻 (2001) p. 106-118,138
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    時にスポーツは、それを文化産業の一つとして理解する立場から文化帝国主義の道具として批判されることがある。「柔道の国際化・スポーツ化にともなって、武道の精神が失われた」というような言説は、スポーツをめぐる文化帝国主義批判のほんの一例にすぎない。これに対して、スポーツを人類普遍の共有財産と考え、それが文化摩擦を低減し、融和をもたらしてくれることを期待する立場も存在する。これら二つの立場は、ある意味で、同じ一つの現象を別の角度から眺めたことから生じたと考えることができるだろう。その現象とはつまり、現在、我々の生活をミクロなレベルからマクロなレベルまで全面的に変化させようとしているグローバリゼーションのことである。
    かつてフレデリック・ジェイムソンが述べたように、グローバリゼーションに直面する我々の精神は、我々一人一人がその主体として取り込まれている、多国籍にわたる、脱中心化されたコミュニケーションのネットワークの地図を描くことができないでいる。その困惑がスポーツに関して表明されたものが、先の二つの立場の交錯なのである。筆者はスポーツとグローバリゼーションの関係を考える中で、前者が後者によってその存在を規定されていることを認めるものである。しかしながら、スポーツという文化実践は単にそれだけにはとどまらない。歴史的に見ても、それは端緒から社会システムの全体主義に抵抗する諸主体を形成する「新しい社会運動」の先駆けであった。
    本稿は、スポーツという文化実践が、人々を分断する様々な差異を乗り越えるきっかけを提供するものでありながら、同時にその多様性を抑圧しないものであるにはどうしたら良いのかを考察するものである。
    抄録全体を表示
  • 山本 敦久
    9 巻 (2001) p. 119-128,139
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、キックボクサーたちの試合に備えた禁欲的な生活や厳しいトレーニングによる身体の磨き上げのプロセスに注目し、なぜ彼らが身体的危険や苦痛が伴うにもかかわらず「闘い続ける」のかを、フィールドワークをもとにしながら分析した。
    第1に、試合前2週間の減量や欲望の抑制に注目し、ジムの選手たちの相互監視によって、身体が自己規律化されるプロセスに注目した。
    第2に、キックボクサーの禁欲的な生活実践と、彼らが生きている社会的コンテクストとの結びつきを分析した。
    第3に、それらをふまえた上で、なぜ彼らは「格闘し続けるのか」を分析した。その結果、彼らが生きてきた (生きている) 社会的な条件のもとで繰り返される欠如 (「ハングリーの場所」) の体験を刻み込んだ身体図式が、試合に備えて減量や欲望の抑制によって欠乏感を駆り立てる身体図式のパターンときわめて一致することが明らかとなった。そして、試合前の減量の体験や欲望の抑制による禁欲的な生活実践を繰り返していくうちに、そこから生みだされる欠乏感を格闘に向けていくことなしには、自分のアイデンティティを保てないほど、彼らは格闘を欲していくことになるのである。
    抄録全体を表示
    • |<
    • <
    • 1
    • >
    • >|
feedback
Top