文化人類学
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表紙等
論文
  • 濱谷 真理子
    2017 年 82 巻 3 号 p. 273-289
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/05/16
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    本論文の目的は、北インド巡礼地ハリドワールで暮らす女性「家住行者」たちが、男性パートナーへの奉仕実践を通じてどのように自己を陶冶しようとしているのか、明らかにすることである。ヒンドゥーの出家者は、原則として禁欲の規範を遵守すべきとされており、それは性行為の制御から食事の摂生まで生活全般を律するものである。しかし、男性行者たちのあいだでは、往々にして性的禁欲の側面が強調され、その努力を妨げる女性は危険な誘惑者として忌避されてきた。こうした禁欲主義の言説が、女性は出家にふさわしくないとする支配的見解を補強し、出家制度から女性を排除、周縁化する一因となってきた。本論文では、女性行者のなかでも男性パートナーと同居生活を送る「家住行者」に着目し、禁欲主義の理想と異なる生き方を選んだ彼女たちがどのように修行に取り組んでいるのか検討する。女性行者たちに重視される奉仕は、男性パートナーとの不均衡な関係に起因する一方的な贈与行為であると同時に、自己供犠を通じて内面を鍛錬し自己変容をめざす修行でもある。本論文では、女性行者たちによる奉仕実践とそれが引き起こすモラル・ディレンマに着眼することで、彼女たちが奉仕実践を通じていかに男性中心視点とは異なる方法で禁欲を実践し、自己陶冶しようとしているのかを明らかにする。
  • 平田 晶子
    2017 年 82 巻 3 号 p. 290-310
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/05/16
    ジャーナル 認証あり
    本論文では、ラオス人民民主共和国の民族楽器である笙(khaen、以下ケーン)の事例から、音楽芸能をめぐる性言説と実践を通じて「男らしさ」が、男性による女性の支配構造、権威性、カリスマ、強靭さとつながりながら再生産されていく状況に注目する。この作業を通じて、研究対象であるカップ・ラム歌謡における一定の性別役割分業が、楽器の創作や吹奏の行為をめぐる言説や近代国家の建設過程で打ちだされる男性指導者のカリスマのイメージと一体化されながら、一種の「男らしさ」の意匠をまとうようになってきたことが明らかとなる。第1章では、男らしさの人類学の学説史を振り返りながら、東南アジアやラオスにみるタイ系(Tai)の人びとの男らしさに関する先行研究を整理する。タイ系民族の中でも、男性側の視点から論じられてこなかった民族と音楽の関係をつなぐ章として第2章を設け、ケーンの吹奏者のジェンダー表象について宗教社会的な環境決定論や意味論から考える。第3章では、ケーンをめぐる伝承を取り上げ、ケーンが自然との共生の中から創られてきた楽器から、ある集団組織を統一するために必要な権威性に結びけられて語り直されるまでの言説を分析する。第4章では、ケーンの形状や構造について概説した上で、カリスマ的存在によってケーン吹奏がラオ人の男らしい男性像となる状況を考察する。現地社会で語られるケーン吹奏に関わる伝承や男らしさの性言説を相対化する作業として、第5章を設け、現地社会におけるケーン吹奏と女性性の位置づけを理解しながら、男性の領域と女性の領域の交差で生じるジェンダーバイアスの問題を徹底的に検討する。第6章は、ケーン吹奏の性別役割分業をめぐるジェンダーバイアスに対して寄せられる声をまとめ、教育活動を通じて性差を乗り越えようとする新たな動きを考察する。
特集: ムスリム社会における名誉に基づく暴力 (田中雅一 客員編集)
  • 田中 雅一, 嶺崎 寛子
    2017 年 82 巻 3 号 p. 311-327
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/05/16
    ジャーナル 認証あり
  • 村上 薫
    2017 年 82 巻 3 号 p. 328-345
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/05/16
    ジャーナル 認証あり

    名誉(ナームス)に基づく暴力をめぐり、トルコの公論はふたつの批判的議論を提示してきた。ひとつは、国際的な名誉殺人への関心の高まりを背景として名誉殺人を因習殺人と名付けるものである。名誉殺人を東部のクルド系住民の後進性と結びつけるこの言説は、名誉殺人を特定の集団内で不可避的に起きる問題として他者化した。もうひとつは、欧米のフェミニズム理論を背景として、暴力の原因を家父長制に求めるものである。名誉殺人を含む女性への暴力は、普遍的で非歴史的な男性支配の制度としての家父長制によると説明される。前者では名誉は特定の地域や集団の因習に読み替えられ、後者では名誉は家父長制に還元される結果、なぜ名誉が暴力を正当化するのか、掘り下げて考察することができない。

    本稿は、名誉を一方で特定のエスニック集団に本質化された後進性との関係において、他方で家父長制との関係において、一元的に意味づける議論を離れ、人々の名誉の解釈と実践に焦点を当てることにより、暴力が発動する機序を地域社会の日常的関係のなかで理解しようとするものである。イスタンブルの移住者社会の事例に即した議論を通して、本稿では都市における移住者の周縁化、失業の増加と貧困化、あるいは女性の権利言説の高まりといった、グローバル化がつくりだす今日的状況において、名誉の解釈をめぐって駆け引きが可能な状況が生まれ、新たな暴力が誘発されていることを示す。名誉の解釈とルールが流動化し、一律でなくなる状況ではまた、暴力が誘発されるとともに、暴力に対抗する新たな契機も生み出されることを指摘する。

  • 嶺崎 寛子
    2017 年 82 巻 3 号 p. 346-366
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/05/16
    ジャーナル 認証あり

    本稿の目的はどのような条件下で名誉に基づく暴力が起きるのかを、特に性的逸脱行為(以下、逸脱行為)と、その露見という過程に注目して検討することである。2000年代エジプトを対象とし、主な資料として宗教電話相談(相談2,050件)の質問と回答(ファトワー)を用いる。事例の検討を通じ、逸脱行為と名誉に基づく暴力とは直ちにはつながらないことを明らかにしたい。逸脱行為は私的領域で、主に女性たちの間で知られているだけの間は名誉とは結びつかない。しかし男性の知るところとなると、それは醜聞となり、名誉問題化する。逸脱行為自体ではなく、その共同体への露見こそが暴力の誘因となる。

    同じ未婚女性の妊娠でも、その影響は事例によってかなり異なる。逸脱行為があっても、露見を防ぐことで名誉を守った事例はいくつも観察された。露見を誘発する条件、露見に対し脆弱性を持つ人の特徴などを検討してみると、名誉を守るためには複数の手段があり、恥や屈辱に対する脆弱性と、加害者の社会関係資本の多寡には連関が見られることがわかる。

    名誉に基づく暴力は、男性が自分の名誉が損なわれることで受ける恥辱・屈辱を雪ぐことを目的とするため、共同体のまなざしを必要とする。同時に名誉に基づく暴力は、女性を「貞淑な女性」と「ふしだらな女性」へと分断する、社会のジェンダー秩序の根底を支える構造の一部でもある。それは性規範を侵犯した、「ふしだらな女性」への懲罰的暴力である。そして遡及的な被害者非難により、醜聞を出した家の女性たちは皆、「ふしだらな女性」に転落させられる。一見矛盾するようだが、家長たる男性にとっては、この女性を二分し一方的に振り分け定義する根源的な暴力、この抗いがたい暴力に抗うためにこそ、名誉に基づく暴力はある。主観的には加害者は、名誉に基づく暴力によって、残された他の女性家族成員を、「ふしだらな女性」へとカテゴライズする根源的な暴力から救おうとしているのである。

  • 赤堀 雅幸
    2017 年 82 巻 3 号 p. 367-385
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/05/16
    ジャーナル 認証あり

    女性に対する暴力が、「名誉」の概念の下に振るわれる諸事例に注目した特集中にあって、本稿がまず指摘するのはしかし、名誉に基づく暴力の行使は「女性」に対するものだけではない点である。地中海周辺域において名誉と暴力との関係に注目した人類学分野の研究が過去に注目してきたのは、むしろ血讐といった、主として男性によって集団間で展開される暴力行為であった。本稿でも、著者が1980年代末から断続的に調査を行っているエジプト西部砂漠のベドウィンについて収集した情報を主たる事例として、前半部では血讐をめぐり名誉が論じられる文脈を取り上げ、「名誉に基づく暴力」の概念を拡張して捉えることをまず提案する。同時に、暴力の行使が名誉に基づいて正当化されるだけではなく、暴力の抑止や和解もまた、名誉に基づいて説明されることを明らかにし、「名誉に基づく暴力」の概念を見直す。

    後半部では、そのようにして拡張した「名誉によって正当化される暴力」の枠組みの中で、女性の性的不品行を契機に発動される暴力が、血讐などとは異なる、別個の種類の事象として設定しうるものであるかを、同じく西部砂漠ベドウィンの事例に則して検証する。注目されるのは、男性の調査者がベドウィンの男性から聞き取りを行うに際して、血讐については誇らしいことがらとして積極的に語るのに対して、名誉殺人について語ることにはある種の気まずさを伴う点である。そうした気まずさは、女性の性的不品行が、集団による女性のセクシュアリティの管理の失敗という、他集団との関係において語ることのできない事象であることと深く関わっている。

    これらの議論を通して、本稿は「名誉に基づく暴力」の概念をより大きな研究対象として設定し、その中で名誉が暴力の行使を正当化するだけではなく、暴力について語る際の汎用的なイディオムであることを指摘し、次いで女性の性的不品行に対して発動される暴力が名誉の増進をめぐる集団間の公的な競争ではなく、集団内で隠蔽されるべき名誉の喪失として、血讐などとは区別されると結論づける。

  • 辻上 奈美江
    2017 年 82 巻 3 号 p. 386-394
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/05/16
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    This paper points out epistemic violence over the ‘Afghan Girl’ whose photographic portrait became iconic after appearing on a National Geographic cover in 1985. It was during the Soviet occupation of Afghanistan, when the girl was photographed in Pakistan for the first time, which subsequently made her widely known in the West. Her picture articulates the image of innocent Afghans suffering from the ‘evildoing’ of the Soviets during the Cold War. It drew the sympathy of quite a few Westerners toward Afghan refugees, encouraging them to become involved in antiwar volunteer activities and charities. Despite her picture’s tremendous publicity, nothing was known about her until the curiosity about her re-emerged after a long hiatus when the Taliban regime collapsed due to attacks by NATO in 2001. By the time National Geographic crews found the ‘Afghan Girl’ again in Pakistan in 2002, her symbolic significance shifted from that of a victim of Soviet air strikes to one of the Taliban regime, notorious for having introduced sexist policies to Afghanistan.

    The rediscovery of the ‘Afghan Girl’ is associated with a paternalistic project aiming at saving the girl from a barbaric male-dominated society. The fact that the National Geographic decided to create the Afghan Girl’s Fund to support girls’ education is clear evidence that some Westerners view themselves as saviors of miserable girls who do not have access to proper education. They needed a woman—not a man—as an icon, one that can successfully project the image of a victim of female oppression to suit their convenience.

    The trajectory of the ‘Afghan Girl’ stimulates us to revisit Gayatri Spivak’s critique on speaking about women in subaltern classes. Spivak disclosed Foucault and Deleuze’s imperialist subject-constitution in her paper entitled “Can the Subaltern Speak?” She maps out the subjective sovereignty of varying elites(in her case, the British and Indian elites) by demonstrating the practice of sati, the burning of widows on their husbands’ funeral pyres, and its subsequent abolition in India. Spivak reached the conclusion that no one encounters the testimony of the women’s voice-consciousness, as subjective sovereignty is always conserved among the elites.

    This paper suggests some similarities between the ‘Afghan Girl’ and the controversy over sati. Whenever the magazine photographs and writes about the ‘Afghan Girl,’ the West is always presupposed as the subject. Global/ local elites represent her in a way suiting their interest. Although she is formidably publicized, her raison d’être is recognized only as a mirror of Westerners. As such, she is situated as ‘the other’ whose relevance fluctuates in accordance with the context of Western politics. This paper tries to problematize such issues, and looks into subjectivity, representation and the intersectionality of the ‘Afghan Girl’ from a post-colonial perspective.

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