文化人類学
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87 巻, 2 号
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表紙等
原著論文
  • ブガクウェ・ブッシュマンの死との向き合い方の変遷
    杉山 由里子
    2022 年 87 巻 2 号 p. 149-169
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    本稿は、ボツワナ北部のブッシュマン(ブガクウェ)に焦点を当て、他民族との交流による埋葬様式の変化と、それによる弔いの再編を考察する。ブッシュマンの埋葬は、非常に簡潔と記録されてきた。本稿では、死の発生から弔いまで自動的には移行せず、人々の世界観に基づいた何らかの段階(弔いのディスタンス)が存在するという視点で、彼らの弔いの姿とその変遷を明らかにした。

    遊動時代の弔いは、埋葬後の居住地の移動/歩みによって死から時間的・空間的な距離をとっていた。ブガクウェの生活域は水が豊富な生産性の高い土地であったため、彼らは他民族の流入や感染症の蔓延、また政府の土地開発に巻き込まれながら生きてきた。こうした環境下で進んだ定住化の過程を個人の語りを基に明らかにし、ブガクウェが新しい埋葬実践(薬)を取り入れていく様子を描いた。「具体的な原野での経験と深く結びついた想像世界」で死の発生を理解していたブガクウェにとって、薬の導入は、「死者が絶対的存在としてある想像世界」での死の理解へと、死に対処する想像の方向性を変更させた。原野での歩みと経験の文脈の中で個別の死を弔うという遊動時代の弔いから、記号的な力によって集団の想像を方向づけて死を抽象化するという、現在の葬儀への変化を担ったのが薬であった。変わりゆく現実に合わせて、ブガクウェが死と対峙するための想起のあり方と、死者の意味を変化させてきた様子を描く。

  • ニューギニア高地の植民地期/脱植民地期における「白人」イメージの民族誌
    深川 宏樹
    2022 年 87 巻 2 号 p. 170-190
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    本論の目的は、ニューギニア高地エンガ州サカ谷の民族誌事例に沿いつつ、現代人類学の本流の一筋を成すイメージ論を特異な視点から「延長」することにある。

    本論で取り上げる民族誌事例は、エンガ州サカ谷の人々による植民地期の語りから、脱植民地期において「白人になる」人々の諸実践まで様々であるが、大掴みに表現すれば、本論の民族誌は、エンガ州サカ谷の「歴史過程」において人々自身が〈他なるもの〉へと生成するプロセスを主題とする。その民族誌の理論枠組みは、ストラザーンの「歴史のモノたち」で提示されたイメージ論である。さらに本論では、このストラザーンのイメージ論を、箭内の『イメージの人類学』の部分的援用と交差させつつ発展させることで、その非トランザクショナリズム的な「延長」の枠組みを設定する。そのうえで、その理論枠組みと一体となった、ニューギニア高地の植民地期/脱植民地期における「白人」イメージの運動の人類学的記述を遂行するのが、本論の企てである。

    理論と不分離の民族誌記述を経た後に、本論の考察では、多地域・多領域の民族誌にもある程度、改変的に応用可能な人類学的記述のモデルの1つを提示する。その中核として導入されるのが、イメージの運動の水平/垂直の次元と「外」へと向かう動き、ならびにイメージの諸方向性の「割合」とその喪失といった枠組みである。

特集 オートエスノグラフィで拓く感情と歴史
  • 北村 毅
    2022 年 87 巻 2 号 p. 191-205
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    This special theme, "Histories and Emotions Pioneered by Autoethnography," focuses on a method called "autoethnography," a field of life writing in which examples of its practice have been observed in Japan in recent years, to reconsider its anthropological significance and open up new possibilities in research. Through such a method of contextualizing "lived experience," this special theme aims to critically examine the everydayness culturally constituting the selves, rooted in the historical experiences of colonialism and imperialism, by writing life histories of several generations of families regarding the colonial rule and war by the Empire of Japan. In the introduction, we review previous studies of autoethnography, mainly in anthropology, and then examine its potential and significance, connecting it with the findings of reflexive ethnography, narrative approaches to the relationship between self and others, Tojisha-Kenkyu, anthropology of everydayness, performative approaches to personal historical experience, and so on.

  • 弔いの人類学とケアし合うオートエスノグラフィへむけて
    石原 真衣
    2022 年 87 巻 2 号 p. 206-223
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    2016年7月11日、私は北海道大学アイヌ納骨堂で、初めてアイヌの死者——アイヌ遺骨——と出会った。そのとき、私は死者から呼びかけられ、振り向いた。本論では、アイヌの出自を持ちながらコミュニティや歴史性に接続できない一方で、日本社会において人種的他者および人種資本として可視化される「私」の身体経験から、なぜアイヌの子孫である「私」がこれまで遺骨を遺棄し、忘却し、取り残してきたのかについて、その社会的背景および構造についてオートエスノグラフィを記述し、思索する。そこには、いまだ思考されていないわれわれの近現代と現在の社会構造が浮かび上がるだろう。アイヌの血を引くという事実を除けば多数派日本人として生きてきた私は、3度の人種化のプロセスを経て、アイヌとして当事者化されてきた。2020年に上梓したオートエスノグラフィは、その後、「非場所」的に様々な当事者の〈沈黙〉を架橋してきた。本論では、オートエスノグラフィのその後について描写し、様々な「私」同士や「私」と死者たちをつなぐ回復の道として、また、接続の作法としてのオートエスノグラフィの可能性を提示したい。

  • 横浜中華街で生まれ育った「私」のhomenessとhomelessness
    陳 天璽
    2022 年 87 巻 2 号 p. 224-242
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    中国黒龍江省に生まれ、満州国時代、日中戦争を経験し、国共内乱の中、台湾へ逃れ、その後、日本に移住した華僑である父は、2022年で100歳を迎えた。今年は、日中国交正常化50周年、日華(台)断交50年となるが、50年前、中華民国(台湾)の国籍を有して日本に暮らしていた我が家は、日本との戦争の記憶、中国共産党とのイデオロギーの違いから、日本国籍、中華人民共和国国籍のいずれも選ぶことができず、無国籍となった。横浜中華街で生まれ育った華僑2世である私は、30年程無国籍者として暮らしてきた。日々の生活、そして研究や教育、社会活動などを通し、無国籍者である自分の居場所やアイデンティティについて思考してきた。本稿では、国際結婚により生まれた息子がどのようなアイデンティティを築いているのか、そして息子や父そして私にとって国家・国籍はどのような意味を有しているのか、考えたい。本稿は、横浜中華街という場に即しつつ、父、私、そして息子の華僑華人3世代が葛藤してきた個人と国家の関係性を問い、homenessとhomelessnessを再考するオートエストグラフィである。

  • ある在日朝鮮人との対位法的記述を通して
    真鍋 祐子
    2022 年 87 巻 2 号 p. 243-263
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    本稿は、我がこととして向き合うべき切実な主題をもたず、半生を振り返っても「語るほどのことがない」、非当事者としての立場から記述するオートエスノグラフィ(以下、AE)である。サイードによる対位法的なテクスト読解法を援用し、私と同郷で同年代かつ、各々の立場と方法で韓国民主化運動という共通の課題に向き合ってきた在日朝鮮人・金利明のライフヒストリーを取り上げる。日本の植民主義が生み出したマイノリティ/マジョリティの関係性において、対位法的にAEを記述する過程を通し、自らの来歴に「帝国主義のプロセス」が埋め込まれていることをあぶり出そうとした。この対位法的なAEが明らかにしたことは、まず、第一次的ニーズの帰属先である「当事者」の物語を通して「私」の取るに足らない日常の記憶が掘り起こされること。次に、その記憶を忘却することで「語るほどのことがない」と沈黙してきたこと自体、実は非当事者=マジョリティの特権であったこと。また「私」における「魂の脱植民化」は、「位置的主体化」を経たマイノリティのそれと差異化され、各々が歩んできたプロセスには動態的/漸進的という相違が明確に示された。意識化への転換点ではともにエピファニーが経験されるが、「私」にあっては調査対象に学びながら、同時に「作品を書く過程自体」の中で自身の植民地性と格闘する中でしか、表象する立場としての自らの特権性を学び捨てることができなかったからである。

  • 「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」と私の運動から
    中村 平
    2022 年 87 巻 2 号 p. 264-284
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」と私の運動を記述対象に、日本軍兵士の子と孫世代のトラウマのオートエスノグラフィ実践を行った。復員日本兵のトラウマについては近年、研究と社会認知が進んでおり、本稿はさらにその下の2つの世代へのトラウマ的影響を、黒井秋夫や筆者のオートエスノグラフィックな詳細な記述から浮かび上がらせ、複雑性トラウマや世代間伝達の最新研究に節合した。日本社会において復員日本兵は「社会の手のひら返し」にあい、その苦悩が公式に知られ治癒されることはなく、その苦悩と暴力は形を変えて下の世代に負の影響を与えている。「語り合う会」の活動とそれを動かす力は、復員日本兵のPTSDを隠匿した国の責任も問うている。またこれらの運動は次世代をも排除せず、さらには被害者である中国人との対話的出会いを含みつつ、未来への「和解」も志向する。個人的な経験が社会文化に節合していることを可視化するオートエスノグラフィは、周縁から中心へ言説介入し、構成的に書くことにより事実に介入し、旧来の「客観的」記述としてのエスノグラフィを刷新する、過去と未来をつないでいく言説実践である。

  • 家族のヴァルネラビリティをめぐるオートエスノグラフィ
    北村 毅
    2022 年 87 巻 2 号 p. 285-305
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    オートエスノグラフィは、個人に閉じこめられたヴァルネラブルな記憶を解放し、社会的に共有(分有)可能な物語へと再編・再演するナラティヴ・アプローチとして方法論化されてきた。オートエスノグラフィのパフォーマティヴかつ介入的な立ち位置は、クリティカルという言葉を伴って言明されることが多く、本稿では、批判的家族誌というオートエスノグラフィの新たな形式を提唱し、その可能性を探る。具体的には、祖父の戦争体験をめぐる家族の生活誌の厚い記述を通して、私自身の家族の歴史性(historicity)に対する批判的介入を試みる。祖父が日中戦争の帰還兵である私の家族では、中国における加害の記憶が家族史の争点となってきた。本稿では、祖父と父、父と私の関係に焦点を当て、その記憶を聞かされてきた母の存在を軸に、過去の暴力が家族の中でどのように語られ、再演されてきたのかを、文化的・社会的・歴史的文脈に位置づけながら記述する。家族とは、「私たち」が自己の来歴を物語化し、過去と現在に対してコミットメントするフィールドである。その家族に対して民族誌的にアプローチすることを通して、歴史的存在としての「私たち」を規定する「連累(implication)」の所在を明らかにしたい。

萌芽論文
  • 文化社会現象としての問題から「情動(アフェクトゥス)」の問題へ
    河村 悟郎
    2022 年 87 巻 2 号 p. 306-316
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    This article aims to build a theoretical rearrangement in the "anthropology of soccer" by reassessing Christian Bromberger's pioneering research about "the passion for soccer," while merging it with Spinoza's concept of "affectus."

    In previous studies, soccer was mainly treated as a problem related to cultural or social phenomena and "identity," which Bromberger used in his ethnography, was a key concept. However, based on the author's fieldwork on the stadium of Japanese soccer club "Shonan Bellmare," Tadashi Yanai's concept of the "body social" is more effective than "identity" to understand soccer. Furthermore, to understand the "body social of soccer" more correctly, Spinoza's "affectus" is required and the "Spinozism anthropology of soccer" will emerge.

    In fact, when Bromberger's research is reconsidered from the current perspective, it appears that his achievement was not to use "identity," but to comprehend soccer from a holistic perspective, which has a high affinity with Spinoza's "affectus" that allows a multilayered view. Therefore, "affectus" is indispensable for the "anthropology of soccer," which has become a more multifaceted phenomenon after globalization.

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