宗教研究
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78 巻, 4 号
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  • 原稿種別: 付録等
    2005 年 78 巻 4 号 p. App3-
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 華園 聰麿
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 915-946,ii
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    日本における宗教研究の百年の歩みを、比較宗教学および宗教現象学の分野に限って見る場合、欧米の研究に触発されて、その基本的な概念や方法を吸収し、応用してきたというのが、大筋の展開である。研究の内容では、学説や概念並びに方法などに関する理論的研究や批評が目立ち、比較研究においては、研究の環境あるいは条件の特殊性にも制約されて、分類論や類型論を目指すものよりも、宗教現象に着目した比較研究に特色が認められる。このことは宗教現象学の分野においても同様で、豊富な宗教史の資料をもとに宗教の普遍的理解を追究するよりも、個別の宗教現象の意味や構造を解明する研究に独自のものが見られた。
  • 木村 清孝
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 947-961,iii
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本論文は、近代日本において、西欧から移入された文献学的な仏教研究の軌跡を辿ることを基軸として、このおよそ百年間における仏教研究の歴史を顧み、その特徴を明らかにするとともに、それがもつ問題点を探り、合わせて今後の仏教研究のあり方について述べようとするものである。明治時代の初め、<近代的>な仏教研究の扉は、少なくとも表面的には伝統的な仏教学と切れたところで、南條文雄によって開かれ、高楠順次郎によって一応定着した。それが、文献学的仏教研究である。この伝統は、のちに歴史的な見方を重視する宇井伯寿によって新展開を見た。さらにその愛弟子の中村元は、宇井の視点と方法を継承しながらも、それに満足することなく、新たに比較思想の方法を導入し、「世界思想史」を構想し、その中で仏教を捉えることを試みた。この比較思想的な仏教研究が、西田哲学を継承する哲学的な仏教研究と並んで、現在も主流である文献学的な仏教研究に対峙する位置にあると思われる。最後に付言すれば、これからの仏教研究は、その中軸として、文献学的研究と、それを踏まえた思想史的研究、さらには、その思想史的研究によって明らかになる重要な「生きたテキスト」をよりどころとする比較思想的研究が遂行されることが望まれるのではなかろうか。
  • 土屋 博
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 963-984,iv
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    日本におけるキリスト教研究は、欧米の場合とは異なり、単純に「神学」と同一視するわけにはいかない。日本では、キリスト教徒であることは、どちらかと言えば例外的なことであり、キリスト教研究者をキリスト教徒に限定すると、その研究は公共性を失い、閉鎖的になってしまうからである。ところが実際には、日本のキリスト教研究はこの点を十分に自覚せず、方法があいまいなままに、多様な試みを続けてきた。その結果、本来キリスト教研究と重なり合うはずの欧米文化の研究も、深みにふれるような成果をもたらさなかったように思われる。このような問題を克服するためには、日本の文化・社会のコンテクストの中で、キリスト教という宗教現象を総体として受けとめつつ理解しようとする「キリスト教学」の可能性が探求されなければならないのではないであろうか。
  • 中村 廣治郎
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 985-1006,v
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    日本のイスラム研究にはピークが二つあった。一つは昭和十年代(一九三五-四五)で、今一つは「石油危機」以後の昭和五十年代以降である。それぞれに時代的要請に応えるものであったが、いずれの時代のイスラム研究においても宗教学が果たす役割はほとんどなかったといえる。このような状況を改めるには、宗教学としての方法的自覚をもって研究することが必要であり、その一つの方法が、宗教全体を視野に置いた類型論的アプローチを試みることではなかろうか。その具体例として、イスラム史におけるスーフィズムの展開をどのように捉えるか、などの問題を取り上げて論じてみたい。
  • 金井 新二
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1007-1028
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 長谷 正當
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1029-1058,vi
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    記述的な宗教学に対して、規範的立場に立つ宗教哲学は、客観的知識の基礎となるような「指示」(reference)の次元をもたないと見なされてきた。しかし、そのような宗教哲学の理解は、日本の宗教哲学には妥当しないように思われる。日本の宗教哲学の中心を占める西田幾多郎の思索の努力はむしろ、宗教哲学は根本的には実在に関わるとして、それがどのような実在であるかを明らかにすることに向けられた。その実在は、W・C・スミスが「信」(faith)において触れられる実在としたものであると言い得る。信とはスミスによれば、「人格的生の質」である。宗教研究はこれまで、「信条」(belief)という対象(ノエマ)極に主眼を置くことで宗教を捉えてきたが、信という見えざる主観(ノエシス)極に主眼を置いて捉えられなければならないと、スミスは主張する。日本の宗教哲学が全体として追求してきたのはそのような角度からの探究であり、人間が信において触れる実在の記述であったと言うことができる。
  • 安蘇谷 正彦
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1059-1081,vii
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    近・現代における「神道研究」の百年を振り返ってみると、神道研究には、〔I〕神道の科学的研究と〔II〕神道学の二種類あることを提唱した。〔I〕の科学的研究には、神道の〔1〕宗教学的研究、(2)歴史学的研究、(3)民俗学的研究、(4)考古学的研究、(5)神話学的研究、(6)日本思想史学的研究などがあろう。〔II〕の神道学とは、日本の神々信仰の言葉化や理論化を目標にしながら、神道を研究することと規定したい。次にこれらの研究分野ごとに、主要な研究業績を紹介し、各分野の先駆的研究者の研究目的などを中心に述べる。終わりに神道の宗教学的研究者の主要な業績を紹介し、とくに先駆的研究家・加藤玄智の神道論と戦後もっともよく読まれた村上重良著『国家神道』の主張を取り上げた。神道研究者が即ち神道学者と言えないと論じている。
  • 宮家 準
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1083-1107,viii
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    日本の宗教的伝統はこれまで神道、仏教、道教など成立宗教の側から論じられることが多かった。けれども日本人は自己の宗教生活の必要に応じて、これらの諸宗教を適宜にあるいは習合した形でとり入れてきた。民俗宗教はこうした常民の宗教生活を通して日本の宗教的伝統を解明する為に設定した操作概念である。この民俗宗教は自然宗教に淵源をもつ神道と、創唱宗教である仏教、中国の道教、儒教、これらが混淆した習合宗教、さらに日本で成立した修験道、陰陽道、萌芽期の新宗教などが民間宗教者によって常民の宗教生活の要望に応じるような形で唱導され、彼らに受容されたものである。けれどもこれまでの研究では民俗宗教は単に形骸化した残存物と見られがちであった。本論文ではこの民俗宗教の成立と展開に関する先学の研究を特に民間宗教者の活動に関するものを中心に検討した。そして常民の民俗宗教史の中に日本の宗教的伝統の解明の鍵があることを指摘した。
  • 西山 茂
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1109-1139,ix
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本論は、過去百年の日本の新宗教研究と宗教社会学が日本の宗教伝統を研究することで示した独自の成果について、実証的な研究成果を中心に紹介・検討するものである。新宗教研究については、宗教社会学の成果に限らず優れた成果を選んで紹介する。宗教社会学の成果については、新宗教研究以外の代表的な宗教社会学の成果を紹介する。外国人の日本宗教研究の成果や日本人研究者による海外の日系宗教研究の成果は、本論では取り上げない。検討の結果、注目すべき成果をあげた日本の新宗教研究や宗教社会学は、欧米の理論や研究成果に安易に頼らず、あくまでも、日本の宗教現象を対象とした実証的な研究や理論的な凝視のなかから独自の概念や類型、理論などを切り出すようなものであったことがわかった。筆者は、こうした研究こそ、日本の宗教現象と類似の特徴をもつ世界各地の宗教現象の科学的な解明に大きく貢献する可能性を秘めているものと考える。
  • 関 一敏
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1141-1146
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 田丸 徳善
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1147-1170,x
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本稿では、二〇〇五年の「日本の宗教研究の一〇〇年」についてのレヴューの一環として、とくに第二次大戦後の時期を中心にその動向を跡づけようとした。この戦後期は、進行するグローバル化とそれへの反流とが互いに交錯するようになる七〇年代前半を境に、大きく前後に分けられる。日本の宗教研究は、こうした国際的な流れと日本独自の諸条件というコンテクストの中で進められ、それまでの諸分野に加えて、宗教変動の研究、新宗教運動の研究、イスラム教などの異文化宗教の研究という一連の新しい分野を確立するにいたった。このほかさらに、宗教間対話・協力論、死生学、ジェンダー研究などというフロンティアも開拓されてきた。他方、主に神道・仏教・キリスト教などを対象とした伝統的な研究も以前にましてひろく行われているが、つよい専門分化の傾向は時にそれらのあいだの有機的な連携を難しくしがちである。この状況にあって、個別分野の研究を基礎としつつその統合をめざし、宗教のメタ理論を構築すべき宗教現象学ないし宗教哲学の役割は大きい。そして、多様な宗教の伝統をもつわが国は、この意味で新しい宗教のヴィジョンの探求に好適な土壌であり、それをつうじて国際的な研究の進展に貢献できる立場にある。
  • 上田 閑照
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1171-1199,xi
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    禅と西洋哲学との出会いから成立した日本の哲学として西田幾多郎と西谷啓治の哲学をとりあげ、どのような哲学が生まれ、その哲学において宗教がどのように理解されたか、そしてそのような哲学と宗教理解の特色と現代世界に対してもちうる意義を解明考究することを課題とする。元来禅と西洋哲学は単純に並べられるものではない。非思量の行である禅と高次の反省として西洋思想の動脈をなしてきた哲学との間には、質的な断絶がある。その裂け目に身を置いた西田と西谷において西洋哲学とは思索の性質を異にする哲学が成立した。西田で言えば、「実体」に代わって「場所」、「同一律」の基礎に「矛盾的自己同一」、「主観・客観」図式に代わって「主客相反するものの主客未分のところからの統一」、理性と感性の峻別ではなく、感性の中に働く理性、「神」の底に「絶対無」、近代的な「絶対的自我」ではなく「自己ならざる自己」。禅に触れたところからこのような哲学が成立する過程において、世界への禅の道を「禅思想」として開いた鈴木大拙の同道があった。以上のことは具体的な詳論を要する。
  • 白土 わか
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1201-1228,xii
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    日本の思想・文化に大きな影響を与え続けてきた日本仏教は、現在も存続している。ただし、その有り様は、宗派として分かれ、夫々が教学を持ち、それはいわゆる宗乗として、その宗派の学者によって護られ研鑽されてきた。しかし戦後は、それが開かれてきている。ただ、長年の習慣もあり、日本仏教学が、インド仏教学や中国仏教学の系列に於いて展開してゆくのには、まだ時間を要する向きもあるようである。然るに一方、優れた研究業績の数々、新しい研究分野への意欲、日本仏教を思想史に乗せようとする努力、他分野との対話への試み等、その動向は活発である。日本人が築いた思索の跡を、そして民衆が持っていた信仰の跡を、探り展開する日は遠くないであろう。
  • 鈴木 範久
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1229-1248,xiii
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    日本の宗教学史の研究において、これまでは、もっぱら近代宗教学の確立の歴史や、宗教学説の展開に関心がおかれていた。しかし、宗教学研究者が現実に生きる社会で、どのような目的で研究し、その学問と社会との関係はどのようであったか、という問題も重要な宗教学史の対象である。それをみるために、ほぼ一九四一年ごろから一九四五年ごろまでの、いわゆる「太平洋戦争」の時期を中心として、日本の宗教学研究者数名の社会的発言をとりあげる。その戦争は「大東亜戦争」とも呼ばれ「大東亜共栄圏」の建設がうたわれた。したがって、同地域の宗教研究や宗教対策についての論評がみられる。他方、国内的には「総力戦」の名が示すように、国民の生死観や宗教家の使命に対する発言がある。これら宗教学研究者の社会的発言もふくめた宗教学史から、今日の宗教学のありかたを学びたい。
  • 窪 徳忠
    原稿種別: 本文
    2005 年 78 巻 4 号 p. 1249-1272,xiv
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本居宣長などは、日本には道教は伝来しなかったというが、宮内庁書陵部現蔵の『正統道蔵』は一七世紀後半に佐伯毛利藩が入れたものだから、日本は道教と無関係ではない。一九五〇年に成立した日本道教学会の会員の活躍で、道教研究は大いに発展した。私は柳田国男の説によって沖縄県地方に庚申信仰の初期の形式を探しにいったが、中国的信仰のみ眼につき、庚申信仰はなかったので、目的を変更し、爾来沖縄の中国的信仰を調べ続けている。沖縄に道教の符に対する信仰の初伝は一五世紀中葉だが、福建人の来住と冊封体制下に入った結果、中国の影響を大きく受け、道教の高位の雷神、村や集落の守り神の土地公、后土神ともよぶ守墓神などの信仰を受け容れている。ただその場合、受容直後には中国の場合と全く同形だったであろうが、年を経た現在ではかなりの変容がみられる。異文化受容の際の当然の傾向であろう。
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