人文地理学会大会 研究発表要旨
2003年 人文地理学会大会 研究発表要旨
選択された号の論文の49件中1~49を表示しています
  • 絵図学構築のために
    小野寺 淳
    セッションID: 11
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    江戸幕府撰国絵図は,慶長・寛永・正保・元禄・天保の5度,諸大名から幕府に提出された国単位の絵図である。これをもとに幕府は日本図を作成するなど,江戸時代の国土基本図としての性格を有していたといわれる。それゆえに,江戸幕府撰国絵図の研究は近世絵図研究の根幹をなす。なかでも出羽国絵図は一国仕立ての絵図としては5×11mと最大であり,現存絵図としても最大級である。また秋田・鶴岡・新庄・山形・米沢の5藩が作成した領内絵図を一国仕立てにしており,出羽国絵図の研究は国絵図研究の縮図ともいえる。出羽国絵図は約20年前では10数点が確認されていた。その後,所在調査を実施した結果,160点の出羽国絵図の現存を確認,また個々の絵図の表現内容を検討してきた。この成果をもとに,本報告ではまず出羽国諸藩における国絵図の作成過程等を明らかにした上で,絵図の保存・公開を含め,地理学・歴史学などの既存のディシプリンを超えた絵図学の構築を提唱したい。ここでは,絵図学構築のための課題として,以下の6点を指摘する。1.すでに指摘されているように,記号論的視点に加え,政治・社会・文化的コンテクストのなかで絵図を考察する研究視点が一般化してきた。これを踏まえて,さらに研究視点を広げていくことが必要となる。2.個々の絵図の記載・表現内容の資料化を進めるとともに,絵図史料論の確立が重要である。3.絵図の系譜を研究すると同時に,いかに絵図が利用されたかを解明することも残された課題である。4.絵図研究には悉皆調査が必要であり,データベースの作成が望まれる。5.絵図の保存と公開のためにデジタル化を促進し,高精細画像の提供が普及する可能性が高い。6.このデジタル化を前提に,絵図研究のための専用ソフトの開発が必要となるであろう。
  • 渡邊 欣雄
    セッションID: 12
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    風水は中国先史時代に発すると言われるが、知ることのできる科学技術の起源は周代あたりからであり、太陽観察による方位測定法の発見からだった。春秋戦国期に指南が発明され、やがて地盤と結合して羅盤が創られた。羅盤は方位の吉凶を読み取る装置だったが、この技術は航海用羅針盤や土地測量の道具にも応用された。こうして中国明清期、日本の戦国・江戸期には前近代の科学技術としての風水術が広く用いられ普及していた。
  • 近代大阪における工業化を中心に
    中島 茂
    セッションID: 22
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    明治大正期日本の近代化過程に焦点を当て、都市部と農村部、西日本と東日本といったマクロあるいはメソスケールの人口構成や工業構成の差異に注目しながら、そうした日本全体の歴史的背景をもった地域特性の中で、大阪における工業化と工業地域の形成がどのような特性と意味を有したのかを考察する。工業地域が大小さまざまな規模からなる工場の集積とその相互の機能連関から成り立つとして、その業種的特性や空間的展開性と工場経営を担い、働いた人びとの諸特性が、工業地域形成に大きく影響しているはずである。日本の近代工業化の地理的諸相を普遍化してみる試みの一端として、当時の工業最先進地であった大阪を取り上げ、おもに泉北農村部に展開した綿織物工業と大阪市とその周辺部の都市化地域に集積した機械金属工業を軸に、その地理的特性を検討する。それは現代の日本工業の地域構造を理解する上でも重要な課題と考えられるからである。
  • 沖 慶子
    セッションID: 101
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    近代日本の大学における地理学研究の基盤としてあげられる歴史学と地質学のなかでも、雑誌『歴史地理』については、地理学史上の位置づけに関する議論が現在に至るまで収束していない。そこで本研究では、『歴史地理』の地理学史における意義を検討する観点から、同誌における論考とその執筆者について詳細な調査・分析をおこなう。『歴史地理』を発行していた日本歴史地理研究会(のちに、日本歴史地理学会と改称)の構成員は、主に東京帝国大学文科大学国史学科の関係者からなっていた。本研究が対象とするのは、1899年の創刊から日本初の地理学講座が開設された1907年までの同誌における論考である。考察の際には、論考とともにそれらの執筆者および歴史地理/歴史地理学観を整理することに留意する。調査の結果、同誌における歴史地理/歴史地理学に対する見解は相対するものも含め、複数みられることが明らかになった。そのなかでも、1巻1号における筆名「こ、し」による有名な論考「日本歴史地理の研究について」では日本歴史地理の研究は国史研究の「輔助学科たるのみ(ママ)」と宣言されている。しかし、同文中における日本歴史地理研究の主眼をみると筆者が歴史地理に対する自身の見解を整理できていなかっと思われる記述がみうけられる。この人物を特定することは困難だが、最も可能性が高い人物として小林庄次郎を挙げることができる。また、筆名「麻郷」が、歴史地理は「historical geographyの訳語」であって表記は「史的地理」が適切であると述べた1巻5号における論考も重要である。この人物については、5巻12号において論考を発表した筆名「紫」と同人物と考えられる。特定はできないが、地理学に造詣の深い坪井九馬三の考え方と似ている点が注目された。このように、『歴史地理』は歴史学のみの雑誌としてよりも、近代日本における地理学の系譜の一つとしてとりあつかわれることが適切であろう。
  • 多田 祐子
    セッションID: 102
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    地中海を舞台とする交易活動が盛んであったスペイン、イタリアなどの地中海諸都市では13世紀後半から17世紀にかけて、ポルトラーノportolanoとよばれる海図が多く生産された。とくにジェノヴァやヴェネツィアでは14世紀から15世紀にかけて名だたる地図工房が活躍した。ヴェスコンテ・ピツィガノ・アネーゼ家などの地図工房がその代表例である。ポルトラーノとは、航海者のための「航海案内書」に挿入された付図であった。しかし、情報の確かさと美術的評価から海図本来の情報にとどまらず、人々の大陸に関する知的好奇心を満足させるために勢力関係を示す図柄を内陸に描いた華やかなポルトラーノも製作されるようになった。また、体裁も手書き(手描き)または印刷の「航海案内書」、「海図帳」、「一枚ものの海図」まで変化に富んでいる。今日まで伝わる例が多い由縁であろう。 本報告では、17世紀に製作された『真の航海術』と題されるモナコ出身のモンノGiovanni Francesco Monnoが製作したポルトラーノ型地図帳を取りあげる。体裁はポルトラーノの原型に則ったものであり、構成は航海術に関する記述、7枚のポルトラーノ型海図、地誌および追記などからなる。航海術に関する記述では、天体の運行や航海用器具、位置の測定方法、日出と日没の時刻を示した表など体系的なものである。また、地誌の頁ではジブラルタル海峡付近から時計回りに巡るように配列された地中海沿岸の地誌に29枚の小型の地図が挿入されている。なお、7枚のポルトラーノ型海図には地誌の頁では触れられていない大西洋や黒海も図幅に含まれている。 モンノ・ポルトラーノの概観は以上のとおりであるが、17世紀という地図製作の中心が大西洋岸に移動した時代に、敢えてポルトラーノの原型に忠実な地図帳を手描き製作した意義について、また同時代の使用者あるいは鑑賞者の視点からこの地図帳の意義について考察したい。
  • 田部 俊充
    セッションID: 103
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    1 研究の目的 発表者は,田部(2001)において,アメリカ建国期における黎明期のアメリカ地理教育の状況について,デーヴィッドソンの『地理簡約』(1784年)とモースの『易しい地理』(1790年 2版,1811年 14版)に焦点をあてて分析しつつ,その特性を論じた。また,アメリカ地理教育の発展期における地理教育の状況について,S.G.グッドリッチ(Goodrich, Samuel Griswold 1793-1860)の出版の背景と『地理にもとづくパーレー万国史』(1875年版)の内容構成およびその特色について報告した(田部2003)。しかし,デーヴィッドソン,モース,グッドリッチらアメリカ初期地理教育界の全体像や日本の地理教育の黎明期への影響ついて充分な検討がなされたとはいいがたい。そこで,本研究では,それらの課題を明らかにするために,グッドリッチの作成した教科書・地図帳の地理に関する業績のリストおよび福澤諭吉の著作『世界国尽』との対比から考察してみたい。2 研究の方法 グッドリッチの作成した地理教科書・地図帳の日本の教育界における影響を知るために,従来多く取り上げられてきた英語教育史研究および歴史教育史研究などにおける文献からその問題点を明らかにした。また,グッドリッチの181冊の著作のうち地理に関連する書籍をリストアップした。次に,これらのうち一部分を入手し,『世界国尽』との対比を行った。3 結果および考察  英語教育史研究によると,明治時代の英語の学習は,リーダーや初歩の英文法が終わると,歴史,地理,数学をはじめ,すべて英語の原書が教科書であった。その中でも,学校教科書として最もよく使用されてものの一つが,グッドリッチの著した『地理にもとづくパーレー万国史』であり,日本においては,『パーレー万国史』として広く普及した。(高梨1993)。この本を日本に紹介したのは,福澤諭吉であり,山口(1986)は,福澤の『慶応三年日記』から,ワシントン滞在中にニューヨークのアップルトン社において購入したことを推察している。さらに福澤は,『福翁自伝』の中で,アメリカで購入した書籍が,その後日本の翻訳教科書として活用されたことについて記している。以上の点から福澤が幕府の使節に随行し,2回目の訪米を行った1867年(慶応3)1月23日から6月27日の間に持ち帰った書籍が,日本の近代地理教育の成立にも大きな影響を与えた,ということがいえる。しかし,地理教育的視点での研究や福澤の著作に大きな影響を与えた原拠本研究はほとんど進められていない。一方,歴史教育史研究の立場から『巴來萬國史』(明治9年刊)を取り上げた木全(1990)は,「この教科書は明治初期の日本に紹介される前,1850-60年代のアメリカでも歴史教科書としてよく使用され,注目されていた」とその重要性を指摘している。また,倉長(1967)は,青山学院の前身の一つである耕教学舎の「私学開業願」,「私学慶応義塾開学願」,明治学院の前身の英和予備校の開学願,早稲田大学前身の東京専門学校の開学願,中央大学の前身である英吉利法律学校の設置願書を分析し,それらで広く使われたテキストとして『パーレー万国史』があがっていることを指摘した。しかし,木全,倉長とも,『パーレー万国史』を歴史書としかみていない。S.G.グッドリッチ(Goodrich,Samuel Griswold  1793-1860)は,アメリカ合衆国の少年読物の著者・編著者・出版者で,181冊の書籍を出版した。19世紀のアメリカ合衆国において,地理学が学問的な地位を獲得するのに大きく貢献した。とりわけ『ピーター・パーレーのアメリカ物語』(Peter Parley’s Tales of America,1827)を皮切りに,116点のいわゆる「ピーター・パーレー・シリーズ」を発行して人気を博した。また,アメリカ以外でも認められた最初のアメリカ人児童文学作家となった(Roselle 1968)。地理教科書の出版事業については,1826年にフランス系スカンジナビア人のブラン(Malte Brun)の8巻ものの英訳をし,英国市場での成功を収めていた。グッドリッチの地理書は,内容的にはブランの地理書の英訳が原型になっている。グッドリッチは,アメリカだけで700万部の販売総数に達した19世紀において最も国民に支持された文筆家であり,英国,アメリカ合衆国をはじめ多くの国の地理書に影響を与えた(Roselle 1968)。 日本においても福澤諭吉の『世界国尽』の地誌の部分の内容構成とともに,記述内容についても『地理にもとづくパーレー万国史』がモデルであることを示す記述が若干認められた。また,『世界国尽』に掲載されている地図にも影響が認められた。
  • 水谷 彰伸
    セッションID: 105
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    織物業については地理学のみならずさまざまな分野から研究が進められてきた。地理学における織物業研究は立地論的関心から始まり,主として分業形態など産地内の生産構造や産地の存立基盤に注目を寄せてきた。しかし経済史学の影響をうけながらも,地理学にあって近代の織物業は現況に至る一過程として認識されていた。 のちに経済史的視点の導入が進んだが,資料的制約もあって幕末から近代にかけての農家副業としての展開に注目することが少なかった。また生産者の個別事情に基づく経営動向を論じる研究はほとんどなかった。 経済史学にあって織物業は,主に「厳マニュ論争」の中で,史料の詳細な分析によって個別生産者の経営実態を明らかにし,多くの実証事例を挙げてきた。ただしここでは「マニュファクチュア化」の検証に主眼がおかれた。 しかし明治期の官製統計の分析が進むと,工業生産における小規模経営の数量的な把握が行われ,さらに小規模経営が近代日本の経済発展において重要な役割を果たしたとする「在来産業論」が登場した。その理念を近代以前にも適用して幕末以降の展開を「工業化」への局面という単線的な変容に基づかない見解もあらわれている。このような視点は,機業地の基盤を農村の低賃金余剰労働力に求める従来の見解に対して,生産者の意思決定に注目するものといえる。 しかしこのような視座はロシアのチャヤノフによって早くに提示されている。彼は小農における家族経済の生産行動や決定プロセスを検討したが,これをうけて,農家の可変的な消費力・労働力構造と弾力的な就業状況に関心が向けられている。このような視座は地理学でも有益と考える。 本発表では,在来産業研究の動向や「プロト工業化」研究の成果などもあわせて,織物業に関する経済史学における視座の整理を試み,その地理学への導入について考えたい。
  • 西部 均
    セッションID: 106
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    戦前期日本の地理学景観論をめぐってなされた,地理学と植物学,建築学,心理学との言説的な交流から,景観概念を通じて地理的想像力を活性化させ,近代化が猛烈に進み,政治が混乱し,画像情報が氾濫し始めた1930年代の日本社会に何らかの指針を与えようとした議論を紹介する。ここでは辻村太郎,石原憲治,城戸幡太郎を事例とする。
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    森 正人
    セッションID: 108
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    四国八十八ヶ所巡礼については,今回とりあげる1937年の出開帳にいたるまで88の札所寺院すべてが参加し,成功をおさめた出開帳は行われなかったとされため,これは「空前絶後」と喧伝されたのである。 1937年の四国八十八ヶ所出開帳については,これまでの巡礼研究においてほとんど注目されることがなかった。しかしながら,巡礼を単に自律した宗教的な事象として捉えるのでなく,より広範な社会的文脈の中に位置づけられ,その社会を構成するものであると考えると,この1937年の事象が当該の社会的文脈にどのように関係しているのかが問題となる。とくに1937年の出開帳は四国で行われたものではないが,巡礼を資本主義・国家により演出される見せ物,「スペクタクル」(ドゥボール2003)として捉えることが可能な事例であると考える。 そこで今回は,1937年に「四国八十八ヶ所霊場出開帳奉賛会」によって大阪府南部で開催された「四国八十八ヶ所霊場出開帳」のプロセスを追いたい。この四国八十八ヶ所霊場出開帳奉賛会は,1935年に開通50周年を迎えた南海電気鉄道会社と,近畿地方の真言宗寺院ならびに四国八十八か所の札所寺院によって構成された。 1937年5月から43日間開催された出開帳には,20万人ほどが訪れたとされる。宗教的な動機を持って出開帳を訪れる人々がみられた一方,会期中には四国巡礼とは関係のないさまざまなイベントが用意されるスペクタクルとしての側面もみられた。 本報告に際して南海電鉄会社の刊行物のほか,真言宗の機関誌である『六大新報』(隔週発行)の記事を用いる。さらに大阪市東住吉区にある法楽寺から「四国八十八ヶ所霊場出開帳」栞,巡礼研究家である白木利幸氏から『四國八十八ヶ所霊場出開帳誌』の写真撮影もしくは複写の機会を得た。
  • 地理的分布と歴史的観点から
    塩川 太郎
    セッションID: 112
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    台湾は、日本と同じく環太平洋火山帯に属しているため、温泉が島内に豊富に沸いている。九州とほぼ同じ面積にもかかわらず発見された温泉は、約100箇所にのぼる。泉質は、多種多様である。また冷泉や濁泉、海底温泉など珍しい温泉も存在し、台湾は世界的にみても優れた泉質を持つ地域であることが分かる。しかしながら、台湾温泉の歴史は浅く、主な開発が始まったのは日本統治時代からである。そのため、戦前は日本式の温泉施設が数多く作られたが、戦後、独自の発展を進み、日本と台湾の相互の文化が融合した温泉施設も残っている。近年、台湾は週休二日制の導入により、レジャーへの関心が高まり、新たな温泉施設が多数作られている。しかし、急増した温泉施設により問題点も多くみられるようになった。また、2003年6月に制定された「温泉法」は、これからの台湾の温泉開発に大きな影響を及ぼすと考えられる。そこで本発表では、日本との関係が深い台湾の温泉開発の過程を地理的分布と歴史的観点より報告し、台湾の温泉開発の問題点を探る。
  • 福本 拓
    セッションID: 114
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    昨今の世界的な移民の急増は,諸外国の,特に非合法な手段による入国者(=「密入国者」)・滞在者に対して,右翼勢力の台頭といった人種主義や移民排斥等の社会問題を顕在化させた。日本でも,いわゆる「ニューカマー」の増加に伴い,同種の事態が見られるようになってきた。しかし日本の場合,「密入国者」を巡る問題は,近年の来日者のみならず,戦前の植民地期から戦後に至る動向の影響を多大に受けている。それゆえ,戦前・戦後を通じた「密入国者」に対する政策・認識の変遷を,政治・経済・社会情勢を踏まえて歴史的な観点から分析する視点は不可欠といえる。 戦前の「密入国者」は,朝鮮の所轄警察署が発行する「渡航証明書」なしの入国者を指す。彼らを管理したのは内務省で,その「密入国者」に対する認識は,国内の失業問題といった経済的問題の悪化を憂慮するものと,治安維持上の問題を懸念するものとに大別される。これに対し,占領期には正規帰還を除く全ての渡航者が「密入国者」とみなされた。この時期の国内の朝鮮人は法的地位が定まっておらず,「密入国者」に関しても,その対応にはかなりの紆余曲折があった。ただし戦前と異なり,「密入国者」を経済的問題と関連させる認識は見られなかった。 この占領期の混乱状況における政策決定過程を明瞭化することが,「密入国者」への認識や政策の変遷を辿る上で重要である。その際,地方における「密入国者」をめぐる議論に着目したい。というのも,彼らを含む在日朝鮮人関連の諸問題への関心は地域的に偏ったものであったからである。そこで,地方の動向と日本政府・占領政府の「密入国者」管理政策の関連に特に焦点を当てて,その背景にあった政治・社会情勢を踏まえながら「密入国者」に対する政策・認識の変化を考察する。
  • 河角 龍典
    セッションID: 201
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    本研究の目的は、平城京の地形環境を復原し、その復原成果と平城京内部の土地利用との関係から、平城京の土地利用規定要因を解明することにある。本研究では、ジオアーケオロジー(geoarchaeology)の方法を適用し、考古学や歴史学の研究成果に対応する精度の地形環境復原を行い、平城京の土地利用との対比を行った。平城京を流下する佐保川流域の地形環境は、奈良時代以降も著しく変化しており、奈良時代の地形環境は現在と異なる地形環境であることが判明した。佐保川流域平野における歴史時代の地形環境変化は、奈良時代以降4つの地形環境ステージに区分できた。表層地質調査からみた奈良時代の平城京は、洪水氾濫の少ない地形環境であった。また、史料からみても奈良時代の水害は、728(神亀5)年の1回にとどまっている。平城京の地形環境復原図と土地利用復原図とを対比した結果、平城京内部の土地利用は、地形環境と密接に関係することが明らかになった。平城京内部の土地利用は、地形の配列に対して決して無秩序ではなく、土地条件を考慮した上で配置されていたと推測できる。平城京の土地利用規定要因の中には、社会環境に加えて、地形環境も含まれていたのである。平城京における市街地や貴族の邸宅は、地下水位が高く、かつ洪水の危険性もある、現在の土地条件評価基準では宅地として不適当な地形に立地する傾向が認められた。これは水を得やすい土地を選択した結果であり、井戸による地下水の取水が容易である土地を選択した結果であると考えられる。こうした土地利用パターンの背景には、集水域面積が狭小で、洪水に対しての安全性は高いが、その一方で水資源に乏しいという平城京固有の立地特性がある。こうしたなかで、平城京内部の土地利用は洪水発生区域には左右されず、生活用水の取水条件あるいは地盤条件が、土地利用を規定する要因となったと考えられる。
  • 竹谷 勝也
    セッションID: 203
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    美濃国西部の旧大野郡南部・本巣郡南部・安八郡北部の条里地割を復元し、条里余剰帯の検出を試みた。対象地域における東山道ルートの通説である「せんどう」地名を結ぶルート周辺では条里余剰帯は検出できなかった。条里施行当時の東山道ルートは『延喜式』に記された駅路とは別のルートであったと思われる。 足利健亮氏が初期東山道と想定した赤坂と各務原を結ぶルート上、大垣市三ッ屋付近の中山道沿いに、幅15mの条里余剰帯を検出した。安八郡条里はこれを基準に施行されている。この条里余剰帯は長良川を越えて岐阜市六条付近までたどることが可能であり、近世地誌の伝承から、初期の駅路であったと考えられる。 これとは別に、本巣郡条里17条北縄に幅12mの条里余剰帯として認められる帯地割が存在することがわかった。近世中山道は新月橋で犀川を渡り、北上して3町北の美江寺宿から東進する。この帯地割が新月橋で近世中山道と交差することから中山道の前身と考えられるため、古中山道と仮称する。古中山道は東進して糸貫川を渡ると北に20mほどずれ、中山道の河渡の渡まで直進する。本巣郡条里は糸貫川の東西で陌線の位置が平均25mほどずれていることから、古中山道が本巣郡条里の基準となったと考えられる。犀川以西の大野郡内でも古中山道の帯地割は確認できるが、長護寺川以西では条里余剰帯は存在しないため、条里施行当時の郡界は長護寺川であった可能性がある。 美濃国西部の広域条里は共通の阡陌線のプランを持つものと説明されてきたが、郡ごと・地域ごとにプランが異なることがわかった。その施工基準は初期東山道と古中山道という2本の東西幹道であると考えられる。
  • 近世から近代へ
    喜多 祐子
    セッションID: 204
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    本発表の目的は,府県の統廃合がほぼ終了した後,地図が果たした役割を明らかにすることである.そして,明治政府や県,地元住民らの間で県境が定着する経緯を検証する.明治政府は,近世の領主制を廃し,地方行政区の単位として国郡制を基に府県を設置した.そして,新政府による諸政策は府県・郡・村単位で実施されたため,全ての土地の所属を明瞭にする必要性が生じた.また,府県や地元住民は新体制を受け入れようとはしながらも,混乱することもあった.そこで,こうした問題の解決策として,県境を明示しようという動きがみられるようになった.県境を把握するための手段として,江戸幕府撰国絵図,とりわけ元禄図や天保図が用いられた.ところが,この国界文言の記載(「国境不相知」),国絵図上の図像表現をめぐり問題が生じた.そのため,国絵図上の記載をそのまま県境として採用する府県と,そうでない府県がでてきた.そこで,明治政府は現地へ官人2名を派遣し,県の職員や地元住民らとともに,現地調査を行っている.その際,明治政府は両県の主張,旧記などの記述をとりいれながらも,自然国界を重点においた.現地調査の結果,決定した県境上には境界杭や標石などが設置された.県はこれを実測図(測量地図)にしたため,明治政府へ提出した.そして,この実測図をもとに,政府はこれを追認する姿勢をとってはじめて,県境が画定したのである.県境を地図上に表現し,それを政府へ献上するという作業は,争論の防止だけではなく,境界を不動のものへと変質させる役割を有していた.また,地元住民への境界画定の旨を伝達したことで,新しい境界・行政区を創出していったのである.このような県境の画定作業は全国一律に実施されたわけではなく,新政府が樹立し,諸政策が断行されるなかで,府県は徐々に県境の明確化を志向したのである.
  • 大浦 瑞代
    セッションID: 205
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
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    本発表は、天明3年(1783)浅間山噴火災害絵図を対象とし、描かれた図像や構図を分析することで、その表現に見出せる災害像を考察するものである。 天明3年の浅間山噴火によって、広範囲に降灰や泥流の被害がもたらされた。その災害の諸相を描く絵図類は、現存するだけでも100点以上に及んでいる。絵図に描かれる内容は噴火推移と被害様相の2つに大別でき、被害についてはさらに降灰被害と泥流被害に分けられる。 噴火推移は、浅間山の南側から俯瞰的に描かれるものが多い。山頂部分に紙を貼り重ねるかぶせ絵図の様式で、複数の場面に分けて推移が表される。ほぼ中央部に浅間山山頂部を配置し、噴煙を描くために絵図の半分近い面積を充てている。そのため、噴煙の図像に注意を向ける構図となっている。 泥流被害の範囲は、河川両岸を着色することで表される。被害有無の境界の明確さは絵図ごとに異なり、村名を囲む図形に対する着色面積や色の塗り分けで各村の被害程度を表すものもある。吾妻川流域の泥流被害を領域的に表す絵図は、パノラマ的に描かれた山稜線が閉空間を創出し、山稜線を幾重も重ねることで求心的に吾妻川を際立たせる構図である。また、吾妻川・利根川両流域の泥流被害を描く絵図には、河川自体が構図を決定づけるものがある。そのなかには、直線状に表された両河川の泥流流路が、絵図の中心線と一致する絵図がある。また、空間を分節する境界として河川が位置づけられ、山稜線を描く方向が河川を境に異なる絵図もある。 災害の諸相に応じて、絵図に描かれる内容はさまざまである。しかし各絵図には、図像の詳細さや構図のあり方などの表現に、重要視された点を見出すことができる。それぞれの絵図で異なる内容と表現には、多様な災害像を見出せるのである。
  • 岡本 訓明
    セッションID: 207
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本報告は、近代初頭の堺における軒庇の伐縮がどのように展開したのか、近世堺における都市構造との関わりから考察するものである。近世において、多くの都市では道路敷地上へ家屋からの軒の張り出しが許されていたが、本来は道路敷地上である軒下が、住民の手によって囲い込まれることが慣習的になり、軒下が私有地同然に扱われるようになったことによって街路が狭隘化した。 堺においては、1872(明治5)年に軒先へ差出す板庇の取払いが命じられ、1874(明治7)年には、堺県から大道筋の軒下の取込みを禁じる布達が出され、大道筋の軒庇の伐縮が行われ、その後1877(明治10)年にかけて軒庇の伐縮は堺市街全般で行われた。大坂夏の陣終結後、徳川幕府によって新たに町割が行われた堺の市街地における道幅は、南北道路は大道の4間半を中心にその左右(東西)に2間と3間の道路が交互に配置され、東西道路は大小路が5間で、それ以外の道路は3間というのが基本であった。そしてその中でも3間幅以上の南北道路が都市軸としての機能を持っていた。道幅については『堺手鑑』などから、近世初期の段階から軒下部分が道幅の内に含まれていたことがわかる。また自治組織としての町は170から180程あり、町の範囲は東西が3間幅以上の南北道路を中心にそれぞれの両側の裏筋まで、南北が東西道路の間という両側町が基本であった。軒庇の伐縮については、1876(明治9)年に大道の軒庇伐縮道路修繕が完成し、それ以降、他の道路についても本格的に進められ、結果として大道を含めて39ヶ所に軒庇の伐縮が命じられた。南北道路では都市軸の主軸といえる3間幅以上の中浜通、山口通、大浜通などに命じられ、東西道路ではほぼ全域に命じられている。また『和泉国大鳥郡第一大区四小区関係文書』からは、軒庇の伐縮が近世における自治組織としての町が基礎的単位となって行われたことがわかる。
  • 角 克明
    セッションID: 208
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では、近代交通として発展した紀州航路をとりあげ、和歌山県沿岸の寄港地を対象として、旅客の出入りから寄港地の性格を明らかにしようとするものである。すでに港を通過する荷物に注目した研究は数多くみられるものの、旅客を対象とする研究はほとんどみられない。 旅客に関する資料は『和歌山県統計書』の「汽船乗客」を用いた。1905(明治38)年_から_1937(昭和12)年の旅客数が得られるので、旅客数の推移から寄港地を特徴づけ、1929(昭和4)年までは、月別の旅客数がわかる(1918(大正7)年を除く)ので、旅客の波動から寄港地の性格を分析した。 また、旅客輸送にあたる商船の入港状況や旅客・荷物の取扱いからみた寄港地の性格を1908(明治41)年の断面でとらえた。ほとんどの寄港地で、船舶の近代化(汽船化)が進展していることが明らかとなった。
  • 徳安 浩明
    セッションID: 211
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    江戸時代の鳥取県日野川流域を対象として、鉄穴流しと呼ばれる砂鉄採取業と水害および治水との関係を検討した.
  • 品田 光春
    セッションID: 214
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    油田関係の地図類から明治後期の新潟県宮川油田における鉱区設定と油井の配置状況を復元し,日本石油・宝田石油両社の油田開発競争の実態を考察する。
  • 相澤 亮太郎
    セッションID: 301
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    かつて人文主義地理学が扱ってきた主体の内面性や情緒性は_丸1_場所本質主義的である_丸2_場所のダイナミズムを捉えられない_丸3_主体の知覚を超えた範囲からの影響を扱いきれない、などの批判を受けてきた。だが、たとえば地域対立やナショナリズム、またはまちづくりにおける住民参加の問題などを考えれば、主体と場所の情緒的な関係であっても無視することはできない。それらの問題を乗り越えるために、本研究では地蔵を事例としながら、記憶を媒介として場所が再生産される過程を描き出すことを目的とする。 1995年の阪神大震災以後は、地蔵が震災復興における象徴的な存在としてメディアにしばしば取り上げられてきた。都市インフラや住環境などの物的環境の復興ではなく、文化的・精神的なものの復興を象徴する存在として、地蔵は震災後に「再発見」された。地域住民にとって地蔵の意味は極めて多様であるが、地蔵の由緒が不明なものが多いにも関わらず祭祀が継続されているのは、特筆すべき点である。震災犠牲者の慰霊や現代的な御利益など、新たな意味や記憶が付与されながら、地蔵祭祀は継続されている。地蔵祭祀は廃れゆく伝統習俗であるとは一概に言えない。ただし当初の祭祀者を失った地蔵は、像そのものが残存しても、固有の記憶は残らない。地蔵をめぐる祭祀組織や所有形態、設置場所等が柔軟に変化しながらも、地蔵祭祀は継続されている。 地蔵は、場所と記憶の再生産装置として機能する側面を有しているが、地蔵そのものだけを取り上げて、安易に場所や記憶の再生産装置であると位置づけることはできない。地蔵祭祀は、場所の変化や社会状況に合わせて変化していく。場所が社会的構築物であるならば、地蔵も社会的に構築/再構築される存在であると考えられる。
  • 神戸市郊外の復興住宅調査から
    本岡 拓哉
    セッションID: 302
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    阪神・淡路大震災により住宅を失った被災者に対して,神戸市をはじめ被災自治体が大量に供給した災害復興公営住宅では,平山洋介(1999)が指摘しているように,入居プロセスにおいて「高齢者」「低所得者」が集められた,いわゆる「社会的・空間的隔離」の状態となっている。現在,震災から8年が経過したが,復興住宅をめぐって様々な問題,とりわけ高齢居住者の孤独感からの閉じこもり,延いては孤独死などが深刻な問題となっている。本発表はこうした問題を検証すべく,神戸市郊外の復興住宅A団地に暮らす高齢者を対象にミクロな彼/女らの日常生活の実態を報告するものである。
  • 畠山 輝雄
    セッションID: 303
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    近年、わが国では高齢化が急速に進んでおり、この急速な高齢化に伴い、介護保険制度施行後、介護サービスのニーズが高まっている。このことから、介護サービスを行うに際に拠点となる高齢者福祉施設は早急の整備を強いられている。この社会的要請に応えるべく各自治体では老人保健福祉計画、介護保険支援事業計画に沿って高齢者福祉施設の整備、その他福祉施策の展開を行っている。高齢者福祉施設の中でも通所が高い語施設は、施設の車により利用者を送迎するという性格上、利用に地理的制約が起きる。その結果サービス空間が狭域であることから、地域密着型施設といえる。これらのことから通所型介護施設を地理学的に分析することは有効であるといえる。そこで本発表では、高齢者福祉施策に早くから取り組んできた武蔵野市の通所型介護施設の立地と利用実態を考察する。その結果、通所型介護施設を利用する場合、利用者は自宅からの近接性を重要視することがわかった。同時に施設側も一定の時間内で送迎可能な地域にサービスを限定している。複数の施設のサービス範囲が重複する地域も存在しており、利用者が複数の施設を選択可能な場合、自宅からの近接性のほかに、サービス内容やケアマネージャーの助言により施設の選択を行っている。武蔵野市の場合、市の委託施設とその他の施設が混在しており、運営資金面で差が出ることから委託施設とその他の施設とでサービス、設備に差が生じており、施設選択に影響している。そして、武蔵野市では在宅サービスを利用する際の利用料の7%助成を行っていることから、市内でのサービスの利用意識を高めさせ、周辺自治体の施設の利用を滞らせるため、武蔵野市内完結型の通所型介護施設の利用実態となっている。
  • 若松 司
    セッションID: 304
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    部落解放運動のように,物理的な実態の変容という実質的な成果をもつ社会運動は日本では稀であり,これらを通して空間の変容における運動体の役割や存在意義を理解・分析することは人文地理学にとって重要な課題だと思われる。本発表は,同和対策事業の施行過程を,住環境運動に関わる行政官・運動体・住民といったエージェントがさまざまな政治的・社会的関係を取り結びながら,居住空間を変容していくローカルな場として捉え,その物理的な変容と行為者間の社会的諸関係との相互作用を記述・分析する研究の一環である。今回は同和対策事業のなかでも,1960から63年に実施されたモデル地区事業を対象とし,モデル地区に指定された地区を複数取り上げ,これらを比較検討することによって事業の成果とその歴史的意義を解明するための手がかりを得たいと考えている。
  • 人身売買から集団就職へ
    山口 覚
    セッションID: 305
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    全国の新規学卒者,特に中卒者を対象とする広域的職業紹介制度,就職列車などによる「計画輸送」は,戦後日本における労働市場統合の制度化における中核をなした。ここでは広域的職業紹介制度と計画輸送をあわせて「集団就職」と呼んでおく。集団就職に関する研究は近年進められつつあるが,ローカル労働市場それぞれの動向を把握し,全国レベルに統合されていく過程については不明なままである。本発表では,「1954年青森発,戦後最初の就職列車」という「神話」化された話を手がかりに,同時期の青森県,ひいては労働力供給地域の在り方を把握し,一方ではこの「神話」について詳細に検討するとともに,戦後日本における労働市場統合がローカルレベルの諸主体によって進められていった過程を明らかにする。
  • 安倉 良二
    セッションID: 308
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本研究の目的は,京都府南部地域を事例に選び,業態別に見た大型店の立地展開とその出店過程についても,大規模小売店舗法の運用をはさんで比較する点にある. 京都府南部地域における大型店の立地は1970年代から始まった.当初は,スーパーが中心であったが,大店法の運用が緩和された1990年代以降になると,スーパーの他,専門店,ホームセンターの立地も増え,業態が多様化している. 大型店の出店過程については,八幡市と久世郡久御山町で比較を試みた.八幡市では,1961年以降,旧八幡町に小売市場が立地しており,1970年代後半まで地域住民に対する食料品の供給先であった.八幡市への大型店出店は,1974年頃から具体化され,地元小売業関係者との調整を経て,1983年,マイカルを核店舗とする「八幡サティ」が開店した.同店のテナント入居に際しては地元小売業者が優先された.これは大店法による出店調整の厳しさを反映する.久御山町では,1999年と2000年に相次いで大型ショッピングセンターが開業した.それらは,イオンを核店舗とする「ジャスコ久御山店」と専門店主体の「ロックタウン久御山」からなる.両店共に,テナントに占める地元の割合は,元々久御山町における小売店舗数が少ないためにきわめて低い.両店舗の立地は,自動車交通のアクセスに恵まれた地域特性を反映し,久御山町の小売吸引力を大きく高める一因となった.
  • 佐藤 英人
    セッションID: 309
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本発表の目的は,横浜みなとみらい21地区(以下,MM21と略す)を事例として,当地に進出したオフィスの立地プロセスを検討することである.東京大都市圏では,1980年代後半以降,オフィス開発事業が盛んに展開されてきた.すでに東京都内をはじめとする主要なオフィス開発事業は,2003年までに概ね完了し,東京都区部におけるオフィス床のストック量は1982年(約5,700万_m2_)から2002年(約12,400万_m2_)の20年間でほぼ倍増した.とりわけ近年では,広いオフィス床が確保され,かつ,高い性能を誇るインテリジェントビルへの需給量が著しく増加する傾向にある. 確かに,優良なオフィスビルが多数,竣工することは,都市内でおこなわれる経済活動の円滑化・合理化を図る上で重要な役割を持つ.しかしながら一方では,新設されたオフィスビルと既存のオフィスビルとの間で,テナント企業の激しい争奪が起こり,争奪に敗れたオフィスビルでは,空室率が大幅に上昇するという,オフィス需給の不均衡が懸念されよう. こうしたオフィス需給の不均衡に関する学術的検討は,未だ十分な定量的・定性的データが存在しないため,都市経済学や不動産学などの一部の分野による予察的検討の緒がつけられたに過ぎない.つまり,オフィス開発事業が,競合する既存のオフィスビルに対して,経営的にどのような影響を与えるのか,不均衡発生メカニズムの解明に向けた基礎的知見が得られていない現状にある. したがって,本発表では,MM21に進出したオフィスの立地プロセスを考察し,当オフィス開発事業が競合する既存のオフィスビルに対して,経営的にどのような影響を与えるのか検討する.
  • 香川 貴志
    セッションID: 310
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    バンクーバー市とその周辺自治体の一部地域を事例として、近年における人口動向を分析し、住宅開発との関連性について考察した。
  • 山下 博樹
    セッションID: 311
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    バンクーバー都市圏に立地するショッピングセンターの立地状況、店舗特性および立地環境などから、都市圏における商業構造を明らかにすると共に、近年の都市圏の公共交通体系の整備とショッピングセンター立地の関係から、バンクーバー都市圏における地域づくり政策の一端についても述べる。
  • 根田 克彦, 伊藤 悟
    セッションID: 313
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では、都心の重要な構成要素である小売業に着目し、ボストン市の商業を概観し、次いで、2003 年6 月に実施したボストン市都心部の小売商業地における土地利用調査で得たデータに基づいて、ボストン市都心部の小売商業地の特徴を紹介する。土地利用調査を実施した地区は、ボストン市の代表的な小売商業地である、ボストン市の中心商業地であるダウンタウン・クロッシング周辺(ダウンタウン)と、観光客で賑わうビーコン・ヒルのチャールズ・ストリートおよびバック・ベイのニューベリー・ストリートである。これらの小売商業地以外に、ボストン市都心部には、フェスティバル・マーケット・プレイスの草分け的存在であるファニュエール・ホールとクインシー・マーケット、ホテルと連結するショッピングセンターで、高級ブランド販売店が多数入居するプルデンシャル・センターとコルビー・プレイスが立地する。以上の小売商業地と商業施設は、いずれも半径3km 圏内に収まるほど互いに近接立地する。
  • ロサンゼルス大都市圏を事例に
    矢ヶ崎 典隆, 椿 真智子
    セッションID: 314
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    アメリカでは1965年に移民法が改正された結果、1970年代以降、ヒスパニック系およびアジア系移民の流入が顕著となった。エスニック集団によるすみわけとエスニック・タウンは第二次世界大戦前からみられたが、新移民の流入に伴い、新たなエスニック・タウンが各地に分散的に形成されはじめた。都心外縁や郊外に形成された新たなエスニック・タウンの多くは、多様な経済活動と独自の生活文化がその景観に反映され活気に満ちている。民族的・文化的多様性に対するホスト社会の寛容さとそれに対する反発・軋轢とのはざまで、新たなエスニックタウンは自己の存在をアピールしているようにも見える。一方、都心型の古いエスニック・タウンは、インナ_-_シティの空洞化に伴う衰退を経験しつつも、都市再開発や歴史景観再生の動きなどとともに新たな局面を迎えている。エスニック・タウンは、ダイナミックな変化と多様性を創出し続けるロサンゼルス大都市圏の景観と都市機能を考えるうえで不可欠の要素といえるだろう。しかしエスニック・タウンの実態は極めて多様であり流動的である。また近年は、観光資源や地域資源、歴史景観としての評価、エスニック・シンボルとしての再認識など、エスニック集団ならびにホスト社会の双方にとって重要な意味を有している。 従来は、エスニック集団の社会的・経済的地位上昇に伴うエスニック・タウンの郊外化と都心部の衰退とが注目されてきたが、新たな移民集団の流入と都市空間の変容、産業の立地移動は、従来とは異なるエスニック・タウンの立地・成長プロセスを生みだした。 ますます加速するグローバル化の中で、エスニック・タウンは一層多様化し、都市景観に新たな要素を与え続けると同時に、独自なエスニック景観として表象されはじめている。
  • 北京市の「民工」集住地区について
    松村 嘉久
    セッションID: 315
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本発表の目的は、北京市における出稼ぎ労働者(民工)の人口動態と就労実態を明らかにし、出稼ぎ労働者集住地区の分布およびその形成からクリアランスにいたる過程に迫ることにある。 2001年11月に実施されたサンプル調査によると、北京市の外来人口は328.1万人であった。15歳から59歳の労働適齢人口が90.8%を占め、北京市近郊に借家住まいする者が多く、長期滞在化する傾向が確認できた。出稼ぎ労働者の多くは建設業やサービス業に従事しており、北京市の生産・建設現場や市民生活を支えている。 外来人口は大きく「歓迎すべき客」・「来て欲しい客」・「黙認すべき客」・「招かざる客」に分けることができ、本発表で言う集住地区に居住しているのは、主に「黙認すべき客」や「招かざる客」である。いずれも「客」であることに変わりなく,北京市における出稼ぎ労働者問題は、日本の外国人労働者問題と構造がよく似ている。毛沢東時代から都市と農村を隔ててきた「見えない壁」は事実上崩壊しているが、制度上は今なお健在である。「物語としての都市と農村」は終焉を迎えているものの、「都市と農村の終焉」もまた物語として存在している。 北京市における大規模な出稼ぎ労働者の集住地区は、主として環三路(第三環状道路)の外側の近郊区(海淀区・朝陽区・豊台区・石景山区)に分布している。2008年北京オリンピックに向けての建設ラッシュのなかで、少なからぬ集住地区がクリアランスの対象となっている。本発表では北京市当局による都市計画などの「見える手」に注目しつつ、現地調査に基づいて、こうした集住地区の形成からクリアランスにいたるまでの過程が明らかにされた。
  • 福岡市を事例に
    宗 建郎
    セッションID: 402
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では,開発業者によるマンションの立地やそのタイプなどの特徴の違いから居住分化の問題を扱う.供給されるマンションによって居住者に特性が見られるのであれば,供給側がどのような地区にどのようなマンションを供給するのかが,居住分化を考えていく上で重要になるという考えのもと,福岡市を事例に,開発業者の分譲マンションの立地やタイプなどの開発傾向の把握を行った. 調査の結果,福岡市全体としてはバブル期の都心部で数多く供給されていた単身居住用のマンションが,それ以降大幅に供給量を減少させ,都心付近でも永住型のマンション供給がほとんどとなったことが判った.また,中央大手と地元企業の間ではマンションの供給地やそのタイプに差異が見られ,バブル期以降の変化への対応にも,その違いが見られた.
  • サモアにおける女性とテーラリング
    倉光 ミナ子
    セッションID: 406
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    “グローバリゼーション”という言葉が脚光を浴びてから久しい。グローバル化の波は南太平洋の小さな島嶼国家にも確実に押し寄せており、経済的・文化的な影響を与えている。サモアの場合、その影響を視覚的に示してくれるものの一つが身体を包む衣服である。とりわけ首都アピアにおける服装の変容とテーラリング(仕立)業の盛衰は著しい。この点に着目し、本発表は、アピア都市部において、テーラリングを自宅で営むサモア女性の活動や意識を紹介し、そこで繰り広げられるテーラーと顧客の間の相互作用がアピアの特異性を“グローバル”ではなく“トランスナショナル”なものとして捉えるための1つの視角になりえることを示していく。
  • 山口 晋
    セッションID: 407
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    消費社会と空間の再創造が結びついた社会経済的な再編は、現代都市空間に多大な影響を及ぼしてきた。都心部の活性化のために建造環境が改変される一方で、都市経営にかかわるプロモーションなども重要性を増している。行政の中には観光や集客、賑わいの創出などをテーマにした政策を積極的に打ち出すところも多い。だが、そのような政策と並行して都市空間の管理や排除は強化され、かつ巧妙になってきている。例えば、消費に特化した都市空間の中で「若者」は必要とされると同時に徹底的に規制され、排除される対象でもある。 本発表では東京都の大道芸ライセンス制である「ヘブンアーティスト」制度を取り上げ、行政による都市空間の管理形態を明らかにし、その上で政策的再考の視点を提示することを目的とする。
  • 香川 雄一
    セッションID: 410
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    現在、平成の市町村合併と関連して地方財政の諸問題が注目されている。そもそも明治および昭和の大合併においても地方団体の財政運営の効率化が課題となっていた。歴史的な地方財政史研究では地方財政制度の確立と変遷が説明された上で、都道府県や市町村といった個別の具体的な地方財政分析へと進んでいる。その際、地方財政の特徴を国家財政からの相対的な特徴として捉えるだけでなく地域的特徴に基づいた財政分析が必要となる。近年、地理学においても財政資料を用いた研究が報告されるようになってきた。現時点での地方財政の諸問題に対しては、資料的の利用条件もさることながら、地方財政という問題への共通理解が可能である。今後は過去の歴史的な地方財政の問題に対しても地理学的な研究がいかに貢献できるかを検討してみるべきである。地方財政研究の資料として各年度の歳入歳出決算書が用いられるが、実際には合併などのため決算書自体が残っている市町村は意外と少ない。栃木県鹿沼市では市史編さん事業の一環として市議会に保管されている行政文書から合併以前の旧町村を含む決算書を収集してきた。その成果として鹿沼町の決算書を翻刻する(『鹿沼市史 資料編 近現代1(別冊)』2000年)とともに財政史的な検討を加えた(香川:2002=鹿沼市史紀要第7号、同:2003=同上第8号)。また県や郡に対して町村の財政的変化がいかなる特徴をもつかを報告した(香川:印刷中=奥田晴樹編『日本近代史概説』弘文堂)。これらを踏まえ一地域における財政史の概略を紹介した後に、財政の時空間的変化において地理学的理解の方法を示す。対象地域は栃木県旧上都賀郡南摩村である。市制町村制の施行によって村が成立した明治22年から昭和の大合併によって鹿沼市に編入されるまでの約60年間の財政変化を扱う。
  • 横浜市青葉区を事例として
    島崎 里史, 若林 芳樹
    セッションID: 411
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、インターネットの普及過程と利用形態にみられる地域的特徴を明らかにするために、市区町村単位での普及状況と人口構成との関連性、ならびに個人・世帯レベルでの採用過程と利用状況について、横浜市青葉区を主たる対象地域として分析を行った。まず、インターネットの地域的普及状況をみるために、東京圏の市区町村別利用率を分析したところ、都心部から西南部ならびに神奈川東部にかけて高く、それと人口構成との関連性をみると、年齢、職業、学歴との間で有意な相関がみられた。こうした地域的傾向を個人レベルで詳しく検討するために、普及率の高い横浜市青葉区を対象にしてアンケート調査を実施し、個人単位でみたインターネットの採用過程と利用状況を分析した。その結果、青葉区ではインターネットの普及に対する世帯構成員やCATV事業者の役割が大きいことが明らかになった。また、採用時期や接続形態によって、インターネット導入のきっかけや利用形態に違いがあることも判明した。とくに、青葉区ではもともとITに関心が高い中高年の男性世帯主が中心となって、世帯内でのPCとインターネット利用を促進する指導的な役割を果たしていた。これに対し、携帯電話によるインターネット利用者は、比較的新しい採用者に多く、おもに女性が電話の代替機能として電子メールに利用している点が特徴的である。このように、インターネットの普及には個人属性だけでなく、それを促進する社会的環境が大きな役割を果たしている。
  • ワークショップ岐阜羽島を事例として
    野木 大典
    セッションID: 412
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    近年のインキュベータ施設の動向として、立地点・運営機関の小規模化がみられる。本報告では、岐阜県羽島市に開設された「ワークショップ岐阜羽島」を事例として、その設立・運営における現状と課題を明らかにした。岐阜羽島駅の駅南地区は、繊維産業の問屋街として開発されたが、1980年代以降の不況で衰退し空きビルが目立つ。羽島市は、市内の産業支援と駅南地区の再開発を目的として、インキュベータ施設であるワークショップ岐阜羽島を2002年に開設した。ワークショップ岐阜羽島は、当初の予想以上に成功している。その理由は、特殊な立地条件の利用と入居企業の意図的な選択にある。駅南地区は、都市圏外への移動に便利な反面、都市圏内への移動には不便であり、そのため産業が立地せず地価が下落していた。こうした立地条件に対応した企業にとって駅南地区は魅力的な立地条件であり、ワークショップ岐阜羽島はそれを対外的にアピールする役割を果たした。また、羽島市はワークショップ岐阜羽島の入居企業を募集する際、特定の企業に入居を依頼し、入居企業を意図的に選択した。これはレベルの高い企業を入居させると同時に、入居企業間での取引・支援関係を想定したためである。これらの理由が、ワークショップ岐阜羽島の予想外の成功を導いた。
  • テレビユー山形「テレビ歳時記」を事例に
    玉懸 慎太郎
    セッションID: 413
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    地方テレビ局が制作してきたミニ番組を事例に、映像の作り手が何を「地域らしさ」ととらえ、自らの地域をどのように描き出しているのか分析する。
  • イタリア・北部同盟の試みを解釈する
    北川 眞也
    セッションID: 415
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    1990年代前半のイタリアは激動のときであった。冷戦期の「第一共和制」と呼ばれる政体が崩壊し、既成政党の消滅や経済危機などに直面した。イタリアはグローバル化する世界において、その位置付けを見失った状況にあったのである。それゆえ「イタリア」をめぐって、さまざまな言説が生み出された。政治のレベルでは、新政党が「第二共和制」を構築していくこととなったが、その中でもっとも「イタリア」を問題化したのは、北部に自治を求める北部同盟という政党であった。北部同盟は、既存の政治システムを批判し、国家の連邦制改革を訴えることで、1990年代前半に躍進した。だが1996年には北部をイタリア内のリージョナルな場所から、それとは異なる「パダニア」というナショナルな場所として表象し、分離を目指した。しかも1996年の総選挙で過去最高の躍進をみせ、中央に対する不満を募らせるイタリア経済の中心である北東部から多くの支持を得た。一方で、1996年はイタリアのEUの通貨統合へ向けての国家改革の端緒とも言える。通貨統合への参加が危ぶまれていたイタリアにとっては、かなりの困難が予想されていた。国内からの北部同盟の分離への訴えと、国外からのヨーロッパ統合の圧力は、いずれもしばしば近代性の欠如として特徴付けられるイタリアを「普通の国」へと適合させていくための挑戦と考えられる。発表では、北部同盟による地理的スケールの政治が、イタリアの政治に及ぼす効果に注目する。なぜならこの表象によって、ユーロをめぐる重要な時期にイタリア北部の意味が問題化されるからである。他の政治勢力が、この北部同盟の「パダニア」・ナショナリズムからどのようなことを読み取ったのか。そしてそれが「イタリア」の言説にどのように節合されたのかということを明らかにする。またここから、グローバル化の中で活躍する「イタリア」へ向けての道のりの困難さが伺えるだろう。
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    河本 大地
    セッションID: 506
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    有機農業は、食の安全志向や環境意識の高まり等を背景に、世界的に広がりを見せ ている。そのような中、日本では大都市近郊や中山間地域を中心に自治体・農協など が地域農業振興策として有機農業を導入し、産地形成を図る事例が多く見られる。こ れらの事例は、ジャーナリズムや研究においてしばしば取り扱われているが、有機農 業を推進する側や一部農業者の論理だけを分析し、さも地域が一丸となって取り組ん でいるかのように語られることが多い。有機農業の推進が地域にとってどのような意 味を持ち、地域をどのように変えていくのかを捉えるためには、その一側面として、 産地内部の住民による受容の状況を仔細に確認する必要がある。  そこで本研究では、有機農産物産地形成の先駆的な事例として宮崎県綾町を取り上 げ、町や農協が推進してきた有機農業に対し住民がどのような意識を持っているかを 調査した。その結果、同じ有機農産物産地内でも、住民各種アクターの意識に濃淡や 質的隔たり、変化が見られることがわかった。  有機農業への取り組み方は作目ごとに異なっており、それが意識面における産地内 の地域的差異を生んでいる。この地域的差異は、農家だけでなく非農家にも顕著に確 認できる。さらに、綾町には有機農業推進開始後の移住農家が比較的多いが、こうし た農家と在来農家との間でも、町や農協の推進策や他の農家の取り組みに対する意識 のギャップが大きい。このように、産地を構成するアクターは極めて多様であり、住 民相互の意識のズレや対話の欠如は顕著である。こうした住民各種アクターの違い は、産地の現状を理解し将来を見通すうえで極めて重要な要素と考えられる。
  • 京都市右京区を例にして
    山崎 貴子
    セッションID: 508
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    学習塾の全国的な動向を分析し、次に京都市右京区を事例地域として、学習塾の立地場所・立地形態等の変化、および生徒の属性などを検討した。 その結果、以下のことが明らかになった。 1 大手学習塾の多くは、高度経済成長期から安定成長期に創立され、規模が拡大している。学齢期人口の増加および高学歴化などにより、営利性が高まったことが要因と考えられる。 2 学齢期人口と学習塾の件数との関係は、大都市レベルではほぼ正の相関関係にある。しかし、京都市を例とした都市内レベルでの検討によると、交通の至便性および地域の教育水準が関与しており、両者の相関関係は低くなる。 3 京都市右京区にある学習塾は、「単体開設」の学習塾が住居系用地にある「自己所有」の物件を利用して展開するタイプから、「複数開設」の学習塾が商工業系用地にある物件に「テナント」として入居し展開するタイプに変化してきている。 4 学習塾は、様々なニーズに対応するため、対象学年の広範囲化、小学生の英語教育、さらに個別指導の強化など、多様な事業を展開している。 5 学習塾の選択背景には、居住地からの距離や交通手段、および学習塾の教育方針が関わっている。 完全学校週5日制の実施および教育内容の削減などにより、教育機関としての学習塾の役割は、ますます大きくなると思われる。また、学習塾を含む民間教育機関、学校および地域の連携の動きがみられ、民間教育機関が地域の中で果たす役割も注目されている。民間教育機関の情報公開の消極性が克服されれば、地理学からの教育に関する研究のさらなる発展が望めよう。
  • 青山 周平
    セッションID: 509
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    日本経済の低成長が続くなかで、外資系アパレル・ブランド企業を主導とする、ブランド・ビジネスの影響力は市場で増大し、特に1990年代後半以降、主要外資系アパレル・ブランド企業は売上げを伸ばし急成長を記録している。 本発表では、これまであまり研究対象にならなかった、外資系アパレル・ブランド企業の小売店舗の展開とその過程を記述する。 外資系アパレル・ブランド企業は、その大半が欧州アパレル・ブランド企業の日本現地法人である。欧州アパレル・ブランド企業の日本現地法人設立による本格的な進出は1980年代以降である。本発表では外資系アパレル・ブランド企業Louis Vuitton Japan社を事例にあげて考察を進める。外資系アパレル・ブランド企業の小売店舗の展開は、進出の形態、進出の時期、商品の性格、進出後の業績から直接的な影響を受ける。そのため、外資系アパレル・ブランド企業の各社は、様々な小売店舗の展開段階にある。外資系アパレル・ブランド企業の小売店舗の全国的な展開は、主に中心商業地に立地する百貨店への出店を中心に行われてきている。現在は、小売店舗の展開の過程を3つの過程に別けることができる。 1.日本国内における小売店舗の展開の初期において、東京を中心とした全国的な展開として大都市圏の中心都市と広域中心都市の中心商業地の百貨店に展開する。 2.そして次に広域中心都市から低次の地方都市への展開し、同時に地域的な展開として大都市圏などの地域内で未進出の中心性の高い都市や商業地へと展開する。 3.全国的に、小売店舗網の充実が図られると、その初期に店舗を展開した大都市圏の中心都市と広域中心都市に中心商業地に直営路面店舗などの旗艦店を展開する。全国的な展開で東京を中心とした一極集中の店舗網から、各地域の旗艦店を中心とした多極的な店舗網へ再構築される。 現在、以上のことが考察から明らかになっている。
  • 屋外広告物掲出の分析から
    近藤 暁夫
    セッションID: 510
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    事業所が「社会的分業をなす場所的単位」(日本標準産業分類)である以上、その存立には社会とのつながり(空間の中で自らを位置付け、事業所の周辺諸環境との関係を構築すること)が必要である。すなわち、事業所は自らの存在を顧客などの周囲の他者に認識されなければその活動を円滑に遂行することは困難であり、その重要な位置を担うのが広告活動であると考えられる。本研究では、事業所が行なう広告活動の中でも、現実空間を媒体として社会とのつながりを媒介する活動に位置付けられる屋外広告物の掲出に注目する。 京都府丹後地方の幹線道路(国道)沿道計102kmの区間において、どのような事業所がいかなる屋外広告物をどのように掲出しているかについて、悉皆調査を行なった。その結果、事業所の存在を知らしめる屋外広告物として、本体に付属し、事業所本体を識別させることで事業所を空間上に位置付ける役割をもつ「自家用広告物」と、事業所本体に付属していないが、別の場所にある本体を指し示すことで事業所本体と広告物が置かれている場所を結びつける働きをもつ「事業所宣伝広告物」を抽出した。これらは屋外で確認できる広告物の9割以上を占めていた。また、事業所宣伝広告物の7割は沿道に本体が立地していない事業所の掲出物であった。 屋外広告物の掲出は、事業所が何らかのメッセージを空間上(の人間)に働きかけ、空間を自らの影響下に取り込もうとする行為である。それは、具体的には、自家用広告物の掲出により本体を空間上の点として位置付けることと、事業所宣伝広告物の掲出により、それを掲出した場所と本体を結びつけることで、面的な広がりのある空間を自らと関係付けることである。逆にいえば、屋外広告物の設置を通して空間が事業所に取り込まれているとみることもできよう。なお、屋外広告物を本体と切り離して展開している事業所は、全事業所の1、2割であると推定される。
  • 前橋・高崎地域における第3次産業を中心に
    菊池 慶之
    セッションID: 511
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    群馬県前橋・高崎地域を事例に第3次産業における事業所の郊外化の観点から明らかにする.前橋と高崎は隣接するほぼ同規模の都市であるが,事業所の郊外化の様態に差がある.この要因は都市を取り巻く環境の相違によるものであり,特に交通の利便性の違いによる.群馬県の県庁所在地であり,歴史的に国の出先機関・県の行政機関が多いことに特徴付けられる前橋は県内の中心都市ではあるが長距離交通の利便性にかける.これに対して交通の要衝として発展してきた高崎は新幹線が通り東京との時間距離が近い.このため,前橋では地元企業の本社が郊外に立地し,広大な駐車場を備える方向に変化しているのに対して,高崎では駅周辺に域外企業の支所が集積する傾向がある.
  • Schlunze Rolf D.
    セッションID: 512
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    在日欧州企業においては、異なる認識を持った欧州人経営者と日本人経営者が、会社の内外の活動をコントロールするために争いあっている。しかし、異文化経営において、互いに上手く協力し合うことができれば、現地の仕事環境、市場環境によく埋め込まれた、効率的な新しい経営を生み出すシナジー効果を出すことができると考えられる。欧州企業の欧州的経営が日本のビジネス環境に好ましい形で適応できた時、それは埋め込まれているということになる。この段階を、経営的埋め込み(managerial embeddedness)と定義する。日本文化、日本的経営は独特なものであると見られているので、欧州企業の文化的埋め込みについて調べるにも、日本的経営システムの「独特な要素」から検討するべきである。本研究のため、在日欧州製造企業96社全社に対してアンケート調査を行い、調査結果をもとに、計量分析を行った。目的は、日本における欧州企業の経営システムの埋め込みのタイプを調べること、そして、対内的、対外的適応の特徴から、各々のタイプの相違点を明らかにすることであった。クラスター分析の結果、ハイブリッド工場は2つに分類された。1つは、完全に埋め込まれているembedded hybrid工場で、その経営方式は、同産業日本企業の工場での典型的な方式に倣っており、ほとんどの方式が日本スタイルに近い。もう1つは、完全には埋め込まれていないsemi- embedded hybrid工場で、そこでは欧州人経営者が決定的な分野で経営方式を導入している。しかし、たとえsemi-embedded hybrid工場であっても、かなりの程度現地システムに適応しており、欧州企業は、在欧日本企業以上に現地、すなわち日本のビジネス環境に埋め込まれている。地理的分布を見ると、embedded工場はどちらかといえば、広く地方にも見られる。それに対して、semi-embedded工場の立地は、より適応性のある、つまり日本産業ネットワークの中でより国際化された空間を表している。本研究で議論する経営的埋め込みこそ、「変化のエージェント」がどのように空間と立地を変化させていくかを表す、地理学的研究の新しい道を開くのに有効なツールを与えてくれるであろう。
  • 稲垣 稜
    セッションID: 513
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本報告では、大都市圏特に郊外に居住する若年者が非正規労働力化するメカニズムを、求人、求職の局面に着目して明らかにする。郊外だけでなく大都市圏全域の居住者を広告の対象とする求人情報媒体(an、fromA、インターネット求人サイトなど)は、都心に立地する事業所が利用する傾向が強い。一方、新聞折込求人広告は、郊外に新聞に折り込まれる傾向が比較的強い。なお、郊外の新聞に折り込まれる求人広告には、郊外に立地する事業所だけでなく都心に立地する事業所の求人情報も掲載されている。続いて、郊外においては実際にどのような求人広告媒体がよく利用されているのかを検討した。郊外では、新聞折込求人広告や郊外に限定した求人情報誌だけでなく、都心の事業所が掲載する傾向の強かったan(学生援護会)やfromA(リクルート)などの求人情報誌もかなり利用されている。 しかし、以上の有料求人広告媒体以上に、郊外で利用されているのは、貼り紙求人ポスターなどの店頭求人広告である。 店頭求人広告は掲載料が基本的に不要なため、郊外の事業所では一般的に利用されている。一時的な労働力とみなされる非正規労働力の場合、募集時の手間、コストをできるだけ抑えて獲得することが求められるため、求人側は、手間、コストを要さない店頭求人広告を積極的に活用して、若年の非正規労働力を確保している。一方、こうした店頭求人広告を通じた応募は、求職側(若年者)の様々な応募方法の中でも最も一般的に行われているものであり、非正規労働力としての雇用を始める際の重要なきっかけ、情報源となっている。郊外に居住する若年者、とりわけ女性において、自宅近隣に立地する事業所を日常的に訪れる中で店頭求人広告を目にし、その求人情報をもとにその事業所へアルバイトを応募する者の存在が確認された。
  • 松原 光也
    セッションID: 514
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    LRT(Light Rail Transit)は歩行者や公共交通を中心とした都市計画(パーク&ライド等のTDM施策やトランジットモール)に基づいて設置された軌道系中容量交通機関である。これを導入することにより、中心市街地活性化や環境対策、福祉対策に役立った。本論はヨーロッパで導入されているLRTの特徴と、実際に日本で走っている路面電車との相違点を明確にすることにより、これから日本でLRTを導入する上での問題点を提示した。 福井市で2001年秋に行われたトランジットモール社会実験の結果及び、著者が独自に行ったアンケート結果を踏まえて、都市交通に対する住民の意識を調査した。福井市役所の調査では商店街に来る人は増加し、約12%の人が自家用車から路面電車利用に転換した。商店街店主は車が通らないと売上が少ないと考えているのに対し、市民はトランジットモールに対して好意的であった。筆者のアンケート結果で、福井鉄道に乗ったことがない人が約3分の1おり、あまり利用されていないことがわかった。ところが、その印象については好意的な意見が多く、市民の愛着が感じられた。利便性については、運転本数についての不満が一番多かった。その機能を生かすため、増便や発着時間の調整、共通乗車券の発行、低床式車両の運行などの改善策が望まれる。 利便性が向上すれば自家用車から公共交通利用に転換する可能性がある。LRTの整備費用を負担する住民が計画に参加する方がよい。行政側は情報開示や社会実験を通じて、市民が活動できる場を提供する。各段階で他都市の例を参考にしながら問題点を明確にし、協議を重ねていく必要がある。
  • 鈴木 晃志郎
    セッションID: 515
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    発表者は,既に日米4都市における案内書の道案内表現の比較研究により,住所表示システムと街路パターンの相違が,道案内文の表現や地図の利用に違いをもたらしていることを明らかにした。しかし,これらの研究では地図と言語を個別に扱っており,両者の関係については詳しい検討を行っていない。また,東京のように,規則性が異なる街路パターンがモザイクのように入り組んでいる都市の場合,とりあげられた地点の分布が表現に影響を及ぼしている可能性もある。本研究は,日米の観光案内書を用い,読み手に空間情報を提供するために,地図と道案内文がどのように関わり合って用いられるのかを,掲載地点の空間的分布によって地理学的に検討することを目的とする。 まず,東京について記述している日米各3種類の観光案内書について,掲載された各地点の紹介文に含まれている道案内に関する文節を抽出し,3種類の参照系と4種類の被参照物にカテゴリー分けする方法で数量化した。さらに,各地点の住所をアドレスマッチングして経緯度に変換し,GISを用いて空間分布パターンを調べた。分析の結果,東京の場合,掲載地点の分布には日米間に大きな差は見られず,むしろ差異は地図と言語情報の使い分け方と,案内書の構成のほうに顕著な影響が認められた。日本の案内書は,個別に道案内文を提示するアメリカのものとは異なり,各地区ごとに一括して,その地区までの道のりを提示し,そこから先は地図による提示を行っていた。即ち,2つの空間スケールで地図と言語の使い分けが行われている。いっぽう,言語情報の依存度が高いアメリカの場合は,やはり参照系の使い方に街路パターンの使い方などの局地的条件が影響を及ぼしていることが明らかになった。
  • 今里 悟之
    セッションID: P1
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/12/24
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では,丹後半島の定置網漁村,京都府伊根町新井集落を事例に,主に高度成長期までの空間民俗分類の性差の概要を報告する。新井集落における女性の生産領域分類は,農業と採集への従事を反映して,陸域が男性に比べて細分化され,逆に海域は粗くなっている。その分類体系の階層は,最大6段階であった。これに対して男性の生産領域分類は,漁業への従事を反映して,海域の方がより詳細である。その分類体系の階層は,ブラクの社会空間の分類を除けば,陸域で4段階,海域で3段階であった。以下,詳細な考察と結論は,当日の発表で提示する。
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