1957年12月10日,揖斐川上流域が電源開発株式会社の調査区域に指定された。
調査対象となった岐阜県揖斐郡藤橋村および徳山村の両住民とも相ついで「村民大会」「村議会」などで「ダム反対」の決議をした。これに対し建設省は,その後,発電計画だけでなく,洪水調整など公共の福祉につながる「多目的ダム」とした。水没予定者の間では,「反対派」と「条件付賛成派」の2派に分裂した。
藤橋村の「横山ダム」が完成してから約12年以上経過し,「徳山ダム」建設事業は,建設省から水資源開発公団に継承された。徳山村では,村民は3派に分裂した。“日本―のダムならば日本―の補償”という幻想は,山の人達を“金しばり”とした。
二つの「多目的ダム」開発によって“揖斐谷”住民の生活は,どのように変転したか。過疎問題をふまえて,小論は15年間の追跡調査を総括する。
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