19世紀,大英帝国の首都ロンドンは拡大を続け,1851年に人口は236万人を超えた.中産階級は,次第に環境の良い郊外に移り住み,スラム化した都心部には労働者が多数残された.しかし大都市問題に関わる公的機関の介入は限られ,改良事業の多くが博愛主義者の慈善活動に依存していた.本稿では,1860年代以降,英国のオープン・スペース運動の発展に貢献した,社会改良家オクタヴィア・ヒルの環境への関心と行動の範囲・内容を明らかにする作業を通して,緑に囲まれた都市や国土の景観を保全する活動が,当時の人間のいかなる意識や理解に基づいて始まり,社会の批判や合意を得て進んでいったのかを検討する.ヒルのオープン・スペース運動は,都心部に小さな遊び場を造ること,身近な「使われない墓地」を開放することから始まり,コモンやフットパスの保護,英国南東部ウィールド丘陵の眺望点の保護,さらに湖水地方の景勝地の保護へと発展した.19世紀末にオープン・スペース運動は躍進期を迎え,ヒルは英国全体のオープン・スペースの保護を対象とし得るナショナルトラスの創設者の一人となった.ヒルの著した論文・書簡・報告文の内容から・オープン・スペース意識と行動とを検討し,オープン・スペース運動は博愛主義に基づく社会改良事業から始まった環境保護運動であり,「美の普及」に関わる芸術活動と関連していたこと,さらに彼女のオープン・スペース運動への貢献が,先行研究で示された本のより大きかったことを論じる.
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