陸上生態系に比べて,海洋生態系では植食者と餌植物の間に高度に特殊化した関係が見られることが少ない。嚢舌目ウミウシは数少ない海産の狭食性植食者として知られる。また,海藻の細胞内液を吸い出して食べる,その独特の摂餌方法は吸引食性の植食性昆虫の摂餌に通じるものがあり,特殊化の進化を研究する上で興味深い生物であると考えられる。日本の岩礁海岸には多様で豊富な嚢舌類が生息している。本州太平洋岸の相模湾とその周辺で,緑藻のミル類Codium spp.を食べる嚢舌類の生態について調査を行った。とくに比較的大型で,相模湾でふつうに見られる2種,ヒラミルミドリガイElysia trisinuata Baba, 1949とセトミドリガイE. setoensis Hamatani, 1968のフェノロジー,個体群動態,餌海藻利用について調べた。ヒラミルミドリガイは,同所的に生息する他のミル類食嚢舌類よりもかなり大きく,最大体重は821mgにも達した。小型個体の餌海藻上への加入は主として夏に見られ,加入後,秋までに成熟に達し産卵する個体がいる一方,越冬して翌春に産卵すると思われるものも見られた。ヒラミルミドリガイは本研究で調べられた8種のミルのうち6種から得られ,6種すべてを食べた。また,他の研究で,さらに他4種のミルを利用できることがわかっている。このウミウシはミル類以外の海藻からは得られておらず,ミル類専食着である可能性が高い。一方,セトミドリガイはヒラミルミドリガイよりもかなり小さく,最大でも64mgに過ぎなかった。セトミドリガイが最も多く出現したのは春と夏であったが,この種にもやはり越冬個体が見られた。また,セトミドリガイは夏にミルC. fragileやモツレミルC. intricatum上で頻繁に見られたが,ミル類だけでなく,ハネモ属Bryopsis,イワズタ属Caulerpa,ヒメイワズタ属Caulerpella,ミドリゲ属Cladophoropsisの海藻からも見つかった。セトミドリガイが実際にこれらの海藻すべてを食べるかどうかは今後の研究に待たなければならないが,ヒラミルミドリガイより幅広い食性をもつと思われる。上述の2種に加えて,日本にはミドリアマモウミウシPlacida sp. (sensu Baba, 1986),クロミドリガイElysia atroviridis Baba,1955,スガシマミドリガイE. sugashimae Baba, 1955,アオモウミウシStiliger ornatus Ehrenberg, 1828,テントウウミウシS. aureomarginatus Jensen, 1993,さらに未記載のPlacida sp.のミル類食嚢舌類が生息している。これらの餌海藻についても,これまでの研究で明らかになっていることを概説した。
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