教育学研究
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66 巻, 2 号
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  • 遠藤 孝夫
    1999 年 66 巻 2 号 p. 163-172
    発行日: 1999/06/30
    公開日: 2007/12/27
    ジャーナル フリー
    私立学校の自由と権利がどこまで保証されるのか、そして私立学校が教育制度全体の中で如何なる位置と役割を果たすことになるかは、その国の教育の在り方の根幹と通底する問題である。とりわけ、私立学校の自由と国家による学校統治との結節点を成す私立学校法(Privatschulgesetz)に関する研究は、その国の教育の特質と構造解明の点で重要な意味を持つ。本稿は、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ、以下単にドイツという)成立直後の南西地域(バーデン州およびバーデン・ヴュルテンベルク州)における私立学校法の制定経緯を検証し、そこでの私立学校の自由の法的保障獲得とその過程で導き出された新しい教育認識が、同時に1960年代中頃以降のドイツの公立学校の民主化運動を支える一つの基盤ともなっていたことを明らかにしようとするものである。従来のドイツ私立学校に関する研究では、田園教育舎やシュタイナー学校といった改革教育運動系列の学校における教育実践の特質や創始者の教育思想の研究が大半を占め、かかる優れた私立学校の教育が如何なる教育法制の下で展開されてきたのか、つまり私立学校法制への関心は極めて希薄であった。だが、例えば、国家の学習指導要領に従わず、教科書も使用しない教育を実践するシュタイナー学校が、ドイツ国内で170校近くにまで増加できた背景の一つとして、私立学校の自由と権利が各州の教育法(多くは私立学校法)によって保障されている事実に注目することが必要であろう。ドイツの私立学校法制史上、こうした私立学校の自由保障の嚆矢となったのは、1950年の南バーデン州私立学校法であり、同法はさらに1956年のバーデン・ヴュルテンベルク州私立学校法に継承・発展されていった。しかも注目すべきことは、この南西ドイツにおける私立学校法の制定過程に関与した人物たち、特にゲオルク・ピヒト(1913-1882)、ヘルムート・ベッカー(1913-1993)が同時に1960年代以降の公立学校の民主的改革においても、その中心的役割を果たしている事実である。だが、こうした興味深い事実も、従来の戦後ドイツ教育政策史研究においては等閑視されてきたのであった。以上のような課題意識および先行研究の問題点を踏まえ、本稿は以下の三つの論点を分析することを目的とする。1)ドイツの伝統的な学校統治体制および教育法理論の中で私立学校は如何に位置づけられてきたのか?2)南バーデン州私立学校法(1950年)およびバーデン・ヴュルテンベルク州私立学校法は如何なる経緯で制定されたのか?3)南西ドイツにおける私立学校法の制定はドイツ教育の歴史展開において如何なる教育史的意義を有していたのか?
  • 柏木 敦
    1999 年 66 巻 2 号 p. 173-182
    発行日: 1999/06/30
    公開日: 2007/12/27
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は明治期における教育費負担の民衆的位置づけを明らかにすることにある。先行研究においては多くの場合、教育費負担と教育関心は直結して語られてきた。しかしむしろ教育費に限らず共同負担という行為は、その実態からいって村落共同体の"慣習"や"秩序"を定式化する側面があるということができる。とするならば負担によって顕在化するのは共同体の慣習であって、必ずしも学校に対する所有意識ではないということができる。こうした視点に立つならば、民衆が依存せざるを得なかった共同体の"慣習"や"秩序"が、どのような形で彼らを拘束したのかということを明らかにする必要がある。教育という営為が民衆にとってどのような意味をもったのかということを解明しようとするならば、(教育費に限らない)出資あるいは負担そのものが民衆生活の一部分においていかなる意味を持っていたのかという位置づけを行うことが必要なはずだし、そうすることによってまさに民衆の生活における"教育という営為"の位置づけが可能となるはずである。筆者が本論において述べようとすることを要約すれば以下のようになる。1.1880年代から1890年代にかけて村落内での教育費負担の方法が変化したこと。そうした徴収方法の変化に伴って実際に教育費を負担する階層も移行した。そのことは負担の意味にも変化をもたらしたということ。2.村落における教育費負担は、村落の階層秩序によって負担の割合が決定された。それ故にその負担行為によって民衆が自覚するのは、学校の"共同所有"よりも"自らの村落内での位置づけ"であったこと。3."村落内の位置づけ"は授業料の多寡にもあらわれたため、教員の子どもに対する態度にも違いがあったこと。そのことによって"村落内の位置づけ"は学校の内部においても強化されたこと。調査対象とした村落における教育費負担は以下のように変化する。まず明治16年までは人口割が設定され、その負担額は土地および財産に対する賦課に比べて大きかった。負担基準は各戸の人員数に応じていた。つまり負担基準は所有財産の多寡ではなく個人消費の可能性に置かれていた。しかし明治17年からいわゆる戸数割が導入されることでこの出資基準は変化する。戸数割は共同体の拘束力を表面化させるという性格をもつ。すなわちここで村落内での教育費負担は"共同体内での位置づけ"を基準としで行われるようになる。この結果負担の出資先に対する観念は表面化せず、共同体への依存の意識が先行することになる。村落内における負担構造は学校(教育)を村落内の秩序に先行させることはさせず、あくまで"村落秩序の表出形態"として学校を成立させた。本稿の胃頭に述べておいたように、民衆にとって"学校"とは、彼らがその生活において依存せざるを得なかった生活秩序に先行するものたり得なかった。このような教育費負担形態により、民衆の学校に対する共同所有意識は潜在化させられていくのであった。
  • 浅井 幸子
    1999 年 66 巻 2 号 p. 183-192
    発行日: 1999/06/30
    公開日: 2007/12/27
    ジャーナル フリー
    本論文は、大正期に「新教育」の実験学校として設立された池袋児童の村小学校における野村芳兵衛の教育の展開の過程を、彼の一人称の語りの様式の変容に着目して叙述することを目的としている。野村の試みの特徴は、教育の意味と関係の変革が、彼の教師としてのアイデンティティの解体と再編を通して行われ、「私」という一人称を主語とする語りにおいて鮮明に表現された点にある。彼は、明治時代に確立した「教育」と「教師」の役割に懐疑を抱き、ラディカルに「自由」を提唱し「教育」の制度と秩序の破壊を企図した「池袋児童の村」の教師となっている。その際、彼の中心課題として表現され、彼の探究の出発点となっていたのは、「教育」でも「児童」でもなく、「私」の救済と模索であった。野村の教育の展開過程を、彼の一人称の語り、とりわけ実践記録の叙述に着目して叙述することを通し、本論文では以下3点を指摘している。第一に、1924-25年頃に成立した野村自身を「私」、子どもを固有名またはイニシャルで表記する物語的な記述の様式に、「教師-児童」の役割的な関係に対して「私-あなた」の関係と呼びうる野村と子どもとの関係が現出していること。野村が最初に子どもを名前で表記した際、そこでは教師が子どもを見る、教師が子どもに問うという教育において一般的な視線と言語の関係が逆転し無効化していた。彼は教育を語る言葉を一旦喪失するが、その後「私」と固有名の子どもが登場する実践記録の記述を通し、子どもとの「私-あなた」の関係において教師としてのアイデンティティを再構築している。また同時に教育を、目的に向かう活動としてではなく、その具体的な関係において既に成立し,でいる一回性を持つ実践として見い出していた。第二に、野村が1925-26年頃に構想したカリキュラムが、子どもの学習経験の意味と関係を重層的に表現し構成していたこと。彼は、教師と子ども、子どもと子どもの固有の関係を、それぞれの「個」の世界の鑑賞として表現し、学習の社会的な意味を構成している。そしてもう一方では、とりわけ「教科目」の再編において、子どもの経験を学問あるいは芸術の活動として意味づけていた。彼のカリキュラムは、制度的な教育の計画というよりも、学習経験の関係と意味のネットワークとして成立している。第三に、1930年以降に再構成された野村のカリキュラムが、「協働自治」を一元的な原理とすることによって、学校を組織化し教育の関係を「協働」へと定型化していたこと。カリキュラムの変化に先立って、野村の使用する一人称は「私」から「吾々」へと変化し、彼の子どもとの経験の叙述が激減している。彼は「社会」へと眼を向けた一方、彼自身と子どもの固有性への視線を衰退させていた。その結果、「池袋児童の村」は、「ハウスシステム」と呼ばれる子どもの班組織、校歌、校旗等の導入を通して、機能的かつ象徴的な組織へと再編されている。
  • 中野 実
    1999 年 66 巻 2 号 p. 193-200
    発行日: 1999/06/30
    公開日: 2007/12/27
    ジャーナル フリー
    1886(明治19)年に創設された帝国大学は、日本の近代大学史において一つの大きな画期であり、大学制度の原型を示した。この帝国大学創設期の大学政策及びそれに深く関わった初代文部大臣森有礼の分析は、大学制度の原型形成期研究としてきわめて重要である。本試論は、帝国大学令そのものの成立過程にいまだ多くの不明な点を残している現在の研究状況にあって、東京大学所蔵の学内文書を取り上げ、これまで考察の対象とされることがほとんどなかった諸史料を提供することを第1の課題としている。創設期とは便宜的区分であり、森の文部大臣就任期間中を指す。さらに、この時期、すなわち「帝国大学体制」形成の最初期における帝国大学の学内規則の制定、改正過程を大学と文部大臣森有礼との応答関係を中心に分析する。具体的には、1)下級学校と帝国大学のアーティキュレーションに関する入学資格問題、2)学位制度改革に関わる学士号設定問題、3)創設直後の大学院制度に関わる問題を取り上げる。これらを通して、第2の課題として本試論は森文政期の大学像を再検討する。分析の結果については、以下の通りである。第1の史料の掘り起こしと評価について。学士称号授与の「説明」と大学院規程の改正説明とは、これまでまったくほとんど知られでいなかった史料である,。この史料の存在により、2つの事柄が帝大からの発議によって成立したことが明確になった。帝国大学の大学としての主体形成が、創設直後から開始されていったといえるだろう。さらに新らしい史料の提示は、帝国大学以外の機関においても史料所蔵の可能性があることを示唆するとともに、森文政期を検証する重要な方法になると思われる。第2は帝国大学理念にかかわる事項である。上記の2つの史料は、いわば大学の「現場」からの帝国大学理念の変更があったことを物語っている。大学院規程の改正説明は、大学院組織の有名無実化を公言して、分科大学本体論を展開していた。これは大学院と分科大学を以て構成するとした帝国大学理念の実質的な変更である。帝国大学は一方で文部大臣の影響力、応答を強く意識しながら、他方で成立一年後あたりから実態に沿った改革を行い始めた。この背景には、帝国大学が創設直後から着実に学士養成の役割を果し、学術研究機関としての実質を備えはじめていたことがあった、と思われる。それらに対して森は現実、実態による理念の変更については認めざるを得ない状況にあった、と言える。
  • 1999 年 66 巻 2 号 p. 254-257
    発行日: 1999年
    公開日: 2011/06/02
    ジャーナル フリー
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