少数者の「声」の非顕在化を促す言説システムとしての教育に伴う「声」の問題系について、マキシン・グリーンの哲学、特に彼女の用いた文芸的アプローチとカリキュラム構成原理としてのアーツ・セントラリティを軸に考察することを試みた。
結果、彼女自身が実践し続けた、自明視された抑圧の「衝撃」を自身の「声」で学習するフェミニスト教育哲学の視座から、「声」の訳し入れられた複数のアートを中核に自他の「声」を発見する創発的なカリキュラム開発の課題が示された。
本稿の目的は、M. アルヴァックスの集合的記憶(La mémoire collective)論の内実をcollectifという概念に着目して再構成し、アルヴァックスが集合的記憶という概念で示した記憶の在りようを明らかにすることにある。彼が示した、他者との関わりの中で形成されつつも、常に各人それぞれに多様に生成され続け得る記憶の在りようは、戦争体験者の減少に伴い、戦争の記憶継承が課題とされている現代において、重要な意味を有するものである。
ドイツ教育学における論争的概念の一つであるReformpädagogikは、近代以降の教育システムを「教育の常なる改革性」によって捉えてきた。しかし、教育改革をめぐる今日的状況に鑑みれば、「教育の常なる改革性」という教育改革の見方を無批判に受容するのは危険である。このような問題意識に基づいて本稿では、Reformpädagogikをめぐる議論の再検討を通して、「教育の常なる改革性」としてのReformpädagogik像の前提を相対化し、教育改革を捉える思考形式を導出することを試みる。