本稿は、「日本型教育の海外展開」は倫理的に望ましいか、その批判はいかに可能かを理論的に検討する。まずは、望ましくない、という前者の問いへの解を示そう。しかし、この批判だけでは実践と理論の回路が切断されてしまう。そこで、文化帝国主義と新自由主義に関する議論を経由し、それらの自己本位的性格を明らかにしつつ、自己への否定性を媒介にした批判の様式を探索する。それにより、「日本型教育の海外展開」への批判の理路が設えられる。
「修養」は翻訳語ではない。しかし江戸期から一貫して使われてきた言葉でもない。明治期の修養論だけ見ているとその「厚み」が見えない。本稿は江戸期と明治期を共時的に構造化する。加えて、欧米語の翻訳、とりわけcultivationに注目し、その周辺領域を検討する。論点は、1)政治との関連、2)道徳との関連、3)養生との差異、4)修行との差異、5)稽古との差異。「非」近代の営みを近代教育のカテゴリーに回収しないための手掛かりを翻訳の「ズレ」に見る。翻訳の中で理解される日本特有の教育的伝統を見る試みである。
海外から日本の教育へは様々注目されてきたが、その中でも日本社会における識字率の高さや教育の普及が日本の近代化や現代の科学技術の高さの背景にあるという論調は多い。しかし、近世社会における識字率の高さが人々の生活にどのような影響を及ぼしたのかは十分に検証されてこなかった。本論文では、近世初期において文字の字体、文法、書式などが全国的に共通化され、また文字を使用することが必須化されたことを指摘し、そうした文字社会の成立が日本の近代化と深いかかわりを持っていたことを論じた。
本稿は、アメリカ統治下の沖縄に対し文部省が学校教員の研修指導者として委員を派遣した沖縄派遣教育指導委員制度について、その発端となる1950年代後半から沖縄の本土復帰(1972年)までを対象時期とし、とくに制度の形成変容の節目となる制度の発足(1959年度)、第2年目の派遣(1960年度)、中断を挟んでの再開(1962年度)に注目し、日本政府、米国民政府、琉球政府の三者関係に留意しながら、その制度展開を明らかにしたものである。
本稿は、PISA学力調査2015の30ヶ国のデータから、数学得点と大学進学期待を事例にしてR.ブードンの格差生成の2段階説の検証から日本的特徴を再考する。日本の高1は、PISA学力調査で高得点を維持してきたが、家族資本の恵まれた生徒ほど「試験不安」が強く、PISA高得点の代償になっている。「試験不安」が「達成動機」を媒介して数学得点を押し上げる間接効果があるからである。一方で、学校内部と学校間で家族資本による格差拡大を緩和する「補償効果」が存在する。
日本型教育の海外展開推進事業(EDU-Portニッポン)では、日本型教育モデルの輸出だけではなく、日本の教育経験の伝播と共有、そして協働というプロセスが重要である。そこでは、相手側のもつ社会的文脈やニーズ、文化の違いを、何をどう比較するか、何のために比較するかという比較教育研究の視点を持ちながら把握し、日本型教育モデルを柔軟に再構築することで、国際公益を生む国際公共財のモデルとすることが期待される。
授業研究は授業実践力量の向上につながる有望な政策として日本の技術協力プロジェクトにおいて途上国への移転が試みられてきた。授業研究が制度として定着した国もあるが、生徒の理解や成績の改善には至ってはいない。その原因は過密化したカリキュラムの中で授業研究にまとまった時間をとれないこと、授業研究にとって不可欠な教材研究と授業検討会に十分な時間を費やすことができないこと、指導できる人材が不足していることが考えられる。
本研究は、広島大学教育開発国際協力研究センターが実施してきたベトナム、ザンビア、バングラデシュ、南アフリカといった日本型教育を実践した相手国と、送り出す日本側との対応関係から浮き彫りになる日本の教育の特徴を並置比較し、海外展開する場合における日本型教育の特徴をとらえようとするものである。日本には外来の教育を含む新しい教育政策・実践を定着させてきた経験があり、輸出するまでになった日本型教育は、いかなる条件下で相手国での持続性、発展性を引き出せるのかも検討する。
本稿の目的は、ドイツの教育学研究者との日本とドイツの授業の比較検討を通して、日本の授業研究が海外展開することの可能性と課題を明らかにすることである。そのためには、日独の授業文化の比較と授業研究に関する教育学の研究文化の比較が求められる。両文化の比較検討を通して、授業研究の研究方法論を明確にするという課題とともに、授業実践の文化に根ざした教育学研究として授業研究を国際的に展開していく示唆を試みる。