教育社会学研究
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90 巻
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特集
  • ──「因果関係と責任」問題の考察──
    北澤 毅
    2012 年 90 巻 p. 5-23
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     ある出来事が問題視されることが起点となって,その出来事をもたらした原因探求が開始される。原因探求は,問題事象を理解し解決策を検討するためであると同時に,問題事象をもたらした責任の所在を特定するための試みと考えられている。それゆえ原因探求に躍起となるのだが,そうした試みはしばしば泥沼化し,問題事象は混迷を深め悲劇をもたらすことがある。
     本稿では,いじめ自殺と水俣病という,ほとんど無関係と思われる社会問題を対比させることで,「責任の根拠としての原因」という認識に導かれた言説実践がどのような現実を生み出してきたか,そして今も生み出しているかを明らかにしようと試みた。そのためにまずは,「意志と責任」「年齢と責任」「カテゴリーと責任」「偶然と責任」という視点から「因果関係と責任」の論理関係を検討することで,「責任の根拠として原因」という認識の論理的矛盾を明らかにした。と同時に,私たちの社会のなかで原因解明と責任追及がいかに実践されているかを言説分析の視点から解明することで「実践と認識の二重性」を指摘し,そうした二重性がもたらす困難を描き出すために,いじめ自殺と水俣病に見られる構造的同型性(=原因究明言説の隘路)を論じた。
     そして最後に,「責任の根拠としての原因」という認識がもたらす困難から脱却するための二つの方向性を示唆した。一つは,無過失責任論の可能性であり,もう一つは責任言説の再編可能性である。
  • ──教育の「子ども」・少年司法の「子ども」──
    元森絵里子
    2012 年 90 巻 p. 25-41
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     近年,行為と責任の主体としての「子ども」という問題系が浮上している。 しかし,これを,近代になって誕生した保護と教育の客体としての「子ども」という観念の揺らぎや「子ども期の消滅」と読み解くことは妥当だろうか。本稿は,明治以降の歴史にさかのぼって,教育を中心とする諸制度の連関の中で,「子ども」という制度がどう成立してきたか,少年司法ではどうであったかを整理し,「子ども」観の現代的な効果を考察する。
     明治後半から大正後半にかけて,年少者を教育に囲い込み,こぼれ落ちた層に少年司法や児童福祉で対応していくという諸制度の連関が形成されていく。「子ども」は「大人」とは異なるものの自ら内省する主体とみなされ,そのような「子ども」を観察し導くのが教育とされ,尊重か統制か,保護か教育かといった議論が繰り返されるようになる。少年司法では,旧少年法以降,「大人」とは異なった,責任・処罰と保護・教育を両立させた「少年」の処遇が導入され,保護主義か責任主義かという議論が繰り返されるようになる。
     近年,「子ども」をめぐる議論が高まっているにしても,少年法の改定は繰り返される議論の範囲内であるし,少年司法改革や教育改革は行われても,それ自体を解体する動きはない。したがって,社会の「子ども」への不安が,過剰な社会防衛意識につながったり,各現場の「大人」の息苦しさを帰結したりしない仕組みづくりこそが重要であろう。
  • 久冨 善之
    2012 年 90 巻 p. 43-64
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     小論は「教育と責任」の問題を,学校・教師と親とが教育をめぐってどのような応答・責任関係を構成するのかという課題として,3・11大震災・原発事故とそれに続く状況の中で考察したものである。
     「落第のない義務教育学校」や「献身的教師像」は日本の学校文化・教員文化の特徴であると考えられる。そこには学校と教師が,子どもを学校で教育する責任を積極的に引き受ける〈前面性〉があり,それを回路に個々の学校と教師は,子ども・親から「信頼・権威」を調達して,元来難しい近代学校教育の仕事を,何とか乗り切って来た。それは不安定さをはらむ「学校・教師と親との関係構成」を安定化するのに寄与したものと分析した。
     戦後日本の社会変化の中では,上のような伝統的関係構成にもいくつかの再編があったと考える。それを「学校・教師の黄金時代」から過渡期を経て,第Ⅲ期(90年代半ば〜今日)の「学校・教師の困難と教育改革」時代へという展開として記述した。Ⅲ期では伝統的な〈前面性〉が,信頼・権威調達回路から,逆に個々の学校・教師が,学校教育への不信・不満・非難の矢面に立つ関係構成へという転化が生じた。その〈前面性〉が衝立になって,責任ある教育官僚機構はその陰で非難を免れ「公正なる改革者」として登場して,親・国民からの学校・教師への非難を追い風に次々と学校・教員制度改革を進行させている。
     それらが学校と教師をいっそう圧迫する現状が好ましくないとすれば,どんな関係構成の再編があり得るだろうか。一つは親と教師・学校の「相互非難関係」から「困難の相互共有関係」への可能性として,もう一つは「押しつければ改革成功」とする評価方式を「第三者による教育政策・改革のアセスメント」方式の必要性として,大震災と続く状況下でそれらが試されている点を考察した。
  • 矢野 眞和
    2012 年 90 巻 p. 65-81
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     本稿では,「政策」という補助線を設けることによって,学力と責任の関係を考察する。はじめに,学力政策の基本的枠組みに基づいて,学力政策の特質を二つ指摘し,この特質と責任の関係を述べた。一つに,学力は,生徒と教師の相互行為から生産される共同生産物であり,製品のような製造物責任を問うことが難しい。いま一つの特質として,教育に投入される資源の性質に着目する必要があり,法的責任とは別に教育費の経済的責任が重要になる。
     第二に,学力の生産関数を測定する困難性を整理した。この困難に早急な解決を図ろうとする政治勢力が重なると「もっともらしいけれども,危うい」政治ショーが起きやすくなる。
     第三に,困難な学力問題を広く理解するためには,国民の意識ないし世論の動きを視野に入れる必要性があることを指摘し,私たちが実施した「教育と社会保障の意識調査」結果を報告した。わが国の生涯政策への関心・選好・税負担の意識には,強いシルバーポリティクス(年齢格差)が働いており,教育政策への関心は二次的,三次的な優先順位になっている。「教育劣位社会」とでもいうべき日本の現状を明らかにした。
     最後に,わが国の生涯政策の経済的責任がねじれていることを踏まえて,学力政策とトータルの教育政策を議論する一つの道筋を提示した。
  • 石飛 和彦
    2012 年 90 巻 p. 83-98
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     本稿では「いじめ問題」にみる教育と責任の構図を素描する。
     デュルケームおよびフーコーに従うならば,「責任主体」は規律訓練装置としての近代学校教育によって形成される。すなわち,前近代的な「共同体」においては「責任主体」は存在しえない。「いじめ問題」においては,学校の中で前近代的な生徒共同体が再現されたという説明が受容され,一般社会的なイメージとして広がった。構築主義的な捉え方をするならば,「校内暴力問題」(「いじめ」以前の主たる問題)を語る社会システムが「いじめ問題」を語る社会システムへと変化し,それによって「責任主体」という形象が消え,代わりに「共同体」という形象が登場した。
     そこから,「いじめ問題」を二通りのやりかたで描き出すことができる。第一に,それは「閉域としての学校」の終着点として描き出される。もはや近代的な規律訓練装置として機能しなくなった,単なる閉域としての「学校」が,再び共同体をその中に抱え込んだ,とみなされる。第二に,「学校」の限界を,ドゥルーズの言う「管理社会」の現象と見ることもできる。「管理社会」は,近代的なさまざまな「閉域」を解体し,シームレスな管理のシステムを作り上げる。近代的な「応答責任」に代わって「説明責任」が強調され,「個人 individual」は「可分性 dividual」へと解体されて情報ネットワーク上に新しいある種の「共同体」を形成する。こうしたシステムの変化を「いじめ問題」を通じて見出すことが,社会学の重要な役割である。
論稿
  • 近藤 博之
    2012 年 90 巻 p. 101-121
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     学力に階層差のあることは広く知られているが,マクロな社会の変化とともにそれがどう変容していくかについては,必ずしも明確な展望が描けていない。本稿では,OECD の PISA 調査データ(2009)に多次元階層分析を適用し,国際比較の観点からこの問題に取り組んでいる。まず,生徒の家庭背景について,多重対応分析からブルデュー流の社会空間を構築し,経済発展により階層の多次元化が進むかどうかを検討した。つぎに,社会空間における個人座標を階層変数として利用し,それが PISA テスト得点をどの程度説明するかを吟味した。その結果,〈資本総量〉に対応する第1軸得点が生徒の成績差をよく説明すること,それに〈資本構成〉の違いを反映した第2軸得点を追加すると説明力がさらに高まることが明らかとなった。つぎに,各国におけるそれらの説明力の差異をマクロ水準の回帰分析によって検討した。その結果,第1軸得点の場合は,経済水準の上昇が階層差を縮小する効果をもつものの,平均学校余命が逆に階層差を拡大させる効果をもつことから全体の傾向が曖昧になること,第2軸得点の場合は,教育制度の特徴によらず経済水準の上昇とともに文化的資源の影響力が単調に強くなっていくことが確認された。結局,マクロな社会の変化とともに学力差に対する要因構造の転換が進み,教育達成の階層差は単純には縮小していかないとの結論が導かれた。
  • ──学校の階層多様性に着目して──
    古田 和久
    2012 年 90 巻 p. 123-144
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     本稿は OECD「生徒の学習到達度調査(PISA)」の2003年調査を用いて,日本の高校生の学校適応を検討した。生徒の学校適応の指標として学校帰属意識と遅刻回数を取り上げ,学校レベルおよび生徒レベルの特徴が適応にどのような影響を与えているのかを階層線形モデルにより分析した。主な結果は次の通りである。第1に,出身階層は個人レベル/学校レベルおよび2つの従属変数で若干異なるものの,生徒の学校適応に影響している。第2に,学校ランクによって生徒の意識や行動が異なり,上位ランク校の生徒は帰属意識が強く遅刻回数も少ない。第3に,学校内で学力や教育期待の相対的位置が低ければ,不適応を起こしやすい。第4に,学校内の相対的位置から生じる不満は,ランクや平均的な出身階層が高い学校で生じる傾向が強い。つまり,上位ランク校では学校の位置それ自体による不満は小さいが,学校内の競争的環境により疎外感を強める傾向にある。第5に,学校の出身階層多様性は学校適応に負の影響を与えている。家庭背景を軸に高校生の生活構造や意識,態度に大きな違いが生じ,それに沿ってインフォーマル集団が形成されているとすれば,異なった背景を持つ生徒同士のやり取りは限定され相互不信につながる。以上の結果は,生徒の日常的な不満や疎外感が学校内外の要因によって重層的に構成されており,ここに出身階層が大きく関与していることを示している。
  • ──日常言語的な資源としてのレトリックに着目して──
    鈴木 雅博
    2012 年 90 巻 p. 145-167
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     本稿は,生活指導事項の意思決定における教師間相互行為を,クレイム申し立てによる〈問題〉の構築過程として捉え,そこで語られる日常言語的資源としての慣用語化したレトリックに着目し,その特質を明らかにすることを目的とする。
     ここでは社会問題研究に倣い,クレイム申し立てを生徒の「状態のカテゴライズ」とその「解決法の提示」と位置づけ,各々に関するレトリックを検討した。
     観察では,生徒の現状を〈問題〉とカテゴライズする際には,荒れるリスクを強調するレトリックが,解決法である指導事項を提示する際には,〈共同歩調〉のレトリックが用いられる点が確認された。〈共同歩調〉レトリックの効力は〈荒れ〉への有効な処方であったとの〈経験〉に由来する。教師はレトリックの説く因果関係を枠組として〈経験〉を解釈するが,これにより構築された〈経験〉が再帰的にレトリックの効力を強化するという相乗的循環構造が生起している。
     〈荒れ〉発生時の責任問題はクレイムへの抵抗を困難にする一方,学年等を特定するクレイムへの反発を引き起こす。他方で,教師はクレイムメイカーによる状態のカテゴライズに必ずしも同意しておらず,また逸脱生徒にはクレイムが説く管理的教育を適用していない。つまり,レトリックを用いたクレイム申し立て活動は「集団としての生徒」を対象とした管理教育的な生活指導の提案・要請に対する,メンバーの沈黙と決議の調達を到達点としている。
  • 太田 拓紀
    2012 年 90 巻 p. 169-190
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     教師の職業的社会化は養成段階にて始まるわけではない。例えば,ローティは長期間に及ぶ生徒としての学校生活や教師との対面的接触を「観察による徒弟制」と称し,教職の社会化過程として捉えた。この理論的枠組に依拠し,本稿では教員志望者における過去の学校経験の特性を明らかにするとともに,その過程にいかなる教師の予期的社会化作用が潜んでいるのかを検証・考察することを目指した。
     まず,大学生対象の質問紙調査のデータから分析を行い,家族関係,学業成績の影響を統制した上でも,生徒時代におけるリーダーの経験が教職志望の判別要因として効果の強いことが明らかになった。それはいずれの学校段階の教員を志望するにしても同様の結果であった。
     続いて,教員志望学生対象のインタビュー調査の結果から,リーダーに教師役割が委任され,指導的なふるまいが期待されていたことに着目した。そしてその過程に,教職への志向性を高める契機が含まれていると考えられた。ただし,指導的な行為に伴う彼らの葛藤は,この段階での社会化の限界を示唆するものであった。また,彼らに教師役割の委任を可能にするのは,学校文化に同化した性向が関係していると考察した。
     最後に,「観察による徒弟制」の観点から,学校経験の過程で形成される教育観には養成段階の教育効果を損なう問題があると論じ,教師教育は過去の学校経験と養成教育との接続にも目を向けるべきであると提起した。
  • ──世代によるニーズの差異に注目して──
    三浦綾希子
    2012 年 90 巻 p. 191-212
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     本稿は,フィリピン系ニューカマーが集うエスニック教会を対象に,その教育的役割を参加者に対するインタビューと参与観察から明らかにするものである。具体的には,教会の日曜学校とユースグループを教育的役割を担うものとして捉え,これら二つの育ちの場が参加者たちにとってどのような役割を果たすものなのかを親世代,子世代の世代間の差異に注目しながら描き出していく。
     考察の結果,得られた知見は以下の通りである。第一に,日曜学校は親の子どもに対する教育期待を手助けする場,ユースグループは子どもや若者にルーツの確認や承認を与える場としての役割を担っていた。第二に,日曜学校は親の論理で成り立ち,ユースグループは若者や子どもの論理で成り立っているが,そこには親の期待の継承と断絶があった。親が子どもに期待する英語学習はユースグループでは継承されず,むしろ親が重視しないタガログ語が継承されていたが,教会内における友人関係の構築は親世代,子世代の両方で重視されるものであった。第三に,日曜学校にせよユースグループにせよ,これら二つの場は子どもたちがフィリピン系ニューカマーとして日本社会にうまく適応していくための役割を果たそうとするものであった。以上エスニック教会の教育的役割を見ていくことで,自ら資源を作り出すニューカマーの主体的営みを明らかにすることが可能となった。
  • ──子ども同士のトラブル対処の事例から──
    末次 有加
    2012 年 90 巻 p. 213-232
    発行日: 2012/06/15
    公開日: 2013/06/17
    ジャーナル フリー
     本稿は,ある公立保育所における発達障害とされる幼児への「特別な配慮」の実践に着目し,その実践がどのようなものであるのか,また,その実践がその場全体にいかなる意味や影響をもたらしているのかについて検討することを目的としている。その際,健常児同士のトラブル場面と発達障害児と健常児の場面を取り上げて比較し,それぞれへの保育者の対応の違いを明らかにする。分析の結果,以下の二点が明らかとなった。
     第一に,発達障害とされる幼児への「特別な配慮」は,最初からそれとして行われるのではなく,その場の人々の相互作用を通じて状況依存的・協働的に作り上げられていくものであるということである。
     第二に,障害のある幼児への「特別な配慮」の実践は,その子どもをクラス内で可視化・差異化する実践であることが観察可能となった。しかしながら,それは,クラス集団から障害児を切り離す実践というよりもむしろ,健常児と障害児との間にある差異を双方に確認させ,両者の関係を媒介するような働きかけとして行われていたのである。
     以上の知見は,従来の医学・心理学的アプローチにおいて提出されてきた子どものニーズを実体的・抽象的に把握してなされるような「特別な配慮」とは異なる。加えてそれは,健常者と発達障害者とのコミュニケーションのありようを再考していく契機となりうるものであると考える。
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