日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の280件中51~100を表示しています
  • 沖縄県糸満市における戦没者納骨堂/慰霊碑の歴史地理
    上杉 和央
    セッションID: 407
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.「慰霊空間の中心」
     沖縄本島南部に位置する糸満市は,沖縄戦最期の激戦地として著名であり,摩文仁ヶ丘を中心とした一帯は「慰霊空間の中心」として整備されている。この一帯が「慰霊空間の中心」として位置づけられたプロセスについて,主に琉球政府や沖縄遺族連合会による公的なコメモレイションの場の創出と,戦後復興の柱としての観光地整備という側面からは,既に明らかにした(上杉 2006)。今回は,現地調査の結果をもとに,政府や産業界,遺族連合会が南部戦跡整備に動いていた同時期における地元住民の対応について,3分類して報告する。

    2.骨抜きの納骨堂/慰霊碑
     戦後直後,現糸満市域の各地には納骨機能を備えた慰霊碑(納骨堂/慰霊碑)が数多く建立されていた。しかし,1950年代以降,現糸満市域が「南部戦跡」として観光地化されていくなかで,「観光コース」に位置した納骨堂/慰霊碑は,「お粗末」であるという世論もあり,そのほとんどが那覇の「戦没者中央納骨所」に転骨された。そして,骨抜きの納骨堂/慰霊碑は破壊されたため,結果的に,集約された「慰霊空間の中心」の現出に寄与することになった。
     その背景には,戦没者に対する地区住民の選択的位置づけがあった。破壊・消去を容認した地区に聞き取り調査を行うと,納骨された戦没者は「地区外の者」とみなされており,生者の生活も苦しい中,「地区外」の死者を祭祀する余裕などなく,また地区住民が管理するよりも「中央」で慰霊されるべきと判断したのだと言う。

    3.気骨あふれた納骨堂/慰霊碑
     一方で納骨された戦没者には「地区内の者」も含まれると判断した地区(現在は真壁・国吉・真栄平の3地区)では,地区内で骨を管理し,慰霊行事を行うことの意義を強く説き,転骨を拒否した。平成に入ってから改修工事を行うなど,維持管理には概して積極的である。記念碑が「地域の記憶」の創出・共有装置として機能する,という議論にもっとも当てはまる事例といえる。
     ただ,1995年に転骨を実施,その後納骨堂/慰霊碑が破壊された糸洲区の事例からも分かるように,石に刻まれた記憶が永続するものではない点も忘れるべきではない。

    4.気骨の折れた慰霊碑建立
     さらに,転骨には応じたものの,「慰霊空間」の維持(=代替慰霊碑の建立)を求めた地区も存在する(真栄里・新垣・喜屋武の3地区)。代替慰霊碑は「中央」の南部戦跡整備政策との関係のなかで決定されたものであり,建立には複雑な経緯があった。現在においても,建立者の名義は沖縄県遺族連合会,慰霊祭実施は各地区となっている。ただし,各地区の「地域の記憶」からは,このような過程に関する記憶は,失われている。
     記念碑は,ある「地域の記憶」を記録するが,その記憶の周辺部に漂う「地域の記憶」を忘却させることに寄与している可能性がある。「記憶の場」ならぬ「忘却の場」としての記念碑の位置づけについて検討する価値はあろう。

    (参考文献)
    上杉和央 2006.那覇から摩文仁へ-復帰前沖縄における「慰霊空間の中心」-.20世紀研究7:29-52
  • 『遊客人名帳』を用いた宮川町の事例分析
    谷 舞子, 塚本 章宏, 中谷 友樹
    セッションID: 408
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     近代日本の花街に関する研究はこれまで数多くなされてきた。しかし,近代公娼制度や廃娼運動に焦点を当てた研究は多い一方で,買い手側である「遊客」を分析対象としたものはほとんど見当たらない。言い換えると,遊客は花街を構成するひとつの重要な要素であるにもかかわらず,売り手側を取り巻く事柄ばかりに注目が集まっている点が課題であると考えられる。そこで本報告では,遊客の情報を得ることができる史料として,遊廓の顧客名簿を用い,これに記載された遊客の属性と居住地の空間的分布を明らかにすることを目的とする。具体的には,近代の花街に出入りしていた遊客とは,どういった属性であるのか,どれくらいの頻度で来店し,金銭を消費し,時間を費やしていたのか,さらにこれらを地図化することで遊客の居住地分布の空間的特性について検討を加える。

    II 史料情報 
     分析対象である史料は,宮川筋四町目A家が所有していた『遊客人名帳』1)である。この史料は,1914(大正3)年6月24日~1918(大正7)年11月22日までに来店した遊客の属性が記載された名簿である。これは,警察の指導により治安上の必要から作成が義務付けられ,随時警察の点検を受けていたために,記載項目は非常に詳細である。その記載項目は,遊客一人に半頁を充て,「遊興月日時,族籍住所,職業,氏名,年齢,相貌,特徴,消費金額」の記載と欄があらかじめ印刷されており,来店した際に該当箇所へ墨書される。

    III 遊客の属性
     『遊客人名帳』の記載項目を集計し,遊客の属性を把握する。
    (1)年齢: 遊客の平均年齢は32.2歳,最高齢65歳,最年少21歳で,20代後半(21.1%)から30代(前半19.2%,後半20.1%)を通して多く,20代前半(15.2%)と40代前半(15.7%)にも一定の遊客がみられた。
    (2)職業構成: 呉服商,雑貨商,煙草店などの商業従事者(以下,商業)が200人で全体の約55%を占める。次に大工,縫工,鉄工などの工場労働者や職人が83人(約23%),次いで,通勤59人(約16%),学生9人(約2%),サービス業8人(約2%),農業とその他が各5人(各約1%)となった。
    (3)居住地: 京都市内が313人(85%)で,東九条や西院,上賀茂など市周辺部を含めると331人(90%)となり,京都府内に居住する遊客が大半を占める。東京・大阪・滋賀など他府県から来る遊客は38人(10%)であった。また京都の市街地化の進んでいる市街地の居住者に絞って遊客の空間的分布をみると,A家から最も遠い居住地までの直線距離は約6.3kmであった。遊客が特に多く分布しているのは,鴨川より西側の直線距離で500m~2000m圏内となった。
    (4)来店回数: 遊客の来店回数は,1回の来店が237人(64%)で最も多い。来店回数が1~5回までの遊客が全体の88%を占め,常連客はあまり多くないように思われるが,約5年の間で月に1回以上は必ず来店するような常連客もいた。
    (5)平均消費額: 遊客1人1回の平均消費額は,4円以内が全体の60%以上を占める。最高消費金額は20円であった。

    IV まとめ
     上記の分析結果から研究対象であるA家の遊客は,20代後半から30代に多く,商業や職人が大半を占め,京都市内の特にA家から500~2000m圏内に居住しており,来店回数はほとんどが5回までであることがわかった。
     これらの中には,『全国商工人名録』に掲載されるような者もおり,何度も通うようになる遊客は,当時の生活において金銭的にやや余裕のある人々が居住している地域や市街地化が現在進行形で進んでいる地域に住む人々である。
     これまでの近代日本の花街研究において,都市縁辺部に創出された花街という地理的存在が議論されてきたが,遊客の属性という視点を加えることで都市居住者との地理的関係性をこれまでとは異なった視点から検討することが可能になると考えられる。最後に,今後の課題として,同じ京都にある性格の異なる遊廓との比較検討を挙げておく。

    注 1) 本史料は,立命館大学アート・リサーチセンターに所蔵されているものである。また,同センターのデジタルアーカイブ事業により作成された画像データ(史料番号:hay02-0265)を利用した。

    付記 本研究は,文部科学省グローバルCOEプログラム「日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点」(2007年度~2011年度,拠点リーダー:川嶋將生)の成果の一部である。
  • 家畜商・獣医の主催する事例
    高野 宏
    セッションID: 409
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.問題の所在
     中国地方の山間部で行われていた大田植の習俗は,これまでにも日本民俗学や芸能史研究の立場からしばしば取り上げられてきた。前者では古風な田植の様式や信仰の痕跡を今にとどめているものとみなされ,後者においては田楽が成立する以前の芸態を伝えるものと考えられてきた。ただし,その先行研究には次の問題点が存在していた。それは,(1)大田植の様式や芸態に対して関心が集中する一方,その置かれていた社会的文脈に対する関心が薄弱であったこと,(2)大田植が典型的な稲作儀礼とみられていたため,出雲・備後地方の大田植に多くみられるような,農家以外が主催する事例に対する研究がほとんどなされていないことである。そこで本報告では,戦前の備後地方において家畜商や獣医が主催した大田植の事例を紹介し,その歴史的・社会的な背景について考察したい。

    2.旧・比婆郡西城町八鳥における事例
     西城町八鳥での大田植は,「バクロウ(馬喰,博労)」と呼ばれる家畜商が,自らの取引先にあたる農家の要請を受けて開催するものであった。当時の中国地方では和牛の飼育を伴った有畜農業が主流であったが,とくに畜産に力を入れている篤農家では家畜の不慮の事故(放牧中の転落死や病死)による損失がしばしば家計を不安定なものにした。そうした場合に,八鳥では取引のある家畜商に興行のための大田植を開催してもらい,その利益を家計の立て直しのために用立ててもらっていたのである。こうした形態における大田植の開催は,家畜商を牛主とした牛小作と相まって,当地の畜産業をより安定的なものにしていたと考えられる。そして,大田植の式次第や表現も,以上のような興行としての目的に合わせて,労働色が薄く,参加者の興味をより刺激するようなものになっていた。

    3.旧・比婆郡比和町森脇における事例
     戦前の比和町森脇における大田植は,「ハクラク(伯楽)」と呼ばれる獣医たちによって開催されていた。畜産が盛んであった当地においては,地域に数名しかいない獣医は貴重な存在であり,彼らは「分限者」,すなわち土地の有力者でもあった。そうした獣医らが,自らの引退に際して,これまでに取引のあった地域住民(農民と家畜商)を招いて祭礼を行い,地域社会に対して感謝の意を表す行事が大田植だったのである。
     とはいえ,この大田植がいかにして「感謝の意」として受け止められていたかは,招かれる農民と家畜商とでは異なっていた。農民たちは賑やかな田植作業に参加することで非日常のハレを実感していたし,衆目のなかで行われる代掻きに自慢の牛を参加させることで名誉を感じていた。その一方で,家畜商たちは篤農家が集まるこの場を利用して良い牛を買い付けたり,自らが所有する牛(バクロウウジ)を農家に販売したりしていたという。このように,森脇での大田植は,獣医・農家・家畜商という3者の異なる思惑が交錯することではじめて成り立っていたのである。

    4.考察
     以上紹介した2つの大田植の事例は,稲作儀礼であるだけでなく,それぞれに当該地域の畜産業と深く関わるものであった。そして,報告者は両事例の主催者の違いを,明治以降の畜産業の発達のなかで生じた,牛馬の流通体系や家畜の所有形態の地域的な差異に求める。つまり,八鳥では家畜商が流通の中核を担い,牛小作の牛主となることで地域社会において大きな位置を占めるにいたった。森脇においては,そうした家畜商による流通の寡占,家畜商への資本の集積が起こらず,その代わりに獣医が地域の有力者としての地位を占めるにいたったのである。
  • 土`谷 敏治, 岩崎 勇樹, 下川 敦, 杉浦 立樹, 長島 慧悟
    セッションID: 410
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I.はじめに
     今日,多くの都市の都市計画マスタープランにおいて,将来の都市のあるべき姿として,コンパクトシティ実現が掲げられている.そのために,再開発や都市内居住促進による都心部やその周辺地域の活性化に加えて,移動手段としての公共交通サービスの充実が目標とされるようになった.とくに,環境重視の視点から,既存の路面電車の有無にかかわらず,ライトレールトランジット(Light Rail Transit::LRT)導入・整備をめざしている都市が多い.広島市もそのような計画をもつ都市の1つである.
     その広島市において,将来道州制が導入された場合の州都をめざして,州都としての広島市にふさわしい交通体系が,広島商工会議所運輸部(2007)によって提言された.その中で,道路交通の円滑化と路線の特色から,広島電鉄白島線の廃止案が示されている.このことは,近年の都市計画の推移や広島市自身のマスタープランと齟齬を生じているようにもみえる.また,同提言の中では,白島線の利用実態について,具体的な裏付けが示されていない.これまでも,公共交通機関の存廃問題が議論される場合,技術面や経営面からの分析は行われても,利用者の視点から実態調査がなされることは稀であった.
     本報告では,このような視点から,広島電鉄白島線について,その利用状況と利用者の特性について調査を実施し,今後の白島線を展望することを目的とする.

    II.調査方法
     広島電鉄は,19.0kmの軌道線と16.1kmの鉄道線を有するが,白島線は都心部の八丁堀から北方の白島まで,両端を含めても5停留所,延長わずか1.2km,「盲腸線」といわれる軌道線である.同線は,他の路線との直通運転は行われず,終日線内の折り返し運転となっている.このことが,広島商工会議所による廃止提言の一つの根拠でもある.起点の八丁堀は,広島市の都心の1つで,周辺には3つのデパートを含む大型小売り店が立地し,中心商店街も近接している.沿線には商店の他,官公庁,事業所,オフィスビルなどが立地し,白島に近づくにしたがい,住宅比率が高まる.路線の中程には,縮景園や県立美術館などの観光・文化施設も立地する.
     広島電鉄によると,白島線は1日約3,000人の利用者があるとされるが,今回はその白島線について2つの調査を実施した.第1は,実際の旅客流動調査で,乗車・降車停留所と運賃の支払い方法を特定しながら,利用者数を調査した.第2は,利用者の居住地,性別,年齢等の諸属性と,利用目的,利用頻度,白島線に対する評価などの利用状況について,利用者にアンケート調査を実施した.調査は2007年10月に行い,前者は18日(木)終日,後者は18日(木)~20日(日)の3日間実施した.調査の結果,10月18日にはのべ2861人の利用者がみられた.アンケート調査については,1932人から有効回答が得られた.

    III.調査結果の概要
     停留所別の乗車数は,八丁堀が突出し,白島がこれに続く.これら2停留所の乗車数は,他の停留所と大きな差があり,白島線の旅客流動が,八丁堀・白島間が中心であることは明瞭である.とくに,八丁堀は全体の約95%が乗降している.時間帯別にみると,朝方の通勤・通学時間帯に利用者のピークがみられるが,それ以外の時間帯では,早朝と夜間を除いて,コンスタントな利用がみられる.
     利用者に対するアンケート調査の結果では,利用者の年齢構成をみると,10歳代を除いて,各年齢層に渡って広く利用されていることが明らかになった.多くの公共交通機関の事例で指摘されるような,高校生と高齢者利用に偏重した構造はみられず,白島線の特色の1つといえる.これは,利用者の職業からも裏付けられ,会社員と公務員で半数を超え,白島線が商業地区・業務地区を沿線にもち,そこに立地する官公庁や企業の就業者の利用が多いためと判断される.このことは,利用目的,利用頻度からも明らかで,最大の利用目的は通勤で,50%近く,週4日以上の利用者も40%を超える.土`谷(2006)では,月単位での利用者は,少なくとも日常生活における交通手段の1つとして当該の交通機関を位置づけていると解釈しているが,これに従うと,白島線利用者の80%以上がこれに相当する.したがって,白島線利用者は,通勤利用者はもちろん,通勤以外の利用者も,買い物,余暇の利用,仕事上の利用などで,多少の頻度差はあるが,周期的に白島線を利用しているといえよう.このことは,3,000人近くの利用者にとって,白島線は重要な交通手段として位置づけられていると判断される.
  • 沖縄県恩納村喜瀬武原区を事例に
    上江洲 朝彦
    セッションID: 411
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     高度経済成長期以降、モータリゼーションの拡大は社会の至る所で恩恵をもたらす一方、公共交通のサービス機能の低下、衰退による交通空白地域を発生させた。利用者の少ない地域を走るいわゆる不採算路線は統廃合が進み、郡部の自治体を中心に既存のバス路線を継承する形でコミュニティバスの運行を開始する例が近年多くなってきた。しかし、元々自家用車による移動が前提となっている地域において運営を継続することは困難が多い。利用者の少ないバスの運行が自治体の経営を大きく圧迫するケースも多く、最終的には運営を取りやめ、不採算路線の沿線は事実上の交通空白地域となっている。
     しかし交通空白地域となった地域が、自らのコミュニティ構成員である近隣の高校生や高齢者を送迎するシステムを自然発生的に構築し、域内外へのモビリティを高めているケースも存在する。本研究ではその事例として沖縄県恩納村喜瀬武原区を取り上げそのシステムについて考察する。
     恩納村喜瀬武原区は、小菊に代表される花卉栽培を基幹産業におく山間集落である。1996年まで、民間のバス会社が路線を運行していたが利用者は高齢者と高校生がほとんどで朝夕の時間帯を除けば乗客は見られない典型的な不採算路線だったため廃線が決定した。その廃線の翌日、村は代替バス「やまびこ号」を運行を開始する。しかし年間の維持費が約500万円かかるのに対し、売り上げが20万円という経営状況が決定要因となり、2004年にその路線も廃線となる。やまびこ号の廃線に際し喜瀬武原区民の反対は見られたが、区民の大部分が自家用車を利用していることもあり、大きな混乱もなく区は交通空白地域となった。
     喜瀬武原区の主要産業である小菊の栽培は、時間帯に縛られる労働が少ない。そのため朝の通勤通学の時間帯においても家族の誰かが高校生や高齢者を学校や医療施設、あるいは最寄りのバス停や決められた待ち合わせ場所にまで送迎することが可能であった。この朝晩の送迎を組み込んでも生活に支障が生じない生活スタイルが、区内の送迎システムには大きく関わっている。
     加えて喜瀬武原区の生活は、東側の金武町に立地する商業施設や交通路に依存していて、そこに向かう途中にはアメリカ海兵隊の軍事施設が立地している。区内を横断する県道104号線では海兵隊による行軍が行われ、またかつて県道越の実弾射撃演習に代表される軍事演習が頻繁に行われていた経緯から、区民はこの生活道路の通行に潜在的な恐怖を感じている。 このように地区の基幹産業が時間帯の制約が少なく、また軍事施設への近接性の高さが、区民が交通弱者の送迎に積極的な姿勢で臨む要因になっていると考える。
     民営バス会社が運行する生活路線の営業が困難になり、交通空白地域の解消のために変わって導入されたコミュニティバスの事例は枚挙に暇がない。しかし運営主体が変わったからといって、バス利用者は増加することはなく、むしろその数は減少の一途を辿っている。公共交通を取り巻くこのような環境で、交通空白地域におけるモビリティの確保はより困難な局面を迎えている。
     一方では自らが暮らす地域のコミュニティを活かし、モビリティの確保を自発的に行っている地域も存在する。法律や制度上の運用で調整は必要であると考えるが、ある一定の交通需要が見込めない地域においては、その地域の持つ産業や地域構造を加味したきめ細かい交通政策を導入することも、交通空白地域に対する処方箋としては必要な時期に来ているのではないかと考える。
  • 瀬戸内海小規模航路の事例を中心に
    田中 健作
    セッションID: 412
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     2005年現在、国内に約300ある生活航路(離島航路・半島航路)のうち、3分の1が離島航路整備法の適用対象である国庫補助航路として国と地方自治体から欠損補助を受けている。国庫補助航路に関する研究は、主に財政面からの検討が中心であり、地理学サイドからの検討は極めて少ない。
     本報告では、離島航路補助政策の展開を、国庫補助航路を事例に、法律面や財政面だけでなく、航路の補助航路化の空間的拡大および補助航路の運航回数の変化といった側面からも検討する。その上で、最も航路維持に困難な課題を抱えるとみられる瀬戸内海の小規模な航路を事例として航路維持の現状と課題をみていく。これらにより、周辺地域における交通整備の観点から、離島航路補助政策の展開と特徴を示し、補助航路の現状と課題を把握することを目的とする。
    2.離島航路補助政策の概観
     まず、離島航路維持には、交通整備と国土整備の2つの政策的側面があることに留意する必要がある。前者においては、戦後、1949年制定の海上運送法による運航費補助が行われていたが、欠損補助は不十分な状況にあったため、1952年に離島航路整備法が制定され、1959年には国内旅客船公団が設立され、これらを軸とした航路維持体制が構築された。一方、国土整備の面では、離島振興法が1953年に制定され、交通確保もその範疇に含まれた。現在、不採算航路は主に、これらの単独もしくは複数の施策の運用により維持されている。
     次いで、離島航路整備法に関する主な動向をみてみる。1966年、現行の補助形態の基礎となる補助要綱が制定された。この時から、航路欠損は国と地方自治体により全額補助されることとなった。1993年までは国と地方自治体による定率協調補助が展開されてきたが、1994年に補助要綱は改定され、この協調補助体制は廃止された。1994年以降、国の補助規模は相対的に縮小してきている。
    3.国庫補助航路の拡大とサービス内容の変化
     離島航路補助政策の展開を地理的な視点から明らかにするために、全国を対象とした国庫補助航路の指定範囲の拡大過程や、瀬戸内海航路を中心とした運航回数の分析を行った。
     まず、国庫補助航路数を概観しておくと、1952年以降順次増加し1981年には132航路となり、その後はほぼ横ばいで推移している。
     次いで、国庫補助航路化の空間的拡大過程をみてみると、離島航路整備法の制定当初は長距離の外洋航路を中心に補助航路化が行われていたが、1966年以降、瀬戸内海を中心に短距離航路へと指定範囲が順次拡大したことがわかる。さらに、瀬戸内海の国庫補助航路について、運航回数の動向をみると、1966年以降1990年代半ばまでに概ね現行体制が形成され、今後は運航回数の維持が課題となろう。これらが戦後日本における、離島航路補助政策の展開と特徴であると考えられる。
    4.瀬戸内海における小規模な離島航路の維持状況
     以上の離島航路補助政策の動向を踏まえ、瀬戸内海にある国庫補助航路10航路、これに比較材料として地方補助航路2航路、行政連絡船1航路も加えた13の航路を対象として、それらの維持状況を考察した。これらは途中寄港島がない上、船が就航する島の人口が150人以下と少なく、事業規模が小さい点に特徴がある。本報告では便宜上、これらを小規模な離島航路と呼ぶことにする。考察結果を以下にまとめる。
     国庫補助航路および他の航路においても運航回数の維持が、利便性の確保における課題とされている。経営状況を見ると、収支率は低く補助金依存型の構造にある。費用面では人件費の占める割合が高いが、さらなる人員削減が難しいという問題点を抱えている。そこで複数の航路では、費用抑制のために諸費用の廉価な小型船舶を使用している。また、公営航路を中心に各自治体の財政支出を抑制するために、船員の非正規雇用化を進めてきた。他方、船員が高齢化している航路、従前の島内からの人材確保が難しくなり、発地を本土側に設置もしくは変更した航路も出現している点も注目され、船員の確保の経路には変化が生じつつあると考えられる。
     このように、補助航路の維持においては、船員の確保に関する問題を抱えてきたとみられる。
    5.おわりに
     1952年の離島航路整備法制定以降、離島航路補助政策は拡大路線にあったが、昨今においては、現状維持路線へとシフトしてきた。これらが離島航路補助政策の展開と特徴であると考えられる。瀬戸内海の小規模な離島航路においても、運航回数の維持が利便性確保における課題とされている。また、当該航路の運営においては、補助金削減や島内住民の高齢化によって、船員の確保に関する問題を抱えてきた。
  • 欧米の事例と比較して
    田中 耕市
    セッションID: 413
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I. はじめに
     航空輸送の発展に伴う輸送コストの低減化は,国際的な人・物資の流動量を増加させて,グローバリゼーションの原動力となった.全世界における航空輸送量は増加傾向にあり,2002年においては1,000億トンキロに及ぶ(日本航空協会「航空統計要覧」より).そのうち,約4割はアジアが占めており,将来的により増加することが見込まれている.しかしながら,1990年代以降,アジア通貨危機(1997年),アメリカ同時多発テロ(2001年)の余波,SARS(2003年)によって,アジアの航空業界は不安定である.そのようななか,2000年以降,アジアにおいてもLow Cost Carrier(低コスト航空会社)が増加して,そのネットワークを拡大させつつある.本研究は,欧米の事例と比較しつつ,アジアにおけるLCCの航空ネットワークの発展過程とその特性を考察して,将来的な展望を行いたい.

    II.LCCのビジネスモデルの発展過程
     Low Cost Carrier(低コスト航空会社)とは,運営に必要な諸費用を抑えることによって,低価格運賃を顧客に提供する航空会社である.1973年にアメリカ合衆国のPacific Southwest Airlines(後にUS Airwaysによって吸収)によって,そのモデルは構築されて,Southwest Airlinesによって確立された(Dobruszkes, 2006).以後,1978年の航空規制緩和を追い風に,アメリカ合衆国では多くのLCCが就航した.一方,ヨーロッパにおいては,1995年にRyan Airが最初のLCCとして就航した.そして,1997年のEU域内の航空自由化を契機にLCCが急増した(Fan, 2006).それらの多くは,Southwest Airlinesをモデルとしたものであった.ヨーロッパにおけるLCCの乗客占有率は20%を占めると推定されている(ELFAA, 2004).1996年~2004年におけるヨーロッパ内の定期航空便の就航都市は40%増,都市間ペアは91%増であり,そのほとんどはLCCによるものである(Fan, 2006).低価格という魅力以外にもハブアンドスポーク型のネットワークを構築するFSC(Full Service Carrier)にはみられない,他都市への直行性が支持された結果である(Swan 2001).

    III.アジアにおけるLCCの発展
     アジアに就航するLCCの創業時期は,欧米に比較すると遅い2000年以降であった.しかしながら,いくつかのLCCは,その所有便数や就航路線数を急速に増加させてきた.代表的なLCCは,Lion Air(Indonesia),Air Asia(Malaysia),Jetstar Airways(Australia)であり,その就航都市はいずれも30を超える.LCCとして操業するまでの経緯はそれぞれ異なっており,Lion Airが1999年にLCCとして設立されたのに対して,Air Asiaは1993年に設立されたFSCが経営不振から2001年にLCCとして再生された.そして,Jetstar AirwaysはQantas Airways Limitedが,やはりLCCであるVirgin Blueに対抗するために設立した子会社である.しかし,いずれにも共通している要因は,アジア通貨危機(1997年)に伴う既存の FSCの経営危機であった.
  • 成瀬 厚, 香川 雄一, 杉山 和明
    セッションID: 414
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     報告者たちは,2005年の日本地理学会春季学術大会で「日本の地理学における言説分析の現状と課題」という報告を行い,その内容を成瀬・杉山・香川(2007)として発表した。このなかで日本の地理学者の論文を多数検討するのと並行して,学会発表前の2005年2月下旬に検討対象の論文著者に対し,言説概念についての意識に関する質問票を配布した。本報告では,その結果を紹介するとともに,こうした実践の意義について考察したい。質問票は22名の著者(共著論文に対しては第一著者)に対して電子メールで配布し,14名から回答をいただいた。質問は以下のような内容である。
    1. あなたの上記論文について
    ・あなたは論文中で「言説」の語を用いていますか?
    ・あなた自身はこの論文の(一部の)方法を言説分析だと思っていますか?
    ・その方法は既存のどんな研究から学んでいますか?
    2. 言説という概念について
    ・あなたの理解の範囲で,この概念を説明してください。
    ・この概念について思い浮かぶ思想家や研究者を挙げてください。
    ・それらの著者の作品を読んだことがありますか?
    ・地理学者の研究で言説概念を援用したものを知っていれば挙げてください。
     成瀬・杉山・香川(2007)はいわば,日本の地理学者による言語資料研究のテクスト分析であった。その対象となった著者たちは報告者たちと近い立場にある(報告者たちもここに含まれもする)。日本の地理学における言語資料研究の現状について理解するためには,テクスト分析に限定される必要はなく,著者たちとのコミュニケーションをはかることも有意義と考えられる。今回の調査表の送付はそうしたコミュニケーションの一部であり,またこうした学術大会での口頭発表,およびそれに対する質疑応答もその一環である。こうした実践のなかで言説分析の方法論的議論を進展させたい,というのがこの質問票配布の目的である。
    II 調査結果
     1.の質問はある意味ではテクスト分析から引き出せるものである。しかし,論文の発表年によっては,執筆当時は言説概念を用いていなくても,現在は言説分析だと思うかもしれない。また,この質問を契機に学術論文では書きえない言葉を引き出すことができるかもしれない。しかし,結果的には前者のような意見はいくつか得られたものの,後者のような回答は得られなかった。むしろ,論文を読めば分かるという理由で回答拒否も存在した。しかし,一方では形式的なアンケートとは違い,日常的なメール交換の延長線上で貴重な意見を引き出せたことも事実である。
     2.の質問からはいくつか重要な回答を得ることができた。自らの論文を言説分析だと認識していなくても,知識としての言説概念を理解しているということ。また,どのような媒体(論文,著書,研究会,講義)を介して言説概念を理解したのか,また実際の研究上,方法論として参照した文献の種類の多様さ(地理学内外,国内外),など。
    III おわりに
     言説概念は,特定の意味や考え方が社会のなかで普及していくことも意味する。言説概念は地理学における言語論的転回において重要な位置を占めている。その概念の日本の地理学者における普及の現状について,成瀬・杉山・香川(2007)と本報告の作業により,ある程度は明らかにできた。今後ともこうした実践は続けていきたい。
  • 近藤 裕幸
    セッションID: 415
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1研究の目的
     田中啓爾(1885-1975)は,第二次世界大戦前,東京高等師範学校と東京文理科大学において教授をつとめ,かつ長く文検の出題委員であったことなどから,わが国の戦前における地理教育界に大きな影響力をもった人物の一人であった。田中以前にも戦前の中学校地理教育において影響力をもった山崎直方,小川琢治,石橋五郎たちと比べても、最も長く存命し,戦前から戦後にかけて多くの地理科教科書,社会科地理教科書,地図帳等の著作に携わり影響力を持ち続けた。
     ところが、これまでの先行研究では,田中がその地理教育思想を具現化したと思われる地理科教科書についての検討や,田中の地理教育観そのものを取り上げた研究はほとんどみられないのが実情であり,教科書を客観的研究資料として用いているものはほとんどない。そこで本研究では,田中の地理科教科書の分析検討を通して,田中の地理教育観の一端を叙述することが目的である。
    2 田中の地理教育論文と地理教科書
    (1)地理教育論文
     田中の地理教育に関する論文の傾向は,第1に,1925年「汽車旅行指導の一例」,1927年「読図(Map Reading)に就いて」, 1929年「外国地誌教授の順序に就きて」1933年「地理科特別教室に就いて」のような教育指導上における具体的な論文が目につく。このことは,先述した山崎,石橋,小川たちにはみられない傾向である。
     第2に,田中の地理教育についての論文における大きな柱は,グラフ・地図(分布図)をはじめとする直観教材の適切な使用,記述方針としての地人相関的記述と歴史的な説明,地理区の究明の重視にある。
    (2)地理教科書
     田中の教科書の例言では,1920年代,1930年代をとおして、直観教材,知識の羅列忌避,地人相関的記述,歴史的説明,個別から全体へとなされる帰納的説明,初等教育との連携をもつこと,配列に対する配慮,地理区等について重視されており,それは時代を経てもそれほどの変化はない。1930年代後半からは国民精神の涵養が加えられてくる。
     こうした田中の主張は、教科書と教育論文の両方でみることができ、田中の地理教育論文での考えは,大筋において地理科教科書によく反映されているといえる。
    3 田中啓爾の地理教育観と出自
     田中の場合は目標論といった大きなことを論じることはなく,より具体的な形で授業に対しての知見を提示した。田中が、教育現場にいる教師たちの視点に立っていたことが反映されたと考えられる。
     田中は,1907年福岡県師範学校を卒業し,1912年東京高等師範学校本科地理歴史部を卒業,長崎県師範学校教諭となった。1915年東京高等師範学校付属中学校(後の東京教育大学付属中学・高校)講師をへて,1916年東京高等師範学校助教諭となった。1920年東京高等師範学校教諭となった後, 2年間留学後に,東京高等師範学校教授となった人物である。
     本研究で取り上げた他の人物とは異なり,山崎と同じ東京高等師範学校の教授であったとしても,師範学校や中学校の教諭経験をもち,現場からの視点を失わなかったところに田中の特長があるといえる。例えば,各地の中学教員を対象として講演して回るなどの活動が多かったことも田中の特長が反映されたものといえる。大学からの系譜と現場からの系譜が収斂したところに田中は位置していたと考えられる。
  • 扇状地から複合扇状地を経て伏見地域の探求へ
    香川 貴志, 山崎 貴子
    セッションID: 416
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     本研究では、小学校社会科で既習の「身近な地域の観察」から発展させ易い項目として、地形学習と身近な地域の調査を取り上げる。地名や特産物の暗記に疲れた生徒に対して、教師の工夫次第で「地理的なものの見方」が提供できよう。本研究では、中学校社会科の学習指導要領や社会科地理的分野の教科書を参照する。授業実践の具体例として著者らは、2007年度に立命館中学校で実施された扇状地学習、および伏見旧市街地をフィールドにした同校の地域学習を扱う。
  • 米国環境教育プログラム’Places We Live’の総合学習への適用
    梅村 松秀
    セッションID: 417
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.ESDと学校教育
     教育現場におけるESDへの取り組みのひとつとして、教科教育における学習内容とその展開における対応が求められている。
     ESDにおける教育の意義は、環境と開発の問題解決に向けての意識、価値観・能力を身につけ、意思決定への効果的な市民参加の実現にある(「アジェンダ21」36章)ことから、学習内容やその展開において価値観への問い、能力の育成、地域住民としての認識と参画に留意する必要がある。
     ESDは世代間の公平とともに性差、貧富、地域間の公正の実現のために、教育をベースにさまざまな機関・団体の協力のもと地域の持続的発展の実現を図るものである。

    2.学校現場におけるESDへの取り組み~総合的な学習プランづくりへのNPOの参画
     2007年、ERICは板橋区立北前野小学校6年生の総合的な学習の年間テーマ「福祉」に関連した10時間プログラム作りへの協力要請をうけ、2学期の総合学習プランとして「コミュニティを創るのは私たち」のテーマを設定。米国環境教育プログラムPLTによる地域学習プログラム‘Places We Live’に示されたアイディアの適用を図った。

    3.「コミュニティを創るのは私たち」プラン背景としての ‘Places We Live’について
     米国環境教育プログラムPLTの中等段階を対象としたPlaces We Liveは、地域住民としての学習者が、地域の環境、社会、経済的側面に焦点化した調べ学習を通して、地域形成における能動的参与者としてスキルと知識を身につけ、地域形成の意思決定にかかわること、それによる環境や地域の生活の質に影響を及ぼすことへの気づきを促すことをねらいとする学習プログラムである。
     学習テーマは、#1.Personal Places #2.Community Character #3.Mapping Your Community Through Time #4. Neighborhood Design #5.A Green Space #6. A Vision for the Future #7.Far-Reaching Decisions #8.Regional Community Issues: The Ogallala Aquifer の8単元で構成される。
     環境教育プログラムPLTの基本理念等については、2007年日本地理教育学会大会、日本地理学会熊本大会等において報告したが、教育学の分野における構成主義理論、全体言語教授方略、サービス学習として特徴付けられ、それぞれの活動においても「何を学ぶかということより、どのように学ぶか」ということが強調される。

    4.「コミュニティを創るのは私たち」プランの概要
     プラン作成に当たり、当該6学年の基本テーマ「福祉」、2クラス共通、総時数10時間という条件の下、上記‘Places We Live’の構成を基本に、次の6テーマと主な学習内容を設定した。(1)私のお気に入りの場所~学習の目当てと内容の説明/板橋とわたし/仲間さがし/お気に入りの場所の紹介 (2)コミュニティの特徴~グループによる「街歩き」の準備/視点をもっての街歩き/街歩きのまとめ (3)コミュニティの変化~地域の昔と今/写真や地図を使って (4)緑の空間~土地利用の変化をとらえる/空から見た緑の変化 (5)地域計画について調べよう~地域の大人が考えていること/インタビュー/インタビューからわかったこと (6)未来のビジョン~私たちはどんな地域を創りたいか~インタビューのまとめ、未来新聞を創ろう

    5.本学習プランにおける、地理的な概念や手法の適用について~グーグル衛星画像と空中写真による土地利用変化の読み取り
     Places We Liveに示される「緑は社会資本」という視点の当該学区域への適用を図った。学区域周辺の緑の変化を調べる学習活動として、グーグル画像とほぼ50年前の様子を示す空中写真に、100ドットシートによる土地利用の変化の読み取りを学習内容とすることで、地域の土地利用の変化と地域の持続的な発展にとっての緑の空間の維持拡大の重要性への気づきを図ろうとした。
  • フリーソフトでシェープファイルを活用する
    伊藤 智章
    セッションID: 418
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     本報告の目的は、インターネット上で公開されている「シェープファイル(Shape file)」を、廉価なGIS ソフトを使って教材化する方法を紹介することである。
     「シェープファイル」は、米国ESRI 社が開発したGISデータの国際標準となっているファイル形式で、同社のサイトをはじめ、あらゆる公的機関がインターネット上で公開している。世界の白地図を収めたシェープファイルは、アメリカの疾病予防医学センター(CDC)が公開している。各国の州や県の境界の入った白地図は、各国政府の統計サイトのデータと組み合わせることで、世界地誌の授業に活用することが出来る。
     今回は、無料のGIS ソフトである「MANDARA」と、廉価なGIS ソフト「地 図太郎」、「Google Earth」等を用いて、学校教材として利用するための 活用事例を報告する。シェープファイルは、ESRI 社のGIS ソフト「Arc-GIS」で利用されるのが一般的であるが、授業用の教材作成程度ならば、フリーソフトでも十分に対応できる。フリーソフトでの活用ノウハウが重点的な研究され、情報が共有される事を期待したい。
  • 鳥居 つかさ, 大和田 道雄
    セッションID: 501
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I 研究目的
     地球温暖化(IPCC,1996;2001;2007)によるSSTの上昇傾向はStrong et al.,(2000)によっても確認されているが,上昇率が最も高い海洋は太平洋海域である(大和田・井上,2002)。特に冬季における亜熱帯高圧帯領域は,西太平洋,および西大西洋に(500hPa面)に現れる傾向があり,特に西太平洋付近に顕著に現れる(大和田・石川,2002)。したがって,中緯度を流れる東西流変動に及ぼす影響が懸念される。そこで本研究は,北半球における冬季の熱帯内収束帯(ITCZ)の緯度的・経度的位置をOLRから確認し,西太平洋熱帯海域に形成される亜熱帯高圧帯との関係から亜熱帯ジェット気流,および寒帯前線ジェット気流の北上との関係について明らかにする。さらに,それらのジェット気流によって発生した温帯低気圧の移動経路の変動から日本海低気圧と南岸低気圧の接近・合体による異常発達のメカニズムを解析しようとするものである。 

    II 資料および解析方法
     SSTは,NOAA/NCEP EMC CMB GLOBAL のSea Surface Temperature(SST)を用い,また,亜熱帯高圧帯領域面積は, NCEP/NCARの再解析データを使用した。亜熱帯高圧帯領域は,大和田・石川(2002)の解析結果から,500hPa等圧面高度場の5,870m以上の領域を測定した(1982~2007年)。さらに,熱帯内収束帯(ITCZ)の南北振動は,NOAA/NCEPの地球表面から放射される赤外線強度OLR(Outgoing Longwave Radiation)を用いて確認した。

    III 結 果
     冬季は,夏季に比較してSST高温領域と亜熱帯高圧帯領域との間に明瞭な関係が得られなかった。これは,夏季と冬季のITCの位置が異なるからであり,SITCが南半球に位置している冬季はハドレー循環の上昇気流が全て北半球の亜熱帯高圧帯形成に関係しているとは言いがたいからである。しかし,南半球も含めたSST29℃以上の領域面積は拡大傾向にあり,亜熱帯高圧帯領域も拡大傾向にあることが判明した。そこで,亜熱帯高圧帯領域面積の典型的な拡大年と縮小年を選出し,温帯低気圧の移動経路を調べた。その結果,亜熱帯高圧帯領域面積の拡大は,亜熱帯ジェット気流,および寒帯前線ジェット気流の緯度的位置の北上とトラフの経度的位置の変動によって温帯低気圧の移動経路を北上させることが明らかとなった(図1)。さらに,それらのジェット気流が接近し,大気擾乱が活発化して低気圧が異常発達する傾向にあることが判明した(図2,図3)。
  • 赤坂 郁美, 森島 済, 三上 岳彦
    セッションID: 502
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     フィリピンの夏の雨季は平均的に5月中旬頃に開始する.これは南シナ海夏季モンスーン入りと西部北太平洋上の亜熱帯高気圧西縁部の北東方向へのシフトにより,フィリピン上で南西風が吹き始めることに関連している(Akasaka et al. 2007).夏季雨季入りの年々変動は農業への影響も大きいため詳細な調査が必要とされているが,これについては十分に研究が行われていない.そこで赤坂ほか(2005)は1961-2000年の39地点の半旬降水量データにEOF (Empirical Orthogonal Function)解析を行い,各年の雨季入りを定義した.その結果,1970年代後半以降,雨季入りの遅れが目立ち,1990年代に年々変動が大きくなっていることがわかった.しかし,その要因については調査されていない為,本研究ではまず雨季入りのタイミングに関連した循環場及び海面水温(SST)の特徴を明らかにすることを目的とする.

    2. 使用データ及び解析方法
     夏季雨季入りに関連した熱帯域のSSTと循環場との関係を調べるために,ERSST (Extended Reconstructed Sea Surface Temperature) v2の2º gridデータ (Smith and Reynolds 2004)と,NCEP/NCAR (National Centers for Environmental Prediction/National Center for Atmospheric Research)の2.5º gridの再解析データ(Kalnay et al. 1996)から850hPa面高度と風系の月別データを使用した.研究対象期間は赤坂ほか(2005)で定義された夏季雨季入りの変動幅が21半旬(4/11-15)-37半旬(6/30-7/4)であるため,1961-2000年の4~6月とした.研究対象領域はアジア夏季モンスーン循環とENSO (El Niño-Southern Oscillation)との関連を捉えるために,25ºN-10ºS,40ºE-70ºWの領域とした.まず熱帯域におけるSSTと高度場各々に卓越する時空間変動を調べるために4~6月の各データにEOF解析を行った.ただし研究対象領域の850hPa面高度場には経年変化傾向が卓越していたため,高度に関しては空間偏差データに対してEOF解析を行った.次に循環場とSSTの時空間構造に共通するモードを抽出するために,4~6月のSST及び高度場の空間偏差データに特異値分解 (SVD: Singular Value Decomposition)解析を行った.SVD解析の結果から示される循環場,SST分布の特徴を示すために,規準化した時係数が±σを超える年の高度,SSTに対してコンポジット解析を行った.

    3. 結果と考察
     高度場 とSSTに対するEOF解析から得られたEOFの第1モード(EOF1)の因子負荷量分布は,各SVD1の異質相関図に類似した特徴を示していた.同様の結果は各EOF2とSVD2間にも認められた.従って,高度場とSSTに各々に卓越する主要な時空間変動パターンには強い相互関連があると考えられる.特にSVD1の二乗共分散寄与率は78.4%を示し,両場に共通する変動の8割近くを説明するモードであることがわかる.またSVD1は雨季入りのタイミングと関連しており,SVD1の各時係数と雨季入りの年々変動とは99%有意水準で有意な正相関を示す.よってコンポジット解析に使用されたSVD1の時係数が±σを超える年の高度場及びSST分布は,雨季入りの遅速に関連した特徴を表わしていると考えられる.雨季入りの早い年(-σ以下) は,4~6月を通して熱帯太平洋域のSST の東西コントラストが強まっており,Walker循環が強い.特に4月にITCZが通常より北よりに位置し活発化している(図略).一方,雨季入りの遅い年(+σ以上) には,4月に西部北太平洋上の亜熱帯高気圧の勢力が強く,5月になっても亜熱帯高気圧西縁部が北東方向へシフトしない(図1上).これはエルニーニョ現象と密接に関連している.4~6月を通して29.5℃以上の暖水域が日付変更線付近に位置しており(図1下),対流活動の活発域もこれに伴い東方へシフトする.このため,フィリピン付近の対流活動が抑制され,雨季入りの遅れにつながる.更に,SVD1の時係数には1970年代後半を境とした明瞭な経年変化が認められ,雨季入りが遅くなる傾向にあることと対応していると考えられる.
  • 菅野 洋光
    セッションID: 503
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     1980年代以降の北日本夏季気温は、年々の変動が大きく、冷夏や暑夏が交互に出現する傾向にある。その原因の一つとして、西部太平洋熱帯域の対流活動が考えられる。本研究では、北日本夏季天候とPJパターンとの関係について解析し、その発現域であるインドネシアと、影響域である東アジアでの気候環境について、気温と降水量を用いて考察する。
    2.データ
     SSTデータは、2007年9月にリリースされたNOAAのERSST (Extended Re-constructed Sea Surface Temperatures)データver.3を、グローバル気象データはNCEP/NCAR再解析データを用いた。また、観測データに基づいて作成されたUniversity of Delaware (U-Del)の0.5度グリッド地上気温・降水量データを用いた。
    3.結果
    1)Kanno(2004)により、北日本夏季天候の1982年以降の5年周期が指摘されていたところであるが、2007年夏季までその周期に則っているようにみえる(図1)。
    2)南シナ海とフィリピン東方海域との海水面温度(SST)東西差を、前回の報告(2005年春季大会)では領域S(10-20N, 110-120E) -E(10-20N, 130-140E)を用いたが、データの変更等で今回はC(5-15N, 110-130E)-D(5-15N, 140-160E)で計算した。図2にはC-Dと500hPa高度との相関係数分布を示す。赤道域の広い範囲に正の相関が見られるほか、日本から東シベリアにかけての波列パターンが明瞭に把握できる。PJパターンが北日本夏季天候の周期的な年々変動と深く関わっていることが明瞭である。
    3)インドネシア、ジャワ島におけるU-Del雨量データと地上気圧との相関係数分布を図3に示す。ジャワ島南東方の広い範囲で負の相関を示し、雨量の増加に気圧の低下を伴うことが把握できる。また、北日本に正の相関が見られ、ジャワ島の雨量が多いときには気圧が高まる、すなわち夏季気温が高温になることが示唆される。これらについては、PJパターンの伝播による影響で説明できそうだが、波源の地上雨量と影響域でスポット的に有意な関係がみられるのは非常に興味深い点である。インドネシアにおいては、2006年から現地調査ならびに雨量観測を実施しており、それによる気候環境の調査結果については別途報告の予定である。
    4)東アジアにおけるコメの生産地として、日本の東北地方、朝鮮半島、中国東北部について、気温・降水量と大規模場との関連性について検討した。それらの結果については当日ご報告したい。
  • 永野 良紀, 山川 修治
    セッションID: 504
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     永野(2005)では武漢(中国)と札幌の200hPa高度場差をWS指数と定義し,7月においてWS指数の数値が大きくなると日本付近の30N-35N帯に前線が多く出現することを明らかにした.また,永野ほか(2008)では,東アジアにおける200hPa高度場の主成分分析を行い,EOF1は東アジアでのチベット高気圧の北偏の強弱,EOF2は日本付近での張り出し強化の卓越度を示しており,中国南部と北日本上空ではEOF1,EOF2ともに因子負荷量の符号が反転していた.そこで,本研究では因子負荷量の数値差がEOF1,EOF2ともに大きかったチェンチョウと札幌の200hPa高度場差を改めてCS指数と定義した.さらに,永野(2005)では30N-35N帯に出現する前線についてのみしか触れていないが,30N-35N帯以外にも出現する前線や,前線の出現に対応する日照時間および気温との関係も解析し,CS指数と日本の7月の天候との関係を総合的に明らかにした.

    2.研究方法
     気圧配置分類型(Yoshino and Yamakawa:1985)を用いて7月の前線出現状況について解析した.気圧配置分類型のうちIV型は日本付近に停滞前線が出現するパターンであり,IVa型(日本列島上に前線が停滞)とIVb型(太平洋岸に前線が停滞)に分類している.さらに,本研究ではIVa型,IVb型ともに細分化しIVa-n型(IVa型のうち前線が35N以北に存在),IVa-s型(IVa型のうち前線が35N以南に存在),IVb-n型(IVb型のうち前線が30N以北に存在),IVb-s型(IVb型のうち前線が30N以南に存在)の4パターンに再定義した.日照時間および気温は全ての気象官署のデータを用い,CS指数の基となるチェンチョウおよび札幌の200hPa高度場データはゾンデデータを使用した.

    3.結果
     図よりCS指数は最低で188(1994年),最高で421(1983年)である.CS指数が300を下回ると全国的に気温は高くなり330より大きいと全国的に気温は低くなっている(図).また,気象庁の区分に従って北日本,東日本,西日本に分け,各地域の気象官署のうち70%以上の地点で気温が標準偏差の0.5倍以上(以下)になると暑夏(冷夏)とすると,CS指数が270を下回ると北日本において暑夏,250を下回れば東日本,西日本を含めた暑夏になった.一方で一部例外はあるもののCS指数が350を上回れば北日本,東日本で冷夏,CS指数が390以上になると西日本を含めた全国的な冷夏となった.  IVa-n,IVa-s,IVb-n,IVb-sそれぞれのパターンにおける各年の7月の出現日数(複合,移行型は0.5日)をカウントするとIVa-n型が相対的に多い年(前線が出現すると35N以北に集中)とIVa-s型が相対的に多い年(前線が出現すると35N以南に集中)に分かれた.また,1989年,1992年および1993年だけはIVb-n型が相対的にもっとも多かった.1995年のCS指数は304であるが(図),この304以下であると,IVa-n型になり,それ以上であるとIVa-s型もしくはIVb-n型となった.また,7月の月合計日照時間は日本列島ではおおよそ150時間程度であるが(吉野ほか;2002),30N-35Nの気象官署で平均して7月の日照時間が150時間以下である年のIVa-s型の平均日数は9日であり,150時間を超えた年のIVa-s型の平均日数の6.4日を上回っているが,この差は統計的にも有意な差であった.また,IVa-n型の平均出現日数は5日であるが,IVa-n型が6日を超えた年は35N以北に当たる北陸,東北の気象官署における7月の日照時間が150時間を下回った.

    4.まとめ
     CS指数が300以下(330以上)であれば日本において気温が高く(低く),35N以北(以南)で前線が出現しやすい.また,前線と日照時間も関係があることから,CS指数は7月の日本における気温,前線,日照時間を示すものといえる.CS指数がチベット高気圧の張り出しパターンに基づいた指数であることから,チベット高気圧の張り出しメカニズムを追求することが今後の課題といえる.
  • 高橋 信人
    セッションID: 505
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.研究目的
     日本において梅雨期から秋雨期までの天候は、特に極東域の地上の前線帯の動向と深く関わりがある。本研究では多変量解析により半旬単位で前線分布型を定義した後、その前線分布型の季節的、経年的な出現傾向をもとにして近年の日本における降水の傾向と特徴を明らかにすることを目的とする。

    2.データと解析手順
     使用したデータは、国内の気象官署の日降水量データと、1日2回の気象庁地上天気図上に記載されている前線の位置を緯度経度1度×10度のグリッドで読み取り、半旬単位で集計した前線データである。対象期間は27年間(1979~2005年)の5/1~11/30とした。解析手順は次の通りである。
    1) 各年各半旬の前線頻度分布の3半旬移動平均に対して主成分分析を施し、得られた第1から第3主成分の得点をもとにクラスター分析を用いて前線分布型を定める。
    2) 前線分布型の時系列変化の特徴を把握し、確認する。
    3) 2) で得られた特徴的な変化がみられる季節において近年の降水特性を調査する。

    3.結果
    1) C1~C7までの7つの前線分布型が得られた(図1)。このうちC2とC3は梅雨期、C6は秋雨期において典型的に現れる前線分布型であることがわかった。
    2) 前線分布型の出現傾向は各年で大きく異なる。しかし、近年は7月上旬から下旬、および8月下旬から9月中旬において日本海から東北地方南部に伸びる前線分布型(C4)の頻度が増す傾向にあることがわかった。また、6月下旬においては前線帯の北上(C2からC3へのシフト)が半旬程度早まっていることなどの傾向も見い出せた(図2)。
    3) 7月上旬から下旬における日本南岸に伸びる前線分布型(C3)の減少とC4の増加は、日降水量1mm以上の日数の東日本での増加と西日本での減少に概ね対応する。また、この時期には北関東から東北南部の太平洋側において日降水量50mm以上の豪雨日数が増加する傾向にある(図3)。一方、8月下旬から9月中旬にかけてのC4の増加は、日降水量1mm以上の日数の前線帯以北の北日本における減少と前線帯のすぐ南側にあたる中国地方から新潟までの日本海側地域および北関東における増加に対応する。このような傾向が今後も続くかどうかについては注意深くみていく必要がある。また、これらの傾向の原因の究明は今後の課題である。
  • 仁科 淳司
    セッションID: 506
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

    中部山岳地域における地上気圧に見られる日変化を検討し,半日周期の変化の振幅が冷夏と暑夏で,あるいは夏季と冬季で異なることを指摘した岩井・宮下(2005:天気,52,831-836)に対して,850hPaの風に対して中部山岳地域の風上側に相当することが多くなる地点および年,季節で振幅は小さく,風下側に相当することが大きくなる地点および年,季節で大きくなる傾向を指摘する。
  • 飯島 慈裕, 大畑 哲夫, フェドロフ アレクサンダー
    セッションID: 507
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

    I.はじめに
     東シベリア・レナ川中流域のヤクーツクでは,2004年以降夏季の降水量と冬季の積雪量が急激に増加しており,それに対応して活動層内の土壌水分が増加と地温上昇に伴う活動層厚の増大(永久凍土の融解)が同時的に進行している(飯島ほか、2007:地理学会秋季大会).湿潤化による永久凍土環境の変化が,この地域にとどまらず東シベリアの広域にわたって生じているとするならば,その環境変化は地域的な影響のみならず,陸面での熱・水循環過程の広域的な変化を通じて気候システムにもフィードバックする可能性がある.したがって,この現象の空間規模の実態の把握とその陸面過程への影響の解明が必要である.
     そこで本研究では,そのはじめとして東シベリアのレナ川流域と中流部(ヤクーツク)での観測データならびに長期気象観測データセットを用いて,近年の湿潤化と地温上昇の空間的な広がりについて検討した.

    II.研究地域と使用したデータ
     本研究では,レナ川中流域の湿潤化ならびに地温上昇の実態を把握するため,1998年からヤクーツク周辺において地球環境観測研究センターならびに永久凍土研究所によって実施されている土壌水分・地温の観測データを用いた.
     また,降水量変化の広域分布を明らかにするため,東シベリア日別値の地上気象観測データセット(Baseline Meteorological Data in Siberia Version 4: BMDS4)を用いた.編集期間は1985年~2004年の20年間である.また,2005年~2007年はNCDCのGlobal Summary of Dayによって,1970年~1985年の降水量はGlobal Synoptic Climatology Network of the former USSR (NCDC D9290C),積雪深は Historical Soviet Daily Snow Depth によって日別値を追加した.

    III.結果
     図1にレナ川中流域の左岸・右岸の4地点における,2003年から2006年の地温と土壌水分量の変化量を示す.観測地点の植生,土壌のタイプは異なっているにも関わらず,全ての地点で年最低地温は2℃以上上昇している.また,土壌水分量は左岸のカラマツ林で最も増加量が多く,いずれの地点も増加している.このうち,アカマツ林は砂質土壌のため保水力が小さく,右岸のカラマツ林,草原は凹地状のアラス地形内の地点であるため土壌水分が2003年の時点でも大きかったと考えられる.これらの結果から,少なくともヤクーツク周辺の100kmスケールの領域では,土壌湿潤化と地温上昇が進行していると考えられる.
     図2には,レナ川流域を中心とする北緯50~75度,東経90~150度の領域内の地上観測点における夏季降水量と最大積雪深の2004年~2006年の偏差平均値の分布を示す.まず,夏季降水量の+1σを越える正偏差の大きな地点が,ヤクーツクを含む北緯65度付近のレナ川中流域から南部の山岳地域にかけて分布している.7月以降は陸面からの蒸発散量が年間のピークを超えて減少する時期であり,過剰な降水は表層土壌に浸透もしくは滞留しやすくなる.また,冬季の最大積雪深も,夏季降水量に比べて弱くなるものの,レナ川中流域から南部の山岳地域にかけての地点で正偏差となっている.積雪の増加は融雪水量の増加につながり,春の土壌の湿潤化と関係すると考えられる.
     以上から,ヤクーツク周辺では土壌水分量の増加と地温の上昇が,2004年以降進行している実態が明らかとなった.また,夏季の降水量と冬季の積雪量どちらもがレナ川中流域,山岳地域で広域に増加している傾向を示していることから,少なくとも湿潤化は広域で生じている可能性が高い.今後は,東シベリアでの夏季・冬季の降水システムの変化要因を明らかにすると共に,湿潤化と凍土融解のプロセス,さらにそれによってもたらされる陸面の熱水循環過程の変化を明らかにしていく必要がある.
  • 寧夏回族自治区調査報告 その1
    秋山 元秀
    セッションID: 508
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     蒙古と河西との境界にある辺境地域として、寧夏の地域形成と関連させながら、その中心都市としての銀川の位置づけを歴史的にたどる。行政域としての寧夏の変遷は、この地域の位置が歴史的に有した意義を示している。解放後、1958年に回族自治区として成立しているが、もともと甘粛の一部であり、内蒙古との境域の出入りがあった。その中心としての銀川は、このような政治的位置づけを反映して、行政的機能や軍事的機能を優先させた都市構造をもっている。現在、銀川市中にはほとんど古い町並みや家屋は残存していないが、現在の街衢構造から、解放前の城壁や城門の位置を復元することは比較的容易である。現在、都市の内部および郊外では、住宅都市に向けての開発が著しい。その姿を、商品楼の建設によって明らかにする。
  • 寧夏回族自治区調査報告 その2
    石原 潤
    セッションID: 509
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     急速な経済発展を示す中国では、青果物の流通システムも、急速に変容しつつある。本研究では、寧夏回族自治区の首都銀川市における、卸売・小売両段階の流通システムについて、実地調査の結果を報告する。対象地域としては、銀川市の商業中心である興慶区を主として採り上げる。

    1、卸売段階
     銀川市で消費される蔬菜の80%が経由するとされる北環市場と果物の最大の卸売市場である東環市場とがある。
    〔北環市場〕1991年建設。蔬菜の卸売が主であるが、他の食料品の卸売も。全国の蔬菜を集荷(夏は寧夏の蔬菜が多く、冬は南方の野菜が入る)、周辺諸省約500kmへ出荷。蔬菜の2006年交易量33.6万トン、年交易額5.5億元。取引の電子化、全国の価格情報の電子掲示、残留農薬の検査などを進めている。この市場は、2つの村民小組が土地を出し、村と郷が資本を出して出来た。現在関係団体が委員を出す董事会に決定権があり、運営は彼らが作った公司が行う。市場の大規模商人は、数人でグループを組み、一部が外へ買い付けに行き、大型トラックをチャーターして荷を運んで来る。市場内に、倉庫や頂棚を借りて営業する。中・小規模商人は、夫婦等で営業。出身地等に自ら買い付けに行き、小型トラックなどで運んで卸売。あるいは市場内で商品を仕入れ、露天で卸兼小売。これら商人の一部は地元の都市戸籍保有者だが、大部分は農村出身(陝西省や安徽賞など)の農村戸口で、市場近くで間借りしている。
    〔東環市場〕1988年開設、果物の卸売が主であるが、他の諸商品の卸売も。果物の集荷は、寧夏(35%)の他、全国各地から。果物を買いに来る商人は、市内だけでなく、内蒙古からも。果物の年交易量30万トン、年交易額4.8億元。この市場は、元は露天の小売市場だったが、ある村民小組の農民らが卸売市場を建設した。その後農民らは都市戸籍化、市場は有限会社として残り、董事会(住民の会)が運営。一般に卸売商人は、集団で経営、買い付けに一人を先方に送り、運輸会社のトラックを雇い、荷を運んで来て、朝、小売商人に売る。この市場最大の果物商は、十人余を雇用する卸売業のほか、スーパーマーケットの中にも出店。さらに郊外農場を持ち、温室栽培や無農薬栽培。

    2、小売段階
     小売段階で蔬菜や果物が売られる場は、小売市場とスーパーマーケットがある。前者のシェアーがなお高いと思われるが、後者の数も急増しつつあり、無視できない存在になりつつある。
    〔小売市場〕工商所が管轄しているものとしては、興慶区の市街地には、7ヵ所の市場があり、設備は地下封囲式が1、封囲式2、簡易封囲式が2、頂棚式が2と、整備されている。工商所が管轄していないものとしては、確認し得た限りでも、4ヵ所の市場があり、封囲式が1、頂棚式が1、露天式が2と、設備はあまり良くない。経営主体は、公司、街道弁事所、居民委員会、村民委員会が各1であった。この他、早市(3ヵ所で確認)でも野菜の出市が多く、夜市(2ヵ所で確認)では果物の出店が見られる。これらは、いずれも露天で、工商所の勤務時間(8時半から18時半)外を狙って営業していると言う。一般に小売商人は農村出身で農民戸口、市場の近くに部屋を借りて居住。大部分は卸売市場で、一部は郊外の農民から直接仕入れている。小売商人の輸送手段は、三輪自転車から、オート三輪へと急速に転換しつつある。
    〔スーパーマーケット〕野菜・果物を扱うスーパーマーケットは都心部にも、周辺部にも急速に立地しつつある。都心部立地では、A百貨店の1階、B百貨店の地階、4階建て綜合スーパーの1階(以上新華系)、南大門広場の地下(北京華聯超市)などがそれに当たる。周辺部立地型は、双宝超市a店(2階建)、同b店(地下・小規模)、同c店(1階建・小規模)、及び金風区に入るが新華趙市d店(広いワンスパン)などがそれである。市街地縁辺部に形成されつつあるマンション団地の分譲広告には、最寄りの小売市場と共に、これらスーパーが記載されており、スーパーでの購入が生活スタイルの中に定着しつつあることを示している。新華(大規模店中心)と双宝(小規模店中心)のローカルチェーンが店舗網を形成しつつある。これらの店舗の蔬菜・果物の仕入れは、卸売市場に依るもののほか、生産農場を持つ大きな納入業者に依存する形が生れている。
     野菜の小売価格を比較したところでは、都心部の百貨店併設のスーパーで、値段が高いことがわかった。
  • 寧夏回族自治区調査報告 その3
    松村 嘉久
    セッションID: 510
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     寧夏回族自治区の区都・銀川市で比較優位性の高い観光資源は,西夏王陵と中国映画の代表作『紅高粱』のロケ地となった寧夏鎮北堡西部影視城くらいしかなく,国際観光客は極めて少なく国内観光客も多くない。清真寺(モスク)が点在する銀川市旧市街地の空間も,イスラムの文法よりもむしろ漢族の文法で編成されていて,ウルムチやラサと比較するとエスニックな魅力は乏しい。回族文化を展示する中華回族文化園(2006年10月開業)といった新たな観光空間も創造されているが,イスラム教やイスラム文化を可視化しスペクタクル化するのは難しく,民族問題に発展しかねない危険性もはらんでいる。
     このような観光事情のもと,銀川市への来訪者は観光という文脈よりも,ビジネス・コンベンション・求職目的など,区都としての機能に由来する区内や近隣地域からのものが多数を占める。そのため,観光業の盛んな地方の中心都市と比較するならば,宿泊施設の規模や機能も多様である。本発表では,銀川市の旧市街地で実施した270軒余りの宿泊施設の現地調査の結果を踏まえ,都市計画や都市構造などとの関連にも言及しつつ,宿泊施設の類型・機能・分布特性などを考察したい。

    2.銀川市旧市街地における宿泊施設の類型について
     中国における宿泊施設の呼称は,賓館・飯店・旅館・旅店・旅社・招待所・客桟・度假村など多彩であり,施設の名称と内実は必ずしも一致しない。日本には「旅館業法」を基本法として,高級ホテルから簡易宿所まで,宿泊施設の構造設備を細かく定める法体系が存在するが,中国ではまだ整備されていない。
     中国の場合は80年代から国際観光振興と連動して,「旅游(観光)旅館」と「渉外(国際観光客用)飯店」に限定して,規模・設備・サービス内容から等級付けが進む。その一方で,国内客向けの旅社・招待所の類を規制する法律は見当たらない。90年代半ば以降の国内旅行需要の急増と不動産開発バブルのもと,銀川市旧市街地でも高級ホテルから劣悪なものまで,様々なタイプの宿泊施設が急増していく。
     本発表では銀川市旧市街地に立地する宿泊施設を,規模・等級・標準客室宿泊料金・経営主体・開業年次・外観などの基準から,いくつかの類型に分けることを試み,その類型に対応して機能や分布特性を分析している。

    3.銀川市旧市街地における宿泊施設の機能と分布特性
     銀川市旧市街地の宿泊施設の機能と分布特性は,おおよそ以下のようにまとめられる。
     1)旧市街地北側の広幅員の都市計画道路(北京路・上海路)沿いに立地する大規模な高級ホテルは,1996年の都市計画と関連して,企業・投資集団が経営主体となって90年代半ば以降に建設されたものが多い。主な顧客層は国際観光客と国内富裕層の観光・ビジネス客である。
     2)旧市街地の繁華街や交差点角に立地する二星・三星クラスの中規模ホテルは,80年代半ばから90年代半ばにかけて建設され,一部では老朽化が進む。地方政府や政府系部門が経営するところも少なくない。主な顧客層は国内の観光・ビジネス客で,コンベンションもよく開催される。
     3)小規模な旅社や招待所の類は,都市域と農村域がせめぎあう市街地周辺部や市街地内のインナーシティに立地し,ほとんどが個人経営である。部屋を時間貸しするところ,売買春の温床となっているところも散見される。利用客は国内の観光・ビジネス客,乗り換え・求職などで一時的に滞在する者が主流である。立地条件や機能などから,バス停近接型・城中村型・寄せ場型・インナーシティ型などに分けられる。

    4.おわりに
     結節性の高い宿泊施設の機能と分布特性の考察が,都市の構造やダイナミズムを解明するうえで重要であることは言うまでもない。本発表では観光客向けの宿泊施設のみならず,一時滞在者を主な顧客とする小規模なものまで分析対象に含めた。そのなかで,例えば,地方の中心都市で,寄せ場と宿泊施設がセットで形成されているという知見が得られたことなどは貴重であろう。
     中国でも近年,「宿泊」という概念では捉えきれない夜を過ごす様々な都市空間が急速に増殖しつつある。今後はこれらも視野に入れて分析することが課題となろう。
  • 寧夏回族自治区調査報告 その4
    高橋 健太郎
    セッションID: 511
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     中国の少数民族の一つである回族は,中国のほぼ全域に分散して居住しているが,都市の1地区や農村集落程度のスケールでみると集まって居住している。このような回族の地域社会は「ネットワーク型社会」(network society)と形容され,相互にさまざまなつながりが形成されている(Lipman 1998)。回族の生活様式はイスラームの影響を強く受けており,清真寺(モスク)を中心として,教坊やジャマーアティと呼ばれる地域社会を形成している。清真寺は,集団礼拝や祭日の儀礼,葬儀,宗教教育などの宗教活動の場としてのみではなく,商品流通や情報交換,家畜の屠畜などの場としても,回族の地域社会において重要な役割を果たしている(高橋 2000)。
     一般的に,各清真寺には,宗教儀礼や宗教教育を主導するアホンと,それにしたがってイスラーム知識を学習している学生(マンラー[満拉])がおり,日々の礼拝や各種の儀礼など住民の宗教活動を支えている。アホンは3年程度を任期として各清真寺の間を移動する。マンラーも時には指導のアホンとともに,時にはより学識の深いアホンを求めて個人的に,清真寺やイスラーム学校の間を移動し学習を重ねる。
     今回は,2007年8月に行なった調査にもとづいて,回族の宗教知識人の移動の特徴,特にその空間性について報告し,ここから回族の社会的・宗教的ネットワークの一側面を考察する。

    2.現地調査の概要
     調査地域は寧夏回族自治区の中部に位置する同心[Tongxin]県とその周辺地域である。同心県には回族が比較的集まって居住しており,総人口33.1万人のうち,回族は27.8万人(83.9%)である(2005年)。同心県には,清真寺・約500個,アホン・約800人,マンラー・約1100人が登録されている。今回の調査では,この地域の宗教活動の特徴や宗教知識人のライフ・ヒストリーについて,12人のアホンに聞き取りを行なった。また,マンラーや一般信徒にも補足的な聞き取りを行なった。

    3.清真寺の管理運営と宗教知識人の移動
     清真寺は,カオム(高目)と呼ばれる一般信徒のなかから選ばれた,3~5人によって組織される「寺管理委員会」によって運営されている。アホンの招聘と解任およびマンラーの受け入れは,カオムの意見を聞きながらこの寺管理委員会が決定する。
     宗教知識人の移動について,次のような特徴が認められた。アホンは地域社会の外部から招聘されることが多く,就任した清真寺では外部者の立場にあることが多い。移動の範囲は,主に寧夏回族自治区内部や甘粛省,青海省で,約300km圏である。宗教知識人には農村出身者が多く,中国の戸籍制度や都市・農村間の格差の影響が見受けられる。マンラーとしての学習の段階では,教派に関係なく清真寺の間を移動するが,アホンになってからは同じ教派の清真寺で任務に就く。アホンの資格認定や新規就任への認可などで,県政府が監視と指導を行なっており,これは宗教知識人の移動に影響を与えている。宗教知識人は,回族の地域社会の間で,宗教知識のみならず日常生活全般についての情報を伝達し,社会的ネットワークの一つとなっている。

    参考文献
    高橋健太郎 2000.回族・漢族混住農村の社会構造と居住地の形態―寧夏回族自治区納家戸村の事例―.地域学研究13:65-95.
    Lipman, Jonathan 1998. Familiar Strangers: A History of Muslims in Northwest China. University of Washington Press.
  • 寧夏回族自治区調査報告 その5
    小野寺 淳
    セッションID: 512
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.生態移民による新しい農村空間
     生態移民とは、生態系を保全するために行われる移住行為やその行為に参加した人々(移民)のことを指す。寧夏回族自治区においては、“吊庄”と呼ばれる移民がよく知られており、人口圧が高く自然環境が悪化しつつある南部山間地帯から、黄河揚水灌漑事業が進展する北部平原地帯への移民を指している。南部の転出地の貧困や環境の問題についてはこれまでよく研究されてきたが、本研究では北部の転入地に焦点を当てて新しい農村空間の形成について考察したい。
    2.自治区内の地域性と移民の歴史
     南部が自然環境に恵まれず、大量の余剰労働力を抱えているのに対して、北部は土壌が肥沃で地勢が平坦で日照が十分であり、水利が整備されれば土地資源が豊富であると言えよう。図は南部と北部の経済水準の違いを端的に表している。こうした地域性の中で、1983年以来40万人を越える南部の貧困農民が北部へ移住した。
     図 寧夏各市県の農民一人当たり純収入(2004年)
    (寧夏統計年鑑2006より作成).
     それ以前も、寧夏は中国の辺境かつ少数民族集住地区であり戦略的に重要な位置にあると認識されて、国営農場による開墾が行われていた。生態移民においても、まず政府が投資・建設をして水利施設や居住条件を整備した。そして、転出県が移民村の建設と管理を行い、それが軌道に乗ってからはじめて行政全般を転入地の地元政府に移行するという手順を踏んだ。
    3.移民村の事例
     永寧県閩寧鎮は銀川市の南に位置し、東は黄河の西部幹線用水路に面する。南部の西吉県や海原県からの移民4,300戸、2.2万人が相前後して定住し、うち回族は70%を占める。元は西吉県玉泉営経済開発区として始まり、1997年に先進地域である福建省の支援を得て閩寧村が成立し、2000年に閩寧村は永寧県に引き渡され、翌年に閩寧鎮となった。小麦やトウモロコシの他、菌類、果物、薬材などの生産が近年増加しつつある。隣接する国営農場の土地が請負契約に開放されたことも含めて、土地使用権の流動化が見られ、農業の大規模経営が始められている。
     銀川市興泾鎮は銀川市南郊に位置し、1983年に泾源県政府が興した芦草洼移民開発区として建設が始まった。無人の荒地が今では総人口2.5万人となり、回族は99%を占める。2000年には泾源県から銀川市郊外区へ引き渡され、翌年に興泾鎮が成立した。鎮中心市街地の開発が、イスラム圏のサウジアラビアやクウェートなどからも資金が流入して進められている。羊や牛などの交易が活発であり、小麦やトウモロコシの他、施設園芸などの積極的な取り組みが見られる。
    4.農村空間の形成と変容のメカニズム 
     本研究では、上記2つの移民村における特に土地の所有・使用関係を中心とした農家経済の分析から、農村空間の形成と変容のメカニズムを検討する。
     政府の灌漑開墾事業から始まるため、土地の所有権は国にある。その上で土地の使用権がどのように移民たちに請け負われ新しい農村空間が形成されていったかを明らかにする。他方、南部の転出地の土地の所有権・使用権も移民たちの手に残されている。
     また、人の流動性が高く、同時に土地の権利の流動性も高い。土地が集団所有され実際の権利関係がしばしば曖昧な中国の一般的な農村に比較して、農業経営の大規模化や多角化、さらには非農業への産業構造の転換もダイナミックに進行する可能性がある。
  • 寧夏回族自治区調査報告 その6
    小島 泰雄
    セッションID: 513
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.窯山の暮らし
     李氏(70歳)は請負っている27畝(1.8ha)の農地のほかに3haほどの自ら開墾した農地を、子供たちと経営している。農地面積からは大規模経営にみえるが、農業による収入は限定的かつ不安定で、息子たちの出稼ぎが暮らしを支えている。食事は“黄米飯”と呼ばれるキビにイモを加えた主食をニラなどの漬け物で食べる質素なもので、肉料理は月に2回程度に限られる。
     同心県の中央、なだらかな山地に窯山郷は位置している。13の行政村に1.8万人が暮らしており、ほとんどが回族である。半農半牧の暮らしは、年間雨量が4年連続で100mmに達しない乾燥と、過放牧による植生破壊への対策である放牧禁止により、生活というよりも生存を維持することさえ難しい状況にある。政府は同心県の最貧地区である窯山に住む人びとの半分を、郷の外へ移住させる計画を進めている。
     この農耕限界を越えた場所で展開される同心県の回族の暮らしは如何に形成され、そして、如何なる方向へ向かいつつあるのだろうか。「移動」というダイナミクスに焦点を合わせて、この疑問に答えることが、本報告の目的である。

    2.“回民起義”
     《同心県志》に載る同心県の人口変遷は、まったく驚くべき経過を呈する。同心県の総人口は1949年の2.8万人から1990年の27.9万人まで、40年間でほぼ10倍となっている。中国の他の地域においては同一期間で倍増が一般的であるのに比して、飛び抜けて高い人口増加率が達成されているのである。これは人民共和国建国時の人口が過小であったことの反映でもあり、そこからさらに100年遡る地域の歴史と深く結びついている。
     陝西から寧夏・甘粛にかけての回族の分布は、19世紀後半の“回民起義”と呼ばれる民族反乱の影響を強く受けている(侯春燕2005)。清朝期における漢族の流入により多民族の混住が進んだ中で発生した、回族の反乱とその失敗は、寧夏における回族人口の激減と、陝西から寧夏・甘粛・新疆への回族の移住をもたらした(陸文学1999)。同心県の回族が暮らす場所の農耕限界を越えた周縁性は、この民族的な移動と切り離せないものとみなされる。

    3.“吊荘”
     人民共和国期の定住政策は、人口増加を背景として、この周縁性を際だたせることになった。絶対的な貧困として現れる地域問題への解決策として、寧夏では1980年代から移住政策が採用され、その移住を“吊荘”と呼んできた(王朝良2005)。もともとは農民の荒れ地開発の様式を指した地域呼称を用いることで、農民の理解を目指したとされる。
     この地域においては乾燥が農業生産を規定することから、吊荘は既存の居住地域から灌漑が整備された地域への移動として実現された。同心県では黄河の揚水灌漑地区である河西鎮がその目的地であり、荒漠とした大地に20年をかけて、窯山など同心県内および県外の人びとを受け入れ、20の行政村、3万人の人口が暮らす農業生産力の豊かな回族居住地域が造り出された。
     近年では、西部大開発の発動により国家投資が増加したことを背景として、“生態移民”と呼ばれる、農地開発と集落移転をセットとする一括式の移住が行われるようになっている。その空間スケールは窯山と恵安村といった山上と山麓の地域内のほか、より広域の県レベル、省レベルなど多様なものが計画されている。

    4.“民工”
     農民の出稼ぎは、二元構造と市場経済化の交差の中に、現在の中国でひろく観察される事象である。寧夏の回族農村からも多くの出稼ぎ者が送り出されている。
     同心県(2006)においては、農村労働力14.9万人に対して、“労務輸出人数”として把握されているのは、6.8万人にのぼる。じつに労働力の半数近くが、期間の長短と重複は考えられるものの、なんらかの出稼ぎに従事していることを示す。
     その移出先は寧夏回族自治区内が41%であり、続いて内蒙古(26%)、新疆(17%)、山西(4%)、浙江(3%)、甘粛(2%)、河北(2%)となっている。ここに現れているのは、空間的には西北中国における労働市場の存在であるが、それをより明瞭なものとして現出させている要素として回族のエスニシティが指摘される。同心県のような回族集住地域からの出稼ぎ労働者は、ムスリムとして扱われることが必要であり、宗教者が同行する場合もあることや、“清真菜”とよばれるイスラム料理の提供が出稼ぎ先において必須であるとされる。

    本報告は、平成17-19年度科学研究費基盤研究(A)(課題番号17251010)による成果の一部である。
  • 相馬 秀廣, 高田 将志, 田 然, 小方 登, 伊藤 敏雄, 渡邊 三津子, 魏 堅, 于 志勇, 齊 烏雲
    セッションID: 514
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
     農業は,乾燥地域の定着住民にとって,昔から今日に至るまで生活に不可欠な要素である.乾燥地域では,基本的に灌漑農業が実施される.しかし,従来,乾燥地域の遺跡では,囲郭,宗教施設,墳墓など遠方からもよく目立つ対象が主に研究され,灌漑水路跡や耕地跡などについては必ずしも十分な検討がなされていない.とりわけ,中国タリム盆地や内モンゴルなどではその傾向が強い.相馬他(2006,地理予69,p197,2007,地理予71,p64)は,タリム盆地における灌漑水路跡・耕地跡(合わせて,農業遺跡)などを主な対象として,高解像度衛星画像・衛星写真の判読及び現地調査により,それら遺跡の抽出・そこに残された環境変化などについて報告した.
     ところで,中国中原地域では,農業の長い歴史を有するものの農地は連続的に利用されてきたため,時代ごとの農業の実態や特徴などの解明は,専ら文献など頼らざるを得ないのが実情である.一方,中国乾燥地域の農業遺跡は,歴史的には,中原地域から伝播されて農業技術が地域の実情に合わせて修正されたものが,政治社会・自然環境などの変化により放棄され,今日に至ったものと推察される.上述の検討などを通して,乾燥地域の放棄農業遺跡についてある程度時代性を明らかにすることができれば,それらを逆に辿ることにより,かつての中原地域における農業の実態を一定程度復元できるのではないかとの仮説に至った.このような仮説を立証するためには,第一段階として,放棄時代が異なる農業遺跡の存在を明らかにすることが不可欠である.
     そこで本発表では,タリム盆地および内モンゴル西部を対象地域として,放棄時代が異なる農業遺跡について報告する.
    2.研究方法
     高解像度衛星画像・衛星写真判読による遺跡の抽出及び現地調査による確認に加えて,今回は,主にQuickBird衛星画像(地上解像度約0.6m)の判読を通して,古灌漑水路の平面パターン・耕地規模などについても若干検討した.
    3.結果と若干の考察
     1).内モンゴル西部黒河下流域(デルタ地域):衛星画像判読から,大まかには大小二種類の紅柳包が抽出された.大規模紅柳包は,現地調査によれば,漢代の建設でほぼ同時代内に放棄されたとされるK688遺跡では,囲壁の一部に比高約15mの紅柳包(tamarix cone)が分布し,漢代の建設で3-4世紀に放棄されたとされるK710遺跡付近では,南東端囲壁から約50m地点の灌漑水路跡が比高6-7mの紅柳包に覆われていた.
     小規模紅柳包は比高3-4mで,西夏・元代の陶器片などが多く散在する地域に分布し,緑城遺跡(元代まで断続的に使用)付近では盛土型灌漑水路跡上などにも多く発達していた.QuickBird衛星画像では,一筆レベルの耕地区画が明瞭に抽出される.緑城遺跡付近では,それらはやや歪んだ(縦横が不揃いな)長方形を単位とした変形方形パターン,一辺3m前後の多角形が集合した蜂の巣状パターンなど,場所ごとに特徴的な平面形状を示していた.なお,1950年代の新中国躍進時代に新たに掘削され程なく放棄された盛土型灌漑水路跡では,紅柳包は未発達であった.
     2).タリム盆地南東部の米蘭遺跡:開析小扇状地の扇央から扇端にかけて,約8本の放射状第二次灌漑水路跡,これから分岐してほぼ平行に延びる第三次灌漑水路跡などが残存していた.いずれも盛土型水路である.烽火台などが点在する扇端付近では,衛星画像から,規模が明瞭に異なる二種類の紅柳包群が抽出された.相対的に規模が小さい紅柳包群は,上流側へ遡ると,上記の第三次灌漑水路跡に連続していた.このことは,規模が大きな紅柳包は形成開始が相対的に古く,早い時期に放棄されたことを示唆する.
     3).タリム盆地などにおける他の事例も含めると,盛土型灌漑水路跡付近に発達する紅柳包の規模は,水路放棄後経過した時間の大まかには指標として有効であることを示している.

    本研究は,平成19年度科学研究費補助金基盤研究(A)(2)(海外)「高解像度衛星データによる古灌漑水路・耕地跡の復元とその系譜の類型化」(代表:相馬秀廣)による研究成果の一部である.
  • L農場を事例に
    王 岱
    セッションID: 515
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     中国では,1978年の改革開放以降,生産責任制の導入により,農業経営における農家の自主権が認められた.綿花生産においては,国による専売体制が1998年まで維持されていたものの,その生産から流通まで自由化の進展がみられた.1999年以降,農民所得の向上をめざす農業構造調整の下で,土地の集積・機械化による農業の大規模化・集約化が図られた.そのような背景の下で,北京大都市圏の外縁地域に位置する綿花主産地である河北省高陽県では,ごく少数の大規模農家は企業型農業経営を実施し,経営規模の拡大を図ってきた(王,2007).本研究は高陽県にあるL農場を取り上げ,綿花栽培の開始から,現在の企業型農業経営への転換過程を考察する.
    II L氏による綿花栽培の開始
     1985年,L氏は地元の村民委員会と農地請負契約を締結し,高塩分・高アルカリ農地6.7haの経営権を取得した.L氏は土壌の改良と灌漑施設の設置を行い,1988年,ナシや桃などの果樹の栽培を開始した.1990年,果樹と穀物を栽培するとともに,ヤギとウサギの飼育も始めた.1992年から,中国における綿花生産の不足問題が顕著化し,政府が綿花の買い付け価格を引き上げた.その影響をうけ,L氏は1994年に村民委員会と契約する請負農地を22haに増やし,綿花栽培を開始した.
    III 家族型農業経営から企業型農業経営へ
     L氏は1995年に農産会社(L農場)を設立し,綿花の栽培面積を80haに拡大した.しかし,雹の被害を受けるとともに,綿鈴虫(Cotton Boll Weevil)の大量発生により,綿花の収穫はなかった.1996年以降,L農場は天候に影響されやすい綿花の栽培面積を減らし,穀物生産を拡大するとともに,薬用作物や野菜などの栽培も開始した.1998年から,L農場は綿鈴虫に強い遺伝子組み換え綿花品種を導入し,アメリカの農産会社と採種契約を締結した.2001年,L農場はすべての綿花栽培において遺伝子組み換え品種に切り替え,その面積は約333haで,出荷額は350万元に達した.
     2002年,『農村土地承包法』の成立により,農地利用権の合法的な有償移転が条件つきで可能となった.同年,L農場は高陽県以外の地域への出耕作を開始し,建設した綿繰工場での加工および販売を始めた.その後,L農場は出耕作地域を拡大するとともに,各地域の綿花生産農家と契約栽培を締結し,種子の提供・技術の指導・農業機械の貸与を行ってきた.2007年現在,河北省を含む5つの省において,L農場による綿花栽培が行われており,その面積は約1,979haである.その他,河北省,陝西省,北京市におけるL農場の契約農家は584戸で,合計栽培面積は約567haである.
    IV まとめ
     L農場による家族型農業経営から企業型農業経営への転換過程において,作目の多様化や契約栽培の導入などにより,収益の安定化が図られた.同時に,出耕作による生産拡大と,加工・販売への参入による農業経営の多角化が実現された.
    文献:王 岱 2007. 中国の農業構造調整下における綿花生産地域の変容―河北省高陽県を事例に.『日本地理学会発表要旨集』NO. 72: 108. 日本地理学会.
  • 陳   瑛 王旬, 呉 賢俊
    セッションID: 516
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    中国大陸広東省大埔県にある七つの家族は清朝末に台湾中部の石岡郷に移民した。この七つの家族は該当地域の開発に大きく貢献した。清朝時期からこの七つの家族は石岡地域にそれぞれ当族にふさわしい生存空間を探し、そして定住した。また、宗族組織を通じて成員の力を結合し、続々と原住地から台湾石岡地域に移住した。共通点といえば、彼らはみな客家人であることである。客家人の特徴のひとつは、自分の族群歴史を重視することである。このことによって「克勤克儉」という精神が族群を繋ぐ。一方、個別的に見れば、彼らの生存地域の選択は大陸故郷での生活経験と深く関係している。特に、仕事の特性と密接に関連している。本論文は、石岡地域に住んでいる七つの家族の定住の地理空間と生活慣習との関係を探求する。その上、いかに家族組織力の運営を利用して、家族成員の生存能力を強化して、生活状況を改善する。そして家族成員が安定に生活できる場所(空間)を作り出すことを究明する。
  • 烏蘭察布市四子王旗を事例として
    関根 良平, 蘇徳 斯琴
    セッションID: 517
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     中国内モンゴル自治区では、沙漠化をはじめ人口増加による無計画な開墾や過度の放牧など人間の生産活動による環境劣化が進行しており、地域住民の貧困がさらに環境負荷を高め、それによる環境破壊がさらに貧困をうむという悪循環の存在が原因として指摘されている。その悪循環を断ち切り、貧困から脱出するためには経済発展が必要であり、そのためには政府のいう「生態環境」の再生が求められるとして、中国政府当局はいくつかの政策を実行に移している。代表的なものが「進退還」や「進一退二還三」、「退耕還林」「退耕還草」とよばれる、劣化した農地・牧草地での農牧業を禁止し、林地や草地に戻す政策である。もう一つが「退牧還草」や「封山育林」、「囲封転移戦略」など様々な呼称があるが、草地への放牧禁止、放牧から舎飼いへの転換、ヤギなど小型家畜から大型家畜とくに乳用牛への転換、禁牧地域となった地域の住民=「生態移民」の都市周辺への集中移住といった、主に牧畜業を生業としてきた住民を対象とし、額面どおり実行されれば前者より住民にとって厳しい内容をもつ政策である。この報告では、内蒙古自治区烏蘭察布(ウランチャブ)市四子王(スズワン)旗の役場所在地である烏蘭花(ウランファ)近傍に出現した「移民村」に居住する住民を対象としたいくつかの世帯調査の結果から、「生態移民」政策と「移民村」の実態と、その社会経済的な意味について考えてみたい。なお、この調査は今年度から開始したばかりであり、内容としては予備調査の域を出ないものであることをあらかじめ断っておく。
    II 四子王旗における農業・牧畜業の動向と「移民村」
     四子王旗は省都であるフフホト市の北東部に位置し、面積は24,016平方km、人口204,032人の旗である。烏蘭察布盟は1990年代前半まで内蒙古自治区で最も貧困な地域であったとされるが、2002年と2003年の1人あたり所得を比較すると、農民は1,514元から1,870元へ、牧民は2,175元から2,808元へと着実な増加がみられ、地域的には牧民つまりモンゴル族の多い中部・北部での増加が大きい。四子王旗では全国よりいち早く「退耕還草」政策が1994年より、禁牧政策も2000年より実施され、中部および北部の「牧区」では全ての農耕地が草地に転換された。なお、これら政策は2008年(つまり北京オリンピックの開催年)までで終了するとされているが、その後どのような扱いになるのかは未だ不透明である。
     ただし、これら政策によって減少するかと思われた家畜の頭数は、政策の実施前である1986年よりもむしろ増加する状況にある。この点について、報告者らはSekine et. al.(2005)や蘇徳斯琴ほか(2005)等において検討し、草原地域では通年や一定期間のみといった条件を伴って禁牧とする地区が設定され、所得の補填を名目に禁牧補助金が牧家に対し支給されているものの、禁牧ではない草地を利用して経営規模を維持(あるいは拡大)させる、禁牧ではない地区の「親戚」に家畜を移動させるなどの対応によって、ほとんどの牧家では禁牧政策以前と変わらない家畜頭数を維持(あるいは拡大)していること、つまり確かに使用が禁止された草地は存在するものの、政策が家畜頭数を減じさせるような仕組みを持ち合わせていないため、旺盛な食肉およびカシミヤ需要の増加を背景に各牧家は結果として環境負荷の「たらい回し」を地域内で行っているに過ぎない実態を報告した。また、四子王旗における近年の顕著な変化は、主に北京や天津といった都市部および外国人観光客をターゲットとした観光地化であるが、フフホトに至る主要道路沿線には農牧家が経営する観光用パオが林立する光景がみられるようになり、観光資源として家畜をむしろ増加させる要因ともなっている。またとくに注目すべきは、乳牛の増加がウランファで顕著にみられるという特徴であり、この増加は全て「移民村」における増加である。また農業(穀物)生産についてみても、かつては小麦やえん麦など多様な作目が生産されていたが、近年になるほどジャガイモの生産が拡大し、モノカルチャー化が進んでいる状況がわかる。実はこの拡大は「移民村」における農業生産が深く影響しているが、発表では「移民村」における乳牛飼養とジャガイモ生産の実態について明らかにしていく。

    参考文献
    SEKINE Ryohei, SUDESIQIN, and KOGANEZAWA Takaaki(2005) Environmental Countermeasure and Correspondence of Residents In Inner Mongolia Autonomous Region, China. Natural Resources and Sustainable Development in Surrounding Regions of the Mogolian Prateau,p64~65.
    蘇徳斯琴,小金澤孝昭,関根良平,佐々木達(2005)砂漠化地域における農牧業の変容と農地・草地利用, 宮城教育大学環境教育研究紀要8,p79~88.
  • 梁 海山
    セッションID: 518
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    【研究の視点と目的】
     中国の急速な経済発展に伴い,これまで開発に取り残されてきた内モンゴル地域も大きな変貌を遂げつつある。それは農村地域での都市的土地利用への大量転用,農村人口の都市への流出といった,都市化の波が東部沿海地方から中部や西部の内陸部へと全国規模に広がったことによる。もともと耕地が少なく人口圧が高い中国では,食糧不足や経済の持続的な発展を支えていくために,内モンゴルなど内陸の牧畜地域に「移民実辺」,「草原開墾」,「西部大開発」政策や,沙漠化防止のため「放牧禁止」「生態移民」など,様々な制度・政策が実施されてきた。その結果,内モンゴルでは耕地面積が増加した代わりに放牧地が減少し,人口圧力や定住化による草原への負荷が増大したため,沙漠化などの環境問題も深刻化してきている。
     こうした内モンゴルにおける農業や環境問題に関する研究は,地理学においても徐々に蓄積されていきている(たとえば,澤田(2004),蘇徳斯琴(2005),小長谷ほか(2005))が,都市化に着目した研究はきわめて少ない。内モンゴルの主要都市での経済発展は,都市自体の構造変化に加えて,その周縁の郊外地域や農牧業地域の都市化を招き,地域の環境変化と密接に結びついて進展していると考えられる。
     本研究は,内モンゴルにおける経済発展,環境問題,政府の政策などが,どのように地域の環境変化や都市化に結びついたかを明らかにすることを目的とする。
    【地域の概要と研究方法】
     内モンゴル自治区は,中国全土の北辺に位置し,面積約118.3万km2,人口約2,392万人(2006年)を有する,おもにモンゴル民族と漢民族が混在する多民族地域である。地域内には,省都の呼和浩特(フフホト)のほか,包頭(パオトウ),烏海(ウーハイ),赤峰(チーフォン),通遼(トゥンリャオ)など12の市と盟が存在する。2000年以降,中国では経済発展や地域変化,中央政府の国策などより,地方行政機構の再編が進んでいる。たとえば,農業を主とした内陸部の「地区」に「市」を新設したり,周辺の「地区」を「市」に編入することで,農民や遊牧民を「市」の住民にする,「撤地設市」という行政改革が行われた。その結果,開発にともなう実質的な地域変化だけでなく,全国的な地方行政再編を反映した形式的な地域変化が進んでいる。とくに内モンゴルでは,自治区の下級行政機構として従来は「盟」が置かれてきたが,「撤盟設市」による行政改革に伴い,2003年には自治区内9の「盟」のうち6までが「市」に改編された。
     本研究では,内モンゴルにおける政府の制度・政策が都市化に与えた影響を検討するために,各種の統計データを用いてGISによる地図化と統計解析を行った。
    【結果と考察】
     内モンゴルが独立した1947年以降の政策転換は,巴図(2006)によって6つに時期区分されているが,改革開放後に限ると次の3時期に分けられる。それは,農牧結合政策により生産請負制が進んだ1982-1991年,放牧を禁止して農牧産業化制が進んだ1992-1999年,西部大開発による退耕還林還草政策が行われた2000年以降である。ここでは,環境変化が顕著になった1990以降における都市化と地域の変化を分析した。
     居住地区分による都市人口は,1990年の781.1万人から2006年の1163.6万人に増え,都市人口比率も1990年の36.1%のから2006年の48.6%と,都市化が進展していることがわかる。これは,1970年代末に始まる改革開放政策により,内モンゴルの経済発展と都市化が進んだ結果である。とくに2000年以後,沙漠化の防止と内モンゴルにおける西部大開発をスムーズに進展させるため,内モンゴル全域で土地封鎖,強制移住,牧畜禁止など「生態移民」政策によって都市への集住が進行した。
     内モンゴルの農村では牧畜業から農業への生業移行が著しい。一方,都市には人口,機能が集積し,中心都市内および周辺地域に工業と第3次産業が集中した。その結果,以前の盟や旗の地域が徐々に合併して,新しい都市が形成されている。内モンゴル全土で,交通,工業,商業などが集積する都市内部および周辺地域と,林地,牧用地,農地などが広がる農村地域との分化が進み,地域変化と都市化が進んでいる。
     これまでの農村地域の変革制度・政策は農牧民の生活向上を目的とした農業・牧畜業の改革であったが,農牧地域の経済構造を大きく変革するものではなかった。一方,この間,工業化,サービス経済化によって都市の経済は大きく成長し,結果的に都市と農村地域の間では収入,教育,生活水準などの面での格差が顕在化した。こうした開発の結果,全国的に見ると,沿海部と内モンゴルの格差は縮小傾向にあるものの,都市化に伴って内モンゴル地域内での格差が新たに生じている。
  • 大島 規江
    セッションID: 519
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I. はじめに
     モンゴルは1990年に民主化を達成した。改革開始当初は、移行経済に伴う困難さから経済は低迷を続けたものの、経済的構造改革、日本をはじめとする外国からの支援を基軸として、政府は経済の立て直しを図り、1994年以降、著しい経済発展を続けている。それに伴い、地方農村から首都ウランバートルへの人口が流入、それに伴って都市域が無秩序な発展をしている。本発表ではウランバートルの9行政区のうち6行政区における都市域の拡大を地域の住宅形態に焦点を当てて分析する。
    II. 調査地域概要
     モンゴルの首都ウランバートルは、同国中部を貫流するオルホン川の支流トーラ川沿岸の標高約1,350mの場所に立地する。2005年現在、人口は約100万人で、その数は同国人口の約4割に相当する。
     ウランバートルは、行政上「首都特別区」に指定され、県と同等の権限を有する。特別区は、スフバートル(Sukhbaatar)、チンゲルティ(Chingeltei)、バヤンゴル(Bayangol)、バヤンズルフ(Bayanzurkh)、ハーンオール(Khan-Uul)、ソンギノハイルハン(SonginoKhairhan)、ナライハ区(Nalaikh)、バガノール区(Baganuur)、バガハンガイ区(Bagakhangai)の9の行政地区で構成されている。ナライハ、バガノール、バガハンガイの3行政地区は他の6行政地区から20kmも東に位置する。したがって、この3行政地区は行政区域上ウランバートル市域とはいっても、他の6行政区とは機能的に全く異なる。このため、本研究では、この3行政地区を除く6行政区を研究対象地域とした。
     ウランバートル市の中心は、政府宮殿とスフバートル広場であり、その周辺にオペラ劇場、文化宮殿、博物館、市役所、証券取引所、中央郵便局、大学、各国大使館が立地し、政治の中心地を形成している。行政地区上では、スフバートル南西およびチンゲルティ南部に相当する。前2地域にバヤンゴル南東部を加えた地域には、映画館、百貨店、ホテル、ザハと呼ばれる市場があり、経済の中心地となっている。
    III.  集合住宅地域とゲル・ハウス居住地域
     民主化以降、ウランバートルの都市域は拡大を続けている。2005年における各地区の人口と世帯数をゲル・ハウス地域と集合住宅地域別に示したものが表1であり、各地区の特徴が分かる。各地区の総人口に占めるゲル・ハウス地域の人口の割合は、チンゲルティで最も高く78.2、バヤンゴルで25.1%と、地区による差が著しい。また、居住形態も、アパート、暖房・水道完備一戸建て、暖房・水道なし一戸建て、ゲル・ハウス等の住宅形態も各地区で異なることが明らかとなった。
    IV. おわりに
     今後は、都市化に伴う正のインパクトのみならず、負のインパクトも含めた都市環境の変容についても検討したい。
  • 財城 真寿美, Phil JONES, 塚原 東吾, 三上 岳彦
    セッションID: 520
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     近年,長期気候データベースの構築とその解析を行うプロジェクトがヨーロッパ諸国を中心に行われている.東アジア地域では,気象観測データが最近約100年程度に限られるため,100年以上の気象観測データにもとづく気候変動の解析が困難であった.Zaiki et al.(2006)は,1880年代以前の日本における気象観測記録を補正均質化し,データを公開している.これに引き続き,本研究は19世紀(1841~1883年)の北京で観測された詳細な気象観測記録を補正均質化し,現代のデータと比較対象が可能なデータベースを作成することを目的とし,さらにそのデータを使用して,小氷期末期にあたる時期にどのような気温の変化があったかを検討する.
    2.資料・データ
     19世紀の北京における気象観測記録が含まれるオリジナル資料は,1841~1855年にA.T. Kupffer によって出版された“Annuaire magnétique et météorologique du Corps des ingénieurs des mines de Russie”,および “Annales de l’observatorie physique central de Russie” である.さらに1868~1883年に,H. Wildによって出版された“Annalen des physikalischen Central-Observatoriums” で,いずれもイーストアングリア大Climatic Research Unitや英国気象庁,National Oceanic and Atmospheric Administration(NOAA)など世界各地で入手可能である.19世紀の気温の1日の観測回数は,3~24回とばらついている.
     1901年以降の月平均値および,1991~2000年の日平均・時間値はNational Climatic Data Center(NCDC)より入手した.
    3.均質化
     1870年以前の気温は,列氏(°R)で観測されているため,摂氏(°C)へ換算した(1°R = 1.25°C).また,時期によって観測回数・時刻が異なるデータ間の均質化を行った.均質化後には,最近50年間の観測データとの比較によって異常値を判別し,データのクオリティチェックを行った.さらに,19世紀から20世紀まで連結させたデータが統計的に連続しているかを検定する均質性テスト(Alexandersson and Moberg, 1997)を行い,有意な不連続がないことを確認した.
    4.19世紀の北京における気温の変動
     19世紀の北京の気温データは未だに断片的ではあるが,1840年代は温暖な傾向にあり,1870・1880年代には寒冷化している傾向がある(図1).すでにデータベース化されている19世紀の22年間の上海における年平均気温との相関は,r = 0.45であった.またZaiki et al.(2006)による同時期の西日本の平均気温と比較すると,1840年代の北京の温暖傾向は,西日本の温暖傾向よりもやや早く,1870・1880年代の寒冷傾向は同様であることが認められた.

    参考文献
    Alexandersson, H. and Moberg A. 1997. Homogenization of Swedish temperature data. Part I: Homogeneity for linear trends. International Journal of Climatology 17: 25-34.
    Zaiki, M., Können G. P., Tsukahara, T., Jones P. D., Mikami, T., and Matsumoto, K. 2006. Recovery of nineteenth-century Tokyo/Osaka meteorological data in Japan. International Journal of Climatology 26:399-423.
  • 特に冷夏年(1993)と暑夏年(1994)を対象に
    野口 泰生
    セッションID: 521
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     一日で風向が逆転する海陸風や山谷風の出現日を風向逆転日として、全国850地点のアメタ゛ス時別値テ゛ータを用いて抽出する。対象期間は冷夏・暑夏年を含む1992~94年の3年間である。
     各地点で各月の16方位別風向頻度を求め、毎日の時別風向を月最多風向、逆風向、その他の風向に3分類する。日中の10:00~15:00および夜間の1:00~3:00と22:00~24:00の昼夜各6時間の間に最低4時間の最多風向または逆風向が存在することを条件として一日の風向逆転日とした。ただし、昼夜各6時間の間に最多風向と逆風向が1時間でも混在する場合は除外した。
     風向逆転日の多い地点や少ない(出現しない)地点は3年間でほとんど変化がなかった。多出地点は、高知県須崎、小豆島内海、徳島県穴喰、三重県尾鷲などで年間100日を超える。暑夏年である1994年には最多地点では150日を超えた。寒候期には少なく、暖候期に多くなるが、特に暑夏年の8月には3年間で最多の1469日・地点となった。また移動性高気圧に覆われる春や秋にも極大が出る傾向がある。風向逆転日は穏やかな気圧傾度の晴天日に出やすく、気圧配置に強く支配された現象である。
     一日で風向が入れ替わる時間は、全国平均で、夏が8:00と18:00、冬が9:00と17:00で、昼間の卓越風は夏が冬よりも2時間多くなる。  
  • 仙台市中心部における鉛直的観測から
    境田 清隆, 野村 亮介
    セッションID: 522
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     ヒートアイランドの原因として、人工排熱の増加や潜熱交換量の減少などと並んで、市街化地域の鉛直混合の活発さが挙げられる。すなわち市街地においては、高層建物が立ち並ぶことにより、風の乱れが大きくなり、鉛直混合が活発化する。その結果、郊外では放射冷却によって夜間から早朝にかけて形成される接地逆転層が、市街地では形成されにくく、地表付近では市街地が高温となるとされている。また昼間には活発な鉛直混合は、大きなラフネスと相俟って、上層の冷気を地表に引き下ろす効果が期待される。しかし実際の市街地でこのような気温の鉛直観測を実施することは困難であり、実証的な研究は極めて乏しい。そこで今回、宮城県の協力を得て、仙台市の都心部にある宮城県本庁庁舎付近で気温と風の観測を実施したので、その結果について報告する。
     宮城県庁は仙台都心のCBD地区にあるが、南側は公園緑地となっている。県庁庁舎(高さ約90m)と東西に隣接する県議会(同約30m)および県警本部(同約40m)の屋上とバルコニーと緑地に温度計(計16点)と超音波風速計(2点)を設置し、2007年7月下旬から12月中旬まで観測を実施した。ただし郊外には適当な観測点を設けることができず、仙台新港の鉛直データを使用した。また研究室で5年前から継続している、小学校25箇所の百葉箱を利用したヒートアイランド観測網のデータも利用した。
     8月の晴天弱風日の昼間には仙台平野では海風が発達し、海風の開始によって、都心を含め、海岸から内陸に向かって、気温の頭打ち現象(午前中の気温上昇の停止)が進行する。そのような事例日において、観測結果を検討してみると、県庁庁舎においては海風に伴う冷気が屋上から地上付近に降下していく様子が観測された。このような現象は、県庁庁舎の風上側(東側)で明瞭であり、海風が県庁庁舎に当たって、地表に向かって下降する現象を捉えたものと考えられる。なおこの現象は、海風前線通過時よりもその後の第2波の冷気到来時に顕著であった。
     また10月の晴天日の夜間では、郊外で接地逆転層が発達するが、県庁庁舎付近では静穏時に形成された接地逆転層が、2~3m/s程度の弱風で破壊される様子が捉えられた。このとき、鉛直風速も強化されており、都心部の建物による大きなラフネスが、弱風において効率よく鉛直混合を引き起こしていると解釈される。都心におけるこのような接地逆転層の形成と破壊は、数時間の時間間隔で繰り返される傾向がある。また小学校の百葉箱データから求めた仙台市のヒートアイランド強度の変化は、この鉛直混合の盛衰とよく同調していた。すなわち秋季の夜間におけるヒートアイランドの形成は、弱風によって接地逆転層が破壊される都心と、接地逆転層が継続する郊外との気温差が、大きく寄与していることが明らかになった。
  • 榊原 保志, 山下 浩之
    セッションID: 523
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    福岡市内の小学校の百葉箱に気温データロガーを置き、連続観測を行った。観測地点は市街地の地点として大名小学校および春住小学校、郊外の地点として市街地西側の愛宕浜小学校、壱岐南小学校、金武小学校である。市街地および郊外の地点は海からの距離がそれぞれ異なる。そしてそれらの中間に位置する南当仁小学校である。一般に水と土壌の熱容量の違いから、海の近くの空気は内陸よりも暖まりにくくさめにくいと考えられる。この影響がヒートアイランド強度のどのように出るかを調べた.大名小学校より海に近い愛宕浜小を郊外に選ぶと気温差は冬季小さくなり夏季大きくなるパターンを示し、大名小学校より内陸にある壱岐南小と金武小を選ぶと、冬季に大きく夏季大きいというパターンになった。このことはSakakibara et al.(2005)が東京都市圏で行った結果と一致し、単純に気温差が都市効果を意味するヒートアイランド強度にならないことを示唆している。
  • 中川 清隆, 石塚 仁志, 榊原 保志
    セッションID: 524
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I.はじめに
     埼玉県熊谷市街地中心部に立地するデパート(地上高約32m)と郊外に立地する大学学生寮(地上高約47m)の屋上部とそれぞれの地上部付近、合計4箇所に自然通風式自記温湿度計を接置して、7月22日~9月29日の間、1分間隔の連続観測を実施した。

    II.快晴夜の観測事例(9月20日~21日夜)
     期間中唯一18時から翌朝6時まで快晴が持続した9月20日~21日の結果を典型的な快晴夜の事例として記載する。日没17:40、日出5:33であり、4箇所の観測値はいずれも日最高気温以降翌日の日出までほぼ単調に減少した。日中3m/sを越えた南風は徐々に減衰し21時以降反時計回りに回転し00時には一旦静穏なった後日出までは1m/s以下の西風が吹走した。22時以降、郊外地上部だけ著しく降温して、郊外に強い接地逆転層が形成された。接地逆転の強化に呼応してヒートアイランド強度が強化され2℃を上回った。都心はほぼ乾燥断熱減率となり、屋上面気温ではクールアイランドが形成・持続された。この事実は、夜間郊外に形成された接地逆転を伴う冷気塊が粗度の大きい市街地に移流して攪拌された結果都市混合層が形成され、地表面にヒートアイランド、屋上面にクールアイランドが形成されたことを示唆している。

    III.郊外接地逆転と夜間ヒートアイランドの関係
     観測期間中最も遅い日没が7月22日の18:52であり最も早い日出も同日の04:46であるので、19:00~04:00の時間帯で、非降水で、かつ、都心気温減率が1.5~0.5℃/100mで都市混合層が存在していると予測される毎正時ごとに、郊外逆転強度αおよび気象台風速vと都市ヒートアイランド強度δTu-rの関係を統計的に調査した。その結果、ヒートアイランド強度δTu-rを風速vの関数とせずに逆転強度αのみの関数とした方が高い決定係数R2が得られ、00時、01時、02時に対して、それぞれ、
    δTu-r=0.8405α+0.5745      R2=0.9094
    δTu-r=0.9304α+0.5729      R2=0.8734
    δTu-r=0.8423α+0.4954      R2=0.8686
    の関係が得られた。クロスオーバー高度がhの場合、
    δTu-r=(h/100)α+0.0976h
    となることが期待されるので、クロスオーバ-高度hが風速vに関わらず80m程度でほぼ一定であることが示唆される。都市混合層厚をH、市街地の相対的過剰熱収支フラックス密度をF、フェッチをLとすると、都市混合層熱収支が成立するためには、
    FL/v=(1/2)ρCp(α/100+0.00976)H(2h-H)
    であることが要求される。ここで、ρ:密度、Cp:定圧比熱である。相対的過剰熱収支フラックス密度F=0の場合には、上式より、
    2h-H=0       即ち   H=2h
    が成り立ち、都市混合層厚Hは約160m程度と見込まれる。しかし、実際にはF>0なので、Hとhの関係は、2h-H>0の範囲内で、もっと複雑でなくてはならず、風速依存性も予想される。今回ヒートアイランド強度δTu-rに顕著な風速依存性が認められなかったのは、郊外逆転強度と気象台風速の間の負の相関に起因する二重共線性が影響を与えている可能性もあり、今後、更なる検討が必要である。
  • 渡来 靖, 中川 清隆, 福岡 義隆
    セッションID: 525
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     関東平野北西内陸域に位置する熊谷は、夏の晴天時に、関東平野の中でも特に高温となりやすい地域として知られる。2007年8月16日14時42分には、これまでの記録を塗り替える40.9℃という日最高気温が熊谷で観測された。この日の熊谷地域の高温をもたらした要因を明らかにすることを目的として、領域気象モデルによる予備実験を行ったので、その結果を報告する。
    2.実験方法
     用いた数値モデルは、NCAR等を中心に開発されている非静力学モデルWRFのVersion 2.2である。
     計算領域は、関東平野をカバーする東西約400km×南北約400kmとし、水平格子点数は150×150、格子間隔2.7kmとした。さらに内側に、熊谷付近を中心とした格子点数130×130、格子間隔900mの領域をとり、2段階のネスティング計算を行った。鉛直方向は、両計算領域ともに38層(最上層の気圧100hPa)とした。積分間隔は、外側の領域が15秒、内側の領域は5秒とした。計算期間は、2007年8月15日9時(日本時間)を初期値として、8月17日9時までの48時間とした。
     初期値・境界値には、気象庁メソ数値予報モデル(MSM)GPVデータの0時間予報値を用いた。地形データや土地利用データは、WRFモデル用のプリプロセッサWPS用の入力データとして用意されているUSGSデータを用い、地表面パラメータはWRFモデルのデフォルト値とした。
    3.結果
     まず、熊谷において観測値とモデル計算値を比較(図省略)すると、地上風向・風速に関しては両者が非常に良く一致していた。一方、地上気温に関しては、日変化傾向は概ね再現できているが、モデル結果は昼夜問わず約1~2℃程度の過小評価となっており、また夕方の気温低下が観測より急激となる傾向が見られた。
     熊谷を中心に北西-南東方向にとった鉛直断面(図省略)を見ると、15日14時では、熊谷付近より北西側では谷風循環的な風系が見られる。一方16日14時では、山越えの斜面下降風が卓越していることがわかる。熊谷で16日がより高温となった原因として、この北西風が影響している可能性があるが、更なる調査が必要である。また、両日とも14時の時点では海風前線が東京とさいたまの間にあることから、熊谷地域の最高気温出現時における、海風による温度移流の影響は考えにくいという結果となった。
     今回の数値実験では、熊谷のような小都市のヒートアイランドを再現するにはまだ空間分解能が粗く、さらにWRFで用意された土地利用データでは都市域を十分に表現できているとはいえない。さらに、アルベド・粗度等の地表面パラメータは都市域で一様の値を与えているなど、改善点は多い。熊谷での観測とモデル結果の比較で見られたモデル気温の過小評価傾向や夕方の急激な気温低下の原因は、地表面パラメータの不正確さによる可能性がある。今後はより高解像度の計算を行うと同時に、より詳細な土地利用データセットを準備し、現象の再現性を高めたい。
  • 浜田 崇, 渡来 靖, 中川 清隆, 榊原 保志
    セッションID: 526
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1 はじめに
     裾花川は長野県長野市の飯綱山、戸隠山から山地帯を流下して長野盆地に流出する、延長50km、流域面積280km2に及ぶ千曲川の支流である。裾花川が長野盆地へ流出する谷口では、晴天で静穏な夜間に比較的強い山風が現れる(浜田 2001)。この強い山風を、本稿では、裾花川谷口ジェットと呼ぶ。裾花川谷口ジェットの成因を明らかにする目的で、メソ気象モデルWRFを利用して、2000年7月10日夜間の裾花川谷口ジェット(浜田 2001)の予備的再現実験をおこなったので、その概要を報告する。

    2 実験方法
     用いたモデルは、予報業務と気象研究に両用可能な次世代メソスケール数値予報システムとして開発された非静水圧平衡モデルのWRF(Weather Research and Forecasing)Ver.2.2である。NCEP客観解析データを外側に用い、100×100×38の3次元スタッガード格子の鉛直格子間隔は変化させず、水平格子間隔のみ8.1km→2.7km→900m→300m→100mの5段階ネスティングを施した。鉛直軸には、地表面と10hPa面を不等間隔に38分割するη座標系を用い、最下層の高度は約30m、その一つ上は約100m とした。計算期間は7月10日09 時から24時間とし、計算間隔をネスティングの進行に合わせて90秒から1.11秒まで1/3ずつ短縮させ、毎正時の計算結果のみを保存した。第4段階ネスティングまではWRFにデフォルトのUSGS数値地形と土地利用カタログをそのまま使用し、第5段階ネスティングにおいて地形データのみ国土数値情報に替えた。アルベドや粗度等の地表面パラメータは、土地利用カテゴリごとに定められているデフォルト値をそのまま用いた。

    3 実験結果
     最も明瞭に裾花川谷口ジェットが出現した7月11日午前3時における地上高約100mの風向風速分布図(図省略)をみると、裾花川の谷中を下流方向に山風が吹き、川が長野盆地に出たところ辺りから風速が強くなるvalley outflow jet的な状況を呈している。この風向は県庁屋上で観測されたジェットの風向(浜田 2001)とほぼ一致している。また、同時刻における風の鉛直断面図(図省略)からは、ジェットの風速ピーク高度が100~200m付近にあり、ジェット吹走時の風速鉛直分布の観測値(浜田ほか 2004)と定性的にあっている。以上から、WRFモデルをデフォルト的に用いて裾花川谷口ジェットをある程度再現できることが明らかとなった。
     しかし、モデルでは観測値にくらべ風速が小さい。また、ジェットの出現時刻が遅く、持続時間も短いなど、現象と一致しない点も多い。この原因として、100m分解能の地形モデルでは裾花川の谷をうまく表現できていないこと、土地利用データや地表面パラメータが現実と整合していないことなどが考えられる。今後、地形モデルや土地利用の空間分解能の向上、地表面パラメータの値の改修により、現象の再現性を高めていきたい。また、シミュレーションのモデル依存性の有無を検討するため、WRF以外の非静水圧平衡モデルによる計算も試み、その結果の比較を行いたい。
  • 一ノ瀬 俊明, 鈴木 一令, 鈴木 高二朗, 清野 聡子
    セッションID: 527
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     従来ヒートアイランド対策は市街地等陸上での対策がほとんどであったが、これらは巨額の投資にもかかわらずその効果は限られており、効果を顕著なものとするためには相当規模の施工が必要となることが明らかになっている。例えば東京23区において、1)建物・事業所排熱を50%、2)自動車交通排熱を20%削減し、3)全舗装面を50%透水化(草地・裸地化)、4)全建物屋上を50%緑化したとしても、都心3区の真夏日の日最高気温は約1℃しか低下しないことが環境省の委員会における検討で明らかとなっている。これらの既往対策のみで直面する暑熱問題を解決するには時間を要し、即時性や更なる効果を期待できる抜本的な対策が必要とされている。
     首都圏では、典型的な真夏日でも東京湾からの海風が都心に進入するため、湾水温を現状より低く維持できれば、海風はより冷涼で強くなり、都心の冷却効果や換気効果が促進されるものと考えられる。これらの背景から、海水面冷却によるヒートアイランド対策の検討を実施し、海水面温度を数℃下げる手段として、海洋深層水を東京湾奥の温排水の影響が顕著な区域へ導水し、放水・攪拌することが有効であると考えられる。しかし、零細多数な東京湾の漁業主体との調整や、表層を低温に維持するための湾内における鉛直混合維持対策の必要性など、いくつかの課題も浮き彫りとなっている。本研究では、海洋深層水導水による東京湾の水面温度低減方策の可能性をさらに具現化するための検討を行い、ヒートアイランド現象緩和方策とするとともに、海洋深層水導水による東京湾の浄化再生について提案として概要をとりまとめた。
     東京湾の水質浄化については、70年代以降の水質汚濁防止法の施行などにより、水質の改善傾向は見られるものの、現状において赤潮・青潮等が発生し、生物の生息状況や環境基準達成状況等からみる限り、水環境の改善が十分に図られているとはいいがたい。また有識者へのヒアリングにより、海洋深層水の水質特性による生態系への影響、漁業者との調整の必要性、導水量と対象区域の設定についての考え方などが指摘されている。
     東京都では主な対策技術として、屋上緑化、壁面緑化、高反射性塗装、保水性建材、保水性舗装が推進されている。東京都のクールルーフ事業(補助上限2千万円、補助率50%)は、千代田区、中央区、港区などの都心7区で実施されている屋上緑化等の事業であるが、その事業費を試算すると、7区の都市計画区域の内、戸建て住宅が主体と考えられる第1種、第2種低層住居専用地域を除いた都市計画区域面積(約9,700ha)の30%を建築物の屋上面積と仮定し、整備費単価を2万円/m2とした場合、約5,800億円の整備費が必要となる。また東京都23区について推計してみると、都市計画区域の内、上記と同様に第1種、第2種低層住居専用地域を除いた都市計画区域面積(約46,000ha)の30%を建築物の屋上面積と仮定し、整備費単価を2万円/m2とした場合、約2兆7千億円の整備費が必要となる。保水性舗装については、東京都内の都市計画道路面積は概算で約7,200haであり、整備費単価を2万円/m2と仮定すると、整備費は約1兆4千億円になるものと推計される。
     海洋深層水利用学会の資料によると、現在日本全国で16箇所の海洋深層水取水分水施設が設置されている。それらの取水能力には数百~1万3千m3/日と幅があり、2千~4千m3/日程度の施設が最も多い。有識者へのヒアリングにおいても、現状の海洋深層水取水施設における技術で対応は可能との意見であったが、本研究において実施する導水では、設定対象範囲を考慮した場合、取水量は数十万~百万m3/日程度が必要となる。それを満足する導水方式について、経済産業省等での検討を行った事例を参考とした場合、導水施設(揚水量100万m3/日)の建設費は約25億円/kmとなる。本研究における導水距離を、東京湾から湾奥までの約60kmとすると建設費は約1,500億円となる。付帯施設等を含めて約2倍と考えても約3千億円となり、先に示した既往の緑化対策等にくらべて実現性は高いといえる。放水方式については、海洋深層水の栄養塩類濃度や塩分濃度等を考慮する。
  • ただし地形発達シミュレータの場合
    野上 道男
    セッションID: 601
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    研究の目的: 河川システムは山地から土砂礫などの供給を受け、摩耗や分級作用をほどこしながら運搬し、平野や海に堆積させる。ダムでトラップされた土砂礫の量、河床砂礫の粒度組成など断片的なデータは得られているが、河川システムが一定の期間に供給を受ける全土砂礫の量や粒度組成、任意の点における運搬量や粒度組成、堆積させた全土砂礫の量や粒度組成はほとんど観測が困難であり、それらを的確に把握することはいわば地形学の夢である。
     このように現在のプロセスは的確には捉えられないが、河川は扇状地や三角州をつくり、また段丘地形を形成する。地形が進行形として形成されるのを見ることができるため、地形から成因や形成過程を推定することができる。現在は過去の鍵であると言われるが、その意味で地形学は地学の基礎的知見を提供できるはずである。しかしそれは定性的なレベルにとどまっている。なぜなら地形形成のプロセスと形態が定量的に関係づけられているわけではないからである。
     そこで、ここでは地形発達シミュレータを用いて、模擬的に地形学の夢を実現させてみたい。いわば、人工降雨による模型地形の変化に関する実験、のようなものをコンピュータの中で行ってみる。
     この研究は現実河川に関する観測ではなく、地形発達シミュレータの中の仮想地形に関わるものである。だから無意味であると考えるのではなく、河川地形をトータルとして捉えようという方向性を理解してもらいたい。
     近代地形学成立期にGilbert, Davis, Penk らが目指した方向性を見失ったまま、細かい事象の分析や記載を行うだけでは、科学としての地形学は消滅してしまうかもしれない。その意味で、地形発達シミュレータは地形学教育における教材としての意義もあると考えている。
    シミュレーションのモニター項目: このシミュレーションでは任意の時間に、標高、勾配、残存する最古の火山灰層の年代(テフロクロノロジー)、軟弱層(非固結層)の厚さ、水系図などの地図を出力できる。また100年間の浸食・堆積深(地形変化の速さ)も地図となって出力できる。
     このシミュレーションでは質量保存則を厳重に守っているので、物質移動によってのみ地形変化が起こるという、地形学の大原則は満たされている。そこで、斜面から河川・海へ領域を越えて移動する砂礫流量、および河川から海に移動する砂礫流量を集計してモニタリングした。これらの量は対象陸地の平均浸食速度そのものである。また拡散係数が基盤岩と堆積物で大幅に変わることから、斜面および河床における基盤岩露出率もモニタリングした。
    結果: 地形発達史の考えにたち、気候・火山灰降下・基準面(地殻運動)を、河川システムの外部独立条件として変化させる。それによって、河川へ供給される土砂量が変化し、運搬されて堆積する場や土砂量が応答し変化する。そして結果として地形(扇状地・三角州)が形成される。
     コンピュータを用いたシミュレータであるので、この変化に伴う量的な変化は完全に把握できる。何よりも実験に要する労力と費用が少なくて済むというメリットがある。
     以上のデータから、外部条件の変化によって、河川システムがどのように応答するか、そして結果として、どのような地形が形成されるか、を示すことができた。また地形変化はアニメーションで観察した。   
  • 深野 麻美, 春山 成子, 桶谷 政一郎
    セッションID: 602
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    背景と目的
     東南アジア最大の湖であるトンレサップ湖は、水位の季節変動が大きく、雨季と乾季で湖面積が5~6倍違うとされる(Lamberts et al. 2006)。このことから、湖底や湖岸は特異な堆積環境であることが予測される。同湖岸北西地域は、沿岸から順に湿地、湖沼堆積面および三角州堆積面、沖積堆積面、ペディメントが、湖より約40km北方のクーレン山まで続く。
     湖より約15~25km北方のアンコール地域の地質環境については、完新統・更新統の層序が大まかに区分され、表層から10~20m深までの表層部分は更新世後期以降に堆積したものと推測される。また、トンレサップ湖湖底では湖底堆積物を用いて完新世後期の環境復元が行われ、約5500年前に湖の季節的水位変化が始まったと解釈された(Okawara and Tsukawaki, 2002)。しかし、アンコールコンプレックスを含む遺跡のある地形面と湖底面の間にある湖岸の低地部分における地形や堆積物に関する研究については、湖水面変化による影響を受けていて、環境復元を考える上で重要な地域であるにも関らず、行われていない。
     そこで本研究では、トンレサップ湖の湖岸北西地域における地形面区分と各地形面の地下構造より、同地域の完新世における地形発達について明らかにする。
    方法
     SRTM3-DTED、航空写真(縮尺1/20,000、パンクロマティック、1992~1993年乾季撮影)、1/100,000地形図、ハンドオーガを用いて採取した表層試料(最大3m深)より、地形分類図を作成した。また、この表層試料と機械式ボーリングを用いて採取したオールコアボーリング試料(10m)の分析(粒度、EC、pH、14C年代測定)を行い、堆積環境の推定を行った。EC、pHは10mコアにおいてのみ行った。
    結果と考察
     この地域は北側より順に、扇状地I、扇状地II、湖岸段丘I、湖岸段丘II、湖岸湿地と大きく地形区分できる。扇状地IIの前縁は、湖岸線に沿った砂州が認められる。砂州より湖側には湖岸段丘I、IIが続く。湖岸段丘IIは、湖面が年間最高水位を示す時期(9月~11月上旬)にのみ冠水する。湖岸湿地は雨季と乾季初旬までの期間(6月~12月くらい)において冠水する。当該地域での主要流入河川(シェムリアップ川、ロリュオス川)沿いでは上流側から、山麓緩斜面、扇状地I、三角州が形成されていることがわかった。三角州の末端は湖岸湿地の背後または湖岸段丘IIまで延びている。また、既存の湖面測深図から湖岸湿地の前縁には幅約7kmの湖棚がほぼ南北方向に広がっていることがわかった。
     表層地下地質については以下の通りである。湖岸段丘IIに近い湖岸湿地上で河成堆積物とみられる黄褐色ないし灰褐色粘土質砂層が深度0.3~0.6mで認められた。これと14C年代測定結果と合わせて、3500 cal yr BPにおいて湖岸湿地は河川堆積物による影響を受けていたことが推測される。また、湖岸段丘I、IIでは深度1~2mに鈍赤褐色砂質粘土層が認められる。粒度組成から考えると、この層は湖沼堆積物と推測され、湖岸段丘IおよびIIはかつて湖水面であったと考えられる。
     5500 cal yr BPにメコン川の水が現在トンレサップ湖のある低地に流入した(塚脇,2004)ことから、湖水準の変動は海水準の変動に対応したと考えられる。このときの湖水面は、雨季末期において湖岸段丘Iまで達していたことが解釈でき、この時期に湖岸段丘I、IIが形成されたと推測される。
     4000 cal yr BP以降、メコンデルタの海水準の低下にあわせて湖水準も低下し、扇状地Iが形成されるとともに三角州も形成された。
     また、シェムリアップ川下流にある三角州の末端が湖岸段丘Iの前縁までしかないことから、シェムリアップ川の土砂供給がある時期を境に停止したと考えられる。
     湖棚については過去の低位湖水準の時期に形成されたと推測される。
    参考文献
     D. Lamberts et al. (2006), Proceedings of the Second International Symposium on Sustainable Development in the Mekong River Basin, 187-196
     OKAWARA, M. and TSUKAWAKI, S. (2002), Journal of Geography 111(3), pp.341-359
     塚脇真二(2004),日本熱帯生態学会ニューズレター, 56, 8-10
  • 海津 正倫, ナルカモン ジャンジラウッティクン
    セッションID: 603
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    はじめに
     熱帯・亜熱帯地域の海岸部には酸性硫酸塩土壌とよばれる酸性度の極めて高い土壌が広く分布することが知られており,農業生産において大きな問題となっている.これらの土壌の形成に関しては,その分布や土壌学的特性について数多く報告されているが,その形成環境に関する検討は十分にはおこなわれていない.
     本研究では,タイ中央平原(Lower Central Plain)における酸性硫酸塩土壌について,その形成環境を完新世における地形変化および古地理との関係のもとに検討した.
    研究方法
     中央平原(Lower Central Plain)の全域でおこなってきた約50地点でハンドボーリング結果にもとづいて表層地質を検討すると共に,うち数地点については堆積物の深度別酸性度を測定した.また,中央平原の中でも酸性硫酸塩土壌が顕著に分布するPathum Thani地域において酸性硫酸塩土壌の出現深度の異なる4地点を選んでピットを掘り,土壌断面の観察と土壌サンプルの採取を行って,電気伝導度,土壌構造などに関する分析を進めた.さらに,これらの結果と平野の表層資質の特質および14C年代測定結果に基づいて完新世後期における地形変化を明らかし,酸性硫酸塩土壌の分布との関係を検討した.
    調査地域
     研究対象地域は、タイ中央部の中央平原(Lower Central Plain)である。本地域は東西約160km,南北約,100kmの沖積低地で,北からChao Phraya川,北東からBang Pakong川,南西側からMae Klongが流下し,タイランド湾に注いでいる.低地の地形は大部分が三角州性で,臨海部には幅10~15kmにおよぶ潮汐平野がひろがる.低地の標高は大部分が海抜3m以下であり,臨海部の潮汐平野では1m以下の土地も広く分布する.
     中央平原を構成する沖積層は軟弱な泥質堆積物および泥炭などからなり,平野中央部では20 m以上の層厚をもつ粘土層が厚く堆積しており,完新世の海面高頂期にはほぼ全域が拡大し,古タイランド湾が形成されていた.
     中央平原の表層地質は,下位から無層理のきわめて軟弱な海成粘土層,有機物および極細砂の薄層を数多く挟在するシルト層,黄斑・赤褐色斑紋や植物片が点在する灰色シルト質粘土,暗褐色表土層からなり,北東部のNakhon Nayokや北西部のSuphanburiなどの地域では下位の海成粘土層を欠いて更新統の堆積物の直上に灰色シルト質粘土層におおわれる顕著な泥炭層が見られる所も多い.また,それらの年代値は約6500-7000 cal yrBPを示している.
     タイ中央平原における酸性硫酸塩土壌はAyuttaya, Pathum Thani, Nakhon Nayokなどの地域に広く分布しており,とくに平野の北東部および南東部に顕著に見られる.しかしながら,平野の中央部および南部では酸性硫酸塩土壌がほとんど発達していない.
     また,土壌断面におけるPH4以下の酸性度の高い部分は,有機物および極細砂の薄層を数多く挟在するシルト層とその上の黄斑・赤褐色斑紋や植物片が点在する灰色シルト質粘土の部分にあたり,軟弱な海成粘土層の部分ではPH7あるいは8であることが多い.一方,海成粘土層および有機物および極細砂の薄層を数多く挟在するシルト層の部分では電気伝導度の値が高く,海成あるいは汽水性の環境を示唆するのに対し,その上の灰色シルト質粘土の部分は伝導度の値が低く淡水環境で堆積したことが示された.
    考察および結果
     酸性硫酸塩土壌が顕著に発達する地域は後氷期海進によって拡大した古タイランド湾の最奥部にあたっている.その分布域は完新世中期の潮汐平野や浅海底の部分にきわめて良好に一致しており,当時のマングローブ林の分布を示す泥炭層の分布域で顕著に見られることが明らかになった.しかしながら,堆積物中の酸性度の高い層準は海成層ではなく,当時の潮間帯の環境に堆積したと考えられる層準とそれを覆う河成堆積物の部分にあたっている.また,酸性硫酸塩土壌の分布域は,表層近くまで海成層あるいは潮間帯堆積物が堆積している中央平原中央部や南部には及んでおらず,硫酸塩の起源となるイオウを多く含む海成層あるいは潮間帯堆積物の存在が直接的に酸性硫酸塩土壌の分布と対応するのではないことが明らかになった.
     すなわち,地下水位の浅い平野南部では表層付近まで還元状態となっているために酸性硫酸塩土壌がほとんど発達しない.これに対して,完新世中期の海岸線付近では地下水位の変化のために酸化現象が起こり,顕著な酸性硫酸塩土壌が発達するほか,それを覆う河成堆積物でも毛管現象によって移送された硫酸塩が酸化することによって,顕著な酸性硫酸塩土壌が形成されると考えられる.
  • 谷川 晃一朗
    セッションID: 604
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I.本研究の研究対象地域と目的
     兵庫県を北へ流れ日本海に注ぐ円山川は最下流部に平野がなく,川沿いの沖積低地は非常に低平で,縄文海進時には広い内湾が形成されていたと考えられている.本研究は,円山川の中・下流域と,円山川支流の出石川流域を研究対象地域とし,当該地域における,沖積層の層序と最終氷期以降の古地理の変遷について明らかにすることを目的とした.
    II.方法
    1)研究対象地域の地形分類図の作成や,貝塚や低地の遺跡,条里制の分布などを調べる.
    2)既存のボーリングデータを収集し,地質断面図を作成する.
    4)既存のボーリングやハンドオーガによるボーリングから得たコアサンプルのイオウ含有量の分析と貝化石の同定を行う.
    5)ボーリングコア中の火山灰の同定や,14C年代測定を行う.
    6)以上の結果を総合し,研究対象地域の最終氷期以降の海岸線の変化を中心とした古環境の変遷を明らかにする.
    III.結果
    1)研究対象地域の地形の特色
     円山川中・下流域の地形は山地と沖積低地が明瞭なコントラストを示し,沖積低地内には円山川・出石川沿いに旧河道や自然堤防が分布しており,旧河道は大きく蛇行している.
    2)沖積低地の開発
     豊岡盆地内では縄文時代~古墳時代の遺構はほとんど確認されておらず,沖積低地への進出が遅かった可能性が高い.奈良時代以降は条里制地割が盆地内に広く分布し,氾濫原や後背湿地などで大規模に水田が拓かれていった.
    3)沖積層の層序
     研究対象地域の沖積層は下部から基底礫層(BG),下部砂泥層(LS),中部泥層(MM),上部砂層(US),最上部泥層(UM)に区分することができる.沖積層の層厚は円山川河口部で約60m,豊岡盆地中央部で約40mである.海成層とみられる中部泥層は盆地地下では約20mの厚さで,円山川では河口から21km付近まで,出石川では円山川との合流点から8km付近まで分布している.また中部泥層下部あるいは下部砂泥層中部に鬱陵隠岐火山灰,中部泥層中部に鬼界アカホヤ火山灰がみられる.
    IV.最終氷期以降の古地理の変遷
    (1)最終氷期の最大海面低下期
     古円山川は当時の海面に対応し,河口部で-60m以深の谷を形成していたが,顕著な古円山川の埋没谷は認められなかった.
    (2)約10000cal.BPごろ
     海岸線は円山川河口から13~14km付近,現在の豊岡市街地に達していたと考えられる.
    (3)約8000cal.BPごろ
     海岸線は円山川河口から19~20km付近,出石川の円山川との合流点から6~7km付近にあったと考えられる.
    (4)約6800cal.BPごろ
     相対海水準は0.3~0.9mの間にあり,海岸線は円山川河口から21~22km付近,出石川の円山川との合流点から7~8km付近にあったと考えられる.海岸線は,海成層の分布や先行研究の結果から,縄文海進最盛期を示すものと考えられる.
    (5)約2000cal.BPごろ  海岸線は円山川河口から10km付近にあったと考えられる.
  • 石原 武志, 須貝 俊彦, 水野 清秀, 八戸 昭一, 松島 紘子, 久保 純子
    セッションID: 605
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     荒川低地の沖積層を対象として様々な研究が行われている(遠藤ほか,1983; 大矢ほか,1996など).特に縄文海進期に内湾が拡大した荒川低地の中・下流域については,沖積層の層序や,海岸線の位置が報告され(安藤ほか,1997),地形発達の概略も明らかになってきた.しかし,内湾の影響が直接及ばなかった荒川低地上流部については不明な点が多く残されている.
     本研究では荒川低地上流域において,ボーリングデータから沖積層の層序を検討し,下流域の層序と対比して,荒川低地全域における一連の沖積層の層序と堆積環境の変遷を明らかにすることを目的とした.
    2. 調査地域および調査手法
     荒川低地は西を武蔵野台地に,東を大宮台地に限られ,埼玉県の中央部を北西-南東に延びる低地である(Fig.1).本研究では埼玉県吉見町以北を上流域,川島町以南を中・下流域と呼ぶ.
     用いた資料は,産総研が熊谷市南部の大芦橋付近で掘削した,深度173mのGS-FK-1コア,深度20~25mのOS-A,Bコア(水野ほか,2004)と,東大が簡易掘削した吉見町北部のボーリングコア(MZ1~3, HZ1~4, JT1,深度5~8m),および周辺地域の柱状図データである.各コアの観察・記載,粒度分析,色相および帯磁率測定を行い,14C年代測定結果と合わせ層序区分を行った.さらに,既存柱状図データと比較し荒川低地上流域の沖積層の層序を区分した.中・下流域については遠藤ほか(1983),安藤ほか(1997)を参考にし,特に,内湾拡大期に堆積した海成層に着目し,上流域の層序と対比した.以上より,荒川低地上流域から中・下流域の縦断面図(Fig.2)を作成した.
    3. 結果
     GS-FK-1,OS-A,Bコアの沖積層は下位からG1u,S1l,S1m,S1uの各層に区分される(水野ほか,2004).G1u層は中礫を主体とする.S1l層は下部に礫混じり砂層を伴うシルト~砂質シルト層である.本研究では,下部の砂層をS1l1層,その上部のシルト~砂質シルト層をS1l2層に細分した.S1l2層で得られた14C年代値は5800~7800yBPである.S1m層は粗砂層からなり,小礫を含む.S1m層では,OS-A,Bコアから3800yBP程度の14C年代値が得られている.S1u層はシルト~砂質シルトを主体とし,腐植質層も挟む.S1u層では2050~2780yBPの14C年代値が得られている.また,吉見町北部MZ2コアにおいては,深度3.57~3.61mの泥炭層(S1u層基底付近)から3760yBPの年代値を得た.
     以上のコア層序をもとに,荒川低地上流域の沖積層は次のように層序区分される.荒井橋付近から大芦橋付近にかけては,下位からG1u層,S1l1層,S1l2層,S1m層,S1u層が累重する.大芦橋以北では,S1l1層は砂礫層と推定されるが,柱状図データからはG1u層との境界は不明瞭なため,ここではG1uに含めた.G1u層の上位には各層が累重するが,久下橋より上流は現成の扇状地礫層からなり,S1m層とS1u層の区分は困難である.
    4. 考察
     荒川低地中・下流域の沖積層は安藤ほか(1997)により,下位から 珪藻帯によって1帯,2帯,3a帯,3b帯,4帯,5帯に区分されている.1・2帯は淡水域の珪藻帯であり,1は沖積層基底礫層に,2はいわゆる七号地層に対比される.3帯は海進期および海域の珪藻帯,4帯は海退期の珪藻帯,5帯は陸成の沼沢や湿地の珪藻帯であり,3~5帯は有楽町層に対比される(Fig.2).以上の各帯と先に区分した上流域の各層を対比した.水野ほか(2004)はG1u層を沖積層の基底礫層としていることから,G1u層は1帯に対比できる.2帯は主に氾濫原堆積物からなる砂泥互層で,G1u層の上位のS1l1層に概ね対比される.3・4帯は内湾拡大期の海成層であり,内湾最奥部の川島町において8600~6800yBPの年代値が得られている(安藤ほか,1997).一方,上流域ではGS-FK-1,OS-AコアのS1l2層から7800~5800yBPの年代値が得られている(水野ほか,2004)ことから,S1l2層は3帯に対比される.S1l2層はコアの層相から氾濫原堆積物と考えられ,当時海岸線の進入に伴い氾濫原の範囲が上流域に後退したことが示唆される.5帯はデルタフロントを構成する上部砂層と,それを覆う氾濫原堆積物を構成する最上部層に細分される.安藤ほか(1997)は,6800yBP以降内湾域は後退し,5500yBPの海岸線は浦和付近にあった可能性を指摘していることから,内湾を埋積した上部砂層は主に6800yBP以降に堆積したと考えられる.上流域においては,S1l2層の上部から5840yBPの年代値が得られていることから,S1l2層の一部とS1m層が上部砂層に対比される.氾濫原堆積物であるS1u層は,中・下流域の最上部層に対比される.
  • 若林 徹, 須貝 俊彦, 笹尾 英嗣
    セッションID: 606
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    【背景】現在伊勢湾の底質堆積物中において,重金属類の分布は湾奥部で濃度が高く,湾口部に向かって濃度が減少する傾向が認められる(銅の例をFig.1に示す).一方,陸上堆積物中において,都市域で濃度が高く,上流側で濃度が低い傾向が認められる(今井ほか,2004,Fig.1).これらの分布は,人為起源によるものと自然起源によるものとが合わさった結果であると考えられ,人為起源物質の負荷を正しく評価するためには,自然状態における元素の濃度分布およびその時間変動量を知ることが重要である.
    【目的】本研究では濃尾平野で掘削されたボーリングコアを用いて,自然起源の重金属元素の地理的分布の変遷の復元と評価を行うことを目的とする.
    【試料および方法】本研究では上流側から,扇状地,自然堤防帯,デルタの拡がる日本を代表する沖積低地の一つである濃尾平野において掘削された5本のボーリングコア(上流側からAN,KM,NK,KZN,YM,Fig.2)を用いた.沖積層は岩相区分により下部から河川堆積物である下部泥砂層LSM,内湾性堆積物である中部泥層MM,デルタ堆積物である上部砂層US,氾濫源堆積物である最上部層TSMに区分される.各コアから約1m間隔で,全199試料採取し各分析を行った.元素分析(As,Cu,Ni,Pb,Znの5つの重金属元素およびAl2O3)を波長分散型蛍光X線装置(WD-XRF,ZSX PrimusII,RIGAKU),粒度組成をレーザー回折分散型粒度分析装置(SALD3000S, SHIMADZU),鉱物組成をX線回折装置(XRD,Multiflex,RIGAKU)を用いて実施した.
    【分析精度】日本原子力研究開発機構の誘導結合プラズマ質量分析装置(ICP-MS,SPQ9200,Seiko Instruments Inc)により実試料20試料を分析し,XRFでの分析値と比較することにより分析精度を検討した.ICP-MSの値を真値,WD-XRFの値に含まれる誤差は正規分布に従うという条件下において,Asでは1.6ppm,Cu 2.4ppm,Ni 1.0ppm,Pb 3.9ppm,Zn 11.2ppmの誤差を含む.
    【重金属の存在形態】XRFにより.測定した各重金属元素(ppm)およびAl2O3(%),粒度分析による中央粒径(φスケール)および堆積物中の粘土・シルト画分の合計値(%),XRDの分析チャートのピーク強度から定義した粘土鉱物の相対的ピーク強度〔粘土鉱物のピーク強度/(石英のピーク強度+粘土鉱物のピーク強度)〕に関しては,それぞれの間に正の相関が認められた.このことから重金属元素含有量は粒径に依存しており,その多くが粘土鉱物に吸着されていることが示唆された.また,重金属汚染は蓄積性であると駒井(2007)等で言われている通り,完新世においても堆積した後の再移動は考えにくいことが示された.
    【自然供給量の変動】14C年代法に基づいた堆積曲線(Ogami et al. 2006)を用いて5本のコアの深度を時間に変換した. Fig.3に縦軸に年代を,横軸にCu含有量の変遷を表した.含有量は粒径に依存し,また地域的な差がある.約1万年前から1,000年前までほぼ一定の幅で変動しているが,現在は変動幅が非常に大きい(Fig.3).自然状態における変動内で説明のできない濃度を示す範囲は汚染が生じている可能性があると言える.Fig.3の結果からCuの場合には0~50ppmの変動は自然状態で起こりうると考えられるので,今井ほか(2004)の階級値で49ppm以上のグレーから白色部分は汚染の生じている場所である可能性がある.
    【地理的分布】コア掘削地点における1,000年ごとの同時代面での重金属元素濃度を求め,GISソフト(ArcGIS9.2)を用いて逆距離加重法(IDW)により地理的分布を描いた.Cuの例をFig.2に示す.凡例の階級値はFig.1と同一とした.過去8,000年前から1,000年前にかけて全体的に濃度差は認められず,濃度分布のパターンにも違いはほとんど認められなかった. Fig.1の陸上とFig.2のTSMとの比較では,現在の都市域で特に前者の濃度が高くなっている.都市域での汚染物質による負荷および上流側での汚染はほとんど生じていないことが示唆された.次に,Fig.1の伊勢湾とFig.2のMM(8,000年前,7,000年前)との比較では,Fig.2よりも湾奥部において重金属濃度が高い.湾奥部における河川を経由した人為起源物質の負荷が示唆され,汚染は湾口部まで及んでいないことを示唆する.
    【引用文献】今井ほか(2004)日本の地球化学図,産業技術総合研究所地質調査総合センター,pp.157-165,海上保安庁(2005)海洋汚染調査報告第33号,pp.16-17,駒井(2007)地学雑誌,pp.853-863,Ogami et al.(2006)Abstract, 17th ISC,O-262
  • 大上 隆史, 田力 正好, 安江 健一, 丹羽 雄一, 須貝 俊彦
    セッションID: 607
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    濃尾平野の沖積層と庄内川
     濃尾平野には木曽川などの諸河川が流入し,これらの河川によって複合的に沖積低地が発達している.濃尾平野の完新世における地形発達に関して多くの研究がなされているが,多くは流入河川のなかで最も河川流量・土砂運搬量が大きい木曽川に主眼がおかれている(たとえば山口ほか,2003).庄内川については地形分類にもとづいた研究がおこなわれているが(たとえば安田,1971;春山・大矢,1986),沖積層を貫くコア観察にもとづく時間軸を入れた地形形成に関する研究は進んでいない.
     前述のように濃尾平野は複数の河川によって複合的に埋積されており,庄内川に沿う沖積層の発達過程を復元することは濃尾平野の3次元的な発達過程を考察する上で重要な知見を与えると期待される.濃尾平野内において庄内川に沿う場所で掘削された複数のオールコアボーリングとそれらから得られた年代試料にもとづく地形・地質断面とプログラデーションについて報告する.

    ボーリング掘削地点および分析手法
     庄内川の流路・旧流路に沿って掘削された4本のオールコアボーリングの解析を行った.ボーリング掘削地点は上流より,北名古屋(KNG:庄内川による自然堤防帯),西清洲(NK:木曽川の派川である五条川の自然堤防帯),美和(MW:自然堤防帯の最下流部),弥富(YM:江戸時代に干拓されたデルタ)である(図1).これらのコアは半割後,記載・写真撮影・粒度分析を行い,それぞれ完新統の部分について山口ほか(2003)の分類に従うユニット区分を行った.
     各コアから得られた年代試料について東濃地科学センターおよび地球科学研究所のAMSによって放射性炭素年代を測定した.測定された放射性炭素年代は較正プログラムCALIB(version 5.1, Stuiver and Reimer, 1993)を用いて暦年較正を行い,得られた年代値を用いて堆積曲線を作成した.

    庄内川に沿う濃尾平野沖積層のプロファイル
     上記の4本のコアに,現在のプロデルタにおいて掘削された堆積曲線が得られている海底ボーリング(IB1:Masuda and Iwabuchi,2003)も加えて地形・地質断面図を作成した(図2).この図の断面線の位置は7~9世紀(約1,250~1,050 cal yrs BP)の庄内川の河道(安田,1971)にほぼ沿っている.計5本のコアの堆積曲線にもとづいて1,000年毎の等時間面を断面図中に描いた.7,000 cal yrs BP以降の等時間面はデルタの前進に伴うクリノフォームとして描くことができる.
     ユニットMM/US境界をデルタフロント到達とみなし,その年代を堆積曲線から求めた.その年代は上流部から下流部に向かって,KNGで7.4 ka,NKで6.5 ka,MWで5.2 ka,YMで1.3 kaである.これらと各コア間の距離をもとに,区間毎の庄内川に沿うデルタの前進速度を見積もった. 各コアおよび現在のデルタフロントの間の前進速度は,4.4 m/yr,3.8 m/yr,3.3 m/yr,6.2 m/yrと見積もられた.これは木曽川沿いのデルタの前進速度(Ogami et al, 2006)に匹敵する.発表では庄内川に沿うプログラデーションにもとづき,木曽川に沿うプログラデーションとあわせて,3次元的な濃尾平野の埋積過程について考察する.

    文献: 山口ほか(2003) 第四紀研究, 42, 335-346. 安田(1971) 東北地理, 23,29-36. 春山・大矢(1986) 地理学評論, 59, 571-588. Masuda and Iwabuchi (2003) Marine Geology, 199, 7-12. Ogami et al (2006) Abstract, 17th ISC, Fukuoka Japan, O-262.
  • 丹羽 雄一, 田力 正好, 安江 健一, 大上 隆史, 須貝 俊彦
    セッションID: 608
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     相対的海水準変動に対し、河川環境がどのように変化し、地形や地層を形成したかを解明するために複数のボーリングコアを用いた検討が濃尾平野においてなされている(山口ほか,2003; Ogami et al, 2006など)。本発表では、2006年度に日本原子力研究開発機構によって掘削された2本のボーリングコア(MW, KNG)の分析を中心に、濃尾平野西部における後期更新世以降の地形発達を検討する。
    2. 調査地域
     濃尾平野は西縁の養老断層系の活動により西に傾きながら沈降しており、過去90万年間の沈降速度は約1m/kyr、傾動速度は約0.86×10-4/kyrと見積もられている(須貝・杉山,1999)。このような大きな沈降速度に加え、木曽三川をはじめとする河川からの活発な土砂供給により、平野の地下には第四紀層が厚く堆積している。
    3. 調査方法
     上述の2本のコアに対し、岩相記載による柱状図の作成、レーザー回折式粒度分析装置(SALD-3000S; SHIMADZU)による粒度分析とSEM-EDS(JSM-6390LA; JEOL)によるテフラ分析を東大で、AMSによる14C年代測定を日本原子力研究開発機構で行った。
    4. 結果
     岩相、14C年代、テフラ分析から、2本のコアは下位から熱田層、第一礫層、濃尾層、南陽層(桑原,1980など)の順に区分される(Fig.2)。濃尾層は下部砂泥層(LSM)、南陽層は中部泥層(MM)、上部砂層(US)、最上部層(TSM)(山口ほか,2003など)に区分される。熱田層は、MWコアにおいてはラミナが発達し全体として上方細粒化する中砂~極細砂、その上位のシルト~粘土からなる。KNGコアでは、下位から砂礫互層、礫層、軽石と細砂の互層からなる。この層準の上位に礫層が見られ、第一礫層に対比される。濃尾層(LSM)はMWコアのみに見られ、下位は砂泥互層、上位では生物擾乱や貝化石を含む極細砂からなる。南陽層はMWコアでは濃尾層の上位に、KNGコアでは第一礫層を不整合に覆う。両コアとも下位からプロデルタ堆積物のMMに対比される泥層(KNGはやや砂質)、デルタ堆積物のUSに対比される砂質シルト~中砂、氾濫原堆積物のTSMに対比される砂泥層にそれぞれ区分される。 
    5. 考察
     KNGコア深度14.36~16.24mには、軽石層と細砂層の互層が堆積する(Fig.2)。軽石層はいずれも発砲した軽石型火山ガラスからなり、黒雲母を含む。これらのうち軽石が最も密集する3層準を対象としてSEM-EDSにより化学分析した結果、On-Pm1の摸式地(伊那東部中露頭試料)における値と調和的である(Table.1)。従ってこの軽石はOn-Pm1(100ka)に対比される。庄内川流域はOn-Pm1の降下域外であることから、この軽石はKNGコア掘削地点に木曽川が運搬した可能性が高い(Fig.1)。すなわち、この層準は、MIS5cの海面上昇期~高海水準期に堆積したと考えられ、下位の礫層はMIS5dの海面低下期の堆積物(福束砂礫部層)に対比しうる。上位の第一礫層との境界は不整合であることから、第一礫層はLGMへ向かう海面低下期に熱田面を掘り込んで堆積したと解釈される。
     MWコアにはLSMが厚く堆積するがKNGにはLSMが認められない。このことは、海面上昇期の堆積物が海面の上昇速度の停滞によって侵食された、あるいは、そもそもKNG地点にLSMがほとんど堆積しなかったという2つの可能性が考えられる。また、両コアにおいて完新世の海水準変動に対応したデルタのサクセッションが認められるが、KNGコアにおいてMMが全体的に砂質である。このことは完新世の内湾最拡大期にもKNGコア掘削地点には河口から掃流物質が供給される環境であったことを示す。

    文献: 桑原(1980) 第四紀研究,19,149-162. 須貝・杉山(1999) 地調速報,EQ/99/3,77-87.Ogami et al. (2006) 17th Int, Sedimentological Cong, abst, 143. 山口ほか(2003) 第四紀研究,42,335-346.
  • 岩崎 英二郎, 須貝 俊彦, 粟田 泰夫, 杉山 雄一
    セッションID: 609
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I.はじめに
     地球温暖化による沿岸環境への影響を予測するために,過去に起きた寒冷期から温暖期への移行過程の理解が要請されている.海洋酸素同位体ステージ(MIS)2-1とMIS 6-5は,酸素同位体比曲線に類似性が認められるため,堆積環境も類似していると考えられるが,両時代の堆積環境を比較した研究報告は少ない.そこで本研究では,濃尾平野南西部を対象として,MIS 6以降の堆積環境・堆積システムの復元を行い,MIS 6-5に相当する堆積層とMIS 2-1に相当する堆積層とを比較する.
    II.調査地域と対象コア
     濃尾平野は,西縁を画する養老断層によって西へ傾く傾動盆地であり,その傾動速度は約0.86×10-4/千年とされている(須貝ほか,1999 a).MIS 6以降における濃尾平野の地下層序については,桑原(1968)・古川(1972)などによって,下位から第二礫層・熱田層・第一礫層・濃尾層・南陽層とされている.また,濃尾平野は約90万年間以上約1m/kyrの大きな速度で沈降を続けているため堆積空間を付加し続け,本流河川の土砂供給が活発であるためグローバルな海水準を記録し得る(須貝ほか,1999 b).
     本研究に用いたコアは,大山田コア(以下OYDコアと記す)と埋縄コア(以下UZNコアと記す)の2本である. 1996年に地質調査所(現活断層研究センター)によって掘削され,いずれも桑名・養老断層の下盤側,木曽川デルタ下流域に位置する(Fig.1).OYDコアは,現在の海岸付近である三重県桑名市播磨町の,標高1.53m地点から深度115.0mまで掘削された.UZNコアは,三重県三重郡朝日町埋縄の標高10.49mの地点から深度94.0mまで掘削された.分析内容は,ボーリングコアの観察・記載,既存の14C年代値による時代決定である.
    III.結果
     2本のコアを,岩相に基づいて,10のユニットに区分した(Fig.2).G2・G1は開折谷を埋める河川性の礫層,AB・NBは河川流路と氾濫原の堆積物である主に砂礫層,ALB ・NABは貝化石を含む内湾に堆積した主に泥層,ALM・NAM はデルタフロントの前進によって堆積した主に砂層, AU は砂礫層を主体とし,シルト層を挟む陸成層,NATは氾濫原に堆積した砂礫層である.またこれらのユニットは,G2が第二礫層,AB・ALB・ALM・AUが熱田層,G1が第一礫層,NBが濃尾層,NAB・NAM・NATが南陽層に対比される. UZNコアではNBが欠けている.
    IV.考察
     観察記載の岩相に基づき, 2本のコアは1つのシーケンス境界と,2つのラビーンメント面を認定した.また,一部のユニットを除いて,網状河川システム・内湾デルタシステムの2種類に分けられる(Fig.2).UZNコアのALBが一様な細粒堆積物から構成されるのに対し,NABは礫や粗砂を含む極細粒砂から構成される. MIS6-5の内湾の拡大範囲が,MIS2-1の拡大範囲よりも大きかった可能性を示唆する.AUに関して,さらにその堆積環境・システムを詳細に解析する必要がある.
    文献
    須貝・杉山(1999a) 深層ボーリング(GS-NAB-1)と大深度地震探査に基づく濃尾傾動盆地の沈降・傾動速度の評価,地調速報,EQ/99/3,77-87. 桑原(1968)濃尾盆地と傾動地塊運動,第四紀研究,7,235-247. 古川(1972)濃尾平野の沖積層,地質学論集,7,39-59. 須貝・杉山・水野(1999 b)深度600mボーリング(GS-NAB-1)の分析に基づく過去90万年間の濃尾平野の地下層序,地調速報,EQ/99/3,69-76.
  • 菊池 慶之
    セッションID: 610
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     郊外地域への経済的機能の立地は,近年の都市研究における中心的なテーマの一つであり,豊富な研究の蓄積がなされてきた.中でも,オフィス機能の郊外地域への立地は,都市圏外周部に新たに求心力のある業務核を形成し,都市構造を根本的に変化させる可能性がある.加えて,都市内部構造は,産業構造の転換や交通網と情報通信の発達によって,絶えず変化しており,研究の視角やアプローチ法も多様である.そこで,本発表では,この分野における内外の研究動向を整理し,その傾向と今後の課題を明らかにすることを目的とする.

    2.欧米における研究の動向
     郊外化の進行が最も早かった北米では,経済的機能の郊外立地に関する研究も多く,多様な観点からの分析がみられる.この中で特に主要な視角は,郊外に形成された業務核の自立性に関するものといえよう.例えば,Garreau(1991)は,郊外地域に形成されたオフィス・商業の集積地を「エッジシティ」と呼び,その成長が都市構造を多核的にすると指摘している.さらに,この流れで,Bingham et.al.(1996)は,「郊外依存仮説」を提唱し,アメリカの大都市では,もはや中心市が「エッジシティ」に依存する段階に入ったと結論付けている.
     一方,欧州においても同様の観点から,郊外の業務核に関する研究がなされているものの,その視角は多様であり,「エッジシティ」の存在自体への疑義も存在する.また,大都市の大規模な郊外業務核ばかりではなく,中小都市の郊外に形成される「サブセンター」にも分析対象が及んでいる(Gaschet,2002).この点は,中小規模の都市が高密度に分布する日本の地方都市とも類似し,フレームワークを応用し得ると考えられる.

    3.日本における研究の動向
     日本における経済的機能の郊外地域への立地に関する研究は,工業・商業機能が中心になされてきたが,1980年代末以降オフィス機能に関心が集まるようになってきた.これは,日本においても本格的な郊外型の業務核が形成され始めたことと軌を一にするものである.
     近年の研究動向を整理すると,経済的機能の都心から郊外への移転に焦点をあてたスピンアウトに関する研究と,郊外核の高次化・多核化といった特性の変化に関する研究とに大別できる.ただし,いずれの視角においても,立地要因の分析が中心になされており,都市圏全体の中での郊外核の位置づけに言及するものは少ない.

    4.今後の課題
     経済的機能の郊外立地に関する研究は,中心と周辺という二元論から,郊外地域における業務核の成長に起因する多核的都市構造論へと展開されてきた.しかし,日本においては,個々の郊外業務核における実証的研究が多く,都市圏全体を捉えるフレームワークの検討が十分になされてきたとは言い難い.また,1980年代末に生じたバブル経済や,東京一極集中などの,日本の都市独特の要素が,郊外核の盛衰に与えてきた影響を考慮することも今後の重要な課題である.

    文 献
    Bingham R. D, Kalish V. Z. 1996. The ties that bind: Downtown, suburbs and the dependence hypothesis. Journal of Urban Affairs 18: 153-171.
    Garreau J. 1991. Edge city: Life on the new frontier.Doubleday, New York.
    Gaschet F. 2002. The new intra-urban dynamics: suburbanisation and functional specialisation in French cities. Papers in Regional Science 81: 63-81.
  • 秋田市中通一丁目地区再開発事業を事例として
    金谷 亜美
    セッションID: 611
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     1970年代以降のモータリゼーションの進展に伴う郊外型大規模小売店舗の出現や,消費者のライフスタイルの変化等により,地方都市の中心市街地における商業が衰退し,空き店舗が増加していることが話題となって久しい.加えて,都市人口の増加に伴って市街地が将来拡大することを見越し,学校・病院を初めとする公共施設の郊外移転政策が全国的に進められた結果,地方都市の中心部には多くの遊休地が生まれ,空洞化が進んでいる.
     まちづくり3法が制定された1998年以降,新たな都市計画の策定やそれに基づく中心市街地の再開発事業が全国的に展開され,この動きに関しては既に数多くの研究が蓄積されてきた.既存研究では行政は制度・計画によって再開発事業を規定する枠組みと捉えられ,主体として分析対象になるのはもっぱら商店経営者などの民間地権者であった.では,行政が地権者としても振る舞う場合,再開発事業はどのように展開するのであろうか.
     本研究では,大規模かつ最大地権者が県であるという特徴を持つ「中通一丁目地区再開発事業」を対象に,事業の過程で県・市・準備組合・商工会議所という4つの主体の関係がどのように変化し,結果として計画が遅れてきたかを分析した.分析を通して得られた知見を整理すると,次のようになる.
    ・人口減・高齢化が進行している地方都市中心部では消費市場がすでに飽和状態にあり,新たな大規模商業施設は必要とされていない.
    ・従って,商業系再開発だけでは十分なコンセプトを示すことができない.
    ・コンセプト不十分のもとで,都市計画決定権をもつ市町村において再開発地区が県有地であるということは,県・市の間に「権限の逃げ道」を発生させる.
    県有地である以上,遊休地状態を維持していても固定資産税が発生しないため,県も市も事業を急ぐモチベーションを持っていない.
    ・地元商業者とつながりの深い商工会議所も,再開発地区に土地を所有せず,直接の当事者でないため,市主導の協議会の場では事業の推進力になり得ない.
     しかしながら,事業推進を急ぐことが自己目的化してしまい,地域が需要していない施設が作られた場合,それは早晩経営破綻して,地域全体をより一層の地盤沈下に巻き込む危険性がある.これは,かつての「ふるさと創生事業」によって全国の自治体が無用なハコモノ施設を造り,その後の維持費に苦しんで結果的に財政難に陥った例からも明らかである.
     かといって,地区にとって適切な手法を模索している間,余剰空間をそのまま放置していては,やはり地区の周囲を含めた中心市街地の地盤沈下が進行する一方である.
     近年,秋田市の中央街区においては世帯数の若干の増加が見られ,住宅需要が増えつつあるが,この背景にあるのは地価の急速な下落であり,決して楽観視できる状況ではない.中通一丁目地区再開発の事業計画も住居系の複合施設建設へとシフトしているが,このことのみによって「土地活用の方向性が固まった」と判断することはやや早計である.「千秋公園と一体となった街なかオアシス」というコンセプトに基づいて作り出される空間が,地域住民にとって地価の下落以外に中央街区に居住する動機となり得るかどうか,今後見守っていく必要がある.
     空間が余っていく中での計画とはどうあるべきなのか―.秋田市の事例は,これからの地方都市が乗り越えていかなければならない空間利用の課題を浮き彫りにしてみせたと言えよう.もし,そこが公有の土地であることを活かすのであれば,たとえば暫定的な整備を行い,市民が柔軟にその空間を利用できるようにしておきながら,長期的な視点でその土地の利用方法を考えていくことも可能ではないだろうか.それこそが,地方都市における余剰空間の再利用に関して,行政側に求められる役割だと思われる.
     地域住民や地元商業者も,たとえ再開発地区に土地を所有せず,直接的な利害関係にないとしても,事業の中心的主体となる行政を後押しする,いわば「準主体」であることを自覚して,計画に積極的に参加していくことが必要となる.
     さらに,県・市双方の権限に逃げ道を許した都市計画法は,そもそも市街地において適切な開発を進めるために様々な規制を設けるものであり,都市計画決定された事業を実行に移すための枠組みを用意しているわけではない.今後は,市が事業決定権者であろうとも,県が一地権者として再開発へ積極的に関与しやすいような行政の仕組みづくりを考えていくことも必要と思われる.
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