日本地理学会発表要旨集
2008年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の280件中151~200を表示しています
  • 富山平野の土地利用に着目して
    米島 万有子, 渡辺 護, 二瓶 直子, 小林 睦生, 中谷 友樹
    セッションID: 725
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     富山県衛生研究所は,1968年から日本脳炎媒介蚊の捕集調査を実施している唯一の機関である.その調査報告をみると,この調査定点である富山市大井の牛舎と東黒牧の牛舎の年間総捕集数には,約20倍以上の差がある.そこで,本研究では,この2定点とその周辺の地域を対象に,定点間のコガタアカイエカの捕集数の差と周囲の土地利用との関係性を明らかにする.

    II 調査・分析方法
     対象地域内に13定点を設け,2007年8月12日~18日の7夜に渡り,CDCトラップを用いて蚊の捕集調査を行った(図1).翌朝,トラップの回収後に蚊の種の同定および集計作業を行った.また,定点周辺の土地利用については,2007年8月21日~28日,10月14日,15日に現地調査で把握した.そして,牛舎と牛舎以外の定点それぞれについて,半径50m以内および半径200m以内の土地利用地目別面積とコガタアカイエカの捕集数とで相関分析を行った.

    III 結果
     コガタアカイエカの捕集結果をみると,牛舎に設けた3定点のうち,定点8は5,546個体,定点5は1,740個体,および定点13では,132個体であった.この調査においても,大井と東黒牧の捕集数の間には,約13倍の差があった.一方,牛舎以外に設けた10定点では,捕集数が100個体を超えたのは定点6の101個体のみだった.
     まず,半径50mで土地利用地目別面積とコガタアカイエカの捕集数の関係をみると,牛舎の定点は畑に負の相関,牛舎に正の相関がみられたのに対し,牛舎以外の定点では,豆畑,屋敷林,水田,特にコシヒカリの作付面積に正の相関が認められた.そして,半径200mでは,牛舎の定点では、牛舎の正の相関と道路の負の相関がみられる一方,牛舎以外の定点では,牛舎のみに正の相関が認められた.

    IV 考察
     コガタアカイエカの捕集数と土地利用地目別面積との相関関係をみると,まず,半径50mでは,有意な相関がみられた牛舎は,規模が大きいほど,コガタアカイエカの誘引物質である炭酸ガスや動物臭,尿の排泄量が多くなる.すなわちコガタアカイエカが多く捕集されると考えられる.加えて,コガタアカイエカの生態に必要な発生源となる水田や休息場所となる豆畑や屋敷林が,大きく関係していると指摘できよう.それに対し,半径200mにおいては,半径50mと同様に牛舎の面積が影響すると考えられる.一方,主要道路が近ければ,交通量や舗装率の高さが乾燥を招くとともに,コガタアカイエカの移動を妨げることにより,コガタアカイエカの捕集数が少ないと推測できる.よって,大井が東黒牧より捕集数の多いのは,牛舎の周囲にあるコガタアカイエカの休息場所や発生源の面積が大きいからだと考えられる.

    V おわりに
     本研究で明らかにしたように,コガタアカイエカの捕集数において,半径50mでは,コガタアカイエカの休息および発生場所の多さが増加要因となった.また,半径200mの範囲では,牛舎の大きさが増加要因に,牛舎までにある飛来移動の障害物となる主要道路が忌避要因となった.
     今後は,土地利用のみならず,風向,気温などの微気候の調査を行い,コガタアカイエカの飛来の消長要因を明らかにしていきたい.

    本研究の一部は厚生労働科学研究費補助金(新興・再興感染症研究事業)により実施された。
  • 経済成長下のインドにおける国内周辺部の変動
    岡橋 秀典, 番匠谷 省吾, 田中 健作, チャンド R.
    セッションID: 801
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     1991年の経済自由化以降、インドはグローバル化の中で急速な経済成長をとげている。しかしながら、このような成長が、開発の遅れた国内周辺部にどのような変化をもたらしているのかについては、未だ十分な研究がなされていない。経済成長がインド国内の地域格差を拡大させているとの指摘があるだけに、この点の検討は重要である。本研究では、経済成長下の国内周辺部の変動の実態を、主に集落レベルの調査により多面的に明らかにすることを目的とする。対象地域は、インド北部の山岳州で周辺的性格の強いウッタラカンド州であり、対象とした集落は、高原保養地で人口約4万人を擁するナイニタルに近接するK村である。
    2.周辺地域としてのウッタラカンド州
     ウッタラカンド州はインドの北部の中央ヒマラヤにある山岳州(人口850万人、面積5.3万平方km)で、2000年に平原地域のウッタル・プラデーシュ州から分離独立して政治的自立を達成した。この地域は、かつては零細な自給的農業以外に経済的にみるべきものがなく、「マネーオーダー・エコノミー」(Khanka,1988)と称されるように、域外への出稼ぎ依存経済を大きな特徴としていた。したがって、近年のインドの経済成長の中で、このような周辺性の強い経済がいかなる変化を遂げているかが、検討のポイントとなる。この点に関わって重要なのは、農業の商品経済化に加えて、1990年代以降の国内観光需要の増大の中で、観光産業が一部の高原保養地だけでなく山岳地域に広く展開するようになったこと、また、ここ2~3年のことであるが、山麓の平地部で大規模な工業開発が州政府によって進められつつあることである。こうした動きは周辺性の強かったこの地域に大きな変貌をもたらすものと予想される。
    3.K村における近年の変化と周辺性
     K村はナイニタルから道路距離で約12km、車で約30分のところに位置する山村で、中心部の標高は1635m前後である。5つの小村に分かれるが、調査したのはその内の中心的な位置にある1集落で、総調査世帯数は89世帯であった。この村を選んだのは、2つの観光宿泊施設(リゾート)が立地していること、ナイニタルに近いためその成長の波及が予想されることによる。
     分析の結果、この村では経済面での周辺的性格が崩れつつあることが明らかとなった。雇用面では、従来の平地部への出稼ぎ(特に軍人や公務員が多かった)が大きく減少して、代わりに通勤可能なナイニタルでの教員・公務員、観光関係の雇用が拡大している。これに対して、外部資本や政府による観光施設での村民の雇用はあまり大きくなかった。また農業においては、通年の集約的な野菜栽培が広く普及し、また酪農協同組合の設立により牛乳生産が伸びて、収入の増加をもたらしている。以上のように、近隣の都市労働市場の意義が大きいが、出稼ぎ型就業者の年金収入も家計に一定の役割を果たしている。
     この村での急速な就業面の改善の背景には教育水準の高さが指摘できる。特にナイニタルにあるクマオン大学の高等教育を受けたものが多いことは特筆に値する。しかし、そうした卒業者の中に無業者や農業就業者がみられることは、潜在的失業問題の存在を示唆する。また文化的な面では、新聞購読率やテレビ視聴率が高くメディアを通じたグローバル化が進んでいるが、その一方で、観光開発による、湖の聖性の喪失、開発をめぐる土地問題、観光客の地元青少年への悪影響の懸念など、ローカルレベルの社会文化的コンフリクトが生じていることが注目される。
    4.結び
     K村の事例は、インドの国内周辺部が、外部依存の強い従属的な「マネーオーダー・エコノミー」から脱却し、より自律的で内発的な形態に移行する動きを示していると言える。しかし、ナイニタルに近く、また教育水準もきわめて高いことから、この事例をウッタラカンド州全体に容易に一般化できないことも事実である。この点で、さらに都市から遠隔の地域についても今後検討の要がある。その際、州全体に展開しつつある観光化が、外部資本による新たな支配従属関係の強化をもたらしていないか、社会文化や自然環境へのマイナスの影響により長期的な持続可能性を損なっていないかなどにも留意することが求められよう。
  • インドの経済成長と地方農村への影響
    荒木 一視
    セッションID: 802
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     近年のインドの経済成長については論をまたない。しかし,一部の大都市,あるいは大都市の一部分にのみ注目してインドの経済成長を論じることの限界はよく認識しておかねばならない。逆に一部の都市と農村との格差を強調するあまり,インドの後進性や経済成長のマイナスの側面のみの議論に終始することの問題点もよく認識しておくべきである。こうした問題意識から,いわゆる地方,特に農村部において,昨今取り沙汰されるインドの経済成長がどのような影響を与えているのかをミクロスケールの実態分析から解明することを試みる。具体的に本報告では,近在の工業開発の影響下での中小農民の起業に注目する。工業開発の農民への影響に関しては農外就業機会の提供という側面が既に指摘されている(荒木1997,岡橋・友澤2000,澤1997)。しかし,就業機会の増加という側面のみでは,極めて農村側の受動的な色彩が強く,むしろ近在の経済開発やそれにともなう就業機会の増加という状況下で村落住民はどのような能動的な動きをとったのかを検討する段階に来ているのではないかと考えた。そこで注目したのが中小農民による村内を基盤とした自営業の開始,すなわち起業であり,それは村落内のどのような変化を反映したものか,その背景にはどのような文脈を読み取ることができるのかを世帯レベルで分析することを試みた。具体的な起業の例として取り上げるのは集乳業と商店経営で,これによってインドの経済成長が地方の農村に与えた影響の一側面に迫りたい。
    2.調査村の概要
     1996年の調査では同村の世帯数は215,人口1,234人が確認された。2007年にはかつての215世帯は転出や消滅,世帯分割などを経て201世帯1,417人となり,加えてこの10年の間に新住民として新たに22世帯が転入した。なお,10年ごとにおこなわれるインドの国勢調査(Government of Madhya Pradesh, District Census Handbook)によると同村の人口は1971年に92世帯,639人,1981年に120世帯,836人,1991年に174世帯,1071人と報告されている。伝統的に村を構成してきたのはカティ,ビール,チャマール,バグリ,ブラーミン,ナーイー,バライ,パンチャルのジャーティグループである。村内に見られる自営業者としては伝統的なものを別として,農業関係の業種としては集乳業,ポンプ修理などが確認でき,他にも商店経営や仕立屋,自転車・バイクの修理業などがみられた。このうち1996年と2007年の2時点の調査の結果,中小農民の起業の例として顕著な変化が認められたのは集乳業と店舗経営であった。集乳業に携わる村民は1996年の1軒から6軒に,商店は同様に1軒から9軒に増加している。このように集乳業と商店経営への参入の増加は顕著であり,本報告ではそれを取り上げる。
    3.考察
     集乳業の場合は,全てがカティで学歴や所有農地の側面からは同一ジャーティ内においては平均的な位置にある世帯が多かった。ただ,土地を持たないものの多いビールなどと比べると相対的には上位にあるといえる。商店経営はカティ,ブラーミン,ビールの3つのグループで認められたが,比較的安定的に商店経営を続けるカティやブラーミンに比べて,ビールの経営状況は厳しいといえる。結果として,新たな起業は決して従来の村落内部の階層構造を撹拌しているとはいえない。むしろ,所有農地の有無や村外でどれほど有力な現金収入源を持っているかといったことが,起業とその後の経営の安定に影響を与えているといえる。例えば,近在の工業団地での就業経験のあるものが起業するという特徴がみられ,外部との接触機会,情報との接触機会という側面が,起業に影響をもたらしているといえる。なお,工業団地などでの農外就業に関わっては学歴が重要な役割を果たしていることが指摘されているが(荒木2001),集乳業や商店経営では,学歴の優位性は認められなかった。
  • 日野 正輝
    セッションID: 803
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.研究目的
     インドのヒマラヤ山間地には植民地時代にイギリス人が開発した避暑地(Hill Station)を起源とするリゾートが点在する。ウッタラカンド州東部クマオン地方の中心都市ナイニタルもその一つである。この種のリゾートをここではヒル・リゾート(Hill Resort)と呼ぶ。Tyagi(1991)はヒル・リゾートの変遷をモデル化している。それによると、ヒル・リゾートは植民市時代にはイギリスおよびインドのエリートおよび軍人が保養を目的に長期滞在する場所であった。そのほかキリスト教系の教育機関が立地する場所でもあった。インド独立後、インド人中間層の上層階層が休日を利用してレクレーションを目的に短期間訪問する場所となった。さらに、1970年代には中間層の下位階層も短期訪問者に加わった。
     ところで、1990年代のインドは経済自由化を契機にしてかつてない安定した経済成長を持続している。それに伴って、中間層が増大し、インドの消費市場を拡大させている。したがって、ヒル・リゾートにおいても、中間層の来訪者が増大し、リゾートに新たな変化をもたらしていると推察される。本報告はこのような認識に立ち、リゾートとしてのナイニタルの現状把握を試みたものである。調査は2007年9月に実施した。
    2.ナイニタルにおける宿泊客数の推移
     ナイニタルは、2001年現在人口38,630人と小規模であるが、ウッタラカンドの東部クマオン地方の行政の中心である。そのため、町役場のほかにDivisionおよびDistrictの行政機関が立地する。さらに、州の高等裁判所が立地している。ナイニタル市の行政域(12km2)は標高1938mの湖を2200から2600mの峰を持つ山地が取り囲む地形からなり、平坦地が地滑りなどで形成されたごく限られた面積しかない。住宅・ホテルのほとんどが斜面に立地する。
     近年の宿泊客数は1996年19万人から2001年36万人、2006年56万人へと大幅に増加している。宿泊客の99%がインド人からなる。このデータから、観光客は1990年代以降大幅に増加しているとみてよい。また、2000-06年間の月別の宿泊客は、6月が年間宿泊客数の23%を占めて最も多いが、閑散期の2月にも4%の宿泊客があり、年間を通じて観光客があると言ってよい。
    3. ホテルの状況
     町役場に登録された2007年のホテル数は138を数える。部屋数は2,980室となっている。ホテルは低料金のものから高級なホテルまで揃っている。多様な旅行客に対応できる構成になっている。上記したように宿泊客の増加は著しいが、ホテル数は増えていない。地形の制約から、ホテルの新設に限らず建築規制は厳しい。そのため、繁忙期には収容能力を上回る宿泊客が来訪していると推察される。近年、周辺地域でリゾート開発が進みつつある。
     上記の町役場に提出された資料に基づく従業員数は6,185人となっている。著者のサンプル調査から得られた従業者数と上記の資料の数値とでは大きな差があり、上記の数値には季節的雇用者も含まれていると推察される。そのことを考慮しても、都市の人口規模からして、ホテルは主要な雇用先になっていることは明らかである。また、いずれのホテルも野菜などは地元のマーケットから仕入れるなど波及効果も有している。
     従業者の大半は自県および隣接県の出身者からなる。従業員のほとんどが男性である。マネジャーおよび受付担当者には大卒者が多い。従業員の募集は新聞広告と個人的接触により行われている。ホテルによっては、同郷者が大半を占めるところもある。
    4. 観光客の特性
     観光客のアンケート調査結果からすると、観光客は地元とともにウッタル・プラデーシュおよびデリー都市圏在住者が多い。過半が家族ずれの旅行者である。単身の旅行者は少ない。回答者の多くは大学卒もしくは専門学校卒で、ホワイトカワーである。滞在期間は1週間以内がほとんどである。その点では、Tyagi (1991)が指摘した傾向がより強まっていると言ってよい。旅行目的は観光にあり、保養は少ない。

    参考文献
    N. Tyagi(1991):Hill Resorts of U.P. Himalaya: A Geographical Study. Indus Publishing Company( New Delhi), 312p.
  • インド・ウッタラカンド州を事例として
    友澤 和夫
    セッションID: 804
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.研究の背景と目的
     インドにおける工業の立地は,工業団地が主たる受け皿となっている。工業団地開発の主体は州政府であり,各州は工業団地開発公社を設けて,工業用地や関連インフラの整備を進めてきた。1980年代までは,新規の大規模な工業立地に対しては,政府が個別に誘導する方式を採ってきたが,90年代以降の自由化期になると,こうした政府の介入は無くなり,企業の意志によって立地場所が決定されるようになった。これは大都市郊外の工業団地への工業立地の集中をもたらした一方,立地条件に恵まれない州での工業化は遅れるという結果を生んだ。インド政府は,こうした工業化が遅れた州での工業立地を促進する政策を近年新しく策定しているが,中でも山岳州のヒマチャール・プラデーシュ州とウッタラカンド州の2州を対象とする新工業政策(2003年発表)が注目される。本発表は,この政策を背景に進められているウッタラカンド州の工業化と,実際の工業立地の特徴を論じることを目的とする。
    2. 新工業政策の概要
     新工業政策の目的は,立地企業に対して税制上の恩典を与えることにより両州の工業化を促進することにある。ただし,1)ネガティブ・リストに掲載され環境への負荷が高い業種(化学肥料,パルプ・製紙,プラスチックなど)と2)それ以外の業種の間で恩典に差が設けられており,後者に有利となっている。例えば,2)の業種は中央物品税が10年間完全免除となるのに対し,1)の業種には,この恩典は与えられない。また,所得税の減免も2)の業種に有利となっている。そして,園芸・花卉農業,ツーリズムなどと並んで,地元の資源を利用し地元に雇用機会をもたらす工業(食料品,絹製品,羊毛製品,製薬など)が,特に推進する産業thrust industriesに位置づけられている。ここに,自然環境に恵まれた両州にふさわしい工業化を促進しようとするインド政府の意図が読み取れる。
    3.ウッタランチャル州の工業化
     ウッタラカンド州は,2000年にウッタル・プラデーシュ州から分離して単独で州となった(当初はウッタランチャル州,2007年に名称変更)。同州の面積の約93%は山地であり,平坦地は7%を占めるにすぎない。しかし,州政府が実際の工業開発の場として選択したのは後者である。2000年以降に州工業開発公社SIDCULが造成に着手した工業団地は6つあり,デラドゥン県(2)とウダム・シン・ナガール県(2),ハリドワル県,パウリ・ガルワール県に所在している。いずれもシワリク丘陵の手前に広がるガンジス平原部か同丘陵内の盆地に位置し,ヒマラヤ山脈前縁部に帯状に連なっている。しかし,これら工業団地間を繋ぐ交通路の整備は不充分で,むしろ200~250km離れたデリーとの結びつきが深い。その点では,デリー首都圏工業の外延的な拡大の側面が強いといえる。個別にみれば,デラドゥン県の工業団地はITと製薬にそれぞれ特化しており,面積的にも大きくはない。一方,IIE(Integrated Industrial Estate)ハリドワルとIIEパントナガール(ウダム・シン・ナガール県)は総合的な工業団地であり,前者で814ha,後者で1,336haのスケールを誇る。
    4.IIEパントナガールにおける工業立地
     IIEパントナガールは,SIDCULが地元のパントナガール農業大学から用地を購入して造成したものである。ここに工業用地を取得した企業は397社あり(他に土地のリースを受けた工場あり), 2007年5月時点で92社が商業生産を開始している。食料品や製薬などの工場の立地も多いが,傑出した立地は自動車工業である。自動二輪車メーカーのバジャージ・オート社と総合自動車メーカーのターター・モーターズ社がともに2007年に工場を稼働し,商用車メーカーのアッショク・レイランド社も工場の建設に着手している。また,それら自動車工場に隣接してサプライヤー専用の分譲区域が設けられ,部品企業の集積も認められる。各工場は稼働を始めたばかりであるが,労働力の確保が最大の課題となっている。それは州政府が労働者に占める州出身者の割合を70%以上とすべきという通達を出したことによる。同州は工業労働市場のプールが小さいため,急速な工業立地に労働力の供給が追いつかない状態にある。
  • 由井 義通
    セッションID: 805
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.研究の目的
     フロントヒマラヤの山中の標高1938mに位置するナイニタールは宗教の中心都市として,またヒマラヤ地域の観光都市であると同時にHigh Courtなどの州政府機関が立地する政治都市でもあり,クマオン地域の玄関口としての経済的中心都市あるいは教育機関が集積した大学都市のひとつでもある。
     元来,イギリス人やコルカタやデリーなどの富裕層の避暑地として栄えたナイニタールは,近年の経済発展とともにインド人の観光行動が活発化し,大都市部のミドルクラスの観光客が大量に訪れるようになった。そのために,観光サービス業が発展し,雇用機会が増加することによって2001年には人口が38000人(1991-2001年の増加率は26.6%)に急増した。
     本研究の目的は,ナイニタール市を研究対象として,インドの経済成長がもたらした都市化によって自然保護地域の中での都市開発の実態と都市計画,居住世帯の生活状況の変容を明らかにすることにより,インドにおける都市開発実態や人々の生活について明らかにすることを試みるものである。
     現地調査は2007年9月に,都市開発関連の州機関LDA(Lake Development Authority)などで都市計画や都市開発の展開に関する資料収集を行った。また,不動産ディベロッパーからの聞き取り調査や住宅開発地域での戸別訪問によって住民の属性や生活様式に関する世帯調査を行った。
    2.ナイニタールの開発の歴史
     ナイニタールはイギリスに1815年に占領され,1847年までにヒル・リゾートとして,1845年には北西州(North West Province)の夏季州都として整備された。1963年以降はUP州の州政府役人の夏季駐在地である高原避暑地(hill station)として役目を果たすようになった。また,コルカタ(旧カルカッタ)やデリーなどの大都市の富裕層の避暑地として注目され,湖西側の森林には富裕層のサマーハウスが点在している。近年,デリーから約300kmの距離にあることから大都市地域からの観光客が増加し,ホテルの宿泊施設や各種観光施設の建設とともに,居住人口の急増によって急激な都市化が進行している。
    3.インドにおける都市再開発ミッション
     急速な都市化が進行するインドでは,都市問題の深刻化に対する対策が国家的課題となっている。それらへの対処のために第11次5カ年計画が出される直前に,インフラ整備や都市的サービス分配のメカニズム整備,都市内の貧困者対策,計画の持続可能性のための都市管理,密集した旧市街地の再開発計画など,国家レベルでの都市再開発計画であるJNNURM (Jawaharlal Nehru national Urban Renewal Mission) がインド中央政府の都市開発省から2005年に7年計画で出された。
     JNNURMのもとで中央政府と州政府の資金取得の資格を得たのは,A基準(2001年センサスで人口400万人以上の大都市),B基準(同100万~400万人の大都市),C基準(州の首都,宗教・歴史・観光的な重要都市)の3つの基準で選ばれたデリーと64都市である。ウッタラカンド州の他の2都市とともにナイニタールはC基準で選ばれ,都市整備と都市再開発のための都市計画が策定されることになった。JNNURMのガイドラインに合わせてナイニタールではCDP(City Development Plan)策定の準備に取りかかり,都市のインフラ整備や住宅状況,環境汚染状況などに関する予備調査が実施された。予備調査の結果をもとに作成されたナイニタールのCDPは,都市化と観光経済の成長に合わせたインフラ整備とともに,湖と都市周辺の森林の環境保全に取り組むことを主要目的として掲げている。
    4.ナイニタールの都市発展における課題
     今日のナイニタールでは,開発規制のある森林地帯にも都市化の波が押し寄せており,また湖の水質の悪化によって上下水道の問題など環境問題が深刻化している。年間50万人(2005年)に急増した観光客に対応できる都市設備整備など観光地としてのインフラの整備も課題となっており,観光の大衆化がもたらす影響への対処が課題となっている。
  • 韓国華人社会の変容の事例
    山下 清海, 尹 秀一
    セッションID: 806
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    問題の所在
     韓国は「チャイナタウンがない国」と呼ばれてきた。それは,第二次世界大戦後,韓国政府が国内の華人に対して厳しい政策をとって来たために,形成されたチャイナタウンが消滅したこと,あるいは新たなチャイナタウンが形成されなかったことを示している。
     しかし,1992年の韓国と中国の国交樹立を契機に,韓国における華人社会を取り巻く状況は大きく変化した。韓国と中国の間の貿易や人的な交流が深まるとともに,韓国政府や韓国人の華人に対する対応も変わってきた。それらの変化の象徴が,かつて形成されていたチャイナタウンの再開発や新たなチャイナタウンの建設構想である。
     報告者の一人である山下は,2000年に仁川(インチョン)を調査し,かつてのチャイナタウンおよび華人社会の状況について報告した(山下 2001)。その後,仁川のチャイナタウンは「仁川中華街」として,急速に再開発復興された。本報告は,仁川中華街の再開発の過程と現状を明らかにするとともに,仁川中華街の再開発の意義について考察するものである。
     なお,現地調査は,2007年3月および2007年11月に実施し,仁川中華街繁栄聯合会,韓中文化館,仁川広域市中区庁,仁川中山中・小学校(華僑学校),中国料理店をはじめとする華人経営店舗などから聞き取り,資料収集を行うとともに,仁川中華街の土地利用・景観調査を実施した。

    仁川における華人社会の変遷
     1882年,朝清商民水陸貿易章程により,仁川は,釜山,元山とともに中国側に開港された。そして,仁川には清国租界が設けられ,チャイナタウンが形成された。華人の出身地をみると,黄海を挟んで対岸に位置する山東が最も多かった。
     第二次世界大戦後,李承晩政権(1948~60年)および朴正煕政権(1963~79年)の下で,民族経済の自立を掲げて実施された華人の経済活動に対する厳しい規制強化により(外国人土地所有規制,外貨交換規制,飲食業への重課税など),華人社会は大きな打撃を受けた。韓国での生活を諦めざるを得なくなった多数の華人は廃業して,アメリカ,カナダ,台湾,日本など世界各地に移住し,仁川のチャイナタウンは事実上消滅した。

    仁川中華街の再開発
     2001年から仁川広域市中区庁は,外国租界時代の歴史的建造物が多く残る地区を整備して,新たな観光ベルトを形成する事業を開始した。その中核をなすのが「仁川中華街」の建設であった。2002年,サッカーの日韓共催ワールドカップの際,多数の中国人の来訪も期待されていた。
     2002年には,仁川広域市中区庁のさまざまな部門の職員が,仁川中華街再開発の参考とするために,横浜中華街を視察に出かけた。また同年には,仁川中華街のシンボルとなる最初の牌楼(中国式楼門)が,仁川の姉妹都市である山東省威海市の寄贈で建設された。その後,さらに二つの牌楼,三国志壁画通り,韓中文化館,中華街公営駐車場などが建設され,チャイナタウンらしい街路や景観がしだいに整ってきた。
     仁川中華街の再開発に伴い,仁川中華街の外部で中国料理店やその他の店舗を営んでいた華人が,仁川中華街で開業するようになった。2001年には5軒しか残っていなかった中国料理店は,2007年11月の調査では,30軒あまりに増えた。また,約30軒の中国物産,食品などの店舗が,仁川中華街に立地している。規模の大きな中国料理店では,中国出身の料理人や従業員を雇用している。また,中国物産,食品店の経営者の多くは,最近山東省などから来韓した「新華僑」である。
     仁川中華街の再開発事業は,仁川広域市,特に中区庁が主体となって進められた。財政的な支援も,仁川中華街の建設計画も,ほとんどが行政側によるものである。地元の華人社会は,これまでの仁川中華街の再開発では,付随的な役割しか果たしていない。この背景には,これまでの韓国政府の非常に厳しい対華人政策により,華人社会の経済的,社会的な力が徹底的に弱体化されてきたことを反映している。

    〔文献〕
    山下清海 2001.韓国華人社会の変遷と現状.国際地域学研究(東洋大学) 4:261-273.山下清海『東南アジア華人社会と中国僑郷―華人・チャイナタウンの人文地理学的考察―』117-135.古今書院に再録.
    尹 秀一 2005.韓国―中国語ブームと韓流のなかで―.山下清海編『華人社会がわかる本―中国から世界へ広がるネットワークの歴史,社会,文化』186-198.明石書店.
  • ライフサイクルによる生計の変動に注目して
    遠藤 尚
    セッションID: 807
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

     世帯や個人の生計は,過去から連続した軌跡を背景として現状が存在しているため,発展途上国農村生計研究において時系列的な観点は不可欠である。そして,社会,経済などの外的要素ばかりではなく,世帯のライフサイクルも世帯生計に影響をもたらす。したがって,外的要因による世帯生計の変化を検討する場合,各世帯のライフサイクル上での生計の特徴を考慮する必要がある。また,ジャワ農村では近隣に居住する親族世帯間に日常生活や農業経営における互恵的な関係がみられるため,生計における親族世帯間の関係についても無視できない。西ジャワ農村では,1980年代後半の民間部門を中心とした急速な経済成長以降,農村内外の農外就業が一層拡大し,若年層を中心に就業構造に変化がみられることが指摘されているが(水野,1999),それによる農村生計の変化について検討した研究ほとんどみられない。そこで,本報告では西ジャワ農村におけるライフサイクルによる世帯生計の変動について把握し,世帯間の親族関係に注目しながら,1980年代後半以降の西ジャワ農村生計の変化について明らかにすることを目的とする。
     調査対象地域は,西ジャワ州ボゴール県スカジャディ村である。当村は,ジャカルタの南60km,ボゴールの南西10km,サラック山北側斜面の標高470~900mに位置し,ボゴールからミニバスで約1時間の道のりにある。村の総面積3.0km2の内,水田は1.6km2,畑地は1.1km2を占める。主な生産物は,水稲および陸稲,トウモロコシ,サツマイモ,キャッサバ,インゲンなどであり,調査対象世帯(RW4,RT3,4の全85世帯)では,副業を含め世帯主の40%が農業関連業に就業している。しかし,対象世帯の内,水田を経営しているのは19世帯に過ぎず,比較的農業収入の割合が高い水田経営世帯についてさえ,農業収入は50%を下回っており,対象地域における世帯収入構成において非農業が占める割合は高いといえる。2005年8月,および2006年12月に,上記の調査対象世帯を戸別訪問し,世帯主の都市就業経験を含む就業の時系列的変化と世帯のライフヒストリーに関する聞き取り調査をそれぞれ行った。
     調査結果から,当村における世帯の経済状況や生計はライフサイクルによりかなり規定されていることが明らかとなった。ライフヒストリーにおける世帯の経済状況の好転理由,悪化理由については,それぞれ約50%の世帯が,「子供の就業(好転)」,「子供の就学(悪化)」などの世帯のライフサイクル上の変化や世帯構成の増減などを理由として挙げている。ただし,世帯生計の維持,拡大の手段は階層によって差異がみられる。大規模な水田を所有する親族集団は,土地や教育などの資産への投資,蓄積が世代を超えて行われる一方で,小規模な水田しか持たない親族集団や水田非所有親族集団は,多就業による一時的な生計の拡大に留まり,長期的な資産の蓄積が進んでいない。
     1980年代後半以降,当村においても都市との移動労働の拡大が進み,20代,30代の世帯主の70%以上を都市就業者もしくは都市就業経験者が占めている。移動労働の拡大は,子供の増加,就学により世帯の経済状況が悪化する時期に当たるこれらの世代の世帯所得を改善している。このような傾向は全ての親族集団にみられるが,子女への教育という人的資源の蓄積に勝る大規模水田所有集団はより高賃金で安定的な職業へのアクセスが可能である。ライフステージや生計構成が異なる親族世帯間の互恵的関係は,親族集団内における経済的差異を緩和する方向へ働いていることが確かめられた。しかし,上記のように,西ジャワ農村においても,資産の蓄積状況やアクセス可能な活動に関して親族集団間に差異がみられ,1980年代後半以降もそれらは時系列的に再生産され,引き継がれているといえる。

    水野広祐 1999.『インドネシアの地場産業-アジア経済再生の道とは何か?(地域研究叢書 7)』京都大学学術出版会.
  • ザンビア南部州の事例から
    伊藤 千尋
    セッションID: 808
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     グローバリゼーションが進む現代において、サハラ以南のアフリカ大陸は依然として発展から取り残された貧困削減政策と援助の対象として語られる。各国内部においては都市部と農村部の所得格差が激しく、開発政策では農村部の発展が課題とされている。つまりアフリカの貧困を解決するには、農村部に目を向ける必要があるといえる。
     農村地域の主たる生業は農業であるが、干ばつなどの自然災害や、構造調整以降の市場経済の急速な拡大によって、もはや農業だけでは対応できなくなっている。その過程の中で、農民は生計手段を複数持ち、リスクに対応してきている。実際の統計から見えるマクロレベルでの貧困と、研究者によって描かれる農民の活動的な姿の乖離が指摘される(島田,2007)のは、これらの統計が農外活動を考慮せず、実際の農民の生計を反映していないからではないだろうか。
     そこで近年、農村経済の多様化という観点から開発・援助政策を捉える“livelihood approach”が注目されている(Frank,2000)。農村を農業だけでなく、その他の多様な活動も生業として捉えなおし、政策に反映するという考え方は、ザンビアにおいても有効である。ザンビアの農村地域でも、農外活動は現在に至るまで重要な世帯収入源となっている。なかでも「出稼ぎ労働」は歴史的にみても農村地域に大きな影響を与えてきた。
     調査地ザンビアは植民地期から国内外への労働移動が盛んであった地域である。しかし、それらは鉱山やプランテーションへの労働力供給という文脈で発生し、現在の農村からの出稼ぎ労働とは形態も背景も異なっている。そこで、本研究では労働移動の歴史が長いザンビアにおいて、出稼ぎ労働を農民の生計戦略の一つとして捉え、農村への影響とその役割を検討することを目的とした。
     調査の結果、調査村では多くの世帯において、干ばつや食糧不足などの理由で出稼ぎ労働という選択が取られていることが明らかとなった。しかし、それらは干ばつ時の第一選択肢ではなく、食事回数の削減、採集活動、家畜の売却、そして地域内での賃労働といった既存の資源と社会関係を利用した対応がまず考えられていた。そのため、調査村では出稼ぎが干ばつ時の農村経済を補填する生計戦略として組み込まれてはいるが、二次的な選択肢に位置づけられていた。
     このような出稼ぎ労働は村内での対応のさらに背後にあるリスク対応機能に位置づけられ、干ばつ時の農村経済を補填する役割を担っていた。しかし、出稼ぎの長期化に伴って、送金頻度の減少、若年労働力の喪失、離村者の土地に対する権利喪失といった新たな問題も生まれている。「干ばつがなければ農村に残っていたい」という農民の語りにもかかわらず、干ばつ時は出稼ぎに行かざるを得ないという状況は今後も続くと思われる。出稼ぎに伴うこれらの問題が農村社会にどのような影響を与えるのかを今後の課題としたい。

    参考文献
    島田周平2007. アフリカ 可能性を生きる農民 環境-国家-村の比較生態研究. 京都大学学術出版会
    Frank, E. 2000. Rural Livelihoods and Diversity in Developing Countries. Oxford University Press.
  • ヌメアを中心に
    大石 太郎
    セッションID: 809
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I 目的・資料
     日本人移民の研究は、北アメリカ本土やハワイを中心にすでに多くの蓄積があるが、戦前の太平洋諸島の日本人移民に関する研究が始められたのは比較的最近である。ニューカレドニアもその例にもれず、1892年というかなり早い時期に移民が始められているにもかかわらず、これまでほとんど研究されてこなかった。そこで本報告では、第二次世界大戦前のニューカレドニアにおける日本人移民社会の復元を試みることを目的とする。
     ニューカレドニアでは、県人会組織が発達せず、後述するように1941年12月の太平洋戦争の開戦直後にオーストラリアに強制送致されるという経緯もあり、当時の日本人自身の記録がこれまでにあまり発見されていない。そのため、日本人移民に関する資料は非常に少ない。
     しかし、幸いなことにニューカレドニア公文書館に現地当局による調査記録が保管されている。具体的には、1933年8月12日付極秘文書で総督により日本人移民の調査を指示された各警察管区からの報告である。この調査記録のうち、本報告ではおもにヌメア管区の報告を分析する。
    II ニューカレドニアと日本人移民
     ニューカレドニアは18世紀後半にイギリスの探検家クックにより「発見」される。その後、1853年にフランス領となり、流刑植民地とされるが、1864年にガルニエがニッケルを発見したことにより、ニューカレドニアの経済的価値は格段に高まった。人口が希薄な地域であることから、鉱山開発のために移民の導入が検討され、ニッケル鉱山会社と日本政府の交渉の結果、1892年に最初の日本人移民(熊本県出身者600名)が契約移民として上陸した。石川(2007)によれば、1892年から1919年の間に、5,581名の日本人がニューカレドニアに渡っている。そのうち、もっとも多くの移民を送り出したのは熊本県であり、1905年に最初の移民を送出した沖縄県がそれに続いている。
     しかし、1941年12月の日米開戦直後、自由フランス亡命政権を支持する当局は日本人を一斉に逮捕し、オーストラリアに強制送致した。そして戦後は日本に強制送還され、ごくわずかの例外をのぞいて移民がニューカレドニアに戻ることはなかった。
    III 調査官からみたヌメアの日本人移民
     1933年8月の調査は、28の警察管区からの報告が残されており、各警察管区からの報告には、調査官による観察事項をまとめた文書が添付されている。これらの報告に記録された日本人移民の合計は1,124名であり、そのうち302名がヌメア管区に居住していた。なお、この数字は成人男性のみのもので、原則として女性と子どもは含まれていない。
     ヌメア管区からの報告における日本人移民像は次の通りである。まず、正式な婚姻関係は少ないものの、ジャワ人や先住民との内縁関係が多い。野菜栽培に秀でており、金銭的援助を含めた助け合い精神がある。ただ、日本人小売業者の先住民へのアルコール提供は問題である。そして、人種間関係は良好で、さしあたりヨーロッパ人にとって脅威ではないが、将来的には脅威になる可能性があると結論している。
     本報告はおもに事実の提示にとどまるが、今後、日本と現地双方の資料を照合していくことにより、多くのことが明らかになると思われる。

    文献
    石川友紀 2007. フランス領ニューカレドニアにおける日本人移 民―沖縄県出身移民の歴史と実態―.移民研究(琉球大学移民 研究センター) 3: 69-88.
  • 青山 雅史, 天井澤 暁裕, 小山 拓志, 増沢 武弘
    セッションID: P101
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     本研究では,赤石山脈南部の荒川岳周辺に分布する岩石氷河上およびその周辺において,永久凍土の有無の推定を目的とした地表面温度観測をおこなったので,その結果を報告する.南アルプスでは,北部の間ノ岳周辺では地表面温度観測がなされ,その結果から永久凍土の現存が推定されている (Matsuoka and Ikeda 1998; Ishikawa et al. 2003).しかし,南アルプス南部では,これまで山岳永久凍土に関する研究はほとんどおこなわれていない.
    2.調査地域と方法
     調査地である荒川岳は赤石山脈の南部に位置し,悪沢岳(3,141 m),中岳(3,083 m),前岳(3,068 m)などの3,000 m以上の山頂高度を持つ三つのピークからなっている.荒川岳周辺には氷河地形が多数分布しており,カール内部には山岳永久凍土の指標地形である岩石氷河が存在している.この山域には砂岩・頁岩などの四万十帯の堆積岩類が広く分布しているが,悪沢岳山頂付近にはチャート・火山岩類が露出している.
     地表面温度観測に用いた測器は,ティアンドディ社製小型自記温度計TR52(おんどとりJr)である.地表面温度観測は,悪沢岳北東面のカール内の岩石氷河上2地点(WR1,WR2),同カール底の砂礫地1地点(WR3),前岳南東カール内の岩石氷河上2地点(MN1,MN2)の,計5地点で実施した.観測期間は2006年8月17日から2007年8月16日の1年間,測定間隔は1時間である.
    3.結果および考察
     地表面温度の観測結果を図1に示す.WR1,WR3,MN1の3地点では,晩冬期に日較差がほとんどない状態で推移している.これは,この期間それらの地点は厚い積雪に覆われ,積雪の断熱効果により外気の影響が遮断されていることを示す.厚い積雪に覆われた地点において,晩冬期の積雪底温度(BTS)が-3℃以下であれば永久凍土存在の可能性が高く,-2~-3℃では可能性小,-2℃以上では永久凍土が存在する可能性はないことが,スイスアルプスや北欧などにおける調査から経験的に知られている(Haeberli 1973).WR1におけるBTSは-7.2℃,MN1では-6.6℃と-3℃以下の値を示していることから,両地点では永久凍土が存在する可能性がある.特に,WR1では年平均地表面温度(MAST)も-0.8℃と0℃以下の値を示していることから,本地点に永久凍土が存在する可能性は高い.それらに対し,WR3でBTSが-2℃を上回り(-1.7℃),MASTは2.6℃と比較的高い値であったことから,永久凍土存在の可能性はない.WR2とMN2の2地点の地表面温度は,冬期を通して短周期の変動が見られることから,それらの地点における積雪はそれほど厚くなく,外気の影響を受けていると推定される.WR2における年平均地表面温度は0℃をやや上回る程度(0.5℃)であることから,永久凍土の存在は否定できないが,MN2では2.3℃と比較的高い値であったことから,永久凍土が存在する可能性は低いと判断される.以上の結果から,悪沢岳北東面のカール内部や前岳南東カールの内部に存在する岩石氷河内には永久凍土が存在する可能性があるのに対し,カール底の砂礫地には永久凍土が存在する可能性はないことが示された.
  • 大井 信三, 坂井 尚登
    セッションID: P102
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    はじめに
     東茨城台地には,台地を刻む東西の水系が卓越しており,河谷の縦断形は非対称で,「北向き緩斜面」が広く発達している.この「北向き緩斜面」については貝塚(1949),石井ほか(1987)において霜柱ソリフラクションによるものとされ,その形成期は最終氷期の寒冷期とされた.斜面堆積物の観察は石井ほか(1987)において斜面の縦断測線において試錘調査が行われたが,今回茨城町小幡城址遺跡において,北向き緩斜面を縦断するトレンチが掘られ,詳細な観察を行ったので報告する.
     さらにこの「北向き緩斜面」には低位と高位の2段があり,これらの「北向き緩斜面」と最終氷期の段丘形成との関わりについても述べる.
    小幡城址遺跡における「北向き緩斜面」の縦断面トレンチの観察と形成プロセス
     トレンチは涸沼川の支流寛政川に向いた北向き緩斜面を長さ15m,深さ2mにわたって縦断して掘られており,斜面の傾斜は約2度である.トレンチでは最下位に,生痕化石(Rosselia)が見られる中粒砂層があり,これは近くの段丘露頭から,見和層上部層下位にあたる.この見和層を削って層厚100~128cmの斜面堆積物が見られる.斜面堆積物の下位は淘汰の悪い細礫からなり,層厚は14~50cmでトレンチ中央部で厚く,末端で薄くなる.礫の配列は斜面下方に向かってコンベックス形をなし,斜面堆積物の基底の形は礫に削られ凹凸が激しい.礫層の上にはシルト質砂層があり,層厚30~60cmで,礫層の層厚とは反比例関係にある.最上部は白色シルト層で層厚17~37cmで,これは礫層が厚い所でシルト層も厚い.斜面堆積物は今市・七本桜テフラ(IS,SP,14-15ka)に覆われ,この頃には斜面は流動を止め安定したことを示す.これより上は層厚160cmの黒ボク土・表土に覆われるが,黒ボク土の真中に層厚40cmほどの赤褐色のソフトローム層があり,ここからバブル型の火山ガラスを産することから鬼界アカホヤテフラ(K-Ah,7.3ka)層準に同定される.
     斜面形成のプロセスは,下位の礫層はコンベックス形の礫の配置をなすことから,ジェリフラクションのプロセスが考えられ,上位のシルト質砂層がフロストクリープのプロセスであると考えられる.一般にジェリフラクションは永久凍土帯での凍結融解サイクルによるとされているが,本トレンチの礫層が厚い部分は,上位のシルト層も厚く,地形から見ると背後に浅い谷があり,水分の集中する所であったと考えられ,そのような場では永久凍土帯でなくとも,ジェリフラクションのプロセスが活発であったと考えられる.
    2段の「北向き緩斜面」
     小幡城址遺跡の「北向き緩斜面」はIS,SPに覆われ,筑波台地,那珂台地などの既存研究の「北向き緩斜面」もIS,SPやATに覆われる(石井ほか,1987・坂本ほか,1972・鈴木,1990).しかし鉾田市下鹿田では,赤城鹿沼テフラ(Ag-KP)に覆われるか,斜面堆積物中にKPの軽石が混在する「高位の北向き緩斜面」があり,「北向き緩斜面」には低位・高位の2段が存在する.
    最終氷期の段丘形成と「北向き緩斜面」
     東茨城台地の台地起源の巴川,寛政川など小河川沿いの段丘状の地形は,緩やかに北向きに傾いている「北向き緩斜面」である.一方丘陵起源の中河川である涸沼川は,中流域から下流は東茨城台地内を流れるが,台地内の中位~下位の段丘群は台地の北側に発達する非対称段丘をなす.これは斜面堆積物が河川を北に押しやりながら下刻し,順次段丘が形成されたことを示す.茨城町奥谷の涸沼川のL1面の段丘露頭では,KPに覆われる段丘礫層の下位に淘汰の悪い斜面堆積物が見られた.山地起源の大河川である那珂川も下流域は台地内を流れるが,那珂川沿いの段丘群には特定な傾向は見られない.那珂川・涸沼川の最終氷期に形成された下位段丘面は早川(1981)によりL1~L5面に区分されていて,L1面は直上にKPを載せ,L3面は直上にATが載り(海野・大井,1988),L5面はIS,SPが載る.KPの年代はFT法で32ka(鈴木,1976)とされているが,水戸でKPは含雲母グリース状火山灰(Gr)の下位にあることから50Ka前後と古くなることが想定される.
     下位段丘面の年代からはL1面が「高位の北向き緩斜面」に対比され5万年前の亜氷期に対応する.L2-L5面が「低位の北向き緩斜面」に対比され最終氷期極相期に対応する.台地内の斜面でソリフラクションのプロセスが盛んな頃,山地斜面でも岩屑生産のプロセスが盛んであったことが想定され,段丘と「北向き緩斜面」は対応している.「北向き緩斜面」が段丘のように細かな分類が出来ないのは,斜面という性格上,斜面形成プロセスが続いている間は,古い斜面堆積物を新しい斜面堆積物が押し流すか,覆ってしまうためと思われる.
  • 手代木 功基, 黒田 真二郎, KADER Kezer, 小山 拓志, 岩田 修二
    セッションID: P103
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    はじめに
     後退していく氷河の前面域は,植生遷移を空間的に捉えることができる場所として注目されている.氷河前面域の植生遷移や植生分布に関わるこれまでの研究は,主に北欧やヨーロッパアルプス,アラスカの氷河で行われてきた.これらの研究は,植生を規定する要因として,氷河が消失してからの時間が重要であることを明らかにした(Matthews 1992).  さらに,近年では周氷河作用による地表面の撹乱作用も氷河前面域の植生分布の規定要因として取り上げられている(Haugland & Beatty, 2005).
     本研究は,先行研究でいまだ検討がなされていない中国天山山脈において,植生分布の規定要因を明らかにすることを目的とする.
    調査地と方法
     調査地は中国北西部新疆ウイグル自治区,天山山脈東部のウルムチ河源流域の最上流部に位置する1号氷河の前面域である.1号氷河は小氷期以降縮小しており,その末端部は年々後退している.陳 (1988) はライケノメトリーを用いてモレーンの編年を行い,約420 年前からの氷河の後退を推定した.また李 他 (2003) の実測によると,1号氷河は2001 年までの40 年間で185 m 後退している.
     調査は,地形学図の作成,9ヵ所の方形区(5 m × 5 m)内における植生調査・試坑掘削などを行った.また斜面物質の移動を把握するため,1ヵ所にペンキラインを塗布して表面礫の移動を計測した(2006-2007年の1年間).
    結果
     1号氷河の前面域は,約420,230,110,60年前にそれぞれ形成されたモレーンと,そのモレーンの間に位置する過去のアウトウオッシュ堆積面,そして現成のアウトウオッシュ堆積面からなっていた.
     それぞれの地形面に設置した方形区内の植生調査から,植生は,地形形成年代が古い(氷河からの距離が大きい)ほど植被率・出現種数・出現個体数が多い傾向がみられた.しかし,その傾向に従わない方形区も存在した.
     また,出現種とその被度をもとに植生のグループ分けを行うと,植被に乏しいグループ,イネ科草本が優占するグループ,Thylacospermum caespitosumが優占するグループの3つに区分された.
    考察
     1号氷河の前面域では,氷河からの距離が植生分布に大きな影響を与えていた. 上述の植生グループの変化は,植生の初期遷移過程を示していると考えられる.
     氷河からの距離は大きいが植被率が少ない方形区では,地表面の不安定さが植生の侵入を妨げていると考えられる.実際にこの方形区(モレーンの緩斜面上に設置)に敷設したペンキラインでは,平均5 cm 程度の礫の移動が生じており,他と比較すると安定性に乏しいといえる. 以上より,植生分布は氷河が消失してからの時間の長さと,地表面の安定性に大きく規定されていることが明らかとなった.
     また本調査地では,アラスカや北欧の氷河前面域などと比較すると植被率が増加するまでにかなりの時間を要していることが示唆される. 内陸アジアにおける他の氷河前面域の植生分布についても調査を行い,他地域とさらに比較を行っていく必要がある.
    文献
    Haugland E. & Beatty W. 2005. Vegetation establishment, succession and microsite frost disturbance on glacier forelands within patterned ground chronosequences. Journal of Biogeography 32: 145-153.
    Matthews A. 1992. The Ecology of Recently-Deglaciated Terrain. Cambridge Univ. Press.
    陳 吉陽 1988. 天山烏魯木斉河源全新世冰川変化的地衣年代学若干問題之初歩研究. 中国科学 B輯:95-104.
    李 忠勤 他 2003. 烏魯木斉河源区気候変化和1号冰川40a観測事実. 冰川凍土 25:117-123.
  • 松本 穂高, 小林 詢
    セッションID: P104
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    はじめに
     積雪が夏季の遅くまで残る砂礫斜面では,様々な地形形成プロセスが働いている。この地形形成プロセスを解明するためには,そこで発生する土砂移動の量や様式を知る必要がある。周氷河地域の斜面を対象とした地形プロセス研究は,ひずみプローブ法の開発により詳細な観測・議論が可能となった。そこで発表者らは,乗鞍岳に分布する複数の残雪砂礫地において土砂移動に関する詳細な観測をおこない,土砂移動プロセス解明を試みている。前回発表(2006年春)では標高2540m付近の砂礫地において融解期に流動が発生したことを報告した。本発表では,前回と同様の方法により残雪砂礫地で発生する土砂移動の量や様式の解明を目的とした観測をおこなったので,その結果を報告する。

    調査地および調査方法
     乗鞍岳山頂部・魔王岳の標高2700m付近に分布する残雪凹地を対象とした。この残雪凹地は10ha弱の面積で,中心部から周辺部に向かい砂礫地,草本植生,ハイマツ帯とほぼ同心円状の景観分布を示す。
     この残雪凹地の中心部(傾斜23度)に広がる砂礫地において土砂移動および地温を計測した。土砂移動の計測にはひずみプローブを用い,地表から50cm深までの土砂移動状況を1時間ごとに1mmの精度で得た。地温の計測には自記式小型センサーを用い,地表面から50cm深までの7深度における温度を1時間ごとに0.1℃の精度で得た。土砂移動および地温の計測は,2005年10月より2007年10月の2年間おこなった。

    結果および考察
     2006年の凍土融解期に顕著な土砂移動が発生したことを捉えた(図)。地温は地表,30cm深,および50cm深でそれぞれ7月30日,8月2日,および8月5日に上昇が始まった。この地温上昇は,積雪が消えたことにより地表から始まった凍土の融解がそれぞれの深度に達したことを意味する。この間に土砂移動が発生した。ひずみプローブは7月30日から1cm以下の変位を捉え,8月6~7日には40cm深以浅で大きな変位を記録した。移動量は最大,地表~10cm深で8cm,10~20cm深で5cm,20~30cm深で3cm,30~40cm深で1cmに達した。地温の上昇に伴って土砂移動が発生したことが明らかなので,移動様式は積雪からの解放に伴う凍土融解および上方からの融雪水供給の二つの要因によって土壌水分が増加したことによる流動または滑りと考えられる。ここで,凍土上面を滑り面として滑りが起こったとすると,融解前線の到達と土砂移動がほぼ同時でなくてならない。ところが40cm以浅で起こった土砂移動は,40cm深で融解が始まってから57時間後のことである。これより,発生した土砂移動は滑りではなく流動であると考える。
  • 渡辺 悌二, 平川 一臣, 澤柿 教伸, 小松 哲也, 岩田 修二
    セッションID: P105
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     発表者らは,これまでに,タジク・パミールおよびパミール・アライ山脈地域におけるエコツーリズムの現状と問題点を明らかにしてきた(岩田 2008ほか)。そこでは,旧ソ連邦崩壊後から現在に至るまで,自然資源が急速に“消費”されるようになっている。すなわち,テレスケン(Teresken)と呼ばれる乾燥高山域の灌木とマルコポーロ・シープが,国立公園内でも違法に採られているのである。自然資源の消費は,この地域の貧困と深く関わっている。こうした点から,早い機会にエコツーリズムを導入する意義が大きい。一方,タジク政府は,タジク国立公園を含めたタジク・パミールを世界遺産に登録しようとしており,2006年1月現在,すでに暫定リストに記載している。さらに欧州連合が中心となって,タジク国立公園の北側に接する地域(パミール・アライ山脈地域)を自然保護地域(Pamir-Alai Transboundary Conservation Area)に指定しようという議論が進んでいる。
     ところが,この地域では,こうした国際的な自然保護・保全の枠組みを考えるに際しても,自然資源を有効に利用するには至っていない。とくにこの地域には,氷河地形,周氷河地形,乾燥高山地形などが分布している。こうした地学的な自然資源を用いたジオツーリズムの導入は,エコツーリズムと同様に,自然保護・保全につながるとともに,地元コミュニティに経済的効果をもたらすと考えられる。したがって,最終的にはジオエコツーリズム(geoecotourism)の導入を目指すのがよい。本報告では,その第一段階として,地形を対象としたジオツーリズムの導入について,資源分布の状況,インフラの現状,ガイド・ツアー・プログラムなどについて議論する。
  • 小松 哲也, 渡辺 悌二, 岩田 修二
    セッションID: P106
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     カラクル湖(380㎢)は東パミールの北東部に位置し,流域に氷河を擁する閉塞湖である.この流域の地形発達史は,1987年にソビエト連邦によって出版された150万分の1地形学図に示されている.それによれば,第四紀に3回の高湖水面期と4回の氷河前進期が認められる.しかし,カラクル流域の第四紀を通じた高湖水面期の回数とその規模,それらと氷河前進期との関係についての詳細はよく分かっていない.そこで,本研究は,カラクル湖岸の中で最も旧汀線地形の保存の良かった北岸を対象として地形発達史を明らかにした.

     調査は2007年の夏から秋にかけて行った.調査項目は,ALOS画像を用いた地形判読,野外調査による地形・堆積物の記載,旧汀線の縦断プロファイルの作成である.

     それらの結果の要点をまとめると,以下に記す4点となる.
    (1)カラクル湖北岸において扇状地の形成期は6回(新しいものから順にF1‐F6)あり,それらは,低水位期(間氷期)に形成され,高水位期(氷期)にその形成が止んでいた.
    (2)第四紀の高湖水面期は,F2‐F5扇状地面との関係から少なくとも5回存在した.湖面からの比高は,新しい時期のものから順にそれぞれI期(+10 m;),II期(+33 m;),III期(+96 m),IV期(+203-205 m),V期(+217 m)である.
    (3)カラクル湖北岸では,3つのモレーン(古いものから順にH期・M期・L期)が確認できる.扇状地との関係でみると,H期とM期の間にF5が形成されている.
    (4)カラクル湖北岸の第四紀の地形発達をまとめると,「F6→H期の氷河前進(V期)→F5→M期の氷河前進(IV期)→F4→L期の氷河前進(III期)→F3→氷河前進?(II期)→F2→氷河前進?(I期)→F1(現在の湖面)」となる.

     これらを得る基礎となった証拠とその解釈は以下の通りである.
    i) カラクル流域において最低位の分水界は,南西部,標高3950 mにある.このことは,少なくとも現湖面より35 m以上高くなるような高湖水面期が,氷河前進に伴う分水界の塞き止めによって生じたことを示す.つまり,カラクル湖は氷河前進期と高湖水面期が一致する,いわゆる氷河期湖であると解釈される.
    ii) F3‐F6扇状地面上には,等高線に平行するようにしてのびる平坦面とそれを区切る1~数 mほどの比高を持つ小崖が階段状に分布する.小崖によって区切られる平坦面上には,3~10 cmほどの円‐亜円礫が分布する.これは,小崖とその前面の平坦面が,扇状地を切って形成された侵蝕性の地形であることを示す.つまり,小崖とその前面の平坦面は,過去の高湖水面期に形成された波蝕崖と波蝕台であると考えられ,一つ一つの小崖の基部が,ある時期の旧汀線を示している.
    iii) F2とMarshとの境界をなす旧汀線は標高3925 mにある(I期).F3‐F4の扇端付近を切るようにして分布する旧汀線のうち,最上位のものが標高3948 mにある(II期).F4の最上位の旧汀線は,標高4011 mにある(III期).F5の最上位の旧汀線は,旧汀線となる小崖の基部が不明瞭であるが,標高4118-4120 m付近にある(IV期).これ以上の高さでみられる旧汀線は,丘陵基部に形成されたローカルな扇状地上にみられ,その最上位のものは標高4132 mにある(V期).
    iv) F5の扇頂部は,M期モレーンリッジが示すアーチ型のラインと調和的な形状で切られている.そして,その表面は不規則な形状のガリーによって大きく侵蝕されている.また,扇頂付近の地表面には,M期モレーン上の巨礫と同様に砂漠ワニスとタフォニの発達した巨礫が散在する.こうした点から,F5はM期以前に形成された扇状地で,M期の氷河前進に伴って,その氷河融水による侵蝕や,地表面への巨礫のばら撒きがなされたと解釈できる.

     なお,東パミール,Kol-Uchkolにおいて10Be露出年代法を用いて氷河地形編年を行ったAbramowski et al.(2006)の結果を参照すると,カラクル湖北岸のL期モレーン(III期)は,75-57kaという年代値の出ているターミナルモレーン(UK2)に対比されると考えられる.
  • 後藤 健介, 黒木 貴一, 磯 望
    セッションID: P107
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     人工衛星データは、広範囲の地域を同じ精度で反復観測ができ、人間の目には見えない不可視情報を可視情報に変換することを可能とするなど、環境解析や地形解析など多くの分野で用いられている。特に防災分野においては、衛星データ解析をすることにより、人間が入り込めない災害後の危険地帯などの情報を素早く入手することができるなど、その重要性が再認識されている。
     しかし、火山災害や土砂災害などの災害地は傾斜地であることが多く、歪が生じる急傾斜地において衛星データによりどれだけの精度で様々な情報を入手・解析できるかを調べることは大変重要である。本研究では、雲仙普賢岳周辺の急傾斜地において、衛星データを用いた環境指標解析を行い、急傾斜地における衛星データの解析結果を現地調査結果と照合し、検証することとした。

    2. 研究手法
    2.1 衛星データと研究対象地
     本研究で用いた衛星データはTerra/ASTERデータで、マルチスペクトルデータ、およびDEMデータとして2006年8月8日観測のものを現地調査結果との照合データとして用い、マルチスペクトルデータの2006年3月17日観測のものを季節変動解析用データとして、またDEMデータの2002年5月25日観測のものをDEMデータの誤差解析用データとして用いた。ASTERデータは可視近赤外データにおいては15m、短波長赤外データでは30m、熱赤外データでは90mの地上分解能を有しており、各バンドにおいて波長帯別に地上分解能が異なるため、本研究では15mでリサンプリングを行い、地上分解能を統一した。
     これらのデータを用いて、雲仙普賢岳周辺の急傾斜地域において種々の環境指標解析を行った。その中でも特に水無川中流域を主たる研究対象地とした。
    2.2 環境指標解析
     まず、2006年8月8日観測のASTERデータから、環境指標となる植物活性度を数値化した正規化植生指標NDVI(Normalized Difference Vegetation Index)、土壌における水分を数値化した正規化水指標NDWI(Normalized Difference Water Index)、土壌分布の度合いを数値化した正規化土壌指標(Normalized Difference Soil Index)を算出し、現地調査結果と照合することで、どれだけ急傾斜地において衛星データが現状を捉えているかを検証した。また、2006年3月17日観測データを用いて同様の環境指標解析を行い、2時期の季節変化によって環境指標がどのように変化するのかも調べた。
     各環境指標の算出式は以下のとおりである。
    NDVI = (NIR-VIR) / (NIR + VIR)
    NDWI = (VIS-SWIR) / (VIS+SWIR)
    NDSI = (SWIR-NIR) / (SWIR+NIR)
    ただし、VIS:可視域のCCT値、NIR:近赤外のCCT値、SWIR:短波長赤外のCCT値
     ASTERから作成されたDEMデータについても、国土地理院発行の2万5000分の1地形図を用いて、急傾斜地と平坦地でどれだけの精度差があるのかを検証した。DEMデータについては、2002年5月25日と2006年8月8日観測の2時期のデータについて解析することで、季節やセンサの傾きなどの違いによって、どれだけの精度差が生じるかも併せて検証した。

    3. まとめ
     近年、自然災害が多発しており、急傾斜地における地震災害や火山災害をモニタリングするには、衛星データを用いることが多い。しかし、対象エリアにおいて急傾斜地が含まれる場合、災害モニタリング時において重要な2時期のデータ比較を行う際に歪による誤差が多く含まれてしまい、期待される解析結果を出せないことが多い。
     本研究の解析・検証結果は、こうした災害モニタリング時における問題を解決するための基礎データとして資することができ、特にASTERデータにおいての急傾斜地におけるデータ特性を知ることができた。
  • 布田川・日奈久断層帯および小倉東断層を事例として
    谷口 薫, 中田 高, 渡辺 満久, 鈴木 康弘, 堤 浩之, 後藤 秀昭, 活断層位置・形状 検討作業グループ
    セッションID: P108
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     活断層から発生する地震の長期評価において最も重要で基本的な情報は、活断層の位置・形状であり、とくに、ある程度の長さを持つ活断層によって構成される活断層帯(系)のどの範囲が一括して活動するのかを特定することは、地震規模の推定にとって極めて重要である。活断層の分布に関する基礎的な情報に不確さがあれば、その長期評価結果に深刻な影響を及ぼすことが懸念される。また、既存の活断層図を用いていわゆる「5 kmルール」(松田,1990)などを適応することには、本質的に大きな問題がある可能性も指摘されている(谷口ほか,2007)。この様な背景から、現在公表されている活断層図に示された活断層の認定根拠を再確認・再検討した結果、現状の既存資料にどの様な差異(不確かさ)があるのかを確認したので、ここに報告する。
    2.方法と手順
     資料として、20万分の1程度及び2.5万分の1の縮尺で主要な活断層図(ここでは「九州の活構造」「新編 日本の活断層」「都市圏活断層図」「活断層詳細デジタルマップ」)の活断層トレースを重ね合わせた図を作成した。その図に基づき、現状として既存資料にどのような差異があるのかを確認した上で、空中写真判読を実施し、認定根拠をクロスチェックしながら縮尺2.5万分の1でマッピングを行った。調査者間で判断が一致しない場合は、意見分布をとりまとめた。また、地形図上にマッピングしたトレースはGISソフトウェア(MapInfo社MapInfo Professional)を用いて電子化を行った。
    3.活断層の定義と区分
     以下の基準で活断層を認定し、その存在の確からしさを根拠に2種類に区分した。
     「活断層」:最近十数万年間に繰り返し活動したことが変動地形学的に確実に認定される断層
     「推定活断層」:最近十数万年間に繰り返し活動したことが変動地形学的に推定される断層(活断層の存在が推定されるが現時点では明確に特定できないもの,あるいは今度も活動を繰り返すかどうか不明なもの)。以上のように、単にリニアメントを抽出しその明瞭度に基づいてマッピングしたのではなく、高度な変動地形学的判断に基づいて活断層を認定した。
    4.結果
     布田川・日奈久断層帯および小倉東断層について、主に米軍及び国土地理院撮影縮尺約1万分の1空中写真を用いて、既存資料をクロスチェックし、2万5千分の1地形図上に詳細なマッピングを行った結果、以下のような結果が得られた。
    1)布田川・日奈久断層帯
     写真判読をした結果、従来指摘されていなかった新たな断層線がいくつか認められた。とくに、「松橋」図幅では日奈久断層の主トレースから北西方向に派生する活断層を新たに認定した。「健軍」や「鏡」図幅では、トレンチ調査が実施されているトレースの前縁(西側)により新しい変位地形が認められた。また、既存の活断層図では確実度が低いとされていたいくつかの断層をより確実度の高い活断層として再定義した。
    2)小倉東断層
     従来の活断層図と大きな違いは認められなかったが、河谷の系統的な屈曲など、いくつかの明瞭な横ずれ変位地形が確認された。
     結果の詳細は当日ポスター発表にて示す。
     本研究は文部科学省からの委託研究費によって実施されたものである。

    文献:松田 1990.地震研彙報,65,289-319.谷口ほか 2007.日本地球惑星科学連合2007年大会予稿集,S141-P026.

    1):活断層位置・形状検討作業グループ:島崎邦彦(東大地震研)・今泉俊文(東北大)・宮内崇裕(千葉大)・粟田泰夫・吉岡敏和(産総研)・飯田 誠・木村幸一(国土地理院)
  • 後藤 秀昭
    セッションID: P109
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     関東平野の北西縁~西縁を限る活断層については,平井断層,深谷断層,綾瀬川断層など,段丘面上に見られる明瞭な断層崖を取り上げて,縦ずれ断層として断片的な断層の分布が論じられてきた(活断層研究会編,1991など)。近年では,反射法地震探査による地下構造の推定や深部ボーリング調査による破砕帯の研究により,それらをひとつの断層帯として捉える視点(杉山ほか,2000)や日本で第一級の地質構造線である中央構造線との関連(高木ほか,2006)が議論されるようになってきている。このような状況のなかで,変動地形学的な研究によって断層の分布や変位様式を再検討した研究は渡辺(2007)などに過ぎず,十分な成果がえられているとはいえない。関東造盆地運動と呼ばれる(貝塚,1987)地殻変動の核心部を横切り,関東平野の地形発達に重要な役割を果たしていると考えられることや,首都圏を横切る主要な活断層として地震防災においても重要な対象と考えられることから,詳細な地形判読に基づく再検討が必要と考えられる。
     演者は,関東平野西縁より北西―南東方向に直線状に延びる平井断層,櫛引断層,深谷断層,綾瀬川断層などを,関東平野を縦断する一連の断層帯と捉え,空中写真による詳細な地形判読に基づいて,分布や変位様式を再検討してきた(後藤ほか,2005)。その結果,断層帯の南部では,江南断層の南延長部に左横ずれ変位を示す活断層が分布することや,綾瀬川断層による左横ずれ変位が新たに確認できた。本発表では,その概要を速報として報告する。

    2.江南断層の南延長部の変位地形
     江南断層は江南丘陵を北北西―南南東~北西―南東方向に延びる,長さ3kmの断層として記載されてきた(活断層研究会編,1991;澤ほか,1996など)。南端近くの東西方向に延びる断層を対象にトレンチ調査が行われ,明瞭な逆断層が確認されている(水野ほか,2002)。  空中写真による変位地形の再検討の結果,トレンチ調査が行われた地点よりもさらに南に,北北西―南南東~東西方向に延びる,長さ6kmの活断層の分布が明らかとなった。この断層に沿って河谷の系統的な左横ずれが認められる。上下変位の向きは,北半部で南西落ち,南半部で北東・北落ちを示す。南半部では断層トレースが湾曲しており,その南延長に分布する綾瀬川断層に連続するような方向となる。なお,この断層と綾瀬川断層との間に位置する荒川の沖積低地には明瞭な変位地形は認められない。

    3.綾瀬川断層の変位地形
     綾瀬川断層は,大宮台地を北西―南東方向に横切るように延びる断層である(活断層研究会編,1991など)。清水・堀口(1981)や渡辺(2007)では,北東落ちの変位地形が主に記載されている。詳細な地形判読の結果,綾瀬川断層の南半部において,大宮台地を南西落ちに変位させる断層が新たに認められた。この断層は,綾瀬川断層の北半部の延長上にあり,綾瀬川断層の主断層である可能性が高い。
    1)南半部の南西落ちの断層
     元荒川低地付近の綾瀬川断層は,綾瀬川断層の南半部にあたり,元荒川低地の東西両縁を限るように分布すると考えられている(活断層研究会編,1991)。澤ほか(1996)などは,元荒川低地の西縁の一部に大宮台地を変位させる断層があることを記載している。本研究では,低地の東に分布する大宮台地面を南西落ちに変位させる断層を新たに認めた。この断層は,伊奈町別所・蓮田市街付近から北西―南東~西北西―東南東方向に延びており,長さ約10kmの撓曲崖からなる。断層トレースは岩槻市街地付近で湾曲しており,それより南では西北西―東南東方向となる。大宮台地を細分する段丘崖を横切って延びており,段丘崖に100~200mの左横ずれが認められる。
    2)大宮台地の左横ずれ
     伊奈町付近では,大縮尺地図を用いた地形分析によって大宮台地面の変形が議論されている(清水・堀口,1981)。この付近の変位地形について再検討した結果,左横ずれを示すと考えられる地形が発達していることがわかった。北西―南東方向に延びる断層に沿って,その南西側に幅200~400m,長さ約1000mの紡錘形をなすプレッシャーリッジと思われる高まりが認められる。また,リッジを開析する河谷がリッジの北東基部で約200m左に屈曲しているのが観察できる。
  • 澤柿 教伸, 岩崎 正吾, 三浦 英樹
    セッションID: P110
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     第47次日本南極地域観測隊(2005-2007)の野外調査で,ラングホブデ・やつで沢上流にある氷河ダムの下流側の氷壁に,円形の穴が開いているのが確認された.JARE47越冬中にこの氷洞内に入り,内部を観察する事ができた.  氷河ダムの氷壁の中腹に洞口が開き,その内部に空間が広がっているという事実は,過去および将来において,氷河ダムから排水が発生したりダム自体が決壊したりする可能性を強く示唆するものであり,下流域の谷の地形発達や,上流の湖の盛衰を考える上で重要な鍵となる.本発表では,その概要を報告し,地形学的意義について考察する.

    2. 氷河ダムと氷洞の概要
     やつで沢の上流には,谷を横断するように東側から伸びる氷河があって,その上流側には,この氷河によってせき止湖が形成されている.湖の上流には大陸氷床から溢流する氷舌が流入しており,湖はそこからの融解水によって涵養されている.氷河ダムにより,上流の湖の湖面と下流の河床との間には約100mの比高がある.
     今回確認した氷洞の洞口は,この氷河ダムの氷壁の中央部に開いており,ダム直下の河床から比高10mの高さにある.洞口の直径はおよそ6mで,その下部にはちょうど人が通ることができるくらいの,深さ3 mほどの切れ込みがあり,氷壁を登ることなく氷洞の内部へ侵入できた.この切れ込みは,おそらく融解水が流れ出して下刻した跡であろうと思われる.
     氷洞内部には,さらに大きな空間が広がり,目視による推計では,幅約10m,奥行き50m前後の空洞になっている.側壁は垂直な基盤岩で,その上を氷河氷が蓋をするように覆っている.洞内の底面は氷塊や吹き込んだ新雪に覆われており,その表面から天井までの高さはおよそ15-20mである.
     氷洞の奥には崩れた氷のブロックが積み重なり,せき止められている湖へ通じているかどうかは確認できなかった.しかし,融解期には湖からの溢流があった可能性も考えられ,最悪の場合,鉄砲水が出る恐れもある.

    3.地形発達学的意義
     氷河ダムより下流のやつで沢の側壁はほぼ垂直に切れたっており,U字谷底がさらに函谷状に掘りこまれた二段構造をなす.垂直の基盤岩からなる氷洞内の側壁は,この二段構造の下部函谷地形に連続していると考えられる.
     河口付近では谷幅が広がって平坦な河原が形成され,比較的円摩度の良い礫に覆われており,レビーや比高数メートル程度の河岸段丘状の地形も認められる.さらに河口には,海抜高度11mと18m付近に平坦面を持つ段丘状をなす礫質堆積物も認められ,その最上位を浅海底堆積物が覆っており,そこから産出する貝化石から5-6.8kyBPの炭素年代が得られている.
     これらのやつで沢の河床地形や堆積物は,かつて,河床礫を運搬・堆積させるような相当量の流水がやつで沢を流下していた事を意味するが,現在のやつで沢河床には,年間を通じてほとんど流水は認められない.河床や河口付近に部分的な水たまりが存在することから,融解水が流れていることは間違いないが,通常は河床を覆う礫の下を伏流していると考えられる程度である.
     もし相当量の水量が流れた時期があったとしても,降水量が少なく,雪氷の融解水にしても,季節的にも量的にも限られる当地において定常的な水流が長期にわたって継続していたとは考え難い.むしろ,氷河ダム背後にある貯水域から,短期的に大量の水が放出されたと考えたほうが妥当であろう.この仮定にもとづけば,氷洞内の側壁が示す函状の基盤地形は,氷河ダムから貯水を放出する洪水吐をなしているものと解釈できる. 現状のように,上部の氷体を残したまま,せき止め湖からの排水経路が氷河ダム内に形成された可能性もあり,氷河底洪水吐と考えることもできる.
     氷床が現在の位置付近まで後退した後に,このようなダム内の洪水吐を経路として突発的な排水現象が発生していた可能性が大きいが,少なくとも6.8kyBP以前あるいは5-6.8kyBP間には,海岸まで土砂を運搬するような水流が発生していた可能性がある.さらに,氷床が拡大して海岸付近にまで達していた時期に,すでに氷底で排水路が形成され,やつで沢全体を氷河底洪水吐として下刻していた可能性も否定できない.たとえば, おなじラングホブデ南部には,別の谷でも直線的な函谷地形が発達しており,同様の洪水吐である可能性は非常に高い.これらの形成時期がやつで沢と同期していれば,ラングホブデ全体を覆う氷床の底面あるいは末端付近からの氷底水の排水経路となっていた可能性も考えられるのである.
     いずれにしても,やつで沢全体の二段構造は,氷床拡大期に形成されたU字谷が,氷床後退後(あるいは氷河ダム形成後)に突発した水流によってさらに下刻されたものと解釈できる.
    図 やつで沢の氷河ダムに空いた洞口.
  • 羽田 麻美
    セッションID: P111
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I 研究目的
     雨水の溶解作用によって,石灰岩表面に形成される溝状の微地形の一つにリレンカレン(以下,カレン)がある.羽田(2007a)では,秋吉台・平尾台・沖縄(山里)・スロベニア(リピツァ)の石灰岩地域において,カレンの形状計測をおこなった結果,形態(幅と深さ)に地域差があることがわかった.カレンの形状には,岩質の差異,降雨量や気温などの溶食環境の差異などが大きく影響していると考えられる.そこで,異なる環境下におけるカレンの形成プロセスを明らかにするために,室内実験において石膏ブロックを用いてカレンの形成実験をおこなった.本発表では,実験開始とともに面的にカレンを発達させていく過程について明らかにすることを目的とする.

    II 実験の概要
     実験に用いた材料は,石灰岩と組成が似ており,石灰岩よりも溶解速度が速い石膏(CaSO・1/2 HO)である.幅約80 mm,高さ約160 mmの多角形ブロックは,野外におけるピナクルの形状を摸して,上部に45°の斜面,その下部に90°の面を持つように作成した(写真1).園芸用噴霧器を改良したものを用いて,i)常温水24±3℃と,ii)45±5℃の温水の2種類を噴霧し,45°斜面にカレンを形成させた.すなわち,野外における気温の違いを,本実験では水温の差に置き換えた.
     45°斜面上(斜面長約12cm)に,最上部から1cm,2.5cm,4cm,6cm,8cm,10cm下に定点をおき,積算噴霧25時間毎に,写真計測(羽田,2007b)の方法を用いてカレンの横断面形を撮影した.また同時に,石膏ブロックの寸法も計測した.カレンの面的な分布形状は,ブロック正面から撮影した写真をもとに,稜線をトレースして100時間毎に表現した.

    III 結果および考察
     温水と常温水噴霧の各ブロック上に形成されるカレンは,温水噴霧の方がより速く発達し,噴霧する水温の違いは,カレンの発達速度の違いに影響する.発達の進んだ温水噴霧の例をもとに,流路の面的な発達過程を検討すると,次のことがわかった.
     実験開始後約50時間後には,幅1 mm深さ0.4 mm以下の微細なカレンが形成する(ただしこの間は,本手法では計測不可能).その後90~200時間後の間にこれらの微細な流路が合流することによって,カレンの本数が大幅に減少する.その後,300時間後までに幅を拡幅しながら下方へと長さを増していく.400時間以降は,幅の拡幅は減少し,さらに長さを増しながら分裂を繰り返し,最終的には直線流路へと発達していくという過程が観察された.
     今後は,実験結果をもとに野外のリレンカレンの面的分布の分類から発達過程の差異を明らかにすることが課題である.

    参考文献
    羽田麻美(2007a):地形,28(1).41-52.
    羽田麻美(2007b):日本地理学会発表予稿集,72,p. 142.
  • 澤 祥, 松多 信尚, 杉戸 信彦, 糸静線重点調査 変動地形グループ
    セッションID: P112
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     地震調査研究推進本部は,糸魚川-静岡構造線(以下,糸静線)での重点的調査観測を平成17年度から始め,発表者等はその中で変動地形学的手法によって活断層の位置情報と変位量情報を高精度化する作業を進めている.平成19年度は,糸静線中部南半:茅野~富士見~下蔦木と南部北半:下蔦木~白州の調査を行った.本発表では,活断層の位置情報(地形図等に表示)と変位量情報(断面図・平均変位速度分布)を示すことを目的とし,活断層の特徴(変位地形から推測される断層の形状と変位様式等)については杉戸ほか(2008,本学会)で報告する.
    2.調査方法
     次の様な手順で変動地形学的調査を行った.1)米軍撮影縮尺1/1万白黒空中写真,国土地理院1960年代撮影縮尺1/2万および1970年代撮影縮尺1/1.5万白黒空中写真を詳細に写真判読し,それをもとにした現地調査を実施,2)1の結果をもとに地形発達を加味し活断層の位置を示した地形学図を作成,3)2004年撮影糸静線パイロット重点調査1/1万カラーオルソ空中写真上に2の結果を展開,4)3をもとにした写真測量システムで断面測量を行って変位量を計測し,地形改変の激しい場所においては米軍と国土地理院の写真を図化評定して本システムに重ねて同様に測量を行った.この調査方法により,変位地形が失われた場所も含め現地測量と同程度の精度で従来よりもより高密度に変位量を求められ,より詳細な平均変位速度の検討が可能となった.
     活断層の認定にあたっては地形発達に留意し,河川の浸蝕では出来得ない形状の崖や,堆積作用で説明できない上に凸型形状を示す斜面等,断層運動を想定しないとその成因が説明できない地形の存在を確認した.抽出した活断層線は,I:存在とその位置が確実厳密に特定できるもの,II:存在は確実であるが,浸蝕堆積作用・地形改変によって厳密な位置が分かりにくくなっているもの,III:存在は確実であるが,浸蝕や埋積作用によって変位地形が消滅しているもの(以上は活断層)と,IV:断層変位地形としては認定できるが,第四紀後期の活動を示す明瞭な証拠がなく明確に特定できないもの(推定断層)の4つに分類した.
    3.地形面
     研究地域の地形面を,火山灰との層位関係,分布高度と連続性,既存の炭素同位体年代測定値および既存研究に基づき,それらを総合的に解釈して上位のHH面から下位のL3面までの9面に分類した.
    4.活断層の分布と平均変位速度
     茅野~富士見~白州の活断層の位置情報は,澤(1985)・活断層研究会編(1991)・下川ほか(1995)・澤ほか(1998)・田力ほか(1998)・田力(2002)・池田ほか編(2002)・中田・今泉編(2002)等と概ね整合的であるが,以下の新知見が得られた.
    1)富士見地区(茅野~富士見~下蔦木)
     活断層は縦ずれ変位と左横ずれ変位を示し,平均鉛直変位速度(概して1 mm/yr以下)に比べ平均水平変位速度(3.5~5.0 mm/yr)の方が大きく,この区間では左横ずれ変位が卓越する.北西~南東走向のトレースは,(1)宮川沿いの八ケ岳山麓扇状地の南西端を走る青柳断層(澤ほか,1998)(左横ずれ)と,左横ずれによって形成されたバルジ列の(2)北東側(南西上がり)と(3)南西側(北東上がり)の3条に大別される.富士見南端の先能から下蔦木までの釜無川沿いでは,トレースが浸蝕作用のために不明瞭で位置を確実に特定しにくいが,横ずれ断層運動に伴うバルジ形成をうまく説明できることから,(2)(3)のトレースが下蔦木の変位地形へ連続するものと予想される.
    2)白州地区(下蔦木以南)
     下蔦木以南のトレースはほぼ南北の走向を示し,山麓線付近を緩やかに湾曲しながら西上がりの縦ずれ変位をあたえ連続する.左横ずれ変位は大坊付近以南を除いて認められず,活断層の位置情報は従来と大きな相違はない.しかし,ピット調査を行い火山灰との関係を確認し,より詳細な地形区分を行った結果,変位基準である扇状地面の年代が従来よりも新しくなった.そのため平均鉛直変位速度は0.2~0.8 mm/yrとなり,従来見積もられていた値よりも大きくなった.
  • ALOS画像による
    阿子島  功, 坂井 正人, 渡辺 洋一
    セッションID: P113
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     ペルー、ナスカ台地の地上絵の考古学調査において、人工衛星Quick Bird画像によって地上絵分布図を作成すること、同画像の画像処理によって地形分類図を作成する手法の開発などについては先に述べた(阿子島2005.3 日本地理学会)。
     地上絵の分布と地形分類図によって表現される土地条件すなわち地表面の安定度・不安定度(台地表面の風化礫の保存の違いであり、遠望したときの地表の色の違いでもある)、平坦面のひろがり、起伏との関係を論じ、また約1500年間の地上絵の損傷程度、将来の地上絵の損傷の見積りなどについて検討してきた(阿子島2006.5東北地理学会, Sakai y AKOJIMA,2006ed,YAMAGATA Univ. のpp.41-59; 阿子島2007,山形大学社会文化システム研究科紀要のpp.139-149))。
     台地上面の地形変化を論ずることは、地上絵の保存計画において重要である。台地の地表面の変化の様式と速度は、微地形面によって異なる。現在の地表面に働いている地形変化作用は、日常的な砂嵐と10年に1回程度のエル・ニーニョの際の短期間の降水による表流水の影響である。1998年に顕著な土石流を発生した。しかし、土石流が生ずる河川は台地面のなかでも限定的であり、河川の作用の及ばない部分に選択的に地上絵が集中していることもうかがわれる。
    【今回の検討目的】 2006年2月17日の洪水によって、どのような地形変化が生じたかを、洪水の前後の2時期のALOS画像の比較によって明らかにする方法を検討した。前述の「台地面の安定・不安定度による微地形面3区分」のうち、最も不安定な河道部分の変化過程の検証である。
    【資料】 山本 睦氏(総合研究大学院大学 文化科学研究科)と在ペルーのウーゴ・津田氏は 2007年2月17日夕刻にナスカ台地のパンアメリカンハイウエイで洪水が道路に冠水する場面の写真・ビデオを撮影していた。この洪水痕跡は2007.12でも明瞭に残っており、現地観察・空撮することができた(図1 台地東部)。 使用できたALOS画像は、2006年12月2日撮影(図3)および2007年6月4日撮影(図4)である。
     QuickBird画像は、最小分解能が0.7mであるが高価である。ALOS画像は最小分解能が2.5mであるが、比較的安価で広い範囲の分布図作成に適している。
    【方法】 同一範囲の画像の明るさ分布がほぼ似たグラフとなるよう調整したのち、空撮画像を参考に新規の土石流範囲を抽出できる明るさのしきい値で2値化して更新された流路跡を抽出した。新旧2画像(図3,4の例)は、それぞれ撮影条件が異なるために原画の明るさ分布が厳密には異なることと、しきい値の設定に任意性が残るという問題があるが、両者の平面パターンの差から新規の土石流流路部分は検出可能である。
    【結果:更新された流路の分布の特徴】 明るい色調として表れる「更新された地表面」の分布の特徴は次のとおりである;
    1. 雨域が狭かったためか、台地上面を刻む河流群のうち、となりあった数kmの範囲で河道が更新されたところと、そうでないところがある。扇頂より数km上流より始まり、それより上流側では更新が明瞭ではない。
    2. 周辺の丘陵の斜面に顕著な更新は生じていない。
    3. 更新部分は面的ではなく線的である。
    4. 更新河道は台地の上端から下端まで10~15kmに及び、下流端は緑多い低地に達して不明瞭となる。更新されなかった支谷の谷底面とは不協和合流を生じている。
    5. 台地内で洪水流が道路を横切る箇所では、一時的な堰きとめが生じて、道路に沿って流れた後に道路の低所から流れ出すため、流路のつけかえが生じているところがある(図5の例 空撮斜め写真)。
  • 小林 良幸, 倉茂 好匡
    セッションID: P114
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. はじめに
     出水によるかく乱を頻繁に受ける河川中下流部では河畔林が形成される。河畔林は周辺の土地利用や河川改修が進んだため、日本の多くの河川では天然の河畔林を見ることは難しい。河畔林は出水によるかく乱に依存して更新をする。このため、ダムなどによって土砂流出が減少し、水位が安定化すると、河畔林は更新できなくなる可能性がある(新山 2002)。
     しかし、日本において、ダム運用が河畔林に与える影響を検証した例はほとんどない。高木・中村(2003)は1998年に運用開始となった札内川ダムの直下流で調査を行い、ダム運用により冠水頻度が大きく低下したことを報告した。さらに、ヤナギ科植物の更新サイトが減少し、河畔林は遷移後期種に遷移していくことが予測されると報告した。しかし、札内川中下流部におけるダムの影響を検証した例はない。そこで、本研究では札内川中下流部に成立する河畔林を調査し、ダムによる影響を検証した。

    2. 調査地概要・調査手法
     札内川は北海道十勝地方を流れる川である。札内川は平野部でダムのない支流、戸蔦別川と合流し、十勝川と合流する。調査地点を戸蔦別川との合流前後2地点に設けた。合流前、合流後の地点をそれぞれSite 1, 2と称する。Site 1とSite 2はおよそ15 km離れている。両地点を踏査し、植物群落の分布を記録した。さらに群落の中よりいくつかの個体を選抜し、根元で切断した。実験室に持ち帰った後に、年輪数を判読し、樹齢を求めた。これらの調査を2007年8, 9月に行った。

    3. 調査結果・考察
     Site 1, 2ともにケショウヤナギやオオバヤナギ、エゾヤナギの幼樹(樹高3 m以下)が多く見られた。これらの多くは樹齢3年以下であった。また、Site 1では樹高10 m程度のエゾヤナギやオオバヤナギが生育していた。これらの樹齢は6~10年であった。Site 1, 2ともに裸地面積は少なかった。
     樹齢10年のヤナギが発芽した年は1998年である。Site 1ではダム運用後冠水頻度が低下したことを示唆している。一方、Site 2は樹齢5年までの個体で占められていた。このことは定期的なかく乱作用を現在でも受けていることを示唆する。この理由の一つとして、支流戸蔦別川の出水の影響をあげることができる。
     しかしながら、Site 1, 2ともに木本植物が数多く生育していることは事実である。ダム運用が河畔林に与える影響を知るためにも、長期にわたり札内川河畔で林の分布を調査していくことが必要である。

    引用文献
    新山馨 2002. 河畔林. 崎尾均・山本福壽編 『水辺林の生態学』. 61-93. 東京大学出版会
    高木麻衣・中村太士 2003. ダムによる流量調節が河畔林に及ぼす影響について-北海道札内川の事例-. 日林誌, 85: 214-221.
  • 桶谷 政一郎, 春山 成子, 深野 麻美
    セッションID: P115
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1. 背景
     蛇行州の堆積過程に関して、Allen(1970)のモデルが典型例とされる。ところで、メコン川の下流部のカンボジア地域については、久保(2003, 2006)が洪水特性に着目し、またOketani et al. (2007)が氾濫原の地形特性に着目し、氾濫原の地形区分をおこなっている。さらには、Hori(2007)、Tamura(2007)によって、対象地域周辺の沖積層の地質構造・堆積年代が明らかにされつつある。また、(社)土木学会水理委員会(2000)によれば、メコン川河道の水平方向の遷移は、おおよそ10m/yrであるとしている。しかしながら、同地域での、メコン川河道の蛇行の前進や側方移動の過程についての知見を与えるには至っていない。
     そこで本研究では、メコン川の下流域でポイントバーが明瞭に見られる、カンボジアのコンポンチャムからプノンペン間の河道を対象として、河道の遷移過程を明らかにする。

    2. 研究対象地域・河川
     メコン川の下流部は、いわゆる「メコンデルタ」と総称される広大な沖積平野を持ち、対象地域はそのメコンデルタ頂部より、ベトナム国境に至る地域の一部である。

    3. 研究手法
     対象地域のなかで、計測作業のアクセスに適した蛇行州を1箇所選定した。蛇行州の発達方向に沿うと思われる横断線を一つ設定し、横断線上の3箇所にて、それぞれ、約300cm深までの試料の採取・層相観察を行った。資料の採取時期は、2007年6、8月である。それらのそれぞれ2点の土壌を年代測定の試料として用いた。年代測定は、(株)パレオ・ラボに依頼した。
     また、オルソ化SPOT画像を用いて、蛇行州のリッジをトレースし、発達方向とその過程を平面的に捉え、年代測定の結果とあわせ、蛇行州の発達過程・移動速度を求める。

    4. 結果・考察
     柱状図(図)によると、地点070607では、上方に向かって堆積厚の薄くなる砂・シルトの互層が見られた。蛇行洲の前進により、堆積物の供給量が減少したことが伺える。地点070815ならびに地点070817については、明瞭な砂泥互層は、目視では確認できなかった。氾濫源濠堆積物の可能性もあるが、表層付近の細粒堆積物を除いては、粗粒砂層を挟む細砂層が主となる。地形図上で約650m河岸より内陸である地点070607での年代値より蛇行州の遷移速度を算定すると、0.37~0.50m/yrの横移動速度との結果を得た。さらに内陸側の2点に関しては、年代の逆転が生じていた。この区間で河道のカットオフが生じていた事を示唆する。

    【文献】
    Oketani, S. et al. 2007. Floodplain Characteristics of the Mekon Delta in Cambodia. Geographical Review of Japan. 80(12):693-703
    (社)土木学会水理委員会, (社)国際建設技術協会. 2000. メコン河調査団報告2000年3月
  • 竹内 康憲, 加賀谷 隆, 中村 智幸, 須貝 俊彦
    セッションID: P116
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     イワナ(Salvelinus leucomaenis)は冷水性のサケ科魚類で、本州では主に河川上流域に生息する。本種は重要な水産、レクリエーション資源であるとともに、河川食物網の最上位栄養段階にあり、渓流の自然の豊かさを表すシンボリックな存在である。ステッププール河道においては、河川性サケ科魚類の生息数は瀬に比べて淵に多いことが多い。サイズ、形状、流入様式やカバーの特性が異なる淵は、イワナにとっての好適性が異なると考えられるが、淵の地形特性とイワナの生息場所利用を詳細に検討した研究はない。本研究は、基盤岩石が連続的に露出する渓流と岩屑に覆われる渓流を対象として、ステッププール河道における淵の地形特性を定量的に把握し、それらとイワナの生息数、生息個体の体サイズとの関係を明らかにすることを目的とする。
    2.調査地
     栃木県思川水系大芦川上流から3調査区間(S,A,F;区間長130~160 m、標高580~960 m、河道幅2~7 m)を設定した。いずれの調査区間も禁漁区内に位置し、15~25個の淵を含む。区間S,Aは露岩が連続し、縦断勾配は28,19%であるのに対し、区間Fは巨~大礫の堆積地形を示し、勾配は8%と比較的小さい。
    3.調査方法
     淵の測量とイワナの捕獲調査を2007年8月に行った。淵に2本ないし3本の測量棒を設置し、5 m箱尺の上部に取り付けたデジタルカメラから撮影を行い、撮影した写真を簡易補正した後に淵の水表面積を求めた。写真撮影の際に河岸部に形成されたカバーの位置をテープで示すことで、カバー面積とその淵の水表面積に占める割合を求めた。また、最大長、最大幅、最大水深およびその位置、流入口上部との比高、上流の淵までの距離を測量するとともに、淵の容積、最大長幅比も求めた。調査区間ごとに淵の各環境変量間のSpearmanの順位相関係数を求めた。イワナはエレクトリックショッカーによって捕獲し、各個体の体長を測定した。調査区間ごとに、各淵の各環境変量と、捕獲個体数および淵内の最大個体の体長とのSpearmanの順位相関係数を求めた。その際、有意水準はSequential Bonferroni法にて補正した。
    4.結果
     いずれの調査区間においても、淵の環境変量において、水表面積、容積、最大長の間には正の相関が認められた。区間S,Aでは、これらの変数とさらに淵の最大水深との間に正の相関が認め られた (Fig)。区間Sでは、相対的に規模の大きな淵が存在した。3調査区間すべてにおいて、淵の水表面積、容積、最大長とイワナの個体数との間には有意な正の相関が認められた。区間S,Aでは特に高い相関係数(rs > 0.7)を示すとともに、最大水深と個体数の間にも有意な正の相関が認められ、さらに、流入口上部との比高もしくはカバー面積、流入部から最大水深の距離と、個体数の間にも有意な正の相関が認められた。区間S,Aでは、淵の水表面積、容積と淵内の最大イワナ個体の体長との間に有意な正の相関が認められたが、区間Fでは最大個体体長と有意な相関を示す淵の環境変量はなかった。
    5.考察
     いずれの調査区間においても、大きな淵に多くのイワナが生息していた。このことは、淵の環境収容力は淵の規模によって規定されることを示唆するものである。規模の大きな淵では水の滞留時間が長く、したがってイワナの主要な餌となる流下動物が長時間滞留し、採餌効率が高いことも考えられる。区間S,Aでは、淵の最大水深とイワナ個体数の間にも正の相関があった。水深が深い淵は渇水による空間の減少や個体間干渉、被食リスクを軽減することが考えられる。区間S,Aでは水表面積の大きな淵では水深も大きいが、区間Fでは淵の面積と水深は相関を示さない。淵の水表面積とイワナ個体数との相関が、区間Fよりも区間S,Aで高かったのは、このためと考えられる。区間S,Aでは、流入口の比高やカバー面積、流入部から最大水深の距離とイワナ個体数との間にも正の相関が認められた。これらの変量はイワナの採餌効率や被食リスクと関係するものと推察される。大きな淵には、大きなイワナが生息する傾向が認められたが、淵の規模と最大個体のサイズに有意な相関が示されたのは区間S,Aのみであった。基盤岩石が連続的に露出するような勾配の大きな渓流の淵では、競争的に優位な個体が大きく成長する上で有利な水表面積、深さ、流入口の比高、カバーといった地形条件が相関して形成されやすく、かつ大きく発達しやすいと推察される。
  • 矢加部 友, 岡 秀一
    セッションID: P117
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     小笠原諸島におけるリュウキュウマツの侵入と乾性低木林の植生構造との関係を検討するため,リュウキュウマツの侵入に注目した兄島,父島における乾性低木林の類型化を試み,立地を規定する要因として土壌,地形を中心とした自然環境について検討した.さらに,リュウキュウマツの分布パターンや生長量との対応関係について議論した.
     1978年から2003年にかけて,兄島では33%,父島では0.4%の裸地が減少した.現在のリュウキュウマツ個体群の36%は1978年の裸地に立地したものであり,2003年にはリュウキュウマツやモクマオウが優占する移入種群落を形成していた.兄島と父島の乾性低木林においてはリュウキュウマツ個体群の侵入がみとめられた.
     父島と兄島の乾性低木林は,平均樹高が低く1m未満にほとんどの樹冠が集中するL型,平均樹高は1.5~2.4mで1m未満の個体が多く密度の高いMD型,樹高が高く1m未満に樹木がみられHS型の3つに分類される.リュウキュウマツは乾性低木林の群落高に対応して樹高を変化させている.樹高が高い群落ほど土壌層が厚く,傾斜が緩やかな場所に立地しており,土壌条件の差異が乾性低木林の群落高を規定していることが示された.斜面における乾性低木林は,斜面下方に向かうにつれて樹高と立木密度が変化し,L型,MD型,HS型へと移行する.この変化にともなって父島では種組成の著しい変化がみとめられ,兄島では種組成は変化が少なかった.
     各タイプにおけるリュウキュウマツの生育状況は兄島と父島で異なる.兄島ではL型と限られたMD型,父島ではL型,MD型,HS型すべてに生育が観察された.また,兄島のリュウキュウマツの生長量は,父島に比べて大きく,植生タイプではMD型で大きかった.一方,父島のリュウキュウマツの生長量は,種の多様性が高いMD型において小さく,他種との競合がリュウキュウマツの生長を阻害している可能性がある.リュウキュウマツの樹齢は兄島で小さく,定着年代がそろっているのに対し,父島ではさまざまな樹齢がみとめられた.
     一連の立地過程,リュウキュウマツの生育状況は,乾性低木林でのリュウキュウマツの定着からの段階が兄島と父島で異なっていることを示した.兄島のリュウキュウマツは1975年以降から定着が激化し,裸地を中心に拡大しており,現在の乾性低木林への拡大は途上段階である可能性がある.父島のリュウキュウマツは,1968年以前から一定の更新動態を示しており,撹乱などによるギャップを中心に乾性低木林の構成種のひとつとして更新を続けていることが示された.
     したがって,今後のリュウキュウマツの立地は,兄島においては裸地を中心としながらも徐々にHS型のような林分にも生育範囲を広げることが予想される.父島では,撹乱によって生じたギャップを中心に生育していくことが考えられる.さらにリュウキュウマツの分布は,近年の小笠原の乾燥化や松枯れに大きく影響を受けることが示唆された.
  • 畑地作付けの変化が河川流出へ与える影響
    清水 裕太, 小寺 浩二, 宮下 雄次
    セッションID: P118
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I はじめに
     これまで筆者らは神奈川県三浦半島において,集約的農業が周辺の地下水や河川に与える影響を明らかにするため,半島南部を対象に広域的に地下水と河川について調査を行ってきた。それらの結果より,地下水や河川において,高濃度の硝酸性窒素が検出された地点が確認された。しかし,集約的農業地域においても生活排水整備が整っていない地域も存在することから,酸素同位体比を指標に,硝酸性窒素を生活排水起源と農地起源に分別することを試みている(宮下,2007)。その結果,生活排水の寄与率は3 ~30%と算出され,一部の地域では同位体比による推定値と同じ寄与率となったが,大きく異なる地点も見られた。
     これまで,主な発生源として考えられている農地の作付け状況と地下水,河川との関係は把握できていないことから,本研究では,半島南部に位置する小河川江奈川を対象に,作付けの変化が河川へ与える影響について考察した。
     対象地域に設定した江奈川流域は,半島最南端に位置する流域面積およそ0.98km2ほどの小河川である。流域内の土地利用は,畑作地と森林で90%以上を占めており,半島内でも農地面積率の最も高い流域である。

    II 研究方法
     2006年6月から2007年6月まで月例で,江奈川上流部と末端部に調査定点を設け,水温・電気伝導度,pH,アルカリ度,主要溶存成分を測定した。それと併せて,同年10月より流域内の畑作地を対象に,目視による現地踏査を行い,畑地の作付け状況の把握と,その成育具合(3段階)を白地図に記録した。それらの結果を,ArcGIS9.1を用いて畑地ポリゴンに作付け情報を属性データとして入力し,単位面積当たりの施肥量(施肥基準値)と,月別の投入肥料の推移と河川水質との関係を比較した。

    III 結果と考察
     2006年10月の作付け状況は,9月に播種されたダイコンの苗と収穫期を迎えたキャベツ,収穫後の裸地が混在していた。その後,2007年1月頃よりダイコンが収穫され始め,徐々にキャベツへと遷移していった。河川水中のNO3濃度は9月からの播種と対応して上昇傾向が確認されたが全体的に見てなだらかな下降傾向が読み取れる。
     流量に関しては,2006年12月の調査日は当日を含めて累計20mmの降雨があったが変化は無いことから,降雨の影響は即座に河川へ応答することはなく,ある程度日数が経過してから流出することが明らかとなった。 そのため,2007年1月に負荷量が増大した原因は6日前に28mmの降雨に起因している可能性が考えられた。
     また,GISを用いて計算を行った肥料投入量(収穫による減少分は考慮してある)と実際に観測された負荷量は一致せず,実測値の方が低い結果となった。そのため,浸透速度に制限されている,もしくは河川末端部への流出過程中で消失している可能性が考えられる。

    IV おわりに
     畑地の利用状況が河川へ与える影響は,流出に関しては,降雨イベント発生から即座に応答しないことが,また,原単位法による窒素収支を計算した結果,流入量と流出量が一致しないことが明らかとなった。
     しかし,降雨流出特性に関しては,月に一度の調査のため,自記録計を用いた連続観測等の観測精度の向上が検討された。
  • 河野 忠
    セッションID: P119
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     四国八十八ヶ所霊場を巡る遍路道は古来重要な道として栄えてきた。この遍路道は時代的な背景によってかなりの変遷がみられ,相当大きなルート変更もあったことであろう。四国八十八ヶ所霊場は弘法大師が設定したことになっているが,遍路道はお遍路が開拓,整備していったものであると思われる。遍路道と湧水の空間的な存在意義は,社会学や民俗学的な観点から研究が行われている。しかし,現在のルートが何故設定されたのかという検討は行われていない。その一つの試論として,実用的および自然地理学的な観点から遍路道の存在意義を考え,八十八ヶ所霊場途中にある水場から検討する。
     お遍路は札所を巡っていく際に,道中の水場で休憩し水を補給して旅を続けなければならない。従って,水場の無い遍路道は次第に廃れていき,水場のある遍路道が開拓されていったと考えることができる。この遍路道途中にある水場の中には弘法大師が杖を突いたら水が出たという「弘法水」の伝説が数多く語り継がれており,四国内だけで100ヶ所以上,全国で1400ヶ所前後存在していることが明らかとなっている(河野,2002)。四国では札所の寺院に弘法水が存在している場合が多いが,遍路道途中にも相当数の弘法水が存在している。従って,お遍路は途中に水場のあることを重要な条件として遍路道を策定し,そこに弘法大師の偉大な足跡を後世に残すために路傍にあった湧水に,弘法水の伝説を摺り合わせていったと考えられる。
     一方,弘法水の水質は,一般的な湧水と比較してミネラル分が異常に多く含まれていることがわかっている(河野,2002)。遍路道のある四国はほぼ全域が堆積岩地帯であり,そこから湧出する水はミネラル分に乏しい。お遍路のように長距離を歩く人にとってミネラル分の補給は重要であり,そこで,経験的にミネラル分の多い水場が選ばれたのではないかと考えられる。実際,遍路道上の湧水とそれ以外の湧水のミネラル分を比較すると,倍近い濃度差が検出された。従って,四国遍路道における水場はお遍路にとって体調維持のために重要なミネラルに富んだ湧水のある道が淘汰され残されたものと考えることができる。
  • 田中 誠二
    セッションID: P120
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     日本付近では,一年を通して前線の出現がみられ,その中でも梅雨期と秋雨期において顕著になることが知られている.このうち梅雨期についてはその知名度や農作物への影響,また梅雨入りや梅雨明けの発表などもあり,今までにさまざまな解析が行われているが(たとえば吉野(1965)など),秋雨期についてはまだあまり解析がなされていないのが実情である.
     そこで本研究では,日本付近の秋雨期における前線の出現頻度を作成し,近年における特徴を探った.

    2.研究方法
     まず,気象庁が作成している地上天気図を用い,毎日00世界標準時(UTC)における前線の位置を把握した.この際に使用する断面として東経110度から東経170度断面まで10度毎に7断面とした.この7断面について天気図の範疇で断面と前線が交わる緯度を読み取った.この時読み取り誤差なども考慮し,0.5度間隔のデータとした.
     次に,このデータを縦軸に緯度,横軸に年とする図に断面・月毎に出力した.ただしデータを直接使用すると出現する前線の数があまりにも少なくなり,全体的な傾向を見出すことが困難になると判断したため,該当緯度を中心とした5項目合計値(±1度以内の前線出現数の総計)を使用した.
     最後に作成した図より近年の前線出現の特徴を調査した.

    3.結果
     今回は東経140度断面についての結果を以下に述べる.
     まず,8月についてみてみると(図1),北緯30度から北緯40度にかけて,数年おきに頻度の高い年が現れた.特に1993年,1995年,1998年,2003年と2004年では他の年と比べてもその出現は顕著であった.これらは,日本において冷夏,もしくは北冷西暑となった年と対応する可能性が高い.
     また,北緯42度付近においては主に「蝦夷梅雨」によるものと推察される別のピークが1980年代から1990年代前半にかけて現れた.
     次に9月では(図2),北緯33度から北緯35度付近にかけての前線の集中帯が明瞭に現れた.特に1990年代前半における出現が多く,近年では集中帯がやや広くなる傾向が認められた.
     さらに,1989年では特異的に北緯40度付近に出現頻度のピークが現れていたが,これは9月前半に東北地方に停滞した秋雨前線の影響が現れたものではないかと推測される.
     最後に10月においては(図3),北緯30度から北緯35度付近にかけて前線出現の集中帯がみられたが,この中でも特に1990年代前半における出現が多かった.また1990年から2000年にかけて,この集中帯が徐々に南下する傾向が明瞭に現れた.
  • 財城 真寿美, 大羽 辰矢, 平野 淳平, 森島 済
    セッションID: P121
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     過去の気候の復元には、様々な代替データが用いられるが、日本では各地に残された古日記の天候記録を使用した事例が数多く報告されている(谷治・三沢 1981など)。山形県では青山(1994)が東置賜郡川西町で稲刈帳を用いて1710年から1860年までの気候復元を行った。
     本研究では古日記に記された天候記録を用いて、山形県東置賜郡川西町周辺地域の小氷期を含む1830年から1980年までの気候を復元することとした。さらに、日本では季節イベントとして長く雨天が継続する梅雨が見られるため、降水日数の天候割合により、梅雨入り、梅雨明けが判断可能と考えられる。そこで、梅雨期間に着目し、その長期変動を検討した。また東北地方は盆地毎にも気候が異なるため、米沢盆地の一部である川西町の気候を復元することは意義がある。

    2.資料・復元方法
     本研究で用いる資料は、「川西町史上巻」に整理・収録された「竹田源右衛門日記」の天候記録を用いる。この記録は山形県東置賜郡川西町の下小松で記され、1830年から1980年までの記録があり、欠測が全くない。解析に際し、天候記録を『晴』、『曇』、『雨』、『雪』、『風』の5種に分類し、電子化を行った。
     梅雨期間の決定とその長期変動を検討するため、天候記録のデータに11年移動比と11日移動比の処理を行った。次にt検定により、『雨』の天候割合を用いて「梅雨」入り・明けを、『雨』および『曇』の天候割合を用いて「梅雨空」入り・明けの月日を決定した。5月の梅雨入りや8月の梅雨明けも考慮に入れるため、検定期間は各年の5月1日~8月31日までの123日間とした。各年について1日毎に前後20日間の天候割合に有意な差があるかを検定し、検定統計量が棄却域となり、かつ最も大きい場合にその年の「梅雨」、「梅雨空」入り、および「梅雨」、「梅雨空」明けとした。

    3.梅雨期間の長期変動
     復元した「梅雨」、「梅雨空」入りと「梅雨」、「梅雨空」明けの長期変動を図1に示す。また、1835年~1975年(151年間)までの平均的な梅雨入り、梅雨明けをt検定で求めた結果、平均的な梅雨入りが6月19日、梅雨明けが7月19日であった。
     梅雨入りの特徴的な年代としては、1868年を中心とする年代から顕著に早まり、1897年を中心とする年代まで続く。その後、約20年間隔で梅雨入り日の変動が見られる。
     梅雨明けでは、1882年ごろから徐々に梅雨明けが遅くなり、その傾向が1892年を中心とする年代まで続く。1893年~1896年については有意な差が見られず,梅雨明けが決定できないため空白とした。1897年~1907年を中心とする年代では、8月9日~8月12日で推移していき、平均的な梅雨明けより21日~24日遅い傾向となる。1923年~1929年を中心とする年代では、梅雨空明けが梅雨明けより遅い傾向となり、梅雨が明けた後もどんよりと曇った天候が続いていたと考えられる。

    参考文献
    青山高義 1994.山形県の小氷期後期における気候の復元について.東北日本における環境変化に関する研究.山形大学特定研究経費報告書 102-123.
    谷治正孝・三澤明子 1981.天保飢饉前後の気候に関する一考察.横浜国立大学理科紀要 28: 91-108.
  • 田上 善夫
    セッションID: P122
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I 気候変動とその影響
     中欧を中心とした歴史時代の気候変動が、ブドウ収穫期日の変動やブドウ栽培地域の変動などから、知られてきた。ブドウ栽培の北限地域において、年々の生育期間の天候が収穫におよぼす影響は大きい。主としてワイン用のブドウであるが、長期の変動は栽培品種や醸造方法などにも影響したと考えられる。近年の世界的なワイン産地の変化の中で、欧州でも従来の主産地では生産量が急減する一方、北方では増加し、これには温暖化の影響が指摘されている。こうした気候変動の影響の解明は、一方で歴史時代の気候変動研究にも資することが期待されるが、ここではその一つとして、アルプス以北における気候変動と現在見られるワイン生産の変容のかかわりの分析を試みる。

    II 中欧のワイン生産地域
     ドイツではワイン栽培地区(ベライヒ)は、主要な13の地域(ゲビート)にまとめられる。このほかに、南東部のレーゲンスブルク、中部のカッセル、北部のポツダム周辺に加え、バルト海に100kmほどのポンメルンのノイブランデンブルク付近にも小規模なものがみられる。いずれも小規模な丘陵地域にあたっている。栽培面積は比較的広い8地域が大部分を占め、狭小な5地域の合計は2.5%にしかならない。生産量もほぼ同様である。単位面積当生産量は、ザーレ・ウンシュトルートやザクセン、ミッテルラインなど北辺では少ない。

    III 平年の気候条件
     ワインの品質には、土壌、微気候、水はけなどがかかわるが、北限のドイツではとくに天候の影響が大きく、日照、風、遅霜、早霜などが考慮される。ドイツ気象庁(Deutscher Wetterdienst)の、気候資料を使用する。
     平年の気候では5~10月の気候との関係が指摘されている。収穫はラインガウでは19世紀末には10月末であったが、20世紀以降急速に早まり、現在は10月初めである。この期間に日照時間が長く、降水量が少ないことが条件とされている。こうした条件にあてはまるのは、一つは南部でアルプスからかなり隔たった地域、また北東部でバルト海から隔たった地域である。実際、栽培されていない北西部のブレーメンなどは、同期間に降水量は多く、日照時間は少ない。

    IV 近年の生産の変動と気候
     13の地域別の単位面積当収量の、最近の10年間の変化について、クラスター分析の適用により分類すると、およそ南北の地域で差異があるが、さらに複雑な分布がある。各型に属する地域の合成図からは、およそ、他と位相が異なる、変動が大きい、収量が多い、収量が少ないなどの特色がみられる。これは地域の自然的基盤における栽培方法により、超高級、高級、安定、北限などに相当するとみられる。

    V 生産への気候の影響
     ワイン生産の変動が、気候変動と一義的に対応しないことには、以下の要因が考えられる。まずワインの質は栽培面積とは関係なく、高級なプレディカートの割合はとくにラインガウとヘシッシェ・ベルクシュトラッセで高く、アールとザーレ・ウンシュトルートでは低い。また栽培品種が近年大きく変化したことも影響している。ドイツの主要栽培品種の特色は、以下である。白ではまずリースリングで、最良のワインとなるが、収穫量が少なく、晩熟でリスクが大きい。シルヴァーナーは、優良になりうる。ミュラー・トゥールガウは、リースリングとシルヴァーナーを交配したもので、収穫量が多く、リスクが少ないが、高品質にはならない。赤では、まずシュペートブルグンダー(晩熟ブルゴーニュ)という、ピノノワールである。また、ポルトゥギーザーである。かつて白ワインを作る品種は9割近くを占めたが、1980年以降に赤ワイン品種が急増して、2005年には4割近くに達している。
  • 流山市市野谷の森を事例として
    内山 真悟, 森島 済
    セッションID: P123
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     緑地によるヒートアイランド緩和効果に関する研究は新宿御苑や明治神宮・代々木公園など都市内緑地を中心として数多く行われており、緑地から流出する冷気の到達範囲や緑地内の冷気の鉛直構造など、ヒートアイランド緩和効果が期待される緑地内冷気の構造が明らかにされている(例えば、成田ほか 2004; 浜田・三上 1994)。しかし、これまでの研究で対象とされている緑地は樹林や芝生、池などの複数の要素で構成されているため、樹林のみで構成される緑地の冷気の鉛直構造は従来の研究結果とは異なると考えられる。
     本研究は千葉県流山市市野谷の森を対象として、緑地全域が樹林で構成される緑地において形成される冷気の鉛直構造および緑地外へ流出する冷気の鉛直構造を明らかにすることを目的としている。本報では2007年夏季に行った気温の鉛直観測の結果から、緑地中心付近(以下、緑地中心)からに緑地縁辺部(以下、縁辺部)かけて流出する冷気の鉛直構造について報告する。
    2.観測方法
     樹林で構成された緑地内の冷気の形成過程と冷気の流出を把握するため、緑地中心と縁辺部で定点観測を行った。観測高度は0.5、3、5、10mで、2007年7月21日-9月30日の間に行った。観測間隔は1分間隔である。センサーには塩ビ管を2重にして外側を断熱シートで覆った自作シェルターを用いている。
    3.緑地中心から縁辺部への冷気の流出
     緑地中心と縁辺部の気温に冷気の流出による対応関係が見られた8月16日0-5時にかけての縁辺部(a)と緑地中心(b)の各高度の気温変化を図に示す。
     緑地中心は0-5時にかけてどの高度も緩やかな気温低下を示すが、縁辺部では1時半(図a A1)、2時30分-3時(図a B1)に明瞭な気温低下を示す。縁辺部において明瞭な気温低下を示したA1とB1の時間に着目して緑地内部の気温を見ると、A1とB1の時間より30分-1時間ほど前から気温低下が他の時間帯に比べて弱い、もしくはほぼ横ばいとなっている(図b A2 B2)。これは緑地中心で形成された冷気が縁辺部へ向かって流出し、縁辺部は明瞭な気温低下が起こり、緑地中心では冷気を流出したために気温低下が弱められたのではないかと考えられる。このような傾向は緑地中心と縁辺部の全ての高度で見られることから、冷気は緑地中心で10mまで到達し、10mの厚さを保ちながら縁辺部へ流出していると考えられる。また、緑地中心から縁辺部への冷気の流出を把握するため、縁辺部の気温低下が最も大きかった3mの気温を用いてA1の気温低下について、緑地中心と縁辺部を比較してみると、1時半の縁辺部の気温は約27.8℃、緑地中心の気温は約26.8℃であることから1℃の気温差を生じていることがわかる。そして縁辺部の気温低下後の1時35分頃の気温は27.2℃であり、1時半の緑地中心の気温より高い。そしてB1の気温低下も、A1の結果と同様の傾向が見られるため、これらの現象は緑地中心から縁辺部へ冷気が流出していることを示唆しているといえる。
  • 槙山 恵子, 長谷川 直子, 倉茂 好匡
    セッションID: P124
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     視程とは、ある方向を目視したとき、黒ずんだ目標を、それと認めることができる最大の距離である。しかし、気象台の視程観測では、方向に関係なく最短の視程を記録しているため、方向による「見え方」の違いや、気象条件に左右される、同一目標の「見え方」の詳細な変化を知ることは出来ない。
     物体を遠ざけると、物体は見えにくくなる。物体から発せられた光が、大気中を進む間に水蒸気や塵埃、雲粒によって散乱され、減衰するからである。つまり、物体の明るさや背景とのコントラストは大気環境や気象条件に大きく左右される。
     そこで本研究では、2007年4月から11月の間、毎日9時に定点から複数方向の決められた目標を観察し、目標と背景のコントラストを求めた。その上で、観測時の天気、観測点付近の相対湿度やエアロゾル量、目標の背後の雲の有無を調べた。これらの条件に基づき、目標の見え方が変化する要因について考察した。

    2.観測地域・観測方法
     滋賀県の中央には、県の面積の6分の1を占める琵琶湖がある。伊吹山地をはじめ、1000m前後の山脈が琵琶湖を取り囲むように位置する。
     彦根市は、琵琶湖北湖の東岸に位置する。観測点は地上高約44mのタワー最上部で、市内の湖岸に位置する。観測目標は、滋賀県内または周囲の府県との境に位置する6山地である。
     2007年4月9日から12月2日の毎日午前9時に、観測点から目標をデジタルカメラ(SONY サイバーショットDSC-T1)を用いて撮影した。画像処理を行い、目標の明るさ、背景の明るさ、目標と背景のコントラストを数値化した。
     コントラストは次式で表される。
    C=(B0-B)/B0
    (Cはコントラスト、B0は背景の明るさ、Bは目標の明るさである。)
     水蒸気量およびエアロゾル量は、彦根地方気象台、市内の大気自動観測局の観測データを用いた。

    3.結果・考察
     観測点から3kmの距離に位置する目標は、農地に囲まれている。晴天時、水蒸気とエアロゾル量が多い日に、コントラストが低下した(例として、相対湿度とコントラストの関係を図1に示す)。その原因について目標及び背景の明るさを調べたところ、水蒸気量が増加すると目標の明るさが明るくなるためだった。水蒸気は太陽光をミー散乱させ、白色光を発する。この散乱光が目標の明るさを明るくしたと考えられる。また、エアロゾル量が増加すると背景の明るさは暗くなった。その結果、目標と背景の明るさが接近し、コントラストは小さくなった。以上の関係を表1に示す。
  • 飯島 慈裕, 石川 守, 大畑 哲夫
    セッションID: P125
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I.はじめに
     モンゴル北部の山岳地域の北向き斜面には,カラマツを優占種とする森林が広がり,その地下部には永久凍土が存在する.森林内の土壌では,凍土面が不透水層となって暖候期の活動層(地表面付近の融解した土壌層)内に土壌水分を保つ効果があると考えられ,永久凍土は降水量が少ない地域でありながらも森林の成立する環境を維持する重要な役割を果たしていると考えられる。また,森林の生長ならびに蒸散活動には,積雪の融解から活動層厚の変化,降水量の供給,土壌水分貯留量の変化など,凍土環境下での水文気候が大きな役割を果たしている.
     本研究では,2004年から北向き斜面の森林内において,森林の樹液流測定と,林床での総合気象観測を継続しており,森林での水収支の年々変動を比較できる観測結果が蓄積されてきた.本発表では,4年間の観測結果を用いて,森林での植物生長・フェノロジー・蒸散量の季節変化に影響する凍土-水文気象条件の対応関係を検討した.

    II.研究地域と観測方法
     本研究の観測地点は,モンゴル国の首都ウランバートルの東北東約50kmに位置する,Tuul川上流のShijir川流域内の南北斜面である.観測サイトは,南向き草原斜面(標高1,670m)と,北向き森林斜面 (カラマツ(Larix sibirica Ledeb)が優占;標高1,640m)である.
     森林斜面では,地温,土壌水分量,Granier法による樹液流(カラマツ12個体)測定結果を用いた.50x50mの樹木調査結果から辺材面積の合計を推定し,平均樹液流速と総辺材面積の積によって樹木からの蒸散量を推定した.同時に,カラマツ4個体に対し,デンドロメータで直径方向の幹生長量測定を行なった.林床での長波放射量の比を樹木の展葉・落葉の指標とした.また,草原斜面の総合気象観測データから降水量の観測データを利用した.

    III.結果
     図1に2004~2007年の降水量,森林内の土壌水分量,蒸発散量の季節変化を示す.5~9月の降水量は194mm(2007年)~255 mm(2005年)で変動しているが,多降水の時期は年によってかなり異なっている.蒸散活動との関係では,6月~7月上旬の降水量と,その年の蒸散量の最大値(7月中旬~8月上旬での値)に良い対応関係が認められた.特に,降水が多かった2004年(6月1日~7月10日の降水量が103mm)は夏季の蒸散量のピークが最も大きくなった.また,2005年と2007年には7月中旬~下旬にかけて蒸散量が一時的に低下する期間が現れていた.これは約10日~半月程度降水量が少なくなるモンゴルの「雨季の中休み」(Iwasaki and Nii, 2006; J. Climate 19, 3394-3405)に対応するものと考えられる.このように,蒸散活動には植物生長期間内での降水のタイミングが重要であることが示唆される.
     植物生長の季節変化は消雪時期とその後の凍土融解との関係が深い.2004年,2007年は融解時期が早く,4月上旬から地温上昇と共に土壌水分量が増加している.
     以上から,この森林では,降水の時期に加えて,消雪時期と凍土融解(活動層発達)の開始の早遅が組み合わさることで,植物生長と蒸散量の季節変化,変動量が影響を受けていることが明らかとなった.降水量と森林蒸発散量の変動は森林からの流出変動を規定するため,ウランバートルの水資源としても重要なトーレ川における流域水収支の解明の上でも重要な陸面過程であるといえる.
  • 福岡 義隆, 丸本 美紀
    セッションID: P126
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    (1)はじめに
     昨今の温暖化に伴う熱中症などは数時間から一両日程度における温度の変化がもたらす熱ストレスである。しかし、通勤・通学で利用する電車の乗り降りで、短時間のうちに急激な温度変化にさらされて、瞬間的ではあるが相当な熱ストレスを経験することになる。そこで、本研究は、夏季における猛暑の外気からクーラーの効いた列車を出入りしたり、逆に極寒の冬季は暖房の効き過ぎた列車に出入りする時の熱的変化を定量的に把握することを目的とした。
    (2)研究方法
     共同研究者の一人が、通勤先の立正大学熊谷キャンパス(埼玉県熊谷市)と自宅の千葉県佐倉市の間を通勤する際に、「おんどとり」(RTR-53)を使用して片道約3時間を30秒間隔で自記録した。観測は、冬季(2006年12月、2007年2月)、春季(2007年4月)、夏季(2007年8月)それぞれ朝夕の通勤時間帯に実施した。なお、参考比較のために最寄の気象台・アメダス(佐倉・大手町・熊谷)と立正大学熊谷キャンパス内に設置してある総合気象観測装置の気温データも使用した。
    (3)結果と考察
     1:2006年12月20日の夕方における観測結果から外気(駅ホームなど)が10ないし11℃前後であるのに対して、暖房の効いた列車内に入ると20ないし25℃と十数℃も急上昇している。逆に、その高温状態から外へ出る時は、急激な降温を体験し、かなりの熱ストレスが予想される。
     2:翌22日早朝出勤時は外気温が7℃前後であるのに対して、列車内は23ないし25℃となり、やはり十数℃も急上昇していることがわかった。なお、ほぼ同時刻における気象台やアメダスなどの値は駅ホームよりさらに2℃ほど低く、列車内との温度差はもっと大きくなっている。
     3:夏は冬ほどの温度差はないものの、列車への乗り降りで急激な温度の上昇・下降が見られる。
    (4)あとがき
     かつて東北・北海道地方で冬季にトイレ内や浴室・脱衣所などでの脳卒中患者が多発したのは、急激な温度低下におかれた時に発生していたとされる。本研究結果のように、冬季、暖房した室内やおよび電車などから急に外に出た時に瞬時ではあれ、もっと大きな温度降下という現象が日常的であり、このことは特に高齢化社会では火急の課題であると思われる。
  • 熱収支的にみた評価
    松本 太, 福岡 義隆, 山本 享, 林 宏三郎, 稲垣 明子, 西川 健
    セッションID: P127
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     ヒートアイランドに象徴される都市の暑熱環境の緩和対策として,コンクリートやアスファルトに代わる舗装素材の開発,利用が挙げられる.本研究ではコンタイブロック工法とよばれる保水性,透水性の大きいブロックと芝生 とを組み合わせた素材を用いて,暑熱緩和に対する有効性の評価を目的として,気象観測を行った結果を報告する.
    2.実験概要
     実験施設は3m×3mを整地し,芝生を植え,その上に2パターンのコンタイブロックの区画を設定した(図1).1区画にはプラスチックポットに小型のブロックを324個,はめ込む形となっている.一方の区画は透水性の素材(セラック),他方は保水性の素材(エコプレート)を用いた.またコントロール面として芝生のみの区画を設定した.表1に気象観測の概要を示す.放射の観測に関しては芝生のみの区画で行っている.
    3.結果
     図2に晴天日における地表面温度を示す.透水素材,保水素材,芝生の順に各区画とも南中時付近で最も高く,区画間の気温差も大きくなっている.また同日における各区画のボーエン比を試算してみると,芝面と保水面のボーエン比が類似した傾向を示しており,透水面と比較して低い値で推移しているのがみてとれ,潜熱の効果がうかがえる.芝面は保水面のボーエン比が小さく推移しているのは,上下の水蒸気圧差が大きいことに起因していると考えられる.一方,透水面のボーエン比が高くなっている理由としては上下の気温差が大きい割に,水蒸気圧差が小さいためであると考えられる.とくに日中の時間帯で保水面と透水面における上下の気温差と水蒸気圧差が互いに対極的な値を示していることがわかる.また,ボーエン比の区画間の差が最高気温時前後の時間帯で大きくなっている.日の出,日の入りの時間帯では各面とも同様なボーエン比となっている.
     以上の結果から,保水面の方が透水面より芝生に近い効果を発揮しうる,すなわち暑熱緩和に有効と成りうると考察される.
  • 田畑 弾
    セッションID: P128
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     田畑(2007)において、屋敷林が多い地域であり、岩田(1999)において、風神を祀った不吹堂が存在する地域のひとつである、富山市南部における、局地強風を解析し、その影響、特に農業にかかわるものを考察した。
     強風の解析に用いたデータは、気象庁輪島測候所による高層観測より、850hPa面における風向を基準に、気象庁富山地方気象台、アメダス観測点の秋ヶ島、八尾、このほか、富山市大山消防署、立山町消防本部の、各風向風速計によるデータを地上の風データとして用いた。大沢野消防署のデータに関しては、2007年4月からのデータのみの保持であったため、2003年より観測しているアメダス秋ヶ島において、風速10m/s以上が観測された日を強風日とした。
     強風日と、輪島の850hPaの風向の関係は、冬期(12月~2月)はWNW~NW、春期(3月~5月)はSSE~Wを中心とした風向のときに強風が観測された。事例数は、冬期が56事例、春期が88事例、夏期が15事例、秋期が31事例である。なお、台風はそのうち夏期が7~8月に8事例、秋期は9月に2事例である。
     神通川の谷口である富山市旧大沢野町では、特産品としてイチジクを栽培する農家が存在する。この農家では、とくに強風が起こす果実の「葉ずれ害」から守るため、南向き、一部の園では西向きの防風ネットを張っている。
     イチジクの園芸カレンダーでは、4月に枝葉を伸ばし始め、8月~10月に果実を熟成させる。強風事例を重ねて考察すると、4~5月の強風が発生しやすい月を除いては、台風対策、または10月に日本海上を通過する低気圧によって発生する強風への対策で防風ネットを張っていることが考えられる。また、春期の強風に対する防風施設として、育苗ハウスにも防風ネットが張られている例があり、この場合は、屋敷林で覆われていない面に張られている場合が多く見られる。
  • 吉田 明弘
    セッションID: P129
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     地球規模の気候変動は,極地域から大気や海洋を通じて両半球に広がったと推測されてきた(Brocker and Denton, 1989など).近年,熱帯太平洋海域の海底コアの地球化学的分析(Mg/Caやδ18O)は,晩氷期における表層海水温(SST)が従来推定されていたものより大きく変動していることを示している(Visser et al., 2003など).また,この地域の晩氷期のSSTの変動が北大西洋のδ18O比より約2000~3000年ほど先行していることがわかった.このことは,熱帯海域が地球規模の気候変動に重要な役割を果たしていたこと示している.そのため,地球規模の気候変動による大気循環や気候テレコネクションを理解する上で,中緯度地域の高精度な古気候の解明が重要なである.現在,日本の気候は東アジアモンスーンの影響を強く受けており,これらは明瞭な季節性を作り出している.そこで,本研究は東北日本における定量的な気温を推定し,晩氷期の日本周辺地域における気候変動と比較し,その特徴を明らかにする.

    2.方法と結果
     本研究では,青森県田代湿原(吉田,2006)と福島県駒止湿原(吉田ほか,2008)を調査地として花粉分析を行った(図1).また,ベストモダンアナログに基づくPolygon 1.5(Nakagawa et al.,2002)を用いて花粉組成から気温・降水量を算出した.推定した気候要素は年平均気温(Tann),年間降水量(Pann),夏季平均気温(MTWA),冬季平均気温(MTCO)である.

    3.考察
    東北日本の晩氷期以降の気候変動
     晩氷期における東北日本では,年間平均気温は少なくとも現在より5℃以上低下していた.冬季平均気温は.降水量は1000mmで乾燥していた.これは,最終氷期における日本海の閉鎖による対馬暖流の流入の減少,さらには東アジアモンスーンの活動性の低下により,冬季の降雪量が著しく減少していたものと推測される.後氷期になると東北日本では,急激な気温の上昇し,降水量は気温の上昇に伴って増加する.とくに,冬季の降水量の急激が目立つ.したがって,温暖化に伴い日本海へ対馬暖流の流量が増加したことと,東アジアモンスーンの活動が活発化したことが原因と考えられる.
     晩氷期における東北日本の気候変動には,北大西洋地域のBølling/Allrød-Younger Dryas-Borealと同様の変動パターンがみられ,東北日本南部の気候変動の開始時期は北部のそれに比べ約2000~3000年早いことがわかった.そこで,南西日本や東アジア,シベリアなどの地域における晩氷期の再寒冷化(Younger DryasまたはACRに対応)について比較した.その結果,シベリア大陸高気圧(寒帯)が支配的な地域では約13000~12000年前,太平洋高気圧(熱帯)が支配的な地域では約15000~14000年前に再寒冷化が認められた.このことは,晩氷期の日本が寒帯と熱帯の両気候レジュームの影響を受けていた可能性を示している.
  • 山川 修治, 高橋 直之
    セッションID: P130
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    夏季の首都圏ヒートアイランド性豪雨に関して解析的研究を行った。豪雨に先立ち,東京東部に小規模低気圧の出現が認められた。
  •  
    土屋 俊幸
    セッションID: P201
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    はじめに
     日本における公害史上,深刻な水質汚濁のひとつである「水俣病」が1956年に公式に確認されてから50年の月日が経ち,法整備や設備対策が進んだ結果,公害問題は沈静化してきた.近年の環境問題においては,汚染源が一般生活の中に拡大してきており,汚染源の多様化,メカニズムの複雑化が進んでいる.事業系の施設や設備に対する特定の環境保全対策だけではなく,地域に合った環境保全を複合的に行うことが必要である.それには自然科学,人文科学,社会科学などを合わせた多角的な視点から,その地域環境の実態を明らかにすることが重要である.
     本研究では,複雑化した環境問題が顕在している場として,河川とその流域を取り上げる.流域環境においては,自然から人間の生活までが複雑に混在しているため,水質問題をはじめ,生態系保全,治水と利水との関係など様々な問題が潜在している.水資源の様々な利用がなされている神奈川県西部の酒匂川流域において,水環境の現状や変化,流域住民の意識,環境保全活動の現状を明らかにした.そして,流域環境保全への提案を行うことを視野に入れて,複合的,空間的視点から酒匂川流域の環境を解明する.
    結果と考察
    1水環境の推移
     40年間の水質データ,特にBOD(生物化学的酸素要求量)を用いて,水質解析を行った.年平均3.5mg/l前後であった40年前に比べ,法整備等により大幅に改善され,近年は1.5mg/l前後で安定している.近年には数値は小さくなったが,汚濁源が工業排水から主に生活排水に変わったこと,都市化が流域全体に広がったことから,流下による浄化作用が見られなくなるなど,水質の挙動が流域規模で複雑に変化するようになった.
    2流域住民の河川環境に対する意識
     流域住民を対象に5地点でアンケート調査を試みた結果,住民の意識や利用は各地点によって異なった.上流では,近接性の評価が高く,釣りや河原等の河川に近い利用が多い.一方,下流では,水害に対する意識が高く,河川敷のグラウンドや歩道等整備され河川から距離を感じるような利用が多い.その地点の河川環境が住民意識に影響を与えていることが示された.
    3環境保全活動の現況
     酒匂川において,企業が中心となり啓発活動を中心に活動している酒匂川水系保全協議会,水生生物調査を実施しているNPO法人神奈川県環境学習リーダー会など,様々な組織や団体が活動を推進している.しかし,各主体や各地域での活動は個々に行われており,流域として活動の連携はあまりとられていないことが明らかになった.
    4三つの視点からの流域環境の把握
     水質,住民意識,環境保全活動の三つの視点から酒匂川の流域環境を調査した結果,以下の点が明らかになった.
     河川環境(水質)の変化は,ある一地点だけで生じるのではなく,流域でつながっている.河川の環境保全を考えるうえでは流域規模で環境変化を捉えることが重要である.
     一方,酒匂川における流域住民の意識は居住地域を反映し,環境保全活動は主体ごとや地域ごとで独立して進められている.そのため,流域として一つにまとまった環境保全のスタンスが確立していない.
     また,化学的な指標(BOD)では40年間で水質の改善が進んでいるが,住民の意識では40年前に比べて水質は悪化したと評価された.この差異の原因として,河川利用の少ない人ほど水質が悪化したと回答しており,生活が川から離れたことによる川に対するイメージの悪化が理由として考えられる.また,堰や河川敷の公園などの周囲の状態を含めて河川環境の良し悪しを判断するという,化学指標とは異なる視覚的な評価軸が存在するとも考えられる.指標によって環境の評価は異なり,ひとつの指標では環境の現況を捉えきれるものではないことが明らかになった.
    まとめ
     現時点では酒匂川の水環境と住民の河川に対する意識は,水質の評価や空間スケールの点において合致してはいない.多岐にわたる流域環境の保全を行うには,時空間や環境の対象を幅広く捉え,水環境や住民意識に合わせて,保全活動を構築することが重要であるということ明らかになった.各地域,各主体の人々を連関させ,複数の視点から環境を把握し,環境と住民ともに満足させるような有機的なネットワークが形成されることが重要である.そして,流域住民が,保全活動の担い手となるような取り組みが必要である.
  • 川田 佳明, 黒木 貴一
    セッションID: P202
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     海岸砂丘に関する研究は、形成期の解明を行ったものや砂丘形成の原因解明を試みたものが主流である。環境問題への関心の高まりの中で、川田(2002)は福岡県の海の中道の砂丘に関し最近50年間の地形変化を検討し、沿岸流が既存の砂丘を削り、北西卓越風によってその背後や運搬先で新たな砂丘が形成されるという実態と原因を示した。また川田・黒木(2005)によれば、飛砂防止目的の最近の植林によって、砂の移動は停止したかに見えた。しかし継続調査によると、場所により砂の移動や停止状況に徐々に違いが見られ始めたため、その景観保全は最近の全体的な砂の動きを把握して考える必要が生じた。そこで海の中道のごく最近の地形変化と標高変化との関係を詳しく調査しその特徴をまとめた。
  • 斉藤 由佳, 長谷川 直子, 倉茂 好匡
    セッションID: P203
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     海岸や湖岸には多くのごみが散乱している。それらのごみの中には出水時により河川から供給されたものが多いという指摘がある(たとえば、村田ら, 1998)。滋賀県坂田郡天野川のごみの実態調査によると、河川には多くのごみが存在しており、そのごみの種類は周辺の土地利用とも関わっていると報告されている(寺尾, 2005)。実際に河川とその周辺を観察すると、特に橋とその付近にごみが集中的に投棄されているのを見かける。
     ところが河川の橋付近に散乱しているごみについて詳しく調査された研究例はほとんどない。
     そこで本研究では滋賀県彦根市を流れる犬上川の犬上橋周辺の河道に捨てられたごみの種別、分布を明らかにすることにした。

    2.調査地域・調査方法
     犬上橋は滋賀県彦根市を流れる犬上川にかかる犬上橋付近で行った。犬上橋は歩道はなく、片側一車線で自動車が対面通行することが可能である。調査期間は2007年9月6日から12月1日である。河道内に落ちているごみの供給源としては1.上流から流れてきた古いごみと2.橋の上から投げられた、もしくは河道内直接持ち込まれた新しいごみがあると考えられる。本研究では2.の新しいごみを対象とする。そこで、まず調査開始時にすでに散在している古いごみを全て回収した。その後74日間調査を行い、午前9時から午前11時の間に調査区画内に新たに持ち込まれたごみを回収した。回収と同時にごみの位置をクリノメーターを用いて記録した。なおこの間、出水などで上流からごみが流れてくることはなかった。
     回収したごみは「ビニール・プラスチック類」紙類」「金属類」「ガラス・陶器類」「木類」「布類」「袋ごみ」「その他の複合材」の8種類に分類した。なお「袋ごみ」とは、ビニール製の袋に様々なごみがまとめられているものとした。

    3.結果・考察
     調査期間中に計215個のごみを回収した。回収したごみの分布図を図1に示す。橋付近に散乱するごみは、橋から遠ざかるにつれて少なくなる傾向が見られた。また、橋の右岸側には合計個数の56.7%のごみが分布していた。また、右岸で目立っていたのは「袋ごみ」であった。
     この原因として橋の北東端に信号機があるため信号待ちをしている車から投げ捨てやすいこと、左岸側に比べ右岸側に住宅が密集していることとの関係が考えられる。

    引用文献
    寺尾美幸(2005)滋賀県天野川におけるごみの実態とその供給源 村田ら(1998) 大阪湾における海洋環境整備事業と浮遊ごみ分布予測システムの開発,土木学会第53回年次学術講演会,VII247,494-495
  •  
    川平 夏也
    セッションID: P204
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     日本は山がちな国土で降水量が多く,急流河川を多く持っているため,近代以降,エネルギー資源としての水力の開発が特に重視されてきた.また利水・治水のためにも,ダム建設の必要性が唱えられ,主要な河川のほとんどにおいて,高度経済成長期を中心に多くのダムが建設されてきた.
     ダムの建設は多くの場合,山間地域において行われる.日本の山間地域には,たとえ山奥であっても集落があり,農林業などが営まれている.特に河谷では,河川と結びつきを持ちながら存続してきた集落が多くあった.ダム建設は,河川をせき止めることで,広い範囲にわたって河谷を埋め,谷沿いの集落や耕地の水没を伴う.水没地の居住者にとって,ダム建設は,昔からの生活と生産の空間を奪われることになるほか,景観,住民意識等,広範囲にわたる大きな社会変化の要因となる.水没地域では,住民は移転を余儀なくされ,移住先として雇用の豊富な大都市が選ばれる傾向が強かった.したがってダム建設は,山村の人口流出と過疎化を加速させる重大要因の一つともなった.
     本研究は,静岡・愛知・長野3県にまたがる三信遠山岳地域の,天竜川中流部河谷を対象として,第二次世界大戦後のダム建設を契機とした村落社会の変化を考察した.まず流域の歴史を概観し,その基礎の上で,空中写真の判読による土地利用の分析を通じて,住民が河川と谷壁斜面で展開する生業と,それに結びつく文化的事象にも注目しながら,河谷における,河川および沿岸の空間利用とその変容について考察を進めた.その際,平面的な土地利用形態の分析だけではなく,河川と谷壁斜面双方を一体的にとらえて分析することにより,水没地域を中心とする,河川および斜面と沿岸の人間生活との関わりを考察することをねらいとした.
     第二次世界大戦後,国土総合開発の路線により,全国で大規模ダム建設が進められた中で,最初の事例の一つが,本研究の対象地に存在する,1956年に竣工した佐久間ダムであり,大型機械や近代技術を本格導入し,超大型貯水池の建設が可能になったことなど,それ以前の日本のダムとは大きく性格を異にする. 一方で,この地方は長く交通が不便で隔絶的な地域であり,「霜月神楽」に代表される民俗芸能や,土地と密接に結びついた伝統的な生活文化を維持していたが,それらはダム建設を契機に大幅な変貌をとげることになった.佐久間ダムの事例は,日本の国土開発を考える際に最も典型的な事例のひとつといえる.
     天竜川中流河谷には,第二次世界大戦後間もない時期に,米軍によって撮影された,1/10,000の空中写真が存在する.この空中写真は,対象地域のうち,天竜川沿岸のほぼ全ての区間をカバーしている.本研究では主に,1948(昭和23)年の米軍写真を用い,その判読作業を通じて河谷の土地利用を復元し,これと諸資料および聞き取り調査をあわせて分析を行った.
     対象とする地域は,天竜川の中流部の,佐久間ダム湖および隣接する新豊根ダム湖の湖岸に接する,静岡県旧磐田郡佐久間町・水窪町(現浜松市),愛知県北設楽郡豊根村,長野県下伊那郡天龍村の範囲の,天竜川および谷壁斜面の部分について主として扱う.
  • 畑中 健一郎
    セッションID: P205
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1.はじめに
     再生可能な有機性資源であるバイオマスは、地球温暖化防止などの観点から、わが国においても利活用が積極的に推進されている。地域に存在する様々なバイオマスを総合的に利活用していくためには、それらが地域内にどれくらい存在し、そこからどれくらいエネルギーが取り出せるかを把握した上で利活用の計画を立てる必要がある。バイオマスには様々な種類があるが、その量は地域の産業活動や土地利用に大きく依存するものである。本研究では、バイオマスの資源量、とくに熱利用と電力利用を想定した資源量の推計を長野県内の広域圏単位に試みたので報告する。
    2.推計方法
     バイオマスの資源量は、資源量そのものを調査した統計データがほとんど存在しないため、関連するデータをもとに推計する必要がある。本報告では既存の推計方法を参考に、できるだけ新しいデータや、県内の実態を示したデータを使い、木質系(林地残材、間伐材、製材所廃材、果樹剪定枝、建設廃材)、農業系(稲わら、もみ殻、麦わら)、畜産系(乳用牛、肉用牛、豚、採卵鶏排泄物)、食品系(家庭などの生ごみ、食料品製造業、飲料・飼料製造業食品廃棄物)、下水(下水汚泥)の計16種のバイオマスを対象に推計した。
     推計は年単位で行い、地域単位は広域圏単位としたが、市町村単位の統計データがない場合は県全体の値を市町村人口等で広域圏に按分して用いた。推計の順序としては、まず資源そのものの年間発生量(賦存量)と、そのうちの利用可能分(利用可能量)を求め、次に賦存量と利用可能量それぞれから発生するエネルギー量を求めた。エネルギー量は熱利用と電力利用の2通りを想定した。
    3.結果の概要
    3.1 長野県全体の推計結果
     県全体のバイオマス16種のエネルギー量を推計した結果、熱利用を想定した場合の賦存量は合計11PJで、間伐材が28%、稲わらが27%を占めていた。ほぼ同様の方法で推計した全国の値では、稲わらは長野県と同様に高い割合を示したが、間伐材の割合は低く、鶏排泄物が高い割合を示した。また、県全体の利用可能量は賦存量の約3分の1の3.5PJで、稲わらだけで40%を占め、間伐材は5%であった。これは稲わらに比べて間伐材の利用可能率が低いためである。電力利用を想定した場合では、賦存量は合計1.5PJで、熱利用の場合の14%であった。これは電力利用の場合のエネルギー効率が熱利用に比べて低いためである。
    3.2 広域圏単位の推計結果
     長野県内10広域圏ごとに推計した結果では、賦存量の内訳はいずれの地域も木質系や農業系が多かったが、林業が盛んな地域で木質系の割合が高く、とくに木曽地域では熱利用の場合も電力利用の場合も90%前後を間伐材を中心とした木質系が占めていた。しかし間伐材の利用可能率が低いため、木曽地域の利用可能量は賦存量に比べて極端に少ない値となった。また、人口の多い長野地域や松本地域の利用可能量では食品系や下水も高い値を示した。
    3.3 エネルギー消費量との比較
     長野県内のバイオマスエネルギー推計値をエネルギー消費量のデータと比較したところ、県全体のエネルギー消費量(運輸貨物等一部を除く)に対するバイオマスエネルギー賦存量(熱利用)の割合(充足率)は7.5%であり、地域別では木曽地域の28.1%から長野地域の4.2%まで幅があった。利用可能量での充足率は県全体で2.4%であった。バイオマスの発生源となる農林業が盛んな地域では、エネルギー消費量が比較的少なく、充足率が高い傾向が見られた。
    4.おわりに
     長野県内のバイオマスエネルギーの賦存量は、農林業が盛んな地域性を反映し、間伐材と稲わらの割合が高く、これら2種の利用率の向上が期待される。今回の推計では、バイオマスから発生するエネルギー量を推計したが、実際にバイオマスからエネルギーを抽出するには、バイオマスの収集、変換、輸送にかなりのエネルギーが必要である。本来ならばこれら必要エネルギーをも考慮した推計が必要であるが、それについては今後の課題としたい。
  • HOQUE Roxana, 中山 大地, 松山 洋
    セッションID: P206
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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  • 中山 大地, 坂本 健二, 松山 洋
    セッションID: P207
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    1 はじめに
     可視域から中間赤外域の人工衛星の受動型センサにより山地 を観測すると,地形効果と呼ばれる陰影が発生する.これは, 斜面への入射光が太陽と斜面の相対的位置関係(太陽入射角i ) によって変動するためであり,データを利用する上で大きな誤 差要因となる.そこで,地形効果を補正する研究が多数行われ てきた.
     現在までの研究によって,太陽高度の高い時期の画像につい ては良好な補正結果が得られる補正法が開発されている.しか し,直達光成分の小さい太陽高度の低い時期や起伏の激しい山 岳地域の画像に有効な補正法は示されていない.
     そこで本研究では,太陽高度が低い時期における起伏の激し い地域の画像に適用可能な新しい地形効果補正法を提案する. 手法には,計算が簡便で一般に使用しやすい経験的手法を用 いる.
    2 研究手法
    2.1 使用データ
     本研究では,急峻な山岳地帯である赤石山脈の約10×10km の範囲を対象地域として研究を行った.使用した衛星データは, 2004 年11 月10 日撮影のEOS-Terra/ASTER データの可視・ 近赤外3 バンド(Band1∼3)である.正確な地形効果補正を行 うためにはDEM と衛星画像の整合性が重要となるため,オル ソ補正済みのレベル3A プロダクトを使用した.使用した衛星 画像を図1(a) に示す.観測時の太陽高度は36.1◦ と非常に低 く,使用した画像には直達光が当たらない部分が多く存在する.
     DEM については,北海道地図社製GISMAP Terrain(10m メッシュ)を用いた.衛星データに合わせてピクセルサイズ15 × 15m で共一次内挿法によるリサンプリングを行った.斜面 傾斜角および斜面方位の算出には,8 近傍法を用いた.
    2.2 補正方法
     ある任意の斜面に対する入射光を考えると,太陽入射角の余 弦cosi が正の部分においては太陽からの直達光成分が支配的で あるのに対し,直達光が当たらないcosi が負の部分においては 天空光や環境光といった散乱光成分が占めるようになる.そこ で,本研究ではcosi が正の部分と負の部分とで別々に回帰直 線を求めるDPR(Dual Partitioning Regression)法を提案す る.DPR 法では,土地被覆別,標高ごとに抽出したサンプルを 用いて横軸にcosi,縦軸に補正前の輝度値Do をとった散布図 を描き,cosi が正の部分と負の部分で別々に求めた回帰直線の 傾きを補正パラメータとする.補正式は,以下のようにcosi=1 のとき補正後の輝度値Dc が補正前の輝度値Do と等しくなる ように導出した.
    Dc = Do + mp · (1 − cos i) (cos i ≥ 0) (1)
    Dc = Do + mp − mn · cos i (cos i < 0) (2)
    ここで、mp はcosi が正の部分の補正パラメータ,mn はcosi が負の部分の補正パラメータであり,それぞれの回帰直線の傾 きとして求められる.
    3 結果と考察
     DPR 法を用いて地形効果補正を行った衛星画像を図1(b) に 示す.補正後の画像(図1b)は平面的に見え,補正前の画像 (図1a)と比較して地形効果が大きく軽減されていることが分 かる.
     補正後の輝度値とcosi との関係を図2 に示す.いずれのバ ンドにおいても,補正後の輝度値とcosi との回帰直線の傾きの 大きさは1 以下,相関係数の大きさは0.03 以下と非常に小さい 値である.これは補正後の輝度値にcosi 依存性がないことを示 しており,太陽高度が低い時期の画像に対する地形効果補正法 としてのDPR 法の有効性が示された.
  • 黒木 貴一, 磯 望, 後藤 健介
    セッションID: P208
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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     人工衛星の波長帯別反射率データでは地形に関わる地表の植物、地質、水分などの分布を自動的に区分できる。そのため大倉ほか(1989)では、LANDSATの波長帯別反射率データのRGB画像を地表の土地利用あるいは水分条件に読み替え沖積平野を中心に地形区分を実施したが、斜面に関する同様の試みは見られない。また小川ほか(2006)では2時期のデータ差分から1時期のデータよりも詳細な土地被覆区分を実施した。斜面地形と植生は関連深いため、黒木ほか(2007)で雲仙を対象にLANDSATのデータ差分のオーバーレイによる土地被覆区分法を試行した。しかし解像度が低く結果と斜面地形との対応に不確実性があり、より解像度の高いデータによる土地被覆区分の検討が残されていた。そこで雲仙に対しASTERの反射率データをGISで解析した結果、1)NDVIの季節差分を除算した余りの分布から、複数の土地被覆区分スケールの存在を視覚化できること、2)2段階の土地被覆区分法でより現実に近い土地被覆区分が実施できること、が明らかとなった。
  • 雲仙・普賢岳を例にして
    黒田 圭介, 宗 建郎, 磯 望, 黒木 貴一
    セッションID: P209
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
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    I.はじめに
     雲仙普賢岳の火山活動は,それに伴う諸現象を空中写真計測により時系列的に図化・測量できた初めての事例であると言われており,長岡ほか(1992)は空中写真計測により溶岩の噴出量の経年変化を算出した.近年では,航空レーザー測量によって計測した3次元位置データからDEMを作成し,溶岩ドーム周辺の地形変化を定量的に計測した研究も行われた(佐藤,2004).しかし,空中写真からDEMを作成には専門的な技術が必要であり,航空レーザー測量は精密なDEMを作成できる半面,大規模な設備が必要である.そこで研究では,地形図と最近一般に普及が見込まれるGISソフトを用いて,簡単に数値標高データを作成し,雲仙普賢岳周辺の地形解析,特に堆積物の経年変化を定量的に解析した.

    II.研究方法
    1.研究対象地域:図1に示す.今回は溶岩ドーム付近-水無川上流-中流域を中心に解析を行った.
    2.使用地形図:今回解析に用いた地形図は,2005年測量1/2500地形図,1995年及び1993年測量1/5000地形図である.これらの地形図をスキャンし,画像データ(TIF)として解析に用いた.
    3.GISを用いた解析方法:使用したGISソフトはArcView9.1である. はじめに,3つの年代の地形図それぞれについて,標高10m毎に等高線のトレースを行い,標高を持ったラインデータを作成した.なお,等高線のラインデータはArcScanにより自動的に生成し,標高値は作業者がラインデータ(等高線)に数値を入力した.このラインデータに標高データを持たせる作業は多少時間がかかり,図1の範囲につき約8時間の時間を要した.次に,ラインデータをジオメトリ変換ツールでポイントデータに変換し,ラインの構成点をそれぞれ標高を持った独立したポイントに変換した.このポイントはラインデータから生成するという性格上,場所により分布の粗密がある.そこで,作成したポイントデータをNatural Neighbors法で内挿して標高ラスタデータを作成した.このラスタデータはセルサイズの1辺を10mで作成した.これにより,研究対象地域全域に10mグリッドで均一に分布する数値標高データを得た.

    III.解析結果
     研究対象地域の侵食量の時系列変化を検討するために,古い年代のラスタデータと新しい年代のラスタデータの差分を計算した.1995から1993を引いたラスタデータ(図2上)と2005年から1995年を引いたラスタデータ(図2中)の二つの差分ラスタデータを作成した.これらのデータは時間の経過による標高の変化を示す.堆積作用などによって標高が 高まったところではプラスの値を,侵食作用によって標高が低くなった ところではマイナスの値を示す.
     図2上を見てみると,93~95年間では,溶岩ドーム付近の標高上昇が顕著で,活発な火山活動がうかがえる.中流域では線状に標高が低下している場所があり,これはガリの発達を表していると考えられる.図2中では,火山活動の終息に従った溶岩ドーム付近の侵食が目立つ.侵食された体積が元の体積の何%になるのかを計算するために、標高ラスタデータの0m平面から上の体積を算出し、侵食量と比較してみると,1995年の標高ラスタデータの体積は1340792392.44㎥で,1995年から2005年の約7年間の侵食量は9175324.95㎥という値が得られた。

    IV.まとめ
     雲仙普賢岳周辺の,1993~2005年間の地形量変化を,地形図とGISを用いて解析した結果,地形(例えばガリ,溶岩ドーム等)が発達していく様子を定量的に視覚化でき,さらに侵食量も算出できた.今回は研究対象地域全域を一括して地形量の算出を行ったので,今後は侵食域,堆積域毎にその量が算出できるか検討する必要があると考えられる.
     自然地理学の研究や教育の場面にGISが浸透するにあたり,このような簡便な地形解析の手法開発は今後重要性を増すだろう.

    謝辞
    本研究には,平成19年度科研費補助金(基盤研究(C))課題番号18500780「人工衛星データによる斜面特性の評価の詳細研究」(研究代表者 黒木貴一)の一部を利用した.

    参考文献
    長岡ほか(1992):雲仙岳1990~92年噴火の熔岩噴出量の計測.国土地理院時報,No.45,p.19-25.
    佐藤(2004):活動終了後の雲仙普賢岳・溶岩ドーム周辺の地形変化.地形,25-1,p.1-22.
  • 福岡市史における試み
    宗 建郎, 黒田 圭介, 磯 望, 黒木 貴一
    セッションID: P210
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/07/19
    会議録・要旨集 フリー

     福岡市史では考古特別編として環境,景観,遺跡といったキーワードで多様な側面から福岡の歴史を先史から現代まで通覧する巻が作成されている.その中で地形の変遷や遺跡立地の変化から読みとれる歴史像をGISで表現することが試みられている.専門的な学術データベースとしての側面と,専門家ではない市民一般に広く公開した際のわかりやすさという側面との二つの面を兼ね備えた考古学情報のデータベース化を目指して ,GISによるデータ整備を進めている.本発表はこのデータ整備の手法と,考古学的情報をGISによって整理する際の問題点について紹介する.
     データ整備はデータベース構築と,地図情報の収集に分けて行っている.データベースは遺跡名や発掘調査地点名,そしてそれらの所在地とIDといった基本的な情報を集めた基盤データベースが整備されている.それに付加するべき遺跡の情報は各執筆担当者がデータ整理を行い,基盤データベースと結びつけることによって考古学情報データベースを構築している. 地図情報の収集はGISソフトとしてArcVeiwを用いており,旧版の地形図や都市計画図,DEMといった基盤地図の整備と,包蔵地や発掘調査地点などの考古学的情報の作成に分けられる.
     考古学的情報のGISによるデータベース作成によって時代別の遺跡の分布やある特徴を持った遺跡の分布を速やかに表示することが可能になった.またそこからの空間分析も現在進めている. 三次元表示による景観イメージの作成も進めており,GISによる考古学情報データベースと組み合わせることによって,考古学を専門としない人々にもわかりやすい表現を目指している.
     データの収集にあたっては過去の発掘成果の報告を利用しているが,空間的な情報を意識されていないそれら過去の報告はデータの単位が包蔵地と発掘調査地点が混在していたり,遺跡名や遺跡名が示す範囲が研究の進展と共に移り変わっていたりするため再整理が必要である.また,考古学の報告において多く用いられる発掘調査地点は,ある時代の空間利用のまとまりを示すものではない.どのようにそれらをまとめ,空間分析を行っていくのかが今後の課題であると考えている.
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