日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の203件中51~100を表示しています
  • 茨城県Y町クラインガルテンを事例に
    畠山 諒子
    セッションID: 412
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    19世紀半ばに、西欧諸国で庭を持てない都市住民のためクラインガルテンが都市郊外に発展し、緑地空間、コミュニティ形成の場としての役割を担った。一方、日本においても、20世紀後半に環境負荷の低いツーリズム、グリーン・ツーリズム等への注目が集まった。その背景として、経済面では、輸入作物の増加、国内における農業従事者の減少により、一次産業全体と農村地域の存続に打撃を与えたこと、また社会面ではバブル崩壊における各地のリゾート建設の失敗を教訓として、非開発的な新しい観光業の在り方が模索される必要があったこと、そして団塊の世代を中心とする余暇ニーズの高まりなどが挙げられる。農水省は、疲弊した農村・農業を活性化するため、1992年「グリーン・ツーリズム」を提唱し、1999年には、新食糧基本法の制定によって、「都市と農村交流の促進」が明記された。その後の政策も含め、近年に至るまで日本におけるグリーン・ツーリズムの基盤を強化してきた。つまり、西欧諸国ではクラインガルテンが都市住民のニーズを背景に発展したのに対して、日本のクラインガルテンは国内で低迷した農業また農村地域を活性化させる目的で発展してきたと言える。
     それゆえ日本では、一般的にクラインガルテンが開設される地域は、大都市近郊から1~2時間ほどの時間距離にあり、都市住民が週末に訪れることが可能な中山間地域の農山村が多い。現在、各地で開設されているクラインガルテンは、「都市と農村の交流」をテーマに掲げ、様々な活動を行っているが、各々のクラインガルテンが立脚する存立基盤は一様ではなく、地域の特性を活かした運営がなされている。同時に、クラインガルテンを軸に農村活性化を図ろうとする行政の財政基盤や意図も異なる。
      そこで本研究では、クラインガルテンの存立基盤を、利用者の意識と運営主体の収支バランスの双方から捉えることとし、茨城県Y町クラインガルテンを事例として、クラインガルテンの維持メカニズムを検討する。
  • 菊地 俊夫, 小原 規宏
    セッションID: 413
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    茨城県北部の常陸太田市金砂郷地域(旧金砂郷町)におけるそば栽培の発展と、それにともなう「常陸秋そば」のブランド化の諸相を検討し、その存立基盤を明らかにする。また近年では、食のブランド化を契機としたフードツーリズムが発展する傾向にあり、「常陸秋そば」によるフードツーリズムの可能性を金砂郷地域の赤土地区で検討する。
    金砂郷地域は八溝山地を流れる久慈川中流域の山間地に位置し(図)、近世から葉たばこ(水府たばこ)の産地として知られてきた。そばは葉たばこの裏作として栽培されるようになったが、葉たばこ生産が衰退した現在も、そば栽培は地域農業の1つとして行われている。それは、金砂郷地域の土地条件(傾斜地、排水良好な土壌)や気候条件(気温の日較差が大)がそば栽培に適していたことや、食味に優れた良質のそばが「常陸秋そば」や「金砂郷そば」としてブランド化されたためであった。
    Hall et. al. (2003) によれば、農村のフードツーリズムは農村空間の商品化のいくつかの段階を含んでおり,その重層的な構造がフードツーリズムのフレームワークとなる。それらの段階は、(1)農村景観の商品化とそれに基づくツーリズム、(2)農業生産や生産物の商品化とそれに基づくツーリズム、(3)農村におおける生活文化やスローフードの商品化とそれに基づくツーリズム、および(4)農村における美食文化とそれに基づくツーリズムである。一般に、農村においてはルーラルツーリズムが(1)の段階や(2)の段階を基盤にして発展し、農村空間の商品化にともなって、(3)の段階が加わる。さらに、農村空間の商品化が高度化・高級化することにより、(4)の段階が加わり、農村におけるフードツーリズムが成熟する。
     金砂郷地域におけるそばのブランド化は、在来種の人為的な淘汰を繰り返し、収量が多く粒がそろった「金砂郷在来種」をつくりだすことで始まった。その後、金砂郷在来種の品種改良が続けられ、1985年に茨城県奨励品種として正式に採用され、金砂郷在来種による「常陸秋そば」のブランド化が進められた。赤土地区は金砂郷在来種のもともとの栽培地であり、そこで栽培された「常陸秋そば」は金砂郷の地域ブランド「金砂郷そば」として周知されるようになった。そして、一連のそばのブランド化にともなって、そばに関連したルーラルツーリズムが発展するようになった。具体的には、そばの圃場を高齢化した農家に代わって維持し、そば栽培景観を持続させるためオーナー制度が始まり、それは都市住民の余暇活動の1つともなった。さらに、そば打ち体験やそば食の店舗もアトラクションとして加わり、フードツーリズムの基盤がつくられた。
  • ザンビア南部州を事例に
    伊藤 千尋
    セッションID: 414
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     アフリカ農民の生計維持は,不安定な自然環境や政治・社会変動によってリスクと常に隣り合わせにある.そのため農民が被る可能性のあるリスクと,そのリスクへの対応能力を包含する「脆弱性」(vulnerability)という概念は農村の社会や経済を理解する上で非常に重要である.
    脆弱性とは1)危機・ストレス・ショックに晒される危険性,2)それらに対応しうる能力に欠く危険性,3)上記の結果引き起こされる付随的な危険性の3点によって規定されている.実際には突発的な自然災害や,社会的な周縁化のように個人や世帯,地域の様々なレベルにおいて日常・非日常の場面で現れている.
     これまでの研究では主として外的な要因(自然災害や経済政策、政治変動など)によって脆弱性が規定され,その影響の仕方を左右するのが対処行動という内的な要因だとされてきた.しかし本発表では,日常の場面で見られる個人や世帯の内側から発生する社会・文化的な側面も脆弱性を規定していることに注目し,農民の脆弱性が変動するプロセスを明らかにする.
     調査地はザンビア南部州に位置するルシト地区である.調査は2006年8月から2007年3月,2008年8月から2009年3月までの計16ヵ月間,対象村に滞在し行った。
     まず全世帯主49名に対し食糧生産や換金作物栽培,非農業活動など,現在の生業に関する聞き取り調査を行った.そして脆弱性の変動や社会・経済的側面のつながりを見出すために,世帯主20名に対しライフヒストリーの聞き取りを行い,これまでに経験してきた移動や社会的な出来事,経済状況の変化などを時間軸に位置づけた.
     調査地は降水量変動が激しく,周期的に干ばつに見舞われる.食糧の安定的確保はこの地域における最大の課題である.しかし,富裕層による賃金労働の提供,政府やNGOからの食糧援助,出稼ぎ労働といった対処行動は複数存在し,食糧生産の失敗によって脆弱性が増大するかどうかは対処行動へのアクセスという側面と密接に関わっていた.
     しかし、個人のライフヒストリーや出稼ぎ労働の詳細な聞き取りを行うと,上述したような食糧供給の不確実性や対処行動へのアクセスとは全く別の論理によっても脆弱性の増大・緩和が起こっていることが明らかになった.具体的には頼りにしていた親族の死や,結婚・離婚という当時の社会的出来事によって経済状況が変化することである.また世帯内での権力関係、資源分配への不満からも個人や世帯の脆弱性が変動し,農民が生計戦略を修正・変更させていくというプロセスが明らかになった.
     以上のように調査地の脆弱性は,降水量変動という外的要因,対処行動へのアクセス以外に,偶発的に起こる社会的出来事や世帯内での分配行動が個人や世帯の脆弱性を変動させている側面があることが明らかになった.しかし各々のリスクは単線的ではなく相互に関連性を見出すことができる.そのため個人や世帯のレベルで,生態・社会・経済の要素を連続的に見ることが重要である.そして発表では,農民は脆弱性が変動するプロセスにおいて必ずしも悲観的になっているのではなく,その契機を利用している側面が見られることにも言及したい.
  • ボッカの周年開放がもたらした自然・経済・社会的諸問題
    丸山 浩明
    セッションID: 415
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     ブラジルの南パンタナールを流れるタクアリ川の水位変動は,年間約6~7mにも達する。雨期には豪雨などで水位が急激に上昇し,あちこちで自然堤防が破堤して外水洪水となる。こうした雨期の増水にともない形成された破堤部(河川水の流出口)を,本地域ではボッカ(boca,口の意味)とかアロンバード(arrombado,突き破りの意味)と呼んでいる。
     天然草地に依存した粗放的な牧畜経営を生業とするパンタナールでは,バザンテ(間欠河川の河床草原)やバイシャーダ(季節的に浸水する浅い窪地状草原)など,良質な天然草地の確保が重要である。そのため地主たちは,雨期にはボッカより水を内陸部へ引き込み,乾期にはボッカを閉鎖することで良質な天然牧草地を維持してきた。季節的な浸水が,草地の森林化を防ぐためである。地主の中には,水位が低い乾期に自然堤防を削っておいて,雨期のボッカ形成を人為的に促す者もあったという。小さなボッカは,バラ線を張った木柵にヤシの葉などを挟んで塞いだり,土嚢を積んだりして水の流出を止めてきた。
     ところが、とりわけ1980年代以降、タクアリ川流域の自然・経済・社会的環境は大きく変貌してしまった。すなわち、タクアリ川上流のブラジル高原では,1970年代後半よりセラード農業開発が始まり,1980年代には外国資本を導入して大規模かつ急速な農地開発が進展した。その結果,下流のパンタナールでは,深刻な土壌堆積(河床高の上昇)と河道の不安定化が問題視されるようになった。折しも1980年代は多雨期であり(高水位年が5年),こうした条件が相俟って,下流域ではボッカが各地に出現した。
     そんな中,1992年頃より,タクアリ川の急激な漁獲量の減少を理由にボッカの閉鎖が禁止され、ひとたび開いたボッカは周年開放の状態となった。その結果,本流の水が外部へと大量に流出して巨大な恒常的浸水地を生みだし,生物相(faunaやflora)の破壊や攪乱,農牧業の衰退(下図参照),近隣都市への住民の強制移住による貧困(スラム)や社会不安の拡大,伝統的な舟運・河川文化の消失など,多様かつ深刻な問題が引き起こされている。こうした諸問題の解決に向けた取り組みには、もはや一刻の猶予も許されない状況である。
  • 矢ケ崎 典隆, 深瀬 浩三
    セッションID: 416
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    ロサンゼルス大都市圏はアメリカ合衆国において最も急速に都市化が進んだ地域の一つである。ロサンゼルス市とその周辺部では20世紀に入って都市化が加速し、人口が急増した。ロサンゼルス市中心部と多数の郊外都市を結びつける電車網が発達するとともに、モータリゼーションも進行し、都市域が空間的に拡大した。増加する人口に食料を供給するために農業が発達し、第二次世界大戦直前まで日系人は農産物の生産と流通において重要な役割を演じた。しかし、戦後、都市化の更なる進行に伴って農地の蚕食が進み、農業景観は大きく改変されるとともに、日系人の経済活動も変化した。本論文では、ロサンゼルス市中心部の南方に位置するガーデナ市およびトーランス市を研究対象地域として、都市化に伴う農業的土地利用の変化について検討した。この地域では、ロサンゼルス大都市圏において農業が最近まで存続するとともに、第二次世界大戦前から日系社会が存在し、日系農業が盛んに行われた。 ガーデナ・トーランス地域では、20世紀に入ると、日系人の流入とともにイチゴ栽培が盛んになった。イチゴ栽培には大きな資本は不要であったし、借地することにより、家族労働力に基づいた小規模な農場経営が可能であった。日系人の増加に伴って日本街が形成された。また、日系農業協同組合や日本人会が組織され、それらは日系社会において経済的にも社会的にも重要な役割を演じた。時間の経過とともに日系人の居住地は拡大し、多様な野菜類の栽培に従事するようになった。 第二次世界大戦中の強制収用に伴い、日系農業は中断を余儀なくされたが、戦後、日系人の帰還に伴って日系社会が再建された。しかし、都市化の進行によって、また、一世の高齢化に伴って、野菜栽培を中心とした日系農業は衰退した。戦後の日系経済の中心となったのは植木業と庭園業であった。日系植木生産者の多くは、ウエストロサンゼルスからの移転者であった。庭園業は戦前においても一世にとっての主要な業種であったが、戦後の日系人にとっても容易に就業できる業種であった。こうして、植木業と庭園業は戦後の日系社会の重要な産業となった。都心部からの日系人の流入に伴って、ガーデナ・トーランス地域の日系人口は増加した。 都市化の進行に伴ってガーデナ・トーランス地域の農業的土地利用は縮小を余儀なくされ、1980年代までには農地はほとんど消失していた。住宅地化、工業化が顕著であり、特にトーランス市にはトヨタ自動車をはじめとする日系企業の進出が著しい。最後まで存続したのが植木園(鉢植えの花壇苗、グリーンプランツ、鉢植えの花卉)の経営である。しかし、近年、日系の植木業はさらに衰退の危機に瀕している。日系4世の高学歴化が進み、後継者不足は深刻である。外的要因としては、都市化の圧力に加えて、経済の停滞、技術革新(例えば、プラグ方式の普及)、ラティーノ生産者の増加と競合、大型量販店の進出と低価格競争などの影響も深刻である。
     2007年8月に行った現地調査により、限定された農業的土地利用の存続が明らかになった。それは、植木業の残存が認められたことである。小規模な植木園が依然として経営を続けており、特に、高圧送電線下の細長い土地を電力会社から借地することにより、鉢物類が栽培されている。また、特殊な残存形態として、日系農民がトーランス飛行場内に借地をして、トマト、イチゴ、とうもろこしを栽培する事例が確認された。農産物は道路に面した販売所で直売され、新鮮な商品を楽しむ常連に支えられて経営が維持されていた。 ロサンゼルス大都市圏は、経済活動、人種民族、文化景観において多様でダイナミックな地域である。今回の調査によって明らかとなったガーデナ・トーランス地域における土地利用の変化と日系農業の変化は、ロサンゼルス大都市圏のひとつの面を示している。こうした事例研究を蓄積することが重要である。
  • 原 祐二, 平松 あい, 本多 了, 関山 牧子, 松田 浩敬
    セッションID: 417
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    タイ王国バンコク周縁部では都市拡大に伴い,農地転用による住宅地と農地の土地利用混在が生じている.本研究では,バンコク近郊に位置するノンタブリ県バンメナン地区を対象として,住宅地と農地が混在する地域における適切な廃棄物再利用と資源循環施策を検討するため,対象地区住民の生活形態別の廃棄物排出と処理に関し,現場実態調査を行った.
    具体的には,1:4000デジタル都市計画基本図を基図とし,空中写真判読および現地踏査結果も援用しながら,GIS上で対象地区の全家屋を,水田農家,園芸農家,新興住宅などに細分類した.その後,分類した家屋タイプ毎にサンプルを抽出,質問票を携行した世帯訪問調査を実施,廃棄物排出特性を把握するとともに,実際に排出された廃棄物を組成分類して一週間計量調査を行った.廃棄物フローに関しては,行政,民間関連セクターを訪問し聞き取り調査を進めるとともに,現地役所と交渉の上,公式ごみ収集車のGPSトラッキング調査を行った.
    その結果,対象地区の廃棄物フローは,行政,民間およびコミュニティによる自主的な廃棄物回収・処理が混在していたが,それらの統合管理は行われておらず,地区全体にサービスが行き届いていないことが明らかになった.また,廃棄物組成は生ごみと農業廃棄物などの有機系廃棄物が大きな割合を占めていた.GPS/GIS空間解析では,対象地域の全廃棄物発生量に対する実質回収率は,45.5-51.1%と推定された.
  • 農産物をめぐるグローバル化とローカル化(1)
    荒木 一視
    セッションID: 418
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.背景と目的
    近年の青果物輸入の拡大については論をまたない。地理学においても,海外産品が増加する中での産地の動向をとらえ,農業生産に対する影響を検討した成果が得られている。これら生産部門にかかわる研究に比較して,流通部門における輸入品の動向を取り上げた研究は少ない。そこで,本報告では卸売市場取引における輸入青果物の動向に焦点をあてたい。その際,わが国の有数の青果物産地である九州の市場を取り上げることで,産地における輸入品の位置づけをおこないたい。
    2. 研究対象と資料
    対象とする卸売市場は,九州に位置する8中央卸売市場(沖縄除く)のうち,経年的な資料がえられた6市場(福岡,北九州,久留米,大分,宮崎,鹿児島)である。対象年度は青果物輸入が拡大,定着してくる1990年代後半以降から1996年,2000年,2004年の3時点を取り上げた。食料需給表(第1図)によると2004年段階では果実全体の6割程度,野菜全体の2割程度が輸入によってまかなわれている。なお,わが国全体では卸売市場の経由率は野菜が77%,果実が49%(2004年)でともに減少傾向にあるが,地方では卸売市場の役割が相対的に大きいと考えられる。
    3. 対象市場の動向
    対象期間中に全体としての入荷増が認められたのは野菜における福岡市場のみであり,その他の市場は横ばい傾向か微減であった。期間中にわが国全体では,中央卸売市場の取扱金額が約15%程度減少していることから,各市場は比較的堅調に推移しているといえる。しかし,野菜入荷のシェアをみると福岡市場の増加を支えたのは九州以外の国内産地からの入荷と海外産の入荷で,総量が増加しているにもかかわらず自県産は減少傾向にある。自県産の入荷減という傾向は福岡市場のみならず,北九州市場,大分市場,宮崎市場などでも認められ,これら市場では自県産の入荷減が全体の入荷量の減少をまねいている。
     果実の場合でも入荷増が明確に認められる市場はなく,いずれもが横ばいか減少傾向にある。しかし,野菜における福岡市場や北九州市場では自県産シェアが約10%下落(大分では17%)しているのに対して,果実では自県産シェアの低下は認められない。
     これに対して海外産の入荷であるが,野菜の場合は大分市場で9%から19%へとシェアの増加が認められるものの,それ以外では概ね5%程度以下で,海外産品の入荷は極めて限定的である。他方,果実においては各市場とも20~30%台のシェアを占め,期間中にも福岡県下の3市場では5%程度の上昇が認められた。とくに大分市場では43%から53%と輸入品が国内産を逆転している。なお,宮崎市場と鹿児島市場では輸入品のシェアの拡大は認められず,宮崎市場では輸入品シェアは13~15%に押さえられている。
     九州の青果物卸売市場においては輸入品の直接的な影響は限定的であるといえる。その意味では,全国的な動向として把握される輸入青果物の影響には,流通経路による差異や地域差があり,一律な議論をするには十分な注意が必要である。むしろ,当該期間においては九州以外の国内産地との競合がみとめられた。
  • 農産物をめぐるグローバル化とローカル化(2)
    川久保 篤志
    セッションID: 419
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     日本の牛肉輸入量は,1988年の自由化決定以降,急速に増加してきた。その大半を担ったのがアメリカと豪州であるが,特に豪州は輸出依存度が40%以上と高いこともあり,日本の輸入動向が及ぼした影響は大きかったと考えられる。また,豪州の牛肉産業には多くの日系企業が直接投資し,対日輸出を中心とした経営を開始した。では,自由化決定後20年以上が経過した現在,これらの日系企業は豪州の牛肉産業にどのような影響や変化をもたらしたのか。本発表では,フィードロット経営と霜降り肉生産に焦点をあてて若干の考察を行う。
    2.日系企業による豪州への直接投資の展開
    豪州の牛肉産業への日系企業の直接投資は既に1970年代に行われていたが,数量制限と輸入割当の下で自由な取り引きは困難であったため本格的なものではなかった。しかし,自由化の決定は将来の大きなビジネスチャンスを期待させたため,1988年以降,商社・食肉製造業・小売業などの多くの大手企業が豪州のフィードロットや食肉処理場を買収し,次第に重要な地位を占めるようになった。これは,豪州ではそれまで基本的に放牧による一貫経営(牧草肥育)が中心で,日本市場が好む霜降り肉(穀物肥育で仕上げた牛肉)を生産するための肥育場(フィードロット)がほとんど存在しなかったからである。つまり,日本市場に適応した牛肉を生産・輸入して自由化の恩恵をより早く大きく享受するためには,豪州の企業を指導するよりも自らが経営に乗り出す方が有効と考えたのである。
     しかし,1990年代後半になると,自由化後に急増していた日本の輸入量が停滞し(図1),かつ輸入価格も低下したため経営は悪化し,撤退を余儀なくされる企業も出てきた。この要因としては,日系企業は専ら対日輸出を念頭においた長期肥育と霜降り肉生産を行っており,非日本市場向けの牛肉生産(例えば,豪州国内向けの低価格短期肥育牛肉)への適応ができなかったことが指摘されている。とはいえ,現在でも日系のフィードロットは資本参加も含めると2位・3位・10位・12位に(2003年),食肉処理場でも3位と10位にランクされており(2007年),豪州牛肉産業における地位は高いといえる。
    3.豪州におけるフィードロット部門の成長とその意義
     図1は,1989年以降の豪州におけるフィードロットの成長を,飼養頭数と収容能力について示したものである。これによると,飼養頭数は1989年の16万頭から2007年の90万頭へと20年足らずの間に5倍以上に急増しており,その増加ペースは概ね対日輸出の動向に対応しているように見える。しかし,1997年以降は対日輸出の停滞にも関わらず飼養頭数は増加しているし,2007年以降は飼養頭数・対日輸出とも大きく減少しているにも関わらず,収容能力は増加している。これは,豪州のフィードロットで生産される穀物肥育(グレインフェッド)の牛肉が次第に国内向けもしくは第3国へも販売されるようになったことを示唆している。このような変化は,豪州の牛肉輸出業者や消費者に霜降り肉という新商品を提供することを通じて輸出先の開拓や食生活の豊かさの実現に寄与したといえよう。
     また,フィードロットの立地は1980年代のクインズランド州に偏った分布からニューサウスウエールズ州へも広がった。これは,霜降り肉に仕上がりやすいアンガスなど温帯種の肉用牛が豊富に存在していたことと,大麦など飼料用の穀物の栽培が盛んであることからきており,日系企業の多くもクインズランド州南端からニューサウスウエールズ州に立地してきた。フィードロットの立地は,周辺地域の素牛飼養や飼料栽培を刺激し,内陸部の雇用創出にもつながるため,その地域的インパクトは小さくない。現在,日系企業の地位は低下しつつあるが,1980年代末以降の豪州に多額の投資を行い,急速に牛肉の生産力を高めて輸出の促進に果たした役割は大きく,豪州におけるグレインフェッド牛肉の生産の基礎を築いたといっても過言ではないだろう。
    ※本研究の調査には,科学研究費補助金 基盤研究(B)「第3次フードレジーム下の対日農産物・食料輸出の展開と当事国農業・流通への影響」(課題番号:19320134,代表者:荒木一視)を使用した。
  • 農産物をめぐるグローバル化とローカル化(3)
    横山 智
    セッションID: 420
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    はじめに
     本研究は,グローバルなスケールで農産物の生産が展開され,食料貿易が再編される状況下で,農産物の供給地側の生産と流通,とくに農産物加工企業と農家の間にみられる契約栽培の構造を明らかにすることを目的とする.
     研究対象地域としたタイ北部では,日本,北米,EU諸国の商社・食品会社からの需要に応じて,さまざまな農産物が生産されている.今回,研究対象とした農産物は,ナス,ショウガ,エダマメの3種類である.調査した加工企業は,チェンラーイ県ウィエンパーパオ郡に立地するH社,およびチェンマイ県サーラーピー郡に立地するL社である.H社,L社ともに加工した農産物のほとんどを日本に輸出している.調査は,2007~08年にかけて各年約10日間実施した.

    タイ北部における契約栽培
     H社は,浅漬けナス,加工ショウガ(塩蔵・酢調整・調整)を生産しており,L社は,冷凍エダマメを生産している.ナスとエダマメは農家との契約栽培、ショウガは仲買人との取引契約(半契約栽培)によって調達されていた.
     ナスの場合[図1(a)],もっとも単純な契約栽培の構造を呈している.加工企業と契約農家との間には,リーダーと称される現地農家が介在するだけである.苗木や資材なども加工企業から契約農家に提供される.加工企業と契約農家は,契約を結び,各農家ごとに生産量が割り当てられる.一方,ショウガの場合[図1(b)],基本的な契約栽培の構造はナスと同様であるが,種ショウガや資材の調達は,仲買人もしくは農家が独自のルートで仕入れることになっている.加工企業は,農家ではなく仲買人と契約を結び,買取り量を割り当てる.そして,エダマメの場合[図1(c)]は,単純な構造ではなく,行政単位ごとに責任者を配置する階層的な契約栽培の構造を呈していた。加工企業と契約農家の間には,企業のフィールドスタッフ,現地のリーダー(L社では、キー・ファーマーと称する),村落リーダーなどが存在し,それぞれ細かく役割が分担されている.

    むすびにかえて: 農家リーダーと仲買人の役割
     いずれの契約栽培でも,加工企業と農家の間に存在する農家リーダーもしくは仲買人が輸出農産物の生産に重要な役割を果たしている.農家リーダーらは,農産物の集荷・輸送,そして農家への支払いを担当するだけではなく,化学肥料・農薬の使用管理まで行なう.日本のポジティブリスト制度のような,残留農薬に厳しい基準が設けられている国へ農産物を輸出するためには,化学肥料と農薬の管理が求められている.タイ北部の加工企業は,現地の契約農家を巡回指導するだけではなく,農家リーダーと仲買人に対して化学肥料や農薬の知識を講習会・技術指導会などを通して教育し,彼らに農家の化学肥料と農薬の使用管理を担わせることで,より徹底した管理体制を築いていることが明らかになった.
     そして,新しい動きとして,残留農薬を心配する一部のショウガ仲買人は,無農薬でショウガを栽培しているラオスに注目し,ラオスから種ショウガを仕入れていた.すなわち,対日輸出農産物の厳しい残留農薬基準とタイの仲買人に与えられた農薬管理という特殊な役割は,タイ国内のみならず隣国の農産物生産にも影響を与え始めている.今回の発表では,その契約栽培の構造を詳しく紹介する.

    本研究の調査には,科学研究費補助金 基盤研究(B)「第3次フードレジーム下の対日農産物・食料輸出の展開と当事国農業・流通への影響」(課題番号:19320134,代表:荒木一視)を使用した。
  • -農産物をめぐるグローバル化とローカル化(4)-
    高柳 長直, 宮地 忠幸, 両角 政彦, 今野 絵奈
    セッションID: 421
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     グローバル化が進展する中で,農産物や食品に関しては,安全・安心や高品質といった点からローカル性が価値を持つようになってきている.日本においても地域団体商標制度が始まり,地域ブランドが注目されている.その制度に大きな影響を与えたのが,ヨーロッパを中心として展開してきた地理的表示制度である.EUの地理的表示制度は,PDO(原産地呼称保護),PGI(地理的表示保護)として,日本においても紹介されるようになったが,産地形成論としての議論はほとんどみられない.そこで本研究では,EUの地理的表示制度はどのような特徴がみられ,それが産地の形成にどのように影響を与えたのかということを明らかにすることを目的とする.研究の対象として,北イタリアのトレヴィーゾ・ラディッキオ(Radicchio Rosso di Treviso)とロマーニャ・エシャロット(Scalogno di Romagna)の2つの野菜産地をとりあげる.
    2.地理的表示制度の特徴
     第1に,PGIで指定される地理的範囲は比較的広域であることがあげられる.ロマーニャ・エシャロットは15コムーネ,トレヴィーゾ・ラディッキオは41コムーネにおよぶ.いずれも3つの県(provincia)にまたがっている.
     第2に,生産物の規格が細かく規定されていることがあげられる.外観,色,大きさはもとより,出荷時の梱包や生産方法(例えば輪作体系)など多岐にわたっている.
     第3に,PGI商品として販売される出荷割合は極めて低いことがあげられる.ラディッキオの場合は,指定地域外でも生産されており,全体からみれば2%程度である.エシャロットの場合は,指定地域外ではほとんど生産されていないが,PGI商品の割合は2%程度である.
     第4に,PGI商品として販売されるためには,認証を経なければならないことがあげられる.ラディッキオではCSQA Certificationi Srl.,エシャロットでは,Check Fruit Slr.という民間企業が認証機関となっている.
     認証に手数料が必要なこと(ラディッキオでは認証シール1枚あたり€0.21,エシャロットでは1農場あたり€380)に加えて,生産・流通上の規程により労働力や生産経費の負担が重くなるため,PGI商品率が低い.
    3.地理的表示制度の産地形成への影響
     トレヴィーゾ・ラディッキオやロマーニャ・エシャロットは,いずれも数百年の歴史を持っている伝統野菜である.ただし,各農場で昔から代々生産が行われてきたわけではなく,生産が拡大したのは比較的近年のことである.聞き取り調査によると,ラディッキオの場合,1980年代末頃から酪農やワイン用ぶどう生産が過剰生産による価格低迷や産地間競争に敗れたため,新たな品目に参入した.エシャロットの場合は,山間部の条件不利地域のため経済が不振で人口が流出していたなかで,地域おこしの一つの手段として1992年以降導入されるようになった.その後,PGIに認定されることで消費者の認知が高まり,生産が拡大した.また,ラディッキオの場合,トレヴィーゾ県という核心地域で出荷される価格は,他の地域で出荷されるものよりも高く取引されている.
     地理的表示制度は,産地として形成されている商品を保護するということもあるが,当地域の事例は,特定の地域で生産される農産物にお墨付きを与え,産地の形成に寄与したといえる.しかも,産地はPGIとして認証された高級品と普及品という商品のラインアップを用意し,高級品でブランドイメージを醸成することで,普及品の拡販を行っている.
     このように,地理的表示制度は農産物や食品のローカル化を進めているが,生産過程はむしろグローバル化している.いずれも労働集約的な農産物であり,収穫作業や調製作業には,ルーマニア人やスロベニア人などの外国人労働力が利用されている.
  • 小島 泰雄
    セッションID: 501
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.目的
     本報告は、近代日本で書かれた中国地誌について、岸田吟香、矢津昌永、米倉二郎の3人の著作を通して、その特徴と変遷を明らかにすることを目的とする。
     この時期の地誌は、施政の参考や地域の賞揚といった伝統的な役割から離れ、植民地主義に応じた世界観の形成という要請、および科学の急速な展開による洗練をうけて、次第にその近代的な様式を整えていった。記述の次元においてこの変化の様態を明らかにすることが、本報告の主要な課題である。それに加えて、地誌を書くという行為が内包する、主体の側における連続と非連続を解明することもまた、視圏の中におさめてゆくこととする。
    2.対象
     幕末から明治前期にかけて先駆的なジャーナリストとして活躍した岸田吟香(1833~1905)は、中国と深く関わった人物としても知られる。本報告ではまず、近代初期の中国地誌として、岸田が1882年(明治15年)に刊行した『清国地誌』(楽善堂)を取り上げる。
     近代日本ではアカデミー地理学の形成に先だって厚い地理学の蓄積がみられるが、地理教育の分野で活躍した矢津昌永(1863~1922)が1905年(明治38年)に著した『高等地理清国地誌』(丸善)を、次に検討してゆく。
     そして、近代の中国地誌の一つの到達点として、大学で地理学の訓練をうけてのち、多面的かつ多産な学術活動を展開していた米倉二郎(1909~2002)が地政学的な観点から、1944年(昭和19年)に公刊した『満洲・支那』(白揚社)を考察してゆく。
    3.岸田吟香と『清国地誌』
     華北から地域ごとに記述が進められる岸田の中国地誌は、視点の変化を追うようなリズムをもつ文章となっている。記述内容は、まず府を主たる地域単位に定め、その位置から始まり、行政領域と沿革、水系と山系へと続いてゆく。その一方、産業の記載はむしろ例外的である。そのスタイルは方志、すなわち中国で書き継がれてきた地方誌にほぼ添ったものとなっている。わずかに岸田が幕末にヘボンとともに滞在した上海について、同時代的な雰囲気を伝えるだけである。
    4.矢津昌永と『高等地理清国地誌』
     矢津の中国地誌は、地形や気候といった自然の記述から始まり、人口や交通、政治といった人文事象に移って、最後に地域ごとの記述に至るという、現在の地誌にも継承されている構成をもつ。各ページには地名を中心に英語表記が頭書されており、本文にもリヒトホーフェン等への言及が見られ、洋書からの翻訳がこの地誌の骨子をなしていることが想定されるが、参考文献の注記はない。ただし、日清貿易について詳細な記述が行われ、黄海会戦など時事問題が取り上げられることに端的に示されるように、単に横を縦に換えたような記述ではない。
    5.米倉二郎と『満洲・支那』
     本書は「世界地理政治体系」シリーズの一冊であり、巻末の紹介に「私は之等支那古来の方志を新しい視角から見直して、独逸ゲオポリティクの直訳ならざる、真の地政学書を書きたいと思う」と直截に語っているように、時代性を強く表出した地誌となっている。記述は、膠着した戦況を背景として、支配が安定していた華北においては産業開発を論じる一方、大後方となっていた西南部については外部との交通に関心を向けることがその一例であるように、中国を植民地とする明確な指向を有している。一方、個別の記述には、1930年以降、数度にわたって行った中国踏査と、内外のフィールド調査に基づく先行研究に依拠した分析が行われており、学術的には先端的な水準をもっている。
  • 静安区大中里を例として
    任 海
    セッションID: 502
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     本研究は上海市の中心位置にする静安区大中里の再開発を事例として進めた。
    大中里地域が位置する静安区は上海市の中心にあり、上海市の商業中心でもある。大中里地域は上海市中心部で非常に良く保存されてきた唯一の大型の里弄住宅群落である。1925年に建設され、84年間の歴史を持っている。今回の大中里再開発事業は、「陽光計画」(サンシャインプロジェクト、公開、公正を意味する)と標榜され、従来の再開発事業で公開されたことがない居住者データを公開している。これらのデータをGISで分析して、住民の移転傾向及び上海の都市拡大の趨勢を明らかにする。地価上昇や個人収入減少などの原因により、再開発計画地域の再入居、あるいは近辺地域の入居が不可能になるのが現実である。移転となった住民を補償するため、開発業者は取壊しとなる住宅の補償価値を確定し、金銭補償と住宅補償の二種類五つの解決策を打ち出した。筆者は大中里里弄住宅の居住者データを分析するとともに、居住者の移転傾向や移転先物件の利用率、居住者の移転形式の選択を明らかにした。
     また、筆者は現地聞き取り調査などを行って、聞き取り調査協力者の移転状態と地域の開発状況から、17世帯の調査結果を分析した。
    大中里の再開発計画からみると、上海市の都市拡大の原因は次のようになる。
    (1)再開発事業に伴う上海都市圏中心部の居住人口の分散が都市圏拡大要因の一つといえる。
    里弄住宅に密集し、共同体の中で生活してきた住民、今回の調査では約5000人余りの住民の大多数が、中心部を離れ、郊外、周辺部に分散していく。
     同じ里弄の中に居住していた共同体が、それぞれ別の移転先へと分散していく。上海市における都市改造を、人口の分散と立ち退きの視点から、模式化したものである。中心部の里弄住宅に密集していた居住地区から、郊外住宅へと移転させ、都市基盤の整備を急速に行う。
     住環境は整備され、新築マンションに住民を居住させる。移転の形態によってそれが郊外であるか中心部であるかはさまざまであり、ここでは人口の分散と定義づける。すなわち人口の分散が都市圏の拡大に直結している (2)中心地域の地価が異常に高騰し、普通の家族では負担できなくなり、より安い住宅で暮らすために、郊外に移転した。 (3)開発業者に利益をもたらすことも都市規模が拡大する原動力の一つである。
     上海市が開港以来何回も大規模の開発があって、小さな漁村から今の国際大都市に変化してきた。1900年代から現在まで百年間に様々な計画をした。特に旧租界時期と1990年代に始まった「一年間で小変化、三年間で大変化」に専念している都市拡張計画で上海市の都市構造を大きく変化した。
     大中里地域の再開発事業は地域特性も事業手法も上海市が1992年から開始した都市再開発の縮図である。再開発ブームで都市構造が大きく変化している。それに対して、グローバル化が進む大都市の上海は、ローカルな政策を打ち出すことも重要である。
  • 遠藤 尚, LAKSONO Anang, NUGRAHADI Tri, 菅 幹雄
    セッションID: 503
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     インドネシアでは,スハルト政権の経済開発体制下,経済発展と一人当たりの所得上昇が概ね維持され,1976年には人口の約40%を占めていた貧困層の割合が,1996年には18%まで低下した。貧困率はその後1997年に発生した経済危機により一時的に上昇したものの,2004年には再び17%まで低下している。しかし,その地域差は大きく,2004年時点の州別貧困率は最小のジャカルタで3%,最大のパプア州では39%を占めている。また,貧困層の67%が農村部に居住すると推計されており,農村-都市間の格差も大きい。ジニ係数は2005年時点で,0.36と他の東南アジア諸国と比較して低いものの,1990年代の経済成長以降増大傾向が続いており,地域差もみられる(カダルマント 2005; 本台 2008)。このように,インドネシアにおける貧困や格差は,依然として注視していくべき問題であり,その地域的差異についても考慮する必要があるといえる。
     西ジャワ農村部における世帯レベルの事例においても,経済成長により世帯の経済状況は全体的に向上しているものの,人的資本の不足した零細農家や土地無し世帯は,子ども世代もより安定的で高収入な農外活動へのアクセスが困難な状況にあることが明らかとなった(遠藤 2008)。一方,人的資本を含む各種資産が蓄積された社会経済的上層集団は,農外部門においてもより有利な活動に就業していた。ただし,この研究は,世帯の資産や収入源に注目したものであるため,社会経済的階層に応じた世帯の消費支出の特徴については明らかにされていない。また,西ジャワを対象とした事例研究であるために,他地域の状況についてもほとんど言及していない。
    そこで,本研究では,インドネシア統計庁(BPS)によって,毎年実施されている社会経済調査(SUSENAS)のミクロデータを用いて,世帯の所得水準や地域的差異に注目し,インドネシアにおける世帯消費支出構成の特徴を明らかにすることを目的とする。
    2.利用データと研究方法
    SUSENASは,政策の策定・評価などに利用するため, 1963年以降,BPSによって行われている調査である。調査項目は,サンプル世帯の保健,福祉厚生,消費支出,教育,住居状況など多岐に渡っており,インドネシアにおける貧困線の設定などに利用されている。またこの調査は,1992年以降毎年実施されているコア調査と3年毎により詳細な項目について実施されるモジュール調査から構成されており,本研究では2000年に実施されたコア調査のデータを用いて分析を行った。
    分析に当たって,サンプル世帯をそれぞれの消費支出に基づいて,5つに区分し,それぞれ区分について世帯構成の特徴や,各支出項目(食料,衣料,医療,教育,祭祀に関わる支出など)への支出の状況を検討した。
    参考文献
    遠藤 尚 2008.西ジャワ農村における農業経営と世帯生計に関する地理学的研究.2007年度東北大学大学院理学研究科 博士論文.
    カダルマント 2005.インドネシアにおける1990年から2000年までの所得格差の実態‐政府統計Susenasの支出ミクロデータに基づく分析‐.SAS Forumユーザー会学術総会論文集.329-342.(本文英文)
    本台 進 2008.インドネシアの社会経済調査と貧困ライン.国際東アジア研究センター(ICSEAD)Working Paper Series,Vol.2008-1.
  • 貞広 幸雄
    セッションID: 504
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     本論文では,都市域の各種施設群に代表される,複数の点分布間の空間関係を記述,分析する手法を提案する.
     同一地域において,複数の点集合が与えられている場合を想定する.まず始めに,2つの点分布間の位相関係を,1) 等価(2つの分布を構成する点の位置が全て等しい),2) 包含的(一方の分布に含まれている点の位置には,もう一方の分布の点も必ず存在する),3) 排他的(一方の分布に含まれている点の位置には,もう一方の分布の点は存在しない),4) 重複的(上の3通り以外),の4通りに分類する.但しこれらの関係は互いに排他的であるものとする.また,点位置の全体集合を考え,2つの点分布の和集合が全体集合と一致するか否かによって1) 完覆,2) 不覆の2通りに分類する.2つの分類方法はそれぞれ独立であり,2つの点分布間の位相関係は4*2=8通りに分類される.なお,排他的かつ完覆な点分布対を補完的と呼ぶ.
     次に,2つの点位置間についても,上と同様の方法を用いて位相関係を定める.それに基づき,K個の点位置で構成される集合について,K-核という概念を提示する.K-核とは,完覆なK個の点位置のうち,完覆なK-1個以下の点位置から成る部分集合を含まないものを指す.即ち1-核とは,全ての分布が点を持つ位置のことであり,2-核とは,2つの点位置のうち,全ての分布が少なくともどちらか一方の位置に点を持つ集合である.K-核は点分布間の類似性を示す概念であり,地図化によって点分布間の空間的近接関係を示すことができる.
    点分布間の位相関係については,前述した2つの点分布間の位相関係を拡張し,以下の方法で記述する.
     まず,全ての点位置のべき集合と,積結合及び和結合の二項演算を考える.これらは束を成すことから,点分布間の関係はハッセ図によって可視化することができる.但しハッセ図は,存在しない点分布を多数含む冗長な表現であるため,その代替としてここでは積結合木を提案する.積結合木とは,元の点分布を全てリンクで結ぶ木構造である.クラスター分析と同様,類似性の高い点分布対から順にリンクで連結し,最終的に全ての点分布を結合する.積結合木は,点分布間の相互関係の可視化だけでなく,点分布の分類にも用いることができる.
     以上の手法を用いて,国内のA市における小学校配置案の分析を行った.A市では少子化に伴う学校統廃合が議論されており,多数の学校配置案が提案されている.類似した案をそれぞれまとめ,各群の空間的な特徴を抽出することで,最終的な意志決定への一助とした.
  • 増山 篤
    セッションID: 505
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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     地理学研究では、等質地域の概念に基づいて、一つの地域を部分地域に区分することがしばしば試みられる。ここで試みられるような区分は、英語圏における研究では「regionalization」などと呼ばれるが、本稿では、「地域区分」と言うことにする。
     今、一つの地域が、属性値の与えられた空間単位の集合からなるとする。このときの地域区分とは、理想的には以下の二つの条件を満たすものとして、空間単位の集合(区分対象地域)をグループ分けする問題に帰着される。

    条件1) 各部分地域(空間単位のグループ)は空間的に連坦している(連坦性条件)
    条件2) 一つの部分地域を構成する空間単位はなるべく似通った属性値を持ち、部分地域内部は最大限均質となる(均質性条件)

    ところが、連坦性条件を満たし、なおかつ、均質性条件を厳密な意味で満たす地域区分は、現時点では、事実上不可能である。その理由の一つは、一般に空間単位の集合のグループへの分け方は膨大な数となることであり、もう一つの理由は、「空間的に連坦する」ということの代数的取り扱いの困難さにある。
     地域区分を行うことのニーズから、地理学とその周辺分野においては、さまざまな地域区分方法が提案されてきた。連坦性条件を満たす地域区分方法としては、Openshaw (1977)、Assunção et al. (2006)、Guo (2008) によって提案されたものが挙げられる。しかしながら、これらはいずれもヒューリスティックな方法であり、必ずしも文字通り「部分地域内部を最大限均質」にするものではない。
     もし、連坦性条件を満たし、なおかつ、厳密な意味で均質性条件も満たす地域区分方法があるとすれば、そのような方法はシステマティックな方法であろう。そして、一般的な最適化問題の解法にならえば、そのような方法では、空間単位のグループ分けが、連坦性および均質性条件を満たすための必要条件が用いられることになろう。そこで、この研究では、ごく限られたケースにおいてではあるが、そのような必要条件を導出する。
     今、空間単位に与えられる属性は、単変量であるとする。また、空間単位のグループ分けが行われたとき、グループ内における属性の偏差平方和によって、部分地域内部がどの程度均質であるかを表すことにする。このとき、隣接する部分地域間で、空間単位を“交換”することによって、より部分地域を均質にできるかを考える。すると、比較的単純な計算によって、もし部分地域間に“等値線”が通るように空間単位の集合がグループ分けされているならば、このような交換によって部分地域をより均質にすることはできないことが分かる。つまり、等値線に沿うような空間単位のグループ分けは、連坦性条件が満たされ、なおかつ、均質性条件が厳密な意味で満たされるための必要条件を満たすものとなっている。
     このことから、あらゆる等値線を列挙(van Kreveld et al., 1997)し、それらのうちのいくつかによって空間単位をグループ分けするという新たな地域区分方法が考えられる。ただし、一般に、等値線のうちのいくつかを選び出す場合の数だけでも膨大であり、それゆえ、最大限部分地域を均質にするように選び出すことは、計算技術的に必ずしも容易ではないと考えられる。また、この研究が明らかにした限りでは、部分地域間に“等値線”が通らないような場合であっても、空間単位を“交換”することによって、より部分地域を均質にできないことがありうる。したがって、等値線を用いて地域区分をする限りにおいて、最大限に部分地域内部を均質にしたとしても、均質性条件を厳密な意味で満たしているとは限らない。
     このように、“等値線”を用いることで、連坦性および均質性条件を厳密な意味で満たすように地域区分ができるかどうかと言えば、否定的な結論とならざるを得ない。ただし、他のヒューリスティックな方法を用いるより、部分地域内部を均質にすることは期待できる。このような期待通りであるかどうかを確かめるには、実際のデータセットに対して、等値線を用いる地域区分方法と従来方法を同時に適用し、それらによる結果を比較することになるだろう。そうした比較検証については、今後の課題としたい。
  • 地域のコミュニケーションの視点から
    和田 崇
    セッションID: 506
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1. 研究の目的と方法
     報告者はこれまで,インターネットをめぐる地理学的研究の動向を整理し,その分析枠組を提起するとともに,メディア別に,アクターの性質や情報の質,社会的ネットワーク,ジオスペースとの関わりに着目しながら,それらを介した地域のコミュニケーションの内実とメカニズムを実証的に解明してきた。本報告は,これらの事例研究の成果を比較しつつ,地域のコミュニケーションの観点からみたジオサイバースペースの構造を考察するものである。
    2.コミュニケーションの背景と特徴
     報告者がこれまで分析してきた7事例について,ガバナンス・パースペクティブからみたコミュニケーションの背景を比較分析すると,実名または仮名の管理者が存在し,参加者間のコミュニケーションを調整または演出している実態がみてとれた。また,一部の事例を除いて,ジオスペースにコミュニケーションの主体(母体)となる組織が存在した。サイバースペース上のコミュニケーションは,その目的から,現実社会に関わる情報の交換・共有を行うもの,実利性の乏しい情報(ネタ)を共有するもの,情報の発信と相互の連結関係を示すものに区分できた。
     次に,構造的パースペクティブからみた参加者間のコミュニケーションの特徴を比較分析すると,管理者による参加者間のコミュニケーションの調整が前提としてみられ,目的等に応じて実名または仮名または匿名によるコミュニケーションが展開された。また,閉鎖的空間でコミュニケーションが行われる場合と,オープンにコミュニケーションが行われる場合がみられた。さらに,各サービスの運営目的に応じて,ジオスペースとの関わりについて,補完・代替,滲出・創発,バーチャル化の実態がみられた。
    3.ジオサイバースペースの空間構造
     サイバースペースは,表現・参照を行うデータベース,参加・交流を行うコミュニケーション圏,没入・活動を行う仮想空間,の3つの空間に大別できる。それぞれの空間は,ノンローカルなコミュニケーションを行うことが前提であるが,特定の地域を対象としたローカルなコミュニケーション空間をカスタマイズすることも可能である。また,コミュニケーション圏に設計・運営されるローカルなコミュニケーション空間は,ネットワークの性格によって,開放型と閉鎖型に区分される。さらに,サイバースペース上に設計・運営される地域特定型の空間は,ジオスペースにおける行政区域,組織,交通条件,既存の対人関係,メディア(公共圏)によって,その対象範囲が規定される。
    4.地域におけるインターネット利用の課題と展望
     インターネットをローカル・ガバナンスの実効化に活かすためには,適切な地理的スケールを対象とするコミュニケーション圏を設計・運営することが重要となる。また,サイバースペース上のコミュニケーションはもとより,ジオスペースにおける活動展開を調整・支援できるアクター(キーパーソン)の存在が鍵となる。そのキーパーソンは,参加者間のコミュニケーションや共同行動などを調整・支援する能力とともに,ジオスペースにおいてもサイバースペースにおいても幅広い対人関係(社会的ネットワーク)を有することが望ましい。その意味で,BBSやウェブログ・ポータル,地域SNS,MLなどのサービスを導入すればすぐにローカル・ガバナンスの実効化に結びつくというものでなく,ジオスペースにおいてアクター(キーパーソン)が存在し,社会的ネットワークが形成されている上にこれらのサービスを導入することで,既存の活動をエンパワーメントし,社会的ネットワークを維持・強化できると考えられる。
  • -東京都の場合-
    高阪 宏行
    セッションID: 507
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    東京都の商店街と商店群を抽出するためには、NTT東日本、NTT西日本のタウンページ(職業別電話帳)に掲載される情報をテ゛ータヘ゛ース化したタウンページデータベース(TPDB)を利用した。商店街・商店群を把握する上で、TPDBの利点は、掲載情報(店舗)だけでなく、経緯度を付与し組み合わせて利用することができることである。経緯度を用いるならば、店舗間の距離を計測することができる。また、店舗に業種コードが付いているので、業種構成も明らかになる。ただし、タウンページに掲載しない場合や1店舗で複数掲載を行う場合もあるため、全店舗数と必ずしも一致しない点を考慮する必要がある。  商店街・商店群の抽出で取り上げた業種は、日常の消費生活で使われている、歓楽、飲食、食品、衣料品・装身具、家庭用品、文化・娯楽、金融・保険、教育、医療・美容、行政・サービス、車両の11業種である(表1:省略)。販売品目・サービス別店舗の種類数は168に及び、いずれも日常の消費生活で使われている。今回使用したTPDBでは、東京には168種類の店舗が約25万店ある。本研究では、TPDBのこの25万店の情報を使用して、GIS上で商店街・商店群を抽出することである。
  • ひたちなか海浜鉄道を事例に
    豊田 賢
    セッションID: 508
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1,はじめに
     2000年に施行された改正鉄道事業法(鉄道事業の規制緩和)によって,従来の需給調整規制が撤廃され,鉄軌道事業における参入退出規制が緩和された.これによって,鉄道事業者は一年間の猶予をおけば地域住民や行政の同意がなくとも路線を廃止することが可能となった.同法施行以後に廃止された鉄軌道は全国で総距離約600kmと,施行前8年間の約10倍に増加していることからも,規制緩和は地方鉄道の相次ぐ廃止に強く関係していると考えられる.茨城県では,2005年に日立電鉄,2007年に鹿島鉄道が廃止されている.
     「ひたちなか海浜鉄道」は,茨城県ひたちなか市の勝田~那珂湊~阿字ヶ浦14.3kmを結ぶ鉄道で,沿線では「湊線」として親しまれている.2005年12月に,当時の経営事業者であった茨城交通から廃止を打診されて以降,沿線住民による支援活動が展開されており,これに呼応するかたちでひたちなか市も湊線を重要な市内幹線交通軸とするまちづくりを実施している.その結果,行政側からの財政支援も決定したことから,2008年4月に茨城交通から同社と市が出資する第三セクター方式の新会社へと経営移管された.
     本研究では,存廃問題が議論されたものの存続が決定し,再生を図っている鉄道を取り上げることで,地方鉄道の現状と問題を明確化できると考えた.そして,鉄道の存廃問題の発生から現在までの経緯と住民運動の展開過程を把握し,沿線住民の鉄道に対する意識が経営移管を契機にどのように変化したか検討する.それをもとに,沿線住民の視点から地方鉄道の存在意義を考え,地方鉄道の今後のあり方を検討することを目的とする.既存の研究において,鉄道と沿線住民の意識の関係を考察したものは少なく,本研究は地方鉄道と地域のあり方について,新たな示唆を提供すると考えられる.

    2,研究方法
     はじめに,湊線の廃線議論の発生から現在までの経緯を,ひたちなか市の行政資料,市議会議事録,新聞記事などの分析を通じて,時系列的に把握した.それに併せ,事業者,行政,住民団体(おらが湊鐡道応援団)などへの聞き取り調査を実施した.また,経営移管前後の沿線住民の意識とその変化を明らかにするため,湊線の非利用者も含めた沿線住民を対象とするアンケート調査を実施した.

    3,考察
     湊線の廃止が打診された後,ひたちなか市は茨城交通に対して湊線の存続を要求するも,回答は芳しくなかった.これを受けてひたちなか市は2006年6月に「湊鉄道対策協議会」を発足させ,2007年1月には沿線住民が主体となった「おらが湊鐡道応援団」が設立され,行政側,住民側からの存続運動が展開された.2007年2月には対策協議会と市議会から『湊線存続要望書』が提出され,これを受けた茨城交通は湊線の廃止届提出を取りやめ,事業者,茨城県,ひたちなか市の三者協議会において湊線の第三セクター方式による存続が決議された.その後,5年間に渡る財政支援も決定した.現在は「茨城県を地方鉄道とまちづくりの発信基地にする」ことを目標に,地域や行政と連携した鉄道を目指した施策を展開している.
     住民側の動きとして,「おらが湊鐡道応援団」の主導で駅の清掃活動が実施されているほか,那珂湊駅構内に活動スペースを設置して利用推進運動が展開されている.具体的には利用者限定クーポンの配布や,スタンプラリーの実施,応援団報の発行などが挙げられる.さらに,沿線高校の生徒会によって立ち上げられた「はま菊応援団」による殿山駅構内の植栽なども見られ,「自分たちの鉄道は自分たちで支える」という意気込みが強く表されている.
     このように,地方鉄道には行政による支援はもちろん,沿線住民の理解と協力も不可欠であると言える.そのために,今後は行政,事業者,沿線住民が「鉄道を支えよう」という意識を持ち,互いに協調することが重要であると考えられる.
     その他,アンケート調査の結果は発表時に報告したい.
  • ドイツ、
    山本 健兒
    セッションID: 509
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     本報告の目的は,ドイツの諸都市の中で,経済衰退と人口減少が著しい諸都市のひとつであるデュースブルク市を取り上げて,そこでの移民集住地区たるマルクスローにおける商店街の変容を描き出し,ローカル経済の意義に関するドイツでの議論に照らしてその変容がいかなる意味を持つかについて考察することにある.
     マルクスローは19世紀末まで農村だったが炭鉱開発によって都市化が進み,同様に都市化した近隣の諸地区と1900年に合併してハンボルン市の1地区となった(山本1997:54―57).同市は1910年に人口10万人を上回り,1929年にデュースブルク市に合併した.1910年にマルクスローの人口は,1990年代初めとほぼ同規模にあたる2万人を上回ったので(山本1997:65),現在の町並みのほとんどがその頃には立ち現れていたと言える.
     マルクスロー中心商店街は,ポルマン交差点を中心とする.ここから南西に延びるカイザー・ヴィルヘルム通り,北東に延びるカイザー・フリードリヒ通り,南東と北西に延びるヴェーゼラー通り,交差点近傍のアウグスト・ベーベル広場から中心商店街は構成される.これらの通りに接続する小路にも商店が部分的に連続したり,やや離れた通りにも商店が分散的に立地したりしている.本報告が調査対象とするのは,そのすべてではなく,カイザー・フリードリヒ通りの北東部分を除外した中心商店街である.調査は報告者自身の現地観察を基本とし,これにAdreßbuchという建物単位で事業所名や住居人氏名(成人のみ)を記載したデータベース,新聞記事,EUのURBANプログラム(山本2009a, 2009b)関係の資料を補完的に用いる.
     1992年9月時点で,中心商店街にはスーパーマーケット,パン屋,八百屋を初めとする食品店だけでなく,デパート,衣服,家具,電気器具,時計・宝石,写真,書籍,花などの専門店や複数の銀行が立地し,中心部の建物2階には専門医や法律事務所などもあり,いわゆる近隣商店街を越える業種構成と店舗数を誇っていた(山本1994:70).トルコ人を初めとする移民経営になる店舗はカイザー・ヴィルヘルム通りやヴェーゼラー通りのなかでポルマン交差点から遠い部分に立地していた.空き店舗や集会所も含めた全店舗数293のうち約22%が移民経営になるもので,そのうち約82%がトルコ人経営だった.
     2008年夏には全店舗数272のうち約35%が移民経営,そのうち約92%がトルコ人経営になるものへと変化した.また空き店舗比率は1992年の3%から10%へと上昇した.単に構成数値だけでなく,ポルマン交差点とこの近傍にはトルコ店舗が顕著になるという地理的分布の大きな変化が生じた.また,かつてのトルコ店舗が八百屋,ファストフード,雑貨店,集会所が主だったのに対して,現在では婚礼衣装・ムスリム向け高級衣料品店が顕著となり,高級レストランというほどではないがファストフード店を越える飲食店も増えた.主要銀行数行とデパートが撤退していることも商店街全体に見られる特徴である.店舗数からすれば移民経営は報告者が確認できた限りで40%に満たないが,現地をよく知るトルコ人によれば70%を上回る.さらにそのプレゼンスの程度からすれば,マルクスロー中心商店街の中でポルマン交差点,ヴェーゼラー通り,カイザー・ヴィルヘルム通りはトルコ商店街へと変容したと言える.他方,ポルマン交差点から離れれば離れるほど,商店街の衰退状況が顕著となっている.
     デュースブルク市統計局によれば,マルクスローに居住するトルコ人は2005年時点で4千人台であり,ドイツに帰化した人を加えても6千~7千人前後であると推定される.この人口だけで複数の婚礼衣装店が成り立つはずはない.実際には,オランダも含めてデュースブルク以北の商圏30~50kmという広範囲に住むトルコ人を顧客としていると考えられる.場合によればそれ以南も商圏に含む可能性もある.したがって,これはローカル経済というよりもむしろ,新たな移出ベースの形成というべきである.この移出ベースがマルクスローに根づいたものかどうか,上に見た変容が衰退都市地区の再生を意味するかどうか,これらの問題は別途検討する必要がある.
  • ―A社静岡工場を事例として―
    山本 健太
    セッションID: 510
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     本発表はプラスチックモデルキット(以下,プラモデル)製造企業の立地要因を,大手企業B社の事例から示すものである.プラモデル製造企業の立地は1950年代中葉の産業化初期にはセルロイド玩具,金属玩具の卸問屋が集まる浅草蔵前地区に多く立地していた.また,静岡市周辺にも集積がみられる.静岡市周辺の集積については,木製模型製造企業が1960年代初頭のプラモデルの市場拡大に伴い,プラモデル製造へと転身したものである.
     『工業統計表 品目編』により都道府県別出荷額の推移とシェアを見ると,1967年以降一貫して,静岡県のシェアが最も大きい.「静岡ホビーショウ2009」および「2008第47回日本模型ホビーショー」に参加した企業からプラモデル製造企業を抽出し,その本社および工場の立地をみると,東京9,埼玉6,静岡11である.静岡に立地するものが多い.そこで,静岡県内の立地をみると,静岡市内に立地するものが多い(9).
     プラモデルの生産工程は大きく4つに分けられる.企画設計,金型製造,射出成形,パッケージングである.企画設計において描かれた設計図を基に,金型が作られる.金型をセットした射出成形機に樹脂を流し込み,ランナーと呼ばれるプラモデルのパーツシートを生産する.パッケージングではランナーをビニール袋に詰め,組立説明書とともに化粧箱に詰める.
     本発表で取り上げるA社の略史は次の通りである.A社は東京都台東区蔵前の玩具製造問屋であった.A社静岡工場(以下,静岡工場)は1970年にA社のプラモデル事業を担うことを目的に,子会社として設立された.設立の経緯は,親企業と取引があった静岡の模型製造企業の倒産に際し,当該企業の工場と金型を買い取ったことによる.設立に際し,一部の従業員や外注先を引き継いだ.1985年にA社が子会社を吸収合併した.
     現在は従業員120人,多色成形機17台が稼動している.また,静岡工場内には企画,設計,金型,射出成形部門がある.工場出荷額は不明ながら,聞き取り調査によると年間100億円を超えるという.また外注先にはα社時代から取引の続いている企業が少なからずある.
     静岡工場の生産に関わる外注取引先を見ると,射出成形や印刷,パッケージに至るまで,いずれの工程においても近隣の複数の企業に外注していることがわかる.外注先の立地は半径5キロの範囲に集中している.
     成形企業には単色成形を外注する.成形企業は静岡工場から金型を,樹脂企業から原料を受け取る.また印刷企業は紙卸から製紙を仕入れ,説明書,箱を印刷する.静岡工場や各外注先企業で生産された半製品は、製函機を有するセット企業へ直接運び込まれる.その後セット企業でパッキングされ,清水港にあるB社関連の輸送企業に搬入される.このように生産工程における半製品の流通は金型の授受を除いて静岡工場を経由せずなされる.
     近年では金型生産,射出成形の技術が向上し,複雑な製品を生産できるようになった.製品の多様性,複雑性も増している.A社主力製品の8割は国内市場向けキャラクタ製品である.テレビアニメーションとのタイアップにより新製品を発売する.2001年にA社が発売した新製品は80種である.過去には154種を発売した年もある.市場の動向に合わせて短時間でプラモデルを生産することが求められるため,多品種少量生産となる.加えて,製品は化粧箱に入れられる.プラモデル製品は嵩張り,軽く,脆い半製品の組み合わせからなる.これらのことを考慮すると,静岡工場の立地は静岡市周辺の成形企業,印刷企業をはじめとした,地場の企業との日常的な分業関係によって,支えられているといえる.
  • 與倉 豊
    セッションID: 511
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
    現在,分析ツールの発達によって,計量的な手法を用いて主体間の関係構造に着目し,ネットワーク構造全体を体系的に把握することが可能となっている。
     本研究ではそのような分析枠組をグローバル企業間の技術提携や所有関係の分析へと拡張・応用する.企業単位で集計した外国資本の導入に関するデータを活用することで,国内だけではなくグローバルな主体間の関係構造を明らかにすることができる.また,時系列データを用いて社会ネットワーク分析を行うことにより,どのような主体がいつごろから構造的に有意な位置を占めているか,また外国企業のなかでも,どの国の企業との繋がりがどのタイミングで日本企業に影響を与えているかといった,ネットワークの進化の視点を導入することが研究課題として考えられる.
    II 分析データと分析手法
    グローバル企業間の技術移転を把握する際に,本研究では社団法人経済調査協会の資料『企業別外資導入総覧(上場企業編)』のデータを活用する.同資料では東京証券取引所一・二部に上場されている企業を対象として,外国投資の導入実績が,外資企業名・国籍・導入年といった内容とともにリスト化されている.本研究ではそれをもとにデータベースを構築し,社会ネットワーク分析を用いて,グローバル企業間の関係構造の可視化を行った.その際には,株式・技術導入・包括的提携など投資の種別ごとにネットワークを区分し,グローバル企業間ネットワークの特徴を分析する.なお、同資料において,各企業は業種別に整理されており,業種ごとの特徴の違いを明らかにすることができる.
    III 分析結果
    図1は化学産業における企業間関係構造を、(1)技術導入、(2)合弁会社設立や直接の資本参加、(3)輸入・販売といった異なる性質による繋がりをもとに、多重ネットワークによって表現したものである。ここで全999のノードのうち、約6割が米国企業である。ネットワークに重みをつけて、各ノードが有する統計量を算出した結果、1980年代半ばごろから米国およびドイツ国籍の企業の次数中心性が増加し、企業間ネットワークの進化に寄与していることが明らかになった。また同時期に一部の日本企業の媒介中心性も非常に大きくなり、多重な繋がりを形成していることが示された。ほぼ同一のノード数を有する一般機械産業と比較して、化学産業は株所有の繋がりが発達しており、関係構造がより密であることが確認できた。
  • 中村 努
    セッションID: 512
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    I.はじめに
     日本の医薬品業界は2009年6月に改正薬事法が施行されたことでコンビニやスーパーで大半の一般用医薬品が販売可能となるなど、制度環境が激変しており、流通システムの再編が予想されている。そうした動きに流通の中間段階に位置する医薬品卸売業も対応を迫られている。1990年代以降、医薬品卸は大規模化し現在では大手4社で8割のシェアを占めるに至っている。この寡占状態は10年前の米国と同様の状況であり、両国の国民性や制度環境は異なるにもかかわらず、卸売業の再編成の方向性について共通点が多い。したがって、今後日本の卸売業の役割はいかに変化するのかを占ううえで海外の動向は示唆に富んでいる。
     本発表は、米国の卸売業のビジネスモデルや空間的展開を概観することで、日本の医薬品卸売業が業界において果たしている役割を相対化することを目的とする。

    II.米国における医薬品卸売業の再編
     米国では日本と異なって、民間による医療保険制度が充実しており、薬価も一部公的に償還されるものを除いて市場で決定される。医薬品の価格交渉は製薬メーカーと保険会社から委託された医薬品給付会社(PBM=Pharmacy Benefit Management)との間でなされることが多い。しかし、PBMは配送機能をもたないため、医薬品卸が医薬品の配送を請け負っている。医薬品卸を経由する処方薬の割合は30年前に5割程度であったが、現在は8割にまで高まっており、流通システムにおける卸の存在感はむしろ高まっている。それにもかかわらず、利幅は縮小しており、規模の拡大と、定期配送を原則とした徹底した物流効率化が実現している。さらに、追加サービスを利用した分の料金を徴収する体系が確立しており、情報の付加価値利用を利益に還元する仕組みが整っている。米国の医薬品卸には日本のMSにあたる営業マンは存在せず、その存在価値を物流機能と情報提供機能でアピールせざるを得なかった。卸各社は自社の競争優位を獲得するため、情報化を活用した支援情報システムを調剤薬局に提供しており、1990年代半ばには受発注などの定型業務をはじめ、従業員教育、カード決済、経営戦略情報まで網羅したメニューを揃え、日本よりも早くからリテールサポートを充実させてきた。
     米国の医薬品卸は合併再編を繰り返して、物流や情報機能を強化するための投資余力を向上させるとともに価格交渉力を高める努力をしてきた。1980年に約140社あった医薬品卸は、現在では37社に集約され、大手3社(マッケソン、カーディナル・ヘルス、アメリソース・バーゲン)で95%のシェアを握る寡占市場が形成されている。
     米国の配送システムは1日1回の定期配送が基本である。その背景にはHMO(Health Maintenance Organization)やPBMが医師や薬局を指定することで、薬局の需要予測が容易になるという取引上の要因と、夜間に高速道路を利用して広範囲の配送圏をカバーできるという技術的側面が影響している。物流センターは1社平均5ヵ所であり、西低東高の分布傾向を示すが、その規模は年々拡大している。大手3社についてみると、本社の位置はそれぞれ異なるものの、物流センターの分布密度は各社とも2州に1カ所程度である(図)。30の物流センターが全米をテリトリーにすると、1センターが日本の面積とほぼ同程度の広範囲をカバーすることから、米国では日本の小規模分散型物流システムとは対照的な大規模集約型システムが浸透している。

    III.日米における医薬品卸のビジネスモデルと空間的展開
     米国の医薬品卸は近年、単価が決まった在庫、営業、配送、棚割りといった各サービスに対して利用分を請求する出来高払い(Fee-For-Service)方式を採用している。これによって、薬局や病院の在庫管理、トレーサビリティの導入による医薬品の品質管理、薬局のフランチャイズ事業など付加価値を収益に結びつけつつある。翻って、日本では小規模かつ多数の顧客への営業機能を維持しながら、多頻度小口配送を実現してきた。また製薬事業や薬局事業への進出もみられる。しかし、米国のように付加価値を収益の柱とするビジネスモデルが確立しておらず、米国ほど物流拠点の集約化は進んでいない。日本の医薬品卸は取引先との力関係上、営業機能を残しつつ、物流拠点の集約化と分散化のバランスをとらざるを得ないのが現状である。
  • 武蔵野市における自主防犯パトロール隊を事例に
    前田 洋介
    セッションID: 601
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    I 研究の目的
    「官から民へ」、「中央から地方へ」という制度改革が進むなか、ローカル/ローカル・コミュニティレベルでのガバナンスの枠組みが議論されている。そうした議論のなかで、近年台頭著しいNPOをはじめとするサードセクターへの期待が大きくなってきている。このサードセクターへの期待は日本に限られた現象ではなく、アメリカやイギリス等の欧米諸国で先立って生じている。
    それに対し、地理学でもサードセクターに関する研究が蓄積されてきた。これまでの地理学における研究の特色の1つに、サードセクターを理解するために、ネオリベラリズム、近年では、ソーシャル・キャピタルなどを強調する(ネオ)コミュニタリアニズムといった政治・経済の文脈を重視してきたことが指摘できる(Fyfe 2004など)。なかでも、Wolch(1990)が提唱した概念、「Shadow State」に象徴されるように、以上のような政治・経済の文脈下におけるサードセクターと政府の関係は重要な論点の1つであった。そこでは特に、広義のパートナーシップ政策が展開されるなか、政府のサードセクターへの接近が批判的に検討され、サードセクターの自立性に対する懸念がしばしば示されてきた。
    改めて日本のサードセクターへの期待を考えると、それは、既存研究と同様の政治・経済の文脈のなかで理解できるだろう。ただし、以下の点に留意が必要である。それは、サードセクターのなかでも、今日特に注目を集めているのはNPOなど目的志向型の団体である一方で、発表者が着目するローカル・コミュニティでは、町内会等の地縁組織もまた今日まで様々な役割を担ってきという点である。この地縁組織は、市区町村の末端機構として機能していると指摘されることもあるように、政府と密接な関係のもとにあるといえる。 本研究では、これらの点を念頭においた上で、東京都武蔵野市の自主防犯パトロール隊を事例に、今日のローカル・コミュニティにおけるサードセクターにどのような特徴がみられるのかを明らかにし、そして、それがどのような意味を持つのかについて考察する。

    II 自主防犯パトロール隊
    本研究で取り上げる自主防犯ボランティア隊とは、「地域住民」により防犯パトロール活動を行う団体である。このような団体は、犯罪統制において犯罪機会論的アプローチが注目されるようになり、また、「地域連帯の再生」が治安の回復にとって重要であると認識されるようになるなか、警察庁の「『犯罪に強い地域社会』再生プラン」(2004年)や生活安全条例等によって全国的に設立が推進されており、既に全国で4万団体以上に上っている。

    III 調査結果
    武蔵野市で活動する全13の自主防犯パトロール隊に加え、武蔵野市、武蔵野警察署、防犯協会を対象に行ったインタビュー調査の結果をまとめると次の通りとなる。1)武蔵野市ではこれまで、地縁組織である防犯協会(市内32支部)が、警察と密接な関係のもと、「防犯」に関する活動を行っていたが、自主防犯ボランティア隊には、この防犯協会をベースにしたものと、趣味や宗教による結びつきをベースにした、地縁組織とは無関係に設立されたものとがある。2)全13団体によるパトロールの範囲は、警察のコーディネートのもと、およそ市全域を覆うようになっているが、その活動範囲はしばしば重なっている。3)多くの団体は同活動を自主的なものと捉えており、防犯協会をベースにした団体のなかには防犯協会の活動より自主的なものと考える団体もある。

    IV まとめ
     地縁組織をベースにした団体とそうではない団体が、ローカル・コミュニティのパトロールという同じ活動を、空間的に重複する形で行っている。これは、ある領域内に「住んでいる」ことが大きな意味をもつ、地縁組織を中心としたローカル・コミュニティの担い方とは異なる、より多くの人に開かれた担い方といえるだろう。また、自主防犯パトロール活動は、政府により推進され、市や警察と連携したものではあるが、既存研究で示されているようなサードセクターの自立性を懸念するものではないと思われる。
    なお、当日の発表では、武蔵野市特有の文脈、個別の団体の事例、武蔵野市や警察の具体的な政策、自主防犯パトロール隊と市・警察との関係にも触れていく。

    参考文献
    Fyfe, N. 2005. Making space for ‘neo-communitarianism’?: The third sector, state and civil society in the UK. Antipode 37: 536-556.
    Wolch, J. 1990. The Shadow State: Government and voluntary sector in transition. New York: The Foundation Centre.
  • ―神田淡路町周辺地区地区計画を事例に―
    松本 久美
    セッションID: 602
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.地区計画とは
    1980年の都市計画法及び建築基準法の改正によって創設された地区計画制度は,都市における良好な環境の創造,保全のための制度であり,地区を単位として公共施設の配置,建築物の形態等について総合的な計画を策定し,建築又は開発行為を誘導,規制することができる.
    地区計画の決定については,案の作成段階から市区町村の条例に定められた方法で住民等の意見を求めて行うものとされており,住民参加の仕組みが法的に担保されているといえる.実際の地区計画策定においては,まちづくり協議会等での議論が重要な住民参加の機会となっている.
    2.研究の概要
    東京都千代田区神田淡路町2丁目では,1993年に廃校となった淡路小学校の跡地を中心に再開発が行われている.この再開発とあわせて周辺のまちづくりについて検討するために,住民や事業者等からなる「淡路地域街づくり計画推進協議会」が1997年に設置された.協議会は再開発地域を含む一帯にかかる地区計画の策定を担っており,本格的な策定は2003年頃から着手された.協議会での議論の他,数回にわたるワークショップやまちづくり発表会などのイベントを経て,2006年9月に「神田淡路町周辺地区地区計画」が決定された.
    本研究では,神田淡路町周辺地区地区計画の策定過程において住民参加がどのように行われ,住民の意見が実際の地区計画にどのように反映されたかを,住民や行政に対する聞き取り調査や当時の資料の分析から明らかにするとともに,地区計画における住民参加のあり方について議論する.
  • 川村 真也, 橋本 雄一
    セッションID: 603
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     日本では,高齢者人口の急速な増加が都市部においても顕著であり,それに伴い高齢者を支える社会福祉の研究も盛んである.北海道においても小樽市や室蘭市などの都市で高齢者人口が多く,これらの都市では市街地の大部分が傾斜地に位置していることから.路面凍結が起きる冬季には日常的な歩行行動に多大な困難が伴う.しかし,そうした積雪寒冷地の都市環境と生活行動とを関連づけた研究事例は極めて少ない.そこで本研究では,室蘭市を対象地域とし,まず高齢者の歩行行動を空間的に把握し,そして歩行空間をベースとした生活空間の解析により,高齢者の視点に立った都市の生活環境特性を解明することを目的とする.
    2.研究方法
     室蘭市から対象地区として,南部の傾斜地に位置する2地区を選定し,それらの地区に居住する高齢者に聞き取り調査を実施した(2007年12月〜2008年1月).上述の2地区は,傾斜地がきつく,行動の地理的制約が大きいと考えられる.調査した項目は,(1)日常生活における行動パターン,(2)歩行空間に関する評価,(3)家族構成・居住年数・年齢の3つである. (2)の歩行空間に関する評価に関し,都市施設には,a)施設の特性・魅力,b)施設の雰囲気・施設内におけるコミュニティ,c)居住地からの利便性,歩行路には,d)ルートの自動車交通量,e)街灯などのルートの雰囲気,f)坂や階段等の物理的な障害という評価項目を設定し,項目間の1対比較行列をつくり,AHP(階層分析法)を用いて解析を行う.さらにファジィ理論をAHPに適応させ,高齢者の日常生活における生活環境を総合的に検討する.
     本研究では,65歳以上の高齢者の日常生活で,外出時に使用される都市施設(商業施設,医療施設)と歩行路の評価に関してファジィAHPを試みる.AHPに非加法性を許容するファジィ測度を用いることにより,施設や歩行路の長所を重視するMM評価,短所を重視するMN評価,さらにウェイトの平均値を加算するN評価の3つの評価を算出することにより,極めて酷似した評価基準の導入によって生じる評価の逆転現象の解消や,多様な評価結果も解釈を得ることが可能である.そこで本研究では高齢者の生活環境調査のデータを基にファジィAHPを行い,都市の生活環境特性を解明するために,ファジィAHPの結果を空間分析に適応させることとする.
    3.結果
    本研究の分析結果で,都市施設に関しては,以下の通りである.当該地域の高齢者はバスや自家用車等に頼らなければ,医療施設や商業施設へ到達することができず,居住地付近では最寄りのバス停までの歩行が日常生活行動の大半を占める.高齢者を65歳から74歳までの前期高齢者,75歳以上の後期高齢者にわけて,それぞれの結果を検証すると,医療施設と商業施設の両方で,前期高齢者と後期高齢者が「利便性」を高く重視し,より身近で便利な場所に都市施設設置への要望が高いと考えられる.ファジィAHPによる医療施設の評価では,MM評価で「総合病院」の評価得点が高く,これはバスと歩行によるアクセスを重視した結果であると考えられる.商業施設の評価では,居住地からバスで25分ほどの「スーパー」への評価得点が高いが,前期高齢者ではバスで45分ほどかかる「百貨店」の評価得点も,ある程度の高さの評価の高さをもち,後期高齢者に比べて選好範囲や行動範囲の広いことが分析により明らかである.
    歩行路に関する分析では,評価項目での重要度は,夏季と冬季で異なり,前期高齢者は冬季に物理的障害が,後期高齢者では冬季にルートの雰囲気の項目の値が高まる.これは冬季の日暮れの早さが影響していると考えられ,後期高齢者は,坂や階段とともに薄暗い歩行路を避ける傾向があるように思われる.ファジィAHP で解析すると,両地区で冬季の歩行路の評価で得点差の値の差が全ての評価で小さくなる.これは冬期間に歩行路上を覆う雪や氷が影響していると考えられる.しかし,前期高齢者で「近隣ルート」の評価値がMM評価やMN評価で夏季よりも高くなることから,前期高齢者は後期高齢者に比べて,雪や氷の影響を受けにくいことがわかる.
    このように聞き取り調査とファジィAHPによる空間解析を行ったことにより,「近隣ルート」等の居住地から身近な歩行路において,前期高齢者と後期高齢者の評価の違いが明らかになるなど,高齢者の視点に立った生活環境特性が解明された.
  • 三鷹市および高松市の比較から
    久木元 美琴
    セッションID: 604
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    近年,特に大きな関心を集めている事業として,非共働世帯の親子に遊び場や情報交換の場を与える「子育て広場」がある.従来,保育サービスは「保育に欠ける」児童への選別的な福祉サービスとして,主に非共働き世帯への教育サービス(幼稚園)と分割されてきた.しかし,1990年代に少子化が問題視され「子育てしやすい社会」への社会的要請の強まりとともに,共働き世帯に向けた柔軟豊富なサービス供給のみならず,非共働き世帯への子育て支援も,社会的に担保すべきサービスとして合意が形成されつつある.特に,働く母親よりも専業主婦に強い育児負担感があることや,負担感と児童虐待との関連性が指摘されたことなどから,保育所に通わない乳幼児とその親を対象とした「子育て広場」への関心が高まっている.
     厚生労働省は,2002年に,「地域子育て支援事業」の一環として,これまで各地域の様々な主体によって設置されてきた子育て広場の認定と運営補助を行う「つどいの広場事業」を開始した.また,NPOによる「全国子育てひろば連絡協議会」も発足し,子育て広場は全国的なネットワークを形成しようとしている.子育てサークルや地方自治体の独自事業による類似事業を含めると子育て広場の全数を把握することは不可能だが,厚生労働省認定の「つどいの広場」は全国682ヵ所(2008年3月現在)で増加傾向にある.
    発表者は,厚生労働省資料「2007年度 つどいの広場一覧」を分析し,「ひろば型事業」の供給に次のような地域差があることを明らかにした.(1)東京・大阪等の大都市およびその周辺部では設置数が多い.(2)東京・福岡では市町村直営,公共施設での実施が多い.(3)一方,大阪・兵庫・四国北部ではNPO運営が中心で,実施場所も民家や商店街空き店舗が多い.(4)児童数あたりの施設数が多いのは長野や山梨,北陸で,少ないのは東北・九州南部である.(5)東北・九州南部では市町村直営比率が低く,NPO運営,商店街空き店舗が多い.
    本報告では,市町村直営・公共施設実施の多い東京都の中でも,早い段階で「ひろば型事業」に着手した三鷹市と,NPO運営・民家や商店街空き店舗での実施が多い四国北部の中で香川県高松市とその周辺市を対象に,それぞれの地域における導入の地域的背景を明らかにする.これらの地域を取り上げる理由は,核家族率の高さ(後者は転勤世帯の多さ)から,「ひろば型事業」に対する類似したニーズが存在すると考えられるが,供給体制に差異が生じているためである.これらの事例は,同様のニーズを持つ地域において,ニーズの発見や供給体制の点で,異なる地域的文脈が影響する可能性を示唆している.
    三鷹市は,1990年代半ばという全国的にみても早い段階で,「ひろば型事業」を開始した.この背景には,1980年代以降,市立認可保育所で行われていた「地域開放事業」,さらに認可保育所との交流から市内のニーズを察知した市担当者によるアンケート調査の実施,施策の先取実行を伝統としてきた市長の先導があった.一方,四国地方の中核都市である高松市と周辺市では,NPOによる「ひろば」型事業の展開がみられた.これらのNPO運営者の多くは,夫の転勤により大都市圏などでの居住歴があり,そこでの「ひろば型」事業もしくは類似事業の利用を経験していた.彼女たちは「転勤族の多い香川でもこうしたサービスが必要だ」と考えており,NPO事業を開始・運営している.この事例は,転勤族が多く「ひろば型」事業のような支援への潜在的ニーズが多い地域において,他地域からの流入者によって新たなサービスが実現された事例であると考えられる.
    当日は,これらの事例における地域的背景について,より詳細なデータを報告する.
  • ―東京都渋谷駅周辺を事例として―
    和田 英子
    セッションID: 605
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     都心の商業集積地域には多数の屋外広告物が設置され、建築物の表層を覆っている。この場合、屋外広告物は主要な景観構成要素の役割を果たしていると考えられる。このような景観を横川(2000)は、建築物や工作物を中心とした従来の景観に対して、「メディア景観」という新しい視点の必要性を考察した。本発表ではこの「メディア景観」という視点をもち、そのなかでも色彩に着目した。屋外広告物はオーディエンスの視覚に対してインパクトを与え、あるいはそこに表されるコーポレートカラーでアピールする性質がある。すると規制条例などのない、多数の屋外広告物が設置されている地域では、そこに表現された色彩や配色が場所イメージに大きな役割を果たしていると考えられる。このことから本発表では、屋外広告物の配色により区域ごとの特性、およびどのような属性の来訪者像が想定されるのかについて、色彩イメージをもとに研究を行った。
     東京都JR渋谷駅周辺を対象地域とするが、そのなかでも、認知度が高く、一般に認知され通り名のついたいくつかの道路に面するエリアを研究対象地域とする。(1)道玄坂(2)文化村通り(3)センター街(4)井の頭通り(5)渋谷公園通り(6)ファイヤー通り、これら渋谷駅ハチ公口から西方へ放射線状に広がる6つの通りに面した屋外広告物の調査を行う。
     なお、予備調査を行い、その対象地として人通りの多い井の頭通りの一画と、井の頭通りやセンター街ほどの人通りはない公園通りとファイヤー通りに挟まれた神南の一画を任意に設定した。予備調査では実際に屋外広告物の色彩(地色と文字色双方)を目視によって調査した。色彩に着目することの有効性を確認することが目的であるため、視感測色法を用いず発表者(=調査者)の目視による色相、明度、彩度の判断とした。屋外広告物の地色と文字色の組み合わせを日本カラーデザイン研究所の配色イメージスケールを参照し、類似の配色を探す配色特性抽出法によりイメージポジションと言語イメージを確認した。
     予備調査の結果、配色の言語イメージについては、落ち着いた配色の多い神南エリアではイメージスケール上のHARD軸寄りであり、「クール・カジュアル」、「モダン」、「クラシック&ダンディ」、「ダイナミック」のイメージポジションに位置し、「若々しい」、「明快な」、「きりりとした」、「スマートな」、「シャープな」、「理知的な」、「神聖な」、「合理的な」、「本格的な」、「味わい深い」、「行動的な」、「強烈な」、「エネルギッシュな」といった言語イメージが当てはまった。これらから、神南エリアには年齢層のやや高い来訪者が想定される。設置数が多く配色のタイプも多様な井の頭エリアではSOFT軸寄りの配色であり、イメージポジションは「カジュアル」、「モダン」、「クール・カジュアル」、「ダイナミック」、「クリア」、「ナチュラル」、「プリティ」といったイメージポジションに位置し、その中でも「シャープな」、「神聖な」、「理知的な」、「合理的な」、「りりしい」、「行動的な」、「強烈な」、「大胆な」、「力強い」、「力動的な」、「タフな」、「エネルギッシュな」、「若々しい」、「きりりとした」、「明快な」、「スマートな」、「うるおいのある」、「あどけない」、「楽しい」、「青春の」、「活動的な」などの言語イメージが当てはまった。これらから井の頭エリアでは神南エリアと比較して年齢層のやや低い来訪者が想定される。
     また、表記文字に関しても井の頭エリアでは日本語が併記されているものが多かった一方で、神南エリアでは日本語併記が少なく、アルファベットが多用されていることから、神南エリアの来訪者は当該エリアの予備知識を備えていると想定される。

    参考文献
     横川昇二 2000. メディア景観の考察―都市環境を形成する広告・看板・情報の課題―. デザイン学研究特集号8(2):22-27.
  • 市田 圭
    セッションID: 606
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    景観に現れる色彩を対象とした研究は1970年代以降,建築学を中心に蓄積されてきた.一方,地理学では,ほとんど蓄積がない状況にある.地理学の視点から色彩を対象とするに当たっての課題としては,地域の色彩景観の時間的変化に注目する点と,一連の変化の背景にある社会経済的要因にまで注目する点にあると考えられる.しかし,そうした研究は不足しており,課題も山積している.そこで,本研究では景観に現れる色彩を対象に,地域における色彩景観の時間的変化を明らかにしながら,社会的文脈から地域における色彩の意味を解釈することを目的とした. 本研究で対象とするのは愛知県常滑市の近代産業景観である.対象地域には黒壁の製陶工場が多く立地し,茶系統の色彩を持つ陶器が土地整備に利用された特徴的な景観がみられる.調査の概要は,陶器と建築物の色彩を「地域の色」としてとらえ,対象地域における産業の変革に伴う色彩景観の変化を明らかにした.また,近年になって「地域の色」が継承されている現象に注目し,色彩景観の形成を担う地域住民やNPOといった人々の価値観を明らかにすることによって,地域における色彩の意味の変化を論じた.
  • -名護市辺野古の海上基地建設反対運動をめぐって-
    中島 弘二
    セッションID: 607
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    9.11以降の米国による「テロとの戦い」のもとで進行した世界的規模での「安全保障」への要請の高まりは、米国愛国者法や日本の有事法制など軍事活動/警察活動を通して社会生活全般に対する新たな管理と統御を可能とする生権力をもたらした(ネグリ・ハート 2005)。また軍事革命に伴う世界的規模での米軍再編は米軍基地や軍事演習場の移転・建設を推し進め、世界各地で地域社会とのコンフリクトを引き起こしている。安全保障と一体化した国家による暴力行使の体制化は、世界各所で人々の生命と身体を脅かし、「生活世界の軍事化」をもたらしているのである。  このような状況に対して地理学でも近年いくつかの研究が行なわれるようになってきたが(Woodward 2004, Gregory and Pred 2006, Tyner 2009)、それらの多くは軍事化や暴力行使の地理的現状を解明するものであり、それらに対する市民的抵抗や変革の試みについては未検討である。そこで本発表では名護市辺野古の海上基地建設反対運動をとりあげ、アガンベン(2003)の「剥き出しの生」とSmith (1998) の「オルタナティブな自然の生産」の概念を手がかりに、軍事化された生活世界における抵抗の可能性について検討したい。
  • 開発資源としての米軍駐留の「再評価」
    山崎 孝史
    セッションID: 608
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     戦後の沖縄における米軍基地問題は、基地を抱える市町村にとっては、重要かつ長期的な政策課題である。しかし、復帰後、基地所在市町村の基地への経済的依存は低下し、1996年のSACO最終報告によって、在沖米軍基地の実質的返還も実現しつつある。この新局面において、基地の跡地利用や周辺地域の(再)開発をどのように実施するかという問題が、関係自治体の重要な行政課題として浮上している。拙稿(山崎2008)はAgnew (1987)による政治地理学的な場所論を援用し、複数の基地所在市町村を比較することによって、「基地の街」開発の鍵となる要素を明らかにした。それらは、1.開発制約となる基地の返還を求める自治体・住民の意思統一、2.市町村の立地条件に適応した開発戦略・手法の選択、3.市町村の独自性や固有性を開発に反映させ、地元住民の開発への理解や積極的取り組みを促すための場所性の動員、である。本報告は拙稿を踏まえ、そこでは十分とらえきれなかった沖縄市コザ地区における場所性の動員、つまり場所の歴史的表象に関わる沖縄市の実践を取り上げ、場所性が基地周辺地区の再開発戦略といかに結びつきうるかについて、発表者自らの現地での研究実践と関わらせながら検討したい。
  • 空間的回避/固定化・スケール・場所
    原口 剛
    セッションID: 609
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    本研究では、地理的空間の生産を、資本による空間編成と、それに対する抵抗運動とのコンフリクトの所産であるものと仮定したうえで、労働運動の発生・展開過程がもつ空間的論理を「空間的回避/固定化」「場所」「スケール」という視点から明らかにすることを目的としている。具体的には、1970年代の釜ヶ崎や山谷といった個別の場所における労働運動が「寄せ場」という対抗的スケールを生産するまでの過程を、聞き取り調査によって得られたデータをもとに分析する。
  • 石井 久生
    セッションID: 610
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに
     スペインとフランス両国家の国境地域において,バスク地方の再領域化が進行中である。再領域化の過程を具体的に検証する手段として,バスク自治州における地名変更,特に日本の市区町村に該当する基礎自治体の名称変更に注目した。基礎自治体の名称変更情報は,州政府の官報で公表されており,そこには変更の具体的手順や依拠した法令,関与した組織などが明記されている。そこで本研究では,官報を精査することで,基礎自治体名称変更に関与した主体と関与の方法を時系列にしたがって解明するという作業を進めた。不足する情報は,県や自治体の公文書から補った。さらに聞き取り調査(08年9月,09年2月)を,州や自治体の関係者,他の関与する主体に対して実施した。この一連の作業により明らかになった事象を,1970年代末以降進行中のバスクの再領域化に位置付けることを試みる。

    2. 基礎自治体名称変更とそれに関与する主体
     バスク自治州には現在251の基礎自治体が存在するが,2008年末までの段階で名称を変更した自治体は160以上に達する。
     基礎自治体の名称変更は,バスク語の公用語としての地位を初めて明記した自治州憲章(ゲルニカ憲章)が制定された1979年以降に進行した。そこから84年3月以前を第_I_期とすると,この時期の名称変更は,基礎自治体や州政府などの行政主導で進められたところに特徴がある。法的には,スペイン中央政府から自治州政府への行政権限移譲を規定した行政権限移譲法(1978年)に依拠している。したがってこの時期の名称変更は,中央と地方との関係の変化を論拠としているともいえる。この期間に80を超える自治体が名称変更したが,その大多数がバスク語話者密度の高いギプスコア県とビスカヤ県に集中する。
     84年4月から91年12月までを第_II_期とする。84年以降の名称変更は,基礎自治体名称変更法(1983年)に依拠して進められた点に特徴がある。同法は,バスク語使用正常化を推進するバスク語使用正常化基本法(1982)の内容を受けて,基礎自治体の名称変更の具体的手続きを明記している。同法適用により,従来の変更が中央政府との関係修正という他律的立場に依拠していたのに対し,州内でのバスク語正常化運動という自律的主張にのっとった立法に依拠するようになった。また同法は,名称変更に際しバスク王立アカデミーの諮問を受けることを明記している。これにより,学術組織が名称変更の主体として重要な役割を担うようになった。
     92年1月以降の第_III_期は,行政構造改革にともなう名称変更管轄省庁の変更を起点としている。この時期,名称変更された基礎自治体の地理的分布傾向に大きな変化があった。1989年に行政部門言語正常化法が制定され,地名変更がこれまでより強力に推進される環境が整備された結果,バスク語話者密度の低い南部のアラバ県内における名称変更が進行したのである。この時期には,主体の関与も複雑さの程度を増した。バスク王立アカデミーへの諮問結果を受けて変更が取り消されるケースや,住民への意見聴取により変更が保留されるケースが多々発生している。また名称変更の主体としての学識経験者内でも,言語学的正統性を強調する言語学者と,住民の生活空間の表象としての地名の価値を重視する地理学者の間での意見の対立も報告されている。

    3. 地名変更とバスクの再領域化
     基礎自治体の名称変更は,バスク語正常化という文脈において進行しており,正常化は自治州全域に適用される法制度に立脚したものである。このような観点からすれば,バスク自治州は立法制度上は均質な空間であるといえる。しかし,そこで活動し相互に干渉する主体(州,基礎自治体,住民,学術組織など)には多様な方向性が存在するうえに,それら主体の方向性は自治州よりもミクロあるいはマクロな地域次元の意思を反映する場合があり,さらにしばしば変化する。そのため地名という景観の変化から観察した空間は不均質で動態的な印象を与える。このように,多様な主体の干渉をとおして多様な地域次元の意思を集約しつつ再領域化を経験しつつあるのが,バスク自治州であるといえる。
  • 養蜂業におけるなわばり問題からの考察
    柚洞 一央
    セッションID: 611
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     今年に入って、農作物の花粉交配用のミツバチが不足する問題が顕著になっている。その要因は明確になっていないが、主に取り上げられているのが、ネオニコチノイド系農薬によるミツバチの大量死、ミツバチに寄生するダニの蔓延、海外からの女王蜂輸入禁止の影響である。これらの要因は、花粉交配用ミツバチが不足する直接的な要因として、多数の養蜂業者が指摘する点である。しかし、発表者のこれまでの各地での聞取り調査では、養蜂業界が抱える根本的な問題が少なからず影響している印象がある。そこで、本研究では、養蜂業における資源配分の問題を通して、ミツバチ不足をもたらした養蜂業界内部の問題を指摘することを試みる。
     養蜂業では、花蜜資源がなければミツバチの飼育は難しい。そのため、養蜂業者は資源を求めて移動を行う。特に、日本では南北に長い地理的特徴を生かして、移動養蜂が盛んに行われてきた。そこで問題となるのが、花蜜資源の利用権を誰に与えるのかという問題である。養蜂業における資源利用の大きな特徴は、資源を直接利用するミツバチが飛行する点にある。ミツバチの飛行範囲は半径2~4kmと広範囲に及び、利用している花蜜資源を明確にすることは困難である。そのため、利用権をめぐる争いは、ミツバチを設置する土地の所有者と養蜂業者との間ではなく、隣接してミツバチを設置する養蜂業者同士で問題にされてきた。つまり、養蜂業者は、土地所有制で管理されている日本の国土空間に独自の利用権、「蜂場権」を制定している。これらの事情が、花蜜資源の配分をより複雑なものにしていえよう。
     発表者は、これまで、養蜂業における資源利用の実態について、全国各地での聞取り調査を中心として、明らかにしてきた。そこで明らかになったことは、県外への移動の際、養蜂振興法(1955年制定)に従って、移動先の都道府県で行政・有識者を交えての転飼調整会議を行い、知事の許可を得て移動するのは表向きのことであり、実態としては徒弟制度を背景とした「スジ」や「ナカマ」を軸にしたなわばりが、各地に形成されていることであった。各地のボス的な養蜂業者が、利用権に関する実権を握っている現状があった。 では、どのように現在のなわばりが形成され、維持されてきたのだろうか。その概要を明らかにするため、全国各地で聞取り調査を行った。その結果、なわばりは、地元飼育者-移動飼育者の対立から生じており、地元が強い地域では、外部から入地させない努力を図ってきたこと、有力な地元飼育者が存在しなかった地域では、移入してきた外部者が既得権を主張してきたことから、全国各地になわばりが形成されてきたことが明らかになった。しかし、これらのなわばりは、定義が曖昧で、常に争いが耐えない状況が続いた。1940年代後半になって、なわばりを法的に固守しようとする動きが生じた。各都道府県での転飼条例や養蜂振興法の制定である。条例や法の整備は養蜂業に一定の公平なルールをもたらしたと評価できる一方で、既存のなわばりを維持する働きをしたと考えられる。また、条例や法によって自由な移動が困難になった結果、日本の養蜂業では新規参入が実質困難になったため、後継者を充分に育てられなかった。今日では、空いている場所があっても利用する人がいない事例も見受けられる。 本研究によって、ミツバチ不足の背景には、なわばりによって花蜜資源の有効利用が阻害されている一面があること、その結果として、新規の養蜂業が参入しにくい状況が生じていることが明らかになった。今後、ミツバチ不足問題を解決していくためには、なわばりを越えた有効な資源配分を業界全体で再考することが必要であり、同時に、全国で花蜜資源を増加させることで、養蜂業者が安定した経営を行いやすい環境づくりを進めることが重要である。  
  • バングラデシュのブタの事例
    池谷 和信
    セッションID: 612
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    日本における家畜飼育の文化地理学では、主として日本の伝統的家畜飼育や世界の牧畜を対象にした研究が数多く蓄積されてきた。しかし、湿潤熱帯地域の家畜については、農業などと比べると研究のあまり進んでいない対象である。これまで、世界の家畜飼育形態では、遊牧、放し飼い、舎飼いという3つの類型がよく知られているが、その違いが生まれた要因について十分に考察されてこなかった。
    本報告では、バングラデシュの家畜飼育のなかでブタ飼育に焦点を当てて、そこでの地域類型をおさえることから、湿潤熱帯アジアの家畜飼育形態の一般的特性を抽出することを目的とする。現地調査は、2007年12月以来現在まで、短期間ではあるが7回にわたり行われた。
     さて、ブタは、約8千年前にユーラシア大陸において野生のイノシシから家畜化したといわれる。その中心地は、西アジアと中国南部である。その後、ブタ飼養はユーラシアの熱帯地域において拡散していった。例えば、沖縄では、14-15世紀に中国からブタが導入されたといわれ、かつてはブタ便所(フール)や祭祀とかかわり(島袋1989)、現在ではアグーのような在来品種が舎飼いされており、ブタと人との密接なかかわりを形成してきた。その一方で、イスラム教国のバングラデシュにおいても、非イスラム教徒によって「遊牧」形態でブタが飼養されてきた地域が認められる(池谷2009)。
    2.調査地の概観
     現地調査は、バングラデシュの中心部の首都ダッカより北側の地域を中心にして、マイメンシン、ガジプール、タンガイル、ラシャヒなどのディストリクトにおいて広域に行われた。対象集団においても、ヒンドゥー系やキリスト教系のベンガル人、ガロやサンタルのような少数民族までに及ぶ。また、国内南東部のチッタゴン丘陵におけるトライブの家畜状況については、既存の文献資料を利用した。
    3.結果および考察
     バングラデシュ国内のブタの総飼育頭数は、既存の統計資料もみられず、その詳細は不明のままである。しかし、舎飼い、放し飼い、「遊牧」という3つの飼育形態が存在することが明らかにできた。舎飼いは、チッタゴン丘陵や国の北部の丘陵で主としてトライブによって行われており、放し飼いは都市部に暮らすヒンドゥー系の人びとによって担われ、「遊牧」はヒンドゥー系やキリスト教系のベンガル人によってベンガルデルタの中央部の平原で広く認められるものである。報告では、これらの飼育形態の違いがどうして生まれたのか、対象地域でのイスラム化の年代とその浸透の過程を考慮して、その要因を考察する。
    参考文献
    島袋正敏1989『沖縄の豚と山羊-生活の中から-』ひるぎ社。
    池谷和信2009 バングラデシュにおける遊牧ブタの餌資源について『第19回日本熱帯生態学会講演要旨集』54頁
  • 増野 高司
    セッションID: 613
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     世界各地で焼畑が衰退しつつある.タイ北部の山間部においても,焼畑による陸稲栽培が広くおこなわれてきたが,1970年代以降になると各地で焼畑が衰退している.報告者は,これまでにタイ北部の山村の2世帯について畑の利用歴を調べ,各畑の休閑と耕作の組み合わせから,1990年代中頃から畑毎に焼畑が衰退したことを示した(Masuno and Ikeya, 2008).また,航空写真を用いた土地利用の分析から,同地域において1978年以降に耕作地面積が急増したことを報告した(増野,2009a).
     本報告は,これらの研究成果に続き,世帯レベルでの焼畑の衰退過程と,世帯構成員,耕作地面積,占有地面積の変化との関係を示すことを目的とする.

    2.調査地および調査方法
     調査は2005年度を中心に,タイ北部パヤオ県に位置するヤオ族の山村でおこなった(図1).2005年における村の人口は20世帯に128名である.1990年代末以降,村では常畑において自給用の陸稲と販売用のトウモロコシが栽培されている.
     村民は法的な土地の所有権は持たない.彼らは土地の占有権を慣習的に管理してきた.この慣習では土地を最初に開墾した者が,その土地の占有権を得ることができる(増野,2009 b).
     土地面積に着目すると,各世帯がある年に占有する土地の面積(占有地面積)は,その年の耕作地面積とその年の休閑地面積を足し合わせた面積に,ほぼ等しくなる.
     1980年~2005年にかけて世帯Aと世帯Bにおける畑の利用歴を再構成し,各畑の面積を計測した.各年代の世帯構成員数は,個人史の聞き取り調査をもとに再構成された.

    3.結果および考察
     世帯Aと世帯Bが1980年代に最大で22 ha 以上の土地を占有していたことが示された.また各年における占有地面積と耕作地面積から休閑地面積の変化が明らかになった.両世帯ともに2003年まで休閑地がみられ,2004年に休閑地は全て耕作地となり,利用可能な土地の全てを利用するようになっていた.
     畑の休閑と耕作との組み合わせから判断した結果,1990年代中頃から焼畑は衰退していたが,両世帯ともに2003年まで休閑地が見られた.
     耕作地面積と世帯構成員数の変化には負の相関が見られた.これは除草剤の導入などで,労働が集約化されたため,少人数で大きな面積を経営できるようになったためだと考えられる.

    参考文献
    増野高司2009a. タイ北部の山村における土地利用の変化(1954~2005年).日本地理学会2009年春季学術大会 講演番号303.

    増野高司2009b.森林局による1級水源域および植林地域の設定が住民の農地利用に与えた影響:タイ北部ヤオ(ミエン)族の山村における事例.中部森林研究57:75-80.

    Masuno, T., and Ikeya, K. 2008. Fallow Period and Transition in Shifting Cultivation in Northern Thailand Detected by Surveys of Households and Fields. Tropical Agriculture and Development 52: 74-81.
  • 渡辺 和之
    セッションID: 614
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに
     かつてヒマラヤでは、山地の人口増加に伴う耕作地の増加や過放牧により、森林破壊が懸念された。
     しかし、「ヒマラヤのジレンマ」として知られるこの言説は検証できるデータが不足しているとして、これまで再検討が叫ばれてきた(Ives and Messerli 1989; 小林2003)。今日では実証的な事例研究も進み、埋没土壌や花粉分析による古植生の復元(宮本・岩田2000)や、過去の写真や地名による景観変化の研究もある(Smajda 2003)。
     また、マルサス主義的な予測に対する反省も指摘された。近年、出稼ぎや都市化の影響で、山地の人口は減少し、逆に耕作放棄によって森林が増えたとの報告もある(Macfarlane 2001)。ただし、具体的にどのあたりがどのくらい増減したのか、森林利用の空間的な把握はまだ十分に検討されていない。
     そこで、本発表では、移牧に従事する羊飼いに注目し、放牧地となる草地や森林がいつごろからあったのか、またそこでどの位の数の羊飼いが何頭くらいの羊を放牧していたのかを明らかにする。

    2.方法
     1960年代発行のインド測量局発行の1インチ1マイル地形図と1990年代発行のネパール測量局発行の地形図(1:2・5万図と1:5万図)を比較することで、30年の土地利用の変化を分析した。また、羊飼いの放牧地利用の実態について、1998年と2006年に現地調査をおこない、8年間の変化が把握できた。

    3.結果
     対象とした羊飼いは夏の高山草地から冬の亜熱帯低地林まで高度差にして4000m以上を移動する(渡辺2009)。このうち、1960年代から1990年までの間に新たに開拓地となったのはおもにインナータライと呼ばれるサラソウジュが優先する亜熱帯林だけである。それ以外の場所については、放牧地の景観に大きな変化は見られなかった。
     また、1998年から2006年の間、羊飼いの人数、飼養する羊の数もともに約1/3減少しており、規模縮小に伴う放牧放棄地も確認できた。そのなかには羊が食べると死ぬ毒草が繁茂し、放牧に不向きな土地となっていた所もあった。

    4.おわりに
     以上の結果から、過放牧とは言い難く、むしろ現状において、放牧放棄地が拡大している。また、家畜の放牧地は、放牧し続けてこそ維持される。この点で今後、放牧放棄地で遷移がすすめば、なおいっそうの放牧放棄地の拡大につながることも予想できる。

    引用文献
    Ives, J.,and Messerli, B. 1989. The Himalayan Dilemma. London: Routledge.
    小林茂2003. 不確定な環境情報と環境破壊論.池谷和信編『地球環境問題の人類学』92-111。世界思想社
    Macfarlane, A. 2001. Sliding down hill. European Bulletin of Himalayan Research 20(1): 105-110.
    宮本真二・岩田修二2000.「自然環境の変遷」山本紀夫・稲村哲也編 『ヒマラヤの環境誌』235-255頁。八坂書房。
    Smadja, J. (ed.) 2003. Histoire et devenir des paysages en Himalaya. Paris: CNRS.
    渡辺和之2009.『羊飼いの民族誌』明石書店.
  • 関根 良平, 蘇徳 斯琴, 佐々木 達, 小金澤 孝昭
    セッションID: 615
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    ○研究目的
    中国内蒙古自治区のなかでも、北京や天津といった大都市に比較的に近接しており、それら大都市と高速道路によって結ばれるようになった自治区首都フフホト市周辺の農村地域では、従来とは異なる新たな経済活動が急激に展開し始めるようになった。すなわち、内陸部の経済発展を図るべく推進されている、農産物の生産と加工・流通・販売を担う企業を結合させ、農業・牧畜地域において企業が利益共同体として展開する「農業産業化経営」が各地で具現化し始めており、それに対応するかたちで農牧業生産は大きな変容を遂げつつある。 その一つが、フフホト市近郊で展開するようになった酪農である。内蒙古自治区とりわけフフホト市周辺は、都市地域で需要が急増している牛乳・乳製品の供給地域として位置づけられ、中国の大手2大乳業と称される「伊利」と「蒙牛」が本拠地を構えるに至った。こうした企業は「竜頭企業」と称されるが、この2企業はいずれも1990年代の創業という新しい企業である。そしてフフホト市周辺地域では、「伊利」「蒙牛」が生乳を確保するためにクーラーステーションを多数設置し、自らの集乳圏を形成している(長谷川ほか2007)。
    こうした状況をふまえ、報告者らはすでに「生態移民」、すなわち農地・草地の劣化のような環境的要因や「退耕還草」政策や禁牧政策など政策的要因によって農牧業生産が持続できなくなった住民らによって形成された「移民村」における農業および酪農経営について予察的な検討を加えた(関根ほか2008)。本報告ではさらに対象事例を加え、「移民村」方式による酪農経営との比較検討を行い、当地域において住民の所得形成手段として展開するようになった酪農経営の現状とその地域性について世帯レベルのデータを用いて検討する。
    ○内蒙古自治区における酪農および乳業の展開
     中国統計年鑑によれば、2004年段階で中国国内には1,108万頭の乳牛が飼養されている。2000年の乳牛頭数は489万頭であり、わずか4年で2.5倍に増加したことになる。省・自治区別にみれば内蒙古自治区はその19.8%にあたる219.4万頭を占め、この頭数は省・自治区単位で第1位である。生乳の省別の生産量でみても、内蒙古自治区は2005年段階で497.5万t(全体の22%)を占めた。いうまでもなく内蒙古自治区は元来牧畜の盛んな地域であるが、1995年時点ではわずか49万tに過ぎなかった。生乳の生産量でみれば、2002年までは黒龍江省が第1位であり、統計上では内蒙古自治区は最近10年間に急速な伸びを見せた。その背景には、_丸1_もともと酪農に適した地域的条件を有するだけでなく、_丸2_高速道路の整備により北京~呼和浩特は今や5時間程度で到達可能であり、北京をはじめとする巨大市場の拡大と近接性が向上した、_丸3_「西部大開発」による12の開発計画地区の1つである「呼和浩特市和林格爾盛楽経済園区」の展開、といった要因が指摘できる。
     いずれにせよ、内蒙古自治区おいては最近10年間の酪農・乳業企業の展開と活動がきわめて活発であった。その主役が、中国国内トップの売上高を持つ伊利と、第2位の蒙乳である。この両者はともに1990年以降の創業であり、蒙乳は伊利の元副総裁が創業者である。この両者が、フフホト市の周辺にパーラーおよびミルククーラーを装備したステーションを多数設置し、生乳を確保している。こうした施設は地域の有力農家や投資家が整備し、彼ら自身および周辺の酪農家が乳牛を飼養し生乳を納入することになる。本報告では、世帯レベルで酪農の経営状況を検討する他、地域間比較をつうじてその地域性について明らかにしたい。
    参考文献
    関根良平・蘇徳斯琴(2008):中国内蒙古自治区における「生態移民政策」によって形成された「移民村」の特徴と課題,日本地理学会発表要旨集,73,p140.
    長谷川 敦・谷口 清・石丸雄一郎(2007):急成長する内蒙古の酪農・乳業(中国),畜産の情報(海外編),208,p73~116.
  • ―中国雲南省少数民族地域の変容(1)―
    張 貴民, 白坂 蕃, 池 俊介, 杜 国慶, 大塚 直樹
    セッションID: 616
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     中国各地で漢民族と55の少数民族が暮らしている。少数民族が最も多い地域として内蒙古自治区などが知られているが、自治区と称しない地域にも数多くの少数民族が暮らしている。雲南省は少数民族の割合は全国7位、少数民族の人口数は全国2位を占めており、典型的な少数民族地域である。2000年に雲南省の総人口数4,236万人のうちに、少数民族の人口数は1,416万人で、33.4%を占めている。また、民族自治地方の面積は雲南省の総面積の70.2%に及んでいる。また、人口数が5,000人を超える少数民族は、彝族・白族・哈尼族・壮族・傣族・苗族・回族など25の民族に達している。更に少数民族の総人口数の60%以上が雲南省に分布しているのは徳昴族・哈尼族・基諾族・阿昌族・拉祜族・傣族・景頗族・布朗族・普米族・佤族など16の民族であり、特に徳昴族・哈尼族・基諾族・阿昌族・拉祜族など13の民族は95%以上の人口が雲南省に集中している。本研究は数多くの民族が暮らす雲南省における棲み分けと共生の実態を明らかにし、その存続基盤とメカニズムを考察するものである。
     雲南省における少数民族の空間的分布には気候条件が大きく影響している。熱病・瘴気を恐れて高温多湿な低地を避けて居住地を選択する傾向があり、居住地は歴史的に高原・山地から次第に低地へと拡大してきた。
     その結果、雲南省の少数民族は、マクロスケールでは各民族が入り交じって雑居し、モザイク状になっている。ミクロスケールでは、各少数民族が集中して居住している傾向がみられる。それぞれの民族は自らの居住地域がある。例えばチベット族は北西部の4,000m級の高地に分布し、怒族は西部の起伏の激しい山地斜面に密集している。独龍族は独龍河谷に、傣族は南西部の壩子と称する盆地に、壮族は南東部の石灰岩台地に集中して暮らしている。また、高度差によって、民族の棲み分けがより顕著に表れる。全体として標高1,400m-2,400m(中暖層という)は人口密度が最も高く、150m-1,500m(低熱層)はこれに次ぎ、2,500m-4,500m(高寒層)は人口密度が最も低い。壮傣語系の民族は低緯度の熱帯・亜熱帯の河谷に多い。西双版納・徳宏・臨滄等の地域では、傣族は500m-1,000mの所に多く分布し、それより高い1,500m前後の中山間地には布朗族・哈尼族・景頗族・亜昌族・佤族が居住している。一方、文山と紅河の両州では、傣族が標高1,000m前後の所に、瑶族と彝族の一部は1,500m前後の所に、そして苗族・哈尼族と一部の彝族は2,000m前後の高山地域に暮らしている。また、標高2,000mの壩子と呼ばれる盆地に白族・回族・納西族・蒙古族が居住し、それより高い山地に彝族と一部の白族が、更に上の高山地域に苗族・彝族と傈僳族が分布している。
     雲南省における多様な自然環境は、少数民族に多様な生活の場を提供し、居住地の選択を模索する段階に棲み分けの選択肢を提供した。同時に、少数民族は能動的に自然環境に適応し、それぞれの生業形態を確立してきた。その結果、遊耕・鋤耕・犂耕タイプの農業村落や、漁村、牧村、林村、狩猟・採集の集落が形成され、更に環境に対応してこれらの方式を組み合わせて経済活動を営む村落もある。
    参考文献
    張懐渝編 1988.『雲南省経済地理』新華出版社.
    古川久雄 1997.雲南民族生態誌——生態理論と文明理論——、東南アジア研究35:346−421.
    楊宗亮 2007.『雲南少数民族村落文化建設探索』四川大学出版社.
    〔付記〕本研究は、日本学術振興会・科学研究費助成金・基盤研究(B)(課題番号20401043、平成20年度~平成22年度)「中国雲南省における少数民族地域の変容に関する人文地理学的研究」(研究代表者:張 貴民)の成果の報告の一部である。
  • ―中国雲南省少数民族地域の変容 2―
    杜 国慶, 張 貴民, 白坂 蕃, 池 俊介, 大塚 直樹
    セッションID: 617
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     中国では1949年に、国民に対する民族識別作業が行われ、56の民族が公認された。漢族を除く55の民族は人口数が少ないため、「少数民族」と称されている。
     中国の2000年第5回人口センサスによると、少数民族の人口は10,449.07万人で、全国人口総数の8.41%を占める。しかし、少数民族の自治区域の面積は611.73万km2にも及び、国土面積の63.72%も占め。さらに、その居住は各々に長い歴史をもって、地域の特性に応じた民族固有の生活様式を定着させており、地域と民族の関係は深い。
     少数民族の地域分布をみると、少数民族の割合はチベット(94.1%)、新疆(59.4%)、広西(38.3%)、寧夏(34.5%)などの自治区と、青海(45.5%)、貴州(37.9%)、雲南(33.4%)の順となるものの、少数民族の数を見れば、雲南省には、22の少数民族もあり、ある程度の人口で一定の集落を構成して居住している。うち、ハニ、タイ、リス、ラフ、ワ、ナシ、チンポー、ブーラン、アチャン、プミ、ヌー、ジノー、ドアン、トールンなど14の少数民族は95%以上の人口が雲南省に居住している。雲南省だけに居住する民族もあれば、ミャンマー、ベトナム、ラオス、タイなど国境を跨って広くメコン川流域に散在する民族もある(杜、2008)。多民族が混在しているのが、雲南省の少数民族分布の最大な特徴となる。省レベルのみならず、州または県レベルでも同様な混在傾向が著しい。
     多民族の混在性は、特にその地域の自然の複雑差によるものであると考えられる。雲南は横断山脈の存在によって、中国で最も複雑かつ多様性に富む地域であると言われる。南北に連なる横断山脈が東西の交通を切断したため、民族のコミュニケーションと文化的交流も切断された。したがって、横断山脈およびその周辺地域では多数の独特な少数民族文化が形成され、多種多様な民族文化に溢れる(杜、2006)。現在、雲南省には8の民族自治州と29の民族自治県が行政区画に制定されている(雲南省統計局、2007)。
     このような、自然条件かつ民族文化が多様性に富む地域は、中国の後進地域とも言われ、政府または民間の開発によって変化が激しく現れてきた。本研究は、中国で公表されている最小スケールの県別統計データを利用し、1997年と2002年、2007年を対象年と選定し、主成分分析の結果により、雲南省の社会経済的な地域変化を明らかにすることを試みる。
     県レベルの行政区画では、1997年に16市と4区、108県(計128単位)、2002年に10市と9区、109県(計128単位)、2007年には9市、12区、108県(計129単位)の変化があったものの、大きな変更はなかった。分析上、11市と6区、107県の計124統計区域にまとめた。
     1997年と2002年、2007年の雲南省統計年鑑には、県レベルの統計は、GDP、工業・農業生産高、人口、従業員数・給与額、国営企業固定資産、財政収入・支出、住民預金残高、農民収入、農産物生産量、工業企業数および生産高、郷鎮企業数および生産高、工業製品生産量、工業企業主要財務指標、小売業売上総額など16分類から構成されている。3つの年とも共通する48項目の統計データを選出し、分析に用いた。
     主成分分析の結果を3つの年を通して考察するため、各年の6成分に着目して比較した。1997年には第2次産業、非農業人口、農作物、農民収入、住民経済状況、性別、そして、2002年には第2次産業、非農業人口、小売、農作物、農民収入、性別、2007年には非農業人口、第2次産業、農業、性別、工業、農作物の6成分が存在し、雲南省の社会経済的な地域構造および変容を示す。
    参考文献
    杜 国慶(2008):中国のエスニック社会.pp.158-165.
    山下清海 編著(2008):エスニック・ワールド.明石書店.257p.
    雲南省統計局 編(1997):雲南省統計年鑑1997.中国統計出版社.682p.
    雲南省統計局 編(2002):雲南省統計年鑑2002.中国統計出版社.
    雲南省統計局 編(2007):雲南省統計年鑑2007.中国統計出版社.667p.
    杜 国慶(2006):観光開発に伴う世界遺産「麗江古城」の変容.アジア遊学、第83号.145-159.
  • 中国雲南省少数民族地域の変容3
    池 俊介, 白坂 蕃, 張 貴民, 杜 国慶, 大塚 直樹
    セッションID: 618
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    中国・雲南省では、国内における観光需要の増大を背景として、1990年代後半から農家民宿をはじめとする観光施設が各地で営業を開始し、農村地域のおける農家収入の確保に大きく貢献してきた。しかし、これらの観光施設の中には外部資本によって開発が進められ、地域住民が観光地域の形成に主体的に参加できない事例も多く、観光地化の進展が農家の所得水準の向上や地域社会の発展に必ずしもつながらないなど、多くの問題点が指摘されている。したがって、今後の農村地域の発展を考える上では、内発的で自律的な観光事業の運営こそが重要であり、そのための基礎的作業として自律的な観光事業が実現している事例についての詳細な分析が不可欠である。
     そこで本発表では、雲南省北西部の玉龍県に位置する湖である拉市海の周辺地域を対象として、組(小隊)単位で農民による共同経営が行われている観光乗馬施設の形成プロセスと経営の実態を明らかにし、今後の自律的な観光施設経営のあり方を探ることを目的とする。農民が主体となって経営されている乗馬観光の実態や、それが各農家の所得向上に果たしている機能を具体的に明らかにすることで、地域住民による自律的な観光施設経営の可能性を探るための手がかりが得られるものと考える。
     拉市海は、玉龍県の南部に位置する湖である。1997年に世界文化遺産に登録された麗江市古城区から約10km西方にあり、雲南省有数の観光地である麗江市の重要な水源の1つとなっている。省内でも有数の高原湿地として、湖一帯は自然保護区に指定されており、観察される鳥類は60種以上に及ぶといわれる。美しい自然景観を持つことから、麗江市への観光客の増加に伴い、拉市海を来訪する観光客数も増加しており、それらの観光客の多くが地元の農民が組織する観光協同組合(旅行経営合作社)が運営している乗馬やポートを利用している。
     乗馬観光が開始されたのは1998年頃で、農民が馬を湖畔で放牧していた折に、ある観光客の要望で乗馬させ10元の収入が得られたことが契機となったといわれる。当時、住民の大半を占める納西族の人々は、水田耕作をはじめとする農業・漁労・家畜飼育・出稼ぎ等により生計を立てていたが、平均年収は麗江市平均に比べかなり低かった。しかし、観光客に乗馬を楽しませることにより容易に現金収入が得られることが認知され、2004年からは組単位で観光協同組合が組織されるようになり、農民による本格的な乗馬観光への取り組みが始まった。
     例えば、海北恩宗三隊では2004年に集落のほぼ全戸に当る60戸で観光協同組合が組織され、各戸が馬1頭、ボート1艘を提供して営業が開始された。乗馬施設の建設や道路補修などに要する費用は各戸が共同で負担し、現在まで外部資本を全く入れずに経営が続けられている。現在は、馬の提供頭数も増加し800頭を超えるに至っており、全60戸を4つのグループに区分し、1グループがボート営業、残る3グループが乗馬営業を担当し、ローテーションで担当を交代する仕組みで運営が進められている。乗馬施設にはレストランも併設されており、これらの従業員を含めると従事者数は全体で約70人にのぼる。また、組織運営は、組合員の投票により選出された責任者を中心に行われ、責任者を中心に全員で経営方針を決定する方式がとられている。ボート料金は1人当たり90元、乗馬はコースにより料金が異なるが1人当たり180~280元であり、1日200人程度の利用者がある。これらの収益は、提供された労働に応じて各戸に毎日分配されており、組合員は安定した現金収入の獲得に成功している。
     このように、拉市海周辺においては、農民たちが組単位で観光協同組合を組織することにより、住民による自律的な観光施設経営が実現されている。
  • 白坂  蕃, 張 貴 民, 池 俊介, 杜 國 慶
    セッションID: 619
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
  • 陰陽五行思想からの分析
    曽我 とも子
    セッションID: 701
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    福原は12世紀末に平清盛が造成した都で,安徳天皇の行幸から半年で平安京に還都した上,後に建造物は全て焼き払われた。このため,都市としての福原の姿を詳細に再現することは難しい。本研究は,福原に造営された安徳天皇新内裏の位置を陰陽五行思想の考え方をもとに推測した。
     清盛は福原の鎮護のために多くの神社を勧請した。そのうち新内裏造営にあたり注目すべき2つの神社がある。比叡山になぞり,日吉山王権現(大山咋神)を祀った丹生山の丹生神社と,都の鬼門よけに京都の北野天満宮を勧請した北野天満神社である。新内裏の位置と推定する荒田町から,丹生山は陰陽五行思想で天を表し,最も神聖視される西北方位にある。荒田町から東北に位置する北野天満神社の神使は牛,神紋は松である。松と牛を合わせると,「松=八白」「牛=土星」で「八白土星」となり,八白土星の方角は丑寅である。
    丹生山から南東方向に直線を引くと,線上に菊水山,大山咋神社,荒田八幡神社,および大輪田泊にあった七宮神社が位置する。北野天満神社から南西に引いた線上には宇治野山(熊野神社),大倉山が位置する。この2線の交点が新内裏であった可能性が高い。
    道教思想において北極星に次いで重視されたのが北斗七星で,北極星を中心とした北斗と南斗の角度が約67度である。
    丹生山と,北野天満神社から引かれた線の交点は約67度となり,この67度の地点を新内裏(北極星)とし,丹生山にある丹生神社を南斗六星,北野天満神社を北斗七星とみなして配置したと考えられる。
  • 本多 健一
    セッションID: 702
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    京都上京の西陣は、旧平安京の北郊にあたり、中世以前のこれらの地域には、条坊制の道路区画に準じた格子状道路網があったと考えられている。一方、近世以降では、特に西陣の西部(大宮通以西)で南北の道路が条坊路(の延長)と大きく乖離し、現在の道路網は、一見、条坊制と無関係の様相を呈している。そこで本研究では、これまで明らかにされてこなかった、中近世移行期における道路網の変容過程を、古文書や古絵図などから解明する。
    文明9(1477)年の「主殿寮北畠図」(『壬生家文書』)などによれば、この地には櫛笥・壬生・坊城・朱雀といった条坊路と同じ名称を持つ南北路が、平安京大内裏域から延伸し、東西路と直交して格子状道路網が形成されていた。
    しかし、それらの名残と考えられる現在の智恵光院通・浄福寺通は、南にいくほど西に偏ってゆき、特に元誓願寺通以南では、対応するはずの櫛笥小路・壬生大路(の延長)と大きく乖離している。対してそれ以北では乖離が小さくなり、両者はほぼ重なり合う。それゆえ元誓願寺通以北の智恵光院通・浄福寺通は、櫛笥・壬生(の延長)と比定され、中世以前の旧状を保持していると考えられる。
    元誓願寺通の南側で智恵光院通・浄福寺通の偏りが著しくなる理由は、天正14(1586)年から文禄4(1595)年まで、その地以南に聚楽第が存在したからではないか。
    聚楽第の復原はきわめて難しいが、その外郭の北辺は、「北之御門町」の町名や等高線の乱れなどから、元誓願寺通付近と考えられている。それゆえ元誓願寺通以南の道路網、特に内郭と重なる道は、聚楽第の造営によって破壊されたと思われる。
    元和5年~寛永3年(1619~1626)頃の 『京都図屏風』には、聚楽第破却後、その跡地がどのように開発されていったのかが、次のように示されている。
    当時の大宮通以西、一条通以南、下長者町通以北には聚楽第跡が残存していたが、その周囲では市街地開発が進行していた。聚楽第跡の北側からは、従来の智恵光院通・浄福寺通が南伸する一方で、南側からも、既存道路とは関係なく南北路が造られ始めている。後になってこれら別々の道が延伸して結合したがゆえに、現在の智恵光院通・浄福寺通における偏りが生じたのであろう。
  • 山下 昭洋
    セッションID: 703
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1895年清国と締結した下関条約により、台湾は大日本帝国の新たなる領土となった。
    その結果、同年6月初代台湾総督樺山資紀率いる台湾総督府一行は、台北を台湾統治の駐剳地とし基隆に上陸し台北へ向かった。それを嚆矢に島都となった台北には日本内地から多くの内地人(日本人)が居住することとなり、戦前、最大で約11万7千人(『臺灣常住戸口統計』)の内地人が居住する台湾第一位の都市となった。
    しかし、現在の台湾研究では日本統治下の内地人を対象とした研究は数が少なく、昭和期を題材にした先行研究が大半を占めているのが現状である。
     報告者は2009年3月の日本地理学会で「日本統治初期の台北における内地人居住地の復原と社会空間の研究」とし図1のように、1900年の台湾統治初期の台北三市街(城内・艋舺・大稲埕)における業種別内地人の店舗の分布を明らかにすることができ、城内における多業種の分布、大稲埕における回漕業の比較的集中艋舺における接客業(貸座敷業等)の集中があったことを明らかにすることができた。また、この表とは別に1902年の台北三市街中の各街庄別の人口分布も明らかにし、さらにこの時期の艋舺における内地人女性の割合が高かったということも明らかにしたことで、芸娼妓が艋舺に集中していた事実も統計的に明らかにすることができた。
    また、2009年5月に台湾で出版された『南榮技術學院人文學群2009年異文化交流國際學術研討會論文集』で「日本統治下台湾及び台北における1897~1902年の現住内地人の社会分析―『臺灣總督府統計書』「戸口」のデータ分析を中心に―」を発表した論文では、主に台北県庁の管轄範囲での年齢別人口、職業別の人口、出生地別人口を調査した。その結果、この時期の内地人は移動期にあたり、年齢的には男女とも青壮年層が突出して多く、性別的には圧倒的に男子が多かったことが確認された。また内地人を出生地別に見ると九州出身者と大都市出身者の割合が高く、女性は長崎、熊本の出身者の割合が高かった。それ以外にも、台湾の内地人居住地形成には官吏先行民間追随という形があったことも判明した。
    これらの研究を踏まえた上で、本研究の対象時期は北白川宮能久親王率いる近衛師団が三貂湾に上陸した1895年5月から1902年頃までとするが、特に1895年から1900年を中心に台北の内地人居住地の形成過程を研究することとする。
    主要な対象地域は、当時台北三市街と呼ばれていた城内・艋舺・大稲埕であるが、台北の内地人居住地の形成過程を明らかにするには、当時の交通移動手段を含めた調査を行うため、基隆及び淡水等をも含めた台湾北部一帯とする。
     本研究の概要としては1895年の日本統治以前の本島人居住地と統治開始以降の内地人居住地形成過程を当時発行されていた「臺灣日日新報」や、戦前に記された回顧録や調査報告書等の文献を用い比較検証していくこととする。これらの資料を駆使し、台北の内地人居住地がどのようにして1900年当時の図1のように至ったかを、日本統治前からの台北三市街の発展や衰退、台北への運輸交通手段、台北を取り巻く社会情勢等を考慮しながら内地人居住地形成を多角度的に検証していくこととする。
  • 高田 明典, 小林 政能
    セッションID: 704
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.はじめに
     (財)日本地図センターでは、2002年から米国国立公文書館(以下NARA)において、主に第二次世界大戦中に米軍が日本を撮影した空中写真の調査を行ってきた。空中写真は、ワシントン特別区の本館ではなく、近郊のメリーランド州カレッジパーク市にある分館の管轄である。この調査過程の中で、米国に接収された旧日本軍撮影の空中写真を2004年12月に発見した。
    旧日本軍撮影空中写真にはJXというコードを付されている(以下「JX写真と略記する」。2004年の調査では、内地を除く極東地区のうちから経緯度1°メッシュ11個分を任意に抽出し、そのメッシュに係る計500枚の標定図を閲覧した。その結果、3枚のJX写真の標定図を発見。うち1缶分のロールフィルムを実見し、サンプルとして数こまの画像を複製取得した(永井・小林、2006)。
    また、旧日本軍が撮影した中国の空中写真については、米国議会図書館に所蔵されているものが発見され、報告がなされている(今里ほか2004)。
    NARAに所蔵されているJX空中写真は、1939-45年に極東地域で撮影した約37,000コマ分の空中写真ネガフィルムがあるとされ、その全容は把握されていない。よって米国議会図書館に所蔵されているものと同じものがあるのかどうかも確認されていない。
    今回は、(財)日本地図センターが2009年6月~7月にNARAにおいて調査したアジア・太平洋地域のJX写真について報告する。
    2.調査方法と標定図
     JXの索引は整備されておらず、大量の米軍撮影空中写真の中に混じって存在する。したがって、検索効率は非常に悪く、全容を調査するには膨大な労力を要する。
    調査方法は次のとおりである。米軍の空中写真と同様に調査対象地域の標定図を調べ、その標定図に記載された缶番号(実際のフィルム缶の番号で省庁がつけた番号)を基にON番号(写真が移管されたときにNARAが付けた番号)、IM番号(バーコード番号)を台帳で調べて発注用紙に記載し、フィルム缶を発注する。フィルム缶が到着したらビューワーで確認し、デジタルカメラで1コマごと撮影した。
    また、標定図はマイクロフィルム化され同一緯度を東西方向に1ロールでまとめられている。ビューワーでの閲覧になるが、ベースマップが添付されているものと添付されていないものがある。2009年6月現在、南緯3°線以南の地域(例えば、ガダルカナルやラバウルなど)は、NARAの予算の関係で、マイクロフィルム化の作業途中で止まっており閲覧すらできない状態が続いている。
    3. 旧日本軍が撮影した空中写真
     JX写真をNARAに送付したのは米国防衛情報局(DIA, Defense Intelligence Agency)である。演者らの調査では、NARAが所蔵する内地分の空中写真には、JX写真が今のところ含まれていない。このことから、JX写真は、戦後内地で接収されたのではなく、外地(戦地)で接収ないし鹵獲されたものと考えられる。
    今回調査したフィルムには、撮影した部隊名(石田部隊)、日付(昭和19年1月13日)、および撮影地区(ホルランディア東部バワ山附近)の記載があり、また偵察者名(石田大尉)、操縦者名(湯地中尉)との記載があった。ホルランディアは、東部ニューギニア方面の町で現在のジャヤプラにあたる。
    演者らは、取得したJX写真画像を現在の地理空間データ上に貼り付けてインデックスを作成している。これを活用してアジア・太平洋地域における旧日本軍の展開状況ならびに現地へのインパクトを、JX写真を基に再現することを試みている。
    参考文献:
    今里悟之・長澤良太・久武哲也 2004.アメリカ議会図書館所蔵の旧日本軍撮影・中国空中写真の概況.外邦図研究ニューズレター2:78-80.
    永井信夫・小林政能 2006.米国国立公文書館で確認した日本軍撮影空中写真について.外報図研究ニューズレター4:15.
  • 山元 貴継, 浦山 隆一, 澁谷 鎮明
    セッションID: 705
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    報告の背景と目的 石垣島をはじめとする沖縄県八重山地方では,集落全体の周囲を列状の樹木あるいは森で囲う「ホーグ」,いわゆる「抱護林」の存在が知られてきた.これら「抱護林」は,強風にさらされやすい同地方において集落と家屋とを守る役割があるとされ,またその存在自体が集落領域を示すものとして,各地の村絵図にも明確に描かれてきた.そして,こうした各地の「抱護林」については,その役割と起源についての議論が続けられてきた.後者については,『北木山風水記』などの分析を通じて,その起源が,18世紀に中国・福建で知識を学び,琉球各地の城郭建設や集落移動に関わったとされる蔡温の指示により植えられた「蔡温松」などに求められるとされてきた.  しかし現在,それらの「抱護林」は,多良間島のように県の天然記念物に指定されたこともあって保存状態の良いものもある一方,その大部分が,市街地の拡大などに伴って消滅しつつある.そこで本報告では,石垣市内の旧四箇村に存在した「抱護林」の現在の状況を紹介するとともに,米軍写真,「土地整理事業」以降整備された地籍図など地籍資料をもとに検討した,近代以降の「抱護林」消滅のプロセスを紹介する.
    旧四箇村における「抱護林」の現状 旧四箇村は,現在の石垣市の市街地に相当する.南側に海を臨み,東西に長く延びたその範囲を取り囲むように,かつて「抱護林」が植えられていた.しかし,すでに近世村絵図の時点で,集落の東西端,とくに西側において,「抱護林」は不明確な状態となっていた様子が描かれている.そして,第二次世界大戦における戦火を経て,残されていた樹木も伐採され,木材として集落の復興に活用されたとされる.  この「抱護林」のうち,集落の背後,北側を囲っていた部分については,米軍写真の時点では森が残されていたが,その敷地の一部が現在では広幅の「産業道路」として活用されている.そして,同道路に敷地を譲った残りの細長い跡地は現在,公民館や教育センターといった公共施設用地となっている.これは,かつての「抱護林」の敷地が依然として共有地であるためである.  一方で,集落の東西端の「抱護林」は,その跡は明確ではない.とくに西側は,現在墓地となっている地筆および低層住宅が建ち並ぶ地筆が,かつての「抱護林」の敷地に該当すると思われるが,その周囲と際だった景観の違いが見られるとはいえなかった.東側については,現在「保安通り」と呼ばれている道路が「抱護林」の敷地の一部と思われるが,その残りの跡地となる,道路沿いに細長く伸びる土地は,個人宅の庭や駐車場となっており,一見すると「抱護林」の跡に見えない.ただし,これらかつての「抱護林」の跡地と思われる土地については,恒久的な建造物はほぼ建てられていなかった.地籍図上でもこうした「抱護林」のあった箇所は独立した地筆となっており,隣接地筆の居住者であってもその地筆を買い入れたり,建物を建てたりすることは難しいようである.  こうして,道路や公共施設用地となって大部分が消滅した「抱護林」であるが,強固に残されている部分がある.それが,かつて集落を取り囲んでいた「抱護林」の「四隅」といえる箇所である.「抱護林」が海に達する箇所は,いわゆる「ウタキ(御嶽)」として,現在でも住民の信仰の対象としての「拝所」や「カー(井戸)」を抱いた豊かな森が残されている.そして,その対角となる,とくに北東端の地筆も,米軍写真の時点でその周囲の「抱護林」と比べて広い幅の,まとまった森が残されていた.そこだけは現在も,西側および南側が道路となる中で,一定の幅の地筆と,一部樹列が残されている.
    「抱護林」消滅のプロセス 以上見てきたように「抱護林」については,その敷地が「土地整理事業」において独立した地筆として認められたのか,そして土地所有関係上も明確に「共有地」となっていたかが,後の消滅の度合いに関わっている可能性が指摘できた.すなわち,「事業」の時点ですでにその存在が不安定であった可能性のある西端の「抱護林」は,まとまった地筆とならず,現在ではその跡を求めること自体が困難となっている.一方で,集落北側の「抱護林」は,もともと幅も広く,明確に「共有地」地筆として認められたこともあって,現在でも道路用地や公共施設用地としてその敷地の範囲を容易に確認することができる状態となっている.そして,中でも「抱護林」の四隅となる部分については,現在でも明確に森が残されていた.このように今回の検討からは,集落を取り囲む「抱護林」の中でも,保存優先度の高い箇所と,容易に失われた箇所とがあることが示された.
  • 有馬 貴之
    セッションID: 706
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    I. はじめに
     人々が世界中を自由に移動できるようになり,観光はより重要な社会現象となった.そのなかで,エコツーリズムについての研究が1990年代から増加している.また、今日では、エコツーリズムと称される観光形態が先進国でも顕著にみられる.本発表ではエコツーリズム先進国といわれるオーストラリアの世界遺産フレーザー島を事例に,どのような観光者がどのように保護地域内を移動,利用しているのかを報告し,先進国の保護地域で行われているエコツーリズムとは一体何なのかを検討したい.

    II. フレーザー島におけるツーリズム
    フレーザー島の観光資源は、島中央部では熱帯雨林や湖,島東部では海岸や砂丘となっている.また,フレーザー島で行われる活動は、熱帯雨林や湖では散策や遊泳など,海岸や砂丘では観察などである.鉱物採掘の全面的廃止から、徐々にフレーザー島への来島者は増え続けていたが,世界遺産の登録によって,来島者はさらに増えた。また、国際観光者の割合も高まり,世界遺産登録以前よりもフレーザー島には多様な観光者がみられるようになっている. 島内は4WD自動車でしか移動することはできないため,移動手段はおのずと限られる。フレーザー島では、その移動手段から大きく3つの観光形態がみられる.まず,20人~40人程度が一度にのることのできるバスによるツアー・タイプ(30%)である.次に,3日分のテントや食料を積み,10人程度が一度に乗ることのできる4WD自動車によるバックパッカー・タイプ(18%)である.最後に,主にオーストラリア人を中心に利用されている4~5人のりの4WD自動車(37%)である.本発表では,昨年度までに得たデータを基に,ツアー・タイプとバックパッカー・タイプの2つの事例を報告する.

    III. ツアー・タイプとバックパッカー・タイプ
    図はあるGPS調査により作成したツアー・タイプの移動データである.ツアーは西から東へと進み,また西へ戻るという移動ルートをとっていた.また,ツアー時間のうち,300分(55.6%)を森林内において消費し、300分(55.6%)を車中で過ごしていた。移動ルートにおける局所的な利用集中箇所は、アトラクション周辺やトラックの曲り角,および交差点付近で認められた.バスはアトラクションに近づくにつれて速度を落とすため、その周辺で利用が高くなっている.また,バスの車体が大きいため、道路を曲るために速度を落とし、曲がり角や交差点付近で利用が高くなっていることも想定される。 一方、バックパッカー・タイプの移動ルートも往復型の移動ルートをとっているが、島内における利用時間については、その多くが海岸となっていた.また,車内での時間も相対的に少なく,アトラクションでの活動に時間が割かれていた(900分,63.8%).バックパッカー・タイプの利用にもトラックの曲り角や交差点での集中がみられた.彼等の軌跡データをみると,次の目的地に行くための道路の選択を誤っており,迷った形跡が認められた。つまり,不慣れな場所での移動が彼等に影響し,曲り角や交差点で,特に速度を落として運転したことが影響しているとみられる。したがって,車体の大きさだけでなく,運転者の影響によってもトラックでの空間利用に差が出ると考えられる. 本発表では、これらの観光形態の考察によってフレーザー島おける自然資源の利用のあり方について明らかにする。
  • 田中 絵里子, 森田 圭, 佐野 充
    セッションID: 707
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1.富士山の観光化
     富士山は古くから信仰の対象や御神体として崇められてきた。12世紀には富士山修験道としての富士信仰が、富士登山道の中で歴史上最古といわれる「村山登山道」から大きく発展した。16世紀以降になると、富士山麓の人穴で修行した角行による富士信仰が広がり、江戸の庶民の間で富士登拝が行われるようになった。江戸時代に行われた街道の整備は、江戸から富士山へ山梨県側からアクセスすることを可能にした。マスツーリズムを大衆化・大量化と捉えるならば、ここに富士登山の第一のマスツーリズム化(大衆化)が始まったといえる。
     第二のマスツーリズム化(大量化)は、富士山へアクセスする道路の整備が進んだ1960~70年代だといえる。このころ、富士スバルライン(1964)、富士山スカイライン(1970)などが相次いで供用開始され、ほぼ同時期に中央自動車道の調布~河口湖間が全通したことにより、富士山へ便利で快適にアクセスできるようになった。登山者は増加し、この時期に営業を開始する山小屋も現れた。しかし同時にごみやし尿処理などが環境保全の問題として取り上げられるようになり、清掃活動は1960年代から、し尿処理は1990年代から取り組まれるようになった。
     そして近年、第三のマスツーリズム化(超大量化)が起きている。富士山の観光化はさらに進行し、昨年度の登山者は過去最高の43万人(5合目以上)を記録した。この背景の1つに富士山が世界遺産の候補として注目されていることが挙げられる。これにより山小屋やトイレなどの利用者数の超過、道路の渋滞、登山知識や経験の未成熟な登山者による事故、病気、登山道の誤認などさまざまな問題が生じている。特に富士登山者の多くは初登頂者であり、外国人登山者も増加していることから、登山道の標識に統一化、多言語化が求められるようになった。
    2. 登山道における標識の整備
     富士登山道には国、県、市町村、山小屋などがそれぞれ設置した標識が乱立していた。表に2008年8月の標識設置状況を示す。どの登山道にも多くの標識が設置されていることがわかる。2009年3月には、国、静岡・山梨両県、周辺市町村、観光団体、山小屋の組合などが参画して「富士山標識関係者連絡協議会」が発足し、ガイドラインの作成に着手した。同年6月には新しい標識が設置された。標識は、案内標識、規制・警戒、総合案内の3種で、案内標識は登山道別に色を使い分けた(黄:吉田口、赤:須走口、緑:御殿場口、青:富士宮口)。言語は4ヶ国語(日、英、中、韓)表示となり、よりわかりやすい登山道の整備が進んでいる。
    3. 残された課題
     富士登山の観光化に伴う問題は、ごみやし尿などの環境保全の問題から、標識のデザインや多言語化といったアメニティの整備へと拡大している。しかし、依然として道路の渋滞解消、登山者やガイドの知識およびモラルの向上、科学的視点からの取り組みの必要性などの課題が残る。また、初登頂者が多く、滞在時間の短い富士登山の特性に配慮した情報の提供が鍵になるといえる。
    【参考文献】池上ほか(2008)富士山における標識の実態分析,富士学会発表要旨集6,pp.6-7
  • ー鹿児島県を例にー
    北田 晃司
    セッションID: 708
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    近年、日本政府による「ようこそJapan」キャンペーンや日本の文化に対する国際的関心の高まりなどの影響もあって、わが国を訪問する外国人観光客は大局的には増加傾向にある。このため、日本の各都道府県、中でも経済力の弱い地方の県は観光産業、特に外国人観光客の増加による観光の国際化を、経済の活性化のための重要な手段として注目するようになっている。しかし現実には、日本国内において多くの外国人観光客が訪問するのは東京都・大阪府・京都府など、関東や関西周辺に集中しており、地方にある県を訪問する外国人観光客数は、これらの都府県に比べてまだ大きく水を開けられているのが現状である。
     本研究においては、このように地方を訪問する外国人観光客の順調な増加を妨げている諸要因について検討し、提言を行う。フィールドとしては鹿児島県を選んだ。同県は経済的にはわが国における典型的な後進地域ではあるが、桜島をはじめとする多くの観光地や温暖な気候に恵まれ、わが国の中では経済に占める観光産業の比率がかなり高い県である。また、日本の高度経済成長期には隣接する宮崎県とともに、わが国でも最も人気のあるハネムーンの目的地の一つとして多くの観光客を迎え入れた。しかし同県を訪問する外国人観光客数は、たしかにここ数十年の中で増加してきたものの、日本の中央部に位置する都府県はもちろん、「雪国」として国際的にも高い評価を受けている北海道などに比べても伸び悩んでいる。これはヨーロッパのイタリア南部やスペイン南部などが、経済的には国内における後進地域でありながら、訪問する外国人観光客数においては北部の地方を圧倒しているのとは対照的である。
     以上のような状況を考慮した上で、わが国の地方が外国人観光客により大きな魅力を与えることが可能な、より質の高い国際的な観光地として成長していくためには何が必要なのか、外国人観光客がわが国を訪問するプロセスに沿って_「来日前の情報提供」「日本国内における中央から地方へのアクセスの改善」「外国人観光客にとってより満足度の高い観光地の案内や料理の提供」の順に鹿児島県の例を挙げながら具体的に検討する。
     まず、わが国の地方は、東京や京都のような中央に位置する観光地に比べて知名度ははるかに低い。しかし西日本には、鹿児島県をはじめ長崎県・山口県など、伝統的に海外との交流に関しては東日本にある県よりも盛んであった例が多い。また鹿児島市のようにナポリ・マイアミ・パースといった有力な都市と姉妹都市関係を結んでいる都市も多く、このような過去および現在の双方における交流の伝統を十分に生かし、かつ海外に発信すれば、地方における観光の国際化により大きな刺激を与える可能性がある。
     次に、日本の地方は主にアジア諸国への直行便が発着する空港が多数ある。しかし日本を訪れる外国人観光客にとって人気のある観光地は、東京・京都など、その大半が中央に集中しており、地方だけで外国人観光客を囲い込むことは日本に対する印象を低くする恐れさえある。むしろ、外国人観光客がより安価な値段で利用できる航空パスの新設など、中央と地方との移動をより容易にすることが重要である。
     さらに、韓国・台湾・香港などのアジアNIESからの観光客については、すでに日本の主な観光地が一通り認知され、また団体観光客よりも個人観光客の割合の増加によって、これまで以上に、外国人観光客の出身国や地域ごとの嗜好により合った観光を求めるようになっている。例えば鹿児島県についても、かつては外国人観光客の大半を占めていた指宿地区を訪問する台湾人観光客が減少し、その一方で、県内でも有数の温泉地帯でハイキングも楽しめる霧島地区を訪問する韓国人観光客が増加している。このような状況下においては、受け入れ側が英語をはじめ、中国語や韓国語など、できるだけ多くの外国語による対応に習熟することはもちろん、ただ地元で有名な観光地や料理などを日本人観光客に紹介するのとほぼ同じ内容で外国語に翻訳するのではなく、様々な国や地域の地理・歴史・文化・自然環境などに対する知識を充実させ、出身国や地域の異なる外国人観光客にそれぞれ最も大きな満足を与えることができるよう、よりきめ細やかな対応を行うことが何よりも大切である。
     以上のような点に留意した上で、世界レベルでの経済の停滞や疫病の流行による外国人観光客の一時的な減少や目先の経済的利益に過敏に反応することなく地道な努力を続ければ、面積こそ狭いものの、北海道から沖縄まで多様な風土を持ち、様々な国や地域からの観光客に満足を与えられる可能性を持ったわが国の地方が、より多くの外国人観光客を引きつけ、観光の国際化を進めることは十分に可能と考えられる。
  • 横山 秀司
    セッションID: 709
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
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    1994年に初めてドイツにジオパークが設置されて以来、各地でジオパークの開設が続き、2002年にはドイツ国内ジオパークネットワークが、04年にはユネスコが支援して世界ジオパークネットワークが設立された。ドイツのジオパーク内には地学小道、地学資料館・博物館などがあり、ジオパークへのジオツーリストの増大が見られるようになった。わが国では、07年に地質遺産をもつ13の市町村によって日本ジオパーク連絡協議会が設立され、08年には日本ジオパークネットワークが組織された。さらに洞爺湖・有珠山、糸魚川、島原半島がユネスコのジオパークネットワークへの申請を行うなど、その動きは活発になっている。本研究では、ドイツのジオツーリズムの発達と現状、わが国におけるその可能性について報告する。
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