日本地理学会発表要旨集
2009年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の203件中151~200を表示しています
  • 藤田 剛
    セッションID: P919
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに

     近年, 百名山ブームや健康ブームに伴い中高年を中心に山岳利用が活発になっている. その一方で, 登山道の過度な利用が進み, 全国各地で登山道の荒廃が報告されている.
     これまでに登山道の荒廃に関して多くの研究がなされ, 特に登山道の荒廃を抑制するため, その要因が探られてきた. しかし, こうした既存研究のほとんどは高山帯を対象としており, 森林に覆われた亜高山帯より低所の山における研究例はあまりない. 特に利用者が多い大都市周辺の山における研究は少なく, 登山道の保全を考える上で, こうした地域の登山道荒廃の実態も明らかにする必要がある (中村 2000). また, 登山道の侵食パターンには山毎に異なる地域的な特徴が影響する (依田・小野 1991). これまでに山毎の侵食パターンについて比較検討した研究はほとんどなく, そのため山毎に卓越する侵食パターンに対応した適切な施策の必要性を提示できてこなかった (渡辺 2008).
     そこで本研究では, 利用者の多い首都圏周辺に位置する3つの山 (丹沢山地の塔ヶ岳, 箱根山地の金時山, 奥多摩地域の大岳山) において, それぞれにおける登山道の侵食パターンを示し, その要因を明らかにすることを目的とする. そして, 山毎に異なることが予想される登山道の侵食パターンやその要因に応じた施策の必要性について言及する.


    2.調査地と方法

     本研究では首都圏から日帰りで登山が可能な丹沢山地の塔ヶ岳, 箱根山地の金時山, および奥多摩地域の大岳山の三ヶ所を調査地とした. また, それぞれ現地調査は調査対象とした登山道に一定の標高ごと (塔ヶ岳 - 50m毎, 金時山・大岳山 - 25m毎) に設けた調査地点で行った.
     登山道で観察される土壌侵食のパターンを明らかにするために, 各調査地点において登山道の侵食幅, 侵食深, および侵食量を計測した. また, 登山道の侵食パターンに影響する要因を明らかにするため, 周辺環境である傾斜角, 土壌硬度, リターの厚さ, そして周辺植生について調査した. 解析には重回帰分析を用いた.


    3.結果と考察

     侵食パターンは山毎に差異がみられた(図1). 塔ヶ岳では侵食幅が拡大する侵食パターン, 金時山では侵食深が深くなる侵食パターン, そして大岳山では総じて侵食が抑制されるパターンをそれぞれ示した. 重回帰分析の結果から, 侵食パターンに関わる共通の要因として, 登山道の傾斜角と登山道内におけるリターの厚さが抽出できた. それぞれの侵食パターン毎では, 塔ヶ岳でみられたような登山道の拡幅化が目立つ侵食パターンには, 共通要因に加え周辺植生タイプおよび登山道外におけるリターの厚さが関わっており, 金時山で顕著に生じていた侵食深が目立つ侵食パターンには土壌硬度と周辺植生タイプが形成要因となっていた.
     これらのことから, 登山道の土壌侵食に関わる要因の地域的な差異が山毎の侵食パターンの違いを生じさせていると推察できる.したがって,それぞれの地域に卓越する侵食パターンおよびその形成要因に合致するような対策の実施の必要であると考えられた.


    4.引用文献

    中村洋介. 2000. 丹沢における登山道荒廃の過程とその要因. 地域学研究 13: 25-48.
    依田明美・小野有五. 1991. 登山道の侵食について. (第二報) . 地形 12: 76-77.
    渡辺悌二. 2008. 国内外にみられる既存のおもな登山道整備工法. 渡辺悌二編著『登山道の保全と管理』古今書院.
  • 松本 秀明, 加藤 温子
    セッションID: P920
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     我が国の砂浜海岸は各地で侵食が相次いでおり,仙台平野の海岸もその例外ではない。仙台平野の海浜は過去5000年間において年間0.4~1.2mの速度で前進を続けてきたが,1993年以降,部分的に砂浜が侵食されはじめ,現在では海岸線の後退現象が大きく進行している。  発表者らは南北45kmにおよぶ仙台平野の砂浜海岸に19地点の定点を設け1978年~2008年までの31年間,砂浜の断面測量を実施してきた。本研究では,仙台平野の海浜における過去30年余りの砂浜侵食・堆積の実態と傾向を整理するとともに,将来の砂浜残存期間(余命)を算定し,今後の海岸侵食への対策に資する資料を提示する。
  • 黒木 貴一, 磯 望, 後藤 健介
    セッションID: P921
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     近年,火山・地震活動による広い範囲の地形変化は,空中写真や航空機レーザーによる測量やSARデータの干渉法により高精度で容易に把握できるようになった。一方,斜面崩壊などの狭い範囲の土砂移動や侵食による地形変化は,礫にペンキを塗布する方法,岩の形状を隔年で詳細計測する方法,流出土砂を貯砂施設でトラップする方法など細かな作業を要する。したがって,地形変化量が微妙なほど,計測には時間と手間がかかる。そこで本研究では雲仙火山の火砕流堆積地を対象に,デジタルカメラで撮影した2時期の画像の変化を解析し,狭い範囲の地形変化域及び量を簡便に把握する手法を検討した。
     検討の結果,1)デジタルカメラによる撮影画像から地形判読,地形変化場所の特定,侵食深の計測,概略の侵食量評価ができること,2)10m四方の実験範囲に高位よりI面,II面,III面を区分し,その区分を元に細粒堆積物比と侵食深を区分しやすいこと,3)実験範囲全体の観察期間における侵食量は0.373m3で平均侵食深は3.73mmだったこと,が分かった。
  • 河角 龍典
    セッションID: P922
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
    歴史港湾都市の開発や景観について検討を加えるためには、港湾が機能した時代の地形景観の復原が必要である。精度の高い地形景観の復原を実施するためには、発掘調査から得られる時間的・空間的解像度の高い地形・地質情報を収集しなければならない。しかし、発掘調査の成果が高密度で蓄積されている歴史港湾都市は、ごく一部の歴史港湾都市に限られ、多くの場合は発掘調査成果に依存して港湾都市全体の地形や海岸線を詳細に復原することは困難であった。
    本研究では、上述した問題を克服するために、地理情報システム(GIS)と細密DEM(Digital Elevation Model) やボーリングなどの地形・地質資料を活用した歴史港湾都市の地形景観の復原手法を提示する。研究対象地域としては、15世紀以降に港湾開発が進展する琉球王国の那覇を選定し、港湾開発以前の地形景観の復原を試みた。
    琉球王国那覇の地形景観については、琉球王国時代以降の那覇の海岸線の変化に関して主に歴史史料を用いた検討が加えられている。しかし、地形・地質資料の分析に基づいた琉球王国の那覇の地形景観に関する復原的研究は実施されていない状況にある。琉球王国那覇の景観復原のためには、地形・地質資料を考慮し、海岸線と陸域の地形とを総合的に捉えた地形景観の研究を行う必要がある。
    II 分析方法
    本研究では、地形・情報の抽出作業を効率的に進め、かつ抽出した各時期の地形情報を重ね合わせて分析するために地理情報システム(GIS)を活用し、地形景観の復原を試みた。
    琉球王国時代の地形景観を復原するためには、まず那覇の地形起伏に関する情報を抽出する必要がある。本研究では、陸地測量部作成大正10年5万分の1地形図、米軍作成1948年4800分の1地形図、那覇市発行平成7年2500分の1都市計画図それぞれに記載された等高線から地形情報を抽出し、大正時代以降の地形変化を特定した。とりわけ米軍作成の1948年の4800分の1地形図は、戦後の地形景観を対象とした情報であるが、琉球王国時代に最も近い時期の那覇の詳細な地形情報が記載されている点において重要な資料である。
    那覇の地質を把握するために、本研究では、ボーリング資料を資料した。ボーリング資料の分析においては、港湾開発以前の地形を復原するために、盛り土の分布、層厚、盛り土直下の堆積環境に関する情報を抽出した。さらに主要な部分については、地質断面図を作成し、地形発達について検討した。
    III 結果・考察
    本研究では、那覇の地形景観を視覚化するための基礎的な作業として、米軍作成の1948年の地形図、那覇市作成の平成7年の都市計画図から地形情報を抽出し、GISを活用した地形景観の可視化を行った。
    大縮尺図の地形情報を抽出したことによって、過去および現代の精緻なデジタル地形モデルを作成することができた。その結果、那覇周辺地域の地形分布に加えて、1948年以降の那覇における地形改変の実態も明瞭に把握することができた。那覇における戦後の地形改変は非常に大規模なものであることはすでに指摘されていたが、従来から指摘されてきた埋め立てによる地形改変だけではなく、地形の削平も非常に大規模であることが視覚的に明らかになった。
    本研究で作成したデジタル地形モデルは、今後、琉球王国の那覇の景観復原や都市史研究のための基盤情報として、活用可能なデータである。景観シミュレーションや都市構造と立地環境との関係について検討を進めるために使用する予定である。なお、分析にあたっては、埋め立て特定をボーリングデータから行う必要がる。
    文献
    名嘉山光子「那覇付近の埋め立てによる拡大」、琉大地理第6号、1967年。
  • 島津 弘, 笠間 希, 瀬戸 真之
    セッションID: P923
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     沖縄県宮古島の周囲の海岸には巨大な岩塊が分布している.一方で,巨大な岩塊の分布には偏りがあり,また,岩塊の大きさや形が場所により異なっている.河名(2009)は宮古島南東部の東平安名岬周辺に分布する岩塊の生産後の移動プロセスについて検討を行い,海食崖から崩落した岩塊が津波によって再配置されたことを明らかにした.しかし,なぜ巨大岩塊が生産されたかについての検討は行われていない.そこで本研究では,岩塊そのものの生産プロセスに焦点を当て,宮古島全体での海岸における巨大岩塊の分布の偏りと岩塊の形態的特徴が場所により相違が生じた要因について明らかにすることを目的とした.
    2.地質と岩塊分布の関係
     宮古島は新第三紀の堆積岩,島尻層群を基盤として,琉球石灰岩が地表の大部分を不整合に覆っている.このうち巨大岩塊が集中して分布する宮古島南東部の海食崖は,砂質泥岩と砂岩の互層からなる島尻層群最上位の平安名層とそれを覆う琉球石灰岩からなる.一方,巨大岩塊がわずかに見られる東海岸北部の海食崖にはほぼ島尻層群のみが露出している.また,巨大岩塊が見られない南海岸から西海岸にかけての海食崖には琉球石灰岩のみが露出している.巨大岩塊が琉球石灰岩からなることから,平安名層-琉球石灰岩の組み合わせが海食崖に露出していることが,巨大岩塊が生産される条件であると考えられる.
    3.東平安名岬と保良川ビーチに分布する岩塊の特徴
     東平安名岬における岩塊は特に大きく,最大で14m×10m,直方体に近い形状のものが多く,岩塊の上面には植生がついている.一方,保良川ビーチでは一般に5m以下の大きさで,形は不定形,植生は一部の岩塊のみについている.海食崖の地形断面も2地域で異なっている.東平安名岬では比高20mの海食崖の傾斜は海面近くまで急であり,海面から平安名層の上面までの比高はおよそ6mである.一方,保良川ビーチでは海食崖の上半が急で60°前後,高さが15~25mで,琉球石灰岩からなるが,下半は緩くおよそ30°,高さがおよそ25mで,岩塊で覆われているため地質は不明である.また,上下の境界には保良川と呼ばれる湧水がある.平安名層が不透水層となっていると推定されることから,この高さが不整合面の少し上と考えられる.
    4.岩塊の生産プロセスの相違をもたらした要因
     いずれの地域でも,平安名層の侵食と琉球石灰岩の剥離によって巨大岩塊が生産された.しかし,そのプロセスは異なっていると考えられる.東平安名岬では平安名層と琉球石灰岩の境界が海面からおよそ6mと低く,海食崖の基部が岩塊に覆われないため,平安名層が波によって侵食されて,不安定化した琉球石灰岩が剥離した.河名(2009)も指摘しているように,海食崖には何本かの亀裂が走っている.これは,琉球石灰岩が不安定化したため生じたものと考えられる.剥離した岩塊は侵食された平安名層の上を滑るように動き,傾くが落下,転倒はしない.このため,割れることなく剥離したままの形態を保持している.一方,保良川ビーチでは,海食崖の下に崖錐が形成されているため,波による侵食は生じないが,湧水によって不整合直下の平安名層が侵食される.これによって不安定化した琉球石灰岩が剥離されるが,不整合面が海水準より高いため,剥離した岩塊は落下し,割れる.このため,巨大岩塊は不定形の形をなしたと考えられる.
    文献
    河名俊男(2009):地形・地質調査.沖縄県天然記念物調査シリーズ第45集.沖縄県教育委員会,3-26.
  • 河名 俊男, 安谷屋 昭, 砂辺 和正, 久貝 弥嗣, 越後 智雄, 小俣 雅志, 郡谷 順英, 市川 清士, 岩崎 孝明
    セッションID: P924
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    宮古島に被害をおよぼした地震被害としては,1771年(明和8年)の「明和大津波」があげられる.この津波の要因となる地震の震央は,宮古島と石垣島との間の南方海域であると考えられたが(今村,1938),詳細については現在も検討が加えられている.
    この地震のほかに宮古島では1667年にも地震被害があり,渡辺(1985)は「『球陽』によれば1667年に宮古島で地震強く,洲鎌村で旱田1,210坪(約40ha)が約3尺(約0.9m)沈下して水田となる.」としている.この地震により変状を生じた可能性が高い地点と推定した宮古島市下地字洲鎌における北北西-南南東に延びるライムストーンウォール東側の谷部となっている地点においてボーリング調査を実施した.
    調査の結果,谷部には黒色の腐植質土壌が厚く堆積し,ライムストーンウォールを境にして基盤岩である島尻層群の上面高度が東側で低下していることが判明した.宮古島においてこの様に腐植質土壌層が厚く堆積する地点は非常に珍しい.この腐植質土壌層から放射性炭素年代測定を5試料AMS法により実施した結果,1924-1907 1904-1863 1846-1829,914-898 870-797,1681-1680 1614-1538,1178-1077,1377-1319cal.y.B.P.の年代値(1σ)を得た.これらの地層は低下側で沢地形を埋積して連続して堆積していることが確認された.また近傍の沈砂池からほぼ同じ腐植層の上部にあたる部分の1試料から906-850 831-807 804-791cal.y.B.P.の年代値を得た.これらの年代値からは1667年の地形変状がこの地点で起きたものであるか否かは判断できなかった.しかしながら,島尻層群の上面高度が東側で低下し,谷地形を埋積する堆積物が分布していることは,時代は特定できないものの,この地点でライムストーンウォールの東側が低下する地形変状を生じている可能性があると考えられる.
    また今回,友利元島遺跡と砂川元島遺跡で採取した土壌層内に挟在する有孔虫砂の放射性炭素年代測定をAMS法により実施した.試料は遺跡調査中に土壌層の中に挟在される連続性の良い砂層から採取したものである.採取された砂を含む土壌から有孔虫の形状を残した試料を肉眼でより分けて年代測定を行った.有孔虫1粒で1~2mgあり,これを10~30粒使用した.年代測定にあたっては酸処理を行った後に計測を行った.年代測定の結果,友利元島遺跡からの試料で1152-1040cal.y.B.P.,砂川元島遺跡からの試料で883-780cal.y.B.P.の年代値(1σ)を得た(暦年較正年代の計算にはMarine04のデータベース(Hughen et al.,2004)を用いてCalib Rev.5.0.1を使用した.海洋リザーバ効果については,Hideshima et al.(2001)を用いてDelta Rを35±25yr(±1σ)とした).上記2地区の砂層が同一時期の津波堆積物とすれば,今回測定を行った遺跡から採取した有孔虫砂の年代から,これらの遺跡で確認される津波の発生時期は883-780cal.y.B.P.以降であると考えられる.
    本研究は,文部科学省からの委託を受け,平成20年度活断層の追加補完調査のうち,宮古島断層帯の活動履歴調査として行ったものの一部である.

    文献
    Hideshima et al.(2001)Radiocaron,43,473-476.
    Hughen et al.(2004)Radiocarbon,46,1059-1086.
    今村明恒(1938)地震,10,431-450.
    渡辺偉夫(1985)日本被害津波総覧,206p
  • 小俣 雅志, 市川 清士, 岩崎 孝明, 越後 智雄, 郡谷 順英, 河名 俊男, 村川 伸治, 柴田 剛
    セッションID: P925
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は文部科学省からの委託を受け,平成20年度活断層の追加補完調査のうち,宮古島断層帯の活動履歴調査として,宮古島断層帯の活動性を宮古島の完新世という最新時期に関連させて検討を行った。活動性を検討するにあたって,宮古島沿岸地形に着目し,全島にわたって発達するビーチロックの地形断面を計測するとともに,放射性炭素年代測定を行った.各地点で採取した試料の年代測定結果を表に示す.宮古島南岸および東岸ではおおよそ1,600cal.y.B.P.からビーチロックが形成されている地点が多いが,与那浜,新城および池間島の東岸である池間東は800cal.y.B.P.以降とやや新しい年代値を示す.北部西岸は間那津の4,000cal.y.B.P.狩俣と砂山は2,200cal.y.B.P.とほかの地点と比較して古い年代であることが判明した. 地形断面測量の結果と平良港潮位との関係を図に示す.ビーチロックの分布高度は現在の平良港潮位の潮間帯に位置する.これらのビーチロックは現在と同程度の海水準で形成され,その後現在に至るまで各地点とも海面と地形の位置関係が大きく変わっていないことが判明した.しかし,詳細にみてみると一部の最低点高度が他の地点と比較して0.5m程度低い.この高度差が地形変動を意味する優位なものであるものであるか否かは,ビーチロックの高度以外の指標も含めて,今後さらに検討する必要がある.
  • 市川 清士, 岩崎 孝明, 郡谷 順英, 越後 智雄, 小俣 雅志, 森 良樹, 河名 俊男
    セッションID: P926
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    宮古島にはライムストーンウォールが顕著に発達している.これらライムストーンウォールは荒川ほか(1987)により研究され,成因は変動地形(活断層)によるものとしている.
    今回,本地域に分布するライムストーンウォールを調査した結果,以下の事実が確認された.
    (1) 空港付近にドライバレー側壁上にライムストーンウォールが発達するが、その周辺には明瞭なリニアメントは確認されない.
    (2) 長沼断層の西原地域に発達するライムストーンウォールは,原地性サンゴ化石によりウォールが形成されている
    (3) 野原断層の上野村野原付近の断層崖上に発達するライムストーンウォール頂部は,本地域に分布する友利石灰岩上部層の特徴とは異なり,サンゴ化石を含んでいる.
    (4) 福里断層の城辺町福東付近に発達するライムストーンウォール頂部は,友利石灰岩上に原地性サンゴ化石の分布が認められる.
    (5) 海域浅層反射調査法結果では,来間島北岸海域のパッチリーフ列基底付近に断層が確認された.
    これらの事から,本地域に発達するライムストーンウォールは荒川ほか(1987)の指摘した変動地形によるものだけではなく,変動地形(活断層)により形成されたものとそれ以外の成因により形成されたものに分類されることが判明した.すなわち,上述の(1)は変動地形以外の成因によるものであると推定される.また(2)~(4)のように細屑性石灰岩から構成される友利石灰岩分布域において,ライムストーンウォール頂部に原地性サンゴ化石が確認されることがある.
    このことから断層活動年代の特定は出来ないものの,友利石灰岩が離水以前の断層運動によって,友利石灰岩の生成深度よりも浅い現地性サンゴが生育できる深度が作り出され,友利石灰岩上部にサンゴ礁を形成して上方へ成長し,断層変位を見かけより大きく見せている可能性がある.
    来間島北岸では,現成のパッチリーフ列が直線的に形成されている.この直線的に配列する地形は,もともと基底地形に直線的な高度差があることによって形成されると考えると説明しやすい.これらのパッチリーフ列が離水することによって,ライムストーンウォール状の地形が形成されると考えられる.
    荒川ほか(1987)のモデルは,溶蝕によりライムストーンウォールが形成されるモデルであるため,石灰岩が陸化してからの発達のみしか考慮されていないが,このような現地性サンゴによってライムストーンウォール状の地形の一部が形成れていると推定される.このような変動地形(活断層)によるライムストーンウォールの形成を考えると,断層崖の比高は断層運動だけで形成されたわけではなく,現成サンゴ礁の上方成長を加えたものであると解釈できる.
    来間島と下地島の間の海域反射法探査でこのパッチリーフ列の延長上に断層が確認されており(越後ほか,2009本学術大会講演),より新しい琉球石灰岩による地形面を切る断層が宮古島西側の海域に分布していることから,より新しい断層の活動は宮古島の西側に移っている可能性が示唆される.
    本研究は,文部科学省からの委託を受け,平成20年度活断層の追加補完調査のうち「宮古島断層帯の活動履歴調査」として行った成果の一部である.

    文献
    荒川達彦,大城直樹,井川裕之(1987):琉球列島における石灰岩堤及び石灰岩屏について,エリア山口No.17 ,pp.16-31.
  • 越後 智雄, 郡谷 順英, 市川 清士, 小俣 雅志, 岩崎 孝明, 足立 幾久
    セッションID: P927
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    著者らは,文部科学省からの委託を受け,平成20年度活断層の追加補完調査のうち,宮古島断層帯について,海域でマルチチャンネル音波探査を実施した.以下に結果を報告する.
    宮古島断層帯は,図1に示すとおり,活断層研究会(1991)などにより,主に北北西-南南東走向を示す活断層の分布が報告されている.新城,福里,長沼,与那原,野原の各断層系の南端は断崖になっており,断層の南方海域への延伸が,西部に分布する腰原,嘉手,来間の各断層系は,南方および北方への延伸の可能性が考えられる.そこで,図1に示すLine1(16.5km),Line2(8.8km),Line3(13.1km)においてマルチチャンネル音波探査を実施し,宮古島の南岸および西岸の浅層の地質構造の解析を行なった.断層の確実度は以下の3ランクで解釈した.
    A: 明瞭な反射面の不連続や構造ギャップが確認できるもの.
    B:反射面に不連続が確認できるが,繋がりが不明瞭なもの.
    C:不連続が確認できるが他の要因の影響が考えられるもの.
    LINE1(図2)ではAランクがCDP1320,1440,5360,5500,5670,BランクはCDP2550,3280,3950,5950,LINE2ではAランクがCDP2920,BランクがCDP2640,4400,LINE3(図3)ではAランクがCDP2750,5620,BランクがCDP4630,4940,6290,6370に認められ,パッチリーフの基部付近に断層の存在が確認された.以上より,新城,与那原,野原,腰原,嘉手,来間,牧山の各断層は,Line1~3によって南方への延長が考えられる.Line3のCDP2750に認められるAランクの断層は,来間断層の北方延長の可能性がある.また.嘉手断層または腰原断層は,Line3のCDP5620の断層を経て伊良部島の牧山断層に連続する可能性が考えられる.
    以上より,陸域と同様の断層構造が海域まで延長することが確認された.今後は,海域での活動性の検討が必要である.
    引用文献
    活断層研究会編(1991):『新編日本の活断層-分布図と資料』,東京大学出版会,437p
    中田 高・今泉俊文編(2002): 「活断層詳細デジタルマップ」.東京大学出版会,DVD-ROM 2枚・付図1葉・60p
  • シンポジウムの趣旨説明
    河名 俊男
    セッションID: S101
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    I.はじめに
     1771年(明和8年),4月24日の午前8時頃,琉球列島南部の宮古諸島や八重山諸島に大津波が襲来した(牧野,1981).本稿ではこの津波を「1771年明和津波」と称する(明和津波と略称).明和津波による犠牲者は,歴史書の『球陽』によると宮古諸島で2548人(球陽研究会,1974),八重山諸島では9393人に達した(古文書の『大波之時各村之形行書』による).
      明和津波は以上のように強大な津波であったが,これまでの古文書の解読や現地調査では,当時の地震の痕跡などは不明であった.こうした中で,最近石垣島南部の考古遺跡の発掘から,明和津波の可能性が高いと思われる時期の地震動とそれに伴う津波の痕跡が現れた(本シンポジウムの山本報告).
     琉球列島では,とくに南部の宮古・八重山諸島において何回かの歴史津波が襲来し,多大な被害を及ぼした.以上の背景の下で,沖縄県における津波防災のための基礎資料が沖縄県海岸防災課の下で作成された(本シンポジウムの西岡ほか報告).
     本州の東海地方沿岸域から紀伊半島沿岸域にかけては,過去,何回かの大津波が襲来している.このうち,1944年の東南海地震に伴う津波の襲来については戦時下の状況で詳細は不明であったが,最近,米軍撮影の空中写真がアメリカの国立公文書館で発見され,詳細な写真判読が進められている(本シンポジウムの宇根ほか報告).
     2004年のインド洋津波は世界中を震撼させた大津波であった.インド洋津波の実態把握,その要因,および今後の防災等に向けて多数の研究者が調査されたが,それらの中に,本シンポジウムの後藤報告と宮城ほか報告がある,
     前者の後藤報告では,インド洋津波の現地調査と数値計算に基づく津波石の移動解析と防災への応用を議論し,後者の宮城ほか報告では,インド洋津波とマングローブ林域の破壊に関する定量的な評価を行っている.
     以下,各報告の要旨を述べる.
    II.河名報告
     明和津波の最高遡上高(約30m:島袋,2008),古文書『奇妙変異記』に記載された4箇所,6個の岩塊の移動確認(河名ほか,2000),「1667年宮古・八重山地震津波」(新称)の規模,および宮古諸島における約1500年頃の津波の襲来を推測し,各被害状況を述べる.
    III.山本報告
     石垣島東南部の嘉良嶽遺跡群の中で,嘉良嶽東方古墓群の発掘から,明和津波の時期と推定される地震動による地割れ(亀裂)と,それを埋積するサンゴなどの津波堆積物が発見された.このような現象を把握したのは,石垣島では初めてのケースである.
    IV.西岡ほか報告
     沖縄島と宮古・八重山諸島周辺海域におけるいくつかの想定地震を設定し,津波再現モデルとして今村ほかモデルと中村モデルを検証した.津波の浸水予測結果データや浸水予測図等を作成し,それらの成果は各市町村の説明会を通じて普及が図られ,沖縄県のホームページで公開された.
    V.宇根ほか報告
      1944年12月7日に発生した東南海地震の3日後に,米軍が撮影した三重県尾鷲市の空中写真は,壊滅的な被害を受けた地域の範囲,津波の遡上によって打ち上げられた船,および海岸の浸食などの被害状況を明確に確認できる貴重な写真である.本研究から,沿岸の地形の詳細な把握などの重要性が指摘される.
    VI.後藤報告
      インド洋津波に際しての現地調査では,タイのパカラン岬の津波石は高潮位線以下に堆積している.その現象は,数値計算によると,ビーチ周辺の斜面に段波が衝突した際に反射波が発生し,遡上流とは逆向きの流速成分を持つ反射波が沖に伝播するのに伴い,礁原上の津波流速が急減することが原因と考えられる.
    VII.宮城ほか報告
      インド洋津波に際して,津波とマングローブ林の破壊類型では,強い破壊から,順次,抜根流亡,浸食流亡,曲げ折れ,せん断破壊,倒壊,傾動,枯死,生存と類型化できる.もしマングローブ林が自然状態で保全されていたら,調査域内の森の陸域では津波波高が大きく減衰し,住民の47%が生存したという見積もりがなされた.
    VIII.防災,減災に向けて
     1998年5月4日の午前8時30分頃,石垣島南方沖を震源とするM=7.6の地震が発生し,同日の8時39分に沖縄気象台は,沖縄全域に津波警報を発表した.津波情報入手後の行動に係わるアンケート(複数回答)によると,約12%が「海岸に行った」という(山田,2000).
     引き続き,各地の津波に係わる調査研究を行うとともに,以上の現状も踏まえ,防災,減災に向けて,今後とも,防災教育,講演会,普及活動など各種の取り組みが必要とされる.
  • とくに1771年明和津波,1667年地震津波,および1500年頃の津波
    河名 俊男
    セッションID: S102
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    I.はじめに
     1771年(明和8年),4月24日の午前8時頃,琉球列島南部の宮古諸島や八重山諸島に大津波が襲来した(牧野,1981).本稿ではこの津波を「1771年明和津波」と称する(明和津波と略称).明和津波による犠牲者は,歴史書の『球陽』によると宮古諸島で2548人(球陽研究会1974),八重山諸島では9393人に達した(古文書の『大波之時各村之形行書』による).牧野(1981)は『大波之時各村之形行書』に記載された各村の遡上高を引用し,明和津波の最高遡上高を約85.4m(石垣島東南部)とした.また,古文書の『奇妙変異記』によると,石垣島を中心とする八重山諸島では,明和津波と推定される津波によって7個(5箇所)の岩塊が移動したと記述されている.
     一方,歴史書『球陽』によると,1667年に宮古島で地震が発生し,洲鎌村では約1200坪の畠が約1m陥没して水田になった.渡辺(1985)はこの地震の震央を,宮古島近海の北緯25度,東経125.5度に求めた.
     古文書の『八重山島年来記』によると,同年(1667年),石垣島でも地震が発生した.以上から,1667年の地震は従来考えられていた宮古島近海の地震ではなく,宮古島と石垣島を含む広域の地震と考えられる.
     宮古島とその西方の下地島には,大波が夜中に襲来したという伝承がある(下地,2007).この襲来時刻は明和津波の襲来時刻とは異なっている.
     以上を踏まえ,本稿では,1)明和津波の遡上高と岩塊の移動,2)1667年の広域地震時に津波も襲来したかどうか,3)宮古諸島の大波伝承の是非を検討する.
    II.1771年明和津波の遡上高と岩塊の移動
     明和津波の最高遡上高は,宮古島で約10m,伊良部島で6~11m,多良間島で約15m(以上,中田,1990),石垣島で約30m(島袋,2008など)と推定される.八重山諸島における古文書による各村の最高遡上高(牧野,1981)は,当時,戸板を使用した簡易な測量方法に基づく測量誤差が加味されたものと推測されている(島袋,2008).
     『奇妙変異記』に記載された記述(明和津波と推定される津波による岩塊の移動:5箇所,7個)の中で,4箇所,6個の岩塊は確認された(河名ほか,2000)が,黒島の1個の岩塊は未確認である.
    III.1667年地震津波
     従来,1667年の地震に伴う津波に関する指摘はなかったが,宮古・八重山諸島における津波石の暦年代(河名,未公表資料)から,1667年の広域地震に際しては,それらの島々への津波の襲来が推測される.
    IV.約1500年頃の津波
     宮古島のマイバー浜における津波石の暦年代,15世紀末の古文書,および津波伝承から,宮古諸島における約1500年頃の津波の襲来が推測される.
    V.防災,減災に向けて
     1998年5月4日の午前8時30分頃,石垣島南方沖を震源とするM=7.6の地震が発生し,同日の8時39分に沖縄気象台は,沖縄全域に津波警報を発表した.津波情報入手後の行動に係わるアンケート(複数回答)によると,約12%が「海岸に行った」という(山田,2000).
     以上の現状も踏まえ,防災,減災に向けて,今後とも,防災教育,講演会,普及活動など各種の取り組みが必要とされる.
    参考文献
    島袋永夫(2008):明和津波の高さや津波石について.明和の大津波を語る会,7-8.
    下地和宏(2007):あまれ村と伝説の津波.宮古島市総合博物館紀要,11号,1-12.
    河名俊男・伊達 望・中田 高・正木 譲・島袋永夫・荻野 亮・仲宗根直司・大橋信之(2000):石垣島における1771年明和津波の遡上高と岩塊の移動.第17回歴史地震研究発表会講演要旨集,
    球陽研究会編(1974):『球陽 読み下し編』.角川書店,793p.
    牧野 清(1981)『改訂増補 八重山の明和大津波』.城野印刷,462p.
    中田 高(1990):サンゴ礁地域研究グループ編『熱い自然 サンゴ礁の環境誌』,古今書院,
    山田剛司(2000):1999年度沖縄開発庁委託調査.亜熱帯総合研究所,133-231.
    渡辺偉夫(1985):『日本被害津波総覧』.東京大学出版会,206p.
  • 新石垣空港予定地内遺跡発掘調査の成果概要
    山本 正昭
    セッションID: S103
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    本発表は2006年10月から2007年12月まで沖縄県立埋蔵文化財センターが主体となって実施した嘉良嶽東貝塚、嘉良嶽東方古墓群そして盛山村跡で確認された津波と地震の痕跡についてまとめたものである。従来まで八重山諸島における地震・津波の痕跡は津波石の調査・研究において明らかにされてきたが、上記3遺跡は埋蔵文化財発掘調査においてそれらの痕跡を窺うことができた初めての事例である。以下、それぞれの発掘調査成果の概要について触れていく。
    まずは嘉良嶽東貝塚であるが石垣市白保のカラ岳から南東方向約700m、標高5~10m、海岸砂丘の後背地に立地している。遺跡の大半が戦後の土地改良によって破壊されているが、わずかに農道部分のみが攪乱を免れ、遺物包含層と東西方向に走る亀裂、そして広い範囲での白砂層が堆積しているのを確認することができた(写真1)。亀裂は黒褐色シルト層を裂くように断面で4箇所確認された。最も浅いもので約40_cm_、深い亀裂では1mを越え、何れも上方から下方に向けて漸次、幅が狭くなり収束していく。また亀裂内部には摩耗度の少ない珊瑚礫、貝片が大量に堆積しているのが見られた。それらは層を成しておらず、混在している状況で堆積していた。これら亀裂の断面形状や、亀裂内部に堆積している珊瑚礫は明らかに海岸からの堆積物であること、そして珊瑚礫と貝が雑然と密に入り込んでいる状況から、石垣島周辺を震源とする地震動によって亀裂が生じ、その直後に発生した津波と共に運ばれてきた珊瑚礫が亀裂内部を一瞬にして埋めたものと解釈することができる(山本、早田、河名2008)。白砂層については珊瑚礫が少し混入しており、調査区のほぼ全域に厚さ約20~30_cm_で堆積しているのが確認された。当該層周辺からは土器、スイジガイ製利器、石器(無土器期:C141770±80~12世紀前半か)が出土しており、土器は13~14世紀に比定されるビロースクタイプの土器(新里2004)が確認されたものの、遺物は少なく総数20点ほどしか得られなかった。これらの出土遺物と遺物の放射性炭素年代測定から13世紀から17世紀の間に当該白砂層が堆積したものと思われる。 次に嘉良嶽東方古墓群であるが、前述した嘉良嶽東貝塚から南西に約300mに位置し、海岸から約450m内陸側、標高5~10mの石灰岩東側崖下に立地している。石灰岩崖は南北方向に走り、崖面と地表面の接地部に形成された岩陰を利用した古墓を5箇所確認することができた。このうちの1基から18世紀後半に同定される壷屋焼の灰釉碗陶器が副葬品として納められ、その下部から珊瑚混じりの白砂層が約30_cm_堆積しているのが見られた。当該層は崖下一帯が厚く顕著に見られ、その箇所から沖縄産無釉陶器1点が得られている。一方で東側下方の堆積は少なく薄くなっている状況も看取された。また、この珊瑚礫混じりの白砂層が縦方向に下層へ入り込んでいる幅3~5_cm_、深さ1mの亀裂が断面観察おいて確認された(写真4)。亀裂内部の白砂層に見られた珊瑚礫が縦方向に入っているのが確認されたことから、一瞬にして白砂が入り込んだものと考えられる。この珊瑚礫混じりの白砂層直下からは中森式土器(14~16世紀)、中国産青磁、貝、炭を含む黒褐色シルト層が検出されている。よって白砂層が堆積した時期は14世紀から18世紀の間で、更に沖縄産無釉陶器が白砂層から出土していることにより17世紀後半から18世紀の間にほぼ限定することができた。このことから上記で確認された嘉良嶽東方古墓群で確認された白砂層と亀裂は明和津波(1771年)を要因であるとする蓋然性が高い。
    最後に紹介する盛山村跡は海岸から約950m内陸に所在する轟川中流左岸、標高約20mの台地上に立地している。当該村跡では珊瑚礫を少量包含する白砂層が2~4_cm_の厚さで水平堆積していているのが確認された。白砂敷きの遺構の可能性も考えられたが遺物は全く出土せず、平面的にまとまりを有していないため、津波のよる海岸堆積物の蓋然性が高いと判断した。時期は不明であるが検出された地点が内陸部で台地上であることから、明和津波クラスの大規模な津波によって運ばれてきた白砂であることが想定される。
  • 西岡 陽一, 竹内 仁, 喜屋武 昂, 星 宗博
    セッションID: S104
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    沖縄県沿岸において津波シミュレーションを実施し、津波浸水域を予測した。レーザプロファイラによる地形データをフィルタリング処理して作成した詳細な地形モデルを用いて、全部で16ケースの波源について、津波の遡上計算を実施した。各ケースにつき海岸構造物の津波防災機能のあり/なしでの浸水範囲と浸水深を算定した。津波シミュレーションの成果については、浸水予測図と津波CG(動画)を作成した。また、市町村説明会やHP公開を通じて成果を公開し、津波防災へ成果を活用することを図った。
  • 宇根 寛, 中埜 貴元, 小白井 亮一, 鈴木 康弘
    セッションID: S105
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     最近,1944年12月7日に発生した東南海地震の3日後に米軍が三重県尾鷲市を撮影した空中写真が米国国立公文書館で発見された。尾鷲市は東南海地震に伴う津波で大きな被害を受けているが,この空中写真から被災の状況が詳細に把握できることが明らかになった(小白井ほか,2006,2008)。発表者らは,GIS等を用いて,この空中写真と詳細な数値標高データ(DEM)などの地理情報を重ね合わせて空間解析を行い,津波被害と微地形の関係を考察した。 この空中写真は米軍が爆撃対象の偵察を目的に撮影したもので,画像が鮮明で歪みも小さく,津波により家屋がことごとく流出するなどの壊滅的な被害を受けた地域の範囲や,津波の遡上により打ち上げられた船,海岸の浸食などの被災状況をはっきり確認することができる。この空中写真を空中写真測量により正射化(オルソ化)し,GISを用いて,尾鷲市1/10,000地形図,航空レーザ測量によるDEM,国土地理院カラー空中写真,国土地理院作成土地条件図「尾鷲」等と重ね合わせた。その上で,判読した津波被害の状況とこれらの関係について考察を行った。その際,地震翌日に撮影された地上写真と判読結果をすり合わせ,被災状況をより具体的にイメージするよう努めた。その結果,次のようなことが明らかとなった。1)写真と当時から変化していないと思われる街路交差点等がよく一致しており,今回のオルソ画像の位置精度が高い。2)オルソ画像とDEMとの重ね合わせにより,津波で大きな被害を受けた地域が現在の海抜3m以下の範囲とほぼ一致している。3)特に,市街地南部では浅い谷状の地形を呈する地域が大きな被害を受けている。丘陵部に沿って侵入した海水の引き波が,浅い谷状の地形に集中したことによると考えられる。4)市街地北側を東西に流れる北川に沿った範囲にも被害が集中している。一方,北川の南の市街地は海抜3m以下であるが,壊滅的な被害を受けていない。ここでは地形の効果による引き波の集中がなく,比較的穏やかに海水が引いたものと考えられる。
     沖縄では1960年のチリ地震津波で大きな被害を受けているが,被災状況を記録した空中写真は発見されておらず,上述のような詳細な分析は行われていない。1944年東南海地震の教訓を将来の沖縄の津波被害の軽減に生かすためには,沿岸の地形を詳細に把握することが重要と考えられる。特に,東南海地震では沿岸低地の微地形が被害の拡大に寄与したことが明らかになったことから,被害予測には標高だけでなく微地形を詳細に把握し,浸入した海水の引き波も考慮した防災計画を検討する必要があると考える。このためには,詳細な微地形分類と航空機レーザ測量によるDEMの作成が有効である。
  • 後藤 和久
    セッションID: S106
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    津波により巨礫が運ばれるという,いわゆる「津波石」移動現象は,日本では古くから知られている.中でも,1771年に沖縄県の石垣島や宮古島周辺を襲った明和津波に伴うものが有名である(例えば,牧野,1968;河名・中田,1994).ところが,津波直後に津波石を詳細に観察・記載した研究例は世界的にも極めて少なく,その実態は不明である.そのため,津波石の認定基準が定まっていないだけでなく,分布やサイズなどの情報から,防災上有益な津波の水理量(波高や周期など)に関する情報が得られるのかなどは全くわかっていない.
    2004年インド洋大津波に伴い,タイ・パカラン岬では,数メートル大のサンゴ巨礫が大量に礁原上に打ち上げられた.津波前後の衛星写真の比較や現地住民の証言から,これらは津波で打ち上がったことが明瞭である.その上,津波直後に波高や浸水域に関する調査も実施されているため,津波石移動現象と津波の水理量を関連付けて議論ができる,世界で初めての事例である. 本発表では,パカラン岬の津波石の現地調査と数値解析結果を報告するとともに,津波石から津波に関するどのような情報が引き出せるのかや,明和津波に伴う巨礫群との類似性について議論する.
    パカラン岬の巨礫群は,約600 mの幅の礁原上に散乱している.最大直径は約4 mで,重量に換算すると約23トンである(Goto et al., 2007).その数は千個をゆうに超え,大小さまざまなサイズの巨礫が混在した状態で高潮線以下に堆積しており,最大サイズの巨礫も海岸線付近に堆積している.そして,陸上には一つも打ち上がっていないという特徴がある.長軸の向きは,海岸に平行な方向が卓越しており,長軸を軸として,回転または跳躍形態によって移動したものと考えられる(Goto et al., 2007).また,巨礫に付着しているサンゴ遺骸から,巨礫は元々礁縁沖かつ水深10 m以浅の礁斜面上に分布していたと考えられる.
    パカラン岬を対象とした津波遡上計算の結果,タイでは津波による潮位変動は潮位低下から始まることや,第一波押し波来襲前には潮位が最大6 mも低下し,礁原が干出することがわかった(Goto et al., 2007).礁斜面上での津波流速は最大15 m/sに達し,最大サイズの巨礫を移動させるのに必要な流速をはるかに上回っていたと推定される.また,津波石移動モデル(Imamura et al., 2008)を用いて巨礫の移動解析を行った結果,全ての巨礫が高潮線以下で停止するのは,ビーチ周辺の斜面(約3 mの高低差)に段波が衝突した際に反射波が発生し,遡上流とは逆向きの流速成分を持つ反射波が沖に伝播するのに伴い,礁原上の津波流速が急減することが原因と考えられる.
    断面一次元津波石移動モデルを用い,津波の初期振幅・周期をさまざまに変え,パカラン岬の巨礫群の移動解析を行った.その結果,2004年インド洋大津波と同規模の波高・周期の波を入射した場合にのみ,全ての巨礫が高潮線以下に停止し,かつ最大サイズの巨礫が海岸線付近に到達するという,現地の巨礫分布を良好に再現できることがわかった(Goto et al., 2009).この手法を用いれば,津波の詳細が不明な地域においても,巨礫の現在位置と初期位置および地形が推定できれば,巨礫分布を満足する津波波高・周期の条件を,ある程度限定できると考えられる.
    石垣島東海岸に分布する巨礫群の分布を調べた結果,大部分の巨礫が高潮線以下に停止していることが明らかになってきた.東海岸では,ビーチの背後に砂丘が発達しており,パカラン岬のケースと同様に,砂丘に津波が衝突した際に発生する反射波によって津波流速が急減し,巨礫が高潮線以下に停止したものと推測される.この場合,IV章で述べた方法が適用可能であり,石垣島を襲った明和津波の局所波高・周期の組み合わせを推定できるものと期待される.
  • 宮城 豊彦, 柳沢 英明, 馬場 繁幸
    セッションID: S107
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    2004年12月26日にスマトラ島沖で発生したM.9.0の巨大地震における津波災害は極めて 激烈なものであった。この中で、沿岸の森林生態系であるマングローブ林とその土地は 、どのように破壊され、あるいは如何なる防災機能を発揮したのだろうか。最大波高が 10mを超え、流速が10mに達するような巨大津波の経験を踏まえて、今や、マングローブ 林とその土地が有する防災機能を適切に理解し、沿岸域の防災林整備に資する指針を作 り上げることが必要とされている。演者らは、地震直後から、文科省振興調整費、科研 費、国土地理協会、国際緑化推進センタなどの助成を得てタイとスマトラの各地でマン グローブ林がどのように破壊されたのかに関して、森・樹木および立地としての土地に 関する詳細なデータを作成し、津波伝播に関するシミュレーションを実施し、現地での 適合性を評価し、これらをもとにマングローブ構成種の津波破壊に対する抵抗力を評価 してきた。昨年末までで、各地の実態調査と一連の評価もほぼ終了する段階までこぎつ け、今後は破壊された生態系の修復を考察する段階に移る。そこで、これまでに調査し 、解析して得た知識の概要を報告し、今後展開される防災機能としてのマングローブ林 の有効活用や植林活動の展開に役立てることを期待したい。
    津波とマングローブ林の破壊類型:熱帯の広域で津波が襲来したために、極めて多様な 応答の例を現場で検証する機会に恵まれた。マングローブ林と言えども、限定的な立地 位置(潮間帯の上半部)、多様な植生・生活形(樹種・森林規模・樹木サイズなど)、 微地形と堆積物(砂質・泥質など)の相違があり、これらの条件と津波のエネルギーと の関係が整理されて理解されることが必要である。その際、マングローブ樹木の破壊は 、強い破壊から順に抜根流亡、侵食流亡、曲げ折れ、せん断破壊、倒壊、傾動、枯死、 生存と類型化できる。なお、侵食流亡・枯死は波力と樹木の力関係の次元とは異なる。 また、抜根流亡とせん断破壊は波力の評価が困難である。
    地形変化とマングローブ林の破壊:浜堤など砂質の微地形が津波で容易に侵食されるこ とで、樹木が大量に流亡する事態が波高3m以上の箇所で広く発生した。一般にマングロ ーブの根は発達深度がごく浅く、地盤の侵食に極めて弱い。一方で干潟など粘土質の土 地は侵食に強く、波高が5mを越えても堆積物の侵食は軽微であった。ただし、砂浜が大 きく破壊され、表面削剥が引き起こされれば、線懇請の樹林の破壊が連鎖し、大きな破 壊に繋がりかねないと考えられた。大量のマングローブ樹が流木となった場合の破壊効 果は未だ解明されていない。
    湾口で波高3-5m程度の遡上が見られたナムケム、河口部を中心に6m内外の波高に達し たカオラック、河口や沿岸低地で波高10m+~5m程度の津波を蒙ったバンダアチェを対 象に、利用しうる最良のデータを用い、現地計測を重ねて津波伝播のシミュレーション を行い、同時に破壊状況の計測を行った。この結果、特にリゾフォラは、津波エネルギ ーと樹木破壊の関係に極めて明瞭な関係式を導くことが出来、エネルギー分布と破壊状 況の空間的な適合性に相応の相関が見出された。もし、マングローブ林が自然状態で保 全されていたら:死者・行方不明者が7万人に達したインドネシアスマトラ島のバンダ アチェ一帯において、自然状態のマングローブ林が残されていたなら、人的被害はどの ように軽減されたのか。現地での破壊実態の調査結果とマングローブ林の復元データを 用いて、シミュレーションを行った。自然状態のマングローブ林を、直径が22cm程度( 樹齢30~50年内外)、樹木密度2500本/ha程度に設定した。結果は、調査対象域内の犠 牲者数が約52000人、この内、マングローブ林の海側の犠牲者数に大きな違いは無かっ た。しかし、森の陸側では津波波高が大きく減衰し、そこに住む人々約45000人のうち4 7%が生存したという見積もりが為された。
  • 渡辺 真人
    セッションID: S201
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    昨年12 月に日本から世界ジオパークネットワーク(GGN)へ申請した三地域,南から島原半島,糸魚川,洞爺湖・有珠山の現地審査に同行した際の見聞,審査の結果とGGN からのコメントなどから,世界ジオパークネットワークが現在目指すジオパークとは何かをまとめ,そして現状の日本のジオパークとどのような違いがあり,今後日本のジオパークはどう展開していくかを議論する.
  • 寸詰まり効果と風景美
    堀 信行
    セッションID: S202
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    サンゴ礁の微地形構成は、浜の前に広がる浅い礁湖(イノウ)、その外縁に干潮時に干上がる礁原(ピシ)、その外洋側は急深の礁斜面からなる。日本のサンゴ礁は、間氷期になって核心域の外側に礁の形成が始まり、その結果として礁のタイプは、裾礁や卓礁である。周辺域の礁斜面の基底部の深度(ディリー点)を礁の消滅する緯度域まで追跡すると漸次浅くなる直線(ディリー線)が得られる。この関係を平面的なサンゴ礁の微地形構成の風景として眺めると、サンゴ礁の微地形構成の全体が一つの視野に入る身体的大きさとなる。これをサンゴ礁の寸詰まり効果と呼びたい。 引用文献 堀 信行(1980)日本のサンゴ礁。科学、50(2):111-122.
  • 中井 達郎
    セッションID: S203
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     沖縄では、今、世界自然遺産登録に向かっての動きが盛んになりつつある。世界遺産条約は、本来「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」であるが、保護すべき対象である自然が、今も損なわれつつあるのが現状である。そんな中で、「ジオパーク」が果たす役割への期待を示したい。  自然保護の世界では、保護の対象として、勢い生物が主体として取り上げられる。自然保護にかかわる研究者や市民の多くも生物に関心を持つ人々が多い。その際生物種だけではなく生態系を対象とする視点の重要性は訴えられている。しかし、生態系を構成する「生物群集系」と「無機環境系」のうち、後者はしばしば十分な議論がなされないことが多い。このような認識は、広く社会一般の認識であるように感じる。それは、日本での自然保護の課題のひとつだと考える。ジオパークという発想とその展開は、この課題をクリアするきっかけとなる可能性がある。  沖縄を代表する自然のひとつとしてサンゴ礁がある。近年、サンゴ礁に対する関心が高まり、その保護・保全の必要性も、広く共有されるようになってきている。しかし、そこにも前述の生物中心の一面的な理解が広がっている。例えば、マスコミ等でも「サンゴ礁保全=サンゴ移植」という風潮が広まっている。そもそもサンゴ礁≠造礁サンゴである。サンゴ礁は、造礁サンゴをはじめとした造礁生物が作り上げた地形・地質構造である。サンゴ礁生態系は、サンゴ礁上での地形・堆積物-波・流れ-生物を中心とした関係性によって成立している。サンゴ礁保全のためには生物的自然への理解だけではなく地学的自然への関心と理解が不可欠なのである。  また、沖縄の島々には広くサンゴ礁起源の琉球石灰岩が分布している。すなわちサンゴ礁は海の自然だけではなく、陸上の自然も形作ってきた。鍾乳洞や湧水点などのカルスト地形は、沖縄の生物群集の生息環境として極めて重要な意味を持っている。それを維持するためには、地下水の維持が不可欠である。非石灰岩地帯では河川・渓流の保護が必要である。過去の地質学的プロセスで作られた構造を保護することと同時に、現在作用している流れや波といった営力を維持することも必要である。さらには、陸水の作用は、海の自然にも影響する。陸域と海域が一体となった保護が必要である。沖縄は小さな島嶼の集まりである。海と陸との関わりを理解する上で最適な場所とも言える。具体的にジオパークを設定する際には、これらのことを念頭において地域設定を行うべきだと考える。場所によっては、島ひとつを全島、周辺海域を含めてジオパークとするような発想が必要だろう。  以上、述べたことは空間スケール・時間スケールの問題でもある。これまでの日本の自然保護では生物学的なスケールでの議論が主流であった。ジオパークを展開することによって、地学的スケールの重要性への認識が深まることを期待する。また、沖縄では、伝統的な人と自然との関わりが、現在も続いている事象が多い。このことも沖縄でのジオパークの注目点になることを付け加えたい。
  • 河本 大地
    セッションID: S204
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     ジオパークおよびジオツーリズムの議論は、日本において、まだまだ大きな広がりを見せているとは言いがたい状況にある。しかし、人々の自然環境理解を深め、自然環境の保全を図っていくために、大変重要な議論であることは間違いない。  本発表では、ジオツーリズムを地域づくりやそれに重心を置くエコツーリズムに欠かせない視点とみることで、重要性をより周知できるのではないかという考えを示す。また、そのとき地理学がどのように貢献できるのか、可能性を提示したい。  発表者はジオパークやジオツーリズムの専門家ではないが、地域とその多様性を理解し、次世代につなげていくためには、「ジオ」関連の地域資源について多くの人々に認識してもらう必要があると考えている。ここではジオツーリズムを、「地球科学(地学)的資源を主たる対象とするエコツーリズム」ととらえたい。そのうえで、日本地理学会2008年春季学術大会において開催されたシンポジウム「ジオパーク、ジオツーリズムの現在と可能性」をふりかえり、自然地理学、人文地理学といった枠にとらわれず「地理学」としてこの分野に貢献できる面や、地域理解促進および地域振興のために地理学が貢献できる面を、アイディアとして提示する。
  • 尾方 隆幸
    セッションID: S205
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1. 発表の概要
     日本の各地でジオパークに対する取り組みが盛んになってきているが,琉球列島では本格的な動きがまったくみられない.琉球列島には,日本の他地域にはない固有の自然環境があり,こうした自然環境の下で形成された景観は国際的に価値の高いものを含んでいる.したがって,ジオパークになりうる可能性を秘めた地域も少なからず存在する.それにも関わらずジオパーク活動がみられないのは,一般市民だけではなく,行政機関や研究教育機関においてもジオパーク・ジオツーリズムの存在が十分に認知されていないためであろう.本発表では,琉球列島にみられる自然景観のうち,特にジオパークにふさわしいと考えられるものを,その地球科学的な価値とともに列挙したい.そして,琉球列島でジオパーク活動を立ち上げるきっかけとしたい.

    2. 琉球列島ならではの自然景観
     琉球列島の自然環境は,亜熱帯性の気候と,その気候環境下で形成されたサンゴ礁地形,さらにはサンゴ礁が隆起した石灰岩地形などに特徴づけられよう.このような気候・地形環境は,地表面付近の水・植生・土壌の特性を決める基礎的な要因にもなっている.こうした自然環境の下で形成される景観は琉球列島ならではのものであり,それらはジオパークの資源になりうるものである.
     サンゴ礁地形は,琉球列島の自然景観を象徴するものであろう.地球規模でみると,琉球列島はサンゴ礁の分布限界付近に位置しており,典型的な裾礁タイプのサンゴ礁が形成され(トカラ列島の小宝島以南),部分的には堡礁に近いタイプのサンゴ礁もみられる(石西礁湖・久米堡礁).また,大規模なサンゴ洲島もある(ハテノ浜など).
     琉球列島に広く分布する石灰岩地域には,亜熱帯特有のカルスト地形が形成されている.たとえば,中生代の石灰岩からなる沖縄島北部の本部半島には,温帯とは異なる気候条件下で形成される円錐カルストが発達する.琉球石灰岩からなる各地には大規模な鍾乳洞が形成されており,観光資源にもなっている.この地域の鍾乳洞は,風葬に利用されたり信仰の対象になったりするものも多く,人文学的(考古学・人類学・民俗学的)な価値もある.「世界ジオパークネットワーク(GGN)」も,ジオパークの資源のうちの主要なものの1つに鍾乳洞を位置づけており,琉球列島でも鍾乳洞はジオパークの拠点になりうるであろう.
     円錐カルストや鍾乳洞は石灰岩地域特有の地形であるが,琉球列島ではそれ以外にもさまざまな石灰岩地形が観察される.沖縄島南部や宮古島の台地上には大規模な石灰岩堤がみられる.沖縄島北部をはじめとする各地の海岸には,砂や礫が比較的短時間で固結したとみられるビーチロックが形成されている.これは亜熱帯の気候環境に関連した地形でもある.
     さらに,変動帯に位置する琉球列島には,目に見える形で地殻変動の証拠が残されている.たとえば,石垣島などでは,過去の大津波で内陸に乗り上げた巨礫(津波石)を観察することができる.また,沖縄島をはじめとする広い地域の海岸では,しばしば「キノコ岩」がみられ,場所によってはキノコ岩の窪み(ノッチ)が平均海面よりかなり高い位置に形成されている.こうした離水ノッチや,喜界島などに代表される海成段丘は,気候変動と地殻変動の複合的な営みの結果である相対性海面変動を記録している.
     琉球列島の自然景観にジオパークとしての価値があることは疑いようがなく,これまでの日本のジオパーク活動に琉球列島を欠いていたことは大きな問題である.琉球列島の貴重な自然景観を適切に保全する上でも,ジオパーク活動の意義は大きい.世界的にみても,亜熱帯島嶼圏ではまだジオパークが設立されていない.太平洋島嶼地域にジオパークを広げる核として琉球列島を位置づけることも,われわれに課された責務と言えよう.
  • 岩田 修二
    セッションID: S206
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     「大地の遺産」は,ジオサイト,geoheritage, Earth heritageと同列のことばである.複数,または単一の大地の遺産がジオパークを構成する.  「ジオパーク」に世界中の注目が集まっている.「ジオパーク」とは,「ジオ」という語で特定される,科学的にも美的にも価値が高い土地(範囲が決められた土地,すなわち園地・公園)であり,科学の普及,観光の振興などに貢献するものである.ところで,「ジオパーク」を構成する場所ジオサイトはジオヘリテージ(geoheritage)と呼ばれ日本では地質遺産と訳されることが多い.これに対して,最近,ユネスコはアースヘリテージ (Earth heritage) という語を使っている.これは「ジオパーク」に先行した「世界遺産」の,「歴史・文化も含む」という考え方を引き継いだからである.このような観点から「ジオパーク」の「ジオ」とは,自然環境と人間活動のすべてを含めた土地・地域の総体であり,ガイアともいわれる「大地」そのものを意味する.したがって,ジオヘリテージ,アースヘリテージは日本語では「大地の遺産」となる.  わが国でも世界ジオパークネットワークへの登録申請への動きが盛んである.そのような動きを支援し,真に価値あるジオサイトを発掘するためにも「大地の遺産」を選定することには意義がある.
  • 尾方 隆幸
    セッションID: S301
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1. ジオツーリズムと学校教育・生涯教育
     日本の各地でジオパークに対する取り組みが盛んになってきているが,ジオツーリズムのあり方をめぐる議論は明らかに遅れをとっている.ジオパークの現場では,受け入れ側の地域住民も現地を訪れる観光客も,それぞれが正しい環境倫理に基づいた行動をしなければならない.このためには,ジオパーク認定への取り組みと並行して,ジオツーリズムに関する研究・教育も実践される必要がある.
     ジオツーリズムの理念が正しく広まるかどうかは,研究教育機関の取り組みしだいで大きく変わってくるであろう.中でも教育界が果たすべき役割がかなり大きいが,これまでのところ,日本の教育界はジオツーリズムの議論にほとんど参加してこなかった.科学教育・環境教育に携わる研究者は,ジオツーリズムにおける教育のあり方をきちんと議論し,教育関係者にジオツーリズムを正しく普及・啓蒙する義務がある.
     ジオツーリズムのための教育は,大きく,学校教育分野と生涯教育分野に分けることができよう.子どもたちに地球科学の面白さを伝え,ジオツーリズムの専門家を目指す人材を高等教育機関に送り出すことは学校教育の役割であり,ジオパークの現場で活躍する質の高いインタープリターの養成や,ジオツーリズムに対する高い意識を持った一般市民の育成は,生涯教育の役割である.学校教育・生涯教育を専門的に扱う高等教育機関,すなわち大学の教育学部に課せられた使命は大きい.

    2. 学際連携と自然地理教育の役割
     ジオツーリズムでは産学官の連携が極めて重要になるが,われわれ研究者は,まずは「学」の内部での連携から考えなければいけないであろう.ジオツーリズムに関わる教育では,系統的な科学教育と環境教育が重要な意味を持つ.自然環境の仕組みを自然科学的な側面からとらえ,自然景観の成り立ちを総合的に理解する学習要素を欠いては,本当の意味でのジオツーリズムは成り立たないからである.そのためには,学問分野の枠を越えた学際的な教育プログラムが求められる.インタープリターをはじめとする専門家の養成には,大学もしくは大学院レベルで,地球科学各分野を横断するだけではなく,生物系や人文・社会系の諸科学も視野に入れたカリキュラムを開発する必要がある.
     このような活動を進めるためには,自然地理学をベースにした自然地理教育の充実を図るべきである.ところが,日本の自然地理教育にはさまざまな問題がある.最も根本的な問題は,自然地理学に属する分野が学校の現場で系統的に扱われていないことである.自然地理的な教育内容は,高等学校の「地学」「地理」,および中学校の「理科」「社会科」に分属している.加えて,現状では,自然地理学を専門的に学んだ教員が在籍する中等教育の現場は少ないだろう.これでは,自然地理学の面白さを子どもたちに伝えていくことはできない.今日の自然地理教育を考えると,残念ながら,ジオツーリズムを発展させていく基盤が整っている状況とは言い難い.
     大学の教育学部では,科学教育・環境教育をジオツーリズムに応用するための核として,自然地理教育を位置づけることが望ましい.まずはそのための基盤作りが必要である.発表者は教育学部の生涯教育課程に所属しており,理科系の学生を主体とする「自然環境教育コース」を担当している.そして,このコースの授業科目「環境自然地理学演習」および「環境自然地理学実習」の一部を利用してゼミとフィールドワークを連携させ,ジオツーリズムのための自然環境教育プログラムを開発する試みを進めている(図を参照).本発表では,その具体的な取り組みについても報告したい.ジオツーリズムは,大学の教育学部における自然地理教育の充実を図る,ひとつの有効な手段にもなりうると考えている.
  • 高橋 巧
    セッションID: S302
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     おきなわワールド(玉泉洞)は、沖縄の本土復帰前に観光鍾乳洞からスタートした、県内初の有料観光施設である。100%地元沖縄資本の民間企業であり、沖縄県から博物館相当施設に指定されている。2008年8月、河川環境の問題から閉鎖していた「ガンガラーの谷」も公開され、完全予約制のガイドツアーが実施されている。
    2.沖縄観光の現状
     現在の沖縄県の主力産業は観光業であり、県内入域客数は年々増加しているが、観光収入が比例して伸びていないことが課題となっている。  沖縄県の観光施策「平成21年度ビジットおきなわ計画」の重点項目の1つとして「ニューツーリズムの推進」が掲げられている。ここでは、「沖縄の自然や独自の歴史、文化などに、より深く触れることができる良質なエコツーリズムメニューを県内外へ発信する」とされている。
    3.ガンガラーの谷について
     2008年に公開された「ガンガラーの谷」は、隆起サンゴの石灰岩地帯に位置している。ここには鍾乳洞が崩壊した谷が形成されており、ガイドツアー専用エリアの森の中を歩くルートが整備されている。
     ツアーでは、まずスタート地点の洞窟内で地質・地形の解説を行う。その後、崖から15mもの根を垂らす巨大ガジュマルをはじめとする貴重な動植物や、民間信仰の場などを観察しながら、森の中を歩く。ゴール地点の洞窟では旧石器時代の居住跡を発掘する考古学的調査が行われており(発掘については藤田・山崎の発表に委ねる)、最新の発掘状況や研究成果を基に、「港川人」と関連付けたホモ・サピエンスの旅の話で締めくくる。
     公開に際しては、様々な分野の学術的な知識・価値をベースに、一般観光客の興味を引き出すことを心がけた。特に、ツアーを商品として成り立たせることと、自然環境の保全を両立させるべく、「持続的な利用」の観点から計画を進めた。
     解説内容については「目に見えるものだけでなく、地形のダイナミックな変化や古代人の営みなど、目に見えないはるか昔の世界をイメージしてほしい」という視点を重視している。また、解説にあたっては、話し方やコミュニケーション能力に細心の注意を払っている。
     現在は、この場所に関連する幅広い分野の内容を1つのストーリーにまとめたツアーを行っているが、今後は各分野の連携性を保ちながら各分野を掘り下げる、より深い内容のツアーも構築していきたいと考えている。
    4.ジオパークとしての可能性
     自然環境と古代人の生活をテーマとする「ガンガラーの谷」ツアーのスタイルは、ジオツアーの概念と重なる部分が多い。また「ガンガラーの谷」が位置する沖縄島南部雄樋川河口付近には、観光鍾乳洞として世界有数の入場者数を誇る「玉泉洞」や、東アジア最高の保存状態とされる旧石器時代の人骨化石「港川人」の発見場所などがある。この一帯は沖縄島でもとりわけ隆起が活発な地域で、海岸に点在する石灰岩ブロックがロッククライミングの名所にもなっている。今後は、これらのサイトを結びつけ、地元民間企業・地元行政・地元研究者とも連携を図りながら、本エリアのジオパークとしての可能性を探っていきたい。
  • 藤田 祐樹, 山崎 真治
    セッションID: S303
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
     沖縄県立博物館・美術館は、複数の更新世人類化石を産する沖縄の地理的特性に基づき、新たな人類化石発見を目指した野外調査を実施している。この調査を通じて得た知見から、沖縄県におけるジオツーリズムの可能性を考えてみたい。

    沖縄の地質と化石
     沖縄県は、本島、離島ともに石灰岩が発達している。カルシウム分豊富なその土壌は化石の保存に適しており、県内各地に更新世動物化石の産出地点が100以上知られている。こうした化石を探すには、その堆積プロセスを考える必要がある。
     化石の堆積プロセスには、地表面に存在した動物やヒトの遺体が、流水など自然の作用によって集められたり、ヒトや肉食動物が食物残滓として一か所に集めたり、葬送として遺体を埋める行為などが考えられる。自然作用で集積する場合には、集水地形や裂罅、鍾乳洞などの存在が化石を探す鍵になるし、ヒトや動物の活動がかかわる場合には、それぞれの好む地理的環境が重要となる。さらに、埋没した化石を探すには、崖地や露頭など、それらを発見しやすい地形的条件が必要になる。

    遺跡の立地条件
     また、化石のみでなく先史時代の人々の住居跡や生活場所を探求する場合にも地理的条件を無視することはできない。先史時代人は、地理的環境の変化や生活スタイルにあわせて居住空間を選択していたはずだからである。その一例として、私たちの調査している武芸洞を紹介する。
     武芸洞は、沖縄県南城市の観光地「ガンガラーの谷」にあり、縄文時代前期(8,000年前ごろ)から後晩期(3,000年前ごろ)にかけて断続的に生活や葬送の場所として利用されたことが、これまでの調査でわかった。武芸洞は、雄樋川の流れによって形成された鍾乳洞の一部であった。その天井が一部崩落して光や風が入るようになり、さらに川の流れが変化して洞内が乾燥したことによって生活可能な環境となったことが調査の結果から明らかになった。洞穴形成という地理的変化が、先史時代人に生活場所をもたらした好例といえよう。

    地理景観の変化と私たちの生活
     このように、化石の探求を通して、化石を多産する沖縄の地質的特性を改めて認識することができる。また、化石の集積プロセスや遺跡の立地などを考慮する過程から、地形が長大な時間軸のなかでダイナミックに変化することや、それに応じて私たちの生活スタイルや生活環境が変容していたことを思い知らされる。
     「化石探し」や「太古の沖縄」、「自分たちの祖先の探求」、「昔の人々の生活」など人類学、考古学的なテーマは、子供から大人まで、多くの方々の興味をひきやすい。こうした人類学、考古学的なテーマを導入として、長大な時間にわたる地理・地形の変化が、自然環境の変化や動物や人々の生活へも影響を与えることを解説すると、地理や地形にこれまで興味を持っていなかった人々へもアピールできるジオツーリズムを展開できるのではないだろうか。
  • 大島 順子
    セッションID: S304
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     ジオツーリズムと称し、これまでほとんどの人に興味や関心がいかなかった火山や地層などの地質資源の魅力をアピールすることの取り組みが始まっている。それは、琉球列島ならではの自然景観をあらためて見直すという、子どもから大人を巻き込む学習機会を創出し、自然観光資源として適切に観光客を誘致することで地質遺産を後世に伝える動きといえる。本発表では、沖縄におけるジオパークやジオツーリズムの推進に向けて配慮されるべき事柄と可能性を述べる。

    2.聖地であることが多い沖縄のジオ・サイト
     ジオツーリズムの対象となる場所には、岩山や洞穴がある場合が多い。洞穴は昔から人の暮らしとかかわりをもってきた。例えば、洞穴の入口付近を風葬の場としたり、洞穴の入口を囲って墓として利用してきたことからも関係が深い。特に、祖先や自然を崇拝し、山や川、海、木、石に神が宿るといわれている沖縄では、神が降臨した場所や神を祀った場所を御嶽(ウタキ)、聖地と呼び、人々が祈りを捧げている場所であることが少なくない。また、沖縄戦においても、洞内を流れる水が貴重な飲料水にもなり、多くの人々の命を守る防空壕としての役割も担っていた。現在、沖縄県内には数千を数えるほどの御嶽が存在するといわれ、探し出せていない聖地が数多く存在するともいわれている。
    ジオ・サイトの発掘やその取り扱いにおいては、神聖な空間を大切に守ってきた先人たちに敬意を払うのは当然のこと、適切な解説者の存在、立ち入る場所の許可、常識的な作法やモラルの徹底など、利用のガイドライン整備が必須である。状況によっては人が立ち入ることの規制や立ち入らせない形で保護しなければならない場所があることを理解し、対象地として除外するという判断が観光資源として利用する際には求められる。

    3.専門家やインタープリターの役割と期待
     長い年月を経て形成される地形や地質は、観光資源として一般的に地味で、その普遍的価値やメッセージともいうべき地球と人間のかかわりを伝えることが難しい。瞬時な動きのある生き物や彩のある植物とは異なり、地質や岩石は華やかさに欠け、それがマニアックな世界と色づけてしまう所以でもある。 ところが、それに魅せられた専門家たちは、フィールドで認められる現在の地質現象の形態やプロセス、メカニズムをはじめ、人々の暮らしや土地利用のつながりを様々な生命現象と生態系、地質学的特徴や気象・気候、歴史、文化と関連づけて語ることができる大切な仲介者の役割を担っている。
    地質学や地球科学という分野は、対象がみずから言葉を発するものではないため、通常の自然解説よりもその意味や素晴らしさを伝える人材(ガイド/インタープリター)の存在は、欠かすことができない。地誌学や人類学の知識も身につけ、テーマやコンセプト、ストーリーなどをプログラムとして組み立てる能力、話し方や伝え方を中心とするコミュニケーション能力を備えていることが求められる。インタープリターによって、これまで目立つことのなかった地質や地形といった素材は、いかようにも光輝き、観光資源としての社会的認知が高まることが期待される。
    学校教育はもちろんのこと、現場で活躍する質の高いインタープリターの養成や一般の人々への普及啓発活動など、地質の専門家や自然地理学の教育研究者らに課せられたミッションは大きいが、可能性もまた大きい。
  • 目代 邦康
    セッションID: S305
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    沖縄県の多様な自然環境は,多くの開発行為の前に消滅の危機にさらされている.社会基盤の整備や,新規の産業振興を目的としたものやリゾート開発など多様である.アメリカ軍基地建設にともなう工事なども多い.前者においては経済的合理性といった観点で議論されることはほとんどなく,自然破壊行為に対して異議が唱えられることが多い.後者においては,国で取り組むべき問題であるが,基地問題そのものの是非の議論よりも自然保護が論点になることが多い.このような状況を反映して,沖縄における自然保護活動は,様々な意義を有している.その数は多く,全体の把握が容易ではないが,ここでは,財団法人自然保護助成基金各地と財団法人自然保護協会とが共同で実施しているプロナトゥーラファンド助成において,過去助成をうけている活動を概観し,そららの事例から沖縄の自然の価値がどうのように捕えられているか探りたい.
  • 先住民族エコツーリズムの視点から
    小野 有五
    セッションID: S306
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1 琉球列島と北海道
     明や薩摩藩による支配を受けながらも、1879年の琉球処分まで、14世紀以来、「琉球王国」として存続していた琉球列島と、1869年の開拓使設置まで、道南の松前藩を除くと、「蝦夷地」、すなわち「アイヌ地」として、幕藩体制下の「日本」の領土ではなかった北海道は、ともに明治政府の強力な中央集権政策によって、あいついで初めて「日本」の領土とされたという共通性をもつ。国家体制をもたない先住民族であるアイヌの土地であった「蝦夷地」と、「日本」とは異なる「王国」であった琉球列島とは、同一には論じられない面もあるが、先住民族としての意識をもっている琉球列島人(シマンチュ)も存在する。この点については立ち入らないが、「ヤマトンチュ」(「日本」本土人)に対する「シマンチュ」というアイデンティティは、琉球列島において一般的に受け入れられていると言ってよいであろう。
    2 先住民族エコツーリズムの視点
     北海道では、2005年にシレトコでアイヌ自身がガイドをする「アイヌ・エコツアー」が始まった。これは、シレトコ世界遺産が指定される過程において、先住民族であるアイヌが日本政府からも北海道からも全く無視されたことへの批判にたち、世界遺産管理計画へのアイヌ民族の正当な参画と求めるとともに、エコツアーを通じてのアイヌの文化伝承や、アイヌの若者の雇用創出、世界遺産地域における自然資源利用権などの権利回復を目指すという目的をもっていた(小野、2006)。アオテアロア(ニュージーランド)では、先住民族のマオリによって、とくに1990年代からマオリによるエコツアーが盛んになっており、アイヌ・エコツアーはこれを一つのモデルとしている。
     これらの先住民族エコツーリズムが共通して目指しているのは、それまでの「見られるもの、語られるもの」としての先住民族の立場を、「見るもの、語るもの」に逆転させ、自らの文化を自由に発信するとともに、「見つめ合う、語り合う」関係をつくりあげることを通じて、「先住民族が置かれている現状への気づき」を促すことであると言えよう。
     「見られるもの、語られるもの」から「見るもの、語るもの」への逆転は、同時に、中央から地域へ向かう「まなざし」や「資本」のベクトルを逆転させようとする試みでもある。エコツーリズムの定義はさまざまであるが、本論では、地域主体のツーリズムで、利益が可能な限り地域に還元されるとともに、地域の歴史・文化伝承、自然環境の保全を目指す持続的ツーリズム、として扱う。
     このような視点で琉球列島における「エコツーリズム」を見ると、シマンチュの視点で組み立てられ、できる限りシマンチュに利益が還元され、地域の歴史・文化伝承、自然環境の保全を目指しているといえるエコツーリズムは、まだきわめて少ないのではないか、と考えざるを得ない。そうした、まだ少ない事例のなかで、恩納村の女性たちを中心につくられてきた「恩納エコツーリズム研究会」による取組みについて検討したい。
    3 「恩納村エコツーリズム研究会」の意義と課題
     「恩納村エコツーリズム研究会」は、恩納村の仲西美佐子氏を中心とする環境保全運動のネットワークによって、2000年につくられた研究会である。仲西氏は1980年代から水環境の保全をめざす活動を始め、1994年には、自宅に石鹸工房をつくって、廃油からの石鹸づくりを普及させていたが、90年代には、目の前にある屋嘉田干潟を開発から守るため、観察会を開くなどして、その保全運動も始めていた。このような活動のなかで、恩納村の自然環境を守っていくには、開発でそれを壊すより、壊さないでいることに経済的な価値があることを示すことが効果的であるという考えが生まれた。「エコツーリズム」によって、それが可能になるのではないか、との思いから、運動のネットワークで結ばれた女性たちを中心に、研究会がつくられたといえよう。
     「おばあ」(女性のお年寄り)文化は、琉球文化の一つの特徴であるとはいえ、年齢に関わらず、女性からの視点を中心に据えた「恩納村エコツーリズム研究会」の取り組みは、沖縄に限らず、男性主体で行われている多くの「エコツーリズム」を相対化するうえでも、重要な意味をもっていると思われる。研究会が本来、目指した、地域の環境保全や、歴史・文化の共有・伝承といったことがらへの効果についても、あわせて検討したい。
  • 池口 明子
    セッションID: S401
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    河川と潮汐によって形成される干潟・河口域など内湾の浅海は,高い生物生産力をもち,沿岸漁業を支えてきた.また,干潮時の干潟は採貝の場として,沿岸集落の人々に日常的に利用されてきた漁場でもある.しかしながら,日本をはじめとするアジア各地の沿岸開発によって干潟は大きく減少してきた.本稿ではハマグリを「追いかける」ことによって,ベトナム・メコンデルタの干潟利用と,沖縄を含む日本列島の「ハマグリ文化」との関わりを考えてみたい.

    2.アジアにおけるハマグリ文化
    アジアに分布するハマグリ類には,日本在来の3種(ハマグリ,チョウセンハマグリ,トドマリハマグリ)のほか6種がある.日本では蛤(ハマグリ)は,列島の多くの地域で約8000年前から食用とされ,その殻は工芸品の材料として用いられてきた.また,ハマグリをはじめ干潟の貝類の採集や食用は,旧暦三月節句の前後,女性の健康や貞操を願う浜降り行事の主な祭事でもあった.沖縄島でもハマグリ類は,金武湾周辺の貝塚群に出土し,1940年代ごろまでは佐敷干潟や与那原干潟に多く生息した.干潟の貝類の多様性が高い沖縄の干潟では,ハマグリ以外にも多くの二枚貝が採集されており,詳細な民俗分類がみられる.ところが,赤土流出や埋め立て,護岸などの沿岸改変により急速に採集の場が減少し,多様な貝類利用は忘れられようとしている.一方,スーパーなどでは,ひな祭り前後になると「伝統的文化」としてハマグリが並ぶのは,本州と同様である.日本各地の内湾干潟にみられたハマグリ産地は現在では熊本・大分・三重などに残り,これらのハマグリはブランド化され,資源管理がなされるようになった.しかしながら,大量消費される安価なハマグリは依然として中国やベトナムからの輸入に依存している.近年では,韓国での大規模な干潟埋め立て,中国の経済成長のなかで,他の水産物同様にハマグリも「奪い合い」の様相を呈している.

    3.ベトナム・メコンデルタのハマグリ生産と漁場利用変化
    メコンデルタの南シナ海に面した干潟では,ハマグリの一種ハンボリハマグリ(Meretrix lyrata)が蓄養されている.いくつかの河口干潟で多く発生する稚貝を移植して放置するという簡単な方法で,労働が必要とされるのは稚貝採集,監視,成貝採集,加工である.これらは地域間で分業がなされており,ホーチミン市に近い産地では監視,成貝採集と加工がなされ,より遠い沿岸域では専ら稚貝採集のみが行われている.ブラックタイガー生産とは異なり,これらは環境破壊的ではなく,むしろある地域では環境保全的行動もみられる.例えば,あるハマグリ生産組合では,稲作への塩害を防止するための堰の開閉による河口への土砂流出を問題化し,省政府へ環境モニタリングを依頼したり,ハマグリ母貝を保護したりするなどの行動もみられる.一方,稚貝採集をおこなう集団にはメコンデルタの先住民クメール・クロムの人々も含まれる.資本が少なくエビ養殖に参入できない人や農地が零細な人々にとって,干潟での採集は重要な生計手段であるが,乱獲への危惧から省政府によりたびたび干渉がなされ,クメール・クロムの人々による抗議も起こっており,こうした地域間,社会集団間の分業や干潟漁場の領域化こそは,ハマグリのグローバル化の過程として注目されるべきであろう.

    4.文化の単純化と漁場の領域化
    貝塚の大量の殻が物語るように,ハマグリ類は河口や内湾でかつて普通に生息した資源である.このような資源が希少となり,海外からの輸入が急増し,干潟漁場が領域化されるようになった状況の背景は,単にグローバル化の政治経済的側面に求めるのではなく,干潟とヒトの関係の変化のさまざまな側面から理解する必要がある.本報告ではそうした側面の一つとして,貝類利用文化の単純化を考えてみたい.ハマグリのように広く列島にみられる生物利用はその文化が記述されてきたが,沿岸集落の人々がそれぞれの海域で日常的におこなってきた資源利用は「文化」とされてこなかったのではないか.内湾や河口干潟の生物相の多様性とその利用を明らかにし,地域で共有することは,自然・人文問わず重要な地理学的課題と考えている.
  • 田和 正孝
    セッションID: S402
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに
    潮の干満差をたくみに利用した伝統漁法石干見の復元と活用が、近年、九州各地で始まっている。地域の人々の生活や生業に関わる身近な風景を文化財として評価する「文化的景観」の考え方が定着し、そのような景観を保存したり、再生したりする動きと関係があると考えられる。たとえば、大分県宇佐市の長洲海岸で石干見(イシヒビ)が復元された。これを地元中学校での環境教育や体験型観光に活用しようとしている。地域貢献やツーリズムのための装置として、石干見がいま脚光を浴び始めているのである。地理学や民族学においても、1970年代でいったん終息していた石干見に関する研究が、1990年代から再び繰り広げられている。このような学界の動向をみるとき、いったい、石干見に関する研究はこれまでどのように進められてきたのか、今後いかなる研究が可能かを検討することが必要と考える。本報告では、以上のことをふまえたうえで、九州・沖縄地方の石干見を事例に、石干見研究の方向性と新たな可能性を考察する。

    2.近年の石干見研究
    1980年代後半から1990年代にかけて、各地に残る石干見に関する報告がなされ、石干見漁の技術などが議論された。また、昭和初期における石干見の利用形態に関して、当時の漁業権資料を用いた分析などもなされた。さらに、石干見が文化財として保護対象となっている状況についても議論が始まっている。近年の石干見研究の特徴としては、(1) 漁業史的考察、(2)分布と現況についての研究、(3)利用形態を生態学的視点から考察する研究、さらには、(4)文化資源・文化財としての石干見をめぐる議論、の4点をあげることができる。以下では、これらのうちの(4)に注目し、石干見の保存・再生・活用をめぐる議論について検討しよう。

    3.石干見の保存・再生・活用をめぐる議論
    長崎県諫早市高来町にある石干見(スクイ)は、有明海に唯一残る石干見である。これは所有者が現在でも魚とりを続けている。一方で、1987年以来、旧高来町の文化財に指定されている。また、スクイは2006年には沖縄県宮古島市伊良部島に残る石干見(カツ)とともに、「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれた。2003年6月には、農林水産業に関連する文化的景観の保存・整備・活用に関する検討委員会によって『農林水産業に関連する文化的景観の保護に関する調査研究報告書』が提出された。そのなかの「漁場景観・漁港景観・海浜景観」の重要地域として、鹿児島県大島郡竜郷町の石干見(カキ)漁、沖縄県八重山郡竹富町小浜島の石干見(カキ)、重要地域以外の二次調査対象地域として諌早市のスクイ漁場が指定されている。宇佐市の長洲海岸では、前述の通り、環境教育や観光目的で復元が始まっている。長洲漁港のわきには「観光ひび」も復元されている。沖縄県石垣市白保では2006年、海垣(インカチィ)が復元された。白保ではかつてインカチィから多くの食料を得ていた。地域に住まう人々がそれを記憶し、生活にかかわっていたインカチィを白保の文化として次世代に残したいという強い気持ちの表れである。
    以上のように、石干見の保存・再生・活用に関しては、漁業、観光(ツーリズム)、文化遺産の3つの要素が様々に関与している。

    4.おわりに
    石干見への関心の高まりは、学界のみならず行政や地域コミュニティーからも示されている。2008年3月には宇佐市において、「第1回日本石干見サミット」が開催され、石干見の復元と再生事業、体験型観光漁業の取り組み、地域おこしとツーリズムへの期待などが報告された。また、海の文化的景観としての石干見の維持管理と動態保存の可能性なども議論された。2009年5月には、長崎県五島市富江において「第2回すけ網(石干見)サミット」が開催された。そこでは、新たな視点として、石干見と里海に関する考え方も提示された。生物の多様性は、適度な攪乱がある場合にもっとも高くなるといわれている。海中に石垣を構築することで、海藻類が繁茂し、多種多様な生物がそこに蝟集する可能性があるというのである。
    石干見はいかにして新たに生成され、保存され、活用されてゆくのであろうか。地域振興や地域文化の表象の問題のみならず、環境保全の装置としての意義についても、石干見研究の今後の展開が注目される。
  • 李 善愛
    セッションID: S403
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     本研究では、韓国のワカメ漁場利用慣行の地域的広がりを比較分析してその特徴を明らかにする。
     漁場は捕獲、採取される漁獲物や道具によってさまざまな種類に分類される。こうした漁場の種類の中には古い時代から行われてきたものが多く、もっとも古いのは竹防簾という定置網漁場と藿岩というワカメの天然漁場である。
     竹防簾は移動する魚を捕獲対象とする漁具漁場で個人が私有し、売買することができる。一方、藿岩はワカメ、イワノリのような海藻類やアワビ、サザエのような貝類などの定着性動植物を捕獲対象とする漁場で、村の共同体が漁場使用権を共有し、ほとんど売買することができない。
    ところで、竹防簾漁場は現在韓国の南海岸の南海という特定地域を中心に分布しているが、藿岩は岩礁性海岸の地域に広く分布し、さまざまな形態の利用慣行がある。このような歴史性と地域性をもつ藿岩漁場のさまざまな利用慣行に焦点をあて、人間と自然環境とのかかわりの現在を考えたい。
     韓国で用いられる海藻の種類や量は多いが、その中で著しく多いのはワカメである。ワカメは日常の食料としてよく利用される。一方、非日常のお歳暮や中元のような贈答品、産婦の食事や一般人の誕生日の食事にも必ず用いられている。また、近代医学が発達した今日においてもワカメはお産の神への供え物としても欠かせない。
     さらに、藿岩漁場で採れる天然ワカメは、量産性の高い養殖ワカメとは対照的に、珍奇なものとして、天然のものは健康によいという認識のもとで高級地域ブランド品になっているものもある。このようなワカメの社会・文化的利用と位置づけが経済的価値を高め、それと相応した形で天然のワカメが採れるワカメ漁場の利用形態は村ごとに異なり、しかも複雑な形で展開していると思われる。
     以上からみると、ワカメ漁場の韓国の現在におけるワカメ漁場利用形態は以下の3つの特徴にまとめることができる。
     まずは、ワカメ漁場の使用権は大きく共有型と私有型に分けられるが、共有型が多数を占めている点である。
     次は、ワカメ漁場の割り当て方法は、くじ引きと輪番に分類することができる。両方とも漁場を一定数の区画に分けて割り当てしているが、くじ引きで漁場を割り当てる場合、毎年のワカメ生産量を参考しながら区画に配置する人数を調節する。輪番の場合は、班などの共同体構成員グループが決まった漁場の区画を年別に一定方向で順番に利用している。両者は、漁場の割り当て方法においては異なるが、共同体構成員間の漁場利用機会の平等性と公平性を図っている点は似ている。
     その次は、ワカメの生産・分配形態は共同と個人に分かれる。こうした生産・分配形態を決める大きな要素は、1人当たりの漁場利用面積の大きさ、ワカメの販売先が確保できる消費地の有無やそれを決める村の立地条件などである。
     しかし、ワカメ供給先の有無、共同体構成員の年齢構成とその一定人数の確保の可否などは、これらワカメ漁場利用形態の特徴である漁場の使用権と割り当て方法、生産と分配形態を持続あるいは盛衰を左右する大きな決め手になると思われる。
  • 服部 亜由未
    セッションID: S404
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに
     近世後期から近代における北海道の基幹産業は漁業であり,その中心をなしたのがニシン漁であった.ニシンの粕は北前船により,西日本を中心とした日本各地に運ばれ,魚肥として綿や菜種などの商品作物へ利用された.太平洋戦争中,及び戦後における食料難の時代には,重要な食料として求められるなど,ニシンの漁獲量が皆無になる1960年ごろまで,需要は高かった.さらに,技術の発展や漁場の拡大により,大量の労働力が求められた.近世にはアイヌ民族を使役し,アイヌ民族が減少すると,本州からの出稼ぎ者を雇うことで成り立っていた.ニシン漁を介して多くの人々が移動し,その影響力は大きかった.
     しかし,1960年には北海道日本海側でのニシン漁は幕を閉じ,ニシンは「幻の魚」と称されるようになった.そして,ニシン漁の担い手たちは今,姿を消しつつある.現在,ニシン漁経験者各人の中に記憶として眠っている体験をまとめることで,史料分析からは描き出せない具体的内容を付加できる最後の段階にきているといえる.
     一方,北海道の日本海沿岸地域では,ニシン漁に関係する建造物の保存運動や,「ニシン」をキーワードに観光化策への連結も主張されるようになってきている.
     本報告では,ニシン漁が行なわれていた時代のニシン漁と漁民とのかかわり,特にニシンの不漁から消滅にかけた漁場経営者や出稼ぎ者の対応について検討する.また,近年のニシン漁に基づく活動を紹介し,ニシン漁を考える意義について述べたい.
    ニシン漁と漁民
     3月下旬から5月下旬の2ヵ月という短い期間に,獲れば獲るほどお金になったニシン漁には,多くの労働力が必要とされた.特に,江戸時代に行なわれていた場所請負制度が廃止されると,漁場が増加した.漁場経営者は漁業権を獲得すれば,自由に漁場を開くことができ,漁場周辺の人だけでは足らず,多くの出稼ぎ者が雇われた.
     ニシンは豊漁不漁を繰り返し,その漁獲地は北へ移っていった.漁の傾向が予測できない状態で,漁場経営者は多額の出資をして準備を行ない,出稼ぎ者は出稼ぎ地域を決定しなければならなかった.漁獲量が変動する中で,ニシン漁場経営者たちは,漁を行なう網数に適した出稼ぎ者を雇い,漁獲量が多い場合には,臨時の日雇い労働者を雇う形態をとっていた.また,衰退期には,ニシン漁以外の収入源や共同での漁場経営への移行,生ニシンの加工業への転換が見られた.一方,出稼ぎ者は初年度には身内とともに出稼ぎに行くが,その後は各自の判断により地域や漁場を決めた.そして,不漁期を経験した人々への聞き取り調査からは,2年続いて不漁であれば,3年目には他の漁業や他業種の出稼ぎに転換する傾向が見受けられた.報告では,史料や聞き取り調査から判明した実態を紹介・検討する.
    ニシン漁に基づく町おこし
     北海道日本海側の市町村には,ニシンが獲れなくなった現在においても,ニシン漁にまつわる歴史や文化が存在し,ニシン漁によってその市町村が形成されたことを感じさせる.各自治体史編纂の地域史においては,この点が強調されてはいるが,自村のみの事例紹介でとどまっている.そのような中,後志沿岸地域9市町村では,「ニシン」という共通の資源を基軸にした「後志鰊街道」構築の試みがなされている.報告者はこのような興味深い取組みを後志地域だけでなく,北海道日本海側全域,東北を中心とした出稼ぎ者の出身地域,さらには北前船の寄港地を含んだ地域にまで拡大できないものかと考えている.こうしたニシンによる地域交流圏を仮称「ニシンネットワーク」として調査研究を進め,各自治体の町おこしに協力していきたい.
     ここではその第1報として,出稼ぎ者の出身地域である青森県野辺地町の沖揚げ音頭保存会の活動を紹介する.当会は,利尻島への出稼ぎ者を記した「鰊漁夫入稼者名簿(利尻町所蔵)」がきっかけとなり,2008年に結成された会であり,祭りや小学校での実演,指導を行なっている.2009年9月に利尻町の沖揚げ音頭保存会との交流会を行なった.
    ニシン漁再考
     昨今,放流事業の成果もあってか,再びニシンが獲れるようになり,話題となっている.ただし,現在漁獲される石狩湾系ニシンは,かつての北海道サハリン系ニシンとは種類が異なっており,かつてほどの漁獲量にはならないと予想される.しかし,利益至上主義による乱獲をしてはならないことを過去の経験から学ぶ必要がある.
     また,北海道日本海側の地域形成の議論には,出稼ぎ者出身地域とのつながりからのアプローチ「ニシンネットワーク」論が有効であると考える.そのために,北海道と出稼ぎ者出身地域との両地域を対象とし,史料の発掘や経験者への聞き取りを積み重ねていきたい.
  • 環太平洋域における「聖なる魚」「雑魚」「高級魚」としての利用を比較
    橋村 修
    セッションID: S405
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    本報告では、伝統的な形態のシイラ漁とシイラの天日干し加工をおこなっている沖縄本島国頭村(国頭漁協)宜名真を事例に、沖縄における回游魚シイラと人との関わりを論じ、環太平洋域における「聖なる魚」「雑魚」「高級魚」としてのシイラ利用について比較検討する。まず、「雑魚」として見られがちのシイラをなぜ取り上げるのか論じる。本報告の論点は次の4つを予定している。 1.地域文化としてのシイラ(パヤオを入れる慣習、シイラ招き儀礼)(沖縄でも、地域によってはサンゴ礁域に入るシイラが毒性の菌を持つため、中毒が出て、嫌われている)、2.ソデイカ漁(カツオ マグロ、トビウオ)やサトウキビ農業の新たな展開によるこの約30年での漁業(シイラ)を軸とした生業複合の変化、3.シイラを使った村おこし行事の試み(平成12年13年のフーニュイユとパヤオ祭り)、2007年2008年の南太平洋からのシイラ浮き(小パヤオ)漁業研修、4.シイラと人との関わりをめぐる比較地域論(台湾、日本本土、ハワイなど)。 この1伝統文化・生態,2変化,3未来志向(地域振興),4比較地域論の4つの視点を踏まえ、海の資源と人との関わりの多様性について、見通しを述べる。
  • 松本 博之
    セッションID: S406
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    ジュゴンは熱帯・亜熱帯の浅海域に生息する草食性の哺乳類である。潮の満ち干にともなって、アマモ類を索餌するために満ち潮で浅瀬に接近し、引き潮で沖合へと移動する。肺呼吸をおこなう生き物であるから、索餌中も2,3分に1度は海面に浮上し呼吸する。その瞬間がハンターたちの銛を打つ唯一の機会である。
    オーストラリア、トレス海峡諸島は太平洋およびインド洋の沿岸域に生息するジュゴンの分布域の中でも最も周密に生息する海域である。トレス海峡の先住民は、考古学的な史料によると、少なくとも2000年前からこの生き物を狩猟してきたようであり、今日でも単なる食料としてのタンパク源・脂肪源の意味をこえてトレス海峡諸島民の文化の核に位置している。
    狩猟行動によって意識化される海底地形と植生、潮、風、それにジュゴンの生態行動など、今日「文化遺産」ともよばれる生きた自然に関する知識は膨大なものである。たとえば、その他の漁労活動や海上交通の理由にもよるが、サンゴ礁地形の発達する海域において、 日常的な行動海域に120以上もの海底地名を付けており、それ以上に、その地名の意味内容をこえて、周辺の海底に関する知識は詳細をきわめている。アマモ類の藻場の分布はいうまでもなく、ジュゴンの行動をとらえた「ジュゴンが背中を掻く岩」の所在や潮の満ち干にともなった移動路となるサンゴ礁内の澪筋ないし入り江にもその観察はおよんでいる。
    また、ジュゴンは内耳神経の発達した生き物であり、音にきわめて敏感である。先住民たちもそのことを熟知しており、もう1つの狩猟対象であるウミガメのプルカライグ(目の良い奴)に対比して、カウラライグ(耳の良い奴)というニックネームを与えており、そのことが彼らの狩猟行動の多くを説明する。つまり、1970年代から導入された船外機のついたアルミニウム合金製の小型ボートで狩猟場の風上まで疾走するが、そこからはエンジンを止め、海面の乱反射を避けるために太陽を背後に受け、話し声もふくめ一切物音を立てず、風向と潮流にまかせて、船を風下・潮下に流すのである。その際、船体はかならず潮流と平行に保つように舵を操作しなければならない。わずかでも潮流が船体に当たり、波音を立てることさえ避けようとするのである。いわば、自分たちの存在を風の音と波の音にかき消すのである。しかし、彼らは単に風と波に身をまかせているわけではない。水面下で索餌するジュゴンの行動も考慮のうちに入っている。ジュゴンは潮上にむけて直線的に索餌し、かつ呼吸のために浮上する際も潮上にむかって泳ぐのである。したがって、ハンターたちの行動はジュゴンとの遭遇の機会を増大させているのである。
    しかしながら、こうした先住民のジュゴン猟も現代世界にあっては、さまざまな問題を抱えている。ジュゴンは言うまでもなく国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定されている生物だからである。目下オーストラリアという国民国家の中の先住民として暮らす彼らには、少数民族として多数(主流)派社会の法や世論を無視しえない。彼らのジュゴン猟も、その伝統的な食料資源としてのみならず、肉の分配にともなった社会的凝集力や彼らのアイデンティティにつながる墓碑建立祭の折の不可欠の食べ物、さらにはハンターに与えられる社会的威信などに配慮して、自給目的の狩猟のみを認められているにすぎない。しかし、主流派の規範となっている「生物多様性」、「環境保全」、「持続しうる開発」は動物保護団体による全面狩猟禁止や船外機付きボートという狩猟手段の問題視を引き起こしている。政府から派遣された「持続しうる開発」のために基礎調査を行う海洋生物学者たちも、ジュゴンの再生産率の低さゆえに、目下の捕獲頭数を政府への答申や学術雑誌の中で危険視している。一方先住民の間では、ジュゴン猟がみずからの民族性を示す特徴の一つとしてシンボル化し、民族自治を願う彼らにとって、ジュゴン猟への干渉は政治問題に展開する可能性を秘めている。こうした問題はトレス海峡諸島民のみならず、たとえば、カナダ極北のイヌイットの人々の生存捕鯨、カナダ北西部海岸先住民のサケ漁、カナダ北東部クリーの人々のシロイルカ猟など、現代の海と関わる先住民の社会が共通して抱える問題なのである。
  • 宮内 久光, 平井 誠
    セッションID: S501
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    離島の就業構造は,雇用状況と直接関係があるため,離島の人口数や人口構造にも大きな影響を与えると考えられる。これまで,離島の人口を扱った地理学研究においても,島の就業構造の変化がその人口変化を規定している,と論じている。例えば,奄美・沖縄離島においては,平岡(1985)は鹿児島県瀬戸内町,矢野(1992)は鹿児島県大和村を事例に,高度経済成長期の人口減少の要因を,離島の従来からの生業の変化,すなわち農漁業就業者の減少という就業構造の変化に求め,人口減少の激しい集落を分布論的に検討している。一方,中山(1986)は鹿児島県与論島,宮内(2003)は沖縄県座間味島において,観光就業者の増大が,離島人口を微減にとどめた,あるいは増加に転じさせたことを報告している。
     以上のような従来の研究は,特定の市町村,あるいは特定の島を対象に考察したものが多く,奄美・沖縄離島全域を対象として,就業構造の変化と人口変化について全域レベル,圏域レベル,島レベル,集落レベルの各空間スケールで考察したものはない.また,単に人口変化だけではなく,それに付随する人口構造の変化,具体的には人口高齢化の状況についても把握する必要がある.そこで本報告は,これらの点について国勢調査結果を用いて地図化や統計分析など定量的アプローチから実証的に明らかにすることを目的とする.
     本報告で対象とする奄美・沖縄離島は44の有人島である(架橋島は除く).これら奄美・沖縄離島には1960年の時点で365,398人が居住していた.この時点の人口指数を100.0とすると,奄美・沖縄離島は1970年までの10年間で約18ポイント減の82.4へと人口指数を大幅に減少させた.その後,1980年では78.4,1990年では74.2へと漸減し,直近の2005年では70.2の256,442人まで人口が減少している.これは全国の離島の人口変化と同じ傾向だといえる.
     これを圏域別にみてみると,奄美圏域(8島)は期間中一貫して人口を減少させている.沖縄圏域(18島)および宮古圏域(8島)は1975年にそれぞれ人口指数を59.4,79.8まで一気に下落させた後は,ほぼ横ばいで指数が推移している.八重山圏域(10島)も1975年までに人口指数を78.3まで落とすが,その後人口は増加傾向を示す.2005年では人口指数も99.5までに回復した.このように,高度経済成長期に大幅に人口を減少させた奄美・沖縄離島であるが,低成長期に入った後は,人口変化は圏域ごとに異なる.
     島別,集落別の人口変化や人口高齢化の状況,就業構造との関係についての詳細はシンポジウム当日報告する.
  • 助重 雄久
    セッションID: S502
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     宮古島の入域観光客数は1990年代以降漸増し、1998~2005年度の間に29.5万人から41.2万人へと増加した。同時に宮古島には多くの小規模宿泊施設(民宿・ゲストハウス・ペンション等)が立地するようになった。2006年度以降は入域観光客数が減少に転じたが、小規模宿泊施設は増加し続け、経営形態等も多様化してきた。
     本報告では宮古島(池間島を含む)の小規模宿泊施設36軒を対象に行った聴き取り調査の結果をもとに施設の急増や多様化の実態、インターネットが果たす役割等について考察した。

    II 小規模宿泊施設の概況
    1.島全体における施設数の動向
     2009年6月時点でインターネットサイトに情報を載せている小規模宿泊施設は島全体で70軒以上にのぼった。他に旅館業法に基づく許可を得ていない施設等も多数存在しており、正確な施設数は宮古島市や観光協会でも把握が困難になっている。
    2.調査対象施設の概況
     対象施設の客室数はほとんどが15室以下で、開業時期は2001年以降が26軒、うち18軒は観光客が減り始めた2006年以降に開業した。経営者の出身地をみると、1999年までに開業した施設ではすべて島内出身なのに対し、2004年以降に開業した26軒は島内出身が8軒、経営者夫妻のいずれか一方が島内出身5軒、島外出身者13軒であった。島外出身者のなかには、近隣住民との交流に積極的な者とそうでない者がいる。また土地建物の島外者への賃貸・譲渡を禁じている集落と容認している集落とがあり、これらのことが施設の地域的偏在にも結びついている。

    III 通年化と多様化が進む小規模宿泊施設
     宮古島を訪れる観光客は1990年代まで夏季に集中する傾向がみられたが、近年では1年を通じて平均化している。4~6月には「全日本トライアスロン宮古島大会」等が行われており、島外から多くの人々が参加する。また冬季は循環器系疾患や花粉症を患った人々が避寒・療養で長期滞在するケースも増えている。これらの客は一度宿泊施設を訪れるとリピーターとなる場合が多く、小規模な施設にとっては通年安定経営に大きな役割を果たしている。
     宮古島では民宿等の協定料金が無実化している。このため料金や宿泊形態は、素泊まり1,000円台のものから2食付で1万円近いものまで多種多様である。また、宮古島の小規模宿泊施設は近年開業したものが多いため沖縄の伝統的民家を改造したものはほとんどなく、ドミトリー(相部屋)タイプからキッチン・バスが室内にあるマンションタイプ、ホテルに準ずる設備をもつものまで多種多様な施設が「乱立」している。しかし、こうした「乱立」は多様化する観光客のニーズへの対応を可能にしている。観光客側の選択肢が広がり、それぞれの希望にあった宿泊施設が選びやすいというメリットが生じている。

    IV 大きな役割を果たすインターネット
     対象とした施設の多くは独自のインターネットサイトを開設しており、宿泊客はこれらを見て予約する場合が多い。また、大手旅行予約サイト「楽天」「じゃらん」から予約できる宿泊施設も増加している。また、大半の施設ではインターネットが利用できるよう共通スペースにパソコンを置いたり、客室で無線LANを使えるようにしたりしている。
     島ではテレビ・新聞等から十分な情報を得ることが困難であるため、本土から移住した経営者にとってもインターネットが情報格差の解消に役立っている。このように、離島の宿泊施設ではさまざまな面でインターネットが大きな役割を果たすようになっており、インターネットがなければ経営そのものが成り立たないと話す経営者も少なくない。
  • 鄭 美愛
    セッションID: S503
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     一般的に沖縄をはじめとする離島出身者は特に強い帰還性を持っていると言われている。なぜ離島出身者はUターンによる長距離移動が目立つのか。それは島が持つ特殊地域性によるものか。離島出身者が持つ属性によるものか。しかし,離島出身者に焦点を当てた実証研究はいまだ少ない。島出身者の居住地移動の実態を把握することで,なぜ離島出身者にUターン移動が多いのかが理解でき,さらには離島地域が持つ地域の魅力を見いだすきっかけともなろう。
     本発表では,長距離Uターン移動の実態を奄美大島芦検出身者を事例に検討し,居住経歴から芦検出身者のUターン移動の特性とUターンを可能とする諸条件を明らかにすることを目的とする。
     研究対象地域である奄美大島は1946年に日本から行政分離され,1953年復帰し鹿児島県に編入された。芦検が位置する宇検村は奄美大島南西部に位置し,92_%_以上が山地で,隔絶性の高い地域である。気候は冬季にも温暖である。
     芦検は宇検村役場がある湯湾から焼内湾西岸の4_km_の地点に位置する。2002年5月時点において人口341,157世帯である。
     2002年8月,2003年5月・8月に芦検に居住しているUターン者32人を対象に,出生から現在までの居住経歴や移動理由,Uターン後の生活全般に関する聞き取り調査を行った。調査項目は,移動先や移動理由,頼った人,居住形態,職業などである。また,現在受けている年金の有無,年金の種類,金額,Uターン後の経済基盤などについても質問した。なぜ彼らは本土での生活基盤や社会関係などを放棄して芦検へのUターンを決めたのかということがこれらの質問の主旨である。
     調査を行ったUターン者は女性が17,男性が15人であり,年齢構成は,40歳代が1,60歳代が12,70歳代が15,80歳代が4人である。彼らのうち20人は本土の都市部で定年退職を迎えてから芦検へUターンした。またうち28人の配偶者は芦検出身者である。夫婦がともに芦検出身であることは芦検へのUターンを決める際,大きな影響を与えたと考えられる。総移動回数は平均8回である。
     退職した人を含め彼らの職業をみると,会社員が18で最も多く,タクシーの運転手が6,スーパーや商店勤務が2,公務員が1,自営業が1などである。特に,会社員の割合が高く,自営業が少ないことが特徴である。元会社員は厚生年金に加入していたため,自営業よりも退職後受給する年金の金額が多い。これは,芦検へのUターンに直接繋がると思われる。
     居住経歴を分析する際に,サンプルの人々が経験したライフヒストリーを出郷期・都市生活期・Uターン期と大きく3つに分類した。出郷期とは,芦検を含む奄美大島を離れた時期を称する。都市生活期とは移動先の本土都市部で,就職・転職・結婚・出産などさまざまなライフイベントを経験しながら生活した時期を意味する。芦検出身者の場合この時期が30~40年にも及ぶことが特徴である。そして,芦検へ帰還する時期をUターン期とする。
     芦検Uターン者の移動は,出郷期とUターン期の長距離移動,都市生活期における近距離移動から構成される。彼らの平均移動回数は8回である。出郷期は就職,都市生活期は転職や結婚,Uターン期には退職や島に対する思いが主な移動のきっかけになった。
     芦検へのUターンを可能にしたのは
      1.夫婦ともに芦検出身者
      2.温暖な気候などの自然環境
      3.強い地縁・血縁関係による繋がり・情報の流れ
      4.活発な地域コミュニティとの結びつき
      5.安定した年金収入
    といった諸条件の存在である。
     奄美をはじめとする南西諸島などの離島地域においてはこのような退職後の長距離移動が多数観察される。したがって,今後は長距離移動を誘発する地域的な条件を,南西諸島の諸地域の事例を蓄積することから明らかにする必要がある。
  • 堀本 雅章
    セッションID: S504
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     現在,都市部でも学校の統合は見られるが,過疎地域においては,学校の統合だけでなく,廃校になった例は多々ある。沖縄県竹富町にある鳩間小学校は,1974年の春と1982年の春,2度にわたり廃校の危機に直面したが,その都度親戚の子どもを呼び寄せ廃校になるのを免れてきた。その後も,沖縄本島から里子として施設の子どもや,山村留学に類似した「海浜留学」という形で全国各地から子どもを受入れ学校を維持してきた。
     一方,近年の離島ブームや,2005年に海浜留学生として鳩間島に来た少女を主人公にした「瑠璃の島」がテレビ放送された影響もあり,観光化の波が急速に訪れ,民宿や船便が増え,島は以前より活気づいている。
     本稿では,過去に廃校の危機に陥った鳩間島の学校の役割について島民の意識調査を実施し,学校の役割は子どもの教育以外に何があるのか,また,鳩間島民にとって学校はどのような存在なのかを解明することを研究目的とする。
     鳩間島は周囲3.9km,面積0.96k_m2_で,西表島の北約5.4kmに位置し,人口は2007年9月末日現在69人である(調査当時)。集落は,港付近の島の南側1ケ所で,フクギに囲まれた赤亙屋根の家屋が今も残っており,島内には多くの御嶽がある。島の産業は,民宿,食堂・喫茶,マリンスポーツのほか,少ないながら農業,漁業が見られる。また,音楽活動が盛んで,民謡歌手も数名在住している。
     調査は,2007年7月および9月に実施し,鳩間島に住民票がありかつ実際に居住している20歳以上の島民47人を対象とし,41人から回答を得た。質問項目は,「学校の役割について」,「廃校になっていた場合の島の状況について」,「里子・海浜留学生受入れ後の島の変化について」,「里親・受け親の経験について」等である。また,鳩間島の居住期間の違いから生じる学校に対する考え方を比較するため,島での通算居住期間を10年以上(19人)と10年未満(22人)とに分け比較した。さらに,近年の観光の発展との関連を検討するため,観光産業就業者(18人)とそのほか(23人)に区分し比較した。
     本来学校の役割は,「教育の場」と考えられるが,今回の調査では7回答に留まった。一方,「島の存続」12,「島の活性化,過疎化させないもの」が10回答あった。また,廃校になっていた場合の現在の島の様子として,「無人島になった」10,「過疎化した」10,「老人だけ,もしくは老人がほとんどの島になった」が6回答を占めた。学校は教育の場であるが,島にとって学校はなくてはならないものである。
     調査を行った2007年9月現在,海浜留学生4人のほかに,親とともに転入してきた小中学生が7人いた。しかし,鳩間島の血を引く子どもは一人もいない。学校を維持するために,親戚の子どもを呼び寄せ,1983年からは里子を受入れ,近年は「海浜留学生」の受入れが中心になっている。さらにこの数年,小中学生が家族とともに鳩間島に転入するケースが見られた。2008年度は海浜留学生4人を含む9人が在籍したが,2009年3月に海浜留学生の卒業や転校により4月から,家族で転入してきた小中学生の4兄弟のみの在籍となった。彼らが,家庭の事情で急遽6月19日に島外の学校へ転校したため,開校以来小中学校ともに在籍者数ゼロとなった。学校を存続させるためには小中学生の受入れが急務となったが,鳩間島での生活体験のある親とともに転入してくる子どもを含め,2学期から小中学生各1人の転入が確定し,鳩間小中学校は3度目の廃校の危機を免れる見通しがついた。このほかにも転入希望者はいるが,受入れ家庭等の調整中である。
     数年後,鳩間島出身の子どもの小学校入学が予定されているが,そのほかは目途が立っていない。鳩間小中学校を維持していくために,子どもを連れた帰島者や転入者が定住できるような産業の整備が必要である。そのためには,鳩間島に合った観光を取り入れると同時に,観光だけに頼らない新たな島の産業の確立が急務である。
  • 奄美大島,名瀬の郷友会の事例
    須山 聡
    セッションID: S505
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     本発表の対象は,奄美群島の諸集落(シマ)から中心都市の名瀬に移住した人びとらが組織する郷友会である。本発表は,名瀬在住者が組織する郷友会の組織的特徴と空間的な性格を明らかにすることを目的とし,とくに近年における郷友会とシマとの関係の緊密化に着目し,それが郷友会の空間的性格とどのように関連するかを明らかにする
     第二次世界大戦後,群島全域から名瀬への急激な人口流入が生じ,名瀬は各シマの出身者が集中する混住化社会の様相を呈した。郷友会は相互に孤立的だったシマの性格を反映し,シマ出身者内部の強い結束を維持した。結成当初の郷友会は,相互扶助や情報交換を目的とし,出郷者の生活支援に実質的な役割を担った。就職・住居の紹介,頼母子講による生活資金の融通や,郷友会の運営資金を寄付に依存する点に,相互扶助組織としての郷友会の性格が表れている。
     名瀬在住者の生活水準が向上した現在,出郷者の生活支援組織としての郷友会の役割は縮小した。それに代わって,出郷者とその二世・三世が自らのアイデンティティを確認する場としての郷友会の役割が重要視されるようになった。重要な郷友会行事である八月踊りや運動会は,シマの暮らしのシミュレーションである。9月の夜には名瀬のあちこちで八月踊りの輪舞が,一種の仮想空間,いわば「シマの幻影」としていっとき立ち現れる。
     しかし,だからといってシマの暮らしを知らない二世・三世にとっての郷友会組織は,単なるノスタルジーの対象ではない。郷友会組織に張り巡らされた人的ネットワークは,彼ら自身の仕事や日常生活において還元可能である。確認された郷友会数と郷友会の規模を考慮すると,相当数の名瀬市民が郷友会に加入していると推定され,郷友会は人的ネットワークを形成するための資源と位置づけることができる。郷友会活動の実務の中核は,名瀬および奄美の行政・経済の担い手である公務員・事業家が占めている。このことが,人的ネットワークの結節点としての郷友会の存在価値を高めている。
     次に,郷友会およびシマの行事に合同化の傾向が見られる。シマでは過疎化と高齢化が進行する一方で,郷友会では熟達のウタ者が減少し,単独での行事開催が双方において困難になりつつある。行事の合同化は,直接的には両者における人的資源の枯渇が要因である。しかし,一方でモータリゼーションと道路整備の進展によってシマへの近接性が向上したことが,シマ住民と名瀬在住者の接触の機会を増加させ,合同行事の開催を実現させた。行事の合同化が名瀬に近いシマとの間で見られることが,これを裏づける。
     交通条件の改善と高齢化は,一方では郷友会活動を沈滞させる要素である。事実,高齢化によって運動会を取りやめた郷友会もある。シマへの近接性が改善された結果,郷友会の存在意義が稀薄になったとの指摘もある。しかし郷友会とシマの関係は以前に比べて緊密化し,両者間には相互補完的な関係が形成された。
     郷友会結成当初,名瀬―シマ間の接触はきわめて限定的であったと考えられる。名瀬在住者の郷友会とシマの集落組織はそれぞれ個別の空間的領域をもち,両者は分離していた。本土復帰以降,名瀬の郷友会組織が充実する一方,シマでは過疎化と高齢化にともなう集落組織の縮小が見られた。近接性が改善された結果,両者の接触が頻繁にくり返され,組織的な行事の開催にまで発展した。シマ・郷友会双方の人的資源の不足を相互に補完する関係が形成され,元来組織的な関係がなかった両者間に密接な結合が生まれた。名瀬とシマのこのような関係は距離によって規定され,名瀬に近接したシマほど郷友会との関係が密接である。シマとの相互支援が可能な近接性を有している点に,名瀬在住者の郷友会の空間的特徴がある。
     シマとの結合を強化した郷友会の存在は,シマの空間的範囲の拡大である。すなわちシマの広がりが名瀬にまで及んだことを意味する。元来孤立的であったシマは,郷友会組織と結びつくことで名瀬を自らの領域内に収めた。郷友会内部の行動規範はシマと基本的には同質であり,郷友会内部の人的ネットワークはシマのそれを基盤としている。したがって,郷友会ネットワークに依存することで,シマの住民は「異境」である名瀬においても,シマと同様の行動をとることが可能となる。ここに広域的なシマ空間が形成され,名瀬は多くのシマ空間が重層する混住社会となった。
  • 春山 成子
    セッションID: S601
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    東南アジアの河川はモンスーンの変動が洪水の強弱を変化させている。災害か恵みの水かの視点の変化は洪水を被災する地域の人間の活動のあり方に影響を受ける。巨大メコンデルタにおける洪水は災害ではなく農業利用の水としてとらえられるが土地利用変化の中で、伝統的な洪水との付き合いたが変化しつつある。減災にむけた防災には構造物建設と非構造物建設があるが、地域によって考え方を変えるべきである。
  • 吉谷 純一
    セッションID: S602
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    ユネスコ後援のICHARMの課題のひとつは、成功した水問題解決の技術を途上国に移転することである。しかし、水問題は非常に地域的・個別的である、その解決には流域固有の自然社会条件に応じた解決が必要となる。この課題について、過去経験した技術移転の障害の事例として水文解析モデルと治水計画の移転事例を紹介し、自然社会条件を考慮した技術移転方法を洪水ハザードマップの作成と利用を例に提案する。
  • 森島 済
    セッションID: S603
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー

    1. はじめに
     水災害による影響の地域的評価とそれに対する適応戦略が、アジア地域においける人口増加と地球規模の気候変化に伴いより重要な課題となってきている.アジアの熱帯モンスーン地域は,特に明瞭な雨季,乾季を持ち,また,熱帯低気圧や台風の影響を受けるため,水災害は洪水や旱魃として現れることが多い。
    世界に異常な気候状況をもたらすエルニーニョ/南方振動(ENSO)イベントは、これらの水災害と強く結びついた現象である.本発表では、最近の気候変化と熱帯モンスーンアジアの水災害との関係を考察し,特に農業生産への影響について検討する.

    2. 熱帯モンスーンアジアにおいる近年の気候変動の特徴
     IPCCレポート(2007)によれば,熱帯モンスーンアジアにおける最近の気候変動の特徴は以下のとおりである.
    a) 激しい雨、洪水と旱魃
     降水量と降水強度は,地域によって異なる傾向を示している.インドネシア南部では降水量の減少傾向が認められるのに対し,北部では増加傾向にある.一方,インドの北西部地域はここ数十年の間,ますます極端な降水量を経験するようになっているが,東部沿岸地域は降水日数の減少に見舞われている.バングラデシュでは,継続的な降水量増加が洪水の頻発に結びついている。また,フィリピンでは年降水量と降水日が増加傾向を示し,ヴェトナムでは,極端な降水の発生増加が洪水の原因となっている.
     これら南アジアや東南アジアにおいては,エルニーニョの発生に対応して,旱魃が起こっている.
    b)サイクロンと台風
     西部熱帯太平洋の熱帯低気圧の発生数及び強さは、最近数十年の間で増加してきており,フィリピンでは、1990から2003年まで影響を与える熱帯低気圧の数が増加した。ベンガル湾とアラビア海では、1970年以降発生数に減少の傾向が認められるものの、強いものとなっている。2008年のミャンマーにおける熱帯性低気圧による洪水は、我々の記憶に新しい。
    3. 気候変化に関する米生産の脆弱性:フィリピンを事例として
     フィリピンはENSOの影響を強く受ける国であり、特に1997年から始まったエルニーニョによる干魃と翌年急速に発達したラニーニャに伴う洪水は,米生産量を大きく減少させた(図1).
  • 横井 覚
    セッションID: S604
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    ミャンマーでは,季節内変動やサイクロンなどの大規模大気擾乱によりもたらされる豪雨の影響で, 洪水や鉄砲水といった災害が毎年のように発生している。本発表では,主に気象学的視点から,過去 数十年の地点降水量データの解析をふまえつつ,このような擾乱に起因する豪雨の気候学的特性に ついて論ずる。また,2008年5月にデルタ地域に甚大な被害をもたらしたサイクロンNargisについての 一連の研究についても触れる。
  • チャルチャイ タナブット
    セッションID: S605
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    南部タイでは河川災害がよく発生しているが、これは気候変化によって災害規模が異なっている。タイでは河川災害を減災にむけて、構造物を建設するのみならず、自然資源を生かした災害管理の手法としてミチゲーションを取るようになってきている。
  • オスティ ラビンドラ, 栗林 大輔, 田中 茂信
    セッションID: S606
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    東南アジア諸国においては、現在、水害危険地帯の脆弱性は高まり、水害リスクは増大傾向にある。リスクマネジメントでは、通常行われているような流出制御、土地利用管理などの工学的手法は完全な解決ではない。多くの事例で、地域社会による被害軽減行動が、人命や財産の被害軽減にとり、もっとも重要であると分析されている。 洪水ハザードマップ(FHM)は、過去の浸水実績、浸水予測、避難ルートや避難所などの情報を住民に伝えることができる、そして、緊急対応や長期的視点からの水害リスクマネジメントに欠かせない道具でもある。水災害・リスクマネジメント国際センターは、訓練や東南アジア諸国(タイ、ラオス、カンボジア、ヴェトナム、マレーシア、インドネシア、中国、フィリピン)におけるFHMの実践を通して、FHMに関する能力開発に取り組んでいる。 本報告では、FHMに関する最近の進展、現在の課題、将来の課題や各国における実態について述べる。FHMの状況と関係する課題を調査し、各国における需要アセスメントを実施するために、センター内の訓練プログラムや地域におけるフォローアップセミナー、そして現地調査が3年計画で実施された。 多くの国々で洪水ハザードマップは開発計画に取り込まれているが、洪水ハザードマップの利用を推進するためにはまだ残された課題が多い。
  • 小荒井 衛
    セッションID: S607
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    減災には、その地域の災害ポテンシャルを正確に認知しておく必要性がある。そのために、GISやリモートセンシング等の新技術を活用して、公開されている地理空間情報を使って地域の災害脆弱性を評価する手法、衛星画像により迅速に災害状況を把握する手法について検討した。 地形分類データ、地震の建物等被害線図を組み合わせてGIS解析を行った。その結果、地形分類と軟弱地盤の厚さが地震建物被害との関連性が高いことが定量的に明らかになった。中越沖地震の地震被害調査結果から、砂丘の縁や砂丘の砂がのる微高地で被害が顕著で、地形分類体系よりも細かい地形発達過程の違いが被害の大小に影響を与えていることが分かった。 地形分類データ、ハザードマップの想定被害域とDEMを組み合わせてGIS解析を行った。その結果、地形分類とハザードマップの想定災害域との対応が良いこと、50mDEMは大局的な地形分類と対応が良く、10mDEMは微地形を反映した地形単位が抽出可能であることが分かった。航空レーザによる5mDEMを活用すると、微地形と水害実績との対応が極めて良いことが認識できる。 衛星画像については、大規模な海外での災害事例を対象に、様々な分解能の光学衛星画像を用いて災害状況の判読を行い、その結果を災害判読カードに整理して各画像の災害判読特性をとりまとめた。また、夜間や荒天時にも計測可能な合成開口レーザについても、散乱強度画像の変化から洪水による冠水域の抽出が容易に可能である。
  • 佐藤 照子
    セッションID: S608
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     日本においては、政府主導の堤防やダムなどの大規模治水構造物に重点を用いた治水政策が100年の余続いた。この政策は水害被害を急減させ、日本を反映へと導いた。  しかし、一方で大規模治水構造物に重点を置いた治水政策は、経済発展に伴って変化する社会の状況と相まって、ハザードの性質を変え、氾濫原の被害ポテンシャルを増大させ、地域社会の防災力を脆弱化させるなど様々な社会的な影響をもたらし、その結果、発生頻度は低いが破堤により発生した大規模洪水氾濫が巨大被害に結びつくリスクを生み出した。  この大規模治水構造物のハザードコントロール機能が停止した低頻度巨大水害のリスクの軽減には、ハザードや被害ポテンシャルを軽減する対策から発生した被害を軽減する策まで、多様な対策を,できるだけ効率的に組み合わせることが重要となる。この時には、住民の水害危険度の認識を高めることや、地域社会の力を防災力向上に役立てることが不可欠である。  日本における水害軽減の経験は、同じアジアモンスーン地域の国々、しかも、これから経済成長をしようとしている国々にと、共有できるのではないだろうか。
  • なし
    内田 和子
    セッションID: S609
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     2000年9月の東海豪雨では約8000億円の被害を生じた。典型的な都市型水害とみなされるこの災害の原因は集中豪雨であるが、被害を拡大した要因として、被災地域の住民が地域の地形条件と土地開発の歴史、人々の治水への対応の歴史を十分に理解していなかった点が指摘できる。
     破堤した新川は1787年に開削された人工の排水幹線であり、庄内川の放水路でもある。庄内川からの分派点には洗堰が設けられ、分派後の庄内川には遊水地も設置され、当時の名古屋城下を守るために何重もの治水策が講じられていた。破堤地点は木曽川系統の河川の旧河道と新川とが交差する付近であり、地形条件からみた破堤の危険箇所である。また、庄内川下流部の越水地点は、近世の干拓地とデルタとの境界付近の勾配遷移点であって、木曽川系統の河川が形成した大きな自然堤防により閉塞されている。
     この災害で大きな被害を受けたもう1つの地点は、名古屋市東部の天白川下流部である。この地点は東西を丘陵と台地に閉ざされ、南部も砂州に閉塞された、古代には入り江であった低湿地であるため、湛水しやすい。越水地点は天白川より勾配の大きい支川・藤川が合流する付近で、しばしばの氾濫により天白川が大きな自然堤防を形成している。しかも、天井川である天白川はこの付近でもっとも緩い勾配となっている。
     このように、東海豪雨で大きな被害を受けた地点は、地形条件や土地開発の歴史からみて治水上、警戒を要する地点であった。当然、古くからの居住者や為政者は様々な治水対策を講じてきた。しかし現代では、被災地に多くの人々が居住し、人々の心から治水上の警戒意識が薄れていった。以上のように、現代の日本の都市域においても、洪水と地形条件や土地開発の歴史との間には密接な関連がみられ、それらを知ることは減災に寄与できる。
     本シンポジウムで対象とする熱帯河川流域は、一般的に日本と比べて河川改修の進捗は小さい上に、気温や降水量などの水文条件は日本より災害を招きやすい条件にあると思われる。こうした地域において、地形条件や水文条件の解明は減災を考える上で、いっそうの重要度を増し、そのような研究を行う地理学者の役割は大きいため、熱帯河川流域における地理学者の社会的貢献も大きいと考える。
  • 開発行為に伴うサンゴ礁浅海域の変化
    長谷川 均
    セッションID: S701
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
    開発行為に伴うサンゴ礁浅海域の変化をおもに石垣島白保サンゴ礁と名蔵湾アンパル干潟の事例をもとに紹介する。あわせて、沖縄本島の泡瀬干潟、 大浦湾辺野古で進む開発行為が地域の自然や環境に与える影響を考えたい。また、大正期以降の沖縄県の土地利用変化についても紹介したい。
  • 中井 達郎
    セッションID: S702
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/11
    会議録・要旨集 フリー
     沖縄のサンゴ礁では、古来さまざまな人間活動が行われてきた。それは、サンゴ礁の中でも、外洋に面した礁斜面よりむしろ、陸側に位置するイノウ(礁池)を含む礁原(以下「イノウ」と記す)を中心的な活動の場としてきた。「イノウ」は干潮時に干出する部分も多くあり、その際は、徒歩で活動できる場が広がる。サンゴ礁地形がこのような浅場を用意し、人々が容易に集落からアプローチすることを可能とした。アプローチが容易な「イノウ」では、伝統的に、集落の女性、子供を含む一般の人々が活動の主体となってきた。例えば「浜下り」は、女性が主体の祭事的活動である。また、日常的に行われてきたマイナー・サブシスタンス的漁労活動では男性だけでなく女性が大きな役割を果たしてきた。このような漁労活動を通じて「イノウ」を「海の畑」と呼び、陸上の延長として捉えてきた。そこにはサンゴ礁に対する個々人の価値付けが見て取れる。社会的にも集落内の構成要素のひとつとする位置づけもなされてきた。
     このような伝統的な活動は、特定のプロ集団ではなく、一般の人々が主体となる生活の一部としての祭事活動であり、生業活動である。その中で、これらの活動には、地域の人々にとっての「あそび」的要素、レクリエーション的要素も含まれていたと思われる。例えば、「浜下り」は、春の大潮時の採集活動も含んだ楽しみな年中行事として現代まで引き継がれている。この要素は時代が下るにしたがって増大してきているようにみえる。また同時に変質も感じる。かつては「あそび」的要素は祭事的要素や生業的要素と一体となって、「イノウ」という場の価値付けがなされ、その結果、一定の利用ルールが共有されていた。集落の前面の「イノウ」はそこにすむ集落の人々に限定されていた。しかし、時代が下るにつれて、「イノウ」の価値付けとその利用ルールが変化してきているように思われる。
     現代の沖縄社会で、海での「あそび」の中心はビーチ・パーティーのようである。おそらくアメリカ文化がもたらしたものであろう。そこには上記のような伝統的な「あそび」の流れをどこまで引き継いでいるのだろうか。少なくとも、バーベキューの主役は肉であり、「イノウ」とは無縁である。ダイビングも盛んとなり、沖縄の観光にとって大きな役割を果たすようになった。その中心はスキューバ・ダイビングである。スキューバ・ダイビングは、ある程度以上の水深がなければその醍醐味を味わうことは困難である。「イノウ」とは無縁である。また、地域住民が日常的に楽しむ方法とはなっていないようである。一方で、沖縄在住の人々個人のブログやホームページをみると、沖縄の醍醐味として、豊かな海の自然、特に魚介類の採集の楽しさが語られている文章を散見する。しかし、資源の枯渇は著しい。埋立によって集落前面の「イノウ」が失われ、残された健全な「イノウ」に人々は集中する。
    豊かな沖縄のサンゴ礁を維持し、持続可能な利用の基盤には、地域住民によるサンゴ礁への適正な価値付けが必要である。このような議論を進めるにあたって、サンゴ礁における「イノウ」を再認識することの重要性と、「あそび」場という視点からの再整理が必要だと感じる。
feedback
Top