日本地理学会発表要旨集
2007年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の232件中51~100を表示しています
  • 佐賀市を例として
    石丸 哲史
    セッションID: 430
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     本研究では,知識集約的ビジネスサービス業である経営コンサルタント業に焦点を当て,地方県庁所在都市佐賀市を対象として,わが国の地方都市の経営コンサルタント業の業務活動と地方サービス市場の需給構造の特徴を明らかにする。
     佐賀市における経営コンサルタント企業は,ほとんどが個人経営かつ零細規模であり,経営コンサルティングのみ行っているというよりは,他のビジネスサービス業務の一環として経営に関するコンサルティング業務も兼ねているといった方がよい。
     地方都市に大手コンサルティングファームが立地する必要性がないのは,コンサルティングは,ある意味で情報の伝達であり,経営者とのコンタクトは対面接触ないし通信手段によって行われるが,担当者が相手先に出向くのが普通であり,顧客に近接してオフィスを立地させる必要性はない。したがって,全国展開の大手コンサルティングファームは佐賀市にブランチを立地させる必要性に乏しいといえる。
     一方,コンサルティング需要の低迷は,結果として地方における経営コンサルタント業の成立基盤に影響を与え,「食べていけない」ので,経営コンサルタント業の活動は停滞するものと思われる。
  • 王 岱
    セッションID: 501
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I 研究の目的
     中国における1978年の改革開放以降,政府による農業生産の統制が次第に緩和され,農産物の自由売買を制限する専売制が次々に廃止されてきた.綿花や油料作物など基本消費財の原料となる農産物や食糧は,国による契約買付けが実施されていた.それに対し,青果物など一部の商品作物の流通体制は,より早い時期から直接的な「計画統制」から「市場調節」へと段階的に移行し,大都市において多数の卸売市場が出現した.生薬に対する専売制は1984年以降廃止され,生産農家・製薬企業および卸売業者による自由な取引を行う場として,「生薬専業市場」(以下,専業市場と略す)が次々に形成された.本研究は,中国における生薬流通制度の転換,生薬需要の地域格差,さらに専業市場の分布特徴を分析し,生薬流通における専業市場の役割とその変容をもたらす要因を明らかにする.

    II 生薬需要の地域格差と専業市場の変容
     中国の医薬品製造業にとって、生薬は重要な生産原料である.医薬品製造業の発展により,生薬に対する需要は急速に増大してきた.東部沿海地域は医薬品製造業の集積地であり,生薬の主要生産地である中部地域に対し消費地域にあたる.生産地域の生薬は,主に専業市場を経由し消費地域に転送されてきた.消費地域に位置する専業市場にはより大量の物資が集積し,活発な取引活動が実現できた.2001年のWTO加盟をうけ,中国政府は市場の開放,許認可の透明性,ダブルスタンダードの是正などを推進するため,法規の新設・改正を実施してきた.品質の向上が求められた製薬企業は安定・安価・安全な原料供給を確保するため,専業市場を利用せず,自ら生産基地を建設したり,直接に産地の生産農家と供給契約を締結したりするようになった.さらに,専業市場における生薬の取引を支えてきた卸売業者の多くは,「Good Supply Practice」という認定制度の実施により廃業に追い込まれた.それをうけ,専業市場における取引量は激減した.

    III 地域別における生薬専業市場の役割
     2006年現在,中国国内において,中央政府の公認を受けた専業市場は17箇所存在する.そのうちの10箇所は薬用作物栽培が盛んである中部地域に集中し,生産農家の主要な出荷先である.また,沿海,辺境地域に位置する7箇所の専業市場は,国内における生薬流通の拠点であると同時に,国内外の生薬市場をつなぐ役割を果たしている.専業市場別の年間取引額をみると,医薬品製造業が最も集中する華北地方と長江下流デルタに位置する「東方薬城」(河北省安国市)と「亳州市中薬材交易市場」(安徽省亳州市)が2大市場である.

    IV まとめ
     中国における生薬流通制度の転換は専売制から流通市場の開放,さらに品質管理の強化へと移行してきた.豊富な生薬資源は専業市場の形成を促進し,地域間における生薬需要の格差は市場の発展格差を生み出した.生薬の生産地や消費地,および沿海地域に位置する専業市場は,生薬の流通過程において異なる役割を果たしている.
  • 立地・作物・認証・流通に着目して
    河本 大地
    セッションID: 502
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I はじめに
     本研究の目的は,日本における有機農業のこれまでの展開をふまえたうえで,有機農産物産地の分布と類型を明らかにすることである。その際,既往の研究や統計データを用いて,立地・作物・認証・流通に着目した分析・考察を行う。

    II 日本における有機農業の展開と現状
     日本では,1970年代初頭から,フードシステムのグローバル化・産業化や農業における生産主義を背景に,それらのひずみである,食物の安全性低下や環境問題の深刻化,農村地域の疲弊などに問題意識を抱いた少数の農業者・消費者・学者等が,社会運動として有機農業を実施しはじめた。そして,日本有機農業研究会を中心に,生産者と消費者との間の信頼関係を重視する「産消提携」を軸とした有機農業運動が展開され,それを「原型」として徐々に有機農産物の専門流通事業体,生協等を経由する流通体系が発展してきた。また,農村地域の構造的問題を背景に,農協や地方自治体が地域振興策の一環として有機農業を推進する事例も,同じ時期から増えてきた。
     一方,農林水産省は,こうした有機農業運動の経緯は重視せず,1992年から,減農薬・減化学肥料などの技術を中心とする環境保全型農業の推進を行うこととした。同時に,「有機」食品表示の氾濫や国際的な表示・規制の動きの影響を受けて,有機農産物等の基準・認証制度の導入を急ぎ,2001年に有機JAS検査認証制度を発足させた。結果として,有機農業を実施する農家に対する政策は表示規制に偏向し,他方で経営重視の事業体による有機農業の導入や「有機ビジネス」が成長しているのが現状である。2001年以降は,有機食品の輸入急増も顕著である。

    III 有機農産物産地の分布と有機農産物流通
     上記のように有機農業の推進策が欠如しているため,日本における有機農業の展開は他の先進工業国と比較して進んでいるとは言い難い。しかし,国内の有機農産物産地の分布は一様ではない。本研究では,2000年の世界農林業センサスで調査された「環境保全型農業取組み農家」項目(無農薬・減農薬・無化学肥料・減化学肥料・堆肥使用)と,農林水産省の消費・安全局の表示・規格課が公表している2005年の「有機農産物及び有機農産物加工食品の認定事業者一覧」を用いて有機農産物産地を特定し,2000年時点の市区町村単位で各産地の特徴を分析した。
     その結果,環境保全型農業の実施が盛んな地域と,有機農業のそれとでは,分布が大きく異なっていることが明らかになった。また,有機農産物産地でも,有機JAS認証の取得が多い(認証型産地)か少ない(非認証型産地)かで,分布様式が異なることも判明した。これらの産地は,主要な有機栽培作目と,農業地域特性の2点により,都市の野菜産地,平地の野菜・果実産地,平地の米産地,中山間の野菜・果実産地,中山間の米産地,茶産地,当初・沿海の果実等産地の7つに類型化された。
     さらに,各産地の主要な有機農産物出荷先を調査し,有機農産物流通の空間的パターンの概況を明らかにした。
     以上の成果は,下記の5点にまとめられる。
     1.東京近郊の市街地を中心に,地場流通を行う非認証型の野菜産地が分布している。
     2.平地の野菜・米・果実産地は東日本を中心に分散分布しており,生産者グループを組織し認証型の産地を形成している事例が多い。出荷先は主として東京圏である。
     3.中山間の野菜・米・果実産地は,西日本を中心に分散分布しており,農協や自治体が有機農業を推進してきた事例や,産消提携運動によって形成された事例が多い。出荷先は近隣の都市の場合が多く,生協への出荷を行う産地は認証取得に積極的である。
     4.茶の有機農産物産地は,主に山間部にあり,既存の茶産地が地域農業振興の一環として有機農法を導入している場合が多い。徐々に認証取得が進んでおり,出荷先は主として東京である。
     5.島嶼・沿海の果実等の産地は,愛媛県の柑橘類産地と,南西諸島などの亜熱帯作物の産地の,いずれも周辺的な地域からなり,出荷先や認証取得状況は多様である。

    IV まとめ
     以上で検討したように,各有機農産物産地は,所与の地域的条件に適合する形で,日本全体における有機農業の展開への対応を行っている。その展開を強く規定してきたのは,産消提携を中心とした有機農業運動,地域振興策としての有機農業の推進,基準認証制度の3つであった。
  • 松尾 忠直
    セッションID: 503
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1. はじめに
     1990年代に輸入が急増した中国産生シイタケは、国内消費量の約40%(2000年)を占めるまでに達した。2000年のセーフガード暫定発動以降、中国からの生シイタケ輸入量は減少したが、なお約30%(2004年)を占める状況にある。国内の生シイタケ生産者は、依然として低価格の中国産生シイタケとの激しい価格競争下におかれている。また、生シイタケは他のキノコ類との競争下にもある。それは価格だけでなく、食文化の変化などによる他のキノコの消費量増加の影響が大きい。
     本発表では、このような状況に国内の生シイタケ生産地が、どのように対応し、市場での競争力を維持しようとしているのか、また、その対応がどういった経緯でなされてきたのかを、生シイタケ生産の展開過程と関連させて明らかにする。
     対象地域は群馬県富岡市とする。群馬県の生シイタケ生産は、中国産生シイタケの輸入が急増する以前から盛んで、2003年まで都道府県別生産量が1位であった。富岡市は、群馬県の中でも生シイタケ生産が特に盛んな地域で、その生産は主に個人の生産者によってなされている。
    2. 生シイタケ生産の展開
     群馬県における最初のシイタケ生産は、富岡市で始まったとされる(富岡市史 1988)。1914(大正3)年、新潟県中頚城郡吉川町よりシイタケ原木を入手した岩井氏(富岡市高瀬)は、シイタケの生産に成功し、わずかながら東京へ生シイタケを出荷していた。また同氏は市内で神社の祭りが行われる際、シイタケ原木を境内で販売していた。これによって市内の農家はシイタケ原木を入手することが出来るようになり、同時にシイタケの栽培技術も広まった。その後、生シイタケ生産は市内全域に広まりをみせたが、特に一ノ宮・丹生・額部の3地区では高瀬からホダ木を入手していた(椎茸のあゆみ 1978)。生産開始は最も早い高瀬地区で1914年に、最も遅い吉田地区では1931年であった。このように、富岡市の中で最も生産開始が早かった高瀬地区ではあるが、昭和40年代をピークに生産者は減少を続け、現在ではほとんど残っていない。
     1977(昭和52)年の同市のシイタケ生産者数は457戸、特に丹生地区(109戸)・額部地区(103戸)の生産者数が飛びぬけて多い。同市の生産者数は2000年に117戸、2006年に77戸と極端な減少を示した。特に額部地区以外の地区では、生産者の減少が顕著であった。2006年の額部地区の生産者数は43名で、市内の生産者数の半数以上を占めている。
    3. 栽培方法の変化
     1990年代に入ると生シイタケ栽培方法の主体が、原木栽培から菌床栽培へ移行するという全国的な変化がみられる。生シイタケの栽培方法別生産割合の推移をみると、1994年には原木栽培74.4%・菌床栽培25.6%、2004年には原木栽培31.9%・菌床栽培68.1%で、そのシェアは逆転している。
     このような栽培方法の変化は全国的にみられるが、富岡市においてのその変化は主に2003年以降にみられた。同市における生産量と栽培方法別生産割合の変化をみると、2002年は917.2t(原木栽培95%・菌床栽培5%)、2005年は821.7t(原木栽培56.7%・菌床栽培43.3%)と生産量が減少する一方で、菌床栽培による生産が大幅に増加した。菌床栽培は原木栽培に比べ省力化が可能で、品質の高い生シイタケの収穫量が多い。そのため、同市の生産者の中でも生産意欲が高い、特に50代の生産者を中心に導入が進んだ。
    4. 流通構造
     富岡市で生産された生シイタケは、地区ごとに1つまたは2つ存在する出荷組合を通して関東地方の青果市場へ出荷されていた。1990年代以降の輸入生シイタケ増加と生シイタケ販売価格の低下という全国的な動きは、同市における各出荷組合の生産者の減少と生産量の減少による市場での地位低下という変化と重なり、農協の系統出荷への移行を促した。
     1997年、農協に生シイタケの自動包装機が導入されたのを契機として、従前の出荷組合は農協の出荷部会へと統合された。農協は大手スーパーへの直販ルートを確保し、価格の維持を図っている。また、生産者の立場からは農協の生シイタケ自動包装機の導入により、包装に費やす作業時間が必要なくなり生産性が向上した。
    5. まとめ
     富岡市における生シイタケ生産は県内で最も早い時期に開始され、それが市内全域へ広まり1960~1970年代には、国内有数の産地となった。しかし、その後は生産者の高齢化や後継者不足などによって年々生産者数は減少し、産地としての基盤は弱体化していった。さらに、輸入生シイタケの増加と生シイタケ販売価格の低下は、各出荷組合から農協による系統出荷への移行と、原木から菌床への栽培方法の転換という産地内における2つの大きな変化を促した。

    甘楽富岡地区椎茸生産連絡協議会 1978.『椎茸のあゆみ』.
    富岡市史編さん委員会 1988. 『富岡市史近代・現代資料編(上)』.
  • 新井 祥穂, 大呂 興平, 古関 喜之, 永田 淳嗣
    セッションID: 504
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     製造業等と比較し,農業「生産」分野における国際分業は,その広がりが小さいと言える.しかし「リレー栽培」と呼ばれる国際分業の一形態はこれまでにも存在しており,日本のような生産コストの高い地域における農業の新しい選択肢として,将来はより多くの農業部門で導入を検討されると予想され,その特色や実現可能性を問うことの意味は大きい.
     コチョウランの生産は,生育段階別の国際分業が早くから進展したことで知られている.台湾における同部門は,国際分業体制の一部を担う形で発展し,近年はさらなる量的拡大をみせている.その生産者は,日本ばかりでなくアメリカ,韓国,最近ではヨーロッパ,中国等の生産者と連携している.本報告ではコチョウラン生産の国際分業体制とそれをめぐる近年の動向を明らかにし,その中で台湾の生産者がどのような経営進化を遂げてきたかに洞察を加える.これらを通じて,農業生産における国際分業論への含意を引き出すとともに,台湾における同部門の成長に関する精確な見通しを得ることを目的とする.

    2.調査の概要
     コチョウランに関する統計・文書資料は,台湾においても十分整備が進んでいるとはいえないが,可能な限り収集した.また台湾・日本の生産者に対する聞き取りは, 2004年11月・2006年7月に集中的に実施した.この聞き取りで,台湾の主要な生産者のほぼ全て,ならびに各類型の生産者に関して,その経営戦略や技術の動態を明らかにすると同時に,生産過程における複雑なネットワークに洞察を加えることができた.

    3.調査結果の概要
     コチョウラン生産の国際分業は,台湾側の国営企業や大企業,中小規模の農家,ブローカー,輸出先側の生産者やブローカーなど多様な主体が関わり,生育段階の異なる各種の苗をスポット取引や委託生産など様々な方法で取引しており,きわめて複雑で重層的なネットワークが形成されていることが明らかになった.こうした分業体制の背景には,基本的にはランの生育や開花が,微細な気候や管理の差に影響を受けることや,生産コストの格差から分業に生じることが考えられる.しかし国際分業体制でよりよい成果を得るには,自らの生産を取り巻く環境条件や栽培技術と相手側との「擦り合わせ」が決定的に重要であり,両者がより良い「擦り合わせ」を求める過程で複雑なネットワークが生成されたと理解される.
     さらに近年,ヨーロッパや中国など新たな海外市場が開拓されたことにより,台湾の生産者は,需要量の急激な増大や要求される品質内容の劇的変化を経験した.彼らは,照準を合わせる市場や生育段階を絞り込む方向で経営規模を拡大させており,その方向性の決定にあたっては,個々の生産者を取り巻く環境条件や生産者自身の技術蓄積が強く影響している.
     製造業における国際分業と比較し,農業部門においては,環境条件や属人的技術に大きく規定された複雑なネットワークが生成される点が特徴的だと考えられる.その内容を精確に理解するは,製造業を念頭に組み立てられた従来の国際分業論では不十分であり,農業生産における新たな国際分業論を構想する必要があるだろう.

  • 高知県佐川町と伊野町事例
    篠原 重則
    セッションID: 505
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    高知市は人口と事業所の集中が著しい。したがって農林水産物の市場としては、県内で隔絶した存在であり、地方の農山村から農産物の直売店が数多く集中している。本日の報告は、高知市に農産物の直売店を出店している佐川町と伊野町に焦点を当てて、母村と高知県の直売店との関係を究明する。
  • 星 政臣
    セッションID: 506
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     近年,日本においてグリーン・ツーリズムと称される観光が拡大しつつある.しかし,それは西欧においてのルーラル・ツーリズムとは異なっている.農林水産省によるとグリーン・ツーリズムは「緑豊かな農村地域において,その自然,文化,人々との交流を楽しむ,滞在型の余暇活動」とされている.そして,その受け入れ手として整備されたのが農林漁業体験施設,すなわち,農林漁業体験民宿および日帰型体験交流施設である.このような状況のなかで,日本のグリーン・ツーリズムに関して論じた研究は数多くみられるが,これらの研究は受け入れ側に焦点があり,その根底には「農家民宿,農林漁業体験ベースの都市と農村の交流」(横山 1998)といった考え方が見受けられ,これが今日の日本におけるグリーン・ツーリズムの一般的な定義であるとされている.
     その一方で,都市住民の農村観光に対する意識を扱った研究もみられ,これらは都市住民が農村観光に対して農林漁業体験に限らず幅広い興味・関心を示していると述べている.以上のことから,日本のグリーン・ツーリズムの現状を捉えるためには,農林漁業体験のみでなく,農村で行われている観光について包括的に考える必要があり,とくに農村観光者の属性,行動,目的を研究する必要があると考える.
     本研究では,新潟県南魚沼地域において農林漁業体験観光を行う観光者の属性や行動,目的を分析することにより,当地域の観光における農林漁業体験観光の位置づけを明らかにすることを目的とした.

    2.研究方法
     2006年4月から11月にかけて,新潟県南魚沼地域の農林漁業体験施設において農林漁業体験観光を行う観光者に対して,属性・行動・目的などについてのアンケート調査および聞き取り調査を行った.その結果について特に1)利用施設による違い,2)季節性の2つの視点から詳細に分析を行った.

    3.結果と考察
     まず,農林漁業体験民宿利用者について,春季および秋季では15歳以下の子どもを含む家族旅行が多く,旅行の目的が農林業体験とそれに伴う地元の人々との交流であるため,農林業体験以外の行動はあまりみられなかった.また,今後の農村観光に対する考え方としては農村観光に非常に積極的であり,その重点要素が今回行ったような農林業体験や地元の人との交流であるため,今後も同じ民宿を利用したいと考えているようである.一方,夏季については,同伴者は春季および秋季と同様で15歳以下の子供を含む家族連れの観光者が多かった.旅行の目的は農林業体験とアウトドア・レクリエーションであり,それら以外の行動というのはあまりみられなかった.そして,春季および秋季に比べると地元の人々との交流を目的とする観光者は少なかった.また,今後の農村観光に対する考え方として,農林漁業体験民宿利用者は農村観光に積極的であるが,その重点要素としては農林業体験とアウトドア・レクリエーションであり,地元の人との交流は低くなっているため,今後も同じ民宿を利用したいと考えている観光者は春季および秋季よりも若干少なかった.
     日帰り体験交流施設利用者については季節差があまりみられず,総じて旅行の最大の目的は温泉などであり,農林業体験はあくまで付随的な目的であった.そして,農林業体験以外にも様々な行動が組み合わされて行われていた.また,今後の農村観光に対する考え方としては農村観光には積極的であるものの,その主な目的が温泉などであるため,日帰り体験交流施設への執着はあまりみられなかった.なお,旅行の同伴者ついては季節差がみられ,夏季には15歳以下の子どもを含む家族連れが大半であったが,春季および秋季では気の合う友人や学校・職場関係者同士のグループ旅行の割合が多かった.

    文献
    横山秀司 1998. わが国におけるグリーンツーリズムの展開とその課題―ヨーロッパとの比較検討―.商経論叢(九州産業大学) 39: 81-97.
  • 東京都練馬区を事例として
    永井 伸昌
    セッションID: 507
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1 研究目的と方法
     日本において市民農園は,1960年代後半から主に都心周辺を中心として展開していった.その背景として,都市化による緑地の減少や共同住宅で庭を持たない世帯の増加,農家の兼業化や高齢化によって増加している遊休農地の利活用策として普及し始め,現在においても市民農園の設置数は増加傾向にある.
     本報告は,市民農園が最も多く立地する東京都練馬区を事例として,区の農園事業への取り組みと展開,さらに需要(利用者)と供給(地権者)の双方への聞き取りやアンケート調査の結果から市民農園の意義を明らかにする.
    2 関東地方における市民農園の展開
     まず,農林水産省ホームページから入手できる1971年から1999年までの市民農園の所在地と開設年次のデータを用いて,関東地方における市民農園の展開について検証する(図1).関東地方における市民農園の展開に着目すると,都心から10~30kmの地域において同心円状に最も分布し,さらに地方都市,鉄道沿線の地域に展開していった.すなわち都市化の進展とともに市民農園も展開したことがわかる.また,市民農園が1990年以降急激に増加した理由としては, 1989年の「特定農地貸付法」,1990年の「市民農園整備促進法」といった法制度の確立があげられる.
    3 練馬区における市民農園の供給
     練馬区においても,1973年に始まった「区民農園」を中心として農園が展開してきたが,上記の法制度の確立などを契機として1992年には1区画あたりの面積が広く,クラブハウスが付属する「区立市民農園」が設置された.さらに,1996年には農家が開設し管理運営を行う「農業体験農園」といった新たな形態の市民農園も設置されるようになった.
     農園用地を所有する都市農家の多くは,農業従事者が少なく駐車場やアパートなど不動産経営を行う兼業農家である.このような農家において,農地が維持される要因は「相続の際に自由に処分できる」といった消極的要因もあるものの,「農業に生きがいがある」「先祖の農地を守り継承する」「開発が嫌い」「地域の環境を良くする」といった積極的要因が主にあげられる.農地として維持管理が容易な上に,固定資産税が無料になる区民農園や区立市民農園はこのような農家にとって最適だったのである.
     一方で,体験農園を開設する農家は,農業従事者が多く,経営耕地面積も比較的大きい.体験農園では農家が農作業の方法を都市住民に指導し,都市住民は農作業を体験しながらその収穫物を購入する.体験農園は農家にとっても,都市住民と交流を行うことができ,さらに農業経営の新たな一形態として期待ができる.
    4 練馬区における市民農園の需要
     農園を利用する都市住民は60歳代以上の定年退職者や主婦が大半である.利用者の中には,週末だけ農園を訪れる人や家族で利用する30~40歳代の利用者もみられた.利用者にとっての市民農園は,農作業を行うレクリエーションや新鮮で安全な農作物供給の場となっている.このような役割のほかに,利用者同士の交流の場や子供に農業を体験させる教育の場としても活用されており,市民農園に期待される需要は多様であると考えられる.
  • 橋本 直子
    セッションID: 508
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     関東平野最大の河川である利根川は、歴史時代以降も西部から東部へと河道を移してきた。特に過去500年前、古河・関宿周辺における16世紀から17世紀前半の約100年間の河道変遷は、常陸川水系と一本化するための人工改変を伴う複雑なものだった。河道の変遷時期は、いまだ諸説があり結論をみていない。
     利根川は上流部においても河道変遷を繰り返してきた。特に酒巻・瀬戸井狭窄部以北、福川が利根川に合流する地点に設けられた中条堤は、利根川の治水の要所である。
     本報告は、1742年利根川に発生した「寛保の洪水」を事例に、利根川・荒川水系の河道変遷を考察する。
  • 荒川中流域を事例に
    磯谷 有紀
    セッションID: 509
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     近年、八ツ場ダム建設に伴う集落移転事業が注目されているが、昭和初期に荒川中流域で行われた大規模な河川改修によって移転を余儀なくされた住民がいたことや、現在でも堤外地に集落が残されていることはあまり知られていない。これまでの荒川の堤外地に関する研究では、集落の立地環境などが明らかにされてきた(池末:1988)が、居住者の生活の実態や集落移転と河川改修の関係を詳細に考察した研究例は見当たらない。そこで、本研究では荒川中流域の堤外地集落を事例に、堤外地での生活および移転の時期と移転形態の関係を、荒川の洪水と河川改修工事を通して明らかにすると同時に、荒川の河川改修が堤外地集落に与えた影響と問題点を検討することを目的とする。本研究では、荒川中流域の羽根倉橋から大芦橋に至る区域の埼玉県川越市古谷上の握津地区、さいたま市の西遊馬地区・二ツ宮地区・塚本地区、吉見町の明秋地区、鴻巣市と吉見町にまたがる古名新田地区の計6集落を対象に、堤外地での生活と堤内地への移転の実態を比較・検討する。これらの集落は、下流に位置する東京を守るための横堤が建設された区域に立地しているという点で共通する。
     堤外地での生活や洪水の実態を明らかにするために、各集落の居住者およびかつての集落居住者へインタビュー調査とアンケート調査を実施すると同時に、河川改修の詳細を知るために国土交通省荒川上流河川事務所へのインタビュー調査も行った。また、河川改修前の集落と住居の位置を復元するために、埼玉県立文書館において古地図(荒川筋平面図など)の調査も行った。 1930(昭和5)年に開始された荒川上流改修工事によって、蛇行していた荒川の流路は直線化された。直接この工事区域となった世帯は、移転補償を受けて堤内地へ移転した。しかし、工事区域にはならなかったものの、遊水地となった堤外地に取り残される形となった集落が存在した。昔から水害の多い地域であったため、この堤外地集落の住民(多くは農家)は、水害防備としての屋敷森や水塚、避難用の舟などを備えてはいたものの、工事前までは洪水と共存して生活を営んでいた。しかし、改修工事やその後の上流域においてのダム建設などにより、以前よりも洪水の被害が増大するようになったことを理由に、自ら堤内地への移転を希望するようになった。しかし、国の移転補償が年間1戸程度しか認められなかったため、自費で移転する居住者もあり、この頃の移転形態は世帯の事情などによって違いが生じた。その後、1999年8月の洪水を契機に国の移転補償費が確保されたことから、一括移転が実現した集落(握津地区など)もあった。このことから、集落の移転形態は、移転時期により大きく異なるといえる。さらに、住居の移転とその補償に対する行政や住民の取り組み方によって、移転先が広範囲に分散することとなった集落と、同地区内へ集中する集落に分類できることが確認された。また、今後も堤内地への移転は希望せず、堤外地で農業を継続すると決めている住民がいることや、横堤の上に形成された集落があることは、注目すべき点である。
     以上、本研究で明らかになった点は、以下のようにまとめられる。荒川の河川改修によって始まった堤外地に残された家屋の移転は、改修工事そのものによる移転と、工事の結果堤外地になり、洪水被害が増大したことに伴う移転との二つの要因がある。移転先は、同地区内への「集中移転」(明秋・西遊馬地区など)と、元の集落から離れた地区への「分散移転」(握津地区など)に、移転時期は、多くの住民が1~2年の短期間に移転した「一括移転」(明秋地区など)と、長期間にわたって徐々に移転が進んだ「段階的移転」(塚本地区など)に分類される。
     遊水地としての堤外地となったことで、住民の生活は脅かされ、堤内地への移転、さらには集落の解体へと進んだ。下流の都市地域を守るための公共事業として推し進められた荒川の改修工事は、中・上流域に暮らす住民の犠牲の上に成り立っているといえる。
  • 五島藩における鯨組の変遷を事例に
    末田 智樹
    セッションID: 510
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     近世日本における捕鯨業は、主として紀州、土佐、長州、西海の4つの地方において、専従されていた江戸時代最大級の漁業であった。この捕鯨業に携わっていた経営事業体は、極めて大規模なものであり、当時より「鯨組」と呼称されていた。
     本報告では、この4つの地方のなかでも複数の藩における広範囲な領域にわたって、とくに平戸藩、大村藩、唐津藩、五島藩、福岡藩、対馬藩などの海域で展開していた西海地方の捕鯨業について考察する。とくに今回は、平戸藩と並んで、捕鯨漁場が集中していた五島藩における鯨組の変遷の状況を検討することで、西海地方における捕鯨業地域の形成と、その後の地域的集中の成立過程を解明する。
     これまでの、近世捕鯨業史研究については、紀州藩の太地浦が発祥の地とされ、また近代以降も捕鯨業による繁栄の地とされ、近世における西海地方の捕鯨業の成立・発展・展開過程については、あまり注目がなれていなかった。しかし、昭和40年代から藤本隆士氏による平戸藩生月島の益冨組の研究を中心に、西海捕鯨業史の研究が積極的に進められ、いくつかの成果が生まれた。その1つが、西海捕鯨業における鯨組の変遷過程であろう。これによって、西海地方において捕鯨業地域が形成されていたことが読み取れる。そして近世後期において最終的には、平戸藩生月島の益冨組がほとんどの主要な漁場を独占することになり、日本一の鯨組組織へと成長した。
     五島藩は、近世中後期では、平戸藩と並んで有数の捕鯨漁場を擁していた。そこで、これまで西海地方でもあまり着目されなかった五島藩の捕鯨漁場における鯨組の変遷を考察した。近世中後期には、五島藩には有川、魚目、宇久島、黄島、黒瀬浦の漁場に集中するようになっていた。しかしながら、近世前期からこの五ケ所に集約されていたわけでなく、近世前期よりの五島藩内外の鯨組の変遷とともに、冬鯨(下りながら南下する鯨)と春鯨(上りながら北上する鯨)を多量に捕獲できる海域の漁場に集中していったのである。
     つまり、元禄期初期より五島藩有川浦における有川(江口)組の捕鯨業活動と、その後の宝暦期以降に唐津藩の中尾組や平戸藩の土肥組、同藩の益冨組が藩を越えて進出することによって、五島藩内のなかでも宇久島、黄島、黒瀬浦の漁場が開発されていくことで、複数の領域にまたがる好漁場となり、地域的に集中していったのである。
  • 阿伝集落と小野津集落を例として
    漆原 和子, 羽田 麻美
    セッションID: 511
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I  研究目的
     南西諸島の多くの島々には,完新世の隆起サンゴ礁段丘が海岸に沿って分布する.集落の多くはこの隆起サンゴ礁段丘に分布するが,台風時の強風や季節風に対して,サンゴ石灰岩を用いて屋敷囲いを作ってきた.本研究では,現在も石垣が残る数少ない島の1つであり,歴史的に薩摩と琉球の文化の接点であった喜界島を調査地とし,喜界島の中でも石垣が多く残存する阿伝集落と小野津集落において,1)民家の屋敷囲いとしての石垣の現状を把握し,2)防風効果について考察し,喜界島における石垣の分布や様式を明らかにすることを目的とした.

    II  地域概要
     喜界島は,南西諸島の中でも最も高い隆起率(1.8 mm/yr, Ota and Omura, 1992)で,島の周囲を取り囲むように4面の完新世海成段丘が発達している.北西の海岸に位置する小野津集落(世帯数220戸)は完新世段丘のII面(5,000~4,500 y. B. P.)とIII面(3,000~2,500 y. B. P.)の上に,南東部の阿伝集落(世帯数50戸)はII面の上を覆う砂丘上に立地している.また,喜界島では島の東側(太平洋)を通過する台風と西側(東シナ海)を通過する台風があり,台風による風向は,島のどの方位にあっても強風を受けるので,防風のための石垣を築き,さらにガジュマルやアカテツを石垣の内側に植え,防風効果を高めている.

    III  調査方法
     2003,2004年の現地調査では,石垣の分布図の作成と,簡易測量をおこない,各地域における典型的な民家の平面図と断面図を作成した.また,海岸から段丘面上の集落までの地形断面図を作成し,地形と石垣の関係を調べた.石垣を有する住民や石工の方々から,聞き取り調査もおこなった.現地調査で調べた石垣の分布や様式と,調査地における風向,風速との関係は,池治(28°19.2′N、129°55.7′E)のアメダス観測データを用いて考察した.

    IV  結果
    1.阿伝集落
     図1には,阿伝集落における海岸線からの地形断面図上に石垣や防風林の高さを示した.海側に築かれた石垣の高さは,海岸に近い民家で2.4 m~2.2 m,集落の中心で1.6 m前後,最も内側で1m前後である.すなわち,強い防風効果が必要とされる海岸付近では石垣の高さは高く,内陸では風が弱まるため低い.また,海岸に沿う地域では,石垣を母屋の軒よりも高く築き,屋根が台風で吹き上げられることを防いでいる.阿伝集落では,石垣の高さと,海からの距離との間に関係式が得られた.
    2.小野津集落
     小野津集落はかつて鰆の1本釣りで潤った漁港である.小野津集落は,阿伝集落よりもコンクリートとブロック塀にかえた比率がより高い.小野津集落でも,地形断面と石垣の高さについて断面を描いたが,海岸から400mより内陸の弱風域でも1.5mを超える石垣が多く存在する.この地区の特色は,海岸部の最前線には高さが極めて高い石垣を積んだ家屋が目立つことと,内陸でも風が弱まるにも関わらず,石垣を高く積んだ家々が存在することである.小野津は,経済的にゆとりがある家々が石垣を高く築き,石垣をステイタスシンボルとして考える人々がいる.そのため小野津集落では,阿伝集落のように海からの距離と石垣の高さには明瞭な関係式が得られなかった.小野津集落では,石垣は防風の役割を持つだけでなく,人々の意識や経済力によって石垣の高さが決められていることがわかった.
  • 屋敷囲いの石垣と風雨を防ぐ設備の分布
    藤塚 吉浩
    セッションID: 512
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I. 研究目的
     日本列島南部では台風の進路の関係から、民家には強い風雨への備えが必要である。本発表では、多くの強い勢力の台風が通過する高知県東部をとりあげ、伝統的な民家のかたちにある強い風雨への備えについて検討する。
     本報告ではまず、高知県東部の歴史的な集落の形成にかかわる自然条件と社会経済的な背景について、広域的に考察する。次に、強い風雨に備えるための伝統的建造物に関して、その機能と地理的分布の関係を考察するとともに、残存状況についても検討する。

    II. 高知県東部の伝統的建造物の分布
     室戸半島の歴史的集落のうち、戦災がなく、都市化の影響を受けなかったところでは、第二次大戦前の伝統的な建造物が残されている(図1)。
     室戸半島の港は、岬付近の岩礁に建設されたものがあり、その近くに集落が形成されている。岬は三方向を海に囲まれ風を遮るものがなく、特に風が強くなるため、室戸岬の高岡や行当岬の新村のように、石垣で民家を囲っているものが多い。石垣を構成する石は大きく、より堅固になるように積まれている。
     海岸からの強風を受ける小高い丘のところでは、吉良川町の丘地区のように、民家をいしぐろで囲むものが多い。いしぐろは河原の丸石などを積んだり、割石を使って、外観を整えたものもある。旧街道沿いには、丸石や割石を整然と積んで、意匠面を重視したものが多い。
     旧街道沿いや市街地中心部では、建物の壁面や前面に水切り瓦の使われることが多い。これは、空間的制約から石垣やいしぐろを置けないためと、浜堤や近くにある民家が強風を緩和し、水切り瓦で壁面の浸食を防ぐことができるためである。土蔵や民家の壁面には、水切り瓦とともに、耐水性のある土佐漆喰も併用されている。
     徳島県に近い東洋町の旧街道沿いでは、蔀張が多くみられる。街道に面して間口があり、空間的制約から強い風雨を効果的に防ぐ仕組みとして用いられたのである。地理的に京阪神地方に近く、交易により、蔀張の建築様式がもたらされたことも、高知県で最も東に位置する東洋町に多くみられる要因である。

    III. 伝統的建造物の残存状況
     高知県東部における、強い風雨を防ぐための伝統的な建造物の残存状況は、その性質により次の差異がある。
     石垣やいしぐろは、石の採取が容易でないことや石工の減少等により、より費用の安価なブロック塀やコンクリート塀にかえられている。水切り瓦は、左官職人の減少により技術の継承は容易でないが、近年その優れた意匠が評価され、新築に取り入れられるものも少なくない。蔀張は、空調施設の導入やアルミサッシへの改修により、取り外されたり、取り壊されるものが多い。
     いしぐろや水切り瓦は、優れた意匠から文化財として指定されるものも多い。高岡や新村にある石垣は、文化財としての価値は十分認識されていない。蔀張は、木製のため老朽化しやすく、放置すれば消滅する危機にある。
     強い風雨を防ぐ伝統的な建造物は、先人の知恵によって生み出され、風土に適する優れたものである。歴史を後世に伝える文化財として、伝統的建造物をまもり受け継ぐことは、今後の重要な課題である。
  • 漆原 和子, 羽田 麻美, 乙幡 康之, 石黒 敬介
    セッションID: 513
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I 研究目的
     屋敷囲いとしての石垣は,特に西南日本に多い.しかし1960年代から,瓦屋根の導入や,RC工法により母屋の強度が増したことから石垣が不要となり,集落の道幅を広げる際ブロック塀にするなどの変化がおこった.このため今なお残存する石垣の屋敷囲いをもつ集落は少なくなってきている.たとえ石垣が残っている場合でも,集落全体に完全に保存されている例は稀で,ほとんどが部分的に石垣を残しているに過ぎない.
     本研究は主に,強風や波から母屋を守るために築かれる石垣を対象とした.西南日本を中心に,上記の条件の石垣を多く残す集落を対象として,風と屋敷囲いとしての石垣との関係や,地形条件と防風用の石垣の関係を考察した.屋敷囲いとしての石垣の様式の違いや,地域差などを知ることを研究目的とした.

    II 研究方法と調査地域
     石垣の分布と地形断面の調査は2003~2006年の期間におこなった.調査は西日本周辺の石垣残存率の高い地域と,台湾2地点(金門島,澎湖列島),韓国1地点(済州島)でおこなった.南西諸島では渡名喜島,浜比嘉,備瀬,喜界島を調査対象とし,西南日本では知覧,出水,対馬,隠岐島,佐多岬,外泊,沖ノ島,室戸岬,紀伊半島,坂本の合計17地点で石垣の分布と高さ,様式の調査をした.

    III 結果
    1.石垣と防風林の分布
     日本全国で防風目的の石垣に関する文献を選び出し,地図にプロットした.さらに上記の調査結果を加えると,石垣の分布は南西諸島の海岸部にあり,太平洋岸では,紀伊半島以西の島嶼部と海岸部にほぼ限られていることがわかった.また日本海の沿岸においては,島根県の隠岐島以西に石垣が分布する.隠岐島以東では,石垣から生垣や屋敷林を主体とする防風林に変化し,防風林は内陸にも及ぶ.しかし例外は南九州知覧の武家屋敷と,琵琶湖岸坂本であり,この両地域には内陸にも関わらず,屋敷囲いとしての石垣が分布する.
    2.海岸からの距離と石垣の高さとの関係
     喜界島の阿伝と小野津,対馬の志多留,紀伊半島の串本と紀伊大島の須江において,石垣の高さと海岸からの距離の間に反比例の関係が成り立つことがわかった.すなわち石垣は海に近いほど高くなり,内陸にいくにつれて石垣の高さは低くなる.例外的に内陸でも風は弱くなるのに,高い石垣を築く場合がある.聞き取り調査から経済力や美意識,ステータスシンボルとしての意識などが影響している.
    3.石垣の様式
     屋敷囲いとしての石垣の石材は,近場にある石を用いている.また,そのほとんどが野石積みである.
     屋敷囲いとしての石垣の積み方の様式は2つに分けられる.1つは南西諸島を中心に台湾や済州島まで分布する琉球様式である.もう1つは琵琶湖畔の穴太積みをふまえた様式で,本州域から南九州まで分布する本州様式である,琉球様式は曲率を持った湾曲した隅角を持つが,本州様式は算木積みで陵を立てて積む.南九州には,琉球様式と本州様式の2つの様式が共存する.対馬では,南島の厳原は主に本州様式であるが,北島の志多留や木坂は琉球様式が混在することがわかった.済州島の石垣も琉球様式にきわめて良く似る.
    4.屋敷囲いの石垣からみた季節風と台風
     屋敷囲いの石垣と防風林の分布から,防風の対象とする風が,冬の季節風と台風であることがわかった.石垣の方位と高さとともに考察すると,図1のようにその境界が明らかになった.また,強風の風向もおよそ知ることが出来た.
  • 濱田 琢司
    セッションID: 514
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1 はじめに
     1990年代後半以降,日本の伝統的な地方工芸に関して,その嗜好品としての消費のされ方に新しい傾向がみられるようになってきている。この数十年の間,それらは主にデパートの食器売り場や民芸店,古美術店などにおいて販売され,いわゆる伝統的な器として認知・消費されてきた。それが近年になって,モダンクラフトとの類似性が見出され,ファッショナブルなものとして消費される場面が見られるようになってきたのである。それは,日本の地方諸工芸が,欧米のモダンデザインにも通じる要素を持っているという形での,「日本的なるもの」や日本的な「伝統」の新たな消費のされ方であるとも言える。本発表は第一に,日本の伝統的な地方諸工芸,とくに陶磁器を事例として,近年の「日本的なるもの」の新たな消費の傾向を紹介することを目的としている。
     もちろんこうした動きは,日本における工芸生産品消費のごくごく一部にしかすぎない。数値的な部分においてはとりわけそうであろう。しかしながら一方において,一部の小規模産地や生産者には,ある程度の影響を与えていることも事実である。そこで,こうした消費の動向の産地への還流の動きについて紹介・考察することを発表の第二の目的としたい。

    2 文化仲介者と消費が作り出す生産
     ところで,そうした消費傾向がある程度の一般性を獲得する際,あるいはその指向性が産地や生産者へと還流する際,そこで重要な役割を果たすのは,販売店のディーラーであったり,雑誌メディアやその編集者であったり,時に研究者であったりする。こうした人びとを,マイク・フェザーストンに倣って「文化仲介者」として位置づけることもできるであろう。フェザーストンによれば,「文化仲介者」とは,「アーティストや知識人」によって共有されてきた「審美的な好みや感性」をより広く一般へと伝達する際に重要な役割を担う人びとであるとされる(フェザーストン,1999,p.115)が,近年では地理学においてもその役割が注目されることもある(Goss, 2004参照)。本発表においても,ここで扱うような地方工芸の消費のあり方を,様々な形で普及・一般化させていくような文化仲介者に注目し,それらと生産の現場との関わりについても考察を試みる。

    3 ビームス・フェニカと新たな伝統工芸消費の傾向
     2003年,日本の代表的なセレクトショップの一つ「ビームス」に「フェニカ」というブランド(レーベル)が作られた。これは,それまでファッションの分野を中心としてきたビームスが,日用生活のための工芸品などを提供することを掲げて誕生したものだった。そこでは,「鳥取の木工小家具」「益子の陶器」「琉球ガラス」などの「伝統的な手仕事」が扱われることになった。また,2000年以降,『カーサ・ブルータス』や『リビング・デザイン』といった一般(男性)情報誌・ファッション誌が,しばしば日本の工芸品を取り上げる特集を組んでおり,それは一種の流行現象となっている。  こうした傾向の端緒は,1990年代半ばの日本において欧米のモダンデザインが再評価され,それに伴ってインテリアの一部としての雑器類が注目されたことにあろう。その中で,日本の伝統的工芸および陶磁器の生産者・生産地の一部が,例えば北欧工芸との類似性を指摘されたりしつつ,クローズアップされてきた。先述の通りそれは,産地全体の影響や日本における種々の文化消費の大きな傾向を作り出すような動きではないが,一定の注目を得るものでもあると思われる。

    4 産地・生産者への還流
     消費の現場におけるこうした流行や志向は,生産者や産地に直接・間接に,部分的ながらも影響を与えつつある。そして種々の経路によって生産者がこうした流行を把握するなかで,例えば,栃木県の陶業地・益子においては,ある生産者のグループが,益子で旧来より使われてきた「柿釉」という釉薬を用いた製品を,「MODERN RED」としてブランド化する試みが見られる。他にも,旧来の形態を残しつつ,モダンデザイン的な要素などを加味した製品の生産が,島根県の出西や沖縄県の読谷などで見られるようになっている現状がある。

    5 おわりに
     こうした取組において,一方ではモダンクラフト的な汎用性が模索されつつ,一方では旧来の伝統や地場性が強調されることがままある。その点において,ここでの事象は,伝統性の商品化をめぐっての近年の動向を考察することにも繋がっている。発表では,ビームスや雑誌メディアの傾向についてより詳細に紹介をしたのち,先の「MODERN RED」なども含めた産地・生産者の取組の事例をいくつか取り上げることとしたい。
  • 島根県雲南市大東町小河内社中に注目して
    高橋 裕介, 川久保 篤志
    セッションID: 515
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I .はじめに
     本発表でとりあげる神楽とは,能の影響を色濃く受けた演劇風の里神楽のことである.近世初頭に佐太神社(松江市)で成立した神能(演劇風神楽)は,徐々に伝播し現在では出雲はもちろん西日本全域で広く舞われている.1970年に行われた大阪万博,1975年の文化財保護法改正などを契機として,島根県では現在でも大きな盛り上がりを見せている.江戸時代における神楽は神職のものであったが,1871年(明治3年)に松江藩から神能演舞禁止令が出されると,担い手は農民へと移行し,その後今日まで農村を中心に伝承されてきた.しかし戦後,高度経済成長期を通じて農村社会は大きく変貌し,その影響は神楽社中にも及んだ.そこで今発表では,神楽社中の変化を農村社会の変化を関連付け分析を進めていく.
    II .対象地域と対象社中
     研究対象地域は,島根県雲南市大東町である.大東町は松江市から南へ車で30分ほどの山間部に位置する.大東町ではかつて林業が盛んであったが,現在は兼業化が進み成人の多くがへ通勤している.
     現在大東町には活動を行っている神楽社中5つある.神楽社中はおよそ10~20人で組織されており,平均年齢は50歳代である.主な活動としては,秋祭りで神楽奉納,各種イベントへの出演,また最近では神楽の演大会へのなども行っている.
    III .社中構成員の属性と神楽社中の変容
     大内(2002)はイエ制度のもとにある戦後農村社会において,昭和ヒトケタ世代(世帯主),後継者,高齢者,女性という4つの社会層を確認し,昭和ヒトケタ世代はイエ制度のライフサイクルに従った最後の世代であり,後継者のライフコースはイエ制度から離れていったと述べた.筆者が,小河内社中の拠点とする下小河内集落において実施した神楽経験を中心としたライフヒストリー調査の分析によると,昭和ヒトケタ世代(第一世代),後継者世代(第二世代),さらにその次の第三世代という3つの異なるライフコースを確認することができた.神楽社中の活動のあり方は,どの世代を中心に社中が結成されているかに強い影響を受ける.小河内社中は,大正時代に結成された神楽社中で,その中心となっているのは,山上さん講に参加しているイエ出身のものである.しかし1980年代以降そのような枠組みは変化し,現在では集落外から社中に参加するものもいる.
     本発表では小河内社中の社中員のライフヒストリー分析を中心に神楽社中の変容を述べていく.
  • 遠藤 匡俊
    セッションID: 516
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     本研究の目的は、1856~1869年の三石場所のアイヌを対象として、定住性の程度と集落レベルにおける集団の空間的流動性の程度を測定したうえで、両者の関係を分析することである。
     分析の結果、分裂の流動性と結合の流動性のいずれの場合も、流動性の高い事例は集落の存続期間の長さには関わりなくみられた。集落が消滅したり、新たに形成されるときの集落の戸数は小さく、消滅するときの分裂の流動性はやや低く、新たに形成されるときの結合の流動性は高かった。
  • 平 篤志
    セッションID: 517
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     本発表は,地方中核都市郊外地域における地域コミュニティの存立状態に関する調査報告である.具体的には,香川県の中心都市高松市に隣接する三木町を事例地域として,その社会経済的特徴を把握した上で,居住者を主体とするコミュニティがどのような状態にあり,どのような課題を抱えているかを,地域的,空間的視点にたって明らかにし,今後のコミュニティのあり方を探ることを目的とする.特に,地域社会に普遍的に立地する公民館や公立小学校に注目し,これらの施設を核としたコミュニティに着目する.
     三木町は,県都に隣接するという地理的条件と,平野部と山間部が町を南北に二分するという地形的な要因から都市的な特徴と農村的な特徴をあわせもち,平野部は新旧住民の混住地域となっている.高松都市圏の拡大のなかで最近まで人口増をみたが,現在は停滞状態にあり,人口の高齢化は他の市町と同様に進行中である.
     このような状況下,自治会を中心とする町内の伝統的な住民組織はその活動が不活発になりつつある.その1つの要因は,若年・壮年層の自治会離れであり,もう1つの要因は,自治会連合会といった横断的な組織の不在にある.一方で,公民館や類似施設は十分に整備されており,またそれら施設を拠点とした住民の諸活動は活発化しつつあり,地域コミュニティの素地は存在する.地域に普遍的に立地する公立小学校も,総合学習に実施や児童の安全確保の面から地域社会との結びつきを強めようとしている.
     他方,住民に対するアンケート調査において,「地域社会」の範囲として公立小学校の学区程度の広さを挙げた回答がある程度の割合を占めた.したがって,三木町においても,先進地域にみられるようなネットワーク型のより広範囲な地域コミュニティの育成が急がれる.
  • 日本最初のニューチャイナタウンの事例として
    山下 清海, 松村 公明, 杜 国慶
    セッションID: 518
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    研究の背景と目的
     日本の三大中華街(横浜中華街,神戸南京町,長崎新地中華街)は,いずれも幕末の開港都市に形成された伝統的なチャイナタウンと位置づけられる。三大中華街は,主として日本人を対象に,中国料理店を中核としながら観光地として発展してきた。これに対して,近年の華人ニューカマーズの増加に伴い,東京・池袋駅北口周辺に新興のチャイナタウンが形成されつつある。このチャイナタウンは,主として華人ニューカマーズを対象にサービスを提供する中国料理店,食材店,書店,ネットカフェなどが集積して形成された点に大きな特色がある。
     アメリカ・カナダをはじめ欧米では,都心近くに形成された伝統的なチャイナタウン(オールドチャイナタウン)とは別に,近年,中国大陸・台湾・香港・東南アジアなどからの華人ニューカマーズによって新たなチャイナタウン(ニューチャイナタウン)が形成されている(山下,2000)。このようなグローバルな傾向の中で,池袋チャイナタウンは,日本最初のニューチャイナタウンとして位置づけることができる。なお,池袋チャイナタウンという名称は,報告者の一人である山下が,三大中華街とは性格が異なるチャイナタウンであることを強調するために,敢えて「中華街」という名称を用いずに,2003年,「池袋チャイナタウン」と名づけたものである (山下 2003,2005a)。
     本研究では,池袋チャイナタウンの形成プロセスを明らかにするとともに,三大中華街との比較考察を通して,池袋チャイナタウンのニューチャイナタウンとしての特色について考察することを目的とする。

    池袋チャイナタウンの形成と特色
     池袋チャイナタウンの位置は,西池袋1丁目の歓楽街と重なり合う。新宿や新橋と並んで,池袋は戦後の闇市などで多額の収入を得た華人が投資する繁華街の一つであった。1980年代半ば以降,日本語学校で日本語を学ぶための就学生ビザによって来日を果たす福建省や上海周辺出身などが急増した。池袋周辺には日本語学校が集中し,付近に残されていた低家賃の老朽化したアパートに彼らが集住するようになった。
     チャイナタウンの形成においては,中核となる店舗の存在が大きい。池袋チャイナタウンの中核となっているのは,中国物産のスーパーマーケットチェーン店「知音」である。「知音」では中国書籍・ビデオ販売に加えて,中国料理店や旅行会社を併設するほか,中国語新聞(フリーペーパー)やテレホンカードも発行する。
     池袋チャイナタウンが位置する池袋駅西側周辺には,華人が居住するアパートが多いが,池袋駅東側の東池袋,大塚周辺にも,華人が多く居住している。また,華人ニューカマーズの定住化傾向に伴い,単身者が結婚後,より広い住宅を求めて,埼京線や京浜東北線の沿線の埼玉県の公団住宅やアパートに移り住む郊外化の傾向もみられる(江・山下 2005b)。彼らの職場は東京都内が多く,勤務を終え,帰宅する途中に買物,食事などで立ち寄りやすい池袋の位置は,チャイナタウン形成の一つの重要な要因になっている。
     池袋チャイナタウンの最近の傾向として,中国東北3省(遼寧・吉林・黒龍江)出身者の進出が顕著であることが指摘できる。東北3省には朝鮮族が多く,朝鮮語と日本語には文法をはじめ類似点が多いため,朝鮮族にとって,日本語は学び易い外国語であった。また東北3省は,伝統的に日本語教育が盛んな地域であった。中国東北3省出身者の増加に伴い,池袋チャイナタウンでは,中国東北料理店あるいは中国朝鮮族料理店が増加している。
     池袋チャイナタウンは,新宿区大久保地区のコリアンタウンがそうであったように,今後,日本人の顧客を取り込むことにより,チャイナタウンとしてさらに発展する可能性を有している。

    〔文献〕
    山下清海 2000.『チャイナタウン―世界に広がる華人ネットワーク―』丸善.
    山下清海 2003.世界各地の華人社会の動向.地理 48:35-41.
    山下清海 2005a. 「池袋チャイナタウン」の誕生. 山下清海編『華人社会がわかる本―中国から世界へ広がるネットワークの歴史,社会,文化』146-51.明石書店.
    江 衛・山下清海 2005b.公共住宅団地における華人ニューカマーズの集住化―埼玉県川口芝園団地の事例―.人文地理学研究 29:33-58.
  • 東洋街の変容と中国新移民の増加
    山下 清海
    セッションID: 519
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    問題の所在
     華人社会の研究は,文化人類学,社会学,歴史学,経済学をはじめさまざまな学問分野からアプローチがなされて来た。その中にあって,地理学の研究の特色の一つは,他の地域の事例と比較考察しながら,研究対象地域の華人社会の地域性を明らかにするとともに,他の地域にも共通する一般性を見出すことである。また,それら地域性および一般性の要因について考察することも重要な課題である。
     近年,世界各地の華人社会を対象にした研究は,しだいに増加している。そのような中にあって,ラテンアメリカは,研究の空白域の一つである。ラテンアメリカの大国であるブラジルに関しても,日系移民に関する研究成果の蓄積は多いものの,華人社会についての先行研究,文献・統計などの資料は少なく,華人社会の現況に関する情報も非常に限定されている。
     そこで本研究では,グローバルな視点からみたブラジルの華人社会の地域性と一般性を明らかにするために,ブラジル最大都市であり,華人人口の大半が集中するサンパウロの華人社会の変容と現状について考察した。なお,現地調査は2006年7月下旬から8月上旬にかけて,次に述べる2つの調査対象地区を中心に,華人団体,華文教育関係者,華人商店関係者,日系人などからの聞き取り調査・資料収集を行うとともに,土地利用・景観調査を実施した。2つの調査対象地区とは,日系人と華人商店が集中するリベルダーデ地区の東洋街,および中国新移民(改革開放政策以後,海外へ移住した中国人)が急増している3月25日通り地区である。

    東洋街への華人の進出
     第二次世界大戦後,日本の敗戦で帰国をあきらめ,ブラジルに残留することを決めた日系人の中には,入植地の農村部から子弟の教育に有利な都市部へ,特に大都市であるサンパウロへ移動する者が増えた。なかでも,サンパウロの中心部,リベルダーデ地区には,1953年,日本映画の上映館が設立され,日系人向けの食堂,商店が軒を連ねるようになり,日系人の住居もリベルダーデ地区に集中するようになった。その後,日本統治時代に日本式教育を受け,日本語が堪能な台湾人も,リベルダーデ地区に集中し,日系人と混住するようになった。
     中華人民共和国の成立後,中国の資本家や国民党関係者などが,多額の資金を携えてブラジルへ移住し,その後も,香港や台湾などからの移住者が続いた。1971年,台湾の国連からの追放は,台湾の将来に不安を抱いた台湾人のブラジル移住を加速させた。高等教育を受けた日系人の子弟は,大学で高度な技能や知識を身に着け,医者・弁護士・エンジニアなどの専門的職業に従事する者が多く,日系人が経営する商店では,後継者難に陥るところが多くなった。現在では,日本関係の食品・商品などを中心に扱う商店やショッピングセンター,ホテル,レストランも,台湾人が経営しているものが少なくない。台湾人が経営する店舗では,看板に日本語を用い,日本的な店構えを維持するなど,リベルダーデ地区に対して一般のブラジル人が抱いてきた「日系人街」としてのイメージを保持しようとする傾向が認められる。
     一方,台湾人以外の中国新移民の進出も増えており,2006年1月には,リベルダーデ地区で初めて,中国の正月を祝う春節祭が開催された。日系人の中には,この地区のチャイナタウン化を危惧する声も聞かれる。アジア系の中では新しい移民である韓国人のレストランも,リベルダーデ地区で増えており,かつての「日系人街」は文字通り公式呼称である「東洋街」の性格を濃くしつつある。

    3月25日通り地区における中国新移民の増加
     サンパウロにおける中国の改革開放以降,ブラジルへ移住して来る中国新移民が増加している。彼らが集中する地区は,以前はアラブ人街であった3月25日通り地区である。地元では,治安がよくない地区として知られている。この地区には,中国製の安価な衣料品・電気製品・玩具・靴・カバン・時計・サングラス・金物などを扱う商店が多く集まっている。彼らはシッピングセンター内において「スタンドショップ」と呼ばれる狭い店舗で,主として店舗はほとんど見られない。

    〔文献〕
    山下清海 2000.『チャイナタウン―世界に広がる華人ネットワーク―』丸善.
    山下清海編『華人社会がわかる本―中国から世界へ広がるネットワークの歴史,社会,文化』明石書店.
  • 多摩動物公園を事例に
    有馬 貴之
    セッションID: 520
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     本研究の目的は観光レクリエーション空間における人々の行動と観光体験の変化の過程を明らかにすることである。研究対象地は、人々の行動を把握することが容易な観光レクリエーション空間である多摩動物公園を選定した。調査はGPS調査とアンケート調査によって行った。GPS調査とは無作為に抽出した来園者に対し、入園時にGPS端末を携帯してもらい、退園時に回収するものである。アンケート調査では園内での移動ルートや指定したアトラクション(動物展示)に対する満足度(5段階)評価などの項目を設けた。
     本研究ではまず来園者の移動ルートを5つの移動パターンに分類した。その後、ArcGIS上で補正処理を行ったGPSデータにカーネル密度推定法を用いて、空間利用密度として移動パターン別に図化した。なお、第1図は園内全体を回遊した来園者の空間利用密度を示したものである。第1図から、来園者は人気の高いアトラクション周辺に滞留していることがわかる。また、移動パターン別に考察すると、先に観覧するアトラクションにより時間をかける来園者の傾向が明らかとなり、さらに、移動パターンそれぞれについても来園者の特徴的な空間利用が認められた。
     本研究では移動パターンの違いが、一連の観光体験としてどのように変化しているのも考察した。まず、アンケート調査で得られたアトラクション16施設に対する満足度を変数に、因子分析を行い、3つの因子を抽出した。これら3因子は多摩動物公園におけるアトラクションの評価、すなわち観光体験を支えているものと考えることができる。そこで、それぞれのアトラクションの満足度変数を標準化し、因子グループ別に分類して、平均した値を観覧順に並べて考察した。第2図はL1(全体左回り)における因子別の変化を示したものである。それぞれの因子の変化をみるとアトラクションを順々に観覧することによって、観光体験が複雑に変化していることがわかる。このことは動物園のアトラクション(動物展示)における観光体験が動物の動作自体に大きく影響されるものであるということも伺わせており、今後更なる考察を行う必要がある。
     以上、本研究では多摩動物公園の観光レクリエーション空間の特質を一部明らかにした。なお、本研究で得られた知見を応用し、今後、観光地やレクリエーション空間において、さまざまな状況に応じたルート設定や誘導に応用することを可能なものとしていきたい。
  • 鈴木 重幾
    セッションID: 521
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     日本人の平均寿命は,平成16年度の厚生労働省の調べによると,男性が78歳,女性が85歳を超えている.一般的に,高齢者という表現は,65歳以上を対象として使われてきたが,平均寿命までの時間に当てはめると,女性の場合は約20年,男性でも13年以上の時間がある.今後さらに医療や科学技術,福祉体制の進歩・充実により,平均寿命は,まだ伸びる可能性を持っている.
     そうした観点から,行政が主体,または補助事業としておこなう福祉サービスや健康づくり事業も,病に倒れた後のリハビリテーションや配食サービス以外にも,病院主催の運動教室やぼけ防止の会など,年々多様化している.
     ここでは,地域センターなどで開かれている各種講座と同様に,ぼけ防止として効果が期待されている麻雀を考察してみた.

    2.研究対象地域
     行政管理下の施設である公民館や地域センターで催されている各種講座は,利用料金を徴収して不足分を行政が補填するかたちで行われている.
     しかし,麻雀用のテーブルやいすや牌等の備品を,複数揃えることは財政的に困難であるため,地域センター等で開催されている例は少ない.
     また,麻雀の場合,利用料金を徴収することにより,改正風営適正化法第7号が適用されるため,風俗営業の営業許可申請を所轄警察署に申請することとなり,管理者が行政となるシルバー事業などでは許可申請が認められにくい.
     こうした観点から,本研究は行政の補助事業として行っている東京都調布市を対象とした.

    3.概要
     健康麻雀とは「(金銭・物品を)賭けない・(酒類を)飲まない・(たばこを)吸わない」という環境のもとに行われ,民間の団体・協会で主催されているケースもあるが,行政の事業として行われているものは非常に少ない.
     市の福祉サービスの健康づくり事業のひとつである『いきいき麻雀』も,市内在住の65歳以上の元気高齢者を対象とした事業である.募集に際しては,定員の約5倍もの参加希望者があった.その絶対数からは,目的とされる「仲間づくり」,「認知症予防」,「閉じこもり防止」の,いずれも効果が期待できると考えられる.
     同市の以前からの在宅福祉サービスのひとつであるデイ・サービスでは,利用者の選択理由として挙げられた第一は「ケア・マネージャーの紹介」であり,約半数を占める.残りの半数は「サービス内容がよい」,「利用回数が増やせる」,「家から近い」と続き,「知人の紹介」,「医師の紹介」は,ほとんど無い.
     畠山(2003)によるデイ・サービスセンターの利用者に関するでも,利用者は紹介者を通じての通所が主体で,地理的要因から選択された例は少ないことを指摘している.
     今回対象とした『いきいき麻雀』は,会場は市内西部と中部の2店舗で,初心者コース,中・上級コースなどに分かれ,隔週1回行われており,初年度は自治体主催であったが,事業がある程度軌道に乗ったため,2004年度からは市の補助事業としておこなわれている.

    4.研究方法
     参加者に選択式を主とするアンケートを実施した.内容は,在住年数・転入年数,居住地域,年齢,家族構成,こづかい,利用交通機関,別の場所で開催された際に移動するか,などである.
     このアンケート結果と主催者への聞き取り,調布市の担当者への聞き取りにより,趣味活動の一部としての活動を考察した.

    5.結果
     参加者は,基本的に自力で来所可能であることに限定しており,そのため市内全域から徒歩をはじめとして,自転車,バス,電車など,すべての交通機関の利用が見られ,近接可能性による差異は少ないと考えられる.また行政は,ぼけ防止や知人づくりなどを詠っているが,行政の思惑と現実には差異が見られた.また,友人・知人との連名による応募ができないせいもあるが,居住地近くに新規の開催店舗が決定すれば,移動すると回答した人も多く,連帯意識などは希薄である.

    文献
    畠山輝雄2003.デイサービスセンター利用者の周辺市町村施設の選択理由利用変化―藤沢市の事例―.地理誌叢44-1・2,21-28.
    厚生省2000.『厚生白書 平成12年版』ぎょうせい.
  • 福岡市近郊における3歳~6歳の保育園児を事例に
    謝 君慈
    セッションID: 522
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1、はじめに
     2006年春、報告者は保護者にアンケートを配って実施した調査の結果を「保護者の養育態度による幼児の相貌的な環境知覚」というテーマで日本地理学会で発表した。今回の試みでは、報告者は前回の調査と同様に、福岡県那珂川町におけるA保育園の幼児を研究対象にした。A保育園の園児と直接接触することによって、幼児の内面的な世界を知るという目的で面接調査を実施した。
     これまで地理学、建築学では子どもの環境知覚を取り組んだ研究が蓄積されてきたが、幼児を対象とした研究は少ない。日本の教育心理学においては、幼児を対象にして室内空間で実験を行った子どもの空間認知に関する研究が多く見られるが、本報告のように保護者の養育態度と空間的行動が幼児の空間認知に影響を与えるという視点には言及されていない(今川1981;川床1985;今川1986;山本1987;藤本1994)。
    2、研究目的と方法
     本研究の目的は、日常生活の中(保育園の送迎も含む)で、外の空間的行動の範囲が、保護者の空間的行動に大きい制約と影響を受けている3歳~6歳の幼児における空間認知のあり方、及びその内部に含まれている認知要素や認知方法などを明らかにすることである。報告者は現地調査の時に、実際に撮影したA保育園の周辺写真と、幼児が関心を持ちそうな周りの風景に関する景観写真を用い、以下の三つの視点で2006年7月18日から8月2日にかけてA保育園の遊戯室で幼児一人ずつに面接調査を行った。1)都市近郊である那珂川町に居住しているA保育園の幼児を対象にして、幼児たちが通園路を含む周りの風景に対する空間認知の中には、リンチ理論の五つの要素に当てはまる要素があるかどうかを探る。2)A保育園の幼児が回答した理由を分析する方法によって、幼児たちが周りの環境に関する認知方法、及び空間認知のあり方を明らかにする。3)幼児を対象とした本研究調査の結果と、アメリカ市民を対象としたリンチ理論の結果を比較することによって、幼児と大人の空間認知方法、或いは認知過程の異なりを探る。
    3、研究対象地域の概要
     本研究の対象地域は、福岡市の都心部からわずか13キロメートルの所に位置し、豊かな自然環境と都会の特色を備えている福岡県那珂川町である。対象は那珂川町の中心部に位置しているA保育園における91名の3歳児~6歳児である。
    4、結果の概要
     本研究では、都市外縁部に居住しているA保育園の幼児の空間認知にはリンチ理論の中の「パス」「ディストリクト」「ノード」「ランドマーク」の四つの要素が存在していることを検出した。また、「パス」の重要度が「ランドマーク」より割合高く見られた。しかし、幼児の回答内容を分析した結果、幼児にとっては「ランドマーク」の重要度が減少したというより、幼児の空間認知の発達は年齢の上昇とともに、保護者の空間的行動による「移動経験」「楽しい経験」「保護者に与えられた知識」「視覚的経験」「聴覚的経験」「感覚的経験」などの要素の累積によって、単に「ランドマーク」に頼るだけの認知方法から「ディストリクト」「ノード」及び「パス」などの要素と繋がり、広がっていくという方法へと変化すると解釈できた。
     こうした幼児の空間認知方法は本研究で踏まえたリンチ理論と異なる結果が現れたが、都市への新規参入者を対象としたゴレッジの「アンカー・ポイント」理論に相当する結果が見られた。
     また、A保育園の幼児の認知要素には年齢差と性差は少ないという結果も本研究で得られた。そこで、子どもは発達とともに行動範囲と知覚環境も発達していくという6歳以上の児童を対象とした従来の先行研究と異なる結果が見られた。これは保護者の養育態度、及び保護者による空間的行動や移動経験や楽しい経験などの要素の影響が大きいことを示唆している。
    5、今後の課題
     今回の研究調査では、幼児の空間認知のあり方や、認知要素、方法と認知過程などが明らかとなった。しかし、農村部、海外などの異なった地域における幼児の空間認知の実態と異質性を探究する試みが今後の課題になる。
  • 東京都渋谷区渋谷駅周辺を事例として
    葛城 友香
    セッションID: 523
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I 研究目的
     本研究の目的は,東京都渋谷区渋谷駅周辺において,各々の事業所が電話帳に掲載している広告内の道案内図を対象として,評価の差異からどのような道案内図が望ましいかを明らかにすることである.このために,見やすさ,デザイン,内容等の評価に関するアンケートを実施した.
    II 道案内図の要素に関する分析
     68の道案内図を対象に,道案内図の表現,ランドマークや名称のある道路等(要素)が何件の地図に見られるか(出現数)やその特徴,ランドマーク間の関係,道路の本数と強調について分析を行った.
     ランドマークの立地は交差点に多く,出現数が1件のランドマークについては,事業所に近接したものも多い.2つのランドマーク間において互いに類似しているものでも,種類の異なるものでも,近接した立地の場合,どちらか一方を描くことが多く,異なるものである場合は両方を描くことも多い.道路の強調については,道路を太くしている地図が多く,その太さはほぼ幅員に沿った表現である.要素数が全体の平均より多い,または少ない地図でも,駅から事業所までの間に,交差点等重要な位置に要素を配置している地図,主要となる道路を基本に,道路を適切に取捨選択している地図,道路の太さが単一ながらはっきりと描いている地図も見られる.一方で,要素を必要以上に配置している地図,目印となるものが少ない地図も見られる. III 評価別道案内図の特徴
     次に,アンケートをもとにして評価の高い(低い)地図の指標別の評価と実際の道案内図との比較を行った(図1).
     見やすさ,デザイン,総合評価に関しては評価の高低ではっきり区別ができた.道路の本数・目印の量に関して評価が低い地図では,実際と合致した評価であったが,評価の高低にかかわらず「ちょうど良い」としている中には実際の量にばらつきが見られる.道路の強調に関しては評価の高い地図・低い地図とも道路の強調の有無が見られる.
    IV 結論
     要素の詰め込み過ぎ,必要なものを描かない,不適切な強調といった極端な地図は,多くの人の評価が低い.見やすさやデザイン等によっては,各道案内図において同等な評価が見られる.しかし,実際の要素の量が等しい道案内図どうしでは,評価が異なる.これらから,要素数にこだわらず,通り道や交差点にランドマークを描く,主要な要素を選択する,適切な強調をすることが求められる.
  • 水木 千春
    セッションID: 524
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     水害を引き起こす原因が集中豪雨や台風のような自然的要因のみならず、社会的要因が原因と思われる被害拡大が増加する中、日常的にどういった取り組みがなされるべきか、また被災時において人がどのように行動するべきかが問題となっている。複合的な原因によって引き起こされる水害に対処するためには、河川整備などのハード面を重視するだけでなく、水害に対する人々の意識や実際の行動といったソフト面からの研究が重要となる。
     そこで、2004年9月に水害の被災経験をもつ地域である三重県伊勢市の宮川下流域にて現地調査を行い、被災時または避難時の状況およびハザードマップについて聞き取りを行った。

    2.方法
     全25項目の調査表を用いて、三重県伊勢市中島、辻久留、大倉うぐいす台、津村、円座、上野町にて戸別訪問し、聞き取りを行った。

    3.結果
    1)被災時の状況
     その調査から聞かれた被災時の状況によると、過去に被災経験を持つ住民の多くが雨量に危機感を感じず、後に上流での降雨がもたらした増水によって自宅付近が浸水し、救命ボートで救出されるなどした。また昼ごろに出された避難勧告により、仕事などで大人が不在であった自宅に戻った小学生や高校生が避難せず、そのまま自宅に取り残され、救命ボートで救出されるに至った事象もあった。別の住民は外出先から自宅に戻ろうとしたところ、居住している団地周辺一帯に冠水が見られたため近付けず、裏手にある山を越えて団地に入った者もいた。自宅から避難を試みたある住民は、居住地周辺が既に冠水し、また他の避難しようとした車が立ち往生し道路を塞いでいたため、避難所に向かうことすら容易でなかったと話している。
    2)避難勧告
     避難勧告をどのように知ったかという質問に対しては、自治会や近所、消防団など周囲からの声かけによるものが最も多かった。しかし全く知らなかったという回答者も27%に上り、避難に遅れが生じる原因になるのではないかと考えられる。
    3)ハザードマップ
     対象地域において全戸配布済みとされるハザードマップについても聞き取り調査を行い、その利用実態や認知度を調査したところ、さまざまな問題点が見えてきた。まず、ハザードマップ自体を知らない、また知っていても手元にないといった意見が多く、その認知度の低さから、被災時に実際役に立ったという声は聞かれず、聞き取り調査のなかでは、ハザードマップを見て事前に水害に備えて準備をしたと答えたのは1名のみであった。地図自体においても、以前より何度か浸水被害に見舞われている津村、円座、上野町などの地区が地図の範囲から外されていた。これは、河川の管轄の違いにより生じたことで、今後作り直される予定はない。

    4.考察
     以上のような結果から、被災経験があったとしてもその経験が被災時の初期行動に直結しないということがわかる。調査地域で避難しなかった住民からは、2004年9月の水害では下流域での降雨がひどくなかったことで、過去の被災時と比べて安心感を抱いてしまったという理由が聞かれた。自らの被災経験からもたらされる状況判断を過信しないことは人的被害を軽減するために重要である。また避難に遅れを生じさせる原因として考えられるのは、避難勧告の伝わり方であろう。避難勧告を全く知らず、近所の住民などによって初めて知らされたケースが多く、また小学生や高校生および高齢者などにも情報が理解されやすい伝達の方法が考えられていない結果、避難に遅れが生じていたようであった。

    5.まとめ
     ハザードマップについては、認知度の低さが問題となっている。いつ起こるかわからない災害には、日常的に防災意識を持つことが必要となる。地図上に正確なデータを表すためや避難時に現在地を確認するためには、ハザードマップは不可欠であるが、意識を高めようとするならば、洪水関連標識のように日常生活に入り込み、毎日でも視覚的に認識できる方法が有効であろう。愛知県田原市大草では居住している地域を見回し、日頃からの問題点を把握しておくことを実施している。そのように、今後は都市部や観光地、また地方の町など、その地域に合った対処方法を探ることが課題となると考える。
  • IKONOSとQuickBirdを複合させた地震性地殻変動計測
    石黒 聡士, 鈴木 康弘, 杉村 俊郎, 佐野 滋樹
    セッションID: 601
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     スマトラ沖地震に代表されるような大規模災害の直後には、迅速な状況把握が必要である。しかし、特に災害前の状況と災害直後の状況を把握できるデータは、通常限定される。その中で、高解像度衛星による画像は、広範囲にわたって均質で定量的な解析が可能である。特に、高解像度衛星によって撮影されるステレオペアの3次元計測によって、高精度に標高を計測できることが報告されている。このため、高解像度衛星画像は、地震性地殻変動量の計測など、変動地形解析において有効であることが期待される。
     そこで本研究では、2004年スマトラ沖地震の直後に撮影されたIKONOSとQuickBirdによる単画像を複合して用い、地震性隆起量を計測する。また、異種の高解像度衛星画像を複合させる手法の有効性について論じる。

    2.IKONOSとQuickBirdを複合させた地震性地殻変動計測
     2004年スマトラ沖地震の直後に撮影されたIKONOS(解像度1m)とQuickBird(同0.6m)による単画像を組み合わせて、地震時のAndaman諸島北西部における地震性地殻変動計測を行った。この地域では地震時に隆起が起きたことが報告されている。しかし、地震後の短期間に再び沈降する余効変動が観測されているため、地震直後における最大隆起量を計測することは、これまで困難であった。
     我々はまず、地震後15日目に撮影されたIKONOS画像と、9日目に撮影されたQuickBirdの画像を用いてステレオ計測し、隆起によって干上がった裾礁のDSMを作成した。このDSMの精度は、標準偏差で0.7m程度であった。
     次に、このDSMに、地震前に撮影されたQuickBird画像に写っている汀線をGIS上で重ねあわせ、旧汀線の地震直後の高度を計測した。この結果、Andaman諸島北西岸では、スマトラ地震後の10日前後では2.15m(±0.7m)隆起していたことを明らかにすることができた。

    3.異種の高解像度衛星画像を複合させる手法の有効性
     災害の発生直後において入手可能な衛星画像は、1.災害前に撮影された単画像、2.災害発生後に複数の衛星が集中的に繰り返し撮影した画像である。災害発生直後には需要が高まるため、各社の衛星による撮影頻度が急激に増加する。右図に、Andaman諸島において、スマトラ沖地震前後で新規に撮影されたQuickBird画像のアーカイブ総数の増加を示した。ただし、2の画像でも、ステレオ撮影は特別なリクエストがない限り撮影されない。実際に、図に示した例でも、この期間中にQuickBirdによるステレオ撮影は一度もなされなかった。
     このような背景の中、災害直後の緊急調査においては、入手可能なデータを最大限に活用し、有意な情報を引き出すことが求められる。2の画像を使用するメリットは、各社の異なる種類の衛星が様々な角度から撮影しているため、これらを複合することでステレオペアを作成でき、従って地形モデルを作成できることである。さらに、短期間に繰り返し撮影されているために、比較的高頻度で時間的変化を把握できる。一方、1の画像は頻繁に撮影されていないため、ステレオペアの作成は多くの場合で不可能である。しかし、地殻変動前の汀線の位置など、地殻変動量の計測の際に基準となる地理的事象を把握することができる。
     上述の2の画像を用いて合成したステレオペアから作成した地震後の地形モデルに、1の画像から読み取った汀線などの地理的事象を重ねあわせて比較することで、地震性隆起量の計測が可能である。さらに、2の画像が頻繁に撮影されることを利用すれば、2の画像からも地理的事象を読み取ることで、地震後の余効変動による沈降量を、複数の時点で計測できる。
     以上のように、異種の衛星画像を複合させることが、地震性地殻変動の計測に有効であることを示した。しかし、本手法では1の画像を用いて地震前の地形モデルを作成できないため、沈降域において地震性沈降量を計測することができない。また、局所的に高い精度でDSMの作成が可能である一方で、絶対的な位置の精度は衛星の定位モデルに依存する。このため、たとえば他のソースから作成されたDSMの差し引きは、単純には行うことができないことなどが、本手法の限界として挙げられる。
  • 糸静線活断層帯の詳細位置および地震動予測の基礎情報
    鈴木 康弘, 坂上 寛之, 内田 主税, 石黒 聡士, 糸静線重点調査 変動地形グループ
    セッションID: 602
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     地震調査研究推進本部は、活断層に関する基盤的調査研究に平成16年度末で一区切りをつけ、平成17年度から追加調査・補完調査に加え、糸魚川-静岡構造線を例に、重点調査観測をスタートさせている。発表者らはこの中で「変動地形調査」を担い、重点調査観測の目的である「長期的な地震発生時期及び地震規模の予測精度の向上」と「強震動の予測向上」への貢献を目指している。
     本研究が目指しているのは、糸静線全域を5ヶ年かけ、オーソドックスな変動地形学的手法により再調査して、特に活断層の位置精度と変位量情報を高解像度化するとともに、その結果をGISベースで表現することにより情報共有を容易にし、データの説明性と更新性を高めることにある。
     そのため、1)通常のGISと異なり、基図に地形図を用いずオルソ写真を用いる、2)レーザレーダ(LiDAR)計測結果とのリンク、3)変位基準面年代情報を得られる地形面分類図レイヤーの作成、4)平均変位速度データ解析機能、5)鳥瞰図動画とのリンク等を検討した。 なお、地震発生および強震動予測への具体的貢献については、既報(2006年地球惑星科学関連合同学会)で述べている。

     上述の目的のための活断層GISとして、整理したデータは以下の通りである。相互のレイヤーは必要に応じてリンクが張られ、データの根拠となる基データをたどることができる。
    (1)オルソ写真(2004年撮影)
    (2)活断層トレース
    (3)地形面分類
    (4)地形断面
    (5)10mメッシュDSM(地物標高)
    (6)10mメッシュDEM(地面標高)
    (7)LiDAR(変位量計測結果)(一部地域)
    (8)平均変位速度分布
    (9)1960~70年代地理院航空写真オルソ(一部地域)
    (10)米軍航空写真オルソ(一部地域)
    (11)説明用関連情報
     (地形図、地質図、衛星画像、3D鳥瞰動画、その他の地図・文献資料等)
     基盤となる(1)の全域オルソ化写真については、GPS/IMU(自動航法慣性装置)を搭載し、縮尺1万分の1で糸静全域を航空写真撮影し、次にデジタル写真測量により10mメッシュでDSM(5)を作成し、そのデータに基づいてオルソ写真を作成した。
     活断層を航空写真判読により再認定し、写真測量システムでダイレクトに断層トレースの位置情報を計測し、(2)の断層線情報を得て、オルソ写真に重ねられるだけの精度を確保した。断層認定においては、40年代の米軍写真や60~70年代の地理院写真が必要な範囲も多い。このため必要に応じてこれらの古い写真を併用し、これらの写真も図化標定・写真測量を行うことにより、断層線情報を計測・取得し、またオルソ化して、(9),(10)を得た。
     (3)については、現地調査により地形面年代の測定を行い、現時点における最良な地形面分類図を作り、今後のデータ取得により更新が可能な形とした。(4)は、写真測量システム上での測量により作成した。このため精度も保証され、また現地踏査や測量状況の影響を受けることもなく、旧地形についても復元して測量することが可能である等、メリットが大きい。
     (8)の平均変位速度分布は、(4)地形断面、(3)地形面分類図、(7)LiDAR計測等から、地点ごとに計算される平均変位速度を、分布図の状態にしたものである。鉛直方向の平均変位速度分布、断層面の傾斜を考慮した断層面上での縦ずれ変位速度分布、横ずれも考慮したネットスリップ速度分布等を、それぞれ解析的に求め、強震動予測のための基礎データとして提示した。

     平成17年度は、糸静線北部(栂池~松本)区間の調査を行い、その結果は澤ほか(2006:活断層研究)、松多ほか(2006:活断層研究)により纏められ、その後にも、ネットスリップの変位速度分布に関する考察や、活断層GIS化(本報告)が進んでいる。平成18年度は中北部(松本~茅野)で実施し、今後、平成19年度は中南部(茅野~白州)、平成20年度は南部(白州~鰍沢)を調査実施予定。平成18年度調査においては、従来の活断層像を大きく変更する新たな活断層トレースの発見やピット調査による確認が行われ、その速報は谷口ほか(本学会)で行う。

    糸魚川-静岡構造線活断層帯重点調査観測変動地形グループ:鈴木康弘(名大)・渡辺満久(東洋大)・澤 祥(鶴岡高専)・廣内大助(愛知工大)・隈元 崇(岡山大)・松多信尚・田力正好(東大)・谷口 薫(地震予知総合研究振興会)・杉戸信彦・石黒聡士・佐藤善輝・安藤俊人(名大)・内田主税・佐野滋樹・野澤竜二郎(玉野総合コンサルタント)・坂上寛之(ファルコン)
  • 松本および塩尻付近の断層トレースの見直しとその意義
    谷口 薫, 鈴木 康弘, 澤 祥, 松多 信尚, 渡辺 満久, 糸静線重点調査 変動地形グループ
    セッションID: 603
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     我々は、鈴木ほか(2006;本学会)で概要と趣旨を述べたように、糸静線活断層帯の調査を実施している。本報告では、松本付近から岡谷に至る地域の変動地形と断層線認定に関する新知見およびピット調査結果を述べる。具体的には、1)松本北部における活断層の発見と新解釈、2)塩尻峠付近の新発見の横ずれ断層の紹介とピット調査結果を中心に報告する。
    2.方法
     平成16年度にパイロット重点調査として撮影された縮尺1/10,000、1940年代米軍撮影縮尺約1/10,000、1960年代国土地理院撮影縮尺1/10,000及び1970年代撮影縮尺1/20,000の空中写真の判読と現地調査に基づき、変位地形の認定と地形分類を行った。本研究における活断層の認定は、単にリニアメントを抽出し、その確からしさに基づいてマッピングしたのではなく、高度な変動地形学的知見から、地形発達史を考慮し、変位基準に認められる異常が浸蝕・堆積作用では説明できない等の理由を根拠とした。抽出した活断層線は、 I :存在が確実で位置も正確に認定できるもの、 II :存在が確実であるが、浸蝕や地形改変などにより位置がやや不確実なもの、 III :存在は確実であるが、伏在しているため地表変位が不明瞭なもの(以上,活断層)、 IV :断層変位地形としては認定できるが、第四紀後期の活動を示す明瞭な証拠が無いもの(推定活断層)の4つに分類した。また、平成16年度に牛伏寺断層、平成18年度に塩尻峠で実施したLiDARの結果も踏まえて検討した。
    3.活断層の分布
     活断層の位置情報について、従来の研究(池田ほか,1997;今泉ほか,1999;松多ほか,1999;池田ほか編,2002;中田・今泉編,2002)と概ね整合的であるが、一部の地域については、下記の通り新知見が得られた。
    1)松本市の北部(城山~松本城の西側~筑摩付近)
     従来、牛伏寺断層の北方延長は不明確であったが、松本市街地の低地内に、北北西-南南東方向に延びる断層が認められた。また、これと並走する複数の西落ちの断層が見出され、これらは新旧の地形面を累積的に変位させている。なお、上述の松本城付近の構造は、近藤ほか(2006)が指摘したものにほぼ相当するが、その延長上に糸静線の本質的な動きと推定される横ずれ変位が見出されたことは重要な新知見である。
    2)牛伏寺断層の南部延長(崖ノ湯~塩尻峠付近)
     従来「塩尻峠ギャップ」として、断層の空白域とされ、セグメント境界と考えられていた約7 km区間において、明瞭な左横ずれ断層が地形学的・地質学的に認められた。この新知見は、ギャップを持ってセグメント境界とする従来の考えを見直す必要を強く迫るもの新知見である。
    4.ピット調査
     上記2)で述べた活断層の活動履歴を解明するために、岡谷市塩尻峠地点において掘削調査を実施した。ピット壁面に露出した地層は、下位より、塩嶺累層・軽石層(Pm-I?)・コンパクトローム・ソフトローム・黒土層・表土に区分できる。表土直下までを切る複数の高角活断層が認められ、断層面状のミクロな構造も、左横ずれを示している。断層は黒土層(1,730+/-30 yBP)を切り、表土(1,440+/-30 yBP)に覆われることから、本地点での最新活動は約1千7百年前以後、約1千4百年前以前であったと考えられる。なお、1回の活動に伴う変位量や最新活動以前の活動時期などに関しては、今後検討を行う予定である。
    5.考察
     松本付近、特に松本城の西側や筑摩付近で非常に新しい地形面に変位が認められたことから、この地点は牛伏寺断層の最新活動(710+/-80 yBP-1,520+/-80 yBP;奥村ほか,1994)と同時に活動した可能性がある。従来、「塩尻峠ギャップ」と考えられていた断層空白域に活断層が認められ、約1,400-1,700年前の活動が確認されたことから、「ギャップ」は存在しない。また、断層トレースは牛伏寺断層の南方延長としての特徴を有することから、牛伏寺断層と同時に活動した可能性がある。
     なお、平成18年度の他の地域(諏訪~茅野)の成果も含めた、断層変位地形の認定や平均変位速度に関する検討は別途行う予定である。

    糸静線重点調査変動地形グループ:廣内大助(愛知工大)・隈元 崇(岡山大)・田力正好(東大)・杉戸信彦・石黒聡士・佐藤善輝・安藤俊人(名大)・内田主税・佐野滋樹・野澤竜二郎(玉野総合コンサルタント)・坂上寛之(ファルコン)
  • 熊原 康博, 前杢 英明, 八木 浩司, 長友 恒人
    セッションID: 604
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1. はじめに
     本研究の目的は,CORONA偵察衛星写真の解析から,その存在が明らかとなった高ヒマラヤ山脈を横切る活断層(ヤリ断層)の変位様式及び,地形面のOSL(光励起ルミネッセンス)年代に基づく第四紀後半のスリップレートを解明することである.
     ヤリ断層は,チベット南西縁をかぎるカラコルム断層と,ネパールヒマラヤ西部において低ヒマラヤから主中央スラストに沿って発達する雁行性の活断層系(Nakata, 1982)とをつなぐ位置にあたる.近年,カラコルム断層をガイドレールとするチベット地塊の東アジア側への押し出し(extrusion)モデル(Peltzer and Tapponnier, 1988)に対して,スリップレートや断層の南延長の面でこのモデルと調和しないデータが報告され(Ratschbacher et al., 1994; Searle, 1996; Murphy et al., 2002),チベット南縁のアクティブテクトニクスの解釈を巡る議論が盛んである.ただし,これらの議論は,主に第三系堆積岩などのやや古い地層を基準として変位様式やスリップレートが推定され,アクティブテクトニクスであるかどうかは定かではない.また,カラコラム断層の南への延長についてもヒマラヤ山脈までを視野に入れた研究はほとんどない.

    2.ヤリ断層の変位様式
     ヤリ断層は,主中央スラスト沿いの活断層から高ヒマラヤを横切り,北西-南東の走向でネパール・中国国境まで,少なくとも長さ約50kmにわたって連続する.断層に沿って,扇状地や河成段丘面上で逆向き低断層崖や,河谷の右横ずれ屈曲が認められる.中国領内では,カラコルム断層の南東端と,南北走向のブラン地溝帯を介して連続する.ブラン地溝帯は共に右横ずれ変位をもつカラコルム断層とヤリ断層に挟まれることから,プルアパート・ベイズンと解釈できる.
     ヤリ断層中央部にあたるパニパルバンでは,断層崖の直下に露頭が露出し,湖成堆積物と扇状地堆積物が断層で接する.この露頭では,断層に沿って砂礫層中の礫が断層に向かって直立している.また湖成堆積物中にも副次的な断層がいくつか認められ,断層と断層の間の地層は上方へ凸な変形をしている.主断層の走向傾斜はN48°W/73°Nである.この地層のOSL年代は後述するように23-29kaを示しており,この断層は活断層といえる.また,断層面にそって直立した礫の表面に断層変位によって生じた擦痕が認められた.断層面上で水平に対して約10°斜め上にすれており,垂直変位よりも右横ずれ変位が卓越する.

    3.ヤリ断層のスリップレート
     パニパルバンにおける上部更新統は,下部から河川性堆積層,層厚12-14mのシルト~粘土からなる湖成堆積物と,地形面を構成する層厚約20mの扇状地性の段丘堆積物からなる.OSL年代測定によると,湖成堆積物から23ka,25ka, 29kaの年代値が得られ,扇状地性の段丘堆積物からは12.6±5kaの年代値が得られた.この年代値に基づくと,湖成堆積物は最終氷期最盛期に堆積し,扇状地性段丘堆積物は,氷河後退の過程で形成される融氷河性起源のものであろう.
     扇状地性段丘面を変位基準とすると,面形成後,垂直変位約20m,水平変位約100mの断層変位が生じている.変位量と扇状地性段丘堆積物のOSL年代から単純にスリップレートを見積もると,垂直1.1~2.6 mm/yr,水平5.6~13.2 mm/yrとなる.段丘面の離水時期が構成層の堆積年代より新しいことや,低下側が山側にあたり段丘崖の基部が二次的な地層に埋積されやすいため,断層変位量が過小評価されることを考えると,本断層はA級以上の活動度をもつことは確実である.
     ただし,段丘堆積層の年代には誤差が大きいことを考えると,比較的安定した年代測定値を得た湖成堆積物の年代とその垂直変位(36m)をもとに垂直変位のスリップレートを求めると1.5mm/yrの値が得られる.スリップレートが後期更新世においてはほぼ一定とみなすと,1.5mm/yrの活断層が約20mの垂直変位を形成するのにかかる期間は13ka程度と見積もられ,地形面の年代(13ka)と水平変位量100mから,横ずれ変位のスリップレートは7.7mm/yr.と推定される.

    4. アクティブテクトニクス上の意義
     最近求められたカラコルム断層のスリップレートは,10mm/yr(Chevalier., 2005)や4mm/yr程度(Brown et al., 2002)とされるなど,定説をみない.しかし,両者とも本研究で得られたヤリ断層のスリップレートとオーダーでは同じである.従って,カラコルム断層の変位の大部分がヤリ断層に伝播し,さらにはヒマラヤ山地内にも及んでいることが,断層配置やスリップレートの点から推定される.
  • 小荒井 衛, 佐藤 浩, 宇根 寛
    セッションID: 605
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     地域特性に応じた有意義な防災対策のため、地形分類の成果を活かしてリアリティのあるハザードマップの提供が求められている。土地条件図とは地形分類に基づき土地の自然的特性を明らかにした主題図であり、地形発達史的な概念で捉えることによりその土地の持つ災害特性を理解することが出来る。土地条件図は最近国土地理院からベクトルデータとして刊行されてきており、GISを使って様々な国土情報と組み合わせて解析することが容易になってきている。本研究では、土地条件図のベクトルデータと実際の地震での建物被害の分布をGIS上で重ね合わせることにより、地形分類と地震被害との関連を解析した。対象としたのは、東海地方における「1854年安政東海地震」、「1891年濃尾地震」、「1944年東南海地震」である。
    2.地震による建物被害分布と土地条件
     1891年濃尾地震については、村松(1983)による住家被害率分布図をベクトル化し、土地条件図(名古屋南部・名古屋北部・岐阜・大垣・津島・桑名)のポリゴンデータと重ね合わせ解析を行った。住家被害率10%毎の各地形分類面積比を図1に示す。被害率が高いほど出現面積比が高い地形は、谷底平野・氾濫平野、自然堤防などである。被害率が低いほど出現面積比が高い地形は、扇状地、緩扇状地、台地・段丘などである。1944年東南海地震については、大庭(1957)による住家全壊率分布図をベクトル化し、土地条件(浜松・掛川・磐田・御前崎)のポリゴンデータと重ね合わせ解析を行った。住家被害率20%毎の各地形分類面積比を図2に示す。1854年安政東海地震については、行谷・都司(2006)が震度推定をしたポイントデータを建物被害と見なして、土地条件図のポリゴンデータとの重ね合わせ解析を行っている。いずれの結果も、地形分類と住家全壊率の関係は、段丘や扇状地など地盤条件が良いとされている地形での被害率が相対的に低く、谷底平野・氾濫平野などでは被害率が高く、地形分類と建物被害との相関関係はあるものと考えられる。
    3.今後の課題
     村松(1983)や大庭(1953)の等被害線図は、被害を等値線で結んでいるため実際には住家のない地域も含めて等値線図が引かれている。当時の住家は土地条件のよいところに選択的に建っていたと考えられることから、等値線から被害率を内挿して地形との関係を検討することは適切とは言い難い。今後は、被害率を住家のある地域のみのポリゴンデータとして扱うとともに、ボーリングデータ等も用いて、GISの特性を活かし詳細に被害と土地条件の関係を検討する予定である。
     本研究の一部には、科学研究費補助金「空間地理情報の最適利用に基づく「リアリティのあるハザードマップ」の開発」(研究代表者:鈴木康弘)を使用している。
    文献 
    大庭正八(1957)東京大学地震研究所彙報,35
    行谷佑一・都司嘉宣(2006)歴史地震,21
    村松郁栄(1983)岐阜大学教育学部研究報告,7
  • 千田 昇
    セッションID: 606
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1 はじめに
     水縄断層系は水縄山地と筑紫平野を境する断層系で,全体としてほぼ東西に延びる26kmの活断層系である。その最新の活動は日本書紀に記述された天武7年(西暦679年)筑紫地震である(千田ほか,1994)。現在までのトレンチ発掘資料からは,その活動は主として中央部から西部にかけてであり,東部での活動については資料が不足することから,ほとんどわかっていない。ここでは水縄断層系西部における断層の分布形態について,主として考古学の発掘史料により考えていくことにする。

    2 水縄断層系西部の地質と地形
     水縄断層系西部には高良川による扇状地の地形が分布し,その北端部は筑後川による侵食を受けて,沖積平野が広がる。地質は,三郡変成岩からなる基盤岩,新第三系の久留米層,その上位に阿蘇3,阿蘇4を挟む高良礫層があり,扇状地を形成している。
     水縄断層系西部には,追分断層とそれ以西の千本杉断層,朝妻断層,東合川断層(いずれも村橋,1995)が分布する。このうち追分断層についてはトレンチ調査により天武7年の筑紫国の大地震を引き起こしたことが知られている。それより西方に分布する断層については村橋(1995)によるボーリング資料での基盤岩,久留米層や阿蘇4火砕流堆積物の高度差で見いだされた。このうち千本杉断層は明瞭な崖地形が認められ,天武7年に活動したとされ,朝妻断層は阿蘇4堆積後,扇状地面(2~3万年前)形成までの間に活動し,東合川断層は阿蘇4堆積以後は活動していないとされている(村橋,1995)。

    3 考古学発掘史料による,水縄断層系西部の様子
     久留米市教育委員会は,水縄断層系西部の地域で筑後国府等に関連した発掘を行っている。このうち変位をともなう割れ目がみられる遺跡は,64次,113次,116次,132次,159次,202次の発掘による遺跡および神道遺跡である(図)。64次の発掘地点は西上原で,千本杉断層の延長にあたる。弥生時代のピットを南から押しつぶすように変形し,30cm南側隆起(白色シルト質砂が現れている)である。神道遺跡は千本杉断層の通過する場所であり,幅が約7mの割れ目帯が遺構面にみられたが,この割れ目の様子はトレンチでも確認され,それが断層活動によるものであることが確認された。この割れ目は,『日本書紀』に記述された「廣さ二丈」の割れ目に相当するようで,この記述の地点は,他の遺跡での割れ目の様子から,神道遺跡周辺である可能性が大きい。さらに,地層構成や割れ目を充填する堆積物などからは,単純な縦ずれの活動だけでは説明できず,横ずれの活動の可能性が大きいことも示された(千田ほか,2005)。
     113次,116次,132次,202次発掘の地点はいずれも雁行状の割れ目がみられ,垂直変位もともなっている。これらは朝妻断層の地表での表現とみられ,今後の調査が期待される。159次発掘地点は前身官衙の大溝の通過する地点であり,ここでも割れ目が分布する。これは東合川断層の延長部にあたり,その地表での表れの可能性がある。

    文 献 
    千田 昇・松村一良・寒川 旭・松田時彦,1994,水縄断層系の最近の活動について-久留米市山川町前田遺跡でのトレンチ発掘-.第四紀研究,33,261-267.
    千田 昇・白木 守・松村一良・松田時彦・下山正一,2005,久留米市神道遺跡における水縄断層系・千本杉断層のトレンチ調査.活断層研究,25,129-133.
    村橋輝紀,1995,水縄断層西端部の地下地質と第四紀後期の活動.活断層研究,13,28-46.
  • 丹羽 雄一, 須貝 俊彦, 大上 隆史, 笹尾 英嗣
    セッションID: 607
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     沖積低地は人口やインフラの集中地域であるとともに、災害に対して脆弱である。中でも、地震性沈降が起こると、臨海地域の沈水など人々の暮らしに大きな被害を及ぼす。このような沖積低地の居住環境の長期安定性や将来変化を予測するためにも地震性沈降の周期や規模を把握することは重要である。濃尾平野は、桑名・養老断層が西側の養老山地との地形境界となり、中期更新世以降約1mm/yrで沈降している(須貝・杉山,1999)。桑名・養老断層は、群列ボーリング調査などによってAD1586年天正地震・AD745年天平地震の震源断層である可能性が指摘された(須貝ほか,1999)。しかし、堆積間隙のないと思われる下盤側の堆積物にこれらの歴史地震がどのように記録されたかはわかっていない。そこで、濃尾平野沖積層の分析から、これらの歴史地震に対応する粒径変化等の記録を読み取ることを試みた。
    2.調査手法
     用いた試料はYM1、KZN、OYDの3本のボーリングコアである。いずれも桑名・養老断層下盤側、現世の木曽川デルタ下流部に位置する(Fig.1)。分析内容は、コアの観察・記載、粒度分析、電気伝導度測定、14C年代測定である。
    3.結果
     3本のコアは、岩相にもとづいて、ユニット区分される。LSMは河川の氾濫による砂泥互層、MMは内湾に堆積した泥層、USはデルタフロントの前進によって堆積した砂質シルト~中粒砂、TSMは陸化した後に河川によって堆積した砂泥互層と解釈される(Fig.2)。
    4.考察
     USにおいて、KZNコア深度6.85~7.30m、YM1コア深度6.95~7.60mに、シルトを主とする細粒な層準がある(Fig.2中の矢印)。堆積曲線から、これらの堆積年代はほぼ等しく、約1200cal yr BPである。また、堆積深度も概ね等しく、人為の地盤沈下量を差し引くと、標高はKZNで約-6m、YM1で約-7.5mである。距離の離れた多地点で同時期に堆積したことから、堆積理由として広範囲で起こりうる相対的海面変化の可能性が高い。本地域の相対的海水準は6000年前以降ほぼ一定であることから(海津,1992)、桑名・養老断層の活動による地震性沈降が考えられる。KZNコアにおいて、この細粒層は陸源物質を含み、上下を河口~砂質干潟の堆積物に挟まれることから、コア掘削地点の陸化後断層運動によって再沈水したと思われる。高いEC値は海面下への沈水を示すと思われる。YM1コアにおいては水深の浅い堆積環境であったのが水深の増加によって細粒物質が堆積したと考えられ、高いEC値は水深の増加を示すと思われる。この断層運動は、年代値からAD745年天平地震に対比し得る。
     一方、OYDコアのUSにおいて、堆積速度は1200cal yr BP以降急激に大きくなる。コア掘削地点が後背山地に近いことから、1200cal yr BPまでは主に支流による土砂供給を受け、1200cal yr BP以降は木曽川主流による土砂供給を受けたと思われる。この理由としては、養老断層の傾動運動に対応する木曽川主流の西進傾向(小野ほか,2004)が考えられ、約1200cal yr BPに断層運動があったことを示唆する。これはAD745年天平地震に対比され得る。また、深度6.00~6.18mには養老山地起源と思われるチャート、堆積岩からなる基質支持の礫層があり、淘汰が悪いことから、土石流堆積物と考えられる。この土石流イベントは、AD1586年天正地震による土石流堆積物に起因するかもしれない。YM1、KZN各コアにおいて天正地震がどのように記録されているのかは検討中である。

    引用文献
    小野映介ほか(2004)第四紀研究,43,287-295.
    須貝俊彦・杉山雄一(1999)地質調査所速報,EQ.99/3,77-87.
    須貝俊彦ほか(1999)地質調査所速報,EQ.99/3,89-102.
    海津正倫(1992)堆積学研究会報,36,47-56.
  • 楮原 京子, 今泉 俊文, 三輪 敦志
    セッションID: 608
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     横ずれ断層の地表トレースが,直線的であるのに対して,逆断層では,湾曲や雁行・不連続などが数多く認められる.逆断層の湾曲は,断層面の傾斜と地表の起伏との関係で生じている場合や断層の変位量の違いによって生じている場合など,様々である.また,湾曲の程度は,断層線を見スケールによって異なり,それぞれのスケールに応じた理由があると推察される.しかし,いずれの場合でも,断層トレースは,断層面が地表に現れたものであるから,地下の断層面の形態やその配置,すなわち地下構造を大きく反映していると考えられる.そこで筆者らは,これまでのトレンチ調査やボーリング調査,反射法地震探査などの結果を踏まえ,逆断層の地下構造と地表トレースとの関連を検討した.
    2.逆断層の地表トレース
     日本の逆断層帯では,断層線の湾曲の程度が少なくとも以下の3つに大別される.
     A. 断層帯規模の湾曲(縮尺1/100万~1/20万)
     逆断層帯は,山地・盆地などの地形境界をなし,弓状またはS字状の湾曲が認められる(例えば,北上低地西縁断層帯や福島盆地西縁断層帯など).これらの断層帯の場合,弧の長さ(波長)は約50kmで,その幅(振幅)は波長の2割程度である.
     B. 断層線規模の湾曲(縮尺1/10万~1/2万)
    都市圏活断層図(国土地理院発行)や池田ほか(2002),中田・今泉(2002)など,縮尺1/20万より大縮尺の活断層図には,逆断層帯を構成する断層の形状が見て取れる.それぞれの断層は,走向の変化や不連続によって,長さ数~10km程度となり,トレースの湾曲は,前述の断層帯よりもやや出入りに富む傾向にある.
     また,この断層は,第四紀後期以降の地形面の発達に大きく寄与しており,断層変位が地形面の分布や変形から読み取れる.さらに,地形境界よりも平野側に分布する断層については,断層先端の前進現象(thrust-front migration)によって,新たに断層が生じることが知られている.
     C. 小谷(露頭)規模の湾曲(縮尺1/1万~1/500)
     逆断層が小谷を横断するようなところでは,谷幅に応じて,尾根から谷にかけて数10~数100m程度の湾曲や断層の不連続が認められる.このような断層線の湾曲に関する議論は,松田ほか(1980)で指摘され,千屋断層・中小森地区や一丈木地区のトレンチ調査からその存在が確かめられた.さらに今泉ほか(1989)は,トレンチ調査ならびにボーリング調査結果を基に,このような湾曲構造が作られる理由として,断層面の傾斜変化・走向変化に加え,断層が上方へ雁行配列すること(結果的には,傾斜変化型に近い)を挙げている.
    3.地下構造
     Aは,大地形に対応することからも,その山地形成に関連する構造によるものと考えられる.東北日本の逆断層の多くはテクトニックインバージョンを背景とする断層帯であることから,新第三紀の引張応力場の下で形成された正断層の形状が影響している可能性もある.したがって,Aに関しては,地震発生層までを含めた地下構造の理解が必要であると考えられる.
     B は,地下数kmの地下構造を反映し,例えば,千屋断層の場合,地下1km以浅において断層面の角度が断層中央部(約30度)とその北端(上下方向の雁行を伴いながら約60度となる)で異なること,走向の異なる断層が合わさることに起因する.また,このことは断層面がどこでどのように形成されるかに関わることであるから,すべりやすい地層の分布など,地域の地質状況に大きく影響されていると考えられる.
     Cは,これまでのトレンチ調査や極浅層反射法地震探査の結果から,その地下において,傾斜の異なる複数の断層が地表付近に形成されていることが明らかにされている.傾斜の異なる断層は地下で収斂し,これらの断層の形成は地下数10~100m程度の地質状況(沖積層内の不均質など)を受けて形成されたと考えられる.
     様々なスケールの逆断層の湾曲とその地下構造について,継続して議論していくことで,逆断層のセグメンテーション問題に資するような,幾何学的特徴が見えてくるのではないかと考える.さらに,将来的には幾何学のみならず,岩石物性や運動力学的考察を交えることで,震源断層から地表地震断層(活断層)への連続,すなわち地震と活断層のメカニズム解明へと発展に近づけると考えられる.
  • 今泉 俊文, 宮内 崇裕, 原口 強, 島崎 邦彦, 楮原 京子, 佐々木 亮道, パシャ カマール, 呉屋 健一
    セッションID: 609
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     東北地方日本海溝は,1978年宮城沖地震のように海溝型地震が発生する場であり,この時,太平洋沿岸各地には津波が記録されることが多い。隣接する震源域が同時に破壊するいわゆる「連動型」が発生すると,津波の規模は増大し,その範囲も拡大する。西暦869年7月13日(貞観11年5月26日)に発生した貞観津波は,その一つと見られ,宮城県から茨城県に至る沿岸各地に津波被害があったことが歴史記録にも残されている。
     そこで演者らは,文部科学省「宮城沖地震における重点的調査観測」(平成17年〜21年度)の中のサブテーマ「過去の活動履歴を把握するための地質学的調査2」を分担し,貞観津波をはじめとして記録にある津波地震の堆積物の確認,歴史記録が及ばない古い時代(完新世)の津波堆積物の検出などを目的として調査を開始した。平成17年度・18年度は,津波来襲の頻度が高い三陸沿岸地域を対象にして,陸上と浅海底の両面から,それぞれボーリング調査・ジオスライサー調査・音波探査等を行い,三陸沿岸の数カ所から,過去約6000年間に堆積した地層の中から津波堆積物とみられる試料を採取した。本報告では,そのうち貞観津波の可能性を含めて,最近から過去1000年程の津波堆積物について報告する.
    2.陸前高田平野での調査
     陸前高田平野は,気仙川及び周辺の小河川によって形成された標高5m以下の沖積低地である。三陸海岸の中でも,石巻平野を除くと比較的平地が広く,浜堤・後背地・ラグーン・自然堤防・旧河道地形などが発達する。これらの地形の発達史については,千田ほか(1984)がすでに明らかにしているので,これに基づいて,調査地点(A〜C)を選定した(図1)。A地点は,埋め立てがすすんだ古川沼(ラグーン)の中にあり,高田松原海岸からは砂堤(比高2.5m)とチリ津波(1960年)後に建設された防潮堤(5mに設置)を挟んで,約200mの位置(標高0.6m)にある。B地点(標高約1.5m),C地点(標高約2.2m)はいずれも後背地で,圃場整備された水田である。圃場整備には大量の客土が行われたが,C地点(線路沿いの水田)だけは,客土が少なかったようである。
     なお,調査地点周辺の住宅地・施設用地・道路のほとんどは,盛土によって,低地から1段高くなっているが,段丘化した地形ではない。また,高田湾では,A地点まで通常の暴風雨による高波は及ばない。
    3.採取地層(津波堆積物)の認定と歴史地震との対比
     検土杖(2m),ジオスライサー(約4m,A地点),ハンディージオスライサー(2〜3m,B・C地点),パーカッション(B)地点によって,抜き取った地層断面を観察し,火山灰・14C年代試料の採取・はぎ取り断面を作成して保存した(図2)。
     A地点では,湿地の堆積層(腐植質泥層)中に明瞭な砂層が少なくとも4枚挟在する。最上部の砂層(厚さ20cm)は,盛土直下で,現地の住人の証言ともあわせると,チリ地震津波の堆積層であることはほぼ確実である。年代測定結果から,下位の砂層は,明治三陸津波(1896年),1793年三陸はるか沖,1611年慶長三陸津波などが予想されるが,詳細は他の地点の資料とも合わせて検討中である。
     一方,C地点では,地表下70cm付近に火山ガラス(十和田火山灰To-a層の可能性が高い)が散在する泥層が,そしてその直下にマッドクラストを含む砂層が見いだされた。この砂層が,貞観津波(869年)の堆積物であるかどうかについて,火山灰の分析と,その上下の地層の年代測定を行っている。
  • 小松 哲也, 渡辺 悌二, 平川 一臣
    セッションID: 610
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     2006年9月27日‐10月26日に,発表者達は,中央アジアのタジキスタン・キルギスタンにおいて以下の調査:(1)気象観測ステーションの設置,(2)国立公園管理に関する聞き取り調査,(3)氷河・周氷河・段丘地形に関する予察調査,を行った.これらの中から今回は,タジキスタン側で行った(3)氷河・周氷河・段丘地形に関する予察調査,の結果を報告する.

    調査地域
     タジキスタン共和国はアフガニスタン・ウズベキスタン・キルギスタン・中国に囲まれた中央アジアの国で,国土の東半分がパミール高原とトランス・アライ山脈からなる山ぐにである.パミール高原は東部と西部で,降水量や地形的特徴が異なる.一般的に,東パミールは年間降水量100~200 mm以下,年平均気温-6~1℃(UNEP 2002),丸みをおびた山が目立つ高原状の地形からなる.一方,西パミールは年間降水量400~1500 mm,年平均気温-2~7℃(UNEP 2002),急峻な山脈とそれに並行する谷が南北に並ぶ.
     今回の報告は,次の二地域:(1)東西パミールの境界部に位置するChukur谷周辺,(2)東パミール北東部に位置するKara Kul湖周辺,における調査報告である.

    Chukur谷周辺の氷河地形
     Chukur谷(N37°30′,E72°45′)は東西パミールの境界部に位置する南向きの谷であり,本流であるToguzbulok谷の右岸側に位置する.一方,Toguzbulok谷の左岸側には,北向きの谷が並んで分布し,その前面には氷河底堆積物からなる平坦面が広く分布する.これは,北向きの氷食谷から前進してきた氷河が癒着して山麓氷河を形成し,Toguzbulok谷全体を覆う規模の氷河が発達したことを示す.
     Chukur谷における氷河地形の調査から,次の三つの氷河拡大期をあらわすモレーン(古い方からH, M, Lと仮称)を確認し,そのそれぞれのリッジに分布する花崗岩質の巨礫から10Be露出年代法用試料を採取した.これらのモレーンの地形的特徴は次の通りである.
     (1) Hモレーン(標高4280 m):Chukur谷の中で最も高位に位置するラテラルモレーン状の地形で,谷の出口にのみ分布する.Toguzbulok谷全体を覆う規模の氷河が発達した時に形成されたモレーンだと推定される.
     (2) Mモレーン(標高4145-4160 m):Hモレーンの下位に位置するモレーンで,Chukur谷中のトラフエッジの高さと調和的である.このモレーン は,谷の出口から1.5kmほど下流に位置するターミナルモレーンと地形的に連続する.また,このターミナルモレーンは,氷河底堆積物からなる平坦面を切って形成されている.
     (3) Lモレーン(標高4200 m付近):Mモレーンと連続するトラフエッジよりも下位に位置するモレーン.Chukur谷中にターミナルモレーンを形成している.
     これらH・M・Lモレーンの年代について,その表面礫の風化度合いや先行研究(Abramouski et al. 2006)を参考にすると,HモレーンがMIS 5以前の氷期,MモレーンがMIS 4, LモレーンがMIS 2の氷河前進期に対比されると考えられる.

    Kara Kul湖周辺の氷河地形・湖岸段丘
     東パミール北東部には標高3950-4000 mほどの広大な盆地が存在する.そこには現在,塩湖であるKara Kul湖(380㎢;Ni et al. 2004)が存在している.このKara Kul湖は流出河川が一つもない閉塞湖であることから,その高湖水面期を示す湖岸段丘は気候変化に対応して形成される.Korienvsky(1936)によると,Kara Kul湖はヴュルム氷期に最も拡大(830㎢)したとされる.しかし,第四紀の湖面の昇降時期や面積変化と,氷河の前進・後退との関係は断片的にしか明らかになっていない.そこで,今回,Kara Kul湖周辺の氷河・湖岸段丘地形の観察を行った.
     Kara Kul湖南西部に位置するAkjilga谷(N38°55′,E73°12′)の出口には,ハンモッキーモレーン状のターミナルモレーン(標高3950 m)が分布する.このターミナルモレーン前面にはアウトウオッシュ・プレーンがほとんど発達していなかったことから,このモレーン形成期には,氷河と湖が接していたものと考えられる.また,Akjilga谷中において,このターミナルモレーンと地形的に連続するラテラルモレーンの100 m上位に,より古い時期のラテラルモレーンが分布することを確認した.モレーン上の礫の風化度合いや地形的特徴を考えると,ハンモッキーモレーン状のターミナルモレーンがChukur谷Mモレーン,その上位に位置するラテラルモレーンがChukur谷Hモレーンに対比されると考えられる.
     また,Kara Kul湖南西部の丘陵の中腹に10,20,45 mの比高をもつ三段の湖岸段丘を確認した.しかし,現時点では,こうした汀線変化が生じた時期や,そのそれぞれの高さの湖岸段丘と関係する氷河地形については不明である.今後,現地調査を詳しく行い,これらの点を明らかにしていく予定である.
  • 池田 敦, 松岡 憲知, 末吉 哲雄, 石井 武政, 高 存栄, 丁 建青
    セッションID: 611
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     黄河は標高4000 mを越える青蔵高原の北東部にその源をもつ.そこでは年平均気温が0°C以下,年降水量約が約300 mmであり,寒冷ステップの景観が広がる.近年,その草地の減少や,著しい地下水位低下が報告されている.源流域では最近50年間に,顕著な気温上昇が観測されているが,降水量に変化がみられず,水文環境の変化に永久凍土の融解が寄与している可能性が考えられた.そこで,源流域の凍土環境を明らかにするために,2003~2006年にかけて,毎年夏期に現地調査を実施した.
     2004年8月に瑪多(マドオ)気象観測所(標高4273 m)に設置した観測拠点から2年間の凍土特性に関するデータ(気温,積雪深,雨量,地温,土壌水分,土壌熱特性,地下水位)を取得した(図1).年平均気温は−2°Cであった.冬期の積雪は10 cm以下で,土壌の含水率が低いという条件が重なり,凍結が効果的に進み,厚い季節凍土(2.7 m)が形成されたが,その下方,少なくとも深度10 mまでは永久凍土は存在しない.地下水位は観測期間を通じて深度3~4 mにあった.
     源流域での広範囲にわたる地温の通年観測と物理探査(電気,地震波)により,標高4300 m以上では永久凍土が広く分布するのに対し,4200 m以下では永久凍土はほとんど分布しないことがわかった.源流域の代表的標高である4200~4300 mの沖積低地では,永久凍土は存在しないか,または永久凍土の上面が季節的な凍結融解が及ぶ深さよりも十分下方(5 m以深)に検出される.このような例は,温暖化により年間を通し融解過程にある化石永久凍土と判断される.また,高原上では,沖積低地と丘陵地とで,主に冬季夜間の気温が逆転するため,標高によらず年平均地表面温度が融点付近にあり,永久凍土の厚さは標高4600 mでも30 mほどであった.
     GISを用い,緯経度の違いによる永久凍土の下限高度の変化を組み込み,実測データをもっともよく説明するように,源流域全域の永久凍土分布を推定した.さらに化石永久凍土の分布と1980年代の調査結果を参照し,約20年前の永久凍土分布域も推定した.それらを比較すると,瑪多を含めた少なくとも約2000 km2の沖積地において,永久凍土が融解,消失している.この急激な永久凍土縮小の結果,地下水位が急低下していると考えられた.
  • 松岡 憲知, 荻野 佳子, 深井 慈子
    セッションID: 612
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     化石周氷河現象の一種であるインボリューションは,古気候の指標として注目されてきたが,その規模や形態が示す温度条件には一定の基準はない.これは,寒冷地域のインボリューションには,1)季節的凍結・融解の繰返しによる変形,2)氷に富む永久凍土の融解に伴う変形,3)解氷時のアイソスタシー性地震に伴う液状化や氷河の運動に伴う変形など異なる成因があることに加え,現成のインボリューションの形成プロセスの観測が困難なためである.このような問題の解決には,室内実験によるアプローチが有効である.そこで,北上低地に見られる小規模なインボリューションのモデル実験を行い,この構造が発達した環境条件を考察した.
     現地のインボリューションは平均して波長60 cm,振幅40 cmで,上位に密度大で細粒のロ-ム,下位に密度小で粗粒の軽石が重なる層境界で典型的に見られる.上向きには先細り構造(炎型),下向きには丸底(波型)が多い.変形はLGMの推定地表から約1mの深さで著しい.
     実験では,側・底面を断熱したアクリル土糟に厚さ15 cmの軽石,厚さ13 cmのロ-ムの順に詰め,飽和に近い状態にして,異なる凍結速度で凍結融解を3回繰り返した.地温,凍上,土圧,含水率の変化を記録するとともに(図1),凍結状態や境界面の変形の観察を行った.実験終了後に境界面の3次元形状を復元した(図2).以下に主要な結果と推論を列挙する.
     ・凍結時の粗い軽石粒子の差別凍上と,融解時のロ-ムの落ち込みで上向き突出部が発達する.
     ・凍結融解の繰返しに伴って,波長は一定で振幅の増加する波型構造が成長する.
     ・飽和に近い季節凍土層では,凍結面が長期間保たれる冬季に凍土下底付近で差別凍上が起こりやすい.この深度付近(氷期の北上の場合約1m)に密度逆転層の境界があればインボリューションができやすい.
     以上と従来の研究成果(例えば,Ballantyne & Harris 1994, Huijzer & Isarin 1997, Van-Vliet Lanöe et al. 2004)を考え合わせると,1)と2)は擾乱の形状・最大振幅・深度・波長の規則性で,1)のうち永久凍土帯と季節凍土帯に発達する構造は下端部の形状・直線性・粒子の配列で区別ができる可能性がある.3)については形成深度,擾乱の比高,形状,粒子の配列等から区別できる可能性があるが,非周氷河地域での類似構造の調査,液状化の実験等による検討が課題となる.
  • 瀬戸 真之, 西 克幸, 石田 武, 田村 俊和
    セッションID: 613
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    I.はじめに
     郡山・猪苗代両盆地の分水界に位置する御霊櫃峠(海抜約900m)には一種の「階状土」が発達し,少なくともその一部では現在も礫が移動していることが知られている(鈴木ほか,1985).田村ほか(2004)は,この微地形を「植被階状礫縞」と呼び,その形態的特徴を調査した.この植被階状礫縞は,基岩の岩質,節理の方向と斜面の向き,強い西風とそれによる高木の欠如,および少ない積雪等が要因となって形成され,維持されていると推測され,植被の部分的欠如には人為の関与も疑われる.その後,隣接する強風砂礫地で礫の移動状況や各種気候要素の観測を行っている(瀬戸ほか,2005, 2006; Seto et al. 2006).
     今回,この植被階状礫縞を掘削してその断面を観察し,成因の考察に有用なデータが得られたので報告する.なお,本発表においても,植被階状礫縞という名称を用いる.

    II.植被階状礫縞の概要
     植被階状礫縞が発達しているのは,海抜925mのピークの南側(長さ約200m),西側(40m),北側(30m),北東側(40m)にかけての,傾斜10~20度(南側)および10~20度(南側以外)の,やや凸型の縦・横断面形をもつ斜面である.基岩は中新統大久保層(北村ほか,1965)の緑色凝灰質砂岩で,平行な細かい節理が発達し,薄く剥がれやすい.年間を通して強い西風が卓越する.積雪はかなり少ない模様である.その強風のせいもあってか,稜線部の植生は高木を欠き,高さ数10cmのツツジ群落,あるいはササ草原(ピークの北側斜面のみ)となっている.
     植被階状礫縞は,扁平な角礫が露出した幅数10cm~2mほどの「上面」(tread)と,ツツジ(北側斜面ではササ)に覆われた比高・幅とも30cm~1.5m程度の「前面」(scarp)で構成される.この「上面」と「前面」の列は,ピークの南側から西側さらに北側の斜面ではほぼ東西にのび,しばしば分岐し,合流して,西方に向かうと階状より縞状の形態が明瞭になる.

    III.植被階状礫縞の断面
    北側斜面に位置する植被階状礫縞で,階段を横断する方向に約150cmの長さの溝を掘削して観察した(図).
     植被階状礫縞の「上面」では,地表に径15cm前後(最大径20cm)の扁平礫がオープンワークに堆積し,その下位には小角礫を大量に含む暗褐色腐植質砂壌土~壌土がある.この層の厚さは20~40cmで,基底面は斜面の一般的傾斜と調和的に10~20度ほど傾き,「前面」の地表下ではツツジの根やササの地下茎が密である.最下位には薄く剥がれやすい基岩が出現する.

    IV.植被階状礫縞の形成プロセス
     断面の観察から,階段状の形態を呈するのは地表面だけで,堆積物直下の基岩は階段状を呈さず,「上面」の部分でも「前面」の部分でもほぼ一様の傾斜を示すことが明らかになった.また,「前面」の部分にはツツジ群落が付き,その根やササの地下茎が堆積物の中にまで及んでいる.さらに,地表面の礫がツツジ群落中へ入り込んでいる様子も認められる.
     これらの特徴から,下記のプロセスが継起したことが窺われる:(1)高木がなくなり裸地となる;(2)植生が斜面最大傾斜方向と直行する向きに帯状に発達する;(3)礫が最大傾斜方向へ向かって斜面上を移動し,帯状植生によって堰き止められる;(4)礫が裸地と帯状植生の境界部分に堆積し,最終的には細粒物質も堰き止めるようになる;(5)裸地と帯状植生の境界部分で堆積物の層厚が厚くなる この一連のプロセスによって礫地は徐々に水平になり,帯状植生の部分は基岩とほぼ同じ傾斜を維持して,最終的には階段状の微地形を形成したと考えられる.植被のない方向には傾斜に沿って礫が連続的に移動し,縞状になったのであろう.

    V.今後の課題
     植被階状礫縞の断面から,その形成プロセスの一部を推定した.しかし,高木が失われた原因や,低木・草本植生が帯状に発達したプロセスは,今のところ明らかではない.帯状植生については近くの斜面で裸地上の礫が帯状に黒っぽく変色し,この部分に発芽が認められる箇所が存在する.この黒色に変色した部分は何らかの原因で地表・地中の水分条件が周囲の斜面とは異なると推定される.今後は,強風などの気象条件とも関連させて帯状植生の成因を探ることが,植被階状礫縞の形成プロセスを考える上で重要になると思われる.
  • 杉山 悠然
    セッションID: 614
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     しっぽ状植生とは,風衝砂礫地において,礫からその風下側に「しっぽ」のように細く長く伸びる植生群落(高橋・佐藤,1994)であり,大雪山(高橋・佐藤,1994;小山,2006)など,高山帯の植生景観として報告されてきた.ところが,近年,Resler et al.(2005)に見られるように,しっぽ状植生は,単なる風衝砂礫地における植生景観というだけでなく,風衝砂礫地における植生遷移を考える上で非常に重要な位置づけになってきている.こうした中で,安達太良連峰鉄山で見られるしっぽ状植生も,植生遷移過程との関連で考察する必要がある.安達太良連峰のしっぽ状植生は,火山活動による植生攪乱であることに加え,気候的な森林限界以下(WI値:35.4)に位置しており,従来報告されてきたしっぽ状植生と異なる.本研究では,このような安達太良連峰におけるしっぽ状植生の成因を明らかにする.
    2.調査地の概要
     安達太良連峰は,福島県に位置し,標高1700m程度の火山群である.連峰最高峰の箕輪山まで亜高山帯低木林(キタゴヨウマツ,アカミノイヌツゲ等)を主体とする偽高山帯景観(Sugita,1992)が広がるが,噴火口である沼ノ平周辺の稜線上では,亜高山帯低木林が欠如し,裸地やガンコウラン等の矮性低木群落が見られる.しっぽ状植生は,この亜高山帯低木林が欠如した沼ノ平周辺の裸地に分布している.このうち,最も広範囲,かつ,数多く分布している鉄山のしっぽ状植生を研究対象とした.
    3.調査結果と考察
     (1)鉄山周辺における植生景観
     沼ノ平を中心として半径約2kmの範囲,および,安達太良山から鉄山へ向かう稜線上で亜高山帯低木林が欠如し,矮性低木群落や裸地となっている.そのため,鉄山周辺の植生景観に関する調査項目を,沼ノ平の火山活動に伴う植生攪乱と,山頂現象に絞った.
     鉄山周辺の裸地において,地表面下5cm程度にBA層が認められた.つまり,鉄山周辺の裸地でも,かつては植物が生育していたと考えられる.
     また,鉄山周辺の風下斜面では,積雪深100cm以上の範囲が広く,亜高山帯低木林が分布している.一方で,風上斜面や尾根頂部では,積雪深50cm未満の範囲が広く,裸地や矮性低木群落が分布している.また,風上斜面や尾根頂部のうち風食作用が強い場所では,裸地化した風衝砂礫地となる.このように,山頂現象を呈している鉄山周辺の植生景観は,地形に応じて積雪深や風食などの季節風効果の程度が異なるために成立する.
     (2)しっぽ状植生
     しっぽ状植生は,尾根頂部の裸地化した風衝砂礫地に分布している.しっぽ状植生の構成種は,キタゴヨウマツなどの亜高山帯低木やガンコウランなどの矮性低木である.冬季には,礫の風下側に吹き溜まりが形成されて,雪がしっぽ状植生を覆う.ここでは,40cm以上の積雪が見られ,亜高山帯低木の侵入を可能とする.また,風食の強い尾根頂部においても,礫の風下側では,風食跡が認められなかった.
    4.まとめ
     鉄山周辺の現在裸地となっている地域は,かつて植物に覆われていた.そして,火山活動によって植生が攪乱され,沼ノ平周辺に裸地が形成された.その後,徐々に植生が回復していくが,この植生回復する程度は,地形の影響を受けた季節風効果の差によって異なる.つまり,風下斜面は積雪が多く亜高山帯低木林となっている一方で,尾根頂部や風上斜面は積雪が少なく現在でも裸地か矮性低木群落となっている.加えて,尾根頂部といった風食が強く作用する場所は裸地となる.
     しっぽ状植生は,植生の回復が遅れている尾根頂部の裸地に点在する礫の風下側に成立している.礫の風下側では,冬季,吹き溜まりが形成される.この吹き溜まりは,植物を冬季の季節風から保護する.また,礫は植物群落を風食からも保護する.そのため,礫の風下側では,亜高山帯低木が構成するしっぽ状植生が形成され,風下斜面と同程度に植生回復が進んだ状態となる.ゆえに,安達太良連峰におけるしっぽ状植生は,植生回復の遅れている風衝砂礫地において,礫の風下側に選択的に植物群落が形成されたために成立したのである.
    <出典>
    高橋・佐藤(1994) 季刊地理学46,136-146.
    Sugita(1992) Eco Res 7,119-132.
    小山(2006) 明大文学部研究論集25,169-183.
    Resler et al.(2005) Physical Geography 26,112-125.
  • 天井澤 暁裕, 小山 拓志, 加藤 健一, 増沢 武弘
    セッションID: 615
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     南アルプス南部に位置する千枚岳,荒川岳,赤石岳に至る稜線は3000m 級の定高性をもち,氷食地形や周氷河性平滑斜面がみられる.本地域の周氷河作用については,荒川岳と赤石岳の鞍部にあたる大聖寺平において斜面物質移動量の計測があるにすぎず(岡沢ほか,1975),周氷河性平滑斜面についての記載も少ない.本地域において周氷河性平滑斜面が発達し,ソリフラクションロウブ(以下,ロウブとする)などの構造土の形成も顕著な赤石岳北側の大聖寺平と荒川岳東縁の丸山(3032m )を調査地に選定し,現地踏査を実施した.本調査地では測量および構造土の記載にくわえ,地形形成営力と斜面物質移動量を明らかにするため,気温・地温測定のデータロガーの設置,ペンキラインの塗布,グラスファイバーチユープの埋設をおこなった.本稿では,これらの現地調査で得られた知見を報告する.
    2.調査地域の概要
     大聖寺平と丸山は,調査地域のなかでも周氷河性平滑斜面の発達がよく非常になだらかな斜面と山頂をもつ.丸山ではおおむね東西方向にのびる稜線をはさんで,南側に緩やかで,北側に急な南北方向の非対称性が認められる(写真1).丸山と大聖寺平では,傾斜5~25°のわずかに凸型のなだらかな斜面に周氷河性平滑斜面が発達しており,幅約数十cm ~3m のソリフラクションロウブも顕著である.
    3.調査結果および考察
     ロウブはほぼ稜線直下から形成され,等高線に直行するように斜面最大傾斜方向へと這い下っている(図1).ロウブは平均礫径5cm 程度の角礫からなり,砂・シルトなどの細粒物質をマトリックスとしている.ロウブは植生に覆われた周辺斜面から数cm ~20cm 程度盛り上がった凸型の形態をなし,辺縁部で急激に比高を減じる.ロウブ上面には礫質多角形土や礫質縞状土が形成され,斜面傾斜との対応も明瞭である.これらの構造土は新鮮で明瞭な形態をもつことから,現在も活発に活動しているものと考えられる.舌状のロウブ前縁部は比較的礫径が大きくなる傾向が認められ,角礫の移動・堆積によって盛り上がった形状を示すものが多い.その先端は,斜面下方の植生を覆って延びているものも多く,同様にロウブ前縁部が斜面下方のロウブに乗り上げているものもみられる.
     以上の観察から,本調査地におけるロウブは現在も活動中で,斜面下方に拡大しているものと考えられる.くわえてロウブ上面にみられる構造土の発達は,本地域が現在も活発な周氷河作用を受けていることを示唆している.本地域は,国内において3000m を越える高山帯のほぼ南限であることから,冬期の諸条件が他の高山帯とは異なった特異な地域であると考えられる.
     現在,丸山と大聖寺平において通年の気温・地温測定,ペンキライン・グラスファイバーチューブによる斜面物質移動量の測定をおこなっている.今後これらのデータを用いて,本地域にはたらく周氷河作用と地形形成営力を明らかにする予定である.
    文献
    岡沢修一・小疇尚・岩田修二・相馬秀広 1975.赤石岳,大聖寺平におけるSolifluctionについて.日本地理学会予稿集 9:130-131.
  • 小山 拓志, 天井澤 暁裕, 加藤 健一, 増沢 武弘
    セッションID: 616
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1,はじめに
     南アルプス南部、赤石岳北側に位置する大聖寺平には、傾斜約20°の斜面に、植被階状土が10段程度分布している。
     植被階状土は、気候環境や斜面傾斜、斜面物質、斜面方位、植生種などの影響を強く受け、各地域で異なった規模や形態を呈しているため、全ての植被階状土を同じ形成過程で説明することは困難であると考えられる。そのため形成過程の解明には、各地域に分布する植被階状土の特徴を把握し、それぞれの形成過程を比較検討していくことが重要である。
     本研究では、南アルプス南部に位置する大聖寺平に調査地を設け、そこに分布する植被階状土の形態的特徴を把握すると同時に、その形成過程について検討した。
     なお植被階状土の砂礫部(Tread)を上面、植被部(Riser)を前面と記す。
    2,調査方法
     大聖寺平北東向き斜面に分布する植被階状土を研究するために、実測図の作成(第1図)、土壌断面の記載、植生調査、斜面物質移動量の計測をおこなった。
    3,調査結果
    (a)土壌断面の記載
     植被階状土の上面から前面、ハイマツ群落にかけて、最大傾斜方向に2m×深さ1mのトレンチを掘り、土壌断面を記載した。堆積物は上面の表面角礫層から垂直方向の層相変化が著しく、表面角礫層を除くと10層のユニットに分けられる。埋没腐植質土層の下部およびシルト質砂礫層には、粒径10cm以下の角礫が混じり、シルト質のマトリックス中には、バブルウォール型の火山ガラスが多く混入していた。調査地域周辺の埋没腐植質土層下部には、鬼界アカホヤテフラ(降灰期は約7300年前、以下K-Ahと略称:町田・新井 2003)が挟在しているため、ユニット6の下部およびユニット7に挟在していたものも、これに対比されるとみなされる。
    (b)斜面物質移動量
     植被階状土上面に設置したペンキラインでは、2~3cm程度の移動が生じ、グラスファイバーチューブの変位も、2cmであった。これは、日~数日周期的に生じる霜柱クリープを主体とし、これにフロストクリープ、ジェリフラクションが複合的に生じたためと考えられる。
    4,まとめ
     大聖寺平北東向き斜面には、10段の植被階状土が分布する。本研究では、実測図の作成、土壌断面の記載、植生調査、斜面物質移動量の計測結果に基づいて、調査地域に分布する植被階状土の形成過程を明らかにした(第2図)。
    1)大聖寺平北東向き斜面では、晩氷期に、ソリフラクションロウブが形成され、その風背側に積雪域が形成された。
    2)後氷期の初頭には、垂直分布帯の上昇に伴い、積雪域にハイマツ群落が侵入した。
    3)K-Ah 降灰時(7300年前)には、ハイマツ群落内に土壌が形成され始めていた。
    4)ネオグラシエーションには、植被階状土分布域が、ハイマツ群落と指交する強風砂礫地(現在の上面)となり、ソリフラクションによる斜面物質移動が生じた。斜面上方では、侵食による小崖が形成され、斜面下方では、ハイマツ群落に移動を制限された斜面物質により、堆積性の小崖が形成された。その結果、階状土の原形が完成した。
    5)その後、階状土前面に植物が侵入し、同時に強い冬季卓越風の侵食を受け、上面と前面の境界部やハイマツ群落の縁には、風食ノッチが形成された。

    参考文献
    町田 洋・新井 房夫(2003) 新編 火山灰アトラス-日本列島と  その周辺.東京大学出版会.336p.
  • 佐々木 明彦, 長谷川 裕彦, 加藤 健一, 増沢 武弘
    セッションID: 617
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    ■はじめに
      地温は周氷河環境下における物質移動や風化作用の質や強度に関わる最も重要な要素である.したがって,高山で発現する周氷河作用を把握するには,年間を通じた地温観測は欠かせない.こうした観点から,日本ではこれまでに,無植被の周氷河砂礫斜面における地温の長期観測が北アルプス白馬岳(高山地形研究グループ1978),北上山地山稜部(澤口,1987), 鳳凰山(樋口,1990),南アルプス間ノ岳(松岡,1991),月山(Kariya、1995)などで実施され,地温状況と周氷河作用との関係も論じられてきた.しかし,残雪が遅くまで滞留する残雪砂礫斜面での地温の長期観測は,Kariya(1995)を除くとこれまでほとんど実施されていない.そこで,本研究では南アルプス南部の大聖寺平付近に分布する残雪砂礫斜面において地温の通年観測を実施した.

    ■観測地点
      観測を実施した残雪砂礫斜面は,主稜線の東側斜面にみられる雪窪のなかに分布する.観測地点は標高2,805mで,雪窪の縁に近い部分に位置している.この地点の消雪時期は,積雪深が最も深くなる雪窪の最深部より1週間程度早い.
     観測地点の斜面構成物は,地表から3cm深までが表面角礫層となっており,細粒物質を欠いている.その下位の3~26cm深は長径3~5cmの角礫を主体とする角礫層で,基質はシルト質細砂~中砂である.その下位の26~43cm深は2cm程度の角礫を主体とする角礫層で,基質はシルト質細砂~中砂である.43cm以深は風化した基盤である.地温観測にはサーミスター温度センサーを用い,これをデータロガー(温度ロガー3633:日置電機製)に接続して地表の表面角礫層と20cm深の角礫層中に埋設した.地温の測定・記録は2005年8月3日13:30より60分間隔で2006年8月18日12:30まで行った.

    ■地温変化の状況
      地表および20cm深での年平均地温はともに0.7℃であった.また,地表での最高・最低地温は,それぞれ30.0℃,-13.5℃,20cm深での最高・最低地温は,それぞれ16.8℃,-9.3℃であった.地表での地温の日較差は,8月~10月に大きくなり,最大で23.7℃に達する.2005年12月12日から2006年7月17日の期間は地表での地温の日較差が極めて小さく,0.0℃~0.1℃で推移する.この期間は積雪が厚く堆積していたものと考えられ,地表での地温に再び日較差がみられるようになる2006年7月18日に本地点の残雪が消雪したと考えられる.ただし,日較差が急激に小さくなる12月5日が根雪期間の始まりとみてよいであろう.一方,20cm深での地温の日較差は最大で7.5℃である.地表と同様に,8月~10月に日較差が大きくなり,2005年12月12日から2006年7月18日の期間は日較差が0.0℃~0.1℃で推移する.20cm深の地温は地表より1日遅れて2006年7月19日に0℃を上回るが,これは深度20cm付近の季節凍土の融解が地表より約1日遅れることを示している.

    ■凍結融解サイクル
      地表での凍結融解サイクルは秋季に頻繁に発生する. 10月19日~11月15日の約4週間に24回の凍結融解サイクルが生じた.11月16日以降は地表面が継続的な凍結状態に入り,凍結融解サイクルは生じなくなる.その後,地温は氷点下での日変化を繰り返しながら低下していき,最低地温の-13.5℃を記録したのちの12月5日に地温の日較差がほとんど生じなくなる.一方,20cm深では,10月23日から同30日の間に2回の凍結融解サイクルが生じた.それ以後は継続的な凍結状態に入り,凍結融解サイクルは生じなくなる.上述のように,積雪が消雪する7月17日には地表の地温が0℃を上回り,翌日には20cm深の地温も0℃を上回る.これらは季節的な凍結融解作用といえ,地表では2005年11月16日以降に,20cm深では2005年10月31日以降に,継続的に形成された季節凍土の融解を示すものである.したがって,地表では年回25回,20cm深では年間3回の凍結融解サイクルが発生することが明らかとなった.
  • 長谷川 裕彦, 佐々木 明彦, 増沢 武弘
    セッションID: 618
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     南アルプス南部では,現地調査に基づいて最終氷期を通しての氷河の消長史が明らかにされた地域はまだ無い.演者らは,2005 年夏季に荒川三山北面に位置する魚無沢において現地調査を実施し,同地域の氷河地形発達史を明らかにしたので報告する.

    調査地域
     魚無沢は,荒川中岳(3083 m)と悪沢岳(3141 m)を結ぶ稜線の北斜面を源頭とし,北流して標高 1900 m 付近で大井川支流の小西俣に合流する谷である.現河床高度 2000 m 付近から上流は,谷底幅の広い U 字形の横断面形を呈する谷となっている.荒川三山を取り巻く斜面には複数の圏谷が発達するが,魚無沢流域にだけは圏谷が分布しない.

    堆石の分布
     空中写真判読と現地調査の結果から,魚無沢には上流側から順に a~g の 7 組の堆石群およびアウトウォッシュ段丘が分布することが明らかとなった(図 1).各堆石の分布下限高度は以下の通りである.a 堆石;2600 m,b 堆石;2430 m,c 堆石;2320 m,d 堆石;2130 m,e 堆石;2060 m,f 堆石;1960 m,g ティル;2000 m.
     a~e 堆石は,リッジ状の形態を残す地形的に明瞭な端堆石・側堆石で,a~d 堆石は氷河表面ティルと判断される無層理・無淘汰の角・亜角礫層からなることが確認された.b~e 堆石の下流側には,地形的に連続するアウトウォッシュ段丘が分布し,b・c 堆石では氷河上ティルと融氷流水堆積物の境界部を観察できる露頭が発見された.f 堆石は,谷壁斜面に張り付くように残る側堆石で,氷食岩盤上に堆積する氷河底ティル・氷河表面ティルが確認できた.g ティルは,現河床からの比高 50 m~200 m の谷壁斜面に分布する層厚 10 m 前後の堆積物で,層相から氷河底ティルと判断された.g ティルには,他の堆石構成層には認められない風化の著しく進んだ礫が含まれる.

    氷河前進期の区分
     各堆石の分布高度,開析・変形の程度,構成礫の風化度に基づいて,魚無沢における氷河前進期を古い方から順に最古期(g ティル堆積期),魚無沢期 1・2・3(f・e・d 堆石形成期),悪沢岳期 1・2・3(c・b・a 堆石形成期)に区分した.

    氷河前進期の編年
     c 端堆石を構成する氷河表面ティルの上位には,下位から順に層厚 40 cm の礫まじり風成二次堆積物,層厚 140 cm の崩積堆積物,層厚 80 cm の周氷河斜面物質が堆積し,表層に腐植質土層が載る.腐植質土層最下部とティル直上の風成堆積物内にはガラス質細粒火山灰のレンズが挟在し,火山ガラスの屈折率測定の結果,前者は K-Ah,後者は AT に同定された.これにより,悪沢岳期 1 は AT 降灰以前であることが確実である.日本アルプスで明らかにされた氷期編年との対比から,最古期は一つ前の氷期,魚無沢期は最終氷期前半の亜氷期,悪沢岳期 1 は最終氷期後半の亜氷期初期,悪沢岳期 2 は最終氷期極相期,悪沢岳期 3 は晩氷期にそれぞれ対比されると考えられる.
  • 佐藤 浩, 関口 辰夫, 小荒井 衛, 八木 浩司
    セッションID: 619
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
    会議録・要旨集 フリー
    研究対象地区(3.8km2)の地形分類図を作成するとともに、地形発達を考察した。
  • 苅谷 愛彦, 小森 次郎, 川崎 巧, 松永 祐, 目代 邦康, 佐藤 剛, 宮沢 洋介, 石井 正樹, 岩田 修二
    セッションID: 620
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    北アルプス白馬大雪渓における過去約10年間の主要な地質災害について,その発生場所や発生要因,犠牲者をまとめた.
  • 目代 邦康
    セッションID: 621
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1. はじめに
     2005年8月11日に,日本有数の人気登山ルートである白馬大雪渓において,落石事故が発生した.白馬大雪渓右岸の杓子岳の岩壁斜面から,最大で長辺10 mの巨礫を含む,総量約8000 m3の岩屑が,約200 m落下し,登山者1名が亡くなっている.さらに,昨年の2006年8月27日にも落石により登山者2名が亡くなる事故が発生している.登山愛好家が増え,各地の山岳地域に多くの登山者が訪れている現在,このような事故を軽減するために,山岳自然公園における災害リスクの評価が必要である.そのためには,斜面変動が発生した場所の実体解明と,発生しうる場所のスクリーニングが必要である.しかし,山岳地域の地形・地質構造は大変複雑であり,調査も困難を極めるため,基本的な情報の集積が十分になされていない.現在,筆者らの共同研究グループでは,白馬大雪渓をフィールドとして災害履歴図や斜面変動の素因となる地形・地質条件図の作成をすすめている.その活動の一環として,筆者は,落石や岩盤崩壊の素因となる岩盤の性状について調査を行ったので,その結果を報告する.

    2. 白馬大雪渓周辺の地形と地質構造
     姫川支流の北股入最上流部は,白馬岳山頂の南側にある葱平圏谷と杓子岳圏谷を源流とし,白馬沢合流地点(白馬尻)までの長さ約2 km,谷幅約300 mの谷が存在する.この流路沿いに氷成堆積物が記載されており,更新世後期には谷氷河は発達していたと考えられている(小疇ほか1974).
     白馬大雪渓の谷壁斜面を構成する岩盤は,火成岩である珪長岩,超苦鉄質岩,変成岩の泥岩ホルンフェルスなどである(中野ほか 2002. 5万分の1地質図幅「白馬岳」).杓子岳は,主にこの珪長岩で構成されている.珪長岩は,緻密な非晶質で節理が発達している.

    3. 岩盤に発達する節理
     白馬大雪渓周辺の岩盤斜面では,珪長岩が分布している範囲が広い.その珪長岩の斜面では,褐色に変色している節理が発達している.また,数は少ないが褐色の変色を伴わないものもある.褐色を伴わないものは,わずかに開口していた.観察されたのは,標高約1800 m の左岸斜面1箇所である.一方,褐色に変色している節理は,2005年の落石事故の原因となった落石箇所をはじめとして,珪長岩が裸岩となっている場所では,多数観察することができる.残雪上の落石や,前述の2005年に発生した落石を見ると,礫の一面が褐色に変色しているものが多く観察された.これは,褐色に変色している節理で岩盤が割れて落石を起こしていることを示している.
     泥岩ホルンフェルスの岩盤では,岩盤に卓越する節理系と斜行する節理が標高約1700 mの左岸斜面で観察される.ただし,確認できたのは,この一箇所である.

    4. 熱水変質による珪長岩の岩盤劣化
     珪長岩の礫が褐色に変色しているのは,酸化鉄によるものである.そして,この礫には径1 cm未満の空隙が存在する.また,礫には,黄鉄鉱と黄銅鉱が存在する.この鉱物の生成条件から,少なくとも地下600~700 mの場所で節理に沿って250~270℃の熱水が流れ,鉱物が生成されていたことがわかる.現在は,山体の隆起と長期的な削剥により,それが地表付近に現れている.このような状況と,礫の観察結果から,黄鉄鉱が酸化鉄と硫黄に分解され,硫黄は硫酸となって雨水に溶けて流れ出し,その結果,礫の多孔化が進んで,空隙が形成されたことが考えられる.また,鉱脈周辺の多くの場所で,粘土化変質が進んでいることが予想される.節理での粘土鉱物の存在は,岩盤斜面の安定性に大きく影響する.以上の岩盤劣化と粘土鉱物の生成が珪長岩の岩盤斜面の不安定性を高めていると考えられる.
     珪長岩の褐色にしている箇所では,部分的に周囲より盛り上がっている場所がある.これは,前述の粘土化変質と同時に起こる珪化変質によるものと考えられる.熱水鉱床の周囲に珪素が集積することにより相対的に岩盤が強固になり,侵食されにくくなっている.
  • 恩田 裕一, 平岡 真合乃, 伊藤 俊, 加藤 弘亮, 水垣 滋
    セッションID: 622
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.はじめに
     日本の森林の約40%が,スギ・ヒノキなどの人工林であり,そのうち約8 割が徐伐・間伐などの手入れを必要とする45 年生以下の森林である。手入れが適切に行われないヒノキ林地では,下層植生が減少し,落葉が消失しやすいため,林床が裸地化することが知られている。また,このような林内では,最終浸透能が低下することが報告されている。しかしながら,円筒管式や,霧雨状の降雨型浸透計では(湯川・恩田, 1995),測定された浸透能がかなり高い値を示している。そこで,本研究では,林内雨並みの雨滴衝撃を再現したポータブルな散水装置を用いて各地の浸透能の測定を行った。
    2. 調査地域および方法
     実験には,スプレーイングシステム社製Veejet 150ノズルを使用した振動ノズル型人工降雨装置を使用した。散水装置へは,エンジンポンプを使用してノズルに圧力をかけた状態で使用した。林内における雨滴衝撃を再現し,高い雨滴衝撃を維持したまま散水強度を下げるため,ノズル部を往復振動させ,散水を不連続的にすることにより,大きな雨滴でも,過大とならない降雨強度にとどめることができる.ノズルの往復振動角度は130度,振動周期は,毎分13.5往復となるように調節した。方向転換時の散水量の増加を防ぎ,さらには散水量を調整するために,ノズルの可動部の左右にキャッチトレイを設置し,キャッチトレイに散水された水は再びタンクに戻るようにした。正味の散水範囲は,45度である。
     ノズルは地表面より2mの位置に設置し,振動周期は,毎分13.5往復となるように調節した.散水範囲は,プロット外にも15%程度散水されるように調整した。散水した水は,プロットは幅1 m,奥行き1 mの正方形の範囲にほぼ均一に散水される。キャリブレーションによって,散水強度は,約180 mm/hに調整され,雨滴衝撃力は,15 J/m-2mm-1 と林内雨並みに設定することができた。
     浸透能測定地域には,地質構造や年間降雨の異なる全国4ヶ所を選定した。高知県大正町の,ヒノキ林,スギ林,広葉樹林,三重県大紀町の施業状況の異なるヒノキ林,長野県伊那市のヒノキ林,東京都青梅市の,ヒノキ林,スギ林,広葉樹林である。なお,林床が被覆された条件下では,霧雨型(湯川・恩田, 1995)の装置を併用した。
    3.結果と考察
     ヒノキ林における振動ノズル式散水装置の浸透能値の結果と植生およびリター乾重量の関係より,植生とリターが減少するにつれて浸透能が小さくなることが示された。特に,リターが失われると急激に浸透能が低下することから,植生やリターが雨滴衝撃を和らげる役割を果たしていることが考えられる.逆に,荒廃した林内のような地表が露出した土壌には雨滴衝撃によって,難透水性の土壌クラストが形成されている可能性が示されている(Agasi et al 1994;恩田1995;恩田・山本 1998).下層植生やリターには雨滴衝撃から地表面を保護し,浸透能低下を防ぐ役割があることが考えられる.また,ヒノキ林において浸透能の値を,150mm/h以上にするためには,少なくとも1kg/m2の下層植生とリター量が必要であることがわかった。

    文献:湯川・恩田 (1995):. 日本林学会誌, 77(3), 224-231.
  • 加藤 弘亮, 恩田 裕一, 田中 幸哉
    セッションID: 623
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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    1.研究の背景
     モンゴル半乾燥草原において,過放牧によって土壌侵食が増加し,土地荒廃の進行が指摘されている。しかし,これらの地域では,土壌侵食についての観測データが限られており,草原の土壌侵食の実態は明らかになっていない。
     近年,欧米諸国を中心として,土壌中の放射性同位体の存在量から,過去の土壌侵食履歴を推定する手法が用いられている。最近では,従来のセシウム-137の代わりに,鉛-210を用いた研究が報告されている(Walling et al.,2003)。
     そこで本研究は,セシウム-137と鉛-210を用いて,モンゴル半乾燥草原の放牧の状況が異なる二つの地域の土壌侵食量を推定し,長期的な放牧圧の違いが土壌侵食履歴に及ぼす影響を明らかにした。

    2.研究地域と方法
     モンゴル国の北東部を流れるヘルレン川流域の,放牧の状況が異なる二つの地域にそれぞれ試験流域を選定した。ひとつはヘルレンバヤンウラン(KBU;6.9 ha)で,冬季に積雪が少ないため,放牧家畜の越冬地として古くから放牧圧が高い地域である。もうひとつはバガノール(BGN;7.6 ha)で,ここ十数年に放牧家畜の頭数が増加している地域である。
     セシウム-137と鉛-210の空間分布を明らかにするために,それぞれの試験流域内の50地点において30cm深の土壌コアを採取した。また,調査地域における放射性核種の降下量を明らかにするために,リファレンスサイト(侵食も堆積も起きていない地点)において土壌コアを採取した。採取した土壌は,105ºCで24時間乾燥させた後,2 mmのふるいにかけた。ふるい通過分を測定用の容器に封入した後,Nタイプ・ゲルマニウムγ線検出器(EGC25-195-R,Canberra,France)を用いて12時間測定し,それぞれの核種の濃度を測定した。土壌侵食量は,移行拡散モデル(He and Walling,1997)を用いて,大気中からの降下量に対する放射性同位体存在量の増減率を土壌侵食量に変換した。

    3.結果と考察
     土壌中のセシウム-137の分析から推定した土壌侵食量は,放牧圧が高いKBUで多く,放牧圧が低いBGNでは少なかった。また,鉛-210の分析からも同様の結果が得られた。試験流域内で侵食された土砂のうち,試験流域外に流出する土砂の割合(土砂輸送率)は,セシウム-137の分析結果からBGNで82 %だったのに対し,KBUでは97 %だった。一方,鉛-210の分析から推定した土砂輸送率は,KBUではセシウム-137の結果と比べて高かったが,BGNでは低い値を示した。放射性同位体を用いた土壌侵食量の推定手法は,侵食土砂が速やかに流亡することを前提としており,Fukuyama et al.(Submitted)によれば,侵食速度が遅い斜面では,定常的に大気中から降下する鉛-210の影響を受けて土壌中の濃度が増加することが指摘されている。BGNでは斜面下方にいくにつれて鉛-210濃度が増加し,それは雨滴衝撃やシートフローによってゆっくりと土砂が運ばれるため(Onda et al., 2006),大気中からの新たな鉛-210が付加したことに起因すると考えられる。このことは,BGNにおいて,鉛-210から推定した土砂輸送率がセシウム-137よりも小さく見積もられた原因と考えられ,BGNのように侵食された土砂がゆっくりと移動するような環境では,鉛-210では土壌侵食量を正しく評価できないことが示された。

    <参考文献>
    Fukuyama et al.. Journal of Geophysical Research, submitted.  
    He, Q., & Walling, D.E. (1997). Applied Radiation and Isotopes, 48(5), 677-690. 
    Onda et al. (2006). Journal of Hydrology, in press. 
    Walling et al. (2003). Geomorphology, 52, 193-213.
  • 山田 哲士, 小口 千明
    セッションID: 624
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     近年、100年程度は健全であるといわれるコンクリート構造物の早期劣化が問題となっている。このような状況下、築37年になる埼玉大学工学部のペデストリアンデッキにおいても劣化が進み、コンクリート表面が剥落してきている。その剥落したコンクリート表面の周辺には塩類の析出が見られ、その現象は岩石における塩類風化に似ていた。そこで、コンクリート構造物における塩類風化プロセスを現地調査と室内実験により解明することを目的とし研究を進めた。現地調査では塩類の析出が見られる箇所を写真で撮影し、塩をサンプリングした。サンプリングした塩はX線回折法やSEM-EDS分析し、鉱物組成を調べた。その結果析出していた塩は主にトロナとカルサイトであり、トロナは乾燥した季節のみ析出していた。また、室内実験は整形したコンクリートとスペーサーを蒸留水、トロナ、炭酸水素ナトリウム、炭酸ナトリウム、硫酸カルシウムの5種類の溶液に浸し、その後、炉乾燥機で乾燥させるという作業を21サイクル行い、剥落の状況を観察した。結果は、溶解度の大きいトロナと炭酸ナトリウムに浸したコンクリートのみに剥落が確認できた。このデータを元に風化指標WSIを算出した。
  • 北村 繁, エルナンデス ウォルテル, プリンジャー カルロス, マティアス オトニエル
    セッションID: 625
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/04/29
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     コアテペケカルデラ(Lat. 13.87N, Long. 89.55W; 11.5 x 6.5 km)は中米北部にみられる5つの大規模カルデラ火山のひとつで、エルサルバドル共和国の首都・サンサルバドル市の西南西約40kmに位置している。これまで、3回の大規模噴火により、Bellavista, Arce, Congoとよばれる降下軽石および軽石流を、それぞれ77ka、72ka、および、56.9kaに生じたことが知られてきた(Pullinger, 1998; Rose, et al., 1999)。
     これらのうち、Bellavista降下軽石および軽石流は、カルデラ周辺にのみ分布が知られている。一方、Arce降下軽石は、エルサルバドル西部地域で見出される最も顕著な降下軽石層で、黒雲母と角閃石に富むため野外での認定が容易で、カルデラ周辺から西方一帯に広く堆積することが知られてきた。また、その下位には、グァテマラ南部~エルサルバドル西部に分布するHテフラ(84ka)が見出されている。Congo軽石流は、カルデラ周辺に厚く堆積しており、Congo降下軽石もカルデラから西方への分布が知られている。
     これに加えて、近年、Congo降下軽石より上位に、Atiqui- zaya降下軽石(kitamura, 2006)、および、Conacaste軽石流堆積物(Hernandez & Pullinger, 未公表資料)が見出された。従来、これらは、それぞれ、Congo降下軽石および軽石流堆積物の一部とみなされてきたが、Congo 降下軽石あるいは軽石流堆積物の上位に、明瞭なロームをはさんで堆積していること、最下部に桃白色の細粒火山灰(Turin火山灰)を伴っていることから、Congo降下軽石および軽石流堆積物と異なる噴火による堆積物であることが野外で認定できる。また、Atiquizaya降下軽石とConacaste軽石流堆積物は、それぞれ独立に見出されたが、上述したような層位的特徴からみて、両者は同じ噴火の産物であると考えられる。Congo降下軽石および軽石流堆積物、ならびに、Atiquizaya降下軽石およびConacaste軽石流堆積物は、いずれも角閃石と斜方輝石に富む。
     一方、コアテペケカルデラの西北西150kmに位置するグァテマラ市周辺では、従来よりA1、および、A2テフラと呼ばれる火山灰が知られてきた(Koch & McLean、1975)。いずれも数cm程度までの厚さの白色細粒火山灰であるが、A1テフラは、黒雲母と角閃石に富み、A2テフラは、角閃石と斜方輝石に富む。A1テフラは、上述のHテフラの上位に、Cテフラをはさんで堆積しており、A2テフラは、A1テフラの上位に堆積している。また、A2テフラは、23kaとされるBテフラの下位に、Eテフラをはさんで堆積している。したがって、A1およびA2テフラは、コアテペケカルデラ起源のテフラと対比を検討すべき層位にある。
     本研究では、コアテペケカルデラから20km程度までの地域、ならびに、グァテマラ市付近の数地点の露頭から試料を採取し、各テフラの火山ガラスの化学組成を比較することにより、対比を検討した。分析には、弘前大学理工学部地球環境学講座の波長分散型X線マイクロアナライザーを用い(加速電圧15kv、ビーム電流3x10-9A、ビーム径10μm)、ガラス片を10~30個程度分析して、平均と標準偏差をもとめた。
     化学組成分析の結果、Congo降下軽石および軽石流堆積物と、Atiquizaya降下軽石およびConacaste軽石流堆積物については、互いに火山ガラスの化学組成が類似していることが判明した。一方、これらのテフラと、Arce降下軽石、Bellavista降下軽石および軽石流堆積物の火山ガラスの化学組成は、Harker図上で、互いに異なった分布を示すことから、明瞭に判別される。グァテマラ市周辺で知られてきたA1、A2テフラの火山ガラスの化学組成の分析結果をHarker図上で、これらと比較すると、A1テフラはArceテフラと、A2テフラは、Congo降下軽石・軽石流堆積物と、Atiquizaya降下軽石・Conacaste軽石流堆積物と類似した化学組成をもつことが判明した。
     本研究で得られた化学組成、ならびに、従来より知られていた層位、鉱物組成からみて、A1テフラとArceテフラ、A2テフラとCongoテフラまたはAtiquizayaテフラは対比される可能性が極めて高い。すなわち、Arceテフラ、および、CongoまたはAtiquizayaテフラのいずれかは、約150km離れたGuatemala市まで到達していたとみられる。また、グァテマラのCテフラの年代は、約72ka以前で、Eテフラは、およそ57ka以降であるとみることができる。
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