日本地理学会発表要旨集
2011年度日本地理学会春季学術大会
選択された号の論文の295件中51~100を表示しています
  • 矢野 桂司, 東山 篤規
    セッションID: 422
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    I はじめに
     われわれは,知らない土地に住むようになっても,やがてその街並みを記憶にとどめ,目を閉じてもそれを想起することができるようになる(たとえばLynch, 1960).このような空間的な記憶像は,認知地図とよばれる.この報告では,認知地図の生成過程の一端を明らかにするために,3D-GISによって作られた通りのバーチャル空間(矢野ほか,2007)の中を観察者に自由に移動させ,その直後に,記憶された建物の位置を再生させるという実験を行った.実験では,事前に独立変数を設定するというよりは,観察者の反応から認知地図の生成に効果があると推定される変数を明らかにする方法が採られた.
    II 方法
     被験者.6大学(院)生(男2人,女4人).どの参加者も,本実験で使用した地区に出かけて行った経験がほとんどなかった.
     装置.被験者がPCのマウスを操作することによって,京都市三条通(東端の柳馬場通と西端の烏丸通に挟まれた東西約376mの通り.三条通に沿って新旧さまざまな建物が林立し,東洞院通,高倉通,堺町通が南北にこの通りを横断する)の光景がPC画面(24.1インチ)上に映し出され,被験者はこの通りに沿って自由に移動しているというバーチャルな体験を得ることができた.実験中に被験者が,通りのどの場所に位置し,どの方向を向いていたかは,被験者の行動をビデオカメラによって録画し、特定された.
     手続き.実験は5試行からなっていた.各試行において各被験者は,マウスを使って,三条通東端からこの通りを3分間自由に移動して,建物の位置を記憶するように求められた.移動の直後に被験者には特定の10建物の写真画(ターゲット)が与えられ,それらを,三条通りを横切る主要な通りと区画のみを描いた白地図の上に,正しく置くように求められた.被験者は,自分の好きな順序でターゲットを置き,その位置を変えることもできた.反応の正誤は被験者に教えられなかった.
    III 結果
     移動.被験者の移動を明らかにするために,各試行において10秒ごとに各被験者の位置を求め5試行の平均値を得た.図1は全被験者の平均的位置の変化を示す.横軸は経過時間,縦軸は三条通東端からの距離を示す.被験者は一般に,三条通りの東端から西に向かい西端の手前から折り返している.
     正答数.図2はターゲット(建物の写真)の関数として,それが正しく置かれた回数の平均値(N = 6)を示している(最大5回).この平均正答数を目的変数とし,ターゲットの大きさ(最小のターゲットを1,最大を10とする),出発点にあるターゲット,建物との遭遇回数を説明変数として重回帰分析を行った.切片は0と仮定した.その結果,ターゲットの大きさ(t = 6.85, p < .001)と出発点にあるターゲットの効果が有意であった(t = 2.54, p < .05).図2には,これらの説明変数からの予測値も表わす.実測値との適合度はかなりよい(R2 = .97)
     正答数の高いターゲットは,建物D,G,H,Jなど大きな対象であることがわかった.一般に小さな建物C,E,Fの位置は記憶に残りにくいが,小さい建物でも出発点に近いと,建物Aのように,高い正答数が得られる(初頭効果)ことが示された.
    IV 考察
     認知地図が記憶に残るものを中心に生成されるとすれば,本実験の結果は,よく目立つ大きなものや出発点のような空間の基準枠を与えるものを中心に認知地図が作られていくことを示す.また3D-GISによるバーチャル空間が,実験道具として利用価値が高いことも示された.
  • 花岡 和聖
    セッションID: 423
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    I はじめに
     近年、「全国消費実態調査」や「住宅・土地統計調査」などの公的統計のミクロデータが整備され、公開が進められる。こうしたミクロデータは、「匿名データ」と呼ばれ、さまざまな秘匿処理が施され、個人が識別不可能な形式で、提供される。匿名データといった大規模なミクロデータを利用することで、集計化による生態学的誤謬を避けられ、複数の変数をクロスさせた詳細な分析が可能となる。
     一方で、匿名データで表章される空間単位は、「住宅・土地統計調査」で都道府県別、その他の統計調査では「3大都市圏か否か」でしかない。つまり、地理空間分析を実施するためには、より詳細な空間単位を推定する必要がある。
     そこで、本研究では、焼きなまし法を用いて、国勢調査の小地域単位(町丁・字等)別に、全国消費実態調査の匿名データの拡大補正を行う。これによって、疑似的なミクロデータを小地域別に生成し、消費者購買行動の分析に活用する。以上の分析を通じて、匿名データを用いた地理空間分析の可能性に言及することにしたい。
     研究対象地域は、この数年、小売環境が大きく変化した滋賀県草津市とする。草津市の平成17年の世帯数は、約5万世帯である。

    II 焼きなまし法による拡大補正法
     本研究では、焼きなまし法を用いて、小地域別に匿名データの拡大補正を行う。焼きなまし法は、金属の冷却工程を模した組合せ最適化アルゴリズムのひとつである。同手法は、主に空間的マイクロシミュレーション研究で利用され、花岡(2006)やHanaoka and Clarke(2007)において、その有効性が確認されてきた。
     焼きなまし法で使用するデータは、平成17年国勢調査小地域集計及び平成16年全国消費実態調査の匿名データのうち三大都市圏の世帯サンプルである。
     焼きなまし法による拡大補正では、国勢調査小地域集計から得られる各小地域の周辺度数(制約条件)と一致するように、匿名データの世帯サンプルを繰り返し抽出・置換し、新たな世帯サンプルの組合せ(「合成ミクロデータ」と呼ぶ)を求める。その制約条件として、購買行動の推定を念頭に、国勢調査小地域集計から世帯員及び世帯に関する統計表5つを用意した。

    III 焼きなまし法の適用結果
     焼きなまし法による拡大補正の結果は次の通りである。TAE(Total Absolute Error)は、制約条件とした統計表と合成ミクロデータを集計して得られる統計表をセル毎に比較して、両者の度数の差を合計した値である。小地域別のTAE平均は39.356を示し、両データが高い整合性であることを示す。また小地域別の1世帯当たりTAEは精度の目安として1以下であることが望ましいが、この条件を満たした。

    IV 小地域単位での消費者購買行動の把握
     生成された合成ミクロデータを集計し、草津市内の小地域別の購買行動特性を把握する。なお資料の制約上、単身世帯と施設等の世帯は、今回の集計から除外した。
     本研究によって推定された1か月当たりの食料(外食等を含む)及び婦人用洋服への平均支出額の分布図からは、世帯規模を反映して草津市北西部、南部の住宅団地で食料支出が多い。他方、婦人用洋服は、ファミリー向けのマンションや戸建住宅が立地する草津駅周辺~北側の地域や市内南部の一部地域で多い。

    V おわりに
     本研究では、焼きなまし法を用いて、匿名データを小地域別に拡大補正し、合成ミクロデータを生成した。全国消費実態調査の匿名データはサンプル数も多いことから、この合成ミクロデータは国勢調査小地域集計とも高い精度で整合した。このように空間単位を細分化するように拡大補正を適用することで、匿名データを地理空間分析に幅広く利用できる可能性がある。今後は、詳細な精度検証を踏まえて、草津市の消費者購買需要予測に本研究成果を利用する。
  • 赤石 直美, 松本 文子, 瀬戸 寿一, 飯塚 隆藤, 矢野 桂司, 福島 幸宏
    セッションID: 424
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    _I_ 研究目的 近代京都の景観を復原する際,民間会社や個人が作製した地図は,地形図では把握されない詳細な情報を記載している場合があり,有益な資料として活用されている.例えば,土地台帳の附属、地図である地籍図(公図)を基にして,大正元(1912)年10月に京都地籍図編纂所によって発行された『京都地籍図』(1/1200~1/2000)は,京都市の土地利用の詳細を知る地図として挙げられる.しかし地籍図では,宅地でも商業施設なのか民家なのかといった建物用途の違いまで明らかにできない.したがって,近代の京都について,その建物の詳細まで復原した研究には限界がみられた. そのような状況のなか,京都府立総合資料館において「京都市明細図」が2010年11月より新たに公開された.それは,火災保険の利率を算定するために各都市で作成された,火災保険地図・火災保険特殊地図・火保図などと呼ばれる地図である.京都市明細図には,建物用途のほか階層や構造まで記されており,建物ごとに利用の違いを明らかにできる. 本研究は,今回新たに公開された京都市明細図を用いて,近代京都の景観復原を試みる. _II_ 京都市明細図の概要  京都市明細図を所蔵する京都府総合資料館の解説によれば,今回見つかった地図は,昭和2(1927)年頃に大日本聯合火災保険協会京都地方会が作成した図面に,昭和26(1951)年頃までに訂正・加筆等が行われたものである.地図の範囲は,作成当時の京都市域,東は東山山麓,西は西大路附近,南は十条通,北は北山通周辺までである.管見の限り,京都明細地図と同時期・同程度の精度の地図は確認されておらず,当地図は近代京都を知る基礎資料として非常に価値があるといえる.  京都市明細図の縮尺は1200分の1であり,一枚の大きさは38cm×54cm程度,全体は291枚(図面286枚,表紙・全体図5枚)で構成されている.ただし,全体図に記載されていながら欠けている図面が3枚ある.原図の作製年は昭和2年であるが,昭和26(1951)年3月まで調査・加筆された事が確認される.また,旧図の上に新図が重層的に貼附されている部分もあった.さらに,商店などには赤,住宅には緑,工場などには青,社寺には黄色,官公署などには橙,堅牢建築物などには黒と彩色が加えられている.それらの彩色は,戦時中に建物疎開によって取り壊された建築物にはされていないことから,終戦後の加筆と思われる.そして,京都市明細図の大きな特徴は,商店の小売品目や病院の診療科名などが細かく記載されていること,建物の階数や構造が数字・記号で記入されていることにある. 以上から,京都市明細図を用いることで,昭和初期の建物用途や商業施設の分布の詳細を復原することができると考える. _III_ 京都市明細図のGIS化 本研究で取り上げる京都市明細図には,商店の小売品目に加え色分けや書き込みなど多様な情報が記されており,それらを有効に管理し景観復原を行う必要がある.本研究では,地図データをGIS化することにより,土地ごと・建物ごとに様々な情報を付加しながらデータを管理し,それらを比較検討する.  今回の発表では,特に京都市中心部の三条通と四条通の南北間の新町通と河原町通間に含まれる地域を対象として分析を行う. _IV_ 結果と今後の課題  京都市明細図を用いることで,昭和初期の京都市中心部の通景観が詳細に復原される.具体的には,建物の階層についての数字を基に,町家か否かといった通りに面する建物の形状がより実態に即した形で把握される.また,一見すると同じような商店が並んでいるようでも,小売の品目には違いがみられ,それらを考慮した景観の復原が可能である.さらに,京都地籍図や過去の空中写真などと重ねることで,土地所有者と利用者との相違や,土地一筆と建物立地との相違なども検討できる. 今後は,現在も残る町家といった歴史的建造物の分布との関連性,現在と過去での商店の立地の相違なども検討し,京都の都市景観の時系列的な変遷を明らかにしていきたい. 参考文献 総合資料館メールマガジン第111号 京都市明細図の公開 京都府総合資料館 2010年12月29日付 小鍛冶 恵・内田 弦・清水英範・布施孝志(2007)都市史研究への火災保険特殊地図の応用可能性―戦前・戦後の街並み調査に向けて―.G空間EXPO/地理空間情報フォーラム 学生フォーラム研究発表論文.
  • 山田 育穂
    セッションID: 426
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    米国において低出生体重(出生体重2500g未満)は、乳児の死亡・罹病の主要な原因の一つであり、また人種・民族間に著しい格差が存在するため、公衆衛生上の深刻な問題となっている。本研究では、カリフォルニア州ロサンゼルス都市圏を対象に、低出生体重リスクの時空間分布を特に人種・民族間の差違に着目して解析する。低出生体重リスクの空間分布の時間的推移を把握するため、1985年から2004年の20年間にカリフォルニア州に提出された出生届からなるCalifornia Birth Statistical Master Files 1985-2004に、時空間スキャン統計を適用する。解析は、既知のリスク要因である母親の年齢と出産回数を統計的にコントロールし、非ヒスパニック系白人、ヒスパニック系白人、アフリカ系アメリカ人の3つの人種・民族グループ毎に行う。結果、3つのグループにそれぞれ異なった時空間パターンが検出され、特にヒスパニック系白人のパターンは他のグループと顕著に異なっている。今後は、今回検出された時空間パターンとその人種・民族間の差違を、個人や近隣住環境の特性と関連づけて解析し、低出生体重のリスク要因の理解へと発展させて行くことが肝要である。
  • Google Maps APIを利用して
    谷 謙二
    セッションID: 427
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1.Google Maps APIを用いたジオコーディングと地図化  2006年からGoogle Maps APIにおいて日本語でのジオコーディングサービスが提供されるようになり,世界中の地名をジオコーディングできるようになった。Google Maps APIのジオコーディング機能を利用したWebサービスは,日本語Webサイトに限定しても数え切れないほど存在する。しかし,様々なWebサイトを見ても,次のような点をすべて満たすサイトは見られず,精度の低い地点に気づかなかったり,地図化に別途GISが必要だったりと不便な点が多かった。  _丸1_複数のデータを一括してジオコーディング,_丸2_住所と施設名との二重チェックで変換精度の高い方を取得する,_丸3_ジオコーディングの結果をテキストと合わせて地図上で示す,_丸4_変換精度の低い地点をわかりやすく地図上に示し,マニュアルでドラッグして位置を調整できる,_丸5_種類ごとに複数のマーカーで地図上に表示して表示/非表示を切り替える,_丸6_KML形式での出力。  そこで本研究では,これらの要素を満たすWebサイトを開発し,構築・公開する。Google Maps APIには様々な種類があるが,ここではWebサイトで一般的に利用できるJavaScript APIを利用した。現在Google Maps APIの最新バージョンはV3であるが,ここではV2を使用して開発を行った。作成したWebサイトはhttp://ktgis.net/gcode/で公開している。 2.利用方法  Webサイトは,ジオコーディングを行ってポイントの緯度経度を取得・表示し,地図化する画面と,緯度経度から地図化する画面に分かれている  ユーザーはまずジオコーディングのページで緯度経度を取得し,精度が低い場合はGoogle Map上でマーカーを移動させたり,キーを修正してより正しい位置情報を取得する。図1はジオコーディングのページであり,テキストボックスにキーとなる住所や施設名を貼り付け,「表示」ボタンをクリックすることでジオコーディングが行われる。その際,地図上に表示されるマーカーのアイコンの種類を指定することもできる。図2はジオコーディングの結果が地図上に表示された画面である。地図上のアイコンをドラッグしたり,地図上をクリックしてマーカーを追加することができる。  取得した緯度経度情報は,テキストボックスからコピーしてユーザーのExcel等に貼り付けて保存しておく。保存した緯度経度情報を再度地図化したい場合は,「緯度経度から地図化」のページを使用する。分析機能として,表示されているマーカー間の最近隣距離を取得する機能を持っている。  本サイトは,ジオコーディングから地図化まで簡便に行うことができるので,専門的な研究だけでなく,大学生のレポート作成など地理教育にも活用できると考えている。
  • ウッタラカンド州とヒマーチャル・プラデーシュ州の比較から
    岡橋 秀典
    セッションID: 501
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    _I_.はじめに 本報告は、インドの国内の地域格差問題をふまえて、条件不利地域であるインドの山岳地域の経済発展について、2つの山岳州、ヒマーチャル・プラデーシュ州(HP州、人口608万人)とウッタラカンド州(UK州、849万人)の比較考察を行う。この2州は隣接するが、歴史的経緯や政策面で異なるところが多い。前者は独立時に連邦直轄領となり、その後1971年という早い時期に州に昇格し、経済開発を進めてきたのに対し、後者は2000年にウッタル・プラデーシュ州から分離して独立した州となり独自の政策がとれるようになった。そして、この2州間にはかなりの経済的な格差が存在する。ここでは経済発展の実態を確認するとともに、地域格差の要因についても検討してみたい。 _II_.経済発展の地域格差 州の所得水準を示す1人当たり純州内生産(NSDP)でみると、HP州は全国でも最も所得の高いグループに入り、UK州を大きく上回っている。2008年度では、HP州は44,538ルピーで、UK州の36,520ルピーの約1.2倍である。他方、UK州はインド全体の37,490ルピーをもやや下回る。ただ、1999年度にHP州がUK州の約1.5倍であったのと比べると、両州の格差は縮小してきている。これはUK州が、この間、年率10_%_を超えるようなきわめて高い成長をとげてきたからである。このような2州間の格差は電化世帯率(HP州98_%_、UK 州67_%_)、10万人当たりの自動車所有台数(801台、465台)、100人当たり携帯電話台数(30台、6.8台)など、多くの指標でも確かめられる。なお、識字率(2001年)はともにインド全体の65.3_%_を超えるが、HP州が77.1_%_、UK州が72.3_%_であり、HP州の方が高い。 _III_.工業化の展開 HP州とUK州の工業化は、山岳地域ではなく山麓平原部の州境付近で進行した点が共通している。しかし、これらの工業化の時期には大きな相違がある。HP州では、州政府が早い時期から工業化の推進に努め、パンジャーブ州に近接する地域で工業団地開発を行った。1990年代前半には工業投資の伸びが特に著しく、これには州による立地企業への補助金も有効に作用した。これに対して、UK州は分離前のUP州の下で、1980年代に山岳地域でエレクトロニクス産業を中心に工業化を推進しようとしたが、成功しなかった。結局、州として独立後の2000年代に、中央政府の後進州向け産業政策に依存して山麓部で大規模な工業開発を実施した。工業化は多くの質の良い労働力を必要とするが、ITI(産業訓練校)等による工業労働者の養成においてもHP州の取り組みが優れている。このような工業化の展開における差異が、両州間の経済的格差の生成に関わっていると考えられる。ただ、両州ともにICT産業の振興に成功しているとはいえず、今後の政策課題となっている。 _IV_.農業における商品生産の展開  工業化においてはUK州がHP州にキャッチアップしつつあるが、農業生産では未だ大きな開きがみられる。HP州は今日インドでも有数のリンゴ産地となっている。1970年代以降急速に成長した新しい産地で、1970年から2008年の間に面積は3.6倍、生産量は5倍にも伸びた。リンゴ栽培は、標高の高い山岳地域が適地であり、また単位面積当たりの収益も高いため、広範な山岳地域農村の経済発展に大きな役割を果たしている。この背景には、州による果樹栽培の強力な振興策があったが、近年の経済成長は需要の拡大をもたらし、この地域の農業に波及効果をもたらしている。これに対して、UK州では、山麓部の平原地域に大規模な商業的農業がみられるものの、条件不利な山岳地域では基幹的な商品作物は育っていない。州は有機農産物の推進に力を入れているが、未だ十分な成果をあげえていないのが実情である。 _V_.おわりに  ヒマラヤ山岳地域において隣接するインドの2州の間には顕著な経済的格差がみられる。これをもたらしたものは何であろうか。一つは、計画経済下での州の役割の大きさがあげられよう。この時期には工業団地開発をはじめとして地域開発において州が大きな力を有していた。それゆえ、州として早くに独立したHP州の方が独自の経済開発戦略を推進できる余地があった。二つには、工業化に関しては、既存の産業集積との近接性が作用したと考えられる。HP州はパンジャーブ州という早くから工業化の進んだ地域に隣接し、工場誘致に有利であった。ただ、経済自由化後はデリー大都市圏の成長が著しく、2州ともにこの大都市を中心とした空間構造に包摂されつつあるといえよう。その影響は工業のみならず、観光開発や農業生産にも及ぶ。それにともない、山岳州内の地域分化が進み、今後は、州内の地域格差への対応が重要な政策課題になると予想される。
  • 友澤 和夫
    セッションID: 502
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1.研究の背景と目的
     2000年代のインドにおける工業立地には、デリーやチェンナイ、プネーなどの大都市の郊外での進展と、「特別カテゴリー州」に指定されたウッタラカンド州やヒマーチャル・プラデーシュ州といった、北部山岳州での展開という2つの傾向が認められる。前者は、経済自由化にともない、立地における制限緩和を受けて、1990年代に顕著となった現象の延長線上にあり、大都市工業地域の外延的拡大を引き起こしている。後者は、2000年代初期に、後進州での産業振興を目的として中央政府が導入した恩典制度を主たる誘因とするものであり、新しい現象と捉えられる。本発表は、後者の現象が最も顕著に発現しているウッタラカンド州に着目し、以下の3点を明らかにすることを目的とするものである。1)ウッタラカンド州における工業化進展状況の把握、2)同州を代表する工業団地であるIIEハリドワールおよび立地企業の全体的特性の把握、3)同工業団地を代表する大規模企業ヒーロー・ホンダ社の立地戦略と随伴して立地したベンダーへの接近である。なお、本発表にかかわる調査は2010年9月に実施した。
    2.ウッタラカンド州における工業化の進展
     ウッタラカンド州は、2000年にウッタル・プラデーシュ州から分離して設立された州であり、中央政府による「特別カテゴリー州」への恩典制度の発足に対応して、積極的な工業開発を実施している。具体的には州インフラストラクチャー工業開発公社(SIDCUL)を設立し、大規模な工業団地を開発して、それを受け皿とした工業立地を推進している(友澤、2008)。Annual Survey of Industriesによれば、制度発足時の2003年度において同州に所在する工場は679、従業者数は41,561人、粗生産額は725億ルピーに過ぎなかったが、2007年度には工場数1,417、従業者数129,585人、粗生産額3,307億ルピーとなり、短期間のうちに急速に工業化が進展したことが分かる。ただし、この間の工業立地は地域的には極めて偏ったものであった。2004年~2010年8月までの大規模工場(163)の立地先をみると、デヘラー・ドゥーン県(6)、ハリドワール県(70)、ウダム・シング・ナガール県(87)の3つに限られ、とくに後二者の数が傑出している。両県は平原部に位置し、工場誘致において有利な条件を有しているため、工業団地開発の場として州政府によって排他的に選択されたことによる。このように平原部の2つの県とそれ以外の山間地域に所在する県との間では、工業化という点で大きな格差が生じつつある。この点に配慮して州政府は、山間県での工業立地に対して2008年度より独自の制度を設けたが、実際の効果は得られていない。
    3.IIEハリドワールの開発と工業立地
     ハリドワール(2001年人口17.5万人)は、ヒマラヤ山系から流れ出たガンガーがヒンドスタン平原に注ぐ位置にありヒンドゥー教の聖地として知られる。当地における工業立地はバーラト重工業が先行し、IIEハリドワールもその敷地の一角を州政府が購入して開発したものである。開発面積は2,034エーカーであり、立地工場数は約540と、IIEパントナガールと並んで同州最大級の工業団地である。
    4.ヒーロー・ホンダ社の立地とベンダー企業
     同工業団地では、ヒーロー・ホンダ(HH)社の規模が傑出している。同社は、本田技研と現地のヒーローグループの合弁企業であり(合弁解消を決定済み)、世界最大の生産台数を誇る自動二輪車メーカーである。デリー首都圏地域(NCR)内のグルガオンとダルヘラに工場を有していたが、生産能力の限界に直面したことから第3工場の設立を企図していた。複数の候補地の中から、確保できる面積の広さと、デリーへの近接性に最も優れる当地への進出が2006年に決定された。生産能力は6,000台/日であり、最新鋭の生産システムが導入されている。2008年4月の工場稼働時にはNCRより部品を配送していたが、調査時には部品の州内調達率は約75_%_に向上した。それは、同社の一角に開発したベンダーパークに7社が進出したこと、そしてヒーローグループの不動産会社がIIEハリドワールの近郊に2つの工業団地を開発し、そこには24社が進出したことが大きい。これらベンダーとHH社の間では、ミルクラン方式による部品の配送がなされている。
  • ―ヒマーチャル・プラデーシュ州バディを事例として―
    宇根 義己
    セッションID: 503
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    研究目的 1990年代以降,インドでは大都市とその郊外で工業立地が進み,同国の経済発展を牽引してきた。一方,工業化が遅れている山岳州では,2000年代から中央政府が産業政策の推進に乗り出し,各種の優遇措置が適用されている。こうした政策などに伴い,近年は北部山岳州(ヒマーチャル・プラデーシュ州,ウッタラカンド州およびジャンムー・カシミール州)で工業立地が進んでいる。
     本発表は,ヒマーチャル・プラデーシュ州(HP州)のBaddi Barotiwala Nalagarh地域(バディ地域)を取り上げ,同地域における1)工業団地開発の状況,2)企業進出の実態,3)産業集積地域の形成要因を明らかにすることを目的とする。バディ地域はHP州で最も工業開発が進んでおり,ウッタラカンド州のハリドワールやパントナガールと並ぶ北部山岳州の主要工業地域である。現地調査は2010年9月に実施した。
    HP州の工業開発 インド中央政府は山岳部11州を「特別カテゴリー州」と位置付け,各州に対して産業政策を実施している。HP州とウッタラカンド州に対しては,2003年から工業以外の産業も対象とした「ウッタランチャル・ヒマーチャル産業政策」を展開している。この政策は,物品税・法人税の免除,設備投資への補助に加え,ローカルな資源活用と雇用創出の可能性を有する特定の「推進産業」の立地促進と,環境負荷の高い産業の抑制という産業別の政策を特徴とする(友澤,2008)。中央政府の動きを受けて,HP州政府も2004年12月に新産業政策の実施を発表した。これは,地域別・産業別に優遇政策を実施するというものである。すなわち,州境からの距離や工業の進展状況などを判断材料にして,県以下の詳細な地域レベルで州内を3つのカテゴリーに分類し,それに応じて税制恩典などが付与される。このほか,26の指定産業に該当する企業や,創業者が指定カーストや指定トライブ,女性などであったりする場合も,立地するカテゴリーに応じて税制優遇や補助金の支給などが受けられる。こうした優遇政策の実施により,HP州では企業進出が増加したが,その多くは実際の条件不利地である山岳部ではなく,比較的条件の良い州南部の平野部に立地している。
    バディにおける工業団地開発と企業集積の要因 HP州南部に位置するバディ地域では,10の工業団地・地域が造成されている。開発面積は1,094エーカーで,工業団地・地域内に1,453の工場が立地し,従業員56,339人が雇用されている(2010年時点)。立地企業は,「推進産業」に該当する医薬品産業や医薬品包装品製造などの関連産業,ミネラルウォーター瓶詰業が卓越するほか,電機産業や化粧品産業なども多い。なかでも,近年インドで成長の著しい医薬品産業とその関連産業が優遇政策と自然環境の良さを理由に進出を伸ばしており,それらが340社(23%)を占める。
     同地域は南部にシワリク丘陵,北部にヒマラヤ山脈が控え,中央部をインダス川の支流が流れる平野部である。友澤(2008)は,ウッタラカンド州における工業団地がヒマラヤ山脈前縁部の平原地帯に集中している要因として,当該地域が州内における仮想的な低操業コスト地帯となっていることを指摘している。HP州をみると,バディ地域は同州における低操業コスト地帯に該当し,工業用地として最適である。同一の産業政策と類似した地形的条件が,両州に共通した工業開発戦略をもたらしている。
     しかし,帯状に連なるHP州の低操業コスト地域のなかで,特にバディ地域において工業団地開発が集中し,企業集積が進んでいるのはなぜであろうか。これには,北部インドを代表するパンジャブ州およびハリアナ州の2つの州都であるチャンディガル市との近接性が関係している。聞取り調査により,両市は自動車で約1時間の範囲内にあることから,バディ地域に立地する企業のスタッフクラス以上の中間層がチャンディガル市中心部に居住する志向を有していることが明らかになった。また,バディ地域は低操業コスト地域の中でも州都シムラに近く,州内からみても立地条件が優れている。そうした利便性がバディ地域における工業団地開発とそこへの企業集積を促進する要因となっていると捉えられる。
     バディ地域は,優遇措置が受けられる山岳州にありながら政治・経済都市チャンディガルの郊外に位置し,さらに自然環境の良さから近年成長の著しい医薬品産業および同関連企業の進出が活発化したことによって産業集積が進んでいる。
  • 由井 義通
    セッションID: 504
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1. 研究の目的 ヒル・ステーションは,植民地政府が軍事拠点,兵士の休養・療養,子弟の教育などを目的として気候の冷涼な山岳地域に形成した植民都市と定義される。暑さによる疾病を治療するサナトリウムはヒル・ステーションに欠かせない要素であった。稲垣(2007)によると,ヒル・ステーションの淵源は軍事目的,地政学的重要性と深く関わっており,本研究で対象とするシムラもイギリス軍がインドとチベット・中国を結ぶ戦略ルート調査中に「発見」したことがきっかけで軍の駐屯地となり,戦略拠点や交易ルートの支配を目的としてその後の都市整備が行われた。 植民者たちは自らのバンガローを建てて,沿岸都市の酷暑と多湿からの一時的脱出を図る保養地,避暑地を形成するとともに,擬似的に西洋化された環境のもとで教育する学校がつくられた(稲垣 2007)。植民地時代にヒル・ステーションで始まったイギリス風に西洋化された学校教育は,独立後も現地だけではなくインド国内各地から富裕層の子弟を受け入れ,教育機能の中心性を持続させている。 母都市とのつながりの中で都市建設が行われたヒル・ステーションは,一種の消費都市として余暇空間,ヨーロッパ的生活文化の再生産の場であった。ヒル・ステーションは独立後には政治的役割を喪失しても大部分の都市が観光保養都市として生き残っている。急速な経済発展をみせているインドにおいて,新興の中産階級にも避暑行動がみられ,これまで富裕層に限定的であったヒル・ステーションへの避暑行動は大衆的なレジャー行動に変わりつつある。本研究の目的は,ヒル・ステーションの一つであるシムラの事例を通して、植民都市の変容と山岳部の都市開発の実態を明らかにすることである。 2. ヒル・ステーションの変容 シムラはヒマラヤ山脈北西部の標高2200mの山稜にあり,グルカ戦争後1819年にイギリスに併合され,1822年に最初にスコットランド人によって入植が始まった(Beck 1925, Kanwar 1999)。1864年以降には植民地政府の夏の首都(Summer capital),軍本部,パンジャブ州の州都となったが,その時代の都市開発はRidgeと呼ばれる尾根の平坦地にイギリス人が管理する街,その南側の急斜面にインド人の商業地区と住宅地区が形成され,空間的なセグリゲーションが明瞭であった。州分割後シムラはヒマチャル・プラデーシュ州の州都となり通年の政治的中心都市になった結果,2001年には州や自治体政府関係の公務員が全就業者の47%を占める政治都市となった。 3. 郊外への都市発展 シムラは市独自の開発機関を持っておらず,都市整備を担当する機関はヒマチャル・プラデーシュ州住宅都市開発公社(HIMUDA)である。都市計画のマスタープランはシムラ都市開発公社(Shimla Urban Planning Authority)と特別地域開発公社(Special Area Planning Authority)によるが,これらのローカルな主体は都市開発の担当機関ではなく,マスタープランのもとでHIMUDAがシムラの都市開発の実施主体となっている。シムラは州都として政治的中心地機能を強めていく中で,人口流入量が増加し,狭小な既存の市街地には収容できないくらい過密状態となった。そこでHIMUDAは周辺地域にSanjauli,New Shimlaなどのサテライトタウンを8ヶ所開発した。 政治的山岳地域での郊外発展は,地形的制約を大きく受けているため,開発可能地は緩斜面やわずかに平坦地が造成できる尾根などが開発された。これらの新規住宅開発は,シムラへの通勤・通学移動を発生させ,深刻な交通問題を招いている。
  • 脱領域化と再領域化のパラドックス
    澤 宗則, 中條 曉仁
    セッションID: 505
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    問題の所在 グローバル化した経済の中で商品として流通するのは、工業生産品・農産物・資源などのみではなく、文化的生産品(観光・習俗・映像・芸術)も含まれている。インドにおいて、経済のグローバル化の進展と共に新中間層が増大し、観光への需要が高まった。また同時に、オフィス・工場や学校でのクロックタイムの徹底化とルーチンワークの浸透により、日常的時間の再編成が生じた。これらに対応しながら、工業空間・居住空間・消費空間のみならず余暇空間も再編成されつつある。本発表においては、インドのヒマラヤ山脈に位置するウッタラカンド州ナイニタール郡(district)の湖畔に立地した新規のリゾート地(N村)における地域社会の変容を、脱領域化と再領域化のパラドックスから読み解きたい。 ナイニタール- イギリス人がつくったHill Station 植民地時代にヒマラヤ山岳地帯につくられたHill Stationであるナイニタールはスコットランドの「湖水地方」と見立てられ、かつては夏季の行政中心(summer capital)であったとともに、ミッション系の寄宿舎付学校やキリスト教教会、病院などがつくられ、イギリス人のためだけの避暑地であった。独立後は、インド人の富裕層のための避暑地となった。しかし、経済成長の進展とともにナイニタールはデリーなどの新中間層の家族連れや独身のカップルや団体、学校の山岳地の観光先となると同時に、富裕層にとっては観光客で混雑したナイニタールへの評価が低くなった。 N村- 富裕層のための「静かな湖畔の村」の発見 ナイニタールが新中間層の観光地となり混在するに従い、喧噪を嫌った富裕層のための「静かな湖畔の村」として、山岳地帯内の湖畔のN村には、高級リゾートホテルが新規立地した。山岳地帯に複数ある他の湖畔の観光地が、カヤックなど多くの観光施設が整うのとは対照的に、ここではレストラン、貸しボートと乗馬・民族衣装を着た記念撮影が可能な店がある程度である。どこにでもあるような山岳の湖畔のN村が観光地として「発見」される上で、単に湖畔であるという意味だけではなく、地元住民の「伝説」の商品化(「湖の9つのコーナーを同時に見ると、魂の救済が得られる」という伝説がガイドブックに掲載される)がなされ、また「伝統」的とされるクマオン料理(現地での食材を使用した郷土料理)やクマオン衣装など、都市とは異なる「伝統文化」が発見され、商品化されてきた。これはローカルな事象が都市とのアクセスが容易になり商品化し、他の競合する観光地との差別化が進んでいることを示している。 ツーリズムに関する脱領域化と再領域化のパラドックス N村では、都市住民の余暇空間と余暇時間(夏休みや結婚シーズン)に組み込まれ、観光設備の整備など、観光地としての同質性が高まる(ローカルスケールでの脱領域化)が、同時に観光地の中でも場所性(静かな湖畔、観光施設、伝統文化という商品やモンスーンや降雪・気温差などの季節・気候の時間体系の差異)が大きく反映される(ローカルスケールでの再領域化)など、ローカルスケールでの脱領域化と再領域化の間のパラドックスが生じている。このように、ツーリズムに関してローカルな意味はきわめて大きい。ローカルな事象が都市住民にとり、経済的にも時間的にもアクセス可能となり、彼らにとり意味のある「他者」となる。これに対応して、「伝統」の発見や再生産を通じて、ローカルな事象が都市住民のニーズに合わせて改変・再生産され、時空間的に再編成される。 これらローカルな時空間的な再編成に関して様々な対立が生じる。1)観光客は「静かな湖畔」を求めるのに対し、地元の観光資本(地元住民)は観光開発を行い、雇用拡大・利益拡大を希望し、矛盾した構図が生じている。2)高級リゾートホテルを経営する大都市の大手観光資本は、地元資本による開発は景観を破壊するだけであると考え、「静かな湖畔」を維持するため政治力を使い阻止しようとしている。
  • チャンディーガル都市圏調査報告
    鍬塚 賢太郎
    セッションID: 506
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    インド情報通信技術産業(以下,ICT産業)は,既存集積地での立地コスト増大と相まって,インド国内の地方都市を新たな立地点とする成長も模索している。また,非大都市圏に位置する地方政府は,当該産業の誘致を梃子とした産業開発を試みていている.こうした現状は,大都市におけるICT産業の成長のみに牽引された,「地方都市」の成長を想起させる.しかし,その実態は十分に明らかではない.本報告では,インド北部の地方都市のなかでも近年その存在感を高めつつあるチャンディーガルについて,ICT産業立地の現状を報告する.その上で,デリー首都圏との結び付きがみられるインド北部デヘラドゥーン(UK州)の動向と若干の比較を行う.複数の「地方都市」を取り上げ比較するのは,インドにおけるICT産業の「地方分散」の現状だけでなく,その「格差」を生じさせる地域的な要因にも着目したいからである.なお,本報告は2010年9月に行った現地調査に基づくものであり,本要旨ではチャンディーガルの現状のみをまとめておく.
  • ブラマプトラ川氾濫原の2村落の比較を通して
    浅田 晴久, デカ ニッタナンダ, バガバティ アバニ クマル
    セッションID: 507
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1. はじめに
     インド北東地方には言語や文化が異なる民族が多数暮らしていることが知られている。アッサム州にも多数の民族が暮らしているが、1970年代から拡大していった民族運動や政治動乱により治安が不安定な状態が長年続いたために、その生活様式や生業についてはほとんど明らかにされてこなかった。
     第一演者(浅田)はアッサム州東部のアホムの村落に滞在し、2007年より現在に至るまで稲作様式に関する調査を断続的に行ってきた。アホムとは13世紀初めに中国雲南省からブラマプトラ渓谷へ移住してきたタイ系の民族のことで、彼らが州東部に建てたアホム王国は13世紀から19世紀までの約600年間に渡りブラマプトラ渓谷を支配し、今日のアッサム州社会の基礎を築く役割を果たした。アッサムという州名も彼らの名に由来する。
     これまでの調査結果から、現在アホムが用いている稲作技術には東南アジア山地部のタイ系民族に共通して認められる要素がほとんど見られず、むしろバングラデシュやインドのデルタ地域で行われている稲作と共通する技術要素が多いことが判明した。従来はアホムが中国型の稲作技術を東南アジアからインド世界へ伝えたと考えられていたが、少なくとも現在のアホムの稲作様式には東南アジアと文化的な関連性はほとんど見られず、稲作はブラマプトラ川氾濫原の生態環境に適応する形で営まれている。
     本研究では土地利用と耕地所有の観点からアホム村落とアッサム州内のアホム以外の民族、アホミヤ(アーリア系ヒンドゥ教徒のアッサム人)の村落を比較することで、アホムの生活様式に見られる特徴をさらに考察することを目的とする。

    2. 調査地の概要とデータ
     調査村はアッサム州東部のロングプリヤ村(アホム)と州西部のムクタプル村(アホミヤ)である(図1)。ともにブラマプトラ川北岸の氾濫原に位置しているが、民族の違いの他に、村の設立年代もロングプリヤ村が約100年前、ムクタプル村が約400年前と異なっている。
     本研究のデータは調査村で2006年から2009年までの期間に行った現地調査の結果に基づく。統計資料や衛星画像などの2次資料も必要に応じて利用した。ロングプリヤ村に関しては第一演者(浅田)が、ムクタプル村に関しては第二演者(デカ)がそれぞれ個別に調査したため、調査手法や調査期間が異なっている部分もある。

    3. 結果と考察
     調査村落の土地利用を調べた結果、両村落ともに自然堤防の高みに屋敷地と畑作地、そこから後背湿地の低みに向かって高収量品種、在来品種、深水稲という水田としての利用が見られることが明らかになった。世帯毎の耕地所有については、両村落ともに1ha以下の世帯が最も多く、1筆当たりの面積も小さいが、設立年代が新しいロングプリヤ村では世帯毎の所有界が規則的であるのに対し、設立年代が古いムクタプル村では各世帯の所有耕地が村内に点在しているという特徴がある。
     このことから、ブラマプトラ川氾濫原の村落は民族に関係なく、生態環境に適応していることが示唆される。後から移住して来たアホムは元からいた民族から生活様式全般について学習した可能性も考えられる。
  • 水野 一晴
    セッションID: 508
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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     インドのアルナチャル・プラデシュ州は、ブータンと中国・チベットとの国境に近く、22-24のチベット系民族(細分化すれば51民族)の住む地域である。今回は、とくにチベット仏僧院の支配による税金の徴収と砦(ゾン)の成立に焦点をあてて報告する。
     ディラン地方には7つの砦(ゾン)、タワン地方には2つの砦(ゾン)が残っている。ディラン地方のディラン・ゾン、センゲ・ゾン、タルン・ゾン、テンマン・ゾン、デルキ・ゾン、サテェ・ゾン、ソォンゲルゲン・ゾン、タワン地方のギャンカール・ゾンとチュク・サンである。ゾンには4種類あり、境界の検問所の役割を果たすDarya (境界)Dzong(ドリャ・ゾン)、国境の見張りの役割をするTa(見張り塔)Dzong(タ・ゾン)、川の橋の両側の砦の役割のChu(川)Dzong(チュ・ゾン)、そしてSenge(崖) Dzong(センゲ・ゾン)である。ディラン・ゾンはタ・ゾンであり、タルン・ゾンやギャンカール・ゾンはドリャゾンにあたる。チュ・ゾンにあたるのに、Tantong Gyalpoがつくったタワン地方の鉄橋Chak(鉄) Sam(橋)がある。彼はブータン、チベット、モンパ地方に108の鉄橋を建設したが、ブータンに遺跡として1つ残り、モンパ地域ではこれ1つが現在も使用されている。
     ゾン(砦)のうち、ディラン・ゾンはディラン・モンパの人たちから、タルン・ゾンはカラカタン・モンパの人たちから、ギャンカール・ゾンはタワン・モンパの人たちからチベット仏僧院が税(Khreyクレイ)を取り立てるための役所として建設された。その税はチベットのツォナ・ゾン(Tsona Dzong)を経由して遠く、チベット政府のラサまで運ばれていた。ディラン・ゾンとタルン・ゾンの税はそれぞれのゾン(砦)の役人の長官ゾン・ペンDzong-penが村から村へ、それぞれの村人を使って運んでいった。砦の中にはゾン・ペンの館があり、壁には何カ所か、銃で外に向かって砲撃できるように穴が開けられている。ディラン・ゾンの場合、ゾン・ペンの館の周りに住民の住居が取り囲むように建てられている。また、ギャンカール・ゾン、ディラン・ゾン、タルン・ゾンは囚人を収容する拘置所をもっていた。そこには、税の取り立てに抵抗する者や犯罪者が収容されていた。
     タルン・ゾンは元々16世紀にLama Tanpei Dronmeによって建てられた、モンパ地方で最も古いゾン・ゴンパ(砦仏僧院)の1つである。元々仏僧院として建てられたものが税取り立ての役所の砦として利用された。Lama Tanpei Dronmeは、第2代ダライラマGedun Gyasto(1475-1543)と同時代の人である。タルン・ゾンは2階建てでそれぞれ3室からなっていていた。1階の1室は倉庫、あとの2室は囚人の収容所、2階の3室は、祈祷室、台所などゾン・ペンによって使用されていた。税はゾン・ペンの指示のもと、穀物や特産品(紙や染料など)で集められる。特産品はチベットまで送られ、穀物の多くはゾン・ペン一行によって消費される。2人のゾン・ペン率いる一行はギャンカール・ゾンまで税を運び、記録を取って、そこのゾン・ペンに税と記録を引き渡す。タルン・ゾンで徴収された税(穀物)はタワン・仏僧院で3年に1回実施されていたDungjur祭りの出費にあてられた(Sarkar, 1978)。ディランモンパ地域にはアッサム地方からブータン人が商売のために通った古道がこのタルン・ゾンを通っていて、ゾンの入り口でゾン・ペンの助手が税金を徴収していた。
     インドがイギリスから独立する1947年ごろまでゾン・ペンが税を集めていたが、独立後ゾン・ペンはチベットに帰ったため、タワン仏僧院の僧が税を取り立てることになる。ディラン・ゾンで徴収された税(穀物)は、Dawa-Dangpoと呼ばれたモンパ地域の太陰暦の最初の月(およそ2-3月に相当)にタワン仏僧院で行われていたMonlam Chenmoh祭の最初の2日間のための出費にあてがわれた(Sarkar, 1978)。
  • オールドダッカの集積と地方への拡散
    土屋 純
    セッションID: 509
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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     2000年代におけるバングラデシュでは,_丸1_繊維産業の発展によるダッカ地域経済の成長,_丸2_海外出稼ぎ者からの送金による農村経済の成長,の2つが確認できる.ダッカ市内にはスーパーやショッピングセンターが見られるようになり,富裕層による消費が盛んになっている.また農村地域においても商店街の発展が著しく,食料品や医薬品といった生活必需品だけでなく,化粧品や宝飾品,音楽CDや携帯電話など,様々な商品が販売されるようになっている.  そこで本報告では,消費経済が活発しているなかで成長している宝飾品産業を事例として,伝統的産業の現状とその再生産構造について報告する.特に,_丸1_オールドダッカにおける宝飾品産業の集積状況と,_丸2_農村地域の拠点にある商店街における宝飾品店の経営状況,の2点について詳しく報告したい. オールドダッカにおける宝飾品産業の集積  ダッカは元々船着き場に町並みが広かったことを起源とする.ダッカ発祥の地であるオールドダッカは,細い路地と大小さまざまな建造物に構成されている猥雑な町並みである.オールドダッカの一角,ヒンドゥー教徒が多く集まっている地域には,宝飾品産業が集積している.数千,数万の宝飾品製造業者が存在すると言われており,大小様々な建築物の内部には,無数の製造業者が存在している.また,オールドダッカの商店街には多くの宝飾品販売店が存在しており,加えて,インドから仕入れたデザインブックや工具などを販売する業者向け店舗も存在している.  バングラデシュで流通している宝飾品は,金や銀を原料とした細かいデザインを施したものが中心となっている.宝飾品の製造過程は,_丸1_発注,_丸2_溶解,_丸3_圧延,_丸4_鋳造,_丸5_組立,_丸6_研磨,_丸7_色付,_丸8_出荷,である.大規模業者は,大半の工程を内包しているが,鋳造や研磨の工程では,小規模の専門業者も存在している.大半の工場は,ダッカ市内に存在する宝飾品のショールーム(宝飾品販売店)と契約を結んでおり,各ショールームからの発注(オーダーメイド)を受け,ネックレスや指輪などを製造している.  こうした工場で働く工員たちは,ヒンドゥー教徒がほとんどであり,最近では農民カーストなど様々なカーストが参入している.そして,地方出身者が大半で10歳代中頃から始めるものが中心である.就業当初は,住居食事付きの修行の状態であるが,技能を身につけていくとともに給与が増えていく.そして,20代後半から独立していくものが多くなっている. 地方都市の商店街における宝飾品店の実態  近年,ダッカ近郊の農村地域では,さまざまな業種の工場が進出しており,地域経済の成長が見られる.ダッカ遠郊の農村地域でも,海外出稼ぎによる送金によって生活が豊かになっており,嗜好品の消費が拡大している.土屋(2006)は,タンガイル県ミルジャプール郡の郡都ミルジャプールの商店街について,商店街の拡大と宝飾品店の実態について報告した.今回は,ミルジャプールだけでなくバシャイル郡内にある各商店街を事例として,宝飾品店の実態について報告したい.  商店街の宝飾品店の特徴は,_丸1_製造と販売が一致しており,店主と数名の従業員が製造して販売しており,_丸2_20代から開業したものが多く,大半はオールドダッカで修行したものである.また,_丸3_金塊や銀塊を原料としているものは少なく,客から買い受けた宝飾品を溶解リメイクしている場合が多くなっている._丸4_デザインブックや工具を買い入れいるために年に数回ほどオールドダッカに出かけることがあるという.  このように,バングラデシュの宝飾品産業は,オールドダッカを中心として技術の再生産が行われ,地方各地に労働力が拡散していく構造が存在している.農村のヒンドゥー教徒にとって,ヒンドゥー教徒によって占有されていて,かつ現金収入の多いことから,人気のある業種となっているのである.
  • 南雲 直子, 須貝 俊彦
    セッションID: 510
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1. はじめに
     カンボジア中部コンポントム州に立地するサンボー・プレイ・クック遺跡群は,プレアンコール時代(7世紀)の王都イーシャナプラに比定される都城遺跡である.都城はセン川の氾濫原に面するように建設され,水路でセン川と結ばれるなど,河川との強い結びつきが示唆される.そこで本研究では,特に水上交通路としてのセン川に着目し,王都の存立を考察する.

    2. 王都の構造
     サンボー・プレイ・クックでは,居住区,都城区,寺院区が東西軸上に配列されている.寺院区の東正面からは,セン川方向へ二本の参道が建設され,その北側には都城区とセン川を結ぶ水路状の遺構が確認できる.プレアンコール時代の住居址は現在のところ発見されていないが,人々は木造の家屋に居住していたと考えられる.その一方で,寺院区や都城区の一部で見られる祠堂には主にレンガが使用され,破風やドア枠材には砂岩が使用された.また,祠堂内部にはハリハラ神やブラフマー神の彫像が安置され(下田・中川,2008),寺院区はヒンズー教の聖域として具現化された.隋書(真臘伝)によれば,7世紀当時のサンボー・プレイ・クックには二万戸の家屋があった(古典研究會,1971).これはどの範囲の戸数であるか定かではないが,往時には大変な賑わいであったことが想像される.こうした人口を維持していくためには,安定的に供給される食料が必要であった.居住区にはプレアンコール時代に由来すると考えられる小区画水田とため池の痕跡(古城・久保,2003)が多数認められるが,これらはごく狭い範囲に限られ,王都の人口すべてを支えていたとは考えにくい.そのため,現在稲作が主に行われているセン川氾濫原でも食料生産が行われていた可能性,そして後背都市の余剰生産が王都に納められていた可能性が考えられる.
     サンボー・プレイ・クックでは,こうした食糧や寺院区に参拝に訪れる人々,祠堂の建設や王都造営に関連する膨大な建築資材・技術者の効率的な輸送が必要であったと考えられ,ここに効果的に機能する交通網の必要性が見出される.

    3. プレアンコール時代を支えた水上交通網の特徴
     サンボー・プレイ・クック近くのセン川氾濫原は雨期の氾濫リスクが比較的低く,円滑な水上交通運営が可能な場所である.セン川河岸の町と都城区を水路で結ぶことで,王都の主交通路としてのセン川の利便性を高めていたと考えられる(Nagumo et al., in press).その一方で,都城区の西辺からはアンコール地域に続く陸道が建設された(下田・中川2009).
     セン川等を利用した水上交通路に比べ,陸上交通路の整備には莫大な費用と人員が必要である.この地域では雨期と乾期の季節変動を伴うことから,建設期間も長期に及んだと考えられる.また,完成後も定期的なメンテナンスが必要である一方で,幹線交通路としての輸送能力は水上交通路よりも劣る.王都に納められる膨大な農産物や荷重のある建築資材などの運搬には,浮力を利用した水上交通路が適していただろう.サンボー・プレイ・クックとセン川は複数の水路で結ばれていることから,都城内部への運搬も円滑に進められたと想像される.

    4. アンコール期への発展を支えた水上交通の維持と陸上交通網の整備
     後のアンコール時代には,アンコール地方と地方都市を結ぶ五本の幹線道(いわゆる「王道」)が建設され(Bruguier,2000),国内には多くの水利構造物が建設された.アンコール時代の王都の人口は最盛期にはおよそ60万人に達し(石澤,1997),その支配は「王道」に代表されるような陸上交通路に支えられた.プレアンコール時代には水域の効果的な利用を目指したが,アンコール時代にはその管理を目標にしたと考えられる.すなわち,プレアンコール時代以降,都城と河川とのかかわりが変化し,国土の支配を河川によって構築しようとした時代から,それを陸路によって構築しようとした時代に変化したと捉えられる.古代カンボジア社会の成熟期とも言えるアンコール時代の繁栄は,モンスーンの影響を受ける地形・水文環境を理解し,適応してきたプレアンコール時代の試行錯誤と経験の上に築かれたと考えられる.
  • 井上 理咲子, 藤本 潔, ファン バン チュン, カオ フイ ビン, フイ ドゥック ホアン, グエン フイ ハ ニュー
    セッションID: 511
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
     本研究は、マングローブ域における持続的な環境利用の在り方を考察すると共に、マングローブ生態系の経済的価値を客観的に評価するための一助とするため、ベトナム南部カンザー地区のマングローブ域で暮らす人々が生業活動の中でその生態系といかに関わり、どれほどの経済的恩恵を受けているのかを明らかにすることを目的としている。  同地区のマングローブ林は、ベトナム戦争時に枯葉剤で破壊されたものの、その後の植林で再生したものである。2000年にユネスコによりマングローブ生態系保全地域に指定された。これに先立つ1999年よりマングローブ林の伐採が禁止され、カンザーマングローブ保護林管理局によるマングローブ生態系の保全や監視が行われている。  同地区の住民を対象に、2010年4月および8月に、世帯単位での聞き取り調査(家族構成、生業活動、マングローブ生態系の利用形態と利用頻度、各生業活動から得られる収入など)を行った。同地区の住民は、市場を中心とする集落に住む人々、マングローブ域で暮らす漁民や林業請負家族に大別され、各住民グループから5~20世帯ほどを任意抽出して、合計52世帯に対して調査を行った。  現在、カンザー地区の人口は約68,000人であり、マングローブ林面積は約38,750ha(全面積に対して54.2%)に達する。この広大な森林の中で多くの住民はマングローブ生態系を利用しながら生活している。  主な生業活動としては漁業、エビやカニや貝類の養殖業、貝類の採取、林業請負がみられ、マングローブ生態系を有効に利用していることが明らかになった。その一方で、漁業従事者への聞き取り調査や同地区の人口推移から、漁業従事者の数は年々増加していると考えられ、漁獲量は漁民への聞き取り調査から以前よりも減少していると思われるため、水産物資源の乱獲が懸念される。また、自然に依存した形で行われる粗放的エビ養殖などの養殖業でも、稚エビの減少による収獲量の減少が問題となってきている。  漁業従事者には船上生活をして漁業を営む家族もみられる。これらの住民は一家で漁業を営む場合が多く、そのほとんどがカンザー地区出身者ではなく、周辺地域からの移民または出稼ぎ家族である。  同地区の漁業に関して、主な漁法として3種類(Di Te、Dong Day、Giang Luoi)の漁法が挙げられる。これら漁法の違いにより所得の格差や獲得できる水産物に差異がみられる。河川での漁労を行う低所得世帯はカニや貝の採取を併用し、家計を支えている場合もみられた。  貝類の採取は、長時間におよび、足場が悪いマングローブ林内の細い水路において手作業で行われ、大変な労力を要する。潮の満ち引きにより実質作業時間が限られるため、収獲量が不安定で比較的収入が少ないのに対し、養殖業は今のところ比較的安定した収入が得られている。また、貝類の採取に関しても、以前と比べて収獲高の減少が確認された。  安定した収入が得られる養殖業は、養殖池の造成、道具の準備などに対する初期投資が高額であるため、比較的裕福な世帯のみ取り入れることができる生業といえる。  林業請負世帯は、カンザーマングローブ保護林管理局との契約により、ホーチミン市所有のマングローブ林を監視することが主な仕事である。ほとんどの家族が副業(粗放的エビ養殖、漁業等)を営む。  マングローブ生態系を利用する世帯の生業活動では就業者一人当たり月平均で100万~180万ドンの収入を得ており、それは商店経営などの収入と大差ない。したがって、マングローブ生態系が人々に与える経済的恩恵はかなり大きなものといえる。  カンザー地区は森林伐採の禁止により、養殖池への転用や燃料・建築資材のためのマングローブ林伐採などによる森林破壊は現在みられない。しかし、自然の再生能力を上回る速度で水産資源の採取が進行すると、水産資源の枯渇もしくは生態系の破壊を招く恐れがある。  本研究では、豊かな自然の中で、生態系に依存して暮らす人々の現在の姿を明らかにすることができた。今後、地域住民における持続的な環境利用の在り方を考察するためには、マングローブ生態系自体の再生能力やそこでの水産資源生産力などを定量的に把握した上で、それらを上回ることのない範囲内での生態系利用政策を構築することが望まれる。
  • 高井 寿文
    セッションID: 512
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
     本研究では,バングラデシュ農村部に暮らす人々を対象とし,彼らがどのように身近な環境を捉えており,どのような認知地図を持っているのかを明らかにする.2つの村で手描き地図調査を行い,手描き地図に描かれた範囲や要素,描画形態を検討した.居住年数に伴う認知地図の発達様式についても若干の考察を試みた.
     手描き地図に描かれた要素ついては,ほとんどの調査対象者が村の主要な道路に沿った建物を描いた.手描き地図に描かれた範囲は道路沿いが中心であり,村全体の範囲を描いた手描き地図はほとんど見られなかった.手描き地図の形態は,ほぼルートマップ型であった.抽象的表現による手描き地図が見られる一方で,相貌的表現の多い手描き地図も見られた.以上より,バングラデシュ農村部に暮らす人々は道路を基準とした空間把握を行っており,これが認知地図の形態に影響していることが明らかになった.
  • 池谷 和信
    セッションID: 513
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1 はじめに これまで世界の牧畜の地理学においては、モンゴルや西アジアや東アフリカのような、典型的といわれる牧畜民の生活が対象になることが多かった(池谷2007)。一方、農民の経済の中心は農業であるということから、彼らが家畜を飼育していたとしても、その研究は無視されることが多い。しかし、南アジアをみてみると実際の家畜飼育の担い手は農民であることが多い(篠田・中里編2001)。例えば、バングラデシュの豚飼育の担い手は非ムスレムの農民たちであった。  以下、南アジアの牧畜研究は、以下のように3分類できる。まず、地理学や文化人類学からのアプローチである。この分野は、現地調査を基礎としてミクロな調査・研究を得意とする。次は、経済学や政治学などである。ここでは、放牧地をコモンズとしてとらえて放牧地と国家の森林政策などとのかかわりをマクロに分析する。最後は、牧畜開発などに従事するNGOや政府などのアクティヴィストの実践的なかかわりである。本研究では、南アジアを対象にして家畜飼育のなかで牧畜に焦点を当てて、その地域的性格を把握することを目的とする。  これまで、筆者は、南アジアのなかでインド・ラージャスターン州のラクダや羊の牧畜、アンドラ・プラデッシュ州(AP州)の羊牧畜、バングラデシュの豚やアヒルの放牧を現地調査する機会があった。また、既存の文献によってネパールやブータンでの羊やヤクの牧畜はよく知られている(渡辺2009)。ここでは、南アジア全体をとらえた場合、牧畜の地域性が明らかにされる。なお、ここで南アジアとは、インド、バングラデシュ、ブータン、ネパール、パキスタン、スリランカを示す。 2 結果と考察  南アジアの牧畜は、いかなる地域においても主に農業に従事する農民とのかかわりを無視することはできない。全体的に人口密度が高いということもあって、放牧地の確保が常に問題にされる。現在でも、収穫後の農地を放牧地として利用することがあるが、ラージャスターン州のように農民との社会関係が維持されているところもあれば、バングラデシュの豚のように、農地を利用するものの固定的な関係がみられない地域もある。両者の違いは、ラクダ・羊と豚との家畜種の違いよる放牧パターンの違いや農民側の状況の違いも反映したものであろう。 本報告では、南アジアにおける多様な牧畜の形を示すのみならず、その地域差が生まれた要因について、主として歴史地理学的視点から分析する。そこでは、ユーラシアにおける家畜化の起源地といわれる中東と中国南部からみた場合、南アジアは両者の中間であるという地理的位置やイスラム教徒の拡大過程などが密接に関与していると考えられる。 文献 池谷和信2007世界の牧畜民における地域性.地理52(3):18-31. 篠田隆・中里亜夫編2001『南アジアの家畜と環境』東京大学東洋文化研究所。 渡辺和之2009『羊飼いの民族誌』明石書店。
  • 東ネパール・オカルドゥンガ郡におけるブタ飼養調査報告
    渡辺 和之
    セッションID: 514
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
     羊や山羊と異なり、ブタは繁殖力の高い家畜である。1頭のメスが1回に出産するのは、羊の場合通常1頭、山羊の場合だと時々2頭見られるのに対し、ブタの場合4-5頭出産することも稀ではない。実際、ブタの乳首は8つあり、8つ子の授乳も不可能ではないのである。しかもそのほとんどが1年以内に生殖可能となり、再生産を開始するまで成長するのだから、理論的には等比級数的に増加してゆくことも不可能ではない。
     南アジアにおいて、ブタを飼養するのは、おもに低カースト(いわゆる不浄カースト)とトライブ(部族)である。周知のようにイスラーム教徒はブタを忌避するし、ヒンドゥー教徒も高カーストはブタを不浄な動物として、肉を食べるばかりか、触れることすら忌避する。
     ブタに繁殖力があり、その飼養者が低カーストやトライブのような社会的に周辺的な人々だったとすると、ブタは彼らに経済的に貢献するのではとの疑問が生じる。以上のような問題意識から発表者は2009年8月から東ネパールにおいて調査をおこなっている。
       対象としたのは、オカルドゥンガ郡のルムジャタール村(標高1300m)である。この村では、第5区95世帯のうち、25世帯がブタを飼養する(2010年3月)。カーストでみると、東ネパールの先住民族であり、中間カーストに属するライが1世帯、その他はすべて低カーストで、ダマイ(仕立屋)11世帯、カミ(鍛冶屋)1世帯である。飼養頭数は17頭、飼養世帯の平均頭数は1.3頭で、その多くは1歳未満だった。
     飼養世帯なかにはカースト職業を営む人もいるが、これに相当するのはダマイ・カーストの仕立屋1世帯のみであり、その他の世帯は農業労働や請負小作をおもな生業とし、出稼ぎによる送金を受けている世帯もある。飼養する家畜はブタの他にも牛か水牛を1-2頭持っており、おもに舎飼いにしている。ブタの場合、舎飼いもしくは家の敷地内で放し飼いにしており、冬に農産物を収穫したあとのみ畑に放つ。飼料は乾燥したトウモロコシの粒を1頭につき1日4リットル与えている。緑飼料を与えることもあるが、もっぱら牛や水牛を飼養するために刈った草や農作物の刈株の残りを与える程度で、トウモロコシを購入しないとブタは飼養不可能とのことである。このため、飼養するのは1-2頭のみで、残りはすべて仔豚の段階、生後2ヶ月程度で売ってしまうという。
     村のブタ飼養世帯のほとんどが生後2ヶ月程度の仔豚を購入して肥育している。仔豚の購入先は、村の知り合いから購入した1世帯以外は、すべて定期市であり、村内の定期市(金曜市)やオカルドゥンガ(土曜市)で購入している。肥育したブタは仲買人に売る。仲買人は村内で肉を切り分けて売るか、定期市で売る。
     調査地の事例に見られるブタ飼養はそのほとんどが肥育を目的としており、ブタを自前で繁殖する例はみられなかった。しかし、彼らが定期市で購入するブタは自前で繁殖したものである。つまり、調査地におけるブタ飼養は肥育型と繁殖型に特化しており、後者の中には種オスを持つ世帯と持たない世帯に分かれると思われる。
     ブタが低カーストの副業として経済的な貢献をしているのは確かである。ただし、実際、他の家畜と比べ、どの程度の現金収入をもたらすのかはまだわからないことが多い。この点は、今後、家畜の増減をさらに追調査することで、世帯経済のなかでブタ飼養の果す役割を把握したい。
  • ネパール山村の事例から
    辰己 佳寿子, 木本 浩一
    セッションID: 515
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1.はじめに  現在、南アジアの農村は、資源の利活用と管理、生物多様性の維持、土地利用上の圧力、民族等の諸権利の保護など、さまざまな地域問題のいわば「交差点」となっており、地域レベルでのガバナンスの構築という課題が浮上している。ネパールにおいても、これまで地域問題解決のために政府やNGO主導でトップダウン方式のプロジェクトが進められてきたが、必ずしも大きな成果を挙げておらず、昨今、地方分権や住民主体の地域ガバナンスの重要性が唱えられるようになってきた。 2.研究の目的と方法  本報告では、ネパール山村の資源管理における相互扶助を通した地域社会の機能と役割の変遷を整理し、住民主体の地域ガバナンスのあり方を検討する。調査対象地域は、農牧林業に従事する世帯が多いが、昨今、国内外の出稼ぎが急激に増え、生活様式、家族や地域の社会関係、共同管理のあり方などが大きくかわりつつある山村である。2000年からの定点観測(聞き取り調査、質問票による調査、参与観察等)によるデータを用いて、主に農牧林業や婚姻関係、出稼ぎ、就学先(地元小学校には低学年までしかない)などの地理的範囲に焦点をあてて考察する。 3.外部主導型プロジェクトの限界  調査対象地域では、政府やNGO主導によって農業や畜産、森林、金融、飲料水、健康などのいくつものプロジェクトが実施されてきたが、_丸1_トップダウン方式の限界、_丸2_事業運営形態の外在性、_丸3_具体的な地域ニーズへの対応の不十分さなどが原因で継続的な活動が困難であった。 4.従来の相互扶助と他出者からの影響  調査対象地域は、地域リーダーを中心に住民集会を開き、冠婚葬祭時の道具等の共同管理、道普請、学校建設、積立基金など、共有の資源管理における相互扶助を通して地域の問題を解決してきた。冠婚葬祭時には相互扶助の範囲は広がり地域外の親戚や友人が手助けに集まってくる。昨今は、首都カトマンズや海外(中東、東南アジア等)への出稼ぎを経験した他出者が地域社会の構成メンバーとなったり、地域に戻らなくても出稼ぎ先から社会経済的なサポートをするという現象がみられている。さらには、地域外とのネットワークの構築によって、地域資源(観光資源、森林資源等)の利活用や保全、雇用機会を得たり就学するため有効手段、コミュニケーションツールの有効活用、新たな金銭貸借方法、自民族によるアイデンティティの形成など新しい動きが生まれつつある。 5.新しい要素を組み込む地域社会  以上のことから、地域社会は、プロジェクトや地域外(出稼ぎや婚姻、就学による他出者等を通じた)との接触することによって、地域課題を解決するための要素を選択し内在化させながら多様な役割を果たしている。このような動きは、住民主体の地域ガバナンスが内発的に形成される過程として示唆的である [参考文献] 辰己佳寿子(2010):ヒマラヤ観光における社会経済的影響.やまぐち地域社会研究7、187-198。 辰己佳寿子(2006):山岳地域におけるCommunity-based Financeの可能性.協同組合研究23(4)、50-64。
  • タイ北部の山村における豚飼養の事例
    中井 信介
    セッションID: 516
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1 はじめに
     近年、さまざまなレベルの地域を単位として、その空間内における人間の活動を、時間的変化の中で分析する環境史的研究が試みられている(池谷編, 2009)。例えば、人間の生業活動を対象とした環境史的研究を構想した場合には、その活動の継続過程を解明することがひとつの課題となるだろう(中井, 2010)。本報告では、この課題の試みとして、タイ北部の山村で行なわれる豚飼養の継続過程を事例として示し、その継続度を考察する。なお、本報告で提示する資料は、タイ北部ナーン県のモン(Hmong)の山村での現地調査から収集した。現地調査は2005年から開始し、これまでに、のべ16ヶ月間行っている。
    2 調査地の概要
     調査を行った山村は、標高約700mに位置し、人口は2005年に632人(80戸)である。村人の主な生業は農耕であるが、家畜も豚や鶏を中心に飼養している。村人はこれらの家畜を主に祖先祭祀での供犠や正月祝いの機会に消費している(Nakai, 2009)。ただし、キリスト教を信仰する世帯(16戸)は、祖先祭祀を行わないとされる。
     調査村における豚飼養の概要は次のとおり。豚を飼養する世帯は、77戸のうち65戸で約84%を占める(2006年10月)。この65戸の飼養する豚は、のべ313頭で、1戸あたりでは平均4.1頭、最大で21頭を飼養している。
    3 結果
     代表集団としてインテンシブな調査を行った17戸の、世帯レベルの豚の生産と消費の状況から、次の4つの飼養形態が分類できた。A生産・消費型(自家で生産し、消費する)、B肥育・消費型(自家で生産せず、他家から入手し肥育して消費する)、C消費特化型(自家で肥育せず、消費する直前に入手する)、D非消費型(消費しない)。
     調査対象とした17戸について、6年間(2005年から2010年)の豚飼養の継続過程を、上記の飼養形態の分類に基づいて、年単位で分析した結果は次のとおり。5戸は6年間継続してAだった。6戸はAとBの2形態間を、1戸はBとCの2形態間を、3戸はAとBとCの3形態間を変化しながら継続した。そして、1戸はキリスト教を信仰していた2007年までDで、2008年に改宗し、モンの祖先祭祀を行うようになると、C、B、Aと変化した。また家主が高齢世帯(80代)の1戸は6年間継続してCであった。
    4 考察
     上記の結果から、Aの生産・消費型を6年間継続した世帯は約29%(17戸中の5戸)と、タイ北部の山村で行われる豚飼養の継続度について、1つの目安が示された。また、AとBとCの間の飼養形態変化や、改宗による大きな飼養形態変化を示した世帯の存在は、豚飼養の継続過程にある飼養形態のミクロな動態の程度を示唆する。
    文献
    池谷和信編2009.『地球環境史からの問い』岩波書店.
    中井信介2010. タイ北部の山村における牛飼養の現状とその継続性に関する予備的考察. 日本地理学会発表要旨集77: 188.
    Nakai, S. 2009. Analysis of pig consumption by smallholders in a hillside swidden agriculture society of northern Thailand. Human Ecology 37(4):501-511.
  • 森永 由紀, チョローン J, 高槻 成紀
    セッションID: 517
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに   モンゴル国では数千年にわたり遊牧が生業として行われ、その持続可能性が注目される一方で、1990年代の民主化以降は市場や教育、医療へのアクセスが容易な都市近郊で、家畜を移動させずに定住化させる傾向が強まっている。しかし乾燥で寒冷な気候環境下で定着的に放牧を続けると自然災害の回避が難しくなり(森永ほか、2010年春地理学会予稿集)、 土地荒廃の懸念もある。よい草を求めて家畜を移動させることが、家畜の栄養状態を良好に保ち、また土地の荒廃を防ぐという「遊牧知」の科学的検証を目的に、モンゴル国北部で従来の「移動群」とあえて家畜を動かさない「定着群」の実験を行い、家畜の体重比較を行った。 2.調査地域と観測方法   調査地域は、モンゴル国北部ボルガン県中部で植生帯は森林ステップに属する。草原はStipa, Elymusなどが優占するステップが広がるが、山があると北側斜面にカラマツパッチがみられる。チョローン氏の協力を得て、ヒツジとヤギを「移動群」と、同じ場所で継続的に放牧する「定着群」とに分けた。頭数はヒツジの移動群が13、定着群が15、ヤギの移動群が10、定着群が14である。すべての個体は識別されており、2006年6月から2007年12月まで毎月末に体重を測定した。またGPS(光電製)による位置情報を6時間おきに実施した。移動群の放牧地は県庁所在地(48°49N, 103°31E, 1220m)から北西約10~20km付近に、定着群を放牧した場所は北西約7kmの谷底の川沿いにある。 3. 結果   ここでは、ヤギに関する結果を述べる。GPSデータは欠測が少ない2カ月分(2007年9月11日から11月13日)を示す。移動群は2回ゲルを移動した(図1)。ヤギの群の体重(図2)はスタート時点の2006年6月で移動群(26.1kg)のほうが定着群(30.0kg)よりも有意に軽かった(P = 0.007)。その後7月からは有意な違いはなくなり(P> 0.05)、増体しながら定着群では10月に、移動群では12月にそれぞれ最大値をとった。注目されるのは12月には定着群(39.5kg)より移動群(42.2kg)のほうが有意に重くなったことである(P = 0.04)。そしてその後はつねに移動群のほうが有意に重くなった(P < 0.05)。ヒツジもほぼ同じ傾向があり、定着放牧をすると体重維持が順調でないことが示され、「遊牧知」が科学的に支持された。
  • 大和田 美香
    セッションID: 520
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 紛争地域においては停戦後に、軍所属の兵士をいかに社会復帰させるが重要である。彼らが市民社会に円滑に戻ることができれば、新たな生計の手段を得て、復興や開発の担い手となることが促進される。南部スーダンでは、2005年に北部との内戦が終わり、除隊兵士の武装解除・動員解除・社会復帰(Disarmament, Demobilization and Reintegration, DDR)が2009年から開始された。その中で、同年9月より(独)国際協力機構(JICA)が開始した職業訓練は、南部スーダンでの最初の社会復帰事業の1つである。以下、訓練機関関係者及び訓練生への聞き取り調査を中心に、本事業の課題を分析し、今後の効果的実施策の提言を試みる。 2.南部スーダンの概要と南北内戦  南北スーダンによる内戦は、第1次(1955~72)、第2次(1983~2005)と計40年にわたった。背景には、南北の経済格差や、石油資源の利権をめぐる争い、そして宗教の違いが指摘されている。内戦が終結し、除隊兵士の計画人数は、南北とも9万人ずつで、南部では南部スーダン人民解放軍(SPLA)とその他武装勢力が対象である。その第1フェーズはUNDPの支援と資金管理の下、障害者・高齢者・女性など「特別なニーズを持つグループ」3.5万人を対象に、政府機関:南部スーダンDDR委員会が実施している。ここでの男女比は6:4で、男性で19~50歳が全体の69%を占めるのに対し、女性は19~40歳が76%と相対的に年代が若い。身体的障害を持つ人は9%である 1)。 3.ジュバにおける除隊兵士の社会復帰のための訓練  JICAは上記のDDR第1フェーズに向けて、除隊兵士の社会復帰を支援するための職業訓練を企画し、既設の「基礎的技能・職業訓練強化プロジェクト(Project for Improvement of Basic Skills and Vocational Training in Southern Sudan, SAVOT)」の一環に組み入れた。直接の実施主体は、既存の公的/民間訓練機関であり、JICAはその企画・実施支援にあたった。3ヶ月間の訓練コースは、木工建具、建設、溶接、洋裁、調理、食品・飲料サービス、ハウスキーピング、食品加工で、総計約100人が参加した。社会復帰促進の観点から、除隊兵士と一般参加者とを混合して実施した。  訓練生への聞き取り結果から、94%が「共に訓練を受けている受講生と良好な関係が築けている」と回答しており、混合での訓練実施が除隊兵士と一般の市民の相互理解に効果があることが分かった。また、除隊兵士の回答者のうち85%が、「訓練前は生計を立てる方法が分からなかったが、訓練後は訓練と関連した分野の仕事に就くことを希望する」と返答しており、就業意識の変化が見られた。  今後、南部スーダンにおいて、同様の除隊兵士向け職業訓練を実施する際の課題として、第一に心的外傷(トラウマ)を抱える除隊兵士への対応が求められることが挙げられる。カウンセリングを充実させることで、除隊兵士が講義や実習に集中できるよう支援することが重要である。実際に、本事例では、カウンセリングが除隊兵士のストレスを軽減したり、出席の継続に寄与したりするなどの効果を発揮した。第二に、除隊兵士の理解度に合わせたカリキュラム作成と指導方法が必要である。除隊兵士は、中学校・高校卒業者を対象とした一般の職業訓練受講生よりも年齢が上で、新しい事柄を吸収するのに、(若年層と比べると)時間が必要な場合がある。また「いかなるレベルの教育も受けたことのない人」の割合は一般参加者では15%なのに対し、除隊兵士では67%であった2)。最後に、政府のDDR実施機関と情報共有しながら、事業の持続可能性を高めるべく、既存の職業訓練実施機関を活用することが、効果ある社会復帰向けの訓練に寄与すると言える。 1) JICAスーダン事務所(2010) 「南部スーダン 基礎的技能・職業訓練プロジェクト(SAVOT) 除隊兵士の社会復帰のための職業訓練プログラム レポート」 2) SAVOT (2010) Final Report on Project for Improvement of Basic Skills and Vocational Training in Southern Sudan (SAVOT) : Training of Ex-combatants Component under DDR Programme for Southern Sudan, システム科学コンサルタンツ株式会社
  • 小口 珠美
    セッションID: 521
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究目的
    産業革命における工業化を契機に労働者階級の労働形態が変容し,労働の時間と対比した余暇の時間が形成された.また,同時期に交通インフラの整備が進められ,観光活動は多くの人々に広く享受されるようになった.このように時空間の再編により観光活動は発展してきた.また,観光活動の活発化と共に観光地間競争が生まれ,各観光地は独自の魅力を保持し,観光客数を持続・増加していくことが重要な課題となっている.
    本研究ではバトラーの提唱した観光地ライフサイクル(以下TALC)論を倉敷美観地区(以下美観地区)に応用し,観光地としての盛衰を考察する.バトラーは製品サイクルを応用し,観光地の盛衰を観光客数と時間軸を基にS字曲線で描いた.また,観光地の変遷を観光客数,観光客のタイプ,地域の反応,事業者の介入等の違いから6段階で示し,観光地の資源の限界と管理の重要性を示した.TALC論の優れた点としてこれまでの観光地発展段階論を整理し,観光地の盛衰を明快に図示したことが挙げられる.しかし,その図には対象とする観光地のみの変遷が述べられており,地域の社会構造の変化や観光地間競争が捉えきれていない.また,観光客数の減少する段階(以下衰退期)に関する考察が十分でない.本研究では以上の点に留意し,地域社会構造の変化と比較しながら,美観地区の盛衰を考察する.特にまちづくりの担い手の変遷に着目し,住民のまちづくり活動の背景に存在する共通意識や地域の抱える課題について明らかにする.
    2.倉敷美観地区のライフサイクル
    美観地区は1979年に国指定の重要伝統的建造物群保存地区に選定された.観光客数は1988年に約540万人でピークを迎え,その後は徐々に減少,最近10年間の観光客数は300万人程度で推移している.2001年にはピーク時以降最も観光客数が少なくなり,バトラーの述べる「衰退期」に入ったと考えられるが,その後観光客数は徐々に増加あるいは停滞している.これには多様な観光資源の創出が行われてきたことが影響している.その背景には1990年代の地方分権の始まりと地域内からの転出者の増加がある.バブル崩壊後,財政難に陥った政府は自立的な地域づくりを求めた.その結果,自治体は地域資源を生かした観光による地域活性化を進めた.そして全国で観光地が増加,観光地間競争が過熱したことが美観地区にも影響してきたと考えられる.また,美観地区内部では大原美術館や倉敷川散策を中心とした従来の箱庭的な観光地として生き残ることに事業者および地域住民から危機感が生まれ,周辺も活用した新たな観光資源の発掘が進められた.また,美観地区内からの転出者の増加から生活の場としての価値の向上も意識されるようになり,町家の改修・有効利用が取組まれるようになった.
    3.まちづくりの担い手の変遷と多様な観光資源の創出
    美観地区は江戸時代に税負担の少ない天領と呼ばれる地区であった.この地区で商工業を営む人々は町衆と呼ばれ,独自の文化を築いた.美観地区では戦前からこの町衆を含む地域住民によるまちづくりが行われてきた.戦前は大原家が中心となり,戦後には加えて建築家・大学教授といった地元有識者によるまちづくりが進められた.現在では商工会議所や地域住民によってまちづくりが活発に進められている.本研究で取り上げるNPO法人町家トラスト(町家改修・町家賃貸仲介)および倉敷屏風祭(年に一回地域住民が屏風を披露する祭り)には,観光地として主軸を担う倉敷川周辺ではなく町家の並ぶ本町通り・東町を活動の拠点としている,リーダーが様々な地域活動に参加しているという共通点がある.本町通り・東町には人々が代々町家に住み続け,町家の一部の1階を店舗に改修,カフェ等として活用している.店主らは天領としての歴史的背景を意識しており,地区に対する強い愛着が見られ,倉敷川周辺の店主らと比較してまちづくり活動に対して強い関心がみられた.活動のリーダーはこういった地域住民と協力し,また,自身のもつネットワークを活用しながら活動を進めていた.美観地区は町衆という文化を背景とした様々な担い手により観光客の多様化したニーズを様々な観光資源で満足させることに成功している.
  • 深見 聡, 有馬 貴之
    セッションID: 522
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    わが国におけるジオパークと観光振興に関する研究は、日本ジオパークネットワークが組織され、2009年に島原半島など3つの世界ジオパークの認定がなされたことを契機に注目を集めつつある。その際、ジオツーリズムと呼ばれる観光振興の方法は、たとえば歴史観光や産業観光などとは異なる「地学・自然地理学」といった理科的な地域特性が前面に存在する点を踏まえて、「大地の遺産」を観光客に紹介できるかが重要である。ジオパークによる観光振興(ジオツーリズム)に関する地域での取り組みもなされるようになり、オンサイトツーリズムの1つとして期待する声も高まっている。
     一方で、ジオパークには一種独特の「難しさ」の存在を実感することがある。報道においても、世界ジオパークと似た仕組みでユネスコが関与する世界遺産にくらべジオパークやジオツーリズムの名前は一般に著しく知名度に欠ける点が指摘されている。そもそも社会的に地学・自然地理学に対する関心が低いためジオパークそのものへの視点が向かいにくいのではという疑問も同時に生じる。わが国におけるジオパークの議論は、まさにこれからが正念場といえよう。
     そこで本稿では、ジオパークとは何かについて改めて整理していく基盤的データを得るべく、ジオパークと観光振興に関するアンケート調査を九州にある4か所のジオパーク(島原・天草御所浦・阿蘇・霧島)で実施した結果を速報的に公表するものである。その結果から、今後のジオパークの展開において求められる地域での役割は何なのか考えてみたい。
    2.アンケート調査の概要
     2010年11月から12月にかけて、上掲4か所のジオパークにあるコア施設(博物館・景勝地など)において観光客をおもな対象者に定めて回答を直接依頼し、各100部ずつ回収した。ジオパークの認知度や、地域経済の活性化といった、質問項目に対して選択式による回答を得、集計と地域間における差の検定をおこなった。
    3.アンケート調査の結果
     本稿では、紙幅の都合上、その一部を公表する。
    ・ジオパークの認知度・・・地域間の差はみられず。「聞いたことがない」は全体で37%。
    ・「日本ジオパーク認定」の知名度・・・地域間に差がみられた。特に、天草御所浦の「聞いたことがある」(40%)が4地域で最高、「聞いたことがない」(60%)が最低。反対に阿蘇は「聞いたことがある」(16%)が4地域で最低、「聞いたことがない」(84%)が最高となった。
    ・「ジオパーク」への興味・・・地域間に差がみられた。特に、島原は「そう思う」「かなりそう思う」を合わせて65%と最高、最低は阿蘇の40%となった。
    ・「ジオパーク」の活動への参加意欲・・・地域間に差がみられた。特に、島原は「そう思う」「かなりそう思う」を合わせて40%と最高、一方、阿蘇は「どちらでもない」が55%と4地域間で最高となった。
    ・「ジオパーク」の活動に参加したくない理由・・・地域間に差はみられず。「そもそも何なのか分からない」は全体で70%弱、次いで「興味・関心がない」「どうすればよいのか分からない」が各々20%超となった。
    ・「ジオパーク」と地域の持続的発展の関連・・・地域間に差はみられず。全体で、「かなりそう思う」「ある程度そう思う」を合わせて66%、「あまりそう思わない」「全くそう思わない」は合わせて7%であった。
    ・「ジオパーク」のイメージ・・・地域間に差がみられない項目のうち、「楽しい」「感動する」「環境にやさしい」で高い評価がなされていた。
    ・「ジオパーク」で経験したいもの・・・「歴史的遺産」「郷土料理・地産地消」は地域間に差がみられず、比較的高い割合を示した。「温泉・地熱」は天草御所浦を除く3地域で60~80%の高い割合、島原は「防災・減災」が唯一30%を超えた。
    4.おわりに
     ジオパークのイメージは、いまだ明確に地域を訪れる観光客に浸透しているとは言い難い。ジオパークの知名度向上には、各ジオパークで高い割合を示した体験希望メニューを重点的に展開する等の工夫が求められる。その際、ジオサイトを学術的見地から評価する学識経験者、地域住民、地域外住民(NPOなどの地縁に依らない地域団体)、観光客、旅行業者、行政等が一同に集い、その精選をおこなう必要がある。
    また、ジオパークやジオツーリズムのもつ理念を、すでに観光地としてにぎわいを見せている場所でわざわざ導入する意義はどこにあるのかを考えることも大切だ。今後、わが国においても世界ジオパーク、日本ジオパークをはじめ、日本ジオパークの次期認定の候補地である準会員(箱根など)、その有力な候補地であるオブザーバー(磐梯山など)の数は増加していくものと考えられる。地域に共通あるいは固有のニーズはどこにあるのか、継続して比較検討していく必要がある。
  • 林 泰正, 石田 雄大, 山元 貴継
    セッションID: 523
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    調査の背景と目的
     今回調査を行った伊勢市は,かつては「(伊勢)神宮」への参拝者で大きくにぎわっていたものの,近年では短時間での滞在にとどまる観光客が多くなり,「日本一滞在時間の短い観光地」という指摘も受けている.
     あらかじめ2009年6月28日(日)の終日行った調査では,伊勢市内の各所において,それらの場所に立ち寄っていた観光バスのナンバープレート記録をもとに,同市を訪れていると思われる観光バスがどのように市内をめぐっているのかを明らかにした(林ほか2010).そこでは,追跡できた192台の観光バスのうち127台が(伊勢)神宮「内宮」を訪れているものの,同じ神宮の「外宮」を経由したのは32台にとどまっていた.また多くの観光バスが,午前中には隣接する鳥羽市・志摩市から伊勢市方面へ,一方で夕方以降は,伊勢市から鳥羽市・志摩市方面に向かうことが確認された.このように,伊勢市を訪れている観光バスの多くが,実際には「内宮」周囲に立ち寄るのみで,そのまま宿泊などのために鳥羽市・志摩市方面に向かっていると想定された.
     そこで今回の調査では,こうした想定をもとに,伊勢市を訪れる観光バスツアーの関係者(バス運転手または添乗員)に対して,各ツアーが伊勢市内の観光地をどのように訪れているのか,また,同市以外の三重県内の都市をどのようにめぐるツアーを設定しているのかについて,その理由を含めた尋ねるアンケートを行なった.アンケートは,先の調査と条件を揃えた2010年6月27日(土)・28日(日)の両日に,「内宮」前駐車場にて実施した.

    観光バスツアーと伊勢市内の観光地
     今回,回答を得られた観光バスツアーは計150組であった.まず,それぞれの観光バスツアーについて,参加者の居住する都府県として最も多く挙げられたのは大阪府(30組),次に兵庫県(16組)となるなど,関西地方の居住者を対象とするツアーが多く占めた.これに愛知県(13組),岐阜県(11組)が続いた.ツアーの参加者の年齢層としては,50歳代,40歳代に偏って多かった.
     そしてアンケートからは,「内宮」を訪れていた観光バスツアーの中で,116組が「おかげ横丁」,89組が「おはらい町」にも立ち寄るよう,ツアーを設定しているとの回答が得られた.「内宮」に隣接しているこれらの観光地ですら訪れないとする観光バスツアーが現れており,続いて53組が「二見浦」,45組が「外宮」,23組が「二見シーパラダイス」,14組が「倉田山周辺」に立ち寄るとしたほか,「伊勢安土桃山文化村」などの伊勢市内の各観光地に立ち寄った観光バスツアーは一桁台にとどまった.これらの伊勢市内の観光地に立ち寄らなかった理由としては,ほとんどの観光バスツアーが「もともとコースに設定していない」と回答していた.とくに,6割以上と圧倒的に多くのツアーが伊勢市での観光への期待として「神社参拝」を挙げているにも関わらず,「外宮」にすら参拝していないことが明らかとなった.

    周辺都市への観光との関係
     アンケートでは,観光バスツアーが伊勢市だけでなく,三重県内の他の都市をどのように訪れているのかについても尋ねた.その結果,ツアーの出発地から伊勢市に直行し,そのまま出発地に戻った27組を除いた123組が,伊勢市の前後に,三重県内の他の都市を訪れていた.とくに,伊勢市に続いて鳥羽市や志摩市に向かうといったように,伊勢市を訪れた後に県内の他の都市を訪れるコースを採る観光バスツアーが,相対的に多くみられた.
     そして,宿泊地についても,宿泊を伴っていた観光バスツアー計105組のうち,伊勢市内に宿泊地を求めていたツアーはわずか15組しかなかった.とくに,鳥羽市の存在が際だっており,宿泊を伴った観光バスツアーのうち74組が鳥羽市にも立ち寄っている中で,実に48組が同市に宿泊していた.伊勢市に宿泊地を選ばなかった理由としては,伊勢市以外の都市に宿泊した方が日程の都合が良いとする回答が最も多く,また,伊勢市内に良い宿泊施設が無いからという回答も多くみられた.
     以上の結果からは,伊勢市をめぐっていると思われた観光バスツアーの多くが,実際には鳥羽市や志摩市などをメインに観光および宿泊する観光コースを採っている中で,「内宮」のみを訪れるために伊勢市に立ち寄っている可能性が高いということが明らかとなった.こうした,他の都市を含めた観光の中でますます,「内宮」を除いた伊勢市内の各観光地を観光バスツアーがめぐる時間が短くなっていることが想定される.

    林 泰正,石田雄大,田中博久,山元貴継 2010. 三重県伊勢市をめぐる観光バスの動向.2010年度日本地理学会秋季学術大会.
  • 福田 綾
    セッションID: 524
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の背景と目的
    1980年代以降の地理学においては,観光地における郷土芸能や地域文化生成の実践を事例として,観光資源が成立する構造の解明がなされてきた.従来の研究より,観光地をとりまく主体の在り方や考え方が多様化した現代において,複雑に絡み合う主体の関係を紐解く必要性が指摘されて久しいが,地域の政治的・社会的状況の変化を踏まえ,観光地として再編成されるメカニズムを検討した研究は未だ蓄積段階にある.そこで本研究では,観光地における実践のなかでも多くの主体が関係し合い,かつ国や県との関連性が強い景観形成を取り上げ,地域内部の社会的関連から考察し,観光地が再編成されるメカニズムを検討する.研究の手順としては,戦後から高度経済成長期にかけて発達した大分県由布市湯平温泉を事例として,県の補助金制度を利用して整備された景観の変化を,旅館や商店,設計士の関係性から分析し,その結果を地域の社会的関連および社会構造から考察し,景観形成をめぐる状況を湯平の政治的・社会的立場から捉えることで観光地再編成のメカニズムを明示する.

    2.湯平温泉の歴史的変遷
    湯平温泉は大分県由布市に位置し,花合野川に沿って旅館や商店が立ち並ぶ山峡の温泉地である.江戸中期から温泉地として形成され初め,近隣の農業従事者の湯治場として親しまれた.戦後から高度経済成長期にかけては,貸席や置屋なども設置され,大分市の奥座敷的な性格も有していた.1970年代以降,地形的な開発の制約の多い湯平は,観光地としての停滞を余儀なくされたが,2005年から2007年にかけて「大分県合併地域活力創造特別対策事業」からの補助金により地域内の共同浴場や旅館,商店が整備され,観光地として再編成の時期を迎えている.

    3.湯平温泉における景観形成と主体の社会的関連
    景観整備事業が開始される前後の景観を比較すると,白壁からベージュ壁に転換される事例が多くみられた.さらに,黒色系の外壁に黒い菱葺き屋根を採用する様式が事業後に現れ,これは,事業の「外部コンサルタント」である設計士aの意向を強く反映したものであった.こうした景観形成の要因として,設計士aと実際に修景を担当した他の設計士との関係が指摘できる.aとの関係性が相対的に強い場合はaの意向の反映度が高く,黒色系の外壁に菱葺き屋根の様式が採用され,aとの関係性が相対的に弱い場合は,施主である旅館や商店の意向がより反映されやすく,ベージュ系の外壁が多くなる.また,景観形成には時間的な要因も存在し,修景の時期が早いほど黒色系の外壁になる傾向にあった.この結果は地域内部の社会的関連および社会構造を反映している.壮年者中心型の旅館の多くがベージュ壁へ修景しているが,後継者中心型の旅館は修景後も白壁のままであり,施主が壮年者かつ役員経験者の場合に修景の自由度は高い傾向にある.ここに,壮年者/後継者という地域内の社会構造の反映が読み取れる.また,同年代で同コミュニティに属し,互いに交流がある女性経営者間で設計士の紹介が行われる事例や,役員関連の組織で交流のある男性経営者間で同様の事例がみられ,個々の社会的な関連も反映されている.

    4.観光地再編成のメカニズム
    湯平温泉は,昭和・平成の大合併によるスケール構造の変化に強く影響を受けた地域である.昭和の市町村合併以降,由布院温泉台頭の煽りを受ける形で停滞した湯平温泉では,平成の大合併の飴と鞭の策としての補助金制度による再編成のなかで,「外部コンサルタント」として県から景観形成に関する任を全面的に委託された設計士aの存在が大きくなった.スケール構造の変化と社会的・政治的状況の変化のなかで培われた地域の社会的関係が景観形成に影響を与えた一方で,観光地としての再編成期において外部主体の影響を大きく受ける基盤も形成されたものと考える.
  • 矢部 直人
    セッションID: 525
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    I 本研究の目的 2008年度の国内旅行消費額23.6兆円のうち,国内宿泊旅行は15.6兆円と,訪日外国人の旅行消費額(1.3兆円)を大幅に上回る規模を持っている.この国内宿泊旅行を増加させることが期待されている休暇分散化に関して,休暇を分散する地域ブロックの設定を行い,旅行需要を平準化する効果を検証する. II データと分析方法 観光庁の『宿泊旅行統計調査』より,都道府県間の宿泊旅行流動に関するODデータが得られる.最初に,この宿泊旅行流動の時系列的な安定性を,ネットワークの中心性の分析から確認する.中心性の分析に用いるデータは2007年1月~2010年3月までのデータである.次いで,宿泊旅行流動のデータにネットワーク分析の手法であるグラフ・クラスタリングを適用し,実際の旅行流動を反映した国内宿泊旅行圏を抽出することを試みる.グラフ・クラスタリングを適用するデータは,休暇分散化が想定されているゴールデン・ウィークの時期を含む,2009年5月のデータである. III 分析結果 国内宿泊旅行の流動をネットワークとしてとらえた場合,その中心性の時系列変動はわずかであり,流動の構造はきわめて安定していた.中心性が最も高いのは東京ディズニーリゾートや成田空港のある千葉県であり,東京都,北海道,沖縄県がそれに続く. そこで,2009年5月の都道府県間宿泊旅行流動データに対して,グラフ・クラスタリング手法を適用して宿泊旅行圏の抽出を行った.その結果,全国を二つもしくは三つの地域ブロックに分割する案を設定することができた.二つに分割する案は東日本と西日本に分割するものであり,三つに分割する案は,西日本をさらに九州とそれ以外に分割するものである.これらの地域ブロックの分割案に対して,旅行需要の平準化効果を計算したところ,全国を東日本と西日本の二つの地域ブロックに分割する案が望ましいことが明らかになった(図1).
  • 茨城県日立市を対象事例地域として
    森嶋 俊行
    セッションID: 526
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 発表者はこれまで鉱工業都市の脱鉱工業化局面において,その都市の鉱工業の歴史,そして中核企業の対地域諸施策の差が,鉱工業に代わる産業振興策,およびアイデンティティの再構築に多くの面での差異を与えてきたことについて論じてきた.発表者がこれまで主に分析対象としてきたのは,中核企業事業撤退後の近代化産業遺産保存活用運動であるが,本発表では,「遺産」にとどまらない「産業観光資源」全体を対象とし,第二次大戦以前から現在に至るまで特定の鉱工業企業が中核企業であり続けている地域の例として,茨城県日立市における産業観光に関する各主体の価値づけや運動の実践をとりあげる.その上で,鉱工業を地域の文化や観光振興に結び付けるような考え方,としての産業観光の考え方がどのように発生し,どのように受容されてきたか,あるいは来なかったかを分析し,脱鉱工業化局面における中核企業の対地域施策と,鉱工業に代わる産業振興策,およびアイデンティティの再構築の結びつきを考察したい. 2.対象事例 茨城県日立市の近代都市としての成立は1900年前後で,日立鉱山の急速な規模拡大とともに周囲に立地した鉱山集落にその起源を有する.1918年には鉱山工作課を母体として日立製作所が創立,以後急速に経営規模を拡大させ,第二次大戦以降,鉱山規模が縮小すると,鉱山に代わる当該地域の中核企業となり,現在に至っている.このように日立市は旧鉱業都市としての性質と工業都市としての性質を持っており,その歴史的経緯より,当該地域には産業遺産,企業博物館,工場見学ツアーといった,多様な形態の「産業観光資源」が市内各地に散在している. かつての鉱山の坑口の所在地では閉山後,旧鉱山経営企業グループが記念館を建設し,鉱山の繁栄,そして企業と地域の関係,特に公害対策についての展示を行っている.また,日立製作所日立事業所内には,初代社長小平浪平を顕彰する小平記念館と,創業時の建物を復元した創業小屋が建設されている.これ以外にも,かつての鉱山所有の芝居小屋であった建物,共楽館などが現存する. これら,元々存在した各「産業観光資源」に対し,近年域内外の諸主体により,様々な角度からの価値づけ,及び保存活用の実践が行われている.共楽館に関しては,1990年代より共楽館の芝居小屋としての復元活用を目指す市民団体NPO法人 「共楽館を考える集い」が活動を行っているが,2000年代以降,この共楽館に対し,「産業遺産」としての価値を新たに主張するようになり,他地域の市民団体との交流を図っている.さらに,「郷土ひたち・ネット」による生涯学習活動としての産業観光認知運動,商工会議所による地域資源発掘,地域経済振興策としての「日立のいまとむかし」バスツアーや「ふるさと日立検定」,郷土学習現場における「郷土学習のための校外学習バス」事業など,「産業観光資源」を地域経済活性化や地域アイデンティティ構築に結び付けようという動きは,2000年以降急速に活発化している.本発表では,地域の社会的状況やその状況に対する地域各主体の認識が,産業観光資源に対する地域各主体の認識・価値づけにどう反映されるかについて分析・考察する.
  • 三原 昌巳
    セッションID: 527
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
     グローバル化の進展や高齢社会の到来により,国境を越える医療が我が国においても広く認知されるようになってきた。日本の医療ツーリズム/医療観光(medical tourism)事業は昨年(2010年)にようやく開始され,外国人向け医療ビザの創設や医療観光通訳者の養成など本格的な受入れ体制が整えられつつある。

     アジアでは,1990年代後半に金融危機に直面した新興国政府が医療ツーリズム事業を外貨獲得の手段として積極的に導入したことが大きな契機となった。欧米諸国に留学していた医師を母国に呼び寄せ,医療部門の大規模な民営化,一部においては営利化を図った。これにより,安くて良質な医療を受けることを目的にアジア諸国へ渡航するというグローバルな移動が欧米諸国の患者たちを中心に広まった。

     このような流れのなか,隣国の韓国では2009年度から本格的に医療ツーリズム事業に参入し年間誘致外国人患者数が6万人を突破するなど(韓国保健産業振興院 2010),誘致実績を着実に伸ばしている。その事業主体は韓国政府のみならず,地方自治体,医療機関連携など複合的であり,多様な地理的スケールでの釜山市の位置性を利用した事業展開がみられる。そこで本発表では,韓国南部に位置する釜山市の医療ツーリズム事業を取り上げ,国家,都市,病院など,それぞれの地理的スケールに応じて検討し,如何なるコンテクストのもとで釜山市の医療ツーリズム事業が展開されているのかを明らかにすることを目的とする。

     研究対象地域である釜山市は,コンテナ取扱量世界第5位の国際港(東アジアのハブ港)と11カ国への国際線を運航する国際空港を保有する国際都市である。同市は海外旅行が自由化していなかった時代には,韓国のリゾート地として高級ホテルやカジノなどの観光資源を蓄積してきた歴史を持つ。現在,各自治体のなかでいち早く医療ツーリズム事業を推進し,188の病医院が外国人患者誘致医療機関として保健福祉家族部に登録されている(2010年12月時点)。とくに,市内交通の結節点である西面(ソミョン)一帯に医院の集積がみられる。国籍別に受入れ外国人患者数をみると,韓国全体ではアメリカ,日本,中国の順であるのに対し,釜山市ではロシア,中国,日本の順で,他地域に比べてロシア人の流入が多いのが特徴である。
  • ー視察旅行客の事例分析を通じてー
    崔 龍文
    セッションID: 528
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    訪日中国人観光客の観光行動における観光消費の特性
    ー視察旅行客の事例分析を通じてー
    Characteristics of Tourism Consumption in terms of Chinese visitors to Japan
    ―A case study of the Business Trip―
    崔龍文(首都大学東京・研)
    LongWen Cui (Research Student, Univ. of Tokyo Metropolitan)
    キーワード:中国人観光客,視察旅行,観光消費,観光行動,訪日旅行
    Keywords: Chinese vistors, business trip, tourism consumption, tourism activities, visit to Japan
    1.研究の背景
    既存の多くの研究で言及しているように,ショッピングは観光活動の重要な一部分を占めている.土産物は観光地のイメージ形成にとって重要であり,観光地の宣伝媒体としても重要な役割を果たしている.また,観光客は観光地にて当地の歴史と文化が込められた土産物を購入して人に送る,もしくは自分の記念品として手元に置いて楽しんだりもする.旅行中に購入した土産物を周囲の人に送る習慣は多くの国で伝統的な慣習ともいえる.さらに観光はしばしば観光客に彼らの居住地域で購入するよりもっと有益で,良質なものを低廉な価格で,しかも免税で購入できるチャンスを与えている.
    観光客が日常生活圏を離れて移動することを「観光行動」といい,観光行動には,「する」,「観る」,「乗る」,「泊まる」,「食べる」,「買い物する」,「遊ぶ」,「学ぶ」などが含まれるが,この行動はすべてにおいて「観光消費」につながる(中尾ほか,2009).経済波及効果に直接関連するのは買い物金額だけでなく観光客が日本で支出したすべての金額であり,そのような観光と消費の因果関係を究明する上で重要である.つまり,観光消費は観光客が日本国内で支出した「宿泊」,「交通」,「飲食」,「買い物」,「遊ぶ」に支出した費用ともいえる.観光と消費に関する従来の研究をみると,ほとんどが買い物に焦点を当てた研究であり,観光消費全般を総合的に分析した研究は見あたらない.
    2.研究の目的と方法
    訪日外客数を目的別に見ると観光目的,商用目的,その他の目的,一時上陸目的に分けられるが,商用目的で来ている観光客が一般的なパッケージツアー観光客に比較して,旅行代金が高いことと旅行会社は観光客の意志を反映して少し変更できるように行程を柔軟に手配することが多いことなど異なる特徴を持っている.
    観光行動が消費に直接,あるいは間接的に影響を与えていることから観光行動と消費を結びついて考察することが妥当であると考えられる.本研究は観光行動が自由意志で決められ,比較的クオリティが高いといわれる視察団の日本における「観光行動」と「観光消費」を考察し,観光と消費の因果関係を究明し,明らかにすることを目的とする.
    本研究では商用ビザで来日した視察団を研究対象者として,GPSログと同行調査,および聞き取り調査などを行い,彼らの観光行動を把握する.次に,彼らが日本滞在期間中に消費した領収証に基づいて,消費場所と品目,および金額などを時空間的に分析する.
    3. 近年における中国人観光の動向と観光消費
    近年,訪日する中国人観光客は年々増えており,中国の人口規模と経済成長から見て訪日する観光客の増加することは間違いないであろう.中国の中間所得層に対して2010年7月からビザ発給条件を大幅に緩和しており,これによって観光庁は緩和する前より「観光客10倍」を予測している(朝日新聞,2010).観光庁の調査によると,中国人観光客は日本国内における旅行中支出額は14.4万円(2010年7月~9月期)であり,アジアの国の中で最も高く,日本の観光地や商店は彼らの旺盛な消費欲に期待を募らせている(朝日新聞,2010).
    参考文献
    朝日新聞2010:歓迎,中国の中間所得層ビザ緩和で観光客10倍予測,2010年7月2日,http://www.asahi.com.
    中尾清・浦達雄 2009:「観光学入門」晃洋書房:215.
  • 池永 正人
    セッションID: 529
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究の背景と目的  日本の九州本土ほどの国土面積であるスイスには,起伏に富んだ雄大で美しい自然景観や優雅で固有の文化景観が展開している。スイス国民は,これらの土地資源の有効活用に研究と開発を進めてきた。観光立国を標榜するスイスは,製品や施設・サービスの信頼性,時間・規則の高度な遵守,そして多文化社会の政治的・経済的安定性を観光発展の基本条件としている。 本研究は,アルプス地域の高所に位置するアルプの観光の多様性について,ベットマーアルプ(Bettmeralp)を事例に明らかにする。 2.ベットマーアルプの観光地の価値  ベットマーアルプが属するベッテン村(Gemeinde Betten)は,ヴァリス州のローヌ谷上部に位置し,2009年の人口は395人(うち外国人29人),面積は2,637 haである。土地利用は,集落(道路を含む)35 ha(1.3%),農地419 ha(15.9%),林地315 ha(12.0%),そして氷河や岩石などの非生産地が1,868haで70.8%を占める。中心集落のベッテンは標高1203mに位置し,村域の最高地点は世界遺産のアレッチホルン(Aletschhorn, 4193m)である。ベッテンおよびベットマーアルプに至るロープウェイの駅が立地するローヌ谷低地が826mであることから,その高低差は実に3300mにおよぶ。  ベットマーアルプは,自動車交通を排除したいわゆるカーフリーの観光地であるが,観光客はロープウェイによって到達できる。このため観光地としての価値は,日向斜面で眺めが良く,新鮮な空気と静かな環境の中で,スキーや登山・ハイキングなどを楽しめることにある。また,ベットマーアルプには森林限界を超えた場所に定住集落(1970m)が立地し,その集落にある「雪のマリア礼拝堂」(1697年建立)は,文化遺産としての価値が高い。さらに,ベットマーアルプは,2001年12月にアルプス山脈で初めて世界自然遺産に登録された「ユングフラウ-アレッチ-ビエッチホルン」のアレッチ地域の観光拠点として,各種施設が整備されている。この世界遺産は,2007年に指定区域が拡大され,26自治体(Gemeinde)にまたがる面積824k_m2_の領域(佐渡島855k_m2_に相当)となり,名称も親しみやすくてわかりやすいようにと,「スイスアルプス-ユングフラウ・アレッチ」に変更された。 3.ベットマーアルプの観光の多様性  1930年頃に始まったベットマーアルプの観光は,1951年のロープウェイと1985年の道路の開通により飛躍的に発展し,農民に就業機会をもたらすことになった。また,経済的に豊かな生活を求めて移住する人も増え,1990年には就業人口の79%が第三次産業に従事するに至った。  ベットマーアルプの宿泊客数は,1980年代から90年代前半までは37万人前後で安定していた。しかし,90年代後半から減少が続き2005年には30万人に落ち込んだ。その後は増加に転じ,2009年には過去最高の39万人となった。2009年の宿泊客数の内訳は,冬半期(11月~4月)78%,夏半期(5月~10月)22%の構成比で,冬季のスキー観光が盛んである。また,宿泊客の59%がスイス人,これに次ぐドイツ人が35%であり,両者で94%を占める。宿泊施設の総ベッド数は4,417ベッドで,宿泊客の71%は安価で長期滞在が可能な休暇アパート(3,900ベッド,Ferienwohnung)を利用している。このことから,ベットマーアルプの宿泊施設の年間平均稼働率は,24%であると算定できる。  ベットマーアルプの観光の多様性は,1年を通して多様なスポーツや文化的な催事が可能な自然環境と,各種施設の整備に起因する。 4.むすび  地域の自然や農業,歴史や文化を観光資源として有効に活用し,「観光の多様性」を実現しているスイスアルプスの観光地に,日本の山岳観光地は学ぶ点が多い。魅力的な観光地とは,障害者や健常者,国民や外国人を問わず,老若男女のあらゆる客層に対応した施設やサービスを整備し,観光の普遍性と地域性を併せ持ったところであると考える。
  • 杉原 重夫
    セッションID: 601
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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     日本各地で産出する黒曜石(黒曜岩)は、石器時代における石材資源として貴重な存在であった。これらの黒曜石製遺物の産地推定は、顕微鏡による晶子形態の観察、フィッション・トラック年代測定、機器中性子放射化分析(INAA)、蛍光X線装置(WDX・EDX)やエレクトロンプルーブX線マイクロアナライザー(EPMA)による元素分析など、さまざまな方法が用いられている。なかでもエネルギー分散型蛍光X線分析装置(EDX)を用いた産地分析は、多数の試料を非破壊且つ短時間内に処理できることから、現在では主流な方法である。
     明治大学文化財研究施設では、日本全国の黒曜石原産地の調査成果を基に、各地の石器時代遺跡から出土した黒曜石製遺物の原産地推定を行ってきた。これまでに原産地推定の対象にしたのは250遺跡、遺物数は約30、000点に上る。その結果、北海道白滝・置戸産の黒曜石が樺太の遺跡から、霧ヶ峰産黒曜石が青森県山内丸山遺跡から、神津島産黒曜石が三重県や能登半島の遺跡で利用された例など、広域にわたる黒曜石の原産地―消費地の関係が明らかになってきた。今回は関東各地の旧石器時代~縄文時代遺跡の黒曜石原産地推定データを基に、海洋運搬の手法を効果的に利用したと想定される伊豆諸島・神津島産黒曜石の流通経路や流通範囲の変遷について、海洋環境の変化との関係から考察する。
    1) 日本列島に人類が渡来した酸素同位体ステージ3(MIS3)の当初から、神津島産黒曜石は石器石材として使用された。MIS2~1の低海面期の東京湾は陸化しており、神津島産黒曜石については相模湾を北上し相模野台地から武蔵野台地へ至る流通ルートが推定される。
    2) 縄文時代早期~前期~中期初頭は縄文海進最盛期と前後し、伊豆大島を中継地とする相模湾北上ルート・東京湾北上ルート・太平洋沿岸ルートが海上経路として開拓されたと推定できる。神津島の南方にある御蔵島や八丈島も神津島産黒曜石の流通圏に含まれる。
    3) 縄文時代中期は神津島産黒曜石の流通が最も活発になり、伊豆半島・南関東地方の遺跡では高い比率で利用される。また、古鬼怒湾周辺地域の遺跡からも、太平洋沿岸ルートより搬入したと推定される神津島産黒曜石の利用が卓越する。伊豆半島東部の見高段間遺跡は伊豆半島を縦断して駿河湾東部沿岸地方に至る黒曜石の流通ルートとして重要な中継地であったと推察できる。
    4) 縄文時代後期~晩期になると、伊豆諸島では依然として神津島産の利用比率が高い状態が維持されるものの、その他の地域では利用比率が低下し、相模湾北上ルート・東京湾北上ルートに限定される。このことは伊豆大島・下高洞遺跡における神津島産黒曜石の時期別利用比率の変化からも認められる。
     神津島産黒曜石の利用を考えた場合、伊豆大島が神津島産黒曜石の流通ルート上において重要な位置を占めていたと推定できる。このような黒曜石の流通には海洋環境に適応した運搬手段(舟・筏等)が利用されたと考えられる。今後は全黒曜石製遺物を対象とした分析や新たな遺跡発掘調査により、神津島産黒曜石の流通圏について議論を深めたい。
  • 渡邉 英明
    セッションID: 602
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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     定期市は,市町間の距離や市日の調整を通じて時空間的システム(市場網)を形成する点に特徴があり,市場網の変遷の仕組は,定期市研究におけるひとつの論点といえる。市場網の変遷を考える際には,ある時点で衰滅に至った零細な定期市も含めて,位置づけを検討する必要がある。しかし,江戸時代の市場網に関して,それらの零細な定期市の動向把握は,史料的制約から困難を伴う場合が多い。これに関して,渡邉(2010)は,村明細帳の史料的価値に注目することで,これまで実態が不詳であった複数の定期市について手掛かりを得ることができた。しかし,『新編武蔵国風土記稿』で古市場と記録されながら,なお活動期間等が不詳となっている定期市も少なくない。 本研究で取り上げる久保田村は,横見郡内で唯一の市町であったが,渡邉(2010)では,その活動期間や市の実態について,明確な位置づけはできなかった。そのなかで, 2010年6月,久保田村の名主家に伝来した新井家文書が埼玉県立文書館で新公開され,定期市に関連する良質な近世史料も複数含まれることが明らかになった。本研究では,新井家文書の検討を通して,江戸時代の久保田村の定期市について,新たに得られた知見を報告したい。
     横見郡は,荒川右岸にあって用水に恵まれ,久保田村も米作を中心とした農村であった。久保田村では,中山道と松山町を東西に結ぶ街道が村の南端付近を通過し,その両側に町並が形成された.定期市が開催されたのも,この町並であった。近世中期以降の久保田村は4組から構成され,それぞれに村役人が置かれていた。久保田村の定期市の変遷について,新井家文書には,1697~1823年にかけての5時点における久保田村明細帳が残り,定期市の変遷過程がある程度把握できる。まず,1697年の久保田村明細帳では,3・8六斎市の開催と,薪・塩の取引が記録される。しかし,1733年には,六斎市は極月(12月)にわずかに立つのみであると記され,既に形骸化していたことが知られる。同様の記述は,1743年,1761年の久保田村明細帳でもみられ,従来の六斎市は,実質的には12月のみの大市と化していた。その後,1823年の久保田村明細帳では,12月の大市とともに7月の盆前市の開催も記録されている。久保田村では,1733年までに六斎市が大市へと変化し,当初は12月のみであった大市が,1820年頃には7月にも行われるに至っていたことが指摘できる。
     久保田村をめぐっては,1822年に松山町との間で市場争論が発生している。「市場一件留帳」(新井家文書399)は,本争論の発生からの一連の経過を詳細に記録し,当該期の定期市をめぐる状況を知る上でも貴重である。この時期,横見郡では,農間稼として綿織物生産が行われ,鴻巣宿で販売して収入を得ていた。そのなかで,1822年夏頃から,埼玉郡騎西町の商人・喜三郎が,旧来の3・8市日に久保田村の「市場庭」を借り,商売を始めたという。喜三郎は,生産者に綿を売付け,綿織物と糸を買付けた。そして,喜三郎以外にも3名程度が同様の取引を始めた。隣接市町である松山町は,久保田六斎市が繁栄しては松山町の商業に差し支えるとして,同年11月に差止を申し入れた。これに対し,久保田村は,既に市に出る商人も1~2名程度に減少し,小規模な取引も同年限りという見通しを示した。その上で,12月23・28日は旧来からの市で,盛大に行われるため,通常通りの開催を求めた。しかし,松山町は,大市開催も認められないとして,幕府評定所に出訴した。その後,評定所での審議中に内済(示談)が成立し,久保田村は盆暮の大市開催を継続する一方で,六斎市は差止となった。18世紀関東における市場争論の裁定内容をみると,古市場の由緒を有する市町は,所定の手続きを経ることで市の再興が認められる傾向にあった(渡邉2009)。久保田村内でも,市開催に直接関与する十郎右衛門組・和助組の村役人を中心に,六斎市の開催継続を求める動きがみられた。そのなかで,六斎市差止を受け入れ,内済した要因として,市に出る商人が「再興」から短期間で減少し,六斎市の維持が困難な状況に至っていたことが指摘できる。
    文献
    渡邉英明2009.江戸時代の関東における定期市の新設・再興とその実現過程―幕府政策の分析を中心に―.地理学評論82:46-58.
    渡邉英明2010.村明細帳を用いた近世武蔵国における市場網の分析.人文地理62:154-171.
  • 富山県高岡市の事例
    山根 拓
    セッションID: 603
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    本研究は,明治期の最初の市制施行都市の一つである富山県高岡市に関して明治期から1950年代頃までの間に発行された近代民間都市地図を対象として,その発行状況を把握するとともに,各地図の地誌的表現内容を分析した。研究対象となる地図としては,高岡市立博物館と富山県立図書館の所蔵品を用いた。この試みは,山根(2008)における富山県富山市および石川県金沢市の民間都市地図研究の成果を継承しており,県都ではないが地方の有力都市であった高岡において,左記の研究と同様の検討・考察を試みたものである。近世城下町であり,近代以降も県都としての地位を築いていた金沢や富山に比べて,高岡での都市地図刊行は遅れた上,その点数も少なかった。とはいえ,各時期に両都市同様の都市図が地元の書肆により発行されていた。内容的には,比較的平凡な平面図が主であった。また,主図の裏面に「名所案内」として市内の場所の写真とその説明文が掲載されたものもみられた。市外で発行された外来の高岡地図としては,有名な東京交通社の『職業別明細図』が発行されたほか,吉田初三郎による鳥瞰図も製作された。平面図ばかりの民間図のなかで,初三郎絵図は高岡市民に都市の俯瞰的景観を提供した点で意義深い。内容分析については,地図そのものや地図に付帯する「名所案内」や「商工名鑑」のテキストや写真を対象に,それらで取り上げられた高岡の各場所について,その場所や景観的な意味を解釈した。さらに出来れば,近代期に発行された絵葉書の画像を民間地図と組み合わせて分析し報告する予定である。
  • 19世紀末期から20世紀初頭における西表島南東部と北部とを事例として
    藤井 紘司
    セッションID: 604
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    研究の目的
     本報告では、琉球弧のもっとも南に位置する八重山諸島を対象にして、「高い島」と「低い島」とで構成されたこの海域世界における19世紀末期から20世紀初頭における島嶼間交流を復原することに目的がある。島嶼間交流の研究は、おもに異なる生業経済を持った主体間の交流に焦点を絞ってきた。しかし、本報告は、歴史的に「低い島」の住民が「高い島」の生態環境を利用し、耕作地や水源地を所有してきた事例を通して、海上を越える埋め込まれた生業適応のあり方について分析する。なお、本報告では、この海上を越える生業適応を「通耕」という語彙を用いて、森林資源や飲料水の獲得といった行為を含めて使用する。

    研究の方法と結果
     本報告では「高い島」への通耕経験を跡付ける史料として、竹富町役場の所有する土地台帳とそれに付随する地籍図を用いた。また、地籍データの欠如した箇所は、税務課に保管されていた和紙製の「旧公図」を適宜用いて復原した。
     まず、土地台帳に関しては、記載項目を相互に照らし合わせ、合計2083筆の土地について、その所有者の属する大字(所有質取主住所)を1筆ごとに特定し、これを地籍図上で彩色表示した。本報告では、これを「土地の所有権者住所大字分類」と名付けている。
     さらに、統計データとしては、1885(明治18)年当時の八重山諸島に位置する村落の実態をまとめた田代安定(1857-1928)の復命第一書類(国文学研究資料館所蔵)の第28冊「八重山島管内西表嶋仲間村巡檢統計誌」と第35冊「八重山島管内宮良間切鳩間島巡檢統計誌」とを使用した。1892(明治25)年時の「沖繩縣八重山嶋統計一覽略表」(国立国会図書館所蔵)と併せて、当時の「高い島」と「低い島」との関係を検討するためには貴重な史料である。
     また、同時代史料として、「低い島」の頭職に就いていた宮良當整(1863-1945)の記した日誌や備忘録、南島踏査を行った笹森儀助(1845-1915)の『南島探驗』(1894年)を参照した。さらに、視覚的な史料としては、1890年代の前半に作成されたと考えられる「八重山古地図」(沖縄県立図書館所蔵)と「八重山蔵元絵師の画稿」(石垣市立八重山博物館所蔵)とを使用した。
     これらの史料と、土地台帳とそれに付随する地籍図、および明治30年代の状況にふれた「宮良殿内文書」の分析、また聞き書きによるフィールド調査や伝承されてきた古謡の分析をもとに、八重山諸島における「高い島」と「低い島」との交流史を復原した。
     これらの調査によって、本報告の対象とした事例には、狭域集中型の通耕と広域分散型の通耕の2つの形態があり、また、「低い島」の住民は、「高い島」に水を得るための「池沼」や、通耕先で寝泊まりするための「宅地」を村(字)持ちで所有していたことをあきらかにした。
     1904(明治37)年の「琉球新報」には、本報告の対象とした「低い島」の住民による刳舟の操縦技術の卓越さを記した記事があり、おそらく、通耕と操舟の技術とは、歴史的に併行し成長してきたといえる。「高い島」と「低い島」とで構成されたこれらの海域世界は、このような「海上の道」を維持することによって、島嶼環境に規定された制約性に対応し、埋め込まれた生業適応という現象を発生させてきたのである。
  • 三上 絢子
    セッションID: 606
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    米軍統治下における奄美と沖縄との非正規交易の地域的展開
    Regional development of non-regular trade between Amami and Okinawa under the U.S. military rule
    三上 絢子(法政大学沖縄文化研究所 研究員)
    Ayako MIKAMI (Hosei University lnstitute of Okinawan Culturs, Resercher)
    キーワード : 米軍統治下、非正規交易、与論島、沖縄
    Keywords : under the U.S. military rule, Non-regular trade, Yoronjima island, Okinawa


    1.はじめに
     第2次世界大戦後(以下・戦後)、1946年2月2日に日本政府は連合軍最高司令部より日本の領土について、政治上、行政上、日本本土から分離する旨の指令を受理した。北緯30度線以南のトカラ列島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島は日本政府の権限から分離され、アメリカ軍政府の支配下におかれることになった。その結果、北緯30度の境界線によって「海上封鎖」され自由渡航も禁止となった。  海上封鎖が解禁され自由渡航が実現したのは、日本国とアメリカ合衆国との間で日本返還の締結が発効したことによって、1952年2月10日にトカラ列島が、1953年12月25日に奄美諸島が、1972年5月15日に沖縄が日本に返還されたことによってである。
    2.研究対象地域
     第2次世界大戦前(以下・戦前)には、日本本土から奄美へ生活必需品から教材に及ぶあらゆる物資が移入されていた。戦後はこのような正規の交易は断絶したが、一方盛んに非正規交易(密貿易)が行われた。その拠点となったのが日本本土との境界線北緯30度に位置するトカラ列島口之島である。1953年奄美諸島の日本返還後は、奄美諸島最南端北緯27度線に位置する与論島が、口之島と入れ替わるように非正規交易の拠点の島となった。本報告では、非正規交易の拠点となった与論島と沖縄本島北部国頭村の奥集落を研究対象地域とする。
    3.研究目的
     米軍統治下の非正規交易が地理学研究の中で取り上げられることはなかったが、筆者は米軍統治下の奄美諸島における非正規交易の実態を地域的視点から考察し、奄美諸島での交易船の出入りに関わる地域的特質とトカラ列島の口之島における非正規交易の拠点の特質について明らかにした(三上、2008)。しかし、奄美諸島と沖縄との間の「物流」については課題として残されていた。
     1953年12月25日に日本国とアメリカ合衆国との間で、日本返還の締結が発効したことによって奄美諸島が返還されると、これまでの口之島と入れ替わるように奄美諸島最南端の与論島が、非正規交易の拠点としての島となった。そこで本研究の目的は、1946年から1972年まで北緯27度線を挟んで、特に初期の段階では米軍統治下の奄美諸島の与論島と沖縄国頭村奥集落との非正規交易と、1953年12月25日以降は与論島を拠点として、沖縄本島中心部周辺に交易拠点が移動した非正規交易の構造を地域との関わりから明らかにすることである。
    4.結果
    (1)交易拠点地域の変遷
     戦後間もなくからの奄美諸島の与論島と沖縄国頭村奥集落との非正規交易は1946年2月~1950年に至って、奥の部落常会の物資持ち出し禁止の決議事項による対応に接点が見出せず、沖縄側の交易拠点は次第に他の集落に移動する結果となった。1953年12月25日に奄美諸島の日本返還によって、奄美では与論島が交易拠点の島となり、沖縄側では次第に沖縄本島中心部の周辺地域に非正規交易の拠点が拡大した。
    (2) 人的ネットワーク―戦前から与論島には日本本土、奄美、沖縄の寄留商人が商業に従事しており、戦時中に撤退した商人達との人的ネットワークが存在していた。
    (3)交易物資の変容
    1) 運搬手段は、個人所有のサバニーにアメリカ製の12馬力エンジンを装備して従来より機能的になり、遠方の沖縄本島中心部周辺との海上航路も活動し易くなった。
    2) 交易物資の存在として、戦後間もなくは奄美から沖縄への交換物資は主に食料であったが、その後日本本土の生活用品に変わり、沖縄からは、真鋳・銅・鉛、嗜好品などの米軍物資が交換品となった。
  • 1910年3月のロジャーズ峠雪崩被災者からの考察
    河原 典史, 藤村 知明
    セッションID: 607
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    はじめに
     1910(明治43)年3月4日、カナダのブリティッシュ・コロンビア州のロジャーズ峠(Rogers Pass)で発生した雪崩によって、カナダ太平洋鉄道( Canadian Pacific Railway、以下CPR) の除雪作業にあたっていた58名が犠牲となった。その過半数にあたる32名は、日本人の契約移民であった。静岡県の7名を筆頭に被災者の出身地は、福井県や宮城県などの特定地域に限定される。カナダ移民の最多数を占める滋賀県出身者は2名、カナダ水産史に大きな軌跡を残した和歌山県出身者は、皆無であった。つまり、先行研究が看過してきた鉄道契約移民の追及が、かかる悲劇の解明を契機に着手されるのである。
     第二次世界大戦以前、カナダへ渡った日本人の就業は、出身地によって特定の業種に集中する傾向があった。漁業には和歌山県出身者が多く、製材業や商業には滋賀県、伐木業では熊本県の出身者の占める割合が大きかった。しかしながら、これまでは鉄道保線工として従事した日本人移民については、ほとんど報告がなかった。人里離れた山奥での保線作業は想像以上に厳しく、多くの日本人宿舎も粗末で貨車が充てられることも少なくなかった。さらに、冬~春期の除雪作業には、雪崩災害の危険性があった。そのため、日本人移民は、契約期間が終了すると、前述の漁業や製材業などへと転業する場合が多かった。
     しかしながら、2010年3・8月に報告者2名が携わった雪崩事故100周忌式典まで、事故の詳細はもちろん、多くの鉄道契約移民の存在は明らかにされてこなかった。契約が満了後、なかにはその前に転業や帰国するものが多く、その活動記録、特にオーラルデータが残っていないからであろう。
     本発表では、カナダ日本人移民史研究が看過してきた鉄道契約移民をめぐって、20世紀初頭における日本・カナダ両国の移民政策を背景にした輩出・受容構造、さらに渡加後の転業過程について、歴史地理学的アプローチから明らかにする。
    研究方法と結果
     鉄道契約移民史の解明には、カナダでの受容と日本からの輩出を双方から説明しなければならない。そこから、本発表では、以下の研究方法を採る。
    1:日本・カナダ両国における契約移民会社の成立
     20世紀初頭のカナダでは、全通したばかりのCPRでは保線工が不足してい  た。『加奈陀同胞発展史』(1909)をはじめ、バンクーバーの日本語新  聞社・大陸日報社が発行した報告書、ならびに外務省外交資料館蔵「海外 契約移民会社関係資料」などによれば、かかる状況のなかアメリカで北太 平洋鉄道会社の日本人請負業に従事した福井市出身の後藤佐織は、1906  (明治39)年にバンクーバーで日加用達株式会社を設立した。そして、  1898(明治31)年に設立された東京移民合資会社を経て、翌年におよそ  1,000人の 鉄道契約移民が日本から受け入れられた。
    2:日本の特定地域からの輩出構造
     外交史料館所蔵の「明治40年移民取扱人を経由セル海外渡航者名」には、 東京移民合資会社による約1,000名の鉄道契約移民が網羅されている。同資 料に記された出身地から、自由移民とは異なる契約移民の輩出地域が読解 される。つまり、1907年5月から9月にかけて、鹿児島県から199名、福井 県・156名、宮城県・120名、沖縄県151名、静岡県90名など、約1,000名が 3年間の鉄道契約移民としてカナダへ渡ったのである。ただし、同資料は 県レベルまでの記載にとどまるため、『加奈陀同胞発展大鑑・附録』   (1922)により出身地について市町村レベルを検討した。例えば、福井県 では若狭地方、静岡県では旧・清水市周辺など、特定地域に集中する傾向 が読みとれた。
    3:CPRでの保線工の組織
     日本語新聞『大陸日報』には、事故当時の遺体捜索・発見・移送・葬儀が 日々掲載されている。この新聞を精査すると、保線工はいくつかのグルー プ(組)に分かれていたことが読解できる。その1つは、長野県小縣群滋 野村出身の阿部正虎をリーダーとする組(ギャング)である。1885(明治 18)年に生まれた阿部は、先に「研学」目的で渡航した実弟・孝之を追っ て、1907年3月に同じく「研学」目的でカナダへ渡った。日本では小諸義 塾で島崎藤村から英語を学んだこともある彼は、やがて長野県東部出身者 を中心とする「阿部組」のリーダーになった。つまり、先発者や日本で修 学の機会を得た日本人は英語を理解できたため、後発の契約移民のリーダ ーとなったのである。  
  • 中村 周作
    セッションID: 608
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
     1.はじめに  好まれる酒類について九州地方をみると,北部(大分・福岡・佐賀・長崎各県)は,近年傾向に大きな変化がみられるものの,伝統的には清酒嗜好地域と言える。これに対し,南九州は,焼酎(単式蒸留しょうちゅう)嗜好地域である。それらの中間に当たる宮崎県や熊本県域は,清酒と焼酎のせめぎ合う地域となっている。筆者は,先に宮崎県域を事例に飲酒嗜好地域の分化,形成過程について考察した(2009)。この調査では,宮崎県内の全市町村について計94件の酒小売店をピックアップし,聴き取りアンケート調査によって,地域的に好まれる酒の違いとその酒が住民から支持されている理由などに関する情報を得た。その結果,宮崎県域を6つの飲酒嗜好地域(_I_:伝統的薩摩型;25度イモ焼酎圏,_II_:宮崎型;20度イモ焼酎圏,_III_:人吉型;25度コメ焼酎圏,_IV_:延岡型;清酒・連続式蒸留しょうちゅう圏,_V_:延岡後背地型;連続式蒸留しょうちゅう圏,_VI_:県北山間地型;25度雑穀焼酎圏)に分けることができた。  本研究では,熊本県域を事例に飲酒嗜好の地域的な違いや好まれる理由,近年の動向などについて明らかにする。調査方法として地元に密着する酒販店をNTTタウンページから無作為抽出し,各市町村(全45)店舗数の全体比で割り振った109件を対象に聴き取りアンケートを実施した(実施期間:2010年11月~2011年2月)。  2.熊本県域における近年の飲酒嗜好  熊本国税局資料より,1967年以降の熊本県域における酒類消費動向について概観する(図)。  増加を続けてきた飲酒総量は,1999年をピークに漸減している。酒類別では,ビールは1994年まで順調に増えた(1967年からの増加率232.5%)。その後は,発泡酒(1995年~),第3のビール(2004年~)といった類似商品の台頭によってビール自体は減じている。かつて県民酒として支持されてきた清酒は,一貫して減少を続け,1967年からの減少率が74.1%となった。また,長らく愛飲されてきた連続蒸留しょうちゅうも1987年以降急減した。これに対し,単式蒸留しょうちゅうの台頭が著しく1967年からの増加率が321.0%となった。この中でも清酒に変わる県民酒となったコメ焼酎と近年増加著しいイモ焼酎の関係,また45市町村別にみた嗜好の地域的特徴などについて,発表時に詳述する。 付記 本報告は,平成22~25年度科研基盤C「伝統的飲食文化とそれらを核とする地域振興に関する研究」(研究代表者中村周作,研究課題番22520801)の成果による。 文献 中村周作2009.『宮崎だれやみ論-酒と肴の文化地理-』鉱脈社。
  • Hitlerの地球儀
    宇都宮 陽二朗
    セッションID: 609
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1.はじめに  2007年暮の「元GI、Hitlerの地球儀をオークション出品」のニュースにから2010初夏、念願のKehlsteinhaus (Eagle’s Nest)を訪問した。ここでは、ニュース及び公式報告書」「History of the Eagle’s Nest」等に基づき、Hitlerの地球儀について、2,3の考察を加える。 2. Obersalzberg及びKehlsteinhaus:オーストリアの音楽の町Salzburg南方、約21.3Kmに位置するKehlsteinhausはKehlstein山頂付近に建造されている。攻撃目標として小さいため免れたが、麓のObersalzberg一帯は空爆によりHitlerの別荘Berghofを含め、廃虚と化した。        3. Hitler地球儀のありか:Hitlerの地球儀に関しては、オークション前、9月18日のニューヨークタイムス゛のインタヒ゛ュー記事「Hitler地球儀の謎、世界を廻る」で、元地図技術者Pobanz氏が、1)ヘ゛ルリンのト゛イツ歴史博物館、Märkisches Museumや地理研究所のものは「Hitlerの地球儀」ではない。それは、フォルクスワーケ゛ンと同大で、高価な特注の木製架台を設えた地球儀である。3) Columbus製地球儀はミュンヘンに2個、BreslauとWarsawに各1個存在する。4)新首相府のHitler執務室由来、他は、Nazi 行政庁由来で、「Hitlerの地球儀」といえる。5)新首相府のHitlerの居所の写真に巨大なColumbus製地球儀が写っている。6)しかし、チャッフ゜リンの「独裁者」を想像させる地球儀はなく、Hitlerには地球儀に対する特別な考えはなかったと述べている。                     4. 競売に付されたHitler地球儀: 元GIにより競売に出され、サンフランシスコ在住のBob Pritikin氏が落札したBerghof由来の地球儀は半円の金属製支持環、支柱と木製の円形台座を備える卓上型地球儀で、直径と高さは、それぞれ、直径33.2cm、高さ45.7cmを示す。    5. Hitler地球儀の信憑性:Hitlerの別荘(Berghof)で机上の瓦礫に埋もれた地球儀が、Hitler所有物である確証はない。机がHitlerのものか不確かで、元の場所に存在したという確証はなく、総統の所持品としては小さすぎる。目撃者とBerghof側関係者の証言、指紋やDNA鑑定による判定も必要であろう。写真では、Berghof大広間に直径1m余(1.5m以下)の地球儀があるが、彼の書斎の机上には小型の地球儀すらない。       6. Hitler地球儀の肖像権騒動:競売の後年、Pritikinは映画「Valkyrie」でHitlerの地球儀複製の無断使用として法的行動を検討した。法的に無理との意見や、嘲笑がネット上に溢れた。収集品をTom Cruiseが買取り、Simon Wiesenthal Centerに寄付するという法廷外の方法などの意向が出でるなど落札者の本音が見える。映画「Valkyrie」に登場する2基の地球儀は件の競売品とは全く異なり重厚な地球儀である。             7. まとめ: Hitlerの地球儀の話題を紹介した。まとめると以下のとおりである。   1) 元GIがBerghofから略奪した地球儀がHitlerの地球儀として競売されたが、「Hitlerの地球儀」であるか疑問である。被爆前のBerghof内部の写真では、大広間に直径1m余の大地球儀が存在するが、Hitlerの書斎の机上には地球儀の影はない。2)落札者が肖像権を盾に映画「Valkyrie」制作者側を悩ませたが、その地球儀は落札者のそれとは全く別物で、本音はユタ゛ヤヒ゛シ゛ネスにある。3) 単なる購入者が肖像権をとれる米国司法制度と社会は異常であり、地球儀製作者の権利侵害である。4)巨大な「総統の地球儀」(Pobanz氏の伝聞による記憶)は過大ではないか。なお、チャッフ゜リンに関する彼の解釈はフ゛リューケ゛ルの影響とみる筆者とは異なるが、彼の調査は貴重である。フ゛リューケ゛ルも当時の他の画家達のテ゛サ゛インを取入れ、他の作品ではBoschをほぼ踏襲している。ついでに言えば、水木しげるの作品には、フ゛リューケ゛ルの影響が少なくない。
  • ―貿易からみた可能性―
    米村 創
    セッションID: 610
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    沖縄にはトンビャン(桐板)と呼ばれる植物性の原材料で織られた織物がある。本研究では、トンビャンの原材料である植物について、沖縄・中国の貿易、貿易品の流通、そして中国での農作物生産物からその解明を試みることを目的としている。 トンビャンは古く琉球王国時代から中国の福建省福州からの貿易品として輸入されていたという伝承が残っている。トンビャンは糸で輸入されることも多く、輸入された糸は沖縄の織物生産者の手によって織られ、高貴な身分の者を筆頭に一般庶民の間でも夏の衣服として広く利用されていた。トンビャンの織物生産は沖縄の統計や伝承によれば、昭和10年代ころまで生産されていたが、その後は中国からの輸入が途絶え、原材料が無くなった沖縄地域でトンビャンが織られることはなくなった。原材料である植物の種類が不明であることより、現在では「幻の織物」として沖縄では位置づけられている。その原材料が竜舌蘭の一種ではないかと一部の研究者の間では説明されているが、未だに不明なままであると言わざるを得ない。 台湾や海南島(海南省)では明治・大正・昭和の時期にパイナップル(鳳梨)繊維を織物用として広範囲に特用農産物として栽培し、外国や内国へ輸出(移出)していたことが当時の資料や統計から明らかとなっている。主に中国大陸沿岸地域に輸出(移出)していたが、輸出先で鳳梨繊維の名称が麻類の名称へ変化することが多く、中国大陸沿岸地域での鳳梨繊維利用の確認が困難であった。しかし、福州港、また福州の周辺地域にも鳳梨繊維が流通していることが明らかとなり、福州で購入したという沖縄のトンビャンはこの鳳梨繊維で生産されたと考えることができる。見た目上、鳳梨繊維と沖縄のトンビャンの繊維が類似していること、台湾などにおける鳳梨繊維の外国への輸出供給量の減少時期と、沖縄におけるトンビャン生産量の減少時期が一致していることもそのことを裏付けている。つまり、トンビャンの原材料は主にパイナップルである可能性を指摘できる。図は予想されるトンビャンの原材料から消費地までの流通経路である。 沖縄の植物繊維の織物の一つに芭蕉布というものがある。芭蕉布などは沖縄で原材料である芭蕉を沖縄で栽培し、沖縄で織る織物であるが、一方トンビャンは輸入品のみの織物であることから、元々その織物を外国に求めていた貿易品であったと推察される。
  • 高野 宏
    セッションID: 612
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1.研究の目的
     中国地方の山間部に伝承される大田植の習俗は,これまでに民俗学や芸能史研究の立場から取り上げられてきた。前者では「日本人」に固有の信仰を伝える稲作儀礼,後者では田楽が成立する以前の芸態を残す習俗とみなされた。そこでは,大田植を日本文化における過去の一断片とみなす静態的な視点が卓越していた。それに対して,本報告では,同習俗を地域社会における日常生活と深く関わり,その変化に応じて再構築されるものとみる。具体的には,島根県広瀬町西比田のウシクヨウ(牛供養)の歴史的展開を記述・分析する。
    2.大田植の伝播と定着
     西比田における大田植は,広島県から二度の伝播を経て定着した比較的新しい習俗であった。
     一度目の伝播は,文化年間である。追神集落の住民が守護神である待神社の遷宮に際して,備後地方で盛んに行われていた牛馬供養の大田植(ウシクヨウ)に付随していた芸能(カシラウチ〔頭打〕)を習得した。それは,同神社の御田植式で披露されたが,定着はせず,伝播からしばらくして自然と衰退した。
     二度目の伝播は,明治初年である。ウシクヨウの存在を知った家畜商の安部田氏が,追神集落の若者数名を連れて備後地方へカシラウチを習得に出かけた。これを機に,明治期には,牛馬供養として大田植を開催する風習が,西比田を始め,近隣の家畜商の間に定着した。家畜商を主要なアクターとして当該地域に大田植が伝播・定着した背景には,明治以降の畜産業の発達,ならびに地域社会における家畜商の台頭があった。
    3.大正~第二次世界大戦直後における大田植
     大正期以降,牛馬流通における家畜商の地位低下から,家畜商による大田植の習俗は衰退する。一方で,大田植ならびにカシラウチは,当地において独自の展開をみせた。
     第一に,大正・昭和戦前期にはカシラウチの保存団体が追神で結成され,伝承体系が整えられた。それとともに,カシラウチに対する「自覚化」が起きた。結果,民俗芸能としてのカシラウチは,その地域的なコンテクストから引き剥がされ,独立した芸能へと「離陸」するにいたった。すなわち,大田植のミチユキ(道行き)の部分だけが,周辺地域の催事で上演されるようになった。
     第二に,1946年には,大田植自体も新たな社会的文脈と結びついて実施された。当時の状況は,戦地から男性たちの復員が叶い,以前の賑わいを取り戻しつつあった。そこで,戦禍を乗り越えた地域を活気づけるため,旧・比田村の青年団が大田植を企画・実行した。この大田植には,遠方からも観客が詰めかけ,県知事等の行政関係者も特別席から観覧した。
     第三に,1950年ごろ,各集落に存在する愛宕神社に対する共同の祭礼が創出された。このときに四集落が個別に出し物を上演する取り決めがなされ,追神集落はカシラウチを上演するのが常となった。この祭礼は,より時流にあった娯楽を地域に提供する目的で創出された。ただ,1970年代に火事が頻発すると,同行事は火除けの意味を付与された。
    4.「ふるさと」と大田植
     1980年代以降,深刻な過疎に直面した地域では,「村おこし」として,地域の良さを都市住民にアピールし,交流を深める試みが広まった。この運動のなかで多くの民俗事象が「ふるさと」の「地域資産」として発掘・活用された。
     高度経済成長期以降における西比田の大田植・カシラウチをめぐる状況は,この動向と一致する。すなわち,(1)カシラウチの無形民俗文化財指定,(2)「ふるさと創生基金」を活用してのウシクヨウの調査・復元,(3)新規の地域交流イベントでのカシラウチの実演である。また,現在の大田植は,地域社会内部に対しても重要な意義を担わされている。それは,生活全般が都市化(近代化)する過程で失われた,地域住民間における交流の機会を新たに提供する機能である。
    5.結論
     従来,中国地方に伝承される大田植の習俗は,日本文化における過去の一断片とみなされてきた。そのため,同習俗に対しては静態的なアプローチが卓越していた。それに対して,本報告では,島根県広瀬町西比田のウシクヨウを取り上げ,地域社会との関係から,その歴史的展開を記述・分析した。その結果,過去から現在までの,同習俗の動態が明らかになるとともに,新たに地域的な意味・意義を獲得しながら存続する,民俗事象のしなやかな性格も指摘することができた。
  • 恵那市坂折棚田を事例として
    伊藤 文彬
    セッションID: 613
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1.はじめに
     近年,高齢化や過疎化などの問題を背景に,中山間地域の農業および集落自体の存続が危ぶまれている.そのような状況にあって,中山間地域では従来からの基幹産業である農林業を核として,地域資源を活用した地域振興が展開されるようになった.とりわけ農業・農村の果たす多面的機能を活かした取り組みに関心が集まり,その特徴的な活動の一つが棚田を地域資源とした棚田保全活動である.
     棚田に関連した研究は数多く蓄積されているが,既往の研究には大きく2つの問題がある.まず1つ目に,棚田の維持を目的とした研究が多くみられる一方で,棚田が地域にとってどのような意味をもち,地域の変化をどのように物語っているのかを解明した研究は少ないことである.続いて2つ目は,1990年代以降の棚田研究では,棚田保全活動に着目がおかれ,取り上げられる人物もその活動に積極的な住民に限られていることである.
     これらの問題点を踏まえて,本研究では岐阜県恵那市坂折地区を事例として,多様な住民と棚田との関わりを時系列的に見ることによって,中山間地域にとって棚田がどのような役割を果たしてきたのか,棚田の存在意義を解明することである.

    2.「坂折棚田」の発見
     農林業統計に用いられる地域区分によると,坂折地区は山間農業地域に位置づけられる.この坂折地区には,360枚,面積にして14.2haの棚田が1/4~1/7の急斜面地に分布しており,その法面のほとんどが400年続く石積みで構成されている.
     1990年代以降,棚田をめぐる坂折地区の環境は大きく変化することになった.それは,農業従事者の高齢化や後継者不足,そしてそれに伴う耕作放棄地の拡大が深刻化する中で,1994年に坂折地区で圃場整備事業の話が持ち上がった.圃場整備事業に際して,棚田の石積みを撤去することが条件であったが,当時,多数の農家はこの事業に賛成であった.しかし1990年代以降の棚田保全をめぐる全国的な動向や1999年に当該地区が日本の棚田百選に認定されたことを受け,農家は棚田の文化的価値を認識するようになった.特に,棚田の石積みに価値が見出されるようになったため,圃場整備事業に際して,石積み棚田を残すかどうかで地域が二つに分かれた.その後,外部者を交えた地元住民による話し合いの結果,棚田整備に関するゾーニングが実施され,現在の坂折地区には石積みの残る伝統的な棚田と,圃場整備事業を実施し区画を広げ,畔が土坡となった近代的な棚田が並存している.
     一方,このような坂折地区における「棚田」の発見は,それを地域資源として活用した棚田保全活動へと結びつくことになった.2003年に坂折棚田保存会が設立され,2008年にはNPO法人格を取得し,オーナー制度などの多様な活動を展開している.

    3.棚田の存在意義
     本研究の目的を達成するためには,異なる背景をもつ多様な住民を対象に,彼らの農業経営や就業構造の変遷を追うことで,地域の複合体の一つである棚田を包括的に捉えていく必要がある.このような研究視点のもと得られた知見は以下のとおりである.
     まず,坂折地区における棚田の意義を農業経営と関連づけて時系列的に追うと,農家の生活基盤として棚田が活用された伝統的農業期,経済的価値は低下したが農業機械の普及などの要因のもと棚田が維持された兼業農業発展期,そして棚田が生産の場のみならず,見られる場として文化的価値が加わった高齢者農業卓越期である.特に高齢者農業卓越期には,前述したように圃場整備事業に係わって,棚田に関する認識の違いから農家の意思決定に違いがみられた.また農家と棚田との関係を時系列的にみると,現在の坂折地区で棚田景観が維持されているのは,棚田保存会の活動のみならず,集落を構成するそれぞれの世帯での農業経営の努力があったからだと考えられる.
  • 高木 亨, 浜田 大介, 田村 健太郎, 佐藤 亮太, 大塚 隆弘, 吉池 隆, 佐藤 竜也, 清水 康志, 高橋 琢, 鳥海 真弘, 鬼塚 ...
    セッションID: 614
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに  本報告では、いわゆる限界集落の状況に近い集落に、学生という「異文化」が入り込み、地域活性化の取組をすることの効果を明らかにするものである。住民と学生の変化や、取組の効果について分析を進めた。対象として、2009年夏から地域活性化に取組んだ、いわき市川前町高部地区と熊谷地理研究会の学生との活動を取り上げる。 2.対象地域の概要  対象地域のいわき市川前町高部地区は、いわき市中心部の平地区から西へ向かって車で約1時間ほどの阿武隈山地内鹿又川の谷間に位置する。高部地区を含む旧川前村は、1966年の14市町村合併によりいわき市の一部となった。その後、少子高齢化、過疎化が急速に進んだ地域となっている。  2009年現在、高部地区には20世帯47人が暮らしている。この地区には30歳以下はおらず、55歳以上が人口の約77_%_と、集落機能を維持するぎりぎりの状態にある地区といえる。  かつては林業を中心とする第1次産業が主力であった。現在は、稲作や自家用の野菜などがおこなわれている。また、平や隣接する小野町などへ通勤する世帯がある他は、高齢者が中心である。 3.活動の経緯  高部地区と学生との出会いは、福島県の平成21年度「大学生の力を活用した集落活性化調査委託事業」がきっかけである。県内各地に過疎化した集落がある福島県が、県内を中心とする大学生に、集落活性化のアイデアを求めた事業である。  2009年8月上旬に2泊3日で全戸への聞き取り調査、ワークショップを実施、地域資源を洗い出すとともに「いいところマップ」の作成、「こころの活性化」をキーワードとした活性化策をまとめた。  この調査がきっかけとなり、県の事業を超えた交流がはじまった。地区のお祭りへの参加や、県の事業発表会(会津若松で開催)への住民の参加、地区での報告会の開催など、学生・住民双方から自発的に交流の輪が広がっていった。この成果により高部地区での取組は、翌2010年度の同事業「実証実験」へとつながることとなった。  2年目となる10年度は、見いだされた地域資源の活用を目標に、稲作体験(田植え・草取り・収穫)、盆踊りの復活、収穫した米の大学祭での販売、忘年会等をおこなった。また、住民との話し合いの機会を複数持ち、意思の疎通を図るとともに交流を深めていった。 4.学生と住民の変化  当初は、「これからずっとつきあっていかなければいけないのか」と不安がっていた学生だが、交流を通じ「自分たちができることには積極的にかかわっていきたい」というように変化した。また、住民も「学生に何ができるのか」といった様子を見ていた人々が、「地元の良さを再発見した」と喜ぶようになった。加えて「来年はあれをやろう…」というようにこの取組に主体的に関わろうとする姿勢が見られるようになった。  学生・住民、双方にとって「異文化」との交流は、両者にとって大きな刺激となっているようである。教育的効果とともに、沈滞ムード漂う過疎地域住民の意識変化という効果が表れたといえる。
  • 経済構造改革期の中国山地・紀伊半島における事例
    中川 秀一, 安食 和宏, 川久保 篤志
    セッションID: 615
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.問題の所在 今日の日本社会では、人口増加や経済規模の急速な拡大が当分の間は見込まれず、「成長」を目標とするこれまでの戦略よりも、「持続性」や「恒常性」が重要性を増すことはすでにいわれてきている。1990年代以降地域間格差が広がる中で、地域存続に向けた地域資源活用の取り組みに対する新たな理解が求められている。 例えば、地域振興策に対する近年の関心の広がりは、地域資源の持続的活用法と結びついた地域存続のあり方に結びついているのではないだろうか。地域の生活に根ざした持続的な取り組みのあり方および方策についての理解が求められていると思われる。 ここではそれを「地域存続力」と呼び、今後の国土の周辺的な地域のあり方を考える際の手がかりを探る方策としたい。すなわち「地域存続力」とは、存続しようとする地域社会の営力を対象とし、_丸1_中・長期的な地域社会の持続状況についての分析、_丸2_とりわけ地域の地域資源利用と住民組織・経済組織との関係から、地域内部からの営力の働きの把握、_丸3_外部組織との関係構築やそのための各種政策への対応の3側面から検討することである。今回の報告はその研究経過報告であり、中国山地と紀伊山地の事例を検討する。  2.西南日本内帯―中国山地の事例 中国山地は,1950年代後半から人口流出が本格化し,日本で最も早くから過疎化の進んだ地域の1つである。低賃金労働力を活かした工場誘致や,高冷地・寒冷地,壮大な自然景観を活かしたスキー場・キャンプ場・ゴルフ場などのレジャー開発が地域振興策として行われ,一定の成果をあげていた。また,1970年代までは食管制度の下で水田農業は安定した所得として期待できたし,ダムや道路建設などの公共事業によって多くの臨時雇用機会がもたらされていた。したがって世帯の多様な就業が可能であり、人口減少率も1980年代には低くとどまっていたのである。  しかし,1990年代以降の長期不況によってこれらの環境は一変した。本研究では,衰退著しい農業の中で和牛放牧によって耕作放棄地の再生と集落のコミュニティ機能の強化を図っている島根県大田市,地道な工場誘致によってUターン者をはじめとする定住希望者の雇用機会創出を図ってきた島根県邑南町,スキー場開発と民宿開業によって冬季の所得増を実現していた広島県北広島町の3事例地域における1980年代までの地域振興策とその現況、1990年代以降,特に2000年以降の地域内部からの「地域存続」に向けた取り組みを検討した。 3.西南日本外帯―紀伊半島の事例  三重・奈良・和歌山の三県にまたがる紀伊半島の山村は、高度成長期以後の人口減少が特に激しかった地域である。大都市地域からみて遠隔地に位置し、高速道路の整備も進まなかったために、工場誘致も期待できなかった地域であり、公共投資依存の建設業、観光サービス業、あるいは長い歴史を有する林業等が地域を支える基盤であったが、1990年代以降の経済不況と公共投資の削減、そして地域構成員のさらなる高齢化が地域の産業構造に大きな影響を与えてきた。  一方、この地域では、地域資源の積極的活用に向けた取り組みが顕著に現れてきている。本研究では、高齢化が進む中で、1993年から全国一の規模ともいわれる棚田が整備され都市住民を呼び込むオーナー制度が試みられている三重県・紀和町(現・熊野市)、「全国で唯一」という地域資源にこだわり、じゃばら(柑橘の一種)の栽培や観光筏下りに取り組む和歌山県・北山村の事例を検討した。  当日の報告ではこれらの事例を整理し、山村社会の縮小傾向が続く中で、「地域存続力」の観点からその意義と可能性を評価することを試みる。かつて注目された地域振興策は持続的なものとはなり得ていないが、他方で、地域内部から地域資源の活用を図る新たな取り組みが形成される状況と条件を考察する予定である。
  • (有)桜江町桑茶生産組合を事例として
    神田 竜也, 光武 昌作, 榎本 隆明
    セッションID: 616
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
     農業生産組織における自立型経営の発展戦略としては、付加価値型の農業生産や農産加工を図るとともに、組織間の連携やネットワーク形成が重要との指摘がある。この点については、単一地域(市町村)にとどまらない産地展開が期待され、このような展開は地域農業の低迷下において、新たな参入主体の台頭と意義を考えるうえで興味深いと考えられる。
     本報告では、農業生産法人による地域農業の展開を明らかにし、いかにして経営成長へと結びつけてきたか、その内実とシステムを明らかにする。そして、新しい産地形成の可能性を考察する。対象主体としては、島根県江津市桜江町に本社をおく(有)桜江町桑茶生産組合を取り上げた。
     江津市桜江町では、江の川氾濫原において江戸時代後期に桑の栽植が進み、明治期以降は全国的な生糸需要によって栽培および養蚕が展開した。戦後は、生糸の国内需要の高まりによって、町内では養蚕は主要産業となった。しかし、外国からの安い生糸の輸入によって養蚕は衰退し、桑畑の耕作放棄が進んだ。桜江町では、放棄後の桑の抜根に多額の資金を投じていた。そうした桑およびその農地再生につとめたのが、以下に述べる(有)桜江町桑茶生産組合である。
     福岡県から桜江町にIターンしたF氏は、未利用の桑畑を活用し桑の商品化を目指すため、1998年に地権者を中心とする任意組織「桜江町桑茶生産組合」を結成した。当組合は2000年に法人化(有限会社)し、2003年には町内の桑の耕作放棄地をほぼ解消し、さらに他の農地の再生に乗り出した。また、桑以外の作目として、大麦、ハト麦を栽培し茶や青汁の製品化を進めた。2004年には当組合を分社化して「しまね有機ファーム(株)」を設立させた。この会社は、おもに商品の企画開発部門を担当し、組合と同一の所在地にある。2005年には「有機の美郷(有)」が美郷町に設立された。また同年には、以上グループ3社の売上が合計で1億円を突破した。桜江町内には組合直営の農地が17ha、現在農地の大部分と自社工場で有機JAS認証を取得している。
     桑茶生産組合では、桑の葉や他原料の調達と製品加工委託のために企業間の取引を進めた。原料調達や契約生産先は、浜田市や川本町の農業生産法人や個々の農家などであり、それは生産面でのリスク分散にもつながっている。すなわち、地元の水害や連作障害のリスクを回避し、周年で一定の生産量を確保することである。今後の市場での需要によっては、調達企業の拡大や縮小、または調達量の増減による対応も求められる。組合自体が加工設備を有するので、加工委託は2社にとどまる。うち1社は、当組合が持ち得ない高度な粉体設備を有し、加工委託も手掛けている。商品の多様化によって新設備が必要となるが、とくに中小企業としては多額の設備投資が問題となろう。
     桑の商品化にあたっては、当初は認知度が低かったので、加工や流通を担う主体を見出すことは難しく、農産物一般を扱う農協には桑の加工技術や流通ルートを有していなかった。桑茶生産組合は、生産から販売までを統合化することで利益率の向上を図り、事業を展開してきた。また、原料調達や加工委託の企業間関係、県や大学との商品開発や効能の実証を含め、実に多様な主体とのネットワークによって、健康食品産業を核とする新たな産地形成へと進展した。
     江の川中下流域の市町村の枠を超えた共存関係から経営主体の成立・発展と地域農業振興が模索されようとする点で、本報告は1つの形を示しえたといえる。
  • 青森県を事例に
    栗林 賢
    セッションID: 617
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     近年,農業を取り巻く環境は大きく変化をしており,生産の場だけでなく,流通・消費部門が農業に及ぼす影響についても重要性が指摘されている.特に,量販店によるロット買いや卸売市場外での取引の増加による影響は大きく,産地において出荷を担う農協や集出荷業者,任意組合はより柔軟な対応を求められている.
     これらについて,既存の研究では,農協や任意組合に関する研究は蓄積されているが,集出荷業者に対しての研究は少なく,あっても集出荷業者の経営についての記述に終始しているか,農家の経営戦略の一環としての集出荷業者の選択という付随的な取り上げ方をしている.集出荷業者の視点から,現在の流通構造の性格を明らかにした研究は見受けられない.  そこで本研究では青森県の集出荷業者を介したリンゴの流通構造がどのような性格を有しているのかを,集出荷業者の集出荷システムを分析することで明らかにする.

    2.青森県の集出荷業者によるリンゴの流通
     青森県における集出荷業者は,弘前市を中心に明治期からリンゴの集荷・保管・選果・出荷などを行ってきており,農家に対して影響を及ぼしてきた.第二次世界大戦後に成立した農協が近年ではシェアを高めているが,集出荷業者の出荷量に占める割合は依然として高く,全体の4割近くを占めている.
     他県からのリンゴの出荷が8月~3月に行われるのに対して,青森県からの出荷は年間を通して行われている.リンゴを周年で出荷する際に必要とされるのが,CA貯蔵庫であるが,集出荷業者はCA貯蔵庫を共同で導入する等の取り組みを行っている.そのため,農協が4月以降に出荷量を減少させているのに対して,それ以降も集出荷業者は一定の割合を出荷し,より一層の周年的な販売を有利に進めている.

    3.流通構造の性格
     津軽平野の19の集出荷業者(以下,業者と表記)に聞き取り調査を行った.業者のリンゴの集荷先は,主に津軽平野一帯の農家と弘前市に立地している産地市場の2つである.これらの集荷先への依存度を基準に業者を分類し,検討を行った.その結果,以下のリンゴの流通構造の性格が明らかとなった.
     まず一つ目は,経営上のリスクの回避が挙げられる.出荷するリンゴに必要とされる要素は一定の量と品質である.しかし,集荷先によって,メリット・デメリットが存在している.まず,農家から集荷する場合のメリットとして,量を確保できるということがある.しかし,デメリットとして,農家の手作業で選果されたリンゴの質の統一は選果機を用いる場合と比較して曖昧であり,また,必要な品種が栽培されていないことがある.一方で,産地市場から集荷する際のメリットとして,取り扱われているリンゴは選果機での選別が行われており,品質の統一がはかられていることと,必要な品種が入手できることが挙げられる.デメリットとしては,セリ取引であるため,必要な量をそろえることができない場合があるということが挙げられる.
     主に農家から集荷を行う業者は,集荷する際の基準をあらかじめ農家に提示したり,清算支払いを導入している.また,主に産地市場か集荷する業者は,全量を産地市場から集荷せずに多少,農家から集荷をしている.このように,集荷先のメリット・デメリットを意識し,経営上のリスクを回避するための対応がとられている.
     2つ目は,農協とのサービスの差別化である.青森県におけるリンゴの出荷は大きく分けて,集出荷業者と農協によって担われている.農協は委託販売制を採用し,農家が農協に出荷する場合は,管轄の農協まで自身で運送しなければならない.これに対して調査を行った集出荷業者では,19社中16社が農家への支払いを年内に行い,さらに,19社中17社が農家の樹園地まで赴き,集荷を行っている.このようにして,農協と差別化を図り,取扱量の確保を行っている.
     以上のように,現在の青森県の集出荷業者を介したリンゴの流通は,出荷に際しての必要条件と集荷先に関してのメリット・デメリットを考慮した業者の経営と,他の出荷組織との競合を避けるための差別化を意図したサービスの充実に性格づけられる.
  • ひたち野農業協同組合地域を例として
    北崎 幸之助
    セッションID: 618
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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     食料自給率の向上や、年々増加する耕作放棄地問題を背景として、2010年度から自給率向上事業(水田利活用自給力向上事業)と、米のモデル事業(米個別所得補償モデル事業)が開始された。
     こうした政策面の整備によって、急激に生産量が増加したのが飼料用・米粉用などの「新規需要米」である。農林水産省の統計によると、2008年度は数量8,020t、面積1,410haだった飼料用米の生産が、2010年度にはそれぞれ81,237t、14,883haに急拡大している。これまで、転作用に麦や大豆などを作付けしていた地域で、飼料用米に転換する例が多い。 本研究は、飼料用米を積極的に作付け・生産しながら、持続可能な農業地域を標榜しようとしているひたち野農業協同組合地域(本部・茨城県石岡市)を研究対象としながら、飼料用米導入の経緯や、その後の展開・課題等について、明らかにすることを目的とする。
  • 北海道別海町を事例として
    今野 絵奈
    セッションID: 620
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1.はじめに
     畑作業,畜産業,漁業の盛んな北海道では,有機資源が多く存在しており,特に畜産有機資源は道内で偏在している.畑作業から酪農業へ転換し,酪農業と漁業を基幹産業としている北海道別海町を取り上げる.大規模酪農地帯へと発展する一方で,河川の水質汚濁が深刻化し,漁業への影響が危惧されている.
    本研究では,寒冷酪農地帯における排せつ物処理と副産物還元の実態を明らかにし,耕畜連携における課題を考察する.

    2.別海町における酪農業の変遷
     別海町では1884年に生乳生産が開始され,1933年に「農業開発5カ年計画」を立ち上げ,主に根釧台地で酪農業が行われるようになった.1954年に「根釧機械開拓地区建設事業(以下,パイロットファーム事業)」に基づき,ブルドーザーを利用した開墾が行われた.1973年には,根釧台地の酪農業の基礎を築いたパイロットファーム事業から「新酪農村建設事業」に移行した.
     現在では年間生乳生産量が48万tであり,国内生産量が最大となっている.酪農業の経営規模が拡大する一方で,環境への影響も出てきた.

    3.畜産環境汚染と排せつ物処理方法
     酪農家は50ha以上の採草地を所有しており,排せつ物は自家経営内に野積み,素掘りを行っていた.悪臭や過剰施肥の問題を取り上げられることはなかったが,10年程前,河川の水質汚濁,悪臭の問題が取り上げられるようになった.野積み,素掘り処理をしていた排せつ物が河川へ流入し,牛舎の臭気,水は濁り,泡立っている状況になった.また,採草地の土地更新時に土砂が河川へ流入していたこともあり,サケやマスの産卵場がなくなり,漁業へ悪影響を与えるようになった.
     多くの酪農家は国営灌漑排水事業,畜産環境リース事業を利用し,「家畜排せつ物法」が施行される以前に堆肥舎やスラリータンクを個別に導入した.2001年度からバイオガスプラントが試験的に導入され,その施設を利用している農家もある.環境汚染を進行させないために,1回10aあたり3t,年間10aあたり7t未満の散布を農協で義務づけている.また,寒冷地であるため,採草地への散布は5月中旬から11月中旬とし,凍結時期は排せつ物処理施設へ堆積している.

    4.コントラクターの役割
     酪農業は経営者夫婦で行っていることが多い.広大な土地を所有し,牧草栽培と適正な排せつ物処理をすべて行うことは時間的,体力的に農家への負担が大きい.
     経営者は生乳生産に専念するため,牧草収穫やスラリー散布をコントラクターに委託し,作業を分散している.また,数戸の酪農家が共同で排せつ物施設設置,排せつ物処理,堆肥散布,牧草採取などを行っているところもある.コントラクターに委託することにより,酪農家は高額な機械を所有しなくてもよい.コントラクターは別海町で酪農業を継続するために重要な役割を果たしている.

    5.まとめ
     別海町では,自家経営内で発生した排せつ物は堆肥として自家採草地に散布し,粗飼料生産・利用しているため,自己完結型の耕畜連携がほぼ完成している.余剰している堆肥や粗飼料は基本的に町内で消費しており,地域内資源循環が行われている.
  • 川久保 篤志
    セッションID: 621
    発行日: 2011年
    公開日: 2011/05/24
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    1.はじめに  わが国の肉用牛飼養は,1970年代以降の牛肉需要の増加を背景に成長し,主に九州と北海道に大規模産地が形成されてきた。しかし,1980年代後半以降の輸入牛肉の増加は,牛肉需要を一層伸ばすと同時に国産牛肉の価格下落をもたらした。そしてそれは,輸入牛肉と肉質が近い乳用種の牛肉の方に大きくあらわれた。  わが国の肉用牛の大半は,肉用種の和牛と乳用種のホルスタインで占められているが,ホルスタインの多くは北海道で飼養されており,その地域経済における地位も小さくない。図1に示したように,1991年の輸入自由化以降の乳用種の肉用子牛価格(平均取引価格)は約20万円から7万円へと大きく下落し,その後も価格変動を繰り返しながら10万円以下のレベルで推移している。 しかし,このような価格情勢の中でも乳用種肉用牛の飼養頭数は,1991年の107.3万頭,2000年の112.4万頭,2009年の103.3万頭と大きな変化はなく,経営は継続されている。これを可能にしている要因の1つが,子牛・枝肉に対する価格保証制度(不足払い制度)である。図1には,このうちの子牛に設定されている保証基準価格の推移について示しているが,1992~95年,1998~2004年には子牛市場での平均価格との乖離が大きく,産地の維持にとって大きな意味を持っていたといえる。  しかし,政府による価格保証だけで赤字経営が長期にわたって存続しうるとは想定しがたい。そこで本研究では,わが国最大の乳用種肉用牛の肥育産地(以下,乳オス肥育)である北海道を事例に,その存立基盤について検討する。 2.北海道における肉用牛飼養の動向と十勝地方の大規模経営 1)北海道における肉用牛飼養の動向  酪農の盛んな北海道では,1970年代以降に酪農副産物である乳用オス牛の肥育経営が活発に行われるようになり,現在,約34.9万頭が飼養されている(肉用種は18.6万頭)。自由化以降の変化としては,肉用牛全体では図1に示したように増加傾向にあり,1経営体当たりの飼養頭数も1991年の72頭から2009年の178頭へと大規模化が続いている(畜産統計より)。 2)十勝地方における大規模乳オス肥育経営 北海道では肉用牛飼養は広く行われているが,酪農が盛んで飼料栽培にも適した道東地方,中でも十勝地方が突出した地位にある(図1)。しかし,十勝の中でも農牧業経営には地域差があり,帯広市を中心とした十勝中央部の平野では畑作の方が盛んである。肉用牛飼養が盛んなのは,帯広市の北および西に隣接する地域で,和牛については十勝の東部・南部の方が盛んである。 そこで本研究では,乳オス肥育の大規模経営が多くみられる鹿追町・新得町・清水町・芽室町と和牛も多い足寄町を対象に2010年9月に現地調査を行った。その結果,乳オス肥育を中心とした肉用牛飼養の成長には地元農協の関与(例えば,素牛調達や子牛販売,畜舎建設や牛肉加工)が大きく,それが十勝における経営の地域差を生み出していることが明らかになった。また,自由化以降は超大規模経営が生まれる一方で,負債を抱えて廃業していく農家も多く,階層分化の進展もみられた。なお,発表当日にはこのような状況を踏まえながら,十勝における乳オス肥育経営の存立基盤についてもう少し詳しく検討を加える。 ※本研究の調査には,科学研究費補助金 基盤研究(C)「グローバル経済下におけるわが国周辺地域の肉用牛生産の成長と自立」(課題番号:19500881,代表者:川久保篤志)を使用した。
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