ネグリトはフィリピン,マレー半島,アンダマン諸島に分布する採集狩猟民で低身長,暗褐色の皮膚,縮毛,等の外観的特徴を示すが,その人種的起源と分化に関しては長い間,人類学における論争の的であった。最近の人類遺伝学的研究によれば,ネグリトは東南アジアを起源とする集団で,その身体的特徴は熱帯降雨林という環境によってもたらされた適応の結果であるとされている(OMOTO,1984:尾本,1986,1987)。
本研究では,文部省科学研究費(海外学術調査)「ネグリトの集団遺伝学的研究」(研究代表者,尾本恵市東京大学教授)によって,歯科医師酒井賢一郎博士により収集,作製されたルソン島中西部に分布するネグリト(アエタ)の全額石膏模型を使用,比較資料として現代日本人,アイヌ,フィリピン人,オーストラリア原住民,ピマーインディアン,アメリカ白人,アメリカ黒人のデータを用いた。
歯冠計測値(第三大臼歯を除く歯冠近遠心径)に基づく分析の結果,歯全体の大きさに関してはネグリトは上記7集団中最も小さく,この点でアイヌとの類似性が認められた。一方,Q モード相関係数に基づく形態距離からネグリトはモンゴロイド人種のクラスターに含まれることが明かとなった。同様の結果は主成分分析によっても示され,さらに前歯(切歯,犬歯)と後歯(小臼歯,大臼歯)の相対的な大きさに関してはネグリトはオーストラリア原住民と同様の特徴を示すことが明らかにされた。しかし,アメリカ白人,アメリカ黒人との間には何ら類似性は認められなかった。
非計測的歯冠形質についてはネグリトはアイヌと共にスンダ歯型を示し,B2距離(BALAKRISHNAN and SANGHVI, 1968)においても両者は強い類似性を示した。ここでもやはり,アメリカ白人,アメリカ黒人との類似性は認められなかった。
以上の結果は,ネグリトが人種的にアジア起源であるという可能性を強く示唆しているものと思われる。TURNER (1979,1983,1987,1989)は縄文人,アイヌが後期更新世のプロトモンゴロイドに由来し,スンタランドがその放散中心であったと考えている。一方,OMOTO (1984),尾本(1986,1987)は後期更新世にスンダランドを舞台としてプロトオーストラロイドから進化したプロトマレーこそがネグリトの直接の祖先であるとし,さらに彼らとプロトモンゴロイドとの密接な関係を指摘している。これらの仮説を考慮すると今回の分析結果はネグリトとプロトモンゴロイドとの関係についてある程度の示唆を与え得るものと思われる。しかし,両者の関係はさらに,縄文時代人,太平洋民族等を含めた詳細な分析,検討が必要である。この意味において本研究がその一資料となれば幸いである。
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