日本地理学会発表要旨集
2018年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の163件中51~100を表示しています
発表要旨
  • ―2016年熊本地震の地震断層出現範囲との比較を通して―
    今野 明咲香, 遠田 晋次
    セッションID: 621
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.はじめに
    地震断層による地表の変位は,構造物を変形させ大きな被害をもたらす。このような断層変位による被害を最小限にとどめるために,活断層沿いの一定範囲に構造物の建設などの規制を設ける対策を行っている地域もある。しかしながら規制整備が進みつつある一方で,規制帯の幅が地震断層からの被害に対して十分であるかどうか,吟味されているとは言い難い。発表者は2016年熊本地震における地震断層について,既存の活断層線からの離隔距離を定量的に検討した(今野・遠田,2017)。本発表では,既に設置されている活断層近傍の土地利用規制について整理し,熊本地震における地震断層の出現幅を比較することで,規制帯設定における課題を検討することを目的とする。
    2.活断層近傍の土地利用規制
     内陸活断層に対する土地利用規制は,主に2つの被害に対して行われており,一つは地震動の被害,もう一つは地震断層による地表変位の被害である。本発表では後者に対する規制のうち,規制帯の幅を明示している6事例を取り上げる。それぞれの規制の細かな内容は異なるが,概念的には下記の表のようにまとめられる。回避区域とは,建造物の建設を制限するものであり,調査区域とは建築の際に活断層の有無について調査を必要とする範囲を示す。
    多くの地域で,回避区域が20m前後に設定されている。これは,規制設定の際に既に施行されていたアルキスト―プリオロ地震断層帯法を参考に幅を設定したという指摘がある(たとえば照本・王,2001;増田・村山,2001)。
    3.熊本地震の地震断層出現幅との比較
    2016年熊本地震では,布田川―日奈久断層沿いに出現した地震断層と,既存の活断層図で示されていた活断層からの離隔距離は,50m以内が約40%,100m以内が約55%,150m以内が約70%である(今野・遠田,2017)。この結果を既存の回避区域の幅に当てはめると,現在の規制でカバーされうる範囲は40%以下である。
    4.規制帯幅設定の課題
    表中に示されている地域の活断層の成熟度や変位センスはそれぞれ異なる。熊本の結果で示されたように,変位地形が明瞭な横ずれ主体のカリフォルニア州の活断層で設定された15mという値を,変位センスや成熟度が異なり,変位地形が明瞭でない地域へそのまま適用するべきではないと考える。現在は地震後に地震断層の詳細な位置が求められるようになり,定量的な検討が可能となってきている。今後規制帯を検討する上では,変位センスや成熟度,表層地質,変位地形の明瞭さなどを考慮して定量的に分析を行うことが適切な規制帯の設定に重要であると考える。
  • 西森 基貴, 石郷岡 康史, 桑形 恒男, 若月 ひとみ, 長谷川 利拡
    セッションID: 513
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    温暖化の進行に伴い、わが国の主食であるコメの減収や外観品質・食味低下への対策が急務である(農林水産省、2015)。温暖化の影響は地域により異なることから、2018 年6 月に成立公布された「気候変動適応法案」では地方自治体に、信頼性の高い将来影響評価に基づく気候変動適応策の策定を努力目標化している。対応して農研機構では、今世紀半ばの予測気候条件下でのコメの収量と品質低下リスクの変動予測を行うとともに、その成果を主に政府や地域の適応策策定に役立てるためのデータ公開を進めている。ここでは特にコメ品質に着目してその研究成果とデータ公開の概略を示し、地域適応策のためにどのような研究とデータ公開が必要とされているか、ともに議論することを目的とする。
  • 松本 淳
    セッションID: S603
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1 アジアのモンスーン気候

    気象学・気候学では,モンスーン(季節風)気候とは,季節によって卓越風向が反対になる現象のことである。Ramage (1971)では,1月と7月を夏と冬の代表月として,1) 地表風の卓越風向が120度以上変化, 2) 卓越風の出現頻度の平均が40%以上,3) 卓越風の平均風速が3 m/s以上,4) 経緯度5度以内での高低気圧中心の出現が2年に1回以下,との4条件によって,世界のモンスーン気候の分布を示した。この図によると,日本や韓国・中国を含む東アジアは,上記の4)の条件によってのみ,モンスーン気候ではない,とされた。このような地域は世界の他の中緯度から亜熱帯地域には存在しない。

    1990年代になると,気象衛星観測の充実により,モンスーン気候のもう一つの側面である夏雨気候が注目され,モンスーン地域の定義を雲活動や降水量から行う研究が主流となってきている。例えばWang and Ding (2008) では,1) 北半球の夏(5~9月)と冬(11~3月)の降水量の差を年降水量で除したモンスーン降水指標(MPI)が0.5以上,2) 夏と冬の降水量の差が300 mm以上の地域をモンスーン気候域とすることを提案している。この定義によると,アジアからアフリカにかけての伝統的なモンスーン地域以外に,世界の全大陸とその周辺域にモンスーン気候が存在することとなり,グローバル・モンスーンとも呼ばれる。しかし,この定義においても,緯度30度より極側にモンスーン気候がみられるのは,アジアだけであり,亜熱帯から中緯度にかけて広がるモンスーンアジアの気候の特異性は,依然として明白である。

    2 大陸東西での大きな乾湿コントラスト

     グローバル・モンスーン気候論の一つの主眼点は,多雨の夏雨モンスーン気候と,その西側のやや極側に隣接する乾燥域とが,対で存在することである。この乾燥域が大陸上に広く東西に広がっている大陸は,ユーラシア大陸だけである。換言すると地中海性気候が広大な面積を占めている大陸は,ユーラシア大陸だけである。

     ジャレド・ダイヤモンド(2000)は,東西に長いユーラシア大陸が,農耕の発展に有利であったとし,また,藤本(1994)や佐藤(2016)などは,ユーラシア大陸東部の夏雨地域と,西部の冬雨地域の違いを論じている。ユーラシア大陸東西の気候コントラストが人類史に果たしてきた役割はきわめて大きかったといえる。

    3 モンスーンと稲作

     ユーラシア大陸東部のモンスーンの降雨による夏雨地域には,水田が広がっている。篠田他(2009)によれば,この水田から蒸発した水蒸気が,中国大陸上の梅雨前線帯における対流活動を活発化させているという。水田という人間活動が作り出した陸面状態が,モンスーンアジアに特有の大気陸面相互作用をもたらしている可能性がある。

    浅田と松本(2012)は,ガンジス川・ブラマプトラ川の下流域において,近年洪水が頻発する一方,バングラデシュでは乾季作が拡大し,1998年の大洪水以降は,乾季米が雨季後期米の生産量を上回るようになったことを示した。洪水を契機とした灌漑の普及が,モンスーンアジアの稲作を大きく変貌させている。

    4 大陸東西での気候の将来変化

    IPCC(2013)などによる地球温暖化に伴う気候の将来予測においては,熱帯アジアモンスーン域では降水が増加し,地中海性気候域では,乾燥が強まる可能性があることが指摘されている。現在でも大きいユーラシア大陸の東西の乾湿気候コントラストがより強まる方向に向かうことになる可能性が高い。
  • ー山梨県北杜市須玉町を事例にー
    吉田 真
    セッションID: P105
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1はじめに

     高齢化率は,とりわけ過疎地域において高い.現在,過疎地域を含んでいる自治体数の約半数に当たる817は,面積では国土の6割近くを占めている(総務省,2018).

     過疎地域における住民の生活行動は,世帯構成,居住環境,交通事情等の種々の空間的な制約下に置かれている.このような事情から過疎地域では生活サービスを供給する側が住民側に出向き,支援するケースがみられる.そのため,住民の生活行動は生活サービスを供給する自治体や,企業,商人の対応によって特徴づけられている.

    近年では高齢者の介護予防を目標とした国の施策の一部として生活支援サービスが供給される事例がみられる. 一方,現実には人材不足等を理由としたサービス供給の限界や空間的な偏りがみられる.そこで本研究では山梨県北杜市須玉町を対象に生活支援サービスの供給状況の空間的差異とそれをもたらした要因を明らかにすることを目的とする.

    2.研究対象地域の概要

    北杜市は甲府盆地の北西部に位置しており,かつて峡北地域に存在した7町村の合併により誕生し,その後1町が編入して現在の市域となった.北杜市はこれら旧8町村を行政区に指定しており,そのうち須玉町,白洲町,武川町の3地区は過疎地域に指定されている.中でも須玉町は後期高齢者の割合が23%と地区の中で最も高い(2015年現在).

    北杜市は2010年度に「日常生活圏域ニーズ調査」のモデル事業に選定され,この事業を活用して高齢者の外出や交流が少ないといった市独自の課題を明らかにした.北杜市はこれらの課題に対して,関係主体と協力しながら,多様な通い場づくりやボランティア団体の活動等を促進してきた.また,介護予防・日常生活支援総合事業(以下,総合事業)においては,全国に先駆けて,2012年度から北杜市の地域包括支援センターが開始しており,高齢者の生活支援や介護予防に取り組んできた.2015年度からの国の総合事業が開始されたが,その開始と同時に北杜市は直ちに移行して,移行を義務付けられている他の自治体のための先進事例地として厚生労働省の資料に掲載された(厚生労働省,2016).

    3.分析手法

     まず,国勢調査の5次メッシュ人口データ250mを使用して高齢者を含む世帯の分布を地図化した.次に,病院や買い物施設といった生活関連施設の位置をプロットし,交通ネットワーク分析を用いて到達圏を画定した.最後に,生活支援サービスの位置やルートの到達圏を描写して,重ね合わせ分析を行った.

    4.結論・考察

    分析の結果,生活支援サービスの供給状況には空間的偏りが生じていることがわかった.また生活支援サービスが十分に供給されていない地域を明らかとなり,潜在的なニーズを抱えている地域の存在が見出された.
  • 山形県庄内地方における1964年新潟地震災害
    村山 良之, 黒田 輝, 田村 彩
    セッションID: 728
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    自然災害は地域的現象であるので,学校の防災教育(および防災管理)の前提として学区内やその周辺で想定すべきハザードや当該地域の土地条件と社会的条件を踏まえることが必要である。災害というまれなことを現実感を持って理解できるという教育的効果も期待できる。福和(2013)の「わがこと感」の醸成にもつながる。

     学校教育において,児童生徒に身近な地域の具体例を示したりこれを導入に用いたりすることは,ごく日常的である。しかし,山形県庄内地方では,新潟地震(1964年6月16日,M7.5)で大きな被害を経験したが,多くの教員がこのことを知らず,学校でほとんど教えられていない。発災から約50年が経ち,直接経験の記憶を持つ教員が定年を迎えており,教材開発が急務であると判断された。そこで,既存の調査記録(なかでも教師や児童生徒,地域住民が記した作文等)および経験者への聞き取り調査を基に,当時の災害を復元し,それをもとに教材化することを目指した。

    庄内地方における1964年新潟地震災害の復元

     鶴岡市においては,被害が大きい①京田地区②大山地区③西郷地区④上郷地区について調査した。①と②について記す。

     ①京田地区は,鶴岡駅の北西に位置し,集落とその周辺は後背湿地である。小学校の校舎を利用して運営されていた京田幼児園では,園児がグラウンドへ避難する際に園舎二階が倒壊し,保母と園児16名が下敷きとなった。学校職員をはじめ,地域住民やちょうどプール建設工事を行っていた従業員によって13名が救出されたが,3名の園児が亡くなった。当時の園児Sさんは,倒壊部分の下敷きとなったうちの1人である。逃げる途中に机やいすから出ていた釘で左の頬を切った。自分もグラウンドに逃げたかったが,体が倒壊した建物にはさまれて動かず,「お父さん!お母さん!」と叫んで助けを求めるしかなかった。その後泣き疲れて眠ってしまい,気付いた時にはすでに救出されていたそうだ。

     ②大山地区は,鶴岡市西部に位置する。地区の西部は丘陵地,東部は低地である。町を横断するように大戸川と大山川が流れており,当時の市街地は大戸川の自然堤防上にあった。ここは家屋被害が鶴岡市でもっともひどく,道路に家が倒壊したものもあった。家を失った人々は公民館や寺の竹藪,旧大山高校などで数日間生活した。大山は酒造業が盛んで,醤油作りも行われていたが,これらの被害も大きかった。酒造会社のWさんによると,町中を流れる水路に酒が流れ込み,酒と醤油の混ざり合った異臭が数日間消えなかったそうだ。大山小学校においては,明治時代に造られた木造校舎の被害が大きかった。当時3年生だったOさんの話によれば,教室後方の柱が倒れてきたとのことだった。大山小学校ではちょうど3日前の避難訓練の成果がでて,職員と児童全員がけがすることなく避難することができた。

     酒田市においては,既存文献で被害の大きい①旧市街地②袖浦・宮野浦地区の2地域について調査した。うち①について記す。

     ①旧市街地は最上川右岸の砂丘とその周辺に位置する。水道被害が深刻でとくに上水道の被害が大きく,6月17~19日にかけて完全断水となった。その間は自衛隊の給水車で水を賄っていた。酒田第三中学校で2年生の女生徒がグラウンドに避難する途中に,地割れに落ちて圧迫死した。グラウンドには,何本もの地割れが走り,そこから水が噴き上げため,落ちた生徒の発見が遅れた。犠牲者と同学年のIさんの話によると,校庭でバレーボールをしている際に地震が起こった。先生の指示で最上川の堤防に逃げようとした時,グラウンドにはすでに地割れが起こっていた。地割れが自分に向かって走ってきた恐怖は,今でも地震の際に思い出すそうだ。水道管の被害,グランドの地割れや憤水から,酒田では広域にわたって激しい液状化が発生したことがわかる。

    新潟地震の教材化

     現行の小学校社会科学習指導要領では,3年「市の様子」,「飲料水・電気・ガス」,4年「安全なくらしを守る」,「地域の古いもの探し」,5年「国土と自然」,6年「暮らしと政治」の各単元で,上記結果を用いた授業展開が考えられる。このうち3,4年社会科では地元教育委員会作成の副読本を用いることが一般的である。鶴岡市と酒田市の現行副読本には新潟地震災害は含まれていないため,これに追加可能な頁を,上記の研究成果を基に試作した。
     鶴岡市教育委員会では,次期改訂で新潟地震を取り上げることとし,2018年度から検討を開始した。以上の研究成果が次期副読本に活用される見通しである。
  • ー浜松市沿岸地域の事例ー
    岩井 優祈
    セッションID: 214
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    最近,南海トラフ巨大地震・津波に対する警戒が高まっている.この巨大災害が発生した場合,平野部では浸水が広範囲に及ぶと予想される.浸水域内人口が相対的に増加し,津波避難施設に対する収容人数の超過が予想される.そこで,本研究では地域全体として被害を最小化することをめざし,避難施設の規模(収容可能面積)に着目しながら収容超過人数の空間的再配分について検討する.すなわち,収容超過で避難が不可能になった人々にとって,彼らの居住地(避難元)から別の避難先への再移動がどの程度可能か,GISによる定量的な空間分析を試みる.研究対象として,平野部のために周囲に高台が少なく,南海トラフ巨大地震・津波によって甚大な被害が予想される静岡県浜松市沿岸地域を選定した.
     本研究では3種類の避難解析を行う.第一は「単ストップ・避難」.津波浸水時間等により算出した避難可能時間に基づき,津波避難施設からネットワークバッファを生成し,このバッファと重なる人口をクリップ処理することで最近隣に立地する避難施設への避難行動を分析する.図1は,この方法により各避難施設の収容超過人数を推計したものである.第二は「2ストップ・避難」.収容人数を超過した避難施設から,残り避難可能時間内に別の場所(浸水域外もしくは収容面積に余剰のある浸水域外施設)へ避難することを想定した解析を行う.第三は「合理的な単ストップ・避難」.第一の「単ストップ・避難」において,収容人数が超過した最寄り避難施設を避け,あらかじめ他の避難先へ向かうように設定して解析する.なお,これらの避難解析において利用した人口データは,国勢調査250mメッシュである.海岸や河川・湖へ向かって避難することは現実的にはありえない.そこで,これを回避するため,生成したネットワークバッファに対して,避難施設を通り,水域と平行な線を引くことでネットワークバッファを分割し,水域側を取り除くという処理を行う.ただし,水域方向でも近くに避難施設がある場合にはそこへの避難ができるよう,各避難施設から50mの範囲に限ってネットワークバッファを残すことにする.
     分析の結果,「単ストップ・避難」による収容超過人数は,全体の居住人数14,552人に対して46%に及ぶことが判明した.また,彼らが「2ストップ・避難」を行った場合,収容超過人数は全体の居住人数に対して26%,「合理的な単ストップ・避難」を行った場合は16%に減少することが判明した.避難先別に避難達成率を比較した結果,居住地と浸水域外との道路距離が離れている弁天島や新橋町では,収容面積に余剰のある避難施設へ避難した方が避難達成率は高くなることが明らかになった.しかし,地域全体としては,浸水域外へ避難した方が避難達成率は高くなることがわかった.
     以上により,可能な限り浸水域外へ避難した方が収容超過人数の空間的再配分は可能となることが解明された.しかし,津波浸水は不確実性が大きく必ずしも浸水域外が安全とは限らない.したがって,避難施設を最大限活用した「合理的な単ストップ・避難」による知見を踏まえた居住地別の総合的な避難計画が巨大津波対策には有用である.
  • 寺内 愛, 深瀬 浩三
    セッションID: 315
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    Ⅰ はじめに
     日本における養鶏業は,1960年代~1970年代にかけて,大手の総合商社や飼料会社が北東北や南九州などの国土周辺部へ進出して,系列下の処理場などの関連施設を建設した.大手資本の主導による生産・加工・流通部門の垂直的統合(インテグレーション)が進展し,ブロイラー養鶏地域の大規模化に寄与した.
     1980年代半ば以降,アメリカ合衆国や中国などから,2000年代からは新興地域のタイやブラジルから安価な輸入鶏肉が急増している.このような国際競争に組み込まれた中で,日本各地のブロイラー養鶏地域ではどのような対応を取っているのだろうか.そこで本研究では,鹿児島県を事例にブロイラー養鶏地域の中核を担っているインテグレーターと呼ばれる企業の経営形態から,ブロイラー養鶏地域の存続を明らかにすることを目的とする.
     研究方法については,2017年3月~10月にかけて,鹿児島県の養鶏業の概要については鹿児島県農政部で資料を入手した.また,ブロイラーの飼養や鶏肉の処理・加工・流通構造については,各企業を対象に経営内容ついて聞き取り調査を行った.その結果,9社のうち7社(農協系3社,独立系3社,総合商社系1社)から有効回答が得られた.それと併せて各種統計を活用した.
    Ⅱ 鹿児島県におけるブロイラー養鶏の地域的展開
     鹿児島県では,1950年代半ばからブロイラー養鶏が導入された.1969年に三菱商事系のジャパンファームが,1972年に丸紅系の霧島食品が進出して処理場を建設した.それを契機に,農協系やその他地元企業もブロイラー事業に参入し,県内各地に養鶏地域が形成された.
     1970年代~1980年代には,総合商社系や農協系の企業などは飼料工場を建設した.各企業は,委託農家や直営農場を増加させ,また,鶏肉処理の規模拡大と保冷輸送技術に向上によって,広域大量流通を実現した.
     1990年頃をピークに2000年代半ばにかけて,鹿児島県におけるブロイラー飼養農家戸数は減少し,それ以降はほぼ横ばいであった.しかし,飼養羽数は増加傾向であることから,1戸あたりの飼養羽数が増加し,農業経営の規模拡大が進展している.
    Ⅲ 鹿児島県におけるブロイラー・インテグレーターの経営形態
     1980年頃まで,農協系や独立系,総合商社系の18社が立地していたが,その後減少して,2017年現在では9社となっている.処理場の立地については,交通条件が良く養鶏業が盛んな地域の近くや,自治体の企業誘致による移転などが理由に挙げられる.処理場の統廃合については,1992年からの食鳥検査制度の実施と処理場の老朽化などを理由にコスト面から,1990年代以降,処理場の統廃合が進んだ.
     飼養方式については,総合商社系は直営農場の割合が高く,一方,農協系や独立系はほとんどが農家との委託契約である.農協系の中には,ブロイラーではなく種鶏や親鳥などの取り扱いに特化した経営もみられる.また,各企業では輸入鶏肉や他社との差別化を図るため,銘柄鶏の取り扱いとそのブランド化に取り組んでいる.
     集荷地域については,各企業の処理場によって棲み分けがみられる.また,独立系や総合商社系の企業では,鹿児島県本土内だけではなく,宮崎県や熊本県など広範囲から集荷している.一方,農協系企業は鹿児島県本土内の処理場が立地している市町を中心に集荷している.
     ブロイラーの処理工程に企業の違いはみられないが,処理規模については,とくに総合商社系は年々処理羽数が増加している.1990年代以降,輸入鶏肉の増加などに対して,総合商社系や独立系の企業は,処理場の増築によって鶏肉処理の効率と規模拡大を図っている.また,農協系と独立系の企業では,処理場とは別に加工工場を建設し,鶏肉加工商品を製造・販売している.
     処理場の労働力については,処理場の立地場所によって高齢化が進んでいるところもあるが,どの企業の処理場でも女性の割合が高い.また,2000年代半ばから外国人技能実習生を受け入れて,労働力を確保している.
     鶏肉の出荷販売については,農協系は鹿児島県内の生協や卸売会社や小売店が中心で,県外へは卸売会社を通じて西日本を中心に流通している.一方,総合商社系と独立系は大手卸売会社が中心である.
    Ⅳ おわりに
     従来の他の養鶏地域の研究と同様に,企業の処理場の統廃合の進展とそれに伴う集荷地域の棲み分けや広域化,銘柄鶏の導入などによる養鶏地域の再編は鹿児島県でもみられた.加えて,1990年代から農協系と独立系の企業では,加工工場を建設し販路の多様化を図っている.2000年代半ばからは,各企業で外国人技能実習生によって労働力を確保している.一方,処理場の設備更新や直営農場の建設,委託農家の確保などは各企業ともに今後の課題となっている.
  • 埴淵 知哉, 山内 昌和
    セッションID: 217
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    背景 国勢調査は、長らく基礎的な地域統計として利用されてきたが、近年は調査票の未回収や調査票の一部にしか回答しないことに起因する「不詳」の増加がみられ、地域分析への影響も懸念されている。調査票の郵送やインターネット回答の導入など、回収・回答状況の改善に向けた取り組みがなされてきたものの、2015年国勢調査においても「不詳」はさらに増加しており、統計としての信頼性が揺らぐ事態となっている。この問題に対する取り組みとしては、「不詳」によるデータの偏りの実態把握と、回収・回答状況改善に向けた「不詳」発生の要因分析が必要である。

    本研究は、インターネット調査を通じて国勢調査に対する認知・回答・協力意識を把握し、それらと回答者の個人属性・地域特性および国勢調査に対する意識や知識との関連性を明らかにすることを目的とする。

    方法 2018年3月に、クロスマーケティング社の登録モニターに対してインターネット調査を実施した。対象は20-64歳とし、2015年国勢調査に基づく年齢・性別・地方の構成比に応じて1,000サンプルを比例配分する方法で回答を集めた。インターネット調査を採用したのは、国勢調査に回答しない層(「不詳」該当サンプル)も登録モニターに含まれている可能性が高いと考えられたためである。

    分析においては、利用変数に欠損値の無いサンプル(n=977)を対象とし、国勢調査に対する「不認知」(知らない)、2015年調査における「未提出」、2020年調査への「非協力」的態度の三つを従属変数として、それぞれに関連する要因をロジスティック回帰分析により特定した。

    結果 「不認知」は、高齢層・男性・有配偶・高学歴層において有意に少ない(=認知度が高い)ことが示された。「未提出」は年齢・配偶関係・世帯構成・居住年数といった個人属性と関連していたが、多変量調整の結果有意な値を示したのは年齢のみであった。若年層ほど未提出となる傾向が非常に強く、それが未提出者における未婚・単独世帯・集合住宅の借家・短期居住者の多さにも反映されていたものと解釈できる。地域特性としては、三大都市圏居住者において未提出が多い傾向が確認された。また、国勢調査に対する知識量(調査主体・方法・結果の利用方法などを知っているか)が増えると未提出は大幅に減少する傾向もみられた。「非協力」については、個人属性よりも、プライバシー意識や国勢調査に対する意見、国勢調査に対する知識量といった意識面と強く関連していた。

    考察 以上の結果は、第一に、2015年国勢調査において年齢による「不詳」の偏りが存在し、そのことが先行研究でも懸念されてきた配偶関係などの「不詳」の偏りにも影響した可能性を示している。また、個人属性の影響を考慮してもなお大都市圏には「不詳」が偏在しているため、国勢調査データの利用時に疑似的な地域差・地域相関を生み出す危険性に注意する必要性が指摘される。
    第二に、プライバシー意識は、それが高いほど「非協力」意識は高まる一方、「未提出」とは独立した関連性がなく、「不認知」はむしろ少なくなる傾向にあることから、一概に国勢調査の回収状況を悪化させるとは断定できない。それよりも、国勢調査に対する知識量の少なさが「未提出」や「非協力」と強く関連していたことを考慮するならば、国勢調査の意義や方法、プライバシー保護の仕組みなどをより丁寧に周知していくことが国勢調査の回収状況の改善に結び付く可能性が示されたといえよう。
  • 堀内 雅生, 小寺 浩二, 浅見 和希, 猪狩 彬寛
    セッションID: P220
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    電子付録
    Ⅰ はじめに
    火山地域では水資源が豊富で、保全、利用のためには水環境問題の把握が重要である。噴火による水環境汚染は火山噴出物から溶出した成分により広範囲な汚染が特徴的で、生物や経済への影響は大きい。これを踏まえ、2015年6月29日に箱根山の大涌谷で発生した噴火が周辺水環境へどのような影響を与えているか研究を始めた。これまでの調査で、大涌沢では噴火から時間が経つにつれてECおよびCl-/TAni(陰イオン当量計)が低下する傾向がみられた。
    Ⅱ 研究方法
    調査は毎月1回の間隔で実施している。現地では河川・沢・雨水を中心に、AT,WT,pH,RpH,ECなどを測定した。さらに採水したサンプルを持ち帰り、研究室にて主要溶存成分等の分析を行っている。
    Ⅲ 結果・考察
    1.河川のEC・pH

    大涌沢では噴火直後の調査で6,780μS/cm、pH2.4の高EC・低pHを観測した。長期的には大涌沢のECは低下しており、2016年8月調査(以下、1608のように略)以降は3,000μS/cm前後で安定している。pHに関しては噴火直後と比較して高い値が観測された。早川ではEC、pHが200~400μS/cm、7~8で変動し、目立った変化は見られなていない。
    2.主要溶存成分
    大涌沢では噴火から時間が経つにつれ、Cl-が低下する傾向がみられている。一方でSO42-は目立った減少はみられていない。大涌沢下湯橋でのCl-/SO42-比率は、1507に1.1であったものが、1707では0.2に低下している。これは、火山活動の高まりによって源流域の湧泉の水質が変化したこと、噴火によって放出された火山噴出物からの成分溶出などが要因として考えられる。
    早川のCl-/TAniを見ていくと、1507においては大涌沢合流後に値が大きく上昇し、大涌沢の影響を大きく受けていることが分かる。一方で、1607および1707では大涌沢合流後も値はあまり大きく変化していない。理由としては、この頃になると大涌沢では陰イオンにCl-があまり大きな割合を占めておらず、大涌沢から早川へのCl-の供給が減ったためと考えられる。
    3.雨水
    雨水は9地点でサンプリングしているが、噴気地帯である大涌谷に近い地点では雨に含まれる溶存成分が多く、距離が離れるにつれて溶存成分が少なくなっており、雨水水質に与える火山ガスの影響が大きいことが考えられる。
    Ⅳ おわりに
    大涌沢の陰イオン成分比が噴火から時間が経つにつれて変化していることが分かった。現在流量観測を継続しており、今後は定量的な考察を行っていく。
  • 浅田 晴久, 松田 正彦, 安藤 和雄, 内田 晴夫, 柳澤 雅之, 小林 知, 小坂 康之
    セッションID: S605
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.はじめに
    モンスーンアジア、中でも東南アジア大陸部稲作圏の国々ではすでに食糧自給がほぼ達成されたことから、農業技術開発・普及および農村開発は、国家戦略の中では優先順位が下がっている。つまり「緑の革命」期の政府による、「技術の押し売り」的状況が改善し、近代農業技術の画一的な普及状況が一変している。国によっては農民の自発的な技術変革が顕著に見られるようになってきており、農業技術発展において各国の状況にはかなり大きな温度差が生じつつある。伝統農業時代に存在した、地域による多様性が再び出現しつつあると言える。また、世界の農業技術が向かっている方向も、多収技術から持続性、安定性、安全性、低投入技術へと移り、脱化学農業の動きも活発である。この変化を国際的な比較を通じて整理し、地域発展の共時的現象として確認し、地域の固有性との関連で農業技術発展における意義を明らかにすることが本研究の目的である。

    近年、特に2000年以降、地域研究およびそれに隣接する分野の諸研究において農業技術の現状を具体的に記述し、その変容等の意義を問う研究事例がほとんど見られなくなってきている。これは「緑の革命」という東南アジア諸国に共通した農業・農村開発国家戦略が主政策でなくなりつつあることにも関係している。しかし、そのような状況下であるからこそ、東南アジア各国では、国家の圧力から放たれた農民の自由意志による近代と伝統の統合によるもう一つの技術革新が静かに進行していると言える。まさに東南アジア大陸部では、地域の固有性に強く立脚した農業技術発展がその多様性を大きく開花させつつあると言える。このことは現在までほとんどまとまった形で報告されていない。本研究は、水田稲作に着目して、その現象の実態と現代的意義を明らかにする。それにより、地域研究に携わる研究者コミュニティと東南アジアの人々とともに、将来の農業技術のあり方について考えるという意義ももつ。

    2.研究手法

    本研究は、京都大学東南アジア研究所の共同研究として2016~2017年度の2年間、浅田が代表を務めて実施した。各国を担当する研究チームを、インド・アッサム(浅田)、バングラデシュ(安藤)、ミャンマー(松田)、ラオス(小坂)、カンボジア(小林)、ベトナム(柳澤)、という形で編成した。研究期間と予算が限られていたため、新たに現地調査を実施するという形式はとらず、各担当者が、これまで現地のカウンターパートとともに行ってきた研究成果を持ち寄り、研究会を定期的に開催して情報交換を行った。各国で近年みられるようになった新しい稲作技術の動向を整理し、モンスーンアジア全域で共通している問題を考察した。



    3.結果と考察

    本研究の成果として、以下の知見が得られた。

    「緑の革命」の推進期まで、アジア各国では、食料自給を高めるために、政府によるトップダウンにより農民の間に稲作技術が普及していったが、現在は、農民が自由に技術を選択できる状況になっている。各国において機械化農業が進んでいるが、省力化・効率化など技術面での多様性が増している。

    各国政府は自給率を達成した後もなお収量を重視しているが、農民はコストを重視しており、両者にギャップが生じている。特に農外就労機会の増加、農村から都市への人口移動により、農業就業者の数はいずれの地域でも減少傾向にあり、稲作の持続性にとって大きな問題となりつつある。

    農業・農村の魅力を高めるには、国家が一方的に関与するだけでなく、農民の主体性も認められなければならない。もはやトップダウン型の政策が通用する時代ではないため、農村の現場で起こっている変化を肯定的に捉えて評価しないと、いかなる農業政策も定着させることは難しいと考える。
  • 羅 雁劼, 河端 瑞貴
    セッションID: 412
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    近年,日本では外国人観光客の増加により,インバウンド観光市場の発展が経済成長に重要な役割を果たすことが広く認知されてきた.一方,観光立国をはじめとした国策のもとで観光経済に目を向ける地方自治体も増えつつある.日本の観光市場の既存研究は記述統計手法やビッグデータの分析が多く,市区町村単位のように比較的ミクロな空間単位を用いた観光行動の空間パターンに関する研究は少ない.
    そこで本研究は,日本の代表的な観光地の1つである北海道地区を対象地域とし,空間統計手法を用いて外国人観光宿泊客の国籍別・季節別空間パターンを分析した.2010-2016年度の市町村月別・国別訪日外国人宿泊者数(延べ人数)データを用いて分析した結果,特定の国や特定の季節に特異な空間パターンが存在することが明らかになった.特に中国・台湾・韓国などの国からの観光客は文化的観光資源を好み,欧米諸国からの観光客は自然的観光資源を好む結果が確認された.
  • 張 貴民
    セッションID: S302
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.問題の所在

    1978年に開始された改革開放政策は中国に大きな変化をもたらした。『改革開放以来の中国経済:1978-2018』(厲以寧2018、中国大百科全書出版社)からその歴史を知ることができる。本シンポは地理学の視点から改革開放を再考するものである。本発表は、この40年間、中国農村における農民や農地をめぐる変化と今後の課題を分析する。

    2.農村問題の背景

    中国では東部沿海地域に導入された開放改革政策が次第に中部、そして西部内陸部へと空間的に移行している。国土の自然条件や、経済・文化等の基礎条件の差異は大きいが、経済発展の時空間推移は雁行形態論からある程度説明できる。また、都市と工業を優先的に発展させてきた中で、農村部は農産物、労働力、農地などの提供を通じて農村の発展を模索してきた。しかし、戸籍制度や土地の集団所有制度などの制約から、その発展は立ち遅れている。結果として、国全体が成長しながらも、東部・中部と西部の間の経済格差が広がり、都市部と農村部との間の経済格差も拡大する一方である。先富論で唱えられたように、先に豊かになれる者たちは遅れた者たちを助けることは、今まで犠牲を支払ってきた農村中国の成長に不可欠である。

    3.農民の身分をめぐる変化

     この40年間、色々な課題を抱えながらも農村部も大きな変化があった。まず、農民の身分制の変化を述べる。1958年以人民公社が設立され、『中華人民共和国戸籍登記条例』が頒布され、国民は都市戸籍と農村戸籍に区分され、農民が農村に縛られることになった。1978年に農村人民公社が解体され家族請負制が導入され、農業生産力が解放され農民は自由に農業を経営でき、経営環境の良い都市近郊等では商品農業が行われ万元戸になった農家が現れた。1984年に国務院の「都市部における農民の戸籍転入に関する通知」によって、農民は都市での合法的生存権を得た。農村余剰労働力が農村から都市へ移動しやすくなった。農民は「離土不離郷」という制約があるものの、都市部で稼ぐことが可能になった。その後、企業経営を成功し、数千万元の富を手に入れた農民企業家も続出した。現在、上海市や広州市などの都市では青色戸籍制度を導入し、一定の条件を満たした者は正規の都市戸籍に登録できる。しかしこれで十分と言えない。農民は遅れていた戸籍制度を改革し、戸籍管理の一元化の早期導入を期待している。農村出身者が自由に都市へ移り住むことができれば、工業化より都市化が遅れている歪んだ現状を是正することができる。

    4.農地の商品化の問題

     中国における著しい経済成長は、都市と工業の近代化であり,農村と農業の近代化ではないとの指摘がある。農村問題・農業問題と農民問題いわゆる三農問題としてクローズアップされてきた。最近、三農問題に農民工の問題を加えて「四農問題」と称する研究があるが、農民工の問題は戸籍制度の産物であり、むしろ都市側の問題として解決すべきだと考える。

    次では農地問題を取り上げる。農地は村民集団所有の財産である。改革開放初期から、都市近郊あるいは新設の経済開発区では、工場や住宅地として農地が転用され、農地を失った農民は農業経営ができなくなり、土地の補償金を使い、不動産や店舗など経営して働いている。これらの失地農民は土地転用のため都市住民(戸籍)になれず、急変した経済・社会環境等に適応できないケースは少なくない。また、農民は鉄道用地、高速道路用地、空港、ダム用地などによって農地の一部が転用され、補償金を手に入れるが、このような土地の商品化は、土地買収や補償金をめぐって村民を対立させ、分断させることもある。

    また農民の宅地の商品化、つまり宅地の売買行為は制限され、特に都市住民による農村宅地の売買が許されていない。農村の住宅用地面積は中国のそれの2/3を占めている。農村宅地の取引は一旦自由になれば、農民の立場はさらに厳しくなる。

    5.中国農村の課題

     農村部では農村道路の整備、新しい農村医療保障制度、貧困扶助などの成果を挙げる一方、農村に課題が山積している。課題として人口流出による村の空洞化、耕作放棄地の増加、高齢者の扶養問題、留守家族問題、教育問題等が挙げられる。
  • 高橋 日出男, 瀬戸 芳一, 中島 虹, 藤塚 大輔, 菅原 広史, 常松 展充
    セッションID: 518
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    ◆はじめに

     都市ヒートアイランド現象など都市気候の形成には,都市キャノピー層における熱・放射収支の変化や人工排熱とともに,下層大気の鉛直混合など境界層のプロセスが関与している。都市境界層の鉛直構造を把握するため,本研究では2018年3月より東京都心域で温度プロファイラによる連続的な気温鉛直分布観測を開始した。今後,広域METROSなどの稠密気象観測データと併せて解析し,都市大気の立体構造や都市気候発現の多様性などを調べる予定にしている。本報告では,序報として温度プロファイラで得られたデータと既存観測データとの簡単な比較ならびに晴天弱風事例における特徴の提示を行う。

    ◆温度プロファイラ観測

     使用する温度プロファイラ(Attex社製MTP-5H)は,高度角を変化させながら60GHz帯のO2熱放射を受信するもので,1000m上空まで50m間隔の気温が得られる。機材の設置場所は都区部ほぼ中央の千代田区飯田橋駅近傍の建築物屋上である。計測は10分間隔で行い,携帯電話回線を介してインターネットに接続され,データ回収や動作確認が随時可能である。以下では2018年3月26日から6月30日までの観測データを用いた。

    既存観測データとの比較

     観測データの精度検討にあたり,高度1000m(建築物と架台の高さを加算すると1098m)の気温を館野における900hPaの気温(09時と21時)と,また高度0m(同98m)の気温を東京(北の丸)の地上気温と比較した(図1a,b)。いずれも回帰直線の傾きは1に近似しており相関係数も1に近く,ほぼ1:1の関係にある。高度0mの気温は,日変化についても東京(北の丸)の気温とよく平行している。

    晴天弱風事例における日変化

     晴天弱風事例として,東京(北の丸)において,06時から翌日06時までに降水を観測しておらず,日中は全天日射量21MJ/m2以上かつ07時から18時の平均風速が4m/s未満で,引き続く夜間の平均雲量(18,21,03,06時)が3未満かつ19時から06時の平均風速が3m/s未満の場合を抽出した(7事例)。このうち,全層にわたる短時間での顕著な気温変化のない事例について,乾燥断熱減率(0.976℃/100m)により地上(0m)まで気塊を下降させた温度を温位θ(℃)として,その高度時間断面(36時間分)を図2a-cに示した。いずれも日中には等温位層が上空へ及んでいるが,上空に高温空気が現れた場合(b)には600m付近を中心に強い安定層(温位傾度の極大)となっていた。夜間には,高度200-300mの下層で強い安定を示す場合(a)と高度600m付近が

    安定層となる場合(c)があった。日射・雲量や地上風速が同様であっても,境界層の気温鉛直分布には多様性がある。今後,都区部西部にも温度プロファイラの設置を計画しており,計測値の特性を踏まえつつ,東京における境界層の場所による差異や季節・日変化の気候学的特徴とともに,地上気温分布の現れ方との関係などを明らかにしたい。



    本研究の実施にあたり,科学研究費補助金基盤研究A(代表者:高橋日出男,課題番号:17H00838)を使用した。
  • ―珠江デルタ地域における研究を踏まえて―
    小野寺 淳
    セッションID: S308
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.改革開放期の都市化への視点

     経済改革・対外開放政策とは、計画経済期やそれ以前からの中国に特徴的な仕組みが、突然に変更されてしまうことではなく、市場化やグローバル化によってもたらされたさまざまなインパクトとの間で、長い時間をかけて折り合いをつけてきた過程のことである、とみることはできないだろうか。そのような改革開放の過程を、特に都市化を主題にして振り返ってみようというのが本発表の趣旨である。

     その際に、一つには農村から都市への人口流動に注目すべきだろう。都市農村間の人口流動を抑制する戸籍制度が存続する中で、「民工潮」とも呼ばれた出稼ぎ労働者の大きな流動が中国の経済発展を支えたことは間違いないし、近年では「民工荒」として、無尽蔵のように思われていた出稼ぎ労働者の供給に限界が見えてきたのではないかと議論されている。

     もう一つ注目すべきことは、農村の土地が都市的な用途へ転用されていくプロセスである。農村の集団所有地と都市の国有地という二元的な土地制度がやはり存続する中で、土地の転用と有償化のプロセスは多様な問題をはらみつつも、都市化のメカニズムの重要なポイントになっている。



    2.1990年代の農村都市化

     香港に接する広東省の珠江デルタ地域への外資導入が1990年代に急増し、外資系企業が郷鎮企業と委託加工契約を結び、あるいは独資の工場を設立して労働集約的な工業生産を拡大させた。それに伴って大量の労働力が需要され、四川省や湖南省のような内陸部から大量の出稼ぎ労働者がこの地域へ流入することになった。

     工場が立地したのは大都市の市街地ではなく、広い土地が安価に供給される郊外、あるいは農村部であった。大都市だけに人口が集中して肥大化するようなパターンではなく、広域的な都市化が進行したことがこの時期の都市化の特徴である(ONODERA 1999)。そして、農村の広大な土地が工業用地などへ転用されていった。一部の土地は郷鎮企業の用地として保有されたまま外資系企業へ賃貸され、一部の土地は政府によって所有権を収用され、その代わりに補償金が支払われた。農民たちは村の株式会社を創設して土地に由来する利益をコミュニティの中で配分した。政府は収容した土地を整備してから外資系企業へ使用権を有償で譲渡し、受領した土地収益をさらに都市開発へ投入していった(小野寺 1997)。



    3.2010年代の「城中村」

     2010年代に入り、大都市よりは地方の中小の都市の都市化を推進しようとするような当局の政策意図とは裏腹に、大都市へ資金が流入して大都市の不動産開発が活発化している。新都心に高層オフィスビルが林立し、数多くの多国籍企業が入居している。「世界の工場」と称された珠江デルタ地域も産業構造の高度化に迫られ、都市化の状況もそれに合わせて変化しているのである。広州や深圳のような大都市がグローバル都市の特徴を帯びてきたととらえることもできるだろう。

     そして、出稼ぎ労働者を都市内で収容してきた城中村が、グローバル都市に対しても必要な諸資源をリーズナブルなコストで供給している。その諸資源とは、都心に近接する開発用地であり、オフィスや住宅といった空間であり、地域労働市場において特定の位置を占める労働力・人材である。一部の城中村では再開発事業が進められ、その景観は一新されているが、村民たちのコミュニティによって土地をはじめとする資産が集団で所有されている状態が村の株式会社によって維持されている(小野寺 2018a, b)。



    4.グローバルなインパクトとローカルなアクターとの関係

     改革開放期を通じた珠江デルタ地域の都市化を振り返ると、都市化を促進する主な要因が、1990年代の外資系企業が主導する国際分業の中の工業化から、2010年代の産業構造の高度化とグローバル化へと転換していることに気が付く。このような観点から中国の改革開放期を時代区分することも可能だろう。その一方で、グローバルなインパクトが中国へ常に及びつつも、村民たちのコミュニティのようなローカルな仕組みが新しい状況に適応しながら依然として持続しているという状況を了解すれば、改革開放期はまだ終わらないとも言えそうである。
  • 北田 晃司
    セッションID: 411
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    近年、わが国を訪問する外国人観光客の数は急増しているが、その増加は地方により異なる。本発表で取り上げる栃木県は、日光などの著名な観光地を抱えながら、外国人観光客の増加率は他の関東地方の一都五県と同様に平均を下回っている。これは外国人観光客の西日本訪問の増加や、同県が東北に近く、東日本大震災以降、宿泊者数が停滞していることなどが挙げられる。しかし同じ県内でも那須町などは回復が遅れているのに対し、宇都宮市や日光市などでは比較的順調に回復しており、2015年に同県の外国人観光客宿泊数は過去最高を更新している。本研究においては、栃木県を訪問する外国人観光客の中でも宿泊数の多い中国、欧米、台湾などからの観光客を中心に、同県の国際観光の動向について分析を行う。まず、中国人観光客は栃木県を訪問する外国人観光客の人数で約10.7%、買い物代では約22.7%を占めているが、買い物代については欧米諸国の合計よりもわずかに少ない。その一方で、近年は宇都宮に宿泊し、日光などを訪問する中国人観光客の増加が大きいことから、ショッピングよりも日本の歴史や文化に対する関心の高い中国人観光客も増えてきていると考えられる。また欧米からの観光客は栃木県を訪問する外国人観光客の約20%を占めており、特に大陸ヨーロッパからの国々からの観光客の栃木県訪問率はしべての外国人観光客の中でも最も高い。これらの観光客は英語以外の言語を公用語とし、また前述のように1人当たりの買い物代は必ずしも高くないが、古くは明治時代から栃木県、特に日光の観光地としての資質を高く評価していること、あるいは中禅寺湖やその周辺をリゾート地として整備し、そのことが日本人観光客をも引き付けてきたことを考慮すると、わが国においては観光戦略が地域経済の活性化と極めて密接な関係にあるとは言え、その存在を過度に軽視することはできない。また台湾人観光客はこれまで北海道、北陸などで直行便を利用した団体旅行などを通してわが国、特に地方の国際観光に大きく寄与してきた。彼らにとって栃木県は必ずしも人気のある観光地とは言えず、また同じ日光でも、温泉の豊富な旧藤原町を訪問することが圧倒的に多かったが、近年は東照宮のある旧日光市への訪問が急増している。また、近年、日本への訪問客が急増しているタイからの観光客についても訪問数が急増している。たしかに栃木県はたしかに外国人観光客の増加率は全国ではそれほど高くなく、また日光を除くと外国人観光客の間で知名度の高い観光地もそれほど多くない。しかし様々な国籍の観光客を引き付けることができる資質は十分にあると言え、また、欧米や東南アジアからの観光客を中心に、スーパーマーケットや地元の土産屋で買い物をする比率が高いことから、既存の商店街を十分に活用した形での国際観光のモデルを提示することも有益であると考えられる。
  • 立入 郁, 飯島 慈裕, 市井 和仁
    セッションID: 511
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    北アフリカから中東、中央アジアを経てモンゴルに至る地域は世界最大の乾燥地帯であり、人々の多くは気象条件への依存性の強い乾燥地農業や牧畜を生業としている。このような地域において、温暖化による気候変化がもたらす気温・降水量などの変化は、耕作・牧畜適性に影響を与え、生活の基盤を脅かす重大な問題である。

    IPCCの第五次評価報告書などによれば、気候モデルの平均値では、今世紀最後の20年間を1986-2005年と比べた場合、シナリオによらず北米大陸南部~南米大陸北部、アフリカ南部、地中海周辺で乾燥化が進み、北アフリカ~モンゴルの乾燥地では、カスピ海周辺を除いて、横ばいあるいは若干の湿潤化が予測されている。

    ここでは、一つ一つのモデルのデータを解析し、それぞれのモデルの中でどのようなプロセスが生じているかを理解し、この地域の将来変化について考察する。

    まず、MIROC-ESMを対象に、低位安定(RCP2.6)および高位安定シナリオ(RCP8.5)実験(2006-2100)を解析対象とした。解析の際は、まず月平均から年平均値を計算し、初期値の異なる3メンバーの平均を取って用い、時間(年)に対する線形回帰式の傾きを算出する。

    まず、降水量は、地中海沿岸からアラビア半島を経てイラン高原に至る地域で減少しており、その他の地域では増加していた。この傾向は、RCP8.5でより強かった。次に、純一次生産量(NPP)を見ると、RCP2.6では、アラビア半島、イラン高原、アナトリア半島で減少しており、アジア―アフリカ乾燥地域に含まれるその他の地域では、やや増加していた。またサハラ砂漠南縁部では増加がみられた。この傾向はRCP8.5ではさらに強くなる。全体的に、NPPは降水量とよく対応しており、乾燥地においては降水量が生産量を決めていることが確認できる。

    次に、NPPのうち、C3草本植物とC4草本植物のみのものに注目してみてみると、RCP2.6ではC3草本のNPPはあまり変化がないところが多いが、モンゴル北中部では顕著に減少している。一方、RCP8.5では、同地域の減少傾向は弱まる。C4草本については全NPPとよく似た傾向を示している。RCP2.6については、モンゴル北中部ではやや増加しており、これがC3草本が減った分を埋め合わせているため、全NPPには顕著な減少はみられない。RCP8.5では、イラン高原で顕著な減少がみられる一方、モンゴル周辺では顕著な増加がみられる(RCP8.5では、モンゴル周辺の全NPPは増加傾向であった)。
  • 華南からの観察
    許 衛東
    セッションID: S305
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    中国は重要か。どのぐらい重要か。だれに対して重要か。その答えを経済地理学から求めることが筆者の探索の原点である。

    改革開放期の中国経済の変容は対内的にいえば市場経済メカニズムの段階的持続的浸透、そして対外的にいえば「世界の工場」と「世界の市場」の同時的実現によって特色づけられる。その広がりが新興市場国という新たなブロックの分類概念まで登場させるに至っている。

    社会主義体制樹立後の連続性という尺度からみるならば、前半の毛沢東時代=中央集権的計画経済期の30年を準備段階として,そして1978以降に登場した鄧小平路線の時代=市場経済指向の改革開放期の40年をテックオフの段階として大まかに区分することができる。産業構成の評価基準と人口流動の現状からいえば、中後期工業化はまだ継続中である。

    1978年に始まった改革開放政策は、それまでの「大鍋飯」といわれた統制経済から、競争原理・市場原理を取り入れた活力のある経済活動に転換させようとするものであり、基本的には「個人農化」改革から始まり、郷鎮企業と小城鎮の形成など、基層社会をベースとしたローカルの民生経済を刺激しつつ、国有企業の経営体質の転換を目指すものであった。1980年代を通じて、日本に続くアジアNIESの追跡的経済発展があり、中国経済の開放をいっそう刺激した。深圳の出現と珠江デルタの産業集積に象徴される華南の経済拠点と沿海の経済特区が登場し、グレーター香港ないし華南経済圏の発展態様も注目された。

    1990年代に入ると日米欧への輸出がいっそう拡大し、アジア金融危機にもかかわらず、2001年のWTO加盟を通じて現代世界秩序の圧倒的規定要因としてのグローバリゼーションの受容を求めながら「大国」への脱皮によって存在力を高めていった。また、1997年の香港、99年のマカオの返還により、両地を1国2制度として経済的な一体化を進めるとともに、対立にあった台湾とも経済関係を強めてきた。ASEANに対しては、包括的自この過程で改革の重点は地方から中央の強化に移り、2005年3月の国有資産管理委員会(国資委)の設立に見られるように、国有企業の戦略的再編に重点が置かれた。それまでの「国退民進(国有企業が独占分野から退出し、民営企業の参入を拡大する)」のための制度革新は、国際競争力を付けるという目標の下に、むしろ、製鉄・航空・高速鉄道の合併など企業集中の動きが加速することになり、産業空間の再転換を促して現在に至っている。
    では、中国の変容がもたらす地域間関係と今後の分業形態をどのように
    考えるのか。中国発イノベーションはありうるのか。

    かくして、中国の経済分析にあたって,グローバル・レベル,リージョナル・レベル,ナショナル・レベルとローカル・レベルなどの空間的位相の整秩が重要であり,同様に経済構造の変化が惹起する内外の関係性を地理学の解釈に置き換えて同定する作業も欠かせない。

    筆者はこれまで農業開発、郷鎮企業と農村の工業化、自動車に代表される国営企業の改革と産業配置、華人経済ネットワークなどのフィールド調査を中心に経済改革開放期の地域変容の理解を深めようとしてきた。現在も、2つの深堀作業を意図してフィールドを継続中である。1つは地域形成の歴史的連続性と非連続性の問題として清代末期・中華民国期の華南における初期工業化の解明で、もう1つは「世界の工場」が変質したかどうかの検証である。
    前者はすでに公表したので(許2016)、今回は後者の一部として華南中心のLED照明産業の集積事例の分析を行ない、低炭素社会構築と脱「中進国の罠」の構造改革を背景として主に生産連鎖の視点から中国で進行中の産業高度化の特色と国際分業へのインパクトの概観を報告させて頂く。
  • 丸山 洋平
    セッションID: 218
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.はじめに

     地方創生の潮流の中、合計特殊出生率や3世代世帯割合等の人口学的指標を介して、地域の人口や家族の特性およびそれらの地域的差異に関心が集まっている。本研究が扱う親子同居率(子どもから見た親との同居率)もその1つである。親子同居率が高いことは、家族のつながりが強いとして好意的に解釈されることが多い。しかし、この指標は静態統計として得られるものであり、過去の人口移動の影響が考慮されていないという課題がある。すなわち、その相対的な高さが、親と同居しない者の人口流出が激しいことを意味しているにすぎない可能性があるということである。人口移動の影響を取り除いたとき、実質的な親子同居傾向の地域差はどのような形で表出するのか。これが本研究の基底をなす問題意識である。本報告では、全国を対象として親子同居率を同居可能率と同居実現率に要因分解する方法を提起した廣嶋モデル(後述)に着目し、それを都道府県スケールに適用することを試みた結果を報告する。

    2.廣嶋モデルと人口移動の影響

     廣嶋清志は家族研究の中で、親子同居率を同居可能率と同居実現率に要因分解するモデルを提起した(以下、廣嶋モデル)。このモデルはある人口集団Aの中に親子同居可能な人口Bがあり、その中に実際に同居を実現した人口Cが含まれており、同居率(C/A)が同居可能率(B/A)と同居実現率(C/B)の積として表されるというものである。これは、ある時点の同居率が同居可能率の影響を受けてしまうため、実質的な同居可能傾向は同居実現率で把握する必要があることを意味している。廣嶋モデルは全国を対象にした検討のみであったが、これを都道府県に適応すると、人口流出が激しいために県内にとどまる人口が少ない地域では親子同居にかかる競合が少なくなって同居可能率が高くなるため、同居実現率の低さを補って見た目の同居率が高いという状況を生じることがありうるということになる。

    3.分析方法と結果

     上述の状況を表現するには、人口移動の影響を反映させた地域別・コーホート別の同居可能率を設定する必要がある。今回は国勢調査等の集計データを主として利用し、(1)長男が親と同居する、(2)親は移動しない、(3)長男の純移動率は同一コーホートの純移動率の半分、(4)親の生残率の地域差を考慮しない、といった操作的な定義を与えることによって同居可能率を都道府県別に算出した。同居率を同居可能率で除した値が同居実現率であり、2000年、2005年、2010年の40~44歳男性を分析したところ、同居率との相関関係(沖縄を除く46都道府県が対象)は、同居可能率よりも同居実現率の方が高く、見た目の同居率が実質的な同居傾向の地域的差異を概ね表現しているという結果が得られた。ただし、同居可能率による影響も確認されており、特に都市的地域の親子同居率の低さが同居可能率の低さに牽引されている様子が明瞭に示された。
  • 上芝 卓也, 藤井 夢佳, 吉松 直貴, 髙桑 紀之, 山崎 航, 諏訪部 順
    セッションID: 623
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1 はじめに
     近年,全国各地で豪雨災害が多発する中,多様な主体の参画による地域の水防力の強化を目的に,平成25年に水防法が改正された.これにより,浸水想定区域内の要配慮者利用施設,大規模工場等(以下「事業所等」という.)について,避難確保計画又は浸水防止計画の作成,訓練の実施等が規定された(平成29年に一部事業所は義務化).これを受け国土地理院は国土交通省水管理・国土保全局と共同し,事業所等がこれらの対策を実施する際の手助けとなるシステムとして,地点別浸水シミュレーション検索システム(以下「浸水ナビ」という.)を開発し,平成27年7月に公開した(廣瀬ほか,2015). 本報告では,浸水ナビの運用開始から国直轄河川全国109水系の浸水シミュレーションのWeb公開に至るまでの国土地理院の取組を紹介する.

    2 浸水ナビとは
     国土交通省及び都道府県では,河川が氾濫した場合に浸水が想定される区域を洪水浸水想定区域図として指定し,指定の区域及び浸水した場合に想定される水深,浸水継続時間を洪水浸水想定区域図として公表している.
     浸水ナビは,これらの洪水浸水想定区域をWeb地図上に表示することにより,堤防が決壊(破堤)した場合,どのくらい浸水するのか,何時間で浸水が始まるのか,何日で水が引くのかなどを視覚的に確認することが可能なシステムである.例えば,時系列のシミュレーションデータを用いて破堤地点毎に浸水範囲拡大から排水するまでの様子をアニメーション(図1)で表示することができる.さらに,任意の地点に影響を与えるすべての破堤地点を検索する「逆引き検索」も行うことができる.

    3 これまでの浸水ナビ
     平成27年7月の浸水ナビの公開に先立ち平成27年3月から全国の浸水データの登録を順次開始した.その後,平成27年11月に水防法が改正され,想定し得る最大規模(以下「想定最大規模」という.)の降雨を前提とした洪水浸水想定区域図を作成することになり,平成28年10月から想定最大規模のデータの登録を開始した.しかし,計算単位であるメッシュがより詳細になりデータ量が十数倍に増大したため,登録時間が大幅に増加した.それにより,登録河川数は登録開始から1年の平成29年10月時点でも国直轄河川109水系445河川のうち小規模河川を中心に161河川にとどまり,また,利根川等の大規模河川の登録は1河川で数ヶ月に及ぶことが想定された.そのため,国及び都道府県管理河川のデータ拡充には登録の迅速化が不可欠であった.

    4 登録の迅速化に向けた取組
     登録の迅速化に向けて国土地理院では平成29年11月にシステム改良を実施した.

    <画像型データベースの構築>
     旧システムのデータベースはPostgreSQLによる関係データベースエンジンで構築され,特に時間別の浸水深のデータについては数兆レコードに及ぶ巨大なデータベースとなり,登録処理の大きな障害になっていた.今回新しく構築したシステムでは,地理院地図等で利用されている,標高タイルフォーマットの手法(西岡・長津,2015)を応用した.具体的には,基準地域メッシュで管理されている浸水想定区域データを,3次メッシュ区画(1辺約1km)毎に浸水深データをRGB値として格納する方法を採用した新型データベース(以下「画像型データベース」という.)を導入した.RGB各値から浸水深xを求める計算式は以下の通りであり,単位はmm(ミリメートル)である.
    x=216R+28G+B

    <データベース登録処理の分散化,複数河川同時処理>
     画像型データベースは,単純な画像ファイルのセットのため,旧システムで最も負荷が高かった部分について,別の複数台のワークステーションでファイル作成してからデータベースサーバにコピーするだけで済むようになった.そのため,処理の分散化や複数河川を同時に処理することが可能になった.

    5 結果
     今回のシステム改良をすることで,登録に数ヶ月かかると思われていた大規模河川を1週間程度で登録することが可能となり,また同時に複数の河川も処理可能なため,全体として登録時間を大幅に短縮することができた.
     これらの取組を実施することで,平成30年7月4日までに国直轄河川109水系445河川全てを登録・公開することができた.今後は,都道府県管理河川等の登録を実施するなど洪水浸水リスク情報を拡充し,さらなる水防力の向上に貢献していきたい.
  • -陸軍士官学校の『地形學教程』への影響ー
    細井 將右
    セッションID: 812
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    明治16年陸地測量部による地形図作成はドイツ式に変わったが、工兵測量は引き続きフランス式で、参謀本部を含む陸軍の指導者を養成する陸軍士官学校の地図測量教科書『地形學教程』はどのように対応しているか。残されている明治20,30年代ほかの『地形學教程』に明治初期導入のフランス地図測量技術の影響を見ようとするものである。明治28年第三版は巻之一、二と付録の3冊から成る。大まかに見て、巻之一は地形図の基礎知識と利用法、巻之二は自ら行う地図測量法で、こちらは明治9年のクレットマン『地理図学教程講本』の後継といえよう。明治31年に改正、活版洋装本に。明治34年改訂版は巻之一、二と附録の3冊から成る。巻之一、二の内容構成は従来のものをほぼ踏襲、巻之二には、「アリダード二ベラトリース」(測斜照準儀)のようなもののほかフランス語器具名が多数見られるが、その後、器具の選別、国語化が進み、大正時代には、例えば上記の器具は測斜儀となる。昭和15年改訂版でも巻一、二の上記枠組みはほぼ保たれている。
  • 辰己 佳寿子, ダス アルン, デルダール アミン, 木本 浩一
    セッションID: 414
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.問題の所在

    1970年代以降、国立公園等による保護区の指定は、地球環境問題解決の「よき」手段として世界各地に普及・滲透していった。保護区の設置に伴い、土地獲得競争、移住・再定住政策、ヒトと動物とのコンフリクト、観光開発などの諸問題が深刻化している。保護区という境界線がトップダウンで引かれ、住民の生活圏が保護局に管理されることにより、住民の生活様式の変化や地域社会の変容が起こることも少なくない。持続可能性を考慮すると、保護区として「持続可能な」地域ではあっても、地域の住民による「維持可能な」地域になり得るとは限らない。住民による地域ガバナンスのあり方が問われている。

    2.本研究の目的

    本研究では、保護区の設置に伴う変化のひとつとして、観光開発に焦点を当てて、上記課題に接近していきたい。農村開発のひとつとして観光開発が「よき」手段としてとりあげられることが多いが、観光開発には光と影の両側面がある。どのような形態でどのような観光客を受け入れるのか、地域におけるガバナンスが問われている。本研究では、保護区指定による観光開発によって、住民の生活様式や地域社会がどのように変化したのか、管理局や旅行会社との良好な関係構築しながら、どのような地域ガバナンスが行われているのか、ラダックの国立公園のコミュニティの取組を事例としてとりあげる。

    3. インド北部ラダックのコミュニティの取組

    インドのジャンムー・カシミール州東部、チベット文化圏に属するラダックの山岳地帯にあるHemis国立公園は、1981年に保護地区に指定された。Hemis国立公園内の集落は、戸数は1~15と極端に少なく、地縁・血縁関係で結ばれる傾向の強いコミュニティである。いずれも、限られた土地を有効に利活用し、自給自足の生活をしている。山岳観光のトレッキングルートとして、観光客が訪問することもある。その際には、地域住民は、観光客をホームステイという形態で受け入れている。旅行会社は、彼らの取組に対して理解を示し、ひとつの家庭に観光客が集中しないように、ローテーションで各家庭に案内している。

    この取組は、地域住民のガバナンスのなかから自主的に提案された方法であり、野生動物保護局は後方支援の体制をとっている。コミュニティ内では、従来から生業をベースとした互助関係が確立しており、観光開発に対する対応、保護局や旅行会社との対外的な交渉など、新たな対応においても、コミュニティに備わってきた地域ガバナンスが効力を発揮している。この宿泊業は、生業に付加する位置づけとして部分的に営んでいるだけで、観光業への転換ではない。

    これらの取組は、地域ガバナンスを通して、コミュニティに新たな機能が付加されたとも捉えられ、観光客の質の担保、客数の制限、観光による無秩序な活動を統制、環境保護などの効果がある。コミュニティの自治と地方政府、民間との連携体制が構築されている事例としては注目に値する。

    4.住民による「維持可能な」地域社会の実現にむけて

    以上、保護区設置を受け入れたうえで、関連団体や機関とどう折り合いをつけて、住民による自主的な取組が実現する地域ガバナンスが重要であることを示した。観光開発が、インド国内、日本国内だけでなく、多くの地域の開発手段として採用されているなかで、観光資源の有効活用と同時に無秩序な観光開発を規制するこのような取組は、地域の住民による「維持可能な」地域社会の実現にむけた観光開発として示唆的である。

    [参考文献]

    宮本憲一 2006. 『維持可能な社会に向かって』岩波書店.

    ノーバーグ=ホッジ,H.著, 「懐かしい未来」翻訳委員会訳 2017.『懐かしい未来-ラダックから学ぶ』懐かしい未来の本.
  • 瀬戸 芳一, 福嶋 アダム, 高橋 日出男
    セッションID: P210
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1. はじめに
     一般風の弱い晴天日において,沿岸では熱的な要因によって吹く海陸風が出現する.夏季の午後における関東平野内陸部の高温の要因として,都市域の風下側において冷気移流を伴う海風の侵入が遅いことが指摘されるが,夏季の局地風系の日変化について,長期間の観測データを用いてその分布を詳細に解析した例は少ない.本研究では,関東南部における高密度な気象観測データを用いて,日ごとの風向の定常性を示す定常度の日変化に着目し,局地風系の交替時刻の観点から,その地域分布について検討を行った.

    2. 資料と方法
     気象庁アメダスに加えて,自治体の大気汚染常時監視測定局(一般局)における風向風速の毎時値を用いた.対象期間は1990年から2014年まで(25年間)の7,8月とし,大幅な移転がなく欠測が5年以下の地点を使用した.定常度は,風速のベクトル平均とスカラー平均との比で表され,海風や陸風が卓越する時間帯は日ごとの風向の変動が小さいことから定常度が大きくなると考えられる.晴天で一般場の気圧傾度が弱く,日中と夜間との風向変化が明瞭な海陸風日(147日)を抽出し,毎時の定常度を求めた.

    3. 定常度の日変化
     海陸風日における定常度と風向風速の日変化を検討した.さいたまにおいては,10時と24時に定常度の極小が認められるとともに風向が大きく変化しており,この時刻の前後が海風と陸風との交替すなわち凪の時間帯に相当すると考えられる.一方で,東京湾岸の江戸川臨海では10時から22時にかけて,1に近い大きな定常度を示す.風向は1日を通して南寄りであり陸風への交替は認められないが,22時から翌7時の極小に向けて定常度は減少し,日によっては陸風への交替が起こっていると考えられる.この場合,陸風が最も卓越するのが極小時刻であり,陸風から海風への交替時刻はこれより後と考えるのが自然である.これらの検討の結果から,海風への交替は,3時~12時の定常度の最小値が0.50以下であり,最小値以降17時までに0.60に達した時刻,陸風への交替は,18時~翌5時の最小値が0.45以下であり,最小値以降翌6時までに0.45または最小値+0.15のいずれか小さいほうに達した時刻とそれぞれ定義し,交替時刻を求めた.

    4. 交替時刻の地域分布
     海風への交替時刻は沿岸部で早く,内陸へ向かって遅くなり,海風前線に対応する海岸線に平行した等時刻線の進行が認められた.一方,山地に近い地域でも交替が早く,これは谷風への交替に対応すると考えられる.東京湾,相模湾からの各海風域および内陸の谷風域から遠いさいたま市の北側付近で交替時刻は最も遅く,この時刻以降には全般に南寄りの広域海風に覆われる.陸風への交替は海風よりも等時刻線の進行が遅く,翌5時においても東京都区部の大部分では陸風への交替がみられなかった.沿岸に近い地域ほど,1日を通して南寄りの風が卓越し陸風が到達しない日が多く,特に東京湾沿岸では海陸風日のうちの60%以上を占めた.沿岸まで陸風が到達した日(58日)について再び交替時刻を求めたところ,陸風への交替は多くの地域で海陸風日よりも早まり,翌5時には東京都区部のほぼ全域において陸風への交替が認められた.今後,経年変化や高温域との対応についても検討したい.
  • 小島 泰雄
    セッションID: S606
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.中国の辛い地域
     四川料理が辛いことを説明するのは、夏が暑いことを論じるようなある種の徒労を感じる作業である。「麻辣」が正しい辛さの表現である、四川料理にも辛くない料理がある、湖南人の方が「怕不辣」であるといったことも、耳を傾けるべき指摘であるが、ここでは中国のどこが辛い料理を好むのかについてなされた興味深い報告を紹介したい。藍勇(2001)は、シリーズとして刊行された中国12省市の料理書の調味記載を定量的に分析(「辣度」)し、辛さの地域分化を提示している(下表)。この表は、中国食文化の多様な地域的展開において、一つの特色ある地域文化として四川料理を捉えるべきことを示唆している。
    2.とうがらしの伝播
     辛い四川料理はそれほど長い歴史をもつものではない。その辛さにはとうがらしが主たる貢献をなしていることから、新大陸原産のそれが四川に到達して以降であることは容易に思い至るだろう。
     この方面の研究も近年、詳細さを深めている。丁暁蕾・胡乂尹(2015)は、明清期の地方誌に記載されたとうがらし関連の記載を全国にわたって丹念にたどり、とうがらしの中国国内での伝播を復原している。初期のとうがらしの呼称である「番椒」は、明朝末期から18世紀までは主に東南沿海地区と黄河中下流という離れた2つの地域で確認され、19世紀前半に東南沿海から北上および内陸に展開している。四川の方志にとうがらしの記載が見られるのは、19世紀になってからとする。方志が数十年間隔で編纂されたことを加味するならば、四川でのとうがらしの普及が18世紀に遡る可能性はあるが、それにしても清朝中期のことである。
     新大陸原産の作物が、現代中国の農業と食において欠くべからざる存在となっていることは、とうもろこしやさつまいも、じゃがいもといった主食となる作物、あるいはトマト、なす、かぼちゃといった野菜の名を挙げるだけで十分に理解されよう。これらの入っていない中国料理はなんとみすぼらしいことだろうか。こうした新大陸原産作物の伝播は、時間と空間において決して単純なものではなく、繰り返し様々なルートでもたらされたものとされる(李昕昇・王思明2016)。
    3.自然地理と歴史地理
     熱帯で栽培される胡椒と異なり、とうがらしは温帯でも栽培できる香辛料であり、新大陸から運び出された種子は持ち込まれた世界各地に定着していった。食文化の地域性は、その素材となる動植物の分布・農牧業を媒介項として、気候や地形といった自然地理と結びつけられて解釈されることが一般的である。中国は季節風により夏季温暖多雨であり、とうがらしは農耕地域であればほとんどの地域で栽培しうる。したがって中国における辛さを好む地域性は異なる理路で説明されることが求められることとなる。
     とうがらしは、寒冷や湿潤に伴う身体的反応と結びつけられてきたが、類似の気候条件で辛さを好まない地域を容易に提示できることから明らかなように、環境決定論的な単純な推論は説得力を持ち得ない。そこで考慮すべきなのが、社会経済的な、あるいは文化的な、言い換えれば歴史地理的な推論である。
     現在、中国では各地で四川料理が食べられているが、共通するのがその庶民性である。とうがらしの入った料理は素材の善し悪しをそれほど問わない。とうがらしが定着していった清朝中期、四川はまさにフロンティアであった。多くの移民を受け入れ、人口過剰な情況になった四川には普遍的な貧しさがあり、「開胃」(食欲増進)に顕著な効果のある(山本紀夫2016)とうがらしは、地域住民に歓迎されたと考えられる。
     ただし前近代の農村の不安定性は、四川に特権的な貧しさを認めないであろう。そこで食文化の連続性が浮かび上がる。中国在来の香辛料である花椒が陝西から四川にかけて多く使われていたとする指摘は、さらに深く考究してゆくに値するであろう。
     モンスーンアジアに視野を拡げると、胡椒産地であるインドが熱烈なとうがらし受容地域であるのに対して、食文化に関して多様な地域性をもつ中国がとうがらしの受容において選択的であることは、まさに食文化の連続性を物語る対照性と言えるのではないであろうか。
  • 桐村 喬
    セッションID: 216
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    I 研究の背景・目的
     日本における都市の居住地域構造に関する研究は,おおむね1970年代以降を対象としてきており,多くの研究蓄積がある.一方,それ以前の時代に関しては,分析に必要となる小地域統計資料が利用できる都市,年次に限って分析が行われてきた(上野1981).しかし,1970年よりも前の時期を含めて分析することで,新たな疑問点も指摘されている.梶田(2018)は,東京において1970年代後半以降維持されてきたセクター構造は,1965年時点ではまだ明瞭な形で出現していなかったとし,戦後から1960年代前半の分析を課題として示している.これに加えて,空襲による断絶があるとはいえ,戦前の居住地域構造からの変化についても検討する必要があると考えられる.
     居住地域構造の長期的な変化を分析するためには,様々な居住者特性が把握できる過去の小地域統計かそれに代わる資料が継続的に利用できる必要がある.しかし,職業や年齢など,居住地域構造を分析するのに必要となる属性が把握できる資料は限られており,資料が得られても特定の都市のみの分析に止まってしまうこともある.本研究では,戦前における特定の職業についてのみ把握できるが,都市間比較が可能である資料として電話帳を用い,1935年の東京市における会社員の居住地分布を示して,戦後のホワイトカラーの分布と比較する.この時期には,大阪市や京都市などでも職業が記載された電話帳が発行されており,数年程度のずれが生じるものの,都市間比較も可能である.
    II 1935年発行の『職業別電話名簿』
     本研究で利用するのは,東京逓信局に認可され,日本商工通信社が編集・発行した『職業別電話名簿』のうちの第25版(1935年発行)である.掲載区域は東京府全域であり,1935年7月時点の調査に基づく電話番号と使用者氏名,住所が職業ごとに掲載されている.このうち,「会社重役及会社員(商店員)」(以下では会社員と総称する)欄に掲載され,東京市内の住所となっているものを分析対象にする.
     東京市における1935年の電話加入者数は124,391人であり,世帯数は1,191,939世帯であることから,世帯数基準の加入率は10.4%となる.収入などの点から,当時の会社員の電話加入率は他の職業よりも高いと考えられるが,会社員のなかでの加入率の地域差はそれほど大きくはないと仮定して,東京市内における会社員の分布パターンの検討を行う.
    III 町丁目別にみた会社員の居住地
     会社員の電話加入者数を町丁目単位で集計し,国勢調査による1935年時点の普通世帯100世帯あたりの加入者数を求めた(図1).東京市内のうちで多いのは,現在のJR山手線の内側の地域と南西セクターであり,西北部や東部にはほとんど分布していない.個別の町丁目では,駒込西片町,青山南町6丁目,白金三光町,高輪南町,五反田5丁目,田園調布3丁目などで多く,「山の手」や郊外の住宅地に多いことが確認できる.
     1965年の事務関係従事者数の割合の分布と,1935年の会社員の分布とを比較すると,田園調布などの周辺地域にも割合の高い地域が広がるとともに,現在のJR山手線の範囲内と郊外住宅地との間を埋めるように,割合の高い地域が広がってきている.
    IV まとめ
     本発表では,1935年の電話帳を利用し,東京市における会社員の居住地分布を示した.1935年の会社員の居住地は,山手線内側の地域と田園調布などの郊外住宅地などに集中する傾向が認められたが,1965年ほど西部に面的かつ広域的に分布するものではなかった.この間の変化の検討については十分な資料が得られていないため,ここでは十分に考察できない.しかし,大阪市や京都市においても1930年代の電話帳が利用できることから,今後は他都市との比較を通じて,その要因を吟味していきたい.
    参考文献
    梶田 真 2018. 東京特別区居住者の社会-空間パターン変化(1965~1980). 地学雑誌127(1): 53-72.
    上野健一 1981. 大正中期における旧東京市の居住地域構造-居住人口の社会経済的特性に関する因子生態学研究-. 人文地理33(5): 385-404.

    本研究は,JSPS科研費16H01965の助成を受けたものである.
  • 西 暁史, 今井 優真, 日下 博幸
    セッションID: 517
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    熱的局地循環は,海陸分布・土地利用分布・山岳を起因とする気温差(気圧差)によって発生する循環である.関東平野では,海風と谷風が発生・発達した後に,それらが結合し広域海風が発生することがよく知られている.
     一方で,富山平野は関東平野と比べて非常に狭く,海・平野・山岳が近接している.そのため,関東平野のように個々の局地循環が個別に発生し,時間経過とともに結合するのではなく,山谷風と海陸風が結合した状態で発生する可能性がある.本研究は富山平野の山風と陸風(もしくは谷風・海風)それぞれの発生時刻に着目し,それぞれが個々に発生・発達し結合するのか,それとも結合した状態で発生・発達するのかを明らかにする.
     本研究は,富山平野の海陸風・山谷風に関する事例解析を行った.まず,AMeDASデータ,大沢野消防署(海岸から19㎞,山から4㎞の位置)の気象観測データを用いて,山風発生時の富山平野内の地上風分布を得た.更に,ドップラーライダーを用いた独自観測データから,山風,谷風の最下層の鉛直構造とその時間変化を観測した.ドップラーライダーは大沢野消防署の屋上に設置し,高度260 mまで,空間解像度40 m,10分ごとに観測した.
     本研究は,2016年3月25日夜から3月26日昼にかけて発生した山谷風・海陸風循環を解析対象とする.3月25日の午前中は,富山平野で降水が発生していたが,午後にはやみ,26日の早朝には晴れていた.この時,移動性高気圧が日本を覆っていた.
     観測データから,3月25日は17時まで,高度40m以上において風速4 m s-1程度の北風が卓越していたことが分かった.日中,降水が発生していたことから,この北風は総観規模の気圧傾度により発生したと考えられる.この北風は17時以降に弱くなり,20時に高度40 mで南寄りの風,すなわち山風が発生し,翌朝まで吹き続けた.一方で,高度160 mでは,21時から翌日(26日)1時の間のみ西風が吹き,それ以降は南風となった.これらの結果から,山風の厚さは時間経過とともに増大し,最大で160m以上あったことが推察される.山風は6時ごろに最も強くなり(高度40 mで7 m s-1程度),その後,8時に急速に衰退し,9時30分には北寄りの谷風が吹き始めた.
     富山(海岸線から約5㎞,山から13㎞の位置)と秋ケ島(海岸線から約11㎞,山から約7㎞の位置)のAMeDASデータを用いて,南寄りの風(すなわち,陸風か山風),もしくは北寄りの風(すなわち,海風か谷風)が発生した時刻を調査した.その結果,富山では25日21時に南寄りの風が発生しことが分かった.ただ,この時刻に大沢野消防署で観測された山風は非常に弱く,山風が富山に到達するために,約3時間必要である.したがって,この富山の南風は陸風であったと考えられる.一方で,富山で北寄りの風は26日10時に発生し,秋ケ島では26日11時ごろに発生した.秋ケ島における北寄りの風の発生時刻が,富山と大沢野におけるそれと比べて遅いため,海風と谷風は,発生段階において分離していたと言える.
     以上の結果は,たとえ非常に狭い富山平野であっても,海陸風と山谷風は,発生段階では個別に発生し,結合していないことを意味している.
  • 宮古市重茂地区・田老地区を事例に
    菅澤 雄大, 佐島 健
    セッションID: 711
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は,東日本大震災の被害にあった岩手県の三陸沿岸に位置する漁業協同組合(以下,漁協とよぶ)および漁業集落において,震災以降のワカメ養殖業の復旧・復興の推移、地域的差異とその要因を明らかにするものである.本発表では宮古市の重茂地区と田老地区のワカメ養殖業を事例とする.この2地区は,宮古市という同じ市の中で隣接し,岩手県の中でもワカメ養殖業の盛んな地区として知られている.その一方で,後に詳述するが,2地区の地形条件や宮古市までの交通条件,ワカメの加工処理の過程に差異が見られる.さらには,東日本大震災の未曾有の被害からワカメ養殖業を復旧・復興させるにあたり,住民同士のつながりや漁協のリーダーシップも影響していると思われる.以上のことから,重茂地区と田老地区においてワカメ養殖業の復旧・復興の状況とその地域的差異を数値データから明らかにし,2地区の違いを生じさせた要因を考察する.
     岩手県漁業協同組合連合会の共販実績の資料によると,重茂地区と田老地区の震災後のワカメの売り上げは震災前に比べるとおよそ7割程度に縮小している.ただ,売り上げは震災直後から2017年にかけて徐々に増加する傾向が見られることから,今後も増えることが見込まれる.
     ワカメ養殖漁家の年齢構成は,重茂地区で震災以降に若干高齢化したが,田老地区では特にここ近年,若年化した.また,養殖漁家が有する養殖施設の平均行使数(養殖いかだに設置するロープの平均の長さ)は重茂地区で若干の増加,田老地区で減少した.ただし,重茂地区においても,養殖施設を設置・管理する養殖組合によっては平均行使数が減少する区域も存在する.また,ワカメの加工処理において,重茂地区では自宅でボイル・塩蔵する養殖漁家が多くを占めるのに対し,田老地区ではほとんどの養殖漁家が漁協の工場で加工している.重茂地区でも一部の養殖業者が漁協の工場で加工しているが,この違いは事業の継続に影響している.
     震災による養殖施設の被害および養殖漁家の人的被害により2地区ともに養殖施設が減少している.そのため,2地区では震災以降に休場の漁場ができ,漁場が再編されている.また,海岸付近の自宅は津波の被害により,高台へ移転している.重茂地区では、重茂里地区など一部にとどまるが、一方の田老地区では山王団地への大規模な高台移転が行われている.
     重茂地区では65歳前後で養殖業をその子に継がせることが多くなっている.また,養殖業をやめた人は漁業関係の仕事に転業することが多い.田老地区では,30歳代の新規参入者が見られる.転業した場合は漁業以外の職種に就く場合が見られた.
  • 佐々木 夏来, 須貝 俊彦, 内山 庄一郎, クンガア メルゲン
    セッションID: 611
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    奥羽山脈の第四紀火山地域では,火山原面上と地すべり地に主に湿地が分布し,火山原面上では高標高域の積雪深の大きい場所のほか,積雪深が小さいにも関わらず溶岩台地末端部の平坦地にも湿地が立地する場合がある.これらは積雪もしくは地下水といった涵養源の違いを示唆し,火山原面上の湿地であっても,気候変動に対する応答性が異なると推測されるが,湿地の成立環境について詳細は未解明である.本研究では,八幡平火山群の安比高原奥の牧場に分布する湿地群を対象として,データロガーおよび定点カメラで積雪観測をするとともに,UAVで撮影した空中写真から作成したDSMおよびオルソモザイク写真を判読して,少雪な火山原面上において湿地が成立しやすい地形環境を明らかにすることを目的とする.観測の結果,2015年は11月25日から積雪開始し,湿原内では2016年5月8日に融雪を完了した.オルソモザイク画像から湿地を判読した結果,調査対象範囲内に136の湿地を認定した.湿地は岩畑山南側の浅く緩やかな溝状凹地形内に帯状に分布し.斜面上部を河川が流れる西側で湿地面積が小さい傾向が認められた.個々の湿地は小規模凹地内に形成され,明瞭な水路ではないが網状の地下水ネットワークで湿地同士が接続されているような様子が観察された.多数の雪田が分布する八幡平稜線沿いで融雪時期が6月以降であることと比較すると,安比高原の融雪時期は早い.また,黒滝では火砕流堆積物を被覆する溶岩層が不透水層となって滝が流下する様子を観察した.したがって,奥の牧場では,周辺斜面からの浅層地下水が滞留し,凹地部分で地下水位が相対的に高くなるために湿地群が形成されていると考えられる.
  • 生井澤 幸子
    セッションID: 718
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    ドイツの2大軍港都市キールとヴィルヘルムスハーフェンは、いずれも19世紀に軍港が開設されて以来、現在に至るまで「都市と港」という観点から比較してみると異なる変容を遂げてきたのではないかと考えられる。2つの軍港都市の性格の違いとその差異を生み出した要因について考察した。
  • ネパールのカトマンズにみるヒンドゥー教の秋祭でのチャングラ山羊
    渡辺 和之
    セッションID: 818
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    ヒマラヤでは、山で生産される農牧林産物のうち、畜産物や林産物は比較的都市にまで流通する。特に畜産物の場合、祭礼による需要が交易を促進している側面が大きい。南アジアでは、しばしば宗教的差異に応じて異教徒間で国境を越えた家畜の交易が見られる。このような家畜の交易のことをヒマラヤの家畜回廊と名付け、調査をおこなっている。
     ダサインは、ヒンドゥー教の秋の大祭である。この祭りでは、第9日目に水牛、山羊、羊などの家畜の供犠がおこなわれ、10日目に祝福のティカを受けるため、親族が相互訪問する時に、その肉を食事としてふるまう。カトマンズ盆地では、ダサイン期間中、チベットからチャングラという山羊が国境を越えてやって来る。本研究は、このチャングラ羊がどのような需要のもとで、どこから流通するのか明らかにすることを目的に、2017年9月に調査をおこなった。
     まず、仮説として、チャングラは不足する山羊の供給を補うためにこの時期のみチベットからもたらされると考えた。ダサインはインドではダシェーラやドゥルガプジャと呼ばれており、全インドのヒンドゥー教徒の間で祝われる。このため、首都カトマンズで供犠獣の需要が増すこの時期は、日常の食肉市場の供給地である国内産地や北インド都市からの需要では足らず、仏教徒が多くダサインを祝わないチベットからチベット系の山羊チャングラがもたらされるのであろうとの仮説をたてた。だが、実際に調査してみると、少なくとも現在に関する限り、そうではないことがわかった。
     たしかにかつては、「チャクグラ山羊はあまりうまいものではない」という認識がカトマンズではあった。チャングラは普通の山羊よりも脂身が少ないため、かつてはこの点で評価が悪かった。だが、現在では「健康に良い」と見直されている。「ヒマラヤの冬虫夏草を食べて育つのだから身体に悪いはずはない」とのことである。
     実際、値段も普通の山羊よりチャングラ山羊ははるかに高い。チャングラ山羊の場合、切り売りはなく、丸ごと1頭の購入となる。しかも、ダサインの期間前後しか市場にやってこない。いわば季節限定の縁起物である。
     流通経路としては、現在カトマンズに来るチャングラ山羊のほぼすべてがすべてムスタン経由である。その数は、カトマンズに2500頭位と言う。この数はダサイン期間中にカトマンズの中央家畜市場で取引される山羊のごく一部にしか過ぎない。普通の山羊の半数は国内産で残りはインドからの輸入である。
     現在、カトマンズでダサインを祝う人々のみなが山羊を買うわけではない。伝統的にも、家畜の供犠をおこなわず、もっぱら親族を訪問した時にご馳走になるだけの人もいた。くわえて、今日では、村から持ってきた肉でダサインを祝う人もいれば、肉屋で切り身を買って供犠をしない人もいる。供犠も肉屋でお祈りなしで済ませ、解体も肉屋にまかせることもある。
     こうしたなかで、チャングラ山羊は近年では限られた熱心な人々を対象に、もっぱら季節限定の高価な健康食材となっていることが調査の結果わかった。
  • 池田 真利子
    セッションID: S503
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    地理学内外において議論を巻き起こしたフロリダ, R.の”The Rise of Creative Class (2002)” が発表されて以来,創造性Creativityや創造都市Creative City,創造産業Creative Industryは鍵概念となり,多くの関連論文が執筆された.この「創造都市の時代」は,金融経済に牽引される「グローバル都市の時代」に代わるものとして,また,多様性や社会的包摂性において,その役割が大いに期待された(佐々木 2017).とりわけ,基幹産業の衰退に直面していたEU域内では,創造産業は代替産業として期待され,創造性は2000年代に都市政策や再開発の概念として積極的に取り込まれていった(池田 2016).他方で近年,新しい潮流がグローバル都市において生じつつある.それが,”Rise of the Startup City”である(Florida and Mellander 2016).同論文によると,スタートアップ企業は都市への立地を指向するが,それらは主にシリコンヴァレーやボストンのRoute128沿い,シアトル,オースティン等の”nerdistan”と称される郊外,あるいはエッジシティであるとされてきた.しかし近年,こうしたハイテク産業の一部は,サンフランシスコ・ベイエリアやボストン,ニューヨークの都心部「都心回帰(back to the city movement)」の傾向にあるという.この都心回帰の要因として,同論文は,都市中心部に①才能(才能のある人材の都市中心部の居住と②アフォーダブルかつフレキシブルな空間(古い建造物等)があることを挙げる(Florida and Mellander 2016).同論文は,中心と郊外の二項対立が顕著であるアメリカの都市構造を前提とした研究であるが,欧州やアジアの諸都市ではどうであろうか.また,企業・人材移動を含むスタートアップ都市間の関係性はいかなるものであろうか.そもそも,IT産業がネット環境を前提とするにも関わらず,都市を指向する理由は何であろうか.ベルリンは,グローバルスタートアップエコシステムの上位9位にランクインする程,スタートアップブームの中にある(HUFFPOST,2015年7月30日).その萌芽期を形成したSoundCloudやRocket Internetは2007年に設立され,以降スタートアップ企業が設立され,その数はドイツで最多である.これらの企業は,ベルリンにおいても都市中枢のインナーシティに位置し,雇用・労働形態においてフレキシブルな労働力を多数擁する.前掲の論文にならい,スタートアップ企業の集積要因を考えた場合,安い物価・居住費に起因する人材(アーティストや高学歴の若者)の豊富さ,英語への適応力の高さ,ナイトライフの充実,自然の豊富さ,街としての自由度等がある(聞取り調査に基づく).それらの一部は,ベルリンの分断の歴史に端緒をなす.多くの人間が都市中心部の居住(生活)を嗜好する以上,ジェントリフィケーションは不可避であると思われるが,ベルリンの住宅市場の特異性を考えると,街区レベルでいかにジェントリフィケーションが喫緊の課題となってきたかが理解できる.他方で,ジェントリフィケーションは過程であることに最大の意味があり,そこに地理学的視点の強みや独自性がある(池田 2018).ジェントリフィケーションは,「居住の問題」を超えて,街区や地区全体,あるいは都市全体の特徴や課題を浮き彫りにする.世界やEUにおけるベルリンの立ち位置の変化に注意を払いつつも,街区レベルでの些細な変化を見落とさず,定点的観測を継続し,今後の変化を見据えることが重要である.
  • 埼玉県と広島県の集落の比較
    鈴木 重雄
    セッションID: 617
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    はじめに

    1960年代以降,農村の資源利用や社会構造の変化により,その周囲の植生配置の変化が生じている.この植生の時系列変化の地域間比較を行うためには,その基となる植生図の作成基準や時系列比較方法の検討が必要となる.本研究では,埼玉県と広島県の集落に隣接する範囲の植生変化を検討する方法を示し,2集落の植生変化の共通点と相違点を明らかにした.



    調査地域と方法

    調査地域は,埼玉県比企郡滑川町山田集落の336 haと広島県庄原市東城町宇山中集落の464 haを対象とした.

    山田集落は,標高29~89 m程の丘陵に位置し,最寄りのアメダス観測点,熊谷(標高30 m)の年平均気温は15.0℃,年降水量は1286.3 mmである.滑川町全体では人口は増加傾向であるが,山田集落は2000年の763人から2015年には655人と減少している.

    宇山中集落は,標高460~630 m程の起伏のある石灰岩台地に位置し,最寄りのアメダス観測点,庄原(標高300 m)の年平均気温は12.4℃,年降水量は1467.0 mmである.調査地域を含む旧東城町では,1985年から2015年に人口が36.8%減少し,高齢化率は20.4%から44.4%に増大している.

    調査は,空中写真判読により両集落の相観植生図を作成し,GIS(Esri社製Arc GIS 10)上でオーバーレイ解析を行った.この際,分類項目は両集落で統一し,比較を容易にしている.山田集落では1947年(米軍撮影),1961年,1980年,2009年(国土地理院撮影)の空中写真を用い,宇山中集落では,1964年,1988年,2004年の空中写真(林野庁撮影)の空中写真を用いた.



    結果および考察

    1)山田集落の植生変化

    山田集落では,1947年には桑畑が84.7 haで最大の面積であり,アカマツ低木林が62.1 haとこれに次いでいた.1961年にはそれぞれ72.9 haと82.8 haとなったものの,この期間に他の分類の植生も含め面積合計では大きな変化はなかった.しかし,面積の変動は大きく,アカマツ林,草地,落葉広葉樹低木林で相互に変化していた.いわば動的平衡状態にあったとみなせる.1980年にはアカマツ高木林が142.0 haと最大になり,各植生からアカマツ高木林への変化が大きかった.一方で,アカマツ低木林,草地は大きく減少した.桑畑から林地や草地への変化も1961年から1980年の間に多く見られた.2009年には落葉広葉樹高木林が141.5 haとなり最大の面積となった.この過半はアカマツ高木林からの遷移であり,104.7 haが変化していた.

    2)宇山中集落の植生変化

    1964年にはアカマツ高木林が167.0 haと最大であったが,1988年にはスギ・ヒノキ高木林が134.1 haとなり1位の植生が入れ替わった.変化面積を見ても,1964~1988年にはスギ・ヒノキの植林地が増加しているのに加えて,一部のスギ・ヒノキ高木林は伐採もされていたことが分かった.2004年もスギ・ヒノキ高木林は,223.2 haで最大であった.しかし,1988年から2004年にはスギ・ヒノキ低木林からの成長が85.8 haであり,新たな植林は少なくなった.スギ・ヒノキ林以外では,落葉広葉樹高木林が50.5 haとなり,アカマツ高木林を上回り,二次林の遷移が進んだことがうかがえた.

    3)2集落の植生の時系列変化

    山田集落はより起伏の少ない丘陵地に位置し,1980年代まで養蚕を中心とする農業が行われていた一方,宇山中集落はこの期間にスギ・ヒノキの植林が進められていた.両地域とも1960年代まではアカマツを中心とする二次植生が林地を構成していたと考えられ,特に米軍写真を用いる事のできた山田集落では各植生の面積は動的平衡状態で維持されていたことが明らかになった.また,1980年代以降は,山田集落の桑畑の放棄,宇山中集落の植林という人為的な変化は小さくなり,植生の二次遷移や造林木の成長による変化に植生変化が限定されていた.
    (本研究はJSPS科研費 JP15K16286の助成を受けたものの一部である.)
  • 北海道小清水町のユリ生産の追跡調査をもとに
    両角 政彦
    セッションID: P114
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では,日本農業が求められている経営規模の拡大の下で,地域農業の構造変化のもつ意味の一側面を考察するため,大規模畑作地域における集約的作物の導入から転換までの過程とその要因を明らかにした。研究視点として,中規模経営体の動態を地域内外の状況変化のなかで捉え,産地アクターの事業展開におけるネットワークを重要視する。中規模経営体に着目する理由は,これらの経営体が一層の規模拡大を目指すのか,収益を限界まで切りつめ現状の経営に留まるのか,経営を転換するのか,離農し農地を手放すのか,といった経営選択が大規模経営体の成長と地域農業の将来に異なる状況をもたらすと考えられるからである。また,産地アクターの事業展開とそこに生じる問題と課題を一定の期間で捉えることによって,地域農業の今後の方向性を検討するための示唆を得られると考えたことによる。

    北海道斜里郡小清水町は,大消費地から遠隔地にあり,なおかつ耕作期間に制約のある道東の斜網地域に位置している。大規模畑作地域である同町は,1990年代に集約的農業の典型である花き(ユリ)生産が導入され拡大してきた特異な地域である。研究方法として,2000年にユリ生産を導入していた農家へヒアリング調査を実施し,2017年に追跡調査をおこなった。基幹作物の市場構造の変動と町農業の構造変化,中規模経営体の実態,集約的農業のもつ経済的効果と社会的意味に着目した。

    ユリ生産の導入は,1990年に町内の野菜流通業者が農家にユリの球根生産と切花生産を勧め,関連資材を供給してきたことにはじまる。2000年におけるユリ生産者(調査先14戸)の経営面積は,8.0~25.0haである。いずれも畑作3品目(テンサイ,バレイショ,小麦)を生産し,他に野菜,ユリ,畜産を組み合わせた複合経営である。ユリ生産の10a当たり所得額を畑作物と比較すると,球根生産は3~7倍,切花生産は4~13倍を当時見込むことができた。ユリ生産の数年先の方針として,ほとんどの農家が生産規模の拡大または維持の意向を示していた。ユリ切花は導入当初と比べて販売価格が下落したとはいえ,2000年前後には限られた経営面積で高収益を得られる可能性があるもっとも集約的な作物として期待をかけられていた。

    2017年の経営状況は,後継者へ経営を移譲し畑作を拡大した農家(5戸)と,和牛繁殖の拡大または畑作から転換した農家(4戸),そして離農または離農予定の農家(5戸)の三つに大別される。ユリ生産は球根生産を維持する1戸を除き中止された。2017年時点で離農していた4戸を除くと,2010年までに5戸が,2017年までに4戸がそれぞれユリ生産を中止した。ユリ生産の中止時期は,経営を大幅に転換した時期とおおよそ一致する。かつて中規模経営体が複合経営の一部門として期待をかけたユリ切花の生産と販売からは全面的に撤退することになった。

    集約的作物ユリの生産の維持・拡大の限界と撤退に至る一般要因は,経営的要因,組織的要因,地域内部要因とに分けられる。経営的要因は,連作による品質低下と市場価格の乱高下,球根コスト(小球養成,成球購入)の上昇,価格と作柄からみた畑作3品目の相対的な安定優位性等である。組織的要因は農家ごとの経営選択にともなう組織的活動の減退であり,地域内部要因は主に切花出荷期の臨時雇用の確保困難である。ユリ生産からの撤退には農家ごとの特殊要因も影響し,後継者の有無に応じた畑作の規模拡大の可能性と和牛繁殖への転換の可能性,経営難による離農などが関係している。ユリを導入した中規模経営体にとってユリ生産からの撤退は,経営選択と地域農業の特質を象徴する現象であったとみることができる。結果として,ユリ切花生産者は町内では皆無となり,ユリ球根生産者を数戸残すのみとなった。

    土地利用型農業を主とする地域において,中規模経営体にとっての所得維持手段であり継起的に要する副次的作物としての集約的作物がもつ意味が注目される。小清水町では,一部の中規模経営体が経営転換までの期間,ユリ生産を保持し家計を維持してきた点に経済的効果を認めることができる。また,流通業者との提携とこれを契機に農家の意識改革が生じ,再組織化を通じて自立的な取組みへもつながった。これら一連の取組みと並行するように,町内に観光ユリ園が開園し,現在でも斜網地域の観光の集客に寄与している。集約的作物ユリの導入から栽培知識と栽培技術の蓄積,農家らのネットワークによって築かれてきたユリ生産の四半世紀に及ぶ取組みの歴史は,町花を自生するユリとする小清水町に,地域の産業として一つの実質的な価値を付与し得た点に社会的意味を見出すことができる。
  • 小川 滋之
    セッションID: 618
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    スイゼンジナ(Gynura bicolor)とは タイからインドにかけての山岳地域が原産とされており,アジア各地域で食される葉菜である.日本では江戸時代中期に中国から伝来し,熊本県で栽培されたのが始まりとされている.熊本県の伝統野菜「くまもとふるさと野菜,水前寺菜」のほか,石川県金沢市の伝統野菜「加賀野菜,金時草」,沖縄県の伝統的農産物「島野菜,ハンダマ」としても有名である.近年,ポリフェノール成分が豊富に含まれ,健康的な野菜であるということが注目されている.安価に通年生産できる強みから,葉菜が品薄になる時期の出荷が期待されている.

    研究の背景と目的 これまでの研究(小川2018)では,日本国内における産地は宮城県山元町から南西諸島まで広く分布していること,伝統野菜としての自治体認定や特産化を目指している産地(京都府長岡京市など)があることなどが明らかにされた.しかし,伝来経路や産地間の交流については十分とはいえない.基本的な情報を明らかにしていくことが伝統野菜としての生産の維持や普及拡大につながるといえる.

    本報告では,日本にみられるスイゼンジナの伝播経路を明らかにすることを目的にした.スイゼンジナは個体変異が大きいものの,1属1品種であり明確に品種改良された事例はない.しかし,産地ごとに形態の違いがあることに着目して研究を進めた.

    材料および方法 国内にみられる16産地と対照として台湾1産地の計17産地を対象にした.生産される個体の起源や生産方法を,各産地において聞き取りした.これに加えて,千葉県の同一条件下で3年間生育させた各産地の個体を用いて形態比較を行った.

    伝播に関する各産地の情報 各地に古い地域名や栽培方法が記された文献,南西諸島の呉継志「質問本草」(1837)があることから,19世紀までには全国的に栽培が広がった.しかし生産が途絶えた地域も多く,現在に至る産地は石川県金沢市,熊本県,南西諸島(各島嶼)に限られた.これらの地域が元祖となり,昭和時代以降の産地となったとみられる.たとえば,熊本県御船町から京都府長岡京市,金沢市から愛知県豊橋市や群馬県藤岡市に伝えられた.また苗は挿し芽により生産されており,石川県金沢市内と熊本県内ではいくつかの生産元に特定できた.南西諸島内は,栽培に関する情報が乏しいことから不明であった.

    形態的な地理変異 産地ごとの葉の偏平率,鋸歯の深さ,厚み,羽毛の有無に着目した.日本にみられるスイゼンジナは,北限型(宮城県山元町など3産地),東西日本型(石川県金沢市,熊本県御船町など6産地),北中琉球型(屋久島,沖縄島など4産地),南琉球型(石垣島など3産地)に分類することができた.

    葉形態からは,金沢市と熊本県との違いはほとんど見られないものの,宮城県山元町などの北限型とは明確に異なった.北限型は,台湾型や南琉球型と形態的に近く,かつてこれらの地域から導入された可能性がある.南西諸島にみられる北中琉球型と南琉球型は,他産地とは違いが大きく,中国からの伝来経路そのものが異なる可能性が考えられた.



    〈引用文献〉
    小川滋之2018. 日本国内におけるスイゼンジナの産地分布と地域名,生産と流通の特徴.熱帯農業研究11,p15-20.
  • 土居 晴洋, 柴 彦威, 徐 培瑋
    セッションID: P109
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     人が死亡した後の弔いの在り方は,時代や地域の文化を反映して必ずしも一様ではない。しかし,世界の多くの地域で共通に,遺された者が故人を悼むために,一定の土地を使用する。そのため,葬送の在り方は,狭い範囲に人口が集中する都市地域では,衛生上の課題であるとともに,土地利用の課題でもある。改革開放後,急速に経済成長と人口増加が進む北京市において,筆者らは,「死後の土地利用」の持続可能性を確保するために,土葬から火葬への転換や郊外地域における数多くの公墓整備などの工夫を行ってきたことを報告した(土居・柴 2017)。
     本報告は,前稿で考察した,現代都市としての北京市の都市地域が形成される前,20世紀半ばの死後の土地利用」を巡る変化とその原動力を明らかにし,中国の都市地域における「死後の土地利用」に関する時代を超えた共通性や差違を考察したい。
     研究方法として,外邦図や文献資料の収集,現地での聞き取り調査を実施し,北京市における葬送に関わる政策の変化や,墓地や葬送関連施設の立地とその変化,またそのような変化の中で葬送に関わった主体の動きなどを考察した。
    2.20世紀前半の「死後の土地利用」
     漢民族は文化として土葬を採用していた。しかし,中国は他民族の支配を受けた時期があるため,漢民族の全てが土葬ではなく,火葬も並行して行われた。しかし,明代には火葬が原則として禁止され,近代期である20世紀初期に至る。
     一方で,漢民族の観念として,死者と生者は空間的に分離されるべきであるという死生観は,土地利用という点では大きな意味を持つ。また,風水思想は施設の配置や方向などに影響を与えてきた。死者の居住空間である「陰宅」の立地は,この風水思想における適地に求めることが望ましいとされ,皇帝の陵墓の立地などにその影響が見られる。
     外邦図や当時の市街図などをもとに,20世紀前半の北京市における墓地の分布図を作成した。これによれば,現在の第3環状路から第4環状路に墓地が多い。第2環状路はかつての内城と外城を取り壊して建設されたが,この城壁を取り囲むように,小規模な墓地が集積していた。これに対して,城壁内では,外城の南東隅に墓地が見られるが,その数は少ない。つまり,20世紀半ばまでは,城壁が死者と生者の空間を分ける障壁として機能していた。一般庶民は遠方に埋葬地を求めることができないために,多くの墓地は城壁近くに設けられたと考えられる。
     一方,郊外地域においては,市街地の北西方向,特に現在は観光地で有名な圓明園公園の周辺に多くの墓地が分布している。外邦図において,これらの墓地には宗族名が記載されているものが多いことから,これらの墓地は貴族や裕福な家庭が造営した墓地であることがわかる。なお,圓明園周辺などは,風水思想における適地とされる。
    3.20世紀半ば以降の「死後の土地利用」の変化
     新中国が成立した1949年以降の北京市では共産党政権のもとで,様々な改革が進められた。その一つとして葬送の在り方も改革が進められた。主な柱は,墓地の公的な管理,城内の墓地の城外への移設,火葬の推進である。政府は葬送空間の公的管理を行った。城内の寺院は葬儀を禁止することで,葬送と宗教が分離された。また,公墓への埋葬を含む葬送のプロセスを管理する政府機関の整備を行った。
     また,1949年の建国後,すぐに城内にあった墓地の城外への移設が開始された。つまり,市政府が城内にあった儀園などを城外に移設することを決定した。また,城壁の内外にあった寺院の墓地,会館の儀園,無縁墓地が衛生環境と景観を損ねており,都市建設の障害であると認識された。失業市民や軍属なども動員して,城外にあった儀園や儀地の移設も進められた。これら墓地の移設先は,この時までに設置された東西南北の郊外の公墓である。城内の墓地の城外への移転は全て1953年までに終了した。
    4.まとめ
     新中国が成立後に実施された,火葬の推進や城内の墓地の城外への移転,その後に行われた城外の家族墓地の撤去は,都市建設用地の確保へと繋がっていった。その結果,「死後の土地利用」は城壁から遠く離れた場祖に設けられることになった。また,寺院の葬送機能の停止は,共産党の思想的な基盤に基づくものではあったが,結果的に寺院のある場所と「死後の土地利用」が分離した。伝統的な死者と生者の空間的分離という価値観と共産党政権による国家建設という中国特有の要素が,20世紀半ばの北京市の「死後の土地利用」の再編の原動力になっていたと言える。
    【文献】土居晴洋・柴 彦威(2017):現代中国都市地域における土地利用の課題としての墓地.大分大学福祉科学論集,no.2, pp.23-35.
  • 江口 誠一
    セッションID: 619
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    タイ国内各地域の典型的な景観の一つである熱帯季節林に焦点をあて,現在落葉フタバガキ林が立地している地点の,表層を含めた堆積物中の植物珪酸体化石群を観察し,フタバガキ科とタケ亜科の層位変化から植生の形成過程を明らかにした.その結果,フタバガキ科は南部マレー半島の標高100m以下の比較的沿岸域に近い平地部で約9,300年前以降,東北部の標高200~300m台の内陸丘陵地で約5,000~4,500年前以降,北部の標高500m以上の山間部内平坦地で数1,000年前以降に産出し,その分布範囲は低緯度から高緯度,低地から高地へと広がっている様子が示唆された.一方,タケ亜科は東北部から北部の同層準より多数産出したが南部からは少数であった.よって,林床に温帯性のタケ亜科植物を伴う落葉フタバガキ林分布域の中心は東北部で,過去約5,000年間植生景観を維持しつつその後北部へ広がったが,南部では現在まで貧弱であったと考えられた.
  • -釜山大都市圏・梁山市を事例として-
    兼子 純, 山元 貴継, 橋本 暁子, 李 虎相, 山下 亜紀郎, 駒木 伸比古, 全 志英
    セッションID: P111
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    日韓両国とも,地方都市における中心商業地の衰退が社会問題化している。しかしながら,韓国の地方都市の中心商業地は,人口減少や住民高齢化のわりに空き店舗が目立たず,日本でいう「シャッター商店街」がみられにくい(山元,2018)。そこで本発表では,2016年と2018年に発表者らが行った土地利用実態調査の結果をデータベース化し,韓国地方都市の中心商業地における店舗構成の変化を明らかにすることを目的とする。

    調査対象地域として,韓国南部の慶尚南道梁山(ヤンサン)市の中心商業地(新旧市街地)を選定した(図1)。梁山市は同道の東南部に位置し,釜山広域市の北側,蔚山広域市の南西側に接している。高速道路で周辺都市と連結されており,さらに,釜山都市鉄道2号線によって,釜山市の中心部とも直接結ばれている新興都市である(2017年人口:324,204)。旧市街地は梁山川の左岸に位置し,南部市場が立地している。新市街地は旧市街地の南西約1km,2008年に開通した地下鉄梁山駅前に位置している。近年では,両市街地と梁山川を挟んで対岸に位置する甑山(チュンサン)駅前で,新たな商業開発が進行している。

     韓国では短期間で店舗が入れ替わることもあって,日本の住宅地図に相当するような,大縮尺かつ店舗名などが記載された地図が作成されることはまずない(橋本ほか,2018)。そのため発表者らは,韓国における中心商業地の構造変化を明らかにするための基礎資料の作成を念頭に置き,2016年3月に梁山市の新市街地と旧市街地において土地利用調査を実施し,そのGISデータベースを構築した。この時の結果をもとに,2018年3月に同じ範囲かつ同様の調査手法で再度土地利用調査を実施し,2年間で店舗が変化している箇所の業種を抽出した。今回の発表では,1階で店舗が変化している部分を分析対象とする。

     2016年の調査では,新旧市街地での商業機能の分担,つまり旧市街地では伝統的な商品や生鮮食料品店の集積,新市街地では若年層向けの物販サービス機能が卓越し,チェーン店(それらが展開する業種)の立地が確認された。そうした両市街地における2016年から2018年の2年間で店舗構成が変化した箇所を確認すると,旧市街地では530区画中129区画(24.3%),新市街地では485区画中132区画(27.2%)で店舗が入れ替わっていた。
     旧市街地において,在来市場を中心とする中心部よりも周辺部で空き店舗が目立つようになり,市街地の範囲が縮小している。新市街地では,店舗の入れ替わりが激しいことに加えて,店舗区画の分割や統合なども顕著である。現地での聞き取り調査によると,賃貸契約は2年が一般的であるが,契約更新時の賃料上昇や韓国特有の権利金の存在もあって,現在では新市街地から,新規に建設が進む甑山駅周辺に移転する店舗が増加しつつあるという。当日の発表では,変化箇所の業種や地域,区割りの特徴などから,梁山市全体の商業地の構造変化について報告する。
  • -長野県伊那市における開業者ネットワークを事例として-
    加藤 ゆかり, 小室 譲, 有村 友秀, 白 奕佳, 平内 雄真, 武 越, 堤 純
    セッションID: 714
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.研究背景と目的
    地方中心市街地では,店主の高齢化や後継者不在による求心力低下に伴い,その打開策として自治体主導の中心市街地活性化に向けた方策が講じられている。他方,近年の地方移住の背景には,充実した「移住・定住促進策」を背景に,進学や就業を機に大都市圏に流出したUターン者や多様な理由で移住するIターン者が存在する(作野,2016)。本報告では,こうした開業者による店舗開業や社会ネットワーク形成が商店街の新たな持続性となり得るのかを長野県伊那市中心市街地における事例から検討する。

    2. 結果と考察
    1) 新規開業者による店舗展開
    長野県伊那市は,行政主導による空き店舗活用促進や移住者に対する創業支援のための補助金交付事業が講じられている。その結果,中心市街地において新規店舗の開業が相次いだ(図1)。開業者は主に市内出身のUターンや大都市圏出身のIターンであり,移住前の就業経験などを通じて得られた経験や知見を基に,新たな業種・業態の店舗を展開している。

    2) 開業者ネットワークの形成
    前述の新規開業者の一部は,強力なリーダーシップの基,と中心市街地活性化に向けた自らの方策を基に,賛同する近隣店舗にに共有することで,中心市街地内において社会ネットワークを形成している。例えば,「ローカルベンチャーミーティング」では,創業塾の開催を通じて近隣地域内店舗の経営方策や新規店舗開業について支援している。また,「いなまち朝マルシェ」においては発案者の緻密な計画の下,近隣の開業者が自らの技術,経験を集約することで運営に携わり,近隣の地域内店舗が出店する新たな集客機会を創出している。これら2つの社会ネットワークが中心市街地の持続性に向けた,新たな基盤となっている。

    3) 持続性の考察
    前述の開業者ネットワーク成立の背景には,行政の創業支援体制や商工会主体の既存店舗間ネットワークが関連している。また,これらのネットワークへの関与は活動指針に賛同する近隣地域店舗住民により構成されるものの,中心市街地の持続性へ寄与していることが指摘できる。それらの個別の開業者ネットワークの事例については,当日報告する。

    文献 作野広和 2016.地方移住の広まりと地域対応――地方圏からみた「田園回帰」の捉え方.経済地理学年報62: 324-345.
  • 木谷 隆太郎
    セッションID: 716
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.はじめに

    地理学における基本的概念の1つに空間的機能分化がある.これを商業地研究に応用した事例として松澤(1986)は,東京の副都心レベルの商業地で空間的機能分化の実態を示した.こうした空間的機能分化は商圏の広い大規模商業地で起こるとされており,中小規模の商業地では研究がされてこなかった.また,1980年代以降の商業地研究では,若者の集まる新たな盛り場としての「若者の街」研究が行われてきたものの,商店主や来街者への聞き取り,メディア分析等を中心として行われており,個々の店舗の具体的な動向から,どのような過程で若者の街が形成されたのかについては明らかにされていない。

    そこで本研究では,高円寺駅前周辺商店街を対象とし,商業地の発達と内部構造の変化,それに伴って生じた空間的機能分化のプロセスを若者の街化に着目し,1940年から2015年にかけての小売店の業種構成や店舗分布等から空間的・実証的に明らかにすることを目的とした.

    2.研究方法

    高円寺駅周辺商店街の一般消費者向けの全店舗・全業種を調査対象とし,業種別店舗数の推移や業種別店舗分布図から高円寺における空間的機能分化の過程を分析した.また,特に店舗数の増減が著しい業種や,古着店・雑貨店等の若者向け店舗については,個々に店舗数の推移や分布傾向をみることで,そうした分布に至るプロセスを分析した.調査年度は,1940年,1949年,1978年,1992年,2002年,2015年の6つの年代とした.

    3.結果

    業種構成の推移では,1980年代を境に従来の商店街の中心であった飲食料品小売店が減少し,その一方で飲食サービス業や理容・美容業,生活関連サービス業が増加した.1990年代からは古着店や雑貨店といった若者向け小売店が急増した.  

    店舗分布では,1940年と1949年には飲食店街と最寄型商店街の2パターンへの分化がみられたが,1978年には映画館やロック喫茶・ライブハウス等の歓楽街的機能を持つ地区と最寄型商店街の2パターンへの分化,2015年には最寄型商店街,飲食店街,古着店・雑貨店・カフェ,エスニック料理店等の若者向け飲食店,美容室の集積する地区の5パターンへと空間的機能分化をした.

    こうした空間的機能分化の背景として,戦前の1940年には最寄型商店街と映画館を核とした歓楽街が存在したものの,戦後の1949年には駅前の小規模な歓楽街とその周辺の最寄型商店街という構造となった.しかし,1960年代以降,映画館の開業や若者の増加等の影響で歓楽街が成長し,そこには若者向け業種が集積していった.1978年には最寄型商店街,歓楽街,ロック喫茶等の若者向け業種の集積という3つの特徴がみられ,このうち若者向け業種は歓楽街とほぼ同様の立地を示した.

     1980年代以降は映画館の閉館により歓楽街の核が無くなり,歓楽街的機能が減少した。1990年代以降は従来の飲食料品小売店等の最寄型商店街の機能がスーパーマーケットによって担われ,飲食料品小売店が減少した。しかし,そうした店舗を衣料品小売店や飲食店が置き換えていくことで商店街の入れ替わりが生じた.一方,1990年代以降は古着店や雑貨店,アジア料理店やカフェ,美容院等が増え始め,そうした新たな若者向け業種は歓楽街的な性格の強かった高円寺駅南西の地域に集積をしはじめ,2000年代以降は,商店街の中でも店舗数が減少しつつある駅から離れた地区で集積したことが明らかとなった。

    高円寺では,戦後から1970年代にかけては音楽の街,1990年代以降は古着の街という個性を獲得し,発達・変化を続けたが,そうした街の変化には,商店街の歓楽街化や最寄型商店街の入れ替わり,“若者の街化”といったことが大きく関わっており,それが高円寺の空間的機能分化を促していった。

    参考文献

    下村恭広 2011. 東京・高円寺における古着小売店の集積.日本都市社会学会年報 29:77-91.

    松澤光雄 1986.『繁華街を歩く 東京編』綜合ユニコム.
  • 佐々木 緑
    セッションID: 317
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.本研究の目的と意義

     オーストラリアでは20世紀前半に米の商業的稲作が開始され、米は輸出作物として生産されてきたが、米を主題とした研究蓄積は少ない。それは、他作物に比較して国内外の市場における米の経済的インパクトの小ささや栽培の歴史が浅いこと、栽培箇所が限定されていることなどが考えられる。しかし、日本は1995年以降、MA米としてオーストラリアから米を輸入しているだけでなく、新TPPにおいてはオーストラリア米に対して無関税の輸入枠を設けることになっている。また、オーストラリアは日本産米の輸出市場としてその規模を拡大しており、オーストラリアの米生産を把握することは今後の日本の米貿易にとっても必要であると考える。そこで本研究は、オーストラリアにおける稲作経営の特徴と2000年代以降頻繁に起こっている干ばつ時の米生産者の経営戦略について明らかにした。



    2.オーストラリアにおけると米生産の変動

     オーストラリアの米生産量は世界市場の1%にも満たないが、生産量の概ね85%が輸出されている。ジャポニカ系中粒種を主力としており、中粒種米は14%の世界市場シェアをもつ。オーストラリアの稲作は、ニューサウスウェールズ州リベリナ地方に広がる灌漑地域でのみ行われていると言っていい。オーストラリアにおける米生産の歴史や栽培地域については佐々木ほか(2018)が詳しい。その生産量は増減を繰り返しながらも1990年代には100万tを超えたが、2001年をピークに激減している。2000年代に入るとオーストラリアでは大規模な干ばつが頻繁に起こり、灌漑農業は大きく影響を受けている。



    3. 稲作経営の特徴

     オーストラリアにおける米生産の特徴として、年によって収穫面積と農家戸数が大きく変動すること、大規模で徹底した機械導入によって省力化をしていること、日射量の多さと高収量品種の導入によって収量が世界で最も高いことなどがあげられる(佐々木ほか、2018)。稲作農家1戸あたりの平均的な耕地面積が400haであり、米収穫面積は67.9ha(2017年)であることから、稲作面積比率は17.0%となる。この地域の稲作農家は、水利用制限と塩類集積防止のため、経営耕地の3分の1以下で米を生産することになっている。約75%の米農家が非灌漑作物や牧畜を含め、5つ以上を組み合わせて経営をしている(2015年)。また、稲作は輪作体系に組み込まれており、3年の輪作体系を例にとると1年目の夏に稲作、冬に小麦などの冬穀物、2~3年目は牧草や牧畜で地力を回復させる輪作がとられている。



    4.水配分と作物選択

     灌漑地域では、各圃場の入り口に流量計が設置されており、厳しく水使用量が水資源局に管理されている。ここでは土地所有権と水利権は分離して扱われ、水自体が取引される財となっている。灌漑地域には様々な水利権が存在するが、米生産者が一般的に所有している水利権はgeneral securityと呼ばれる普通水利権で、1年以内の売買が可能である。そのため、稲作農家は米生産に配分されている水を売買することも含めてその年に最も利益になる作目を決定し、農場の収益をあげる。灌漑農業では、水生産性が作目決定の重要な指標となる。渇水の年は水価格が跳ね上がるため、30~50%の米生産者が水を特に永年作物を栽培する農家に販売する傾向がある。水を販売しない農家の中には、市場価格が上がっており灌漑を必要とする綿花を栽培する者も多い。反対に水が回復した年は水価格が下がるため、米生産者の30%程度が水を購入している。米は水を最も使う作物であることから、水を有効利用するため、水田からの地表排水を貯水池にためておき、冬穀物の生産に使うなどの再利用もみられる。

    また、2016年からYRM70やYRK5という生育期間の短い新品種が試験的に導入されており、効率的な土地と水利用によって収益をあげることが期待されている。

     以上のように、オーストラリアにおける稲作は、水の配分量に大きく影響を受けながら、環境に配慮しつつ、収益が見込まれる作物を合理的に選択しながら戦略的に営まれていることが明らかとなった。



    文献

    佐々木 緑・堤 純・磯野 巧・永田成文 2018.オーストラリアにおける米産業の動向.地理空間、11(1)、63-77.
  • 北海道東川町を事例として
    土田 慎一郎
    セッションID: 826
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    近年、農村への移住行動が活発になりつつある中、移住者の農村における起業も報告されており、農村移住者の新たな生計獲得手段、さらには地域における経済活動創出につながる動きとして注目されている。本研究では北海道東川町を事例として、移住先で新たに起業を行った移住者に対し聞き取り調査を行うことで、彼らの起業を伴う移住行動の実態とそれに向けた支援策について考察した。その結果、以下の点が明らかとなった。(1)調査対象となった移住者は「農村子育て型」「スローライフ型」「創作活動型」の3つにおよそ類型化され、それぞれ異なる動機で移住・起業を行っていた。(2)地域における農村起業を促進・維持する要素として、経済的支援、サポート人材・団体、地域住民の移住者に対する寛容性、安定した交流人口があり、それらを創出していくことが移住者の農村起業に向けた支援策となりうると考えられる。
  • 阪上 弘彬, 川端 光昭
    セッションID: P124
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1. はじめに
     本発表は持続可能なトライアングルモデルを用いて,地理的諸問題の背景や利害関係の考察,解決策の提案を目指す地理学習の実践を報告するものである.ストレンジ・ベイリー(2011: 26)は持続可能な開発(SD)に向けて,ブルントラントの定義を言い換える形で,「私たちが決断を下す際には,社会,環境,経済への潜在的影響を配慮しつつ,私たちの行動が他の場所に影響を及ぼすこと,そして私たちの行動が将来にも影響を及ぼすことを意識しておかなければならない」という見解を示した.これは私たちがまわりの社会にかかわる際に,①経済成長だけでは十分ではないという認識,②持続可能な開発はその相関的,あるいは相互依存的な性質により,その境界を越えて戦略を調整し,正しい意思決定を行う必要があるということ,③人間の行動を考える際には時間的な変化を考慮しなければならないこと,(ストレンジ・ベイリー,2011: 27-28)という考えが必要であることを示している.本実践ではこれを踏まえ,学習者が地理的諸問題をSD/持続可能性の視点から判断し,解決に向けた意志決定ができるように,環境・経済・社会の3観点から事象の関係を把握できる以下の図(資料:阪上ほか 2018: 16 から引用)を学習過程で用いた.

    2. 授業実践の概要
     本実践は,岐阜高専において平成30年1月下旬から2月上旬にかけて実践(2時間:1時間90分)した.学習過程では,(段階)の異なる5つの学習課題(1既習事項の再確認,2似た現象・概念の比較,3地域の現状把握,4多様な意見の分布とその背景,5多様な利害関係・影響に基づく判断や代替案の作成)を設定し,学生が主体となり,学習が進められることを意識した.

    3. 授業成果と課題
     学習過程では多くの学生が,SDの3観点から総合的に問題の構造や利害関係を検討・把握し,解決策を提案できた一方で,特定の観点から利害関係を把握したり,解決策を提案したりする学生もいた.今後はモデル活用時における教員の働きかけ(補助的な問い等)や活用場面にも着目し,モデルの活用方法を提案していくことが課題である.

    文献
    阪上弘彬・空 健太・久保田圭司 2018. 学校教育におけるESD実践にむけた考察-環境・経済・社会のバランスに着目して.岐阜工業高等専門学校紀要 (53): 13-18.
    ストレンジ,T.・ベイリー,A.著,OECD 編,濱田久美子訳 2011. 『よくわかる持続可能な開発─経済,社会,環境をリンクする』明石書店.

    本研究はJSPS科研費JP14038の成果の一部である.
  • 高橋 健太郎
    セッションID: S304
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.改革開放と広東省
     中国では、1978年の中国共産党第11期3中全会から、改革開放政策により経済システム改革と対外開放が促進された。広東省はその影響を強く受けた地域の一つである。1980~1981年には、省内の深圳市、珠海市、スワトウ市に経済特区が設置され、外資誘致や技術移転が進められた。1985年には、珠江デルタが沿海経済開放区となり、製造業が活性化した。その後1980~1990年代にかけて、広州や深圳などに経済技術開発区やハイテク産業開発区、保税区が設置され、商工業がさらに活発になり、産業が高度化している。また、広州市では毎年2回、中国最大の輸出入商品の展示会「中国輸出入商品交易会」が開催されている。
     1980年代以降、商工業の発展にともなって、内陸部から広東省へ多くの人々が移動している。このような人口移動については、農民工、つまり都市に出稼ぎに来て工業や建設業などに従事する農村出身者に関する研究が多い。加えて、ホワイトカラーの移動についても研究が進められている。本発表では、広東省に暮らすムスリム(イスラム教徒)に着目し、その特徴や変容から、中国の改革開放によって生じた人口移動や地域変容の一端を考察する。なお、本研究は、2015年8月に広州市、2017年8月に深圳市で行なった地域調査にもとづくものである。
    2.広東省のムスリム
     広東省のムスリムは中国籍と外国籍に大別でき、中国籍ムスリムには、親やそれ以前の世代から省内で暮らす本省出身者、および主に1980年代以降に移り住んで来た他地域出身者がいる。中国では戸籍にも登録される民族[minzu]をみると、本省出身のムスリムは大部分が回族で、他地域出身のムスリムには、「イスラームを信仰する少数民族」とされる10の民族がすべているが、回族やウイグル族が多い。また、少数ではあるが、本省出身者と他地域出身者の両方に漢族ムスリムもいる。外国人ムスリムの出身国は、中東のシリアやイラン、南アジアのインドやハ゜キスタン、バングラデシュ、アフリカのマリやコンゴ、ギニア、ガーナ、ケニアなどである。なお、それぞれの人口は、広州市の例では、本市出身者は約5千人、他地域出身者は約5万人、漢族ムスリムは数百人、外国人ムスリムは約10万人と推計されるが、他地域出身者と外国人は流動性が高い。
     他地域出身の中国人ムスリムは1980年代に増えはじめ、行商人や、ハラール・レストランを新しく開いた人が多かった。2000年代以降にさらに増加し、ハラールのレストランや食料品店を開いたり、外国人ムスリムの会社で通訳や事務員として働いたり、自身で貿易関係の会社を開く人もいる。この時期の他地域出身ムスリムの増加の背景には、中国内陸の山間部で環境保全のために耕作が禁止され外部地域への移住が進められた政策がある。
     漢族ムスリムは、以前にも回族などのムスリムとの婚姻に際してイスラームに改宗した人はいたが、改革開放期には、中国においてイスラームが世界宗教であることが認識されたり、比較的自由に宗教を信仰できるようになったこと、さらに外国人の経営する会社で働くなどムスリムと接する機会も増えたことから、婚姻以外の理由で改宗する漢族も増えている。
     外国人ムスリムは1990年代後半以降に増加した。その理由は、1997年の東南アジア金融危機により、それまで東南アジアで働いていた外国人が中国に移ってきたこと、および2001年の中国のWTO加盟を契機として、輸出商品を目当てにより多くの外国人商人が広東省に集まるようになったことである。外国人ムスリムは、衣服や雑貨、電気製品、IT機器などを中国で購入したり製造して、外国に販売する業務に携わっている人が多い。また、増加した外国人ムスリム向けに、ハラールのレストランや食料品店を経営したり、商品運送などの仕事をする外国人もいる。
    3.ムスリムの増加・多様化と地域への影響
     ここまで見てきたように、広東省におけるムスリムの増加・多様化は、改革開放期の対外開放や商工業の活性化、比較的自由に国内を移動できるようになったことなどと深い関係がある。ムスリムの増加にともない、広州市や深圳市ではモスクが新しく建設されたり、多数のハラールのレストランや食料品店、ヴェールなどを売るムスリム向け衣料品店ができ、地域の景観や雰囲気に変化をもたらしている。
     中国籍や外国籍のムスリムの滞在長期化や定住化が進むなかで、すでにモスクやムスリム用墓地、子女のためにハラールの食事を提供する学校の不足などが表面化している。また、中国の人件費が上昇し、産業構造の転換が図られるなかで、今後は広東省のムスリムの人口や就業形態に変化が生じることも考えられる。
  • 加藤 内藏進, 杉村 裕貴, 松本 健吾, 大谷 和男
    セッションID: 521
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    瀬戸内地域では,冬季には山陰に比べて,夏季には四国太平洋側に比べて降水量が少ない。これは,卓越風と地形との位置関係にも対応して,瀬戸内式気候としても知られている (福井 1933)。しかし,例えば日本列島での梅雨期の総降水量の東西差は,季節進行の中での基本場の空間構造を反映した大雨日の頻度の地域差を大きく反映しており(Ninomiya and Mizuno 1987),瀬戸内式気候に関連した暖候期の降水量の地域差やその長期変動の理解の際にも,このような視点が重要と考える。また,日々の総観場の中での地形の役割や,総観規模システムの構造としての降水コントラスト等も,季節的多様性は大きい。
    加藤(2007,地域地理研究, 12, 1-16)は,瀬戸内式気候に関連してそのような観点から,太平洋側の高知から瀬戸内側の岡山を引いた降水量差(以下,ΔPRと呼ぶ)について解析を行った。その結果,8月から9月にかけての気候学的なΔPRは,ΔPR≧50㎜/dayの日の寄与を大きく反映する一方,4月から5月にかけては,0~50㎜/dayの日の寄与も大きい事を示した。 しかし,加藤(2007)は,それらに関わる日々の現象の気候学的特徴や季節性に関する吟味が不十分であった。
    そこで本研究では,加藤(2007)と同様に,高知と岡山について,ΔPRの大きい日の寄与やその時の大気場の特徴,季節的違い等に関する解析を行った。解析には,1985~2015年における各気象官署の日降水量と時間降水量データ(気象庁本庁のHP),NCEP/NCAE再解析データ(2.5°×2.5°の格子点間隔),気象庁作成のミニチュア天気図(各日09JST)等を使用した。

    2.高知と岡山との降水量差に関わるΔPRの大きな日の寄与
    第1図に示されるように,ほぼ暖候期を通じて大きなトータルΔPRを示した。それに対する日々のΔPR≧50mm/dayやΔPR≧100㎜/dayの寄与は8.9月には特に大きかったが、4,5月でも決して小さくなく,ΔPR≧30㎜/dayの日による寄与は4,5月でも気候学的なΔPRの8割程度を占めていた。なお,図は略すが,これらの日々の大きなΔPRは,高知側で日降水量50mmを越えるような日の出現をかなり反映していた。

    3.ΔPR≧30mm/dayの日における時間降水量の寄与や大気場の特徴(8月・9月と4月・5月)
    31年間のデータからΔPR≧30mm/dayの日を抽出し,高知や岡山での降水の特徴を1時間降水量に基づき記述するとともに,状況毎に大気場の合成解析を行った。
    盛夏期の8月での大きなΔPRの日には,高知側で時間10mmを超える雨の寄与が大きく,また,高温多湿で大変不安定な空気が四国の山を越える総観場が多かった。但し,台風が中四国付近にある時以外には,対流不安定度は強いものの,地形による強制上昇以外には,積乱雲発生のトリガーとなる上昇流が中四国付近に形成されうる総観場ではなかった。しかし,秋雨前線の影響を受けやすい9月には,地形の影響以外に,大規模場の前線との位置関係も,日々の大きなΔPR>0に関わる因子の一つとなる可能性が示唆された。
    一方,基本場の傾圧性が強い4,5月にも,低気圧前面で対流圏下層の南風域が中四国よりもかなり北方まで伸びる状況では,10mm/hを超える激しい降水の寄与により高知側で降水量が多くなる日も少なくなかった。しかし,九州西方の低気圧から南東方に地上前線が伸びる状況では,地上前線の北東側で,「安定な前線面よりも下方での,低気圧の構造としての南東風が卓越」することにより(恐らく,安定成層下で900hPa前後の高度を中心に,山に気流がぶつかる状況),5mm/h以下の「普通の雨」が高知側を中心に持続し,少なからぬ日降水量差が形成されていた点も興味深い。
    なお,図は略すが,例えば九州や関東での秋雨期の降水の20世紀前半と後半との違いも小さくなかった。季節サイクルの中での,そのような広域気候系の変動に伴うΔPRへの寄与の違い等にも着目して,今後は長期解析にも着手したい。
  • 木村 翠, 伊藤 智樹, 大竹 あすか, 鹿野 健人, 小林 護, 重永 瞬, 田代 滉介
    セッションID: P120
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    問題意識
    演者らは、地理学アウトリーチフォーラム1)主催の交流会への参加やSNSを用いた他大学の地理学生との交流を通して、もちろん個人の特性もあるだろうが、所属大学によって地理学生の個性・特徴が異なることを肌で感じてきた。この理由は、3つ考えられる。1つ目は、現在の地理学は大きく人文地理学と自然地理学に分かれ、そこからさらに系統地理学に細分化している。そのため、現在「地理学」を満遍なく概観することはほぼ不可能となり、学生が把握できるのは細分化された系統地理学の方法論にとどまる可能性が高くなるという学史的問題からである。2つ目は大学入試制度の問題である。現在の入試制度によって学生たちは文理の選択を迫られる。このときに人文地理学と自然地理学のどちらを学ぶかがほぼ決まる。3つ目は、大学における地理教育制度の問題である。所属大学の教員の専門分野によって、その教員の持つ「地理学観」は異なるであろうし、あらゆるテーマを扱えるとされる地理学は、どのような単位を修得すれば卒業できるのかというカリキュラム面では非常に多様な履修体系が存在すると考えられる2)。したがって学生には多様な地理学意識が生じると予測する。以上の問題意識から、日本の高等地理教育の多様さ・複雑さを演者らは明らかにしたい。


    研究目的・意義
    本発表では、地理学を体系的に学べる組織が設置されている大学のカリキュラムとその内容から各大学の地理教育の差異を比較することで、日本の大学において様々な地理教育が行われていることを概観する。この研究から得られる意義としては、進路選択時において地理学に関心を持つ中高生が地理学のどの分野を学びたいのか、ひいてはどの大学に進学すれば良いかの指針となることを期待している。また、学生たちが自大学の枠組みを超えて他大学の地理学(カリキュラム)の特徴を知る機会の創出や他大学で学べる地理学への興味関心の喚起につながり、学生間・大学間の連携や協同が進み、学生の学びが深まるきっかけを生むなど、今後の日本の地理学界の活性化につながると考えている。


    研究方法
    地理学を体系的に学べる大学3)の悉皆調査は実施困難なため、今回はいくつかの大学に絞って調査を行い、予察的なものとして位置付ける。比較するのは、履修単位数、履修単位数における地理学科目の割合、地理学科教員の単位が占める割合、履修科目内容の特徴等である。当日の発表では、以上の分析結果とその考察についての報告を行う。



    注釈・参考文献

    1)2012年に現・元国家公務員5名によって設立された任意団体。本団体主催で毎年地理系学生・社会人交流会が行われている。(野々村邦夫・三橋浩志2017. 月刊地理62(10). pp.6-11)

    2)岡本耕平他12名2012. 大学地理教育における標準カリキュラムと学士力-現状とあるべき姿-. E-journal Geo 6(2). pp.203-211
    3)地理学専門課程・教員養成課程をもつ4年制大学は2016年12月1日時点で95大学ある。(野間晴雄・香川貴志・土平博・山田周二・川角龍典・小原丈明2012. ジオ・パルNEO 地理学・地域調査便利帖[第2版]. 海青社. pp25-28)
  • 秋山 祐樹
    セッションID: S106
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1. はじめに
     近年,様々なデジタル地図データや建物・店舗・事業所等の分布をピンポイントに把握できるデータ(POIデータ),携帯電話の移動履歴情報に基づく膨大な人々の動きや分布を把握できるモバイルビッグデータ,Web API等を活用することでWebから取得できる様々なデータなど,時空間的に高精細,さらには非集計なデータが利用可能になりつつある.著者らはこれらの時空間的に高精細な地理空間情報を総称して「マイクロジオデータ」(以下,MGD)と呼んでいる.2010年頃以降,ビッグデータという言葉が世の中に広く認知されるようになるのと同じくして,様々なMGDが登場,あるいは利用可能になり始めた.そこで著者らは2011年にMGDの収集・開発・活用・普及の可能性について,その知識と技術の共有および産学官の協力体制を構築することを目的にマイクロジオデータ研究会を発足し,今日まで活動を続けてきた.その間,MGDは当初の研究用途としての活用だけでなく,民間や公共(自治体)での利活用も本格化するようになった.
     こうした情勢を受け,日本政府としてもMGDを含む多種多様な地理空間情報を積極的に利活用し,課題の発見と解決につなげるための法整備や,関連するプロジェクトを推進している.たとえば内閣官房の下に府省横断的な会議体として地理空間情報活用推進会議が設置されており,地理空間情報関連のさまざまなプロジェクトが展開されている.また内閣官房を中心にEBPM(Evidence Based Policy Making:証拠に基づく政策立案)の検討を2016年頃より本格的に開始している.これは現場の経験や勘も大切にしながら,さらにデータや統計といった定量的な根拠に基づいて政策を立案することで,国や地域の限られた資源を有効活用し,これまでよりも効果的な政策の立案と効率的な国家および地域運営の実現を目指すものである.ここでもMGDを含む様々な地理空間情報の活用が重要視されている.

    2. 地理学におけるMGDの活用
     著者らはMGDを地理学とその関連分野でも積極的に活用してきた.たとえば秋山(2018)は,様々な業種の店舗・事業所の空間的分布を把握できるデジタル電話帳を活用して,日本全国の商業集積地域の分布の実態を把握する手法を提案した.同手法で開発されたデータである「商業集積統計」は,民間企業から商品化され,社会利用されるに至っている.また秋山・秋山(2018)による,MGDを活用した僻地に分布する住宅の実態把握の例や,小川ら(2018)による様々なMGDを統合的に利用することで,南海トラフ巨大地震による人的被害推定を行った例などがある.また近年では国や自治体と連携し,自治体の業務支援につながる研究成果を共同で実現することで,通常はアクセスできない公共データ(自治体が内部で保有するデータ)とMGDを活用した研究も実施している.例えば秋山ら(2018)は住民基本台帳,水道閉栓情報,建物登記情報を統合し,空き家の分布推定を行っている.

    3. 地理空間情報活用時代における地理学の重要性
     このようにMGDを含む地理空間情報は私達の生活に欠かせないものとなっている.様々な研究分野では勿論のこと,民間や公共セクターでの活用も本格化しつつある.そして著者はこのような時代だからこそ,地理学の重要性は今後ますます高まっていくものと考えている.近年,様々な地理空間情報を活用した取り組みが進められているが,そこには必ずしも地理空間情報の扱いに長けた地理学およびその関連分野を専門とする研究者や有識者が参加しているとは限らない.また以降は秋山(2018)でも述べたが,現在,そして今後実施・展開されていくと考えられる地理空間情報を活用した様々なプロジェクトは,対象とする課題の多様性,扱うデータの巨大さ,様々な立場のステークホルダーが関わる課題の複雑さなどから,様々な課題の網羅的な把握・理解と,それらの課題が実空間の「どこ」で,「何」に起因して起こっているのかを解明する必要性が高まりつつある.これは広範な研究分野を横断的にカバーすることで,実空間に巧みに浸透しながら課題の発見・整理を成し遂げることができる地理学が得意とするところではないだろうか.MGDによって国土や地域全体をマクロにとらえて課題を網羅的に発見する鳥の目と,地理学における伝統的手法であるフィールドワーク等により,それらの課題を緻密に理解するための蟻の目を融合することで,MGDを含む様々な地理空間情報の活用がこれまで以上に推進されるとともに,実空間における課題の発見と解決,そしてEBPMの支援と実現が可能になるだろう.そしてそれは結果的に地理学の更なる発展につながるものと期待される.
  • 北島 晴美, 横山 俊一
    セッションID: P117
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    発表者らは長野県における凍り豆腐消費に関するアンケート調査を実施し,「凍り豆腐を食べる頻度」の回答から,1人当たり年平均凍り豆腐食日数を推定した。長野県4地域(東信,南信,中信,北信)の1人当たり平均凍り豆腐食日数は,南信が最も多く,中信・東信は長野県平均並み,北信が最も少なかった(柳町・横山,2018)。

    また,凍り豆腐を扱う長野県内主力問屋から提供された凍り豆腐に関するPI値(Purchase Index,客数1,000人当たり売上金額,長野県9企業計17店舗分)を比較すると,南信が最も高く,長野県平均の1.5倍以上であり,次に北信が高い。東信が最も低く南信の4割弱である。中信は木曽の1店舗のみのデータであるが,東信より高い(柳町・横山,2018)。

    東信,中信,北信の消費動向について,アンケート調査とPI値の結果が類似しているとは言い難いが,南信の凍り豆腐消費が多い点はアンケート調査とPI値の結果が同一であった。

    本研究の目的は,長野県における凍り豆腐消費の地域差について,スーパーマーケットのPOSデータの解析から長野県4地域,さらに10二次医療圏(佐久,上小,諏訪,上伊那,飯伊,木曽,松本,大北,長野,北信)別消費動向の地域差を明らかにすることである。
  • 病児保育施設へのアクセス格差の検証を例に
    佐藤 裕哉, 冨田 哲治
    セッションID: P102
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    近年、オープンデータの整備が進んでいる。そのため活用方法について検討する必要がある。本研究では、地域分析の際にオープンデータがどのくらい活用できるか検討し、また課題を見出すことを目的とする。その解析の例として病児保育を取り上げる。
    GISで解析するために必要なデータベースの構築と整備を行った。 (1)居住区の位置座標、(2)病児保育施設の位置座標、(3)道路網、の3つである。また、統計ソフトRを用いた方法も試みた。今回は、OSRMデモサーバーを利用して経路検索を行った事例を紹介する。
    Open street mapで1度にダウンロードできるデータ量に制約があることなど、いくつかの課題があることが明らかとなった。また、オープンGISを用いた方法についても検討し、手順などの蓄積を進めていく必要がある。
  • 矢ケ崎 典隆
    セッションID: 316
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    アメリカ合衆国では19世紀前半にヨーロッパからテンサイと製糖技術・製糖機械類が導入されて、テンサイ糖産業が発展を開始した。アメリカ合衆国におけるテンサイ糖産業の展開は次のように時期区分することができる。すなわち、ヨーロッパのテンサイ糖産業の導入期(1830~1887年)、研究開発の進展期(1888~1897年)、アメリカ型テンサイ糖産業の確立期(1898~1913年)、テンサイ糖産業の不安定期(1914~1933年)、保護政策による安定期(1934~1974年)、そしてテンサイ糖産業の衰退期(1975年以降)である。

     本発表は、製糖工場の立地と移動に着目して、アメリカ合衆国におけるテンサイ糖産業の展開を検討することを目的とする。そのための資料として、アメリカ合衆国農務省(USDA)が1961年に刊行した『アメリカ合衆国のテンサイ糖工場』(United States Department of Agriculture, Community Stabilization Service, 1961, Beet Sugar Factories of the United States, Washington, D.C.)を使用した。これは、製糖工場の開設・閉鎖等の情報を年次ごとに記載するとともに、1961年における製糖会社および製糖工場の現況を記した貴重な資料(カリフォルニア大学バークリー校図書館所蔵)である。

     最初の小規模なテンサイ糖工場は、1838年にミシガン州ホワイトポイントとマサチューセッツ州ノーザンプトンに開設されたが、どちらも2~3年創業した後に閉鎖された。1853年にはモルモン教会がソルトレークシティにイギリス製機械を導入して製糖工場を建設したが、これも失敗して2年後に閉鎖された。1870年代末までに建設された14か所のテンサイ糖工場はいずれも短命(最長で8年間操業)に終わった。

     この時期に成功した唯一の砂糖工場は、カリフォルニア州アルヴァラド(現在のユニオンシティ)に開設されたカリフォルニアビートシュガーマニュファクチャリングカンパニーであった。機械類はウィスコンシン州フォンデュラクの製糖工場(1866~1870年操業)から移設された。アルヴァラド工場は、解体、再建、増設を繰り返しながら、1961年時点で操業していた。

     USDA資料には、1961年現在で操業中の63工場を含めて、169工場がリストされている。州別にこれらの分布を見ると、ミシガン州(25工場)、カリフォルニア州(24)、コロラド州(21)、ユタ州(19)、アイダホ州(11)への集中が明らかである。設立年次に着目してテンサイ糖工場の立地を分析すると、特にコロラド州サウスプラット川流域、ユタ州北部からアイダホ州南部、カリフォルニア州への集積過程が明らかである。

     製糖工場の立地と移動には、砂糖資本が重要な役割を演じた。地元資本による砂糖工場に加えて、モルモン教会、グレートウエスタンシュガーカンパニー、クラウス・スプレックルズ、オックスナード兄弟、アメリカンシュガーリファイニングカンパニーなどが大きな影響力を及ぼした。閉鎖された砂糖工場の機械類は別の工場に運ばれて再利用された。なお、1974年に砂糖法が廃止されると、テンサイ糖産業は衰退し、廃墟と化す砂糖工場も増加した。
  • 柴辻 優樹, 河端 瑞貴
    セッションID: 824
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    1.はじめに

     本研究では、東京都区部における母子世帯の居住特性を探索的空間データ解析の手法を用いて解明することを目的とする。東京都におけるひとり親世帯の支援は市区町村単位が主体となっており、地域で支援施策が異なる。しかし、日本全体における母子世帯の状況は厚生労働省の調査などでまとめられている一方、自治体や地域レベルの調査・研究は十分とはいえない。
     その中で由井・矢野(2000)や久保ほか(2011)は東京都区部・沖縄県の状況を基に論じており、母子世帯の多くが民間賃貸や公営住宅に居住していることを指摘している。一方、葛西(2014)は公営住宅への入居には一定のハードルがあり、必ずしも助けになるとは限らないと指摘している。母子世帯により離婚・死別時の状況・経済状況・子どもの要望などの要因が異なるため、公営住宅の利用可否含む、居住環境にはいくつかのパターンがあると考えられる。本研究では、特に公営住宅の立地・戸数との関連に焦点を当て、母子世帯の居住特性を分析する。


    2.分析手法

    地理情報システム(GIS)を用いて母子世帯の居住分布と公営住宅の立地を合わせて分析を行う。分析では、母子世帯居住の空間的なパターンを計測するため、空間的自己相関指標を用いて集積の有無を検証する。集積発生の検証の次に、集積地区の特定を実施する。特定には二種類の指標:Local Moran's IとGetis-Ord Gi*統計量を用いる。前者はホットス/コールドスポットだけでなく、外れ値の検出ができる。データは東京都が公開している平成27年国勢調査小地域統計を用いる。町丁目ごとの母子世帯率を算出して集積の検証を行い、都営住宅立地との関連性を検討する。


    3.分析結果と考察

     空間的自己相関を検証した結果、町丁単位の母子世帯率には正の空間的自己相関が発生していることがわかった。このことから、母子世帯率が高い地域は互いに近くにあると考えることができる。集積地区の特定では、二つの指標で類似の結果を得られたため、空間的外れ値を示せるLocal Moran’s I統計量を用いる。その結果、都営住宅の立地と母子世帯率のホットスポットは必ずしも対応しないことがわかる。例えば新宿区戸山周辺は都営住宅が多い地域でホットスポットになっているが、江戸川区のホットスポット周辺には都営住宅が少ない。また、大規模な都営住宅のある練馬区光が丘はホットスポットと判定されなかった。母子世帯率と町丁目ごとの世帯に占める都営住宅戸数割合の相関係数は約0.4であったため、全体として両者には中程度の相関がある。高倍率かつ居住までに一定の手続きを踏む必要のある都営住宅は、母子世帯が希望しても入ることができない場合があることが考えられる。
     今回の分析から、公営住宅の中でも母子世帯の集中割合が比較的低いと考えられる場所や、公営住宅以外の集積を特定した。現在の制度では、母子世帯は都営住宅への優先入所権を持つが、その権利を行使できるのは年に2回だけであるため、そこに漏れた母子世帯は別の居住地を探す必要がある。今後はこの点を踏まえ、母子世帯の居住地決定に重要な他の要素を検討することが課題である。


    参考文献

    葛西リサ 2014.母子家庭にみる住まいの貧困 住宅会議 91: 22-25

    久保倫子・由井義通・久木元美琴・若林芳樹 2011. 沖縄県

    におけるひとり親世帯の就業・保育・住宅問題 地理空間

    4(2): 81-95

    由井義通・矢野桂司 2000.東京都におけるひとり親世帯の

    住宅問題 地理科学 55(2): 77-98
  • シンポジウムの問いをめぐって
    小島 泰雄
    セッションID: S301
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/12/01
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    0.シンポジウムの問い
     中国の改革開放政策は1978年12月に開催された中国共産党第11期三中全会で路線が決定されたもので、ここから中国は経済改革と対外開放によって近代化を進めることとなった。1990年代半ばに始まる高度経済成長もこの政策の延長線上に位置する。しかし20年にわたる高度経済成長は中国社会を大きく変え、その中で改革開放という概念の相対化も進んでいる。いまこの40年の歴史と地理を振り返るべき時期に立っている、と私たちは考えた。
     本シンポジウムは、改革開放を単に経済政策の次元において捉えるのではなく、地域構造や生活空間といった地理学的視点から問い直すことを目指している。この再考を通して、同時代の中国を対象として進められてきた地理学研究の位置づけを明確にするとともに、これからの研究のあるべき方向性を探ってゆくことにつなげたいと考えている。あわせて学際領域である中国研究に対して、地理学から発信してゆきたい。
    1.改革開放の旗手
     改革開放政策の下でまず取り組まれたのは、農村と農業の制度改革であった。人民公社に象徴される集団農業が20年あまり続けられ、農業生産は増大したものの、農民の生活は豊かさを実感できるものとはならなかった。集約農業を支える労働意欲の活性化と明快な分配をめざして生産請負制が導入され、農家が経営主体として復活した。この結果、農業生産は伸び、農家の収入も増大した。しかし集団農業の下での純農村化により大量の農業労働力を抱えていた農村を開発することは、農業のみに依存して前進させることは難しかった。1980年代半ばに登場した郷鎮企業は、農村の産業化を通してこの隘路を突破するために設立された経済体であった。
     集団化により農民の生活空間は、生産隊―生産大隊―人民公社という基層空間に強く結びつけられていった。生産請負制と郷鎮企業はこの空間構造を前提としていたた点で、社会主義建設期と連続している。改革開放期は農民の生活空間を組み替えることなく始動したとみなされるのである。
    2.市場経済化と農民工
     「離土不離郷」が農村発の改革開放政策における中心的なスローガンとされたことは、ある意味、弥縫策的な改革の一面を示していたとみなされる。しかし中国経済の市場経済化は、農村変化が外在的な要因によって促されるという、近代社会一般に観察された過程への移行をもたらした。1990年前後の経済調整をきっかけに大量の労働者が農村から溢れ出した。「盲流」「民工潮」と名付けた都市住民の驚きと蔑みの視線の中で、農民は都市へ、沿海地域へと労働力としての移動をはじめ、1990年代の半ばには7000万人に達していた。そして農村から出稼ぎに行った労働者は、高度経済成長の最前線である工場の組み立てライン、道路やビルの建設現場、都市の種々のサービスを担ってゆくこととなった。
    3.連続と不連続
     「離土離郷」は農業から離れ、農村を去ってゆく農民の生活空間の分散を捉えた概念である。2017年のモニタリング調査によれば、「外出農民工」は1億7千万人と膨大な数にのぼる。その出現から四半世紀をへて、農民工の内実も多様化している。生産現場の第一線にとどまる者は壮年化し、現場を辞して農村に帰郷する者、都市に生活の拠点をつくる者、そして1980年代以降の生まれである「新世代農民工」と呼ばれる一群は、学歴社会化と歩調をあわせて、労働強度の強い現場を忌避するようになっている。多様化しながら連続する農民工は、その存在こそが問題でもある。すなわちどこで働こうが、農村出身者は農民と捉えられ、社会主義建設期に形成された二元構造に基づく身分としての農民という規定が根強く残っているのである。
     一方、農村は衰退に転じている。1980年代半ばの豊作貧乏を機に、農民にとっての農業は相対化されてゆき、穀物生産も停滞することとなった。農民の収入に占める非農業就労や出稼ぎによる収入は増大し、農業収入は縮小していった。農村の労働力は1995年の4.9億人から2016年には3.6億人に減少し、このうち1.7億人が出稼ぎに行き、さらに1億人が農村内部で非農業就労している。農業は農村に残された高齢者が担うという側面も強くなっている。改革開放がめざした農村開発は基層空間の農業については連続していない。
    4.いくつかの論点
     農民の生活空間の変遷から改革開放期を振り返ると、そこから検討を深めるべき点が浮かび上がってくる。まず社会主義建設期の何を改革し開放しようとしたのか、という目的をめぐる検討である。シンポジウムでは空間論を軸に、ここに挙げた中からいくつかの論点を取り上げて討論してゆきたい。
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